私は、吸血鬼ノマ
目を覚ますと目の前におっぱいがあった。
いや、気が狂ったわけでは無い。だが目の前にはおっぱいがある。やっぱり気が狂ったのやもしれぬ。寝過ぎだと抗議をあげていた頭の鈍痛も、おっぱい様の衝撃に吹き飛んでしまった。鈍痛よさらば、我が眠気堂々退場す。
視線を動かせば目に入ったのは赤毛の女性。まだぎりぎり、少女と呼べる年頃だろうか。成熟した大人の女性には無いあどけなさを残しており、顔立ちも整っていて美人さんである。目の前のおっぱい様に視線を戻す。善きかな。
見れば私は赤毛の彼女にがっちりと抱きしめられ、しかも彼女は全裸であった。何ゆえに。
そも、私は山中で不貞寝を決め込んでいたはずである。この身の不自由を嘆き、無様に地面に転がっていたのだ。それがなにゆえどこぞの屋内で、全裸の美人さんから抱擁を受けているのだろうか。うむ、善きかな。
よもや彼女は人さらいであろうか。考えてみれば人気のない山中に少女が一人、無防備な姿を晒して転がっていたのである。しかも豪奢なドレス付きの銀髪美少女様ときたもので、もはや札束が落ちているようなものだろう。
見れば彼女にがっちりと抱きしめられた私もまた、全裸であった。すっぽんぽんである。何ゆえに。
嫌な予感がする。おそらく彼女は人さらいであろう。そして私は思わぬ拾い物としてこの部屋へ連れ込まれ、今まさに強姦されようとしているのだ。いやあるいは、既に致してしまったやもしれぬ。
ごくりと一つ息を飲み、もぞもぞと股ぐらをまさぐってみるものの、幸いにして指先に液体はついてこなかった。どうやら生後0ヵ月で処女を散らしてしまったわけでは無いようである。張り子はつかわぬ主義であろうか。
さーて如何したものか。頭を捻り、首をぐりと回して再び彼女を見上げてみれば、私を見下ろす赤茶けた瞳と目が合った。
「あの……えーと……その、おはようございます?」
「ああ……おはよう。気分はどうだ?」
赤毛の彼女の細い手が、私の髪をさらさらとくしけずる。気分? 気分ですか、そうですね。大パニックです。たすけてー!おまわりさーん!!
落ち着きました。いや、申し訳無かった。人さらいなどととんだ言いがかりであった。なんでも彼女は名をゼリグといい、野犬退治に山中へと分け入ったその折りに、私が血に濡れ、地に伏しているのに出くわしたそうなのだ。
彼女が私の姿を認めた時、既に私と自慢のドレスは野犬によって引き裂かれ噛み裂かれ、血に沈んで見る影もなかったのだという。
ドレスを失った事には少々気落ちした。キャラメイクの際、私が特に気合を入れた一品であったのだ。わたくし自慢のお姫ちゃんスタイルである。
だがよくよく考えてもみれば、私がお犬様の頭を爆散させた時点で既に血濡れであった気もする。まあ、どのみち手放す羽目になっていた事だろうて。名残惜しいが、致し方なし。
しかし私が寝こけてから、彼女に見つかるまでの間に野犬に襲われていたとはなんともぞっとしない話である。私は犬に囲まれ、噛まれ引き裂かれズタボロにされながら、気づきもせずにぐーすかと熟睡していたわけだ。大丈夫か私。
つまるところ彼女は未だ野犬のうろつく山中を、血臭を振りまく私を背負って駆け下り、脈も測れぬほどに衰弱して冷たく凍えたこの身体を、その肢体で温めてくれていたというわけである。まさに命の恩人様よ。
私は彼女に頭を下げた。人さらいの強姦魔などと思って申し訳ないと。脈が無いのも体が冷たいのも不死者だからなんですと。衰弱して意識が無かったのではなく、ただ爆睡してただけなんですと。何度も何度も頭を下げた。とても口になどできぬ。
いやほんと、ご迷惑おかけしました。すみません。およよよよ。
それからしばし、彼女は私に己の事だの村の事だのを語って聞かせてはくれたものの、なんせこの近辺の地理も歴史もとんとわからぬ。なんとなくわかったような顔をして、うー。とかあー。とかもごもごとお茶を濁してみれば、やがて彼女は何事か得心がいった様子を見せて話を切り上げた。
やっぱり何か言ったほうが良かっただろうか。しかしなんと返答したら良いかもわからぬし、おかしな事を口走ればかえって話がこじれるやもしれぬ。沈黙は金と言う。ここはこの対応で間違ってはおらぬはず。
ていうか、なんで私のドレスが最初からズタボロであったという話をやたらと念を押すんですかね。なんで二回も話すんですかね。いや、一回聞いたからわかってますよ?
「アタシは自分の事を話した。今度はアンタの事を教えてくれないか?」
一息入れて、赤毛の彼女に今度はそう切り出された。うーむどうしたものか、考えてみれば今世での名前すら決めておらなんだ。一生の付き合いになるのだ、軽々に決めてしまうのも気が引ける。
しばしぬーぬーと唸ってはみたものの、いざ考えようと思うと意外と思いつかぬもの。んー、あまり捻らぬほうが良いだろうか。結局、ゲームで主人公に名前を付ける際、よく使っていたお気に入りの名を持ち出すこととした。迷った時はこいつに限る。
「ノマ。私の名前は、ノマと申します。」
吸血鬼ノマ、爆誕である。もはや後戻りは出来ぬ。意識したわけでは無いが、知れず丁寧な言葉使いになってしまった。だってしょうがない。初対面の人間にタメ口をきくには、いささか歳を重ねすぎてしまった。
顔に愛想笑いを張り付けて微笑んではみたものの、赤毛の彼女が返事を返してくれぬのでこれまた微妙に間が持たぬ。必死こいて顔面の筋肉を笑顔の形に突っ張らせ続けていたのだが、そのうちに目の前の女性の眉根が寄って、訝し気な顔つきになってきた。
えーい、もっとなんか喋れというのか。しかしこちとら産まれたばかりの吸血鬼様である。この世界の事など邪神の言で大雑把にしかわからぬし、人族だか蛮族だかの種族間で敵対しているというのなら、吸血鬼である事を迂闊に明かすは危険であろう。先ほどから彼女が弄っている剣でそのままぶった切られかねない。
いや、たぶん通らないけど。でもたんこぶくらいは出来るかも。
うごごごご。どうする私、どうするよ私。この世界にまつわる事を話すには、知識と常識が全然足りぬ。さりとて前世の話など出来るはずも無し。
返事に窮した私に出来ることはもはや微笑む事のみ。笑顔でごり押しである。がんばれ世界の共通言語!スマイル!スマイル!スーマーイールー!!
静かに微笑むその裏で、パニックを起こした私の脳味噌は大回転である。しかし私のオツムで打開策など浮かぶはずも無く、頭から煙を噴いてぶっ倒れようかというその間際、所在なさげに剣を弄んでいた彼女はかちりとそれを収めると、私をひょいと抱き上げた。
「言いたくないならいいよ。それよりメシにしよう、何か腹に入れたほうがいい。」
「あ、はい。ありがとうございます、馳走になります。えーと、ゼリグさん。」
幸いにして、彼女の方から話を打ち切ってくれた。ありがたい、おかげで醜態を晒さずに済んだというもの。私の豆腐メンタルはもはや限界であったのだ。しかも食事まで出してくれるという。すみません、ご厄介になります。
…………でも、先になんか着るものください。まだすっぽんぽんなんです。
テーブルには、私と、ゼリグと、彼女の母親と思しき女性が席についている。父親はおらぬのであろうか。気にはなるが、既に故人であったらと考えると、口に出すことは憚られた。
目の前には、なんぞ、焦げたまな板が置いてあり、その上に直接、具の無いスープのようなものが盛られている。というか、すでにまな板に吸収されて無くなりつつあった。
しばし固まるが、ふと思い出す。これ、まな板のようなものは固く焼きしめたパンであり、その上に副食を乗せて、ふやかしたりぬぐったりして食べるのだ。うろ覚えだが何かの本で読んだ。
しかしうろ覚えの知識、どこからどうやって手をつけたら良いのか、とんとわからぬ。助けを求めてゼリグへ視線をやると、彼女はじとりと、半眼でこちらを睨んでいた。コワイ!
私は、何かやらかしてしまったのだろうか。いや、何もしていないから、睨まれているのやも知れぬ。
そういえばドラマで、食事の前に神へ祈りを捧げるシーンを見たことがある。そうか。つまりそういう事であろう。
私は両手を組み、むにゃむにゃと適当な祝詞を唱え始める。しかし、神と言われてもこの世界の神など知らぬ。何に祈れば良いのだろうか。
神と言われて、私の頭の中にあの邪神がやってきて親しげに挨拶をしてきたので、アッパーカットでご退場頂く。代わりに天照大御神にお越しいただいた。おお!我らが慈母よ!!
むにゃむにゃしながら、ちろりと片目をあげて様子を窺うと、ゼリグはやっぱり半眼のままであった。どうしろと。
見よう見まねで、食事を摂る。慣れないうえ、食べづらい事この上無い。先ほどゼリグに貰った服にぼろぼろとこぼす。
貰った服は、服というより、なんか、こう、布だった。頭と腕を通すための穴が開いている。たしか、貫頭衣というのだったか。お姫ちゃんスタイルからの全裸マントスタイルだ。私はどこへゆくのだろうか。
ゼリグと、その母親との間に会話は無かった。目線すら合わない。家族仲は良くないのだろうか。胃が痛い。
私も、話題など無かったし、なにより食事との格闘でそれどころでは無かったので、口を開くことは無かった。
結局誰一人会話を交わすことなく、食事は終わった。私の服は、洗い忘れた給食エプロンみたいになっていた。
再び抱き上げられて部屋へ戻る。気恥ずかしいが、美しい女性に抱き上げられるなど、なんとも役得だ。よいぞ、よいぞ。
にまにまと笑みを浮かべていると、すっぽん、と、ゼリグに給食エプロンを取り上げられた。
汚れたので、明日洗うらしい。替えは無いそうだ。全裸マントスタイルからマントすら失ってしまった。もはや裸族である。
その夜も、ゼリグに抱かれて寝床に入った。誰かと寝所を共にするなぞ何十年ぶりであろうか。今の私は幼き少女の身であるからして、遠慮なくうら若き乙女の肢体に抱きつく。固かった。細身なのに筋肉たっぷりである。殴られたら死にそうだ。
抱きついたまま目を閉じる。なぜか、懐かしき母の記憶を思い出し、自然、涙が零れた。この身体に、感情の起伏が引っ張られているのだろうか。
しばし、声を殺して泣いていたが、やがて睡魔に襲われ、眠りについた。
やっぱり、夢は見なかった。
8話目にしてやっと主人公さんの名前を出すことが出来ました。