ここはどこ? 私は誰? そう、いわゆるアレでした。
とある社畜がいた。
業務効率化と働き方改革が推し進められる昨今、しかし『効率化した』との前提で仕事は増えに増え、上司は『残業はしちゃいけないことになってるから』と言うも山積みの仕事は処理しきれるはずもなく、『じゃあ特別に会社のパソコンは使わせてあげるよ』と暗にサビ残を強制される。
会社に泊まるのはすでに三日目。わずかな仮眠で誤魔化すのも限界に近く、外が白むのにも気づかず朦朧としていた。
ああ、ゆっくり温泉にでも浸かりたい。
壮大な景色に感動したい。
見知らぬ土地で人情に癒されたい。
ともかく仕事から逃れたい一心からか、眠気MAXなのにそんな夢みたいな幻想が頭の中をぐるぐる巡っていた。
それはまさしく夢であり、今の自分は暗い画面に映る疲れきった社畜である。
理想と現実のギャップに耐えきれなくなった瞬間、ぷつり、と何かが切れた――。
――ここではないどこか。
岩だらけの緩やかな山道を、男の子が一人、歩いていた。
年のころは十二ほど。
あどけなさが色濃い彼はゆったりした旅装束で、片手に古びた大きなトランクを持っている。
マントのフードは首の後ろに押しやって、肩口までの黒髪が一歩進むごとにかすかに揺れた。
人族に近い姿ながら、エルフほどではないにせよ三角にとがった耳が特徴的だ。
少女と見紛うほど愛らしい顔つきは真剣そのもの。どこを目指しているのか、ふっ、ふっ、と息と歩調を一定に保ち、ずんずんと山道を登っていた。
――唐突に、歩みが止まった。
片足を前に出したところでぴたりと、まるで金縛りにあったかのように固まる。
「!!!?!?!?!?????」
同時に大混乱に陥った。いや、正確には驚きのあまり平静を失ったから足が止まったわけだが、とにかく彼は絶賛大混乱中だ。
(な、なんだこれは!? 見たこともないはずの映像が、記憶が流れ込んでくる!)
ニホン? シャチク? 知らぬはずの単語が頭に浮かび、しかし徐々にその意味を理解した。
そして、この不可解な現象にも理解が至る。
(前世の記憶だコレ!)
つまり自分は疲れきって過労死したであろう、とある社畜が転生した者であり、今まさに前世の記憶を思い出したのだ。
(あれ? でも待って)
彼はいっそう混乱した。
(私は誰だ? そしてここはどこだ!)
前世の忌まわしき大量の記憶が流れ込んできて、今の記憶をすっかり忘れてしまっていた。
とはいえ、だ。
「私は私。そう、この体……」
空いた手でぺたぺたと頬を触る。
やや埃っぽいが、もちもちした少年の肌は馴染みがある、ように思う。
胸を触る。
うん、男の子だし、当然のようにするんぺたんだ。
股に手を伸ばした。
(ある、な……)
前世の記憶によるものか違和感がなくはないが、やはりこれは正真正銘、自分の体であるとの自覚があった。
(しかし、前世の私はなんてひどい環境に置かれていたのか)
今の自分がどうかよくわからないが、現状ではたった一人で……ん? と彼は視線を下に。
「キュー?」
足元に、未知の生物がいた。
真っ白でまん丸な、ふわもこな物体。
ウサギみたいな耳があり、対して腕らしきは見当たらず、足は餅をつぶしたようなのがででんと二つ。頭と体が一体化している(?)不思議な生き物だ。
つぶらな赤い瞳がこちらを見ている。
「えぇっと……君は?」
「キュ?」
獣に尋ねて言葉が返ってくるでもなし。当たり前だと嘆息しつつも、なぜだか話しかけたい気分だった。
「すまない。思い出せないんだ。でもなんとなく一緒にいたような気がする。君は、うーん……」
「キュキュ、キューッ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるふわもこな丸い生き物。その鳴き声(?)を聞き、唐突に閃いた。
「キューちゃん!」
「キュキュキュ!」
言葉はさっぱりわからないが、なんとなく『正解!』と言っている気がする。
気のせいでないことを祈りつつ、さらなる情報収集に努めようと、片手に持ったトランクへ目をやった。
かなり使いこまれたトランクだ。革のベルトが持ち手の両側についていて、それで開かないよう固定するらしい。
と、持ち手に小さなタグが括りつけてあった。
「……『ユウキ』?」
なんとも日本的な響きだ。苗字とも名前とも取れる。今の自身を示す名だとの確信めいた何かを感じた。
「私は、ユウキという名前なのか?」
「キュキュ」
そうだ、と彼(彼女?)も言っている、ような気がする。
(しかし、名前を知ってもさっぱり今の記憶が思い出せないな……)
きっと前世の記憶が流れてきた直後だからだろう。
そのうち思い出すかもな、と楽観して次なる疑問に向き合おう。
さて、ここはいったいどこなのか?
視界に植物はなく、土が剥き出しの緩やかな坂道の先は霞に閉ざされている。
山の中腹、という感じがしなくもない。
吐く息が白いのは季節柄そうなのか、もしくはかなりの標高なのか。
ドキドキしながらユウキは振り向いた。
――絶句する。
見渡す限りの深緑の海。
陽光に照らされてなお暗い木々の葉が、波のように揺らめいていた。その上にはところどころ綿のような雲が流れ、よくよく目を凝らせば、別の何かも飛んでいた。
トカゲにコウモリの翼が生えたような生き物が、目視で数十匹もいる。黒ずんで、首と尻尾が長く、風にたゆたうように行ったり来たりしていた。
(あれは……飛竜というやつか……?)
ここに至り、ユウキは確信する。
(ああ、ここは――)
それは、前世の記憶が告げるもの。
――異世界だ。
わくわくが、止まらなかった――。
次回、私は誰よ? ということで持ち物検査。そこには予想外のモノが!?




