悪夢
本作はグロテスクな表現を含みます。
夢を見ていた。
その中にあって肉の体を失った私の意識は、まるで渡り鳥の如くに雲の上の高みにあって、果て無く続く地平の彼方までを一望しているのだ。
地の大半は深い緑色に覆われており、それを横一文字に裂いて大きな河川が流れ、山々はその境界を成している。はてさて、この人跡未踏の原生林はいったいどこぞやとも思ったが、よくよく目を凝らせばその緑の中を縫うようにして、土色の線が方々に向かい走っているのが見て取れた。
時に分かたれ時に合流するそれを目で追ってみれば、その端々はところどころに点々と散った、田畑や村々と思しき開けた場所へと繋がっている。のどかだ。いや実際のところ、そこに住まう人々の実情は不便な代物ではあるのだろうが、かつての生を都会の中で一人終える事となった私には、そうと思えてしまうのである。あぁ叶うのならば、あの何もない故郷へ帰りたい、と。
しばしそうしてぽやりと無心に眺めていたが、突然にそこかしこから鳥の群れが飛び立ったその慌ただしさを合図として、眼下に見える家屋の大半が崩れ去った。
思わず目を見張ったのも一瞬の事。次の瞬間には一面に広がっていた緑は真っ赤な舌に舐め尽くされて、それは空を覆い尽くさんばかりの黒煙を伴いながら瞬く間に、私の視界を塞ぐほどにまで高く高く伸び上がってみせたのだ。
噴火だ。と直感的にそう思い、直ぐにそれが、そんな程度の言葉で済まされるような代物では無い事を思い知った。なにせ火を噴いたのは山では無い、大地そのものなのである。まるで地殻を突き破って内部のマントルが噴き出してしまったかのようなそれは、遠く私の視界を遥かに超えて、見通す事の出来ぬ空の彼方にまで突き上げているのだ。
当て推量だが噴き上げるマグマのそれは、高さにして数千メートル。明らかにまともでは無い。人知の及ばぬ天災を『まとも』と表現するのも世迷言かもは知れないが、しかし他に言い様は見つからなかった。そしてその圧力に屈するように、次々と裂けてあぎとを晒していく大地はやはり同じように火を吐き出して、世界を赤く黒く染め上げていくのである。
これは夢の中の光景であると、私はその事を知っている。しかし空へ吐き出される膨大な噴出物は、ギシギシと互いに擦れ合っては雷光を発し、その忌々しい程の現実感を私の眼窩へと焼き付けるのだ。稲妻に似ていながら異なるそれは、縦横無尽に空を走り回りながら収束し、やがて一本の光の束となって地へと叩きつけられる。
一条の雷が瞬き一つする間に百となり、百は千に、千は万へと広がっていく。その下では溶岩が四方八方へと膨らみつつも、噴出物と水蒸気が混ざり合って流動化した奔流がそれに先んじて駆け巡り、一帯全ての物を飲み込んで焼き尽くす地獄が作り出されていた。
木々が燃える。田畑が飲み込まれる。崩れた村々がその残骸さえも見えなくなる。山肌が焼かれ、川はせき止められて沸騰し、そしてその拡大する地獄の先に、それがある事に私は今更ながらに気が付いたのだ。それは周囲と比べても一際大きく目立つ街で、その中で頭一つ抜け出した鐘楼は傾きつつも、まるで悲鳴をあげるかのようにけたたましく鐘を鳴らしつづけている。
私は、それを知っている。その音色を知っている。それはこの地で私が腰を据えるようになってから、毎日のように耳にしていた礼拝の時間を告げる、教会の鐘の音だった。
不意に視界が移り変わる。目の前に現れたのは、先に地が裂けた際に起こったのであろう大地震によって、その大半が崩壊の憂き目にあった王都の街並み。その中にあって、持ち運びやすい貴金属の類を抱えて通りへと飛び出してきた、一人の男が目に留まった。見知った顔だ。それはお金にがめつい癖にその管理がずぼらであると、かつて私が散々に文句をつけた悪党さん。サソリの旦那の姿だった。
持てるだけの金目のものを、馬車へと放り込んで御者台によじ登る彼のその横で、怒号と悲鳴をあげるのはやはり見知った女性が二人。おそらくは何かの所用あって訪れていたのだろうその片割れが、離せ、旦那様の元へ向かわなければと、絶叫にも近い悲鳴をあげる。それを受けたもう片割れは無言で彼女の頬を打ち、黒雲で覆われた空の彼方を指さして喚声を発した。もう無理だ、あれを見ろ、と。
指し示されたその先にあるものは、轟音と火花をその内に孕みながら、地を滑るようにして蠢く巨大な奔流。それは途上にある家々を引き裂いて掻き回し、発火させながら凄まじい勢いで彼女達の元へと迫っているのだ。彼女達にとって、その雲塊の正体は知る由も無い。しかし一たびあれに飲み込まれたのならば、命は無いであろう事は明らかであった。
膨大な質量をもって迫る死を前にして、小柄な少女は青ざめて言葉を無くし、その隙に眼鏡の彼女によって馬車の中へと叩きこまれる。それを皮切りにして旦那配下の悪党達が我先にと殺到し、詰め込めるだけを詰め込んだ馬車は、軋みをあげながらもその車輪を回し始めた。待ってくれ、置いていかないでくれと悲鳴をあげて追いすがる、多くの者達を置き去りにして。
激しく鞭を入れられながら走る二頭の馬は、その太い脚を動かして懸命に走った。人であろうと馬であろうと、死の恐怖から必死で逃げるは同じ事。けれどもいくら血泡を吹くまで藻掻こうとも、鳥の飛ぶそれすら遥かに凌ぐ勢いを持つ死の奔流からは、逃れられようはずもなし。
背後から覆い被さろうとしてくるその轟音に、御者台に飛び乗っていた彼女が誰に向けて言うでもなく、これはもう駄目かもね、と一人ごちる。そして肌を焼く熱雲が自らの元にまで届いた事に、顔を歪ませた旦那はくそったれ! と叫びをあげて。
そして次の一瞬の後に、何もかもは灼熱に覆われて見えなくなって、最後まで鳴くことすら出来ずに途切れた馬たちの絶叫だけが、彼らがそこにいた証として耳に残った。
再びに視界は移り変わる。そこは王城の一室と思しき豪奢な部屋で、広く設けられた窓からは黒雲に飲まれて焼かれていく、王都の全景が嫌というほどによく見えた。地を揺るがす轟音の迫るその只中で、手にした本を床に叩きつけて気を荒げるは一人の少女。その向かいに立ち尽くすは顔を俯かせた法衣の女性で、見知った彼女達のその顔に、かつてのはつらつとした姿は既に無い。
沈痛なりし場は重い沈黙に包まれて、そして数瞬の後、それは不意に激しく扉が打ち鳴らされた事によって破られた。部屋に踏み込んできたのは彼女達の身を案じて訪れたのだろう、身なりの良い二人の男。王太子の彼が言う、駄目で元々、一縷の望みを賭けて地下へ逃れるぞ、と。伯爵の彼が言う、既に陛下をはじめ、王城の者達には知らせを出している。お前も王女殿下をお連れしてすぐに来い、と。
焦りを孕むその声に対し、少女はわかったと、一言だけをそう返した。その言葉に一つ頷いた彼らはすぐさまに駆け出し始め、次はどこへ向かうだの、父上を背負ってやらなければだのと言葉を交わしながら、彼女達の元を遠ざかり離れていく。再びに訪れた沈黙の中、ややあってから残された彼女達も動き始めたが、しかしその足は階下では無く、尖塔へと続く登り階段へ向けられていた。
足早に歩き通して螺旋を登り、再びに視界が開けたその先にあったものは、陽の光が遮られた暗黒の空。稲妻が走り、巨大な火山弾が飛び交うそれは、まさしく世の終わりに相応しいと言える阿鼻叫喚である。結局、私も同じだったか。しばしその様を見渡した後、そう呟いた少女は一本の小瓶を取り出すと一息にそれを呷り、ゴボリと血を吐き崩れ落ちて、そのままピクリとも動かなくなった。
残された法衣の彼女は倒れ伏す少女の目を閉じ、両手を胸の前で組ませて整えてから、静かにその場へと横たえる。そして手にした杖を床に叩きつけて踏みにじり、天を睨みつけると思うさまに罵りの言葉を吐いて、その身を宙空へと躍らせた。長い裾が風に煽られて暴れるその様は、まるで藻掻きながら落ちていく白い鳥のようで。
それから、二度三度と壁面に接触した彼女の身体は歪な方向へと折れ曲がり、最後にぐちゃりと重い水音を立てて、石畳の上で真っ赤に潰れた。それで、お終いだった。
文字通りの悪夢は続く。次に現れたのは半壊して煙をあげる大きな屋敷で、その天井は崩れ落ちて大穴が開き、既に端々から炎すら上げ始めていた。地震による被害もあったのだろうが、致命的であったのはその一角を完膚なきまでに叩き潰した、小屋ほどもある飛来物であろう。もはや風前の灯である事は明らかで、降り注ぎ始めた灰の雨から身を隔ててくれるような物は、何一つとして残っていない。
その下には崩れた家屋と大岩によって、腰から下を潰されたメルカーバ嬢が掠れた声で逃げろと叫び、突き飛ばされたと思しき子供達がそれを受けて、身を寄せ合いながら震える姿があった。いったい何が起きたのか。逃げろと言われても、どこへ逃げろというのか。そも、自分達を助けてくれた彼女を見捨てられるのか。
胸の内に渦巻いたであろうそれを、ねじ伏せて立ち上がったのは一人の少年。任せて下さいと応じた彼は、四人の少女を伴って崩壊を続ける屋敷の中を駆けていく。それを見送る彼女は少しだけ口角を上げ、思ったよりも良い男だったかなと呟いて、そして落ちてきた天上の梁に押し潰されて姿を消した。
子供たちが逃げ隠れる先に選んだ場所は、酒や穀物を貯蔵する地下倉庫のその一角。上部に設けられた入り口は分厚い木の板で塞がれており、外気から遮断された冷たい空気に満たされたそこならば、押し寄せる熱気から身を守ってくれるに違いないと考えたのだろう。しかしその望みは重く地を這ってきた高熱の火山ガスによって、無情にも焼き尽くされる事となった。
空気よりも密度の高いそれは細かな隙間から流れ込んで、さして広くも無いその空間から酸素を奪い、酒樽が炭化する程の高熱で以って満たしたのだ。子供達はその熱から逃れようと悲鳴を上げて、部屋の隅へと殺到して小さなその身を押し付け合うが、もはや成す術など何もない。
子分達を守ろうとその上に覆い被さる黒猫の少女の眼球が、熱を通された事で白く変質して濁っていくのが目に映った。衣服は焼け、高熱に晒された皮膚が水膨れのように膨らんで弾け飛び、肉との境目を溶けるように滑り落ちて指先から垂れ下がる。最後に聞こえた死にたくないというその声は、いったい誰から発せられたものであったのか。
長い長い一瞬が終わり、動く者は誰一人として居なくなって、そして私の目の前には人間の形をした、五つの炭の塊が残された。私をギンちゃんと呼んでくれたあの声が発せられる事は、二度とない。
ゼリグとの出会いの場となった、彼女の両親の暮らす故郷の村が、沸騰する泥流に飲まれて消えた。
変な喋り方をするゴブリンからパンを買った、あの小さな宿場が激しく火を吹いて燃えるのが見えた。
暴力酒場の親父さんが、熱いと叫びながら転げ回って側溝の中へとその身を埋め、熱波に蹂躙されて息絶えた。
食事を摂りに通っていた大衆酒場のおかみさんが、逃げまどう群衆の中で転倒し、そのまま滅茶苦茶に踏みつぶされて動かなくなった。
呆然と空を見上げていたマガグモが、迫りくる溶岩流に飲み込まれて姿を消した。
空へと飛びあがって難を逃れたイツマデちゃんが、飛来した巨大な火山弾にその身を打ち砕かれて地へと落ちた。
少し前まで滞在していた北方の街が、巨大な地割れに引き裂かれて崩れ去り、噴出物に焼き尽くされて灰燼となった。
首筋にしがみつく小さな少女を伴ったままに、必死に山を駆け下る両腕を失った赤毛の女性が、高熱の奔流に追いつかれて悲鳴を上げた。
熱雲に晒されながらも必死に私の名を呼んでいたフルートちゃんが、しかし押し寄せる膨大な質量に飲み込まれて下敷きになり、二度と這い出してくる事も無く静かになった。
消えていく。この新たな地で、私が目にしてきた全てのものが。
死んでいく。この新たな生で、私が出会ってきた全ての人が。
最後に目の前に現れたのは、三人で共に馬鹿をやって過ごした小さな屋敷。既に主を失ったその屋敷の前に、一人立ち尽くすのは赤毛の傭兵のその姿で、彼女は他に何をするでもなく、黒雲に覆われて沈んでいく王都の姿をただじっと見据えていた。
何も映していなかったその瞳が、不意に何かを捉えて動いたのはその時である。まさか見えているというわけでもあるまいに、彼女は虚空の彼方から己を見つめる私を捉え、何事かを言おうと口を動かしてみせたのだ。それは助けを乞う声であったのか、それとも別れを告げていたのか、あるいはお前がこの世界へ来なければという、罵りの言葉であったのか。残念ながら、私にそれを知る術はない。
それでも何かを言って返さなければと口を開こうとして、夢の中とあって思うように動かぬ我が身のもどかしさに歯噛みする。私がそうして四苦八苦としているうちに、視線を外してしまった彼女は再びに前を見据え、そして空が砕けて落ちてきたかのような、黒い奔流に飲み込まれて姿を消した。
私の頭を撫でてくれた彼女の手が、寝相が悪くてよく蹴飛ばしてくれた彼女の足が、男勝りなその割に、ふっくらと女性らしい丸みを帯びたその身体が、まるで爆発するように沸騰して爆ぜ散ったのだ。骨すら残らぬその死に様が、到底人間のそれであるとは受け入れがたく、私は塵とかき混ぜられて流れ去っていく『彼女だった』それを、ただ茫然と見送る事しか出来なかった。
頼む、頼む、頼む。やめてくれ。何を思って、何が楽しくて私はこんな、絶望の淵を見せつけられているのだ。
やめてくれ。やめてくれ。頼む、お願いだ。
やめてくれ。
「おやおや。随分とまあ、酷くうなされている事ではありませんか。ねぇ、異邦人ノマよ。」
不意に、聞き覚えのある鈴を転がしたような声がして、どこか遠い所で水滴の落ちる音が、ぴちょんと鳴った。
今まで関わってきた人物のことを、長々と描写し直していたのはここでの精神ダメージを上げる為です。
なお本作に、皆殺しバッドエンドの予定はありません。




