王城の大魔境
「後腐れの無いよう、兄妹で話し合いの機会を持ちなさい……か。まさか、化け物に道理を諭されるとは思わなかったな。」
「まあ、化け物とはいってもそれは彼女の能力面での話だ。思い返してもみれば、実際に接した限りではとても聡明で理知的な娘に見えたよ。で、それを受けて君はどうするかね? 王太子ヘンゼル殿下。」
件の少女が北方で挙げたという戦果と戦禍。この私、ヘンゼル・インペレ・ハートクインがその一報を受け取り、ドロシアに出し抜かれ、我が国に強大なる化け物が潜んでいたという事実を知って、頭を抱えたその翌日。昨夜のうちに妹君へ、事の詳細を聞いてきたというファーグナーから伝えられたのは意外にも従順で、かつ耳の痛い事を言う彼女の姿だった。
突然に降って湧いた、この国へ致命打を与えかねないその存在にはなんとも肝を冷やしたものだが、今のところは一安心といったところだろうか。少なくとも聞く限りでは、その少女が理不尽で非道な仕打ちをもたらす者だとは思えない。それに加えて我が友は、彼女を御す事が出来るという猛獣使いを二人も連れてきてくれたのだから、なんとも心強い話である。
座り込んだままにふいと視線を向けてみれば、向かいに立つファーグナーの後ろに控えるのはやや緊張した面持ちの、年若い娘が二人。そのおかげもあってマッドハット卿と二人、早朝から詰めていたそう広くも無いこの執務室も、すっかり手狭となってしまった。まあその主たる原因はそこらを占拠していらっしゃる、決裁待ちの書類の山のせいなのだが。つらい。
「どうする。と言われても、正直なところ悩ましいな。メルカーバ卿の言葉に偽りが無いのであれば、ドロシアはその少女の力を後ろ盾に、信条とする拡大主義を推し進めようとしているのだろう? だがそれは化け物の善意に頼った、足元のおぼつかない不安定な代物だ。これまでの不和が無かったとしても、素直に賛同の意は示し難い。」
「ぶひゅー。殿下、個人の主義主張など容易に変節しうるものなれば、殿下の危惧されるところも当然の事かとは存じます。ですが、外圧に耐えつつなんとか現状を維持すべきという我々の方針に、将来性が見えなかった事もまた事実。ならば局面の打開に繋がるであろうこの一手、一考してみる価値はあるかと。」
「わかっているさ。そもそもにして私はドロシアの主張する、原資の見込みもない理想論に辟易していたからこそ、今日まで王城を二分して対立してきたのだ。その愚かな足の引っ張り合いを、解決する糸口が目の前にある。それは、わかっているのだがな……。」
「ヘンゼル、私とてこの国の民の一員、君が『化け物』という言葉に忌避を覚えるのは重々承知している。だが我々が張り付けたそのレッテルに、我々自身が惑わされてしまって、得られるはずであった実利を逃すというのも避けたい話だ。無理強いをするつもりも無いがここは一度、話し合いの機会を持ってみてはどうだろうか。」
腕を組んで腰掛けに背を預け、揺らぐ考えを言の葉に乗せて絞り出す。どうやら私の支持者にして恩師と友人でもあるこの二人は、これを良い機会として我々の方針を協調へと転じさせたいらしい。彼らがそれを口にするのも尤もだ。国体の維持に努め、守りに入るべしという私の主張。元々それは手持ちの札を鑑みたうえで、選ばざるを得ない妥協の産物であったのだから。
何かと我々を敵視してくる蛮族どもの攻勢は勿論のこと、小国である我が国にとって、隣国からの外圧も軽視は出来ない。つい先日に、はぐれの化け物によって引き起こされたあの騒動。それによって人と物の流れが停滞してしまった我が国に対し、駐留している衆国の役人から、毒入りの援助を申し出された事は記憶にも新しい。
もう少し事態の解決が遅ければ、我々は連中の治外法権を認めてでも、衆国からの進駐軍を受け入れる破目に陥っていた事だろう。と、そう考えてもみれば、あの一件を解決してくれたのも確か、件の怪物少女という話であったか。
思えば彼女はそれを別段誇るでもなく、そこに至るまでもその後も、大人しく慎ましやかにこの国の一角で暮らしていたのだ。人に害為す化け物であるはずのその少女に、如何なる心境の変化があって、我々に手を貸そうなどという考えに至ったのか。そこのところを考えてもみれば、俄然に興味が湧いてきた。直に会って一度、言葉を交わしておきたいものだ。
「ふむ……。そうだな、卿らの考えはよくわかった。そして卿らにそこまで言わせるその娘の価値、やはり捨て置くというわけにはいかんだろう。ドロシアと会談の機会は持つ。だがその前に、私もその娘に会って彼女の思想というものを知っておきたい。確か彼女は、この王城の『奥』に囚われているという話であったな?」
「メルカーバ卿の話によればな。とはいえ彼女も今や、事態の進展を願う同志の一人、下手な嘘偽りは言わんだろうよ。で、それは良いとしても、君はどうやって『奥』まで行くつもりかね? あそこは男子禁制の一角だ。如何に王族といえども、正当な理由も無しの立ち入りは許されんぞ。」
「なに、問題は無いさ。既に有名無実となって久しいが、そもそもあそこはかつて王の側室となるべく集められた女達の、生活の場であったのだ。古びた法とはいえ、未だその効力は活きている。次期国王であるこの私が、美しいと評判の新入りの顔を拝みに行くだけの事。そう名目は立つ。」
「……ヘンゼル。君は知らんだろうがな、彼女は齢にして十にも満つるかどうかの、幼い娘だぞ。君はそんな子供に手をつける為に、わざわざ足を運びもしたことの無い『奥』へ立ち入ったと、女官長に説明をするつもりかね?」
友人のその忠告に、手にした決済印をコトリと置いて、知らず口元へと手を当てる。『奥』はまさしく女の園。ドロシアが我が物顔で強権を振るう領域の一つであり、そこで働く女官たちもまた、すべからくアイツの息がかかった者達だ。おそらくは有ること無いこと噂を立てられ、私の名誉を貶めようとしてくるであろう事は想像に難くない。
だがそれも、所詮は一過性の噂に過ぎない。将来を左右する大きな決断というものには時として、併せ飲まざるを得ない濁というものが存在するのだ。私は王族として、そして一人の政治家として、その理不尽から目を背けようなどというつもりは微塵も無い。
「……ファーグナー。私はこの国が良き方向に進んでくれる為とあらば、どのようないわれなき汚名であろうとも、甘んじて受け入れる覚悟だ。」
「要らねえよそんな覚悟は!? もうちょっと外聞の良い理由を考えてやるから少し待ってろっ!」
お、おう。おかしいな、我ながら実に恰好の良い事を言えたと、会心の一言であったはずなのだが……。
「それにしても驚きました。お兄様が殿下と古くから付き合いのある事は存じておりましたが、あれほどに気安い仲であらせられるとは思ってもおりませんでしたので。」
「そうそう。アタシも伯爵様が声を荒げた時には、ギョッとしちまいましたよ。あ、えーと、すいません。勝手にお声がけをしてしまいまして。」
「なに、構わんよ。そう畏まってくれる必要も無い。ファーグナーとは竹馬の友という奴でね、それこそ幼い時分には、あんな程度では済まない罵り合いもしたものさ。」
ファーグナーとマッドハット卿が、なんのかんのと話し合うのを黙って見守ること約一刻。最終的に、私が王城守備隊の指揮権を持っている事から法解釈を捻じ曲げて、無断で城に押し入った怪しげな娘の尋問を行うという名目で以って、こうして『奥』へと足を踏み入れる事の許可が降りた。私は王子で一番偉いはずなのに、許可を貰う立場になっているというのはどういう事か。解せぬ。
ちなみに先ほど暴言を吐いてくれた我が親友は、代理の決済印を持たせたうえで、そのまま先の執務室に閉じ込めてある。くくく、一国の王子たるこの私を軽んじたその報い、存分に受けるが良い。出来れば私が戻るまでに、侯爵殿と二人であの書類の山を片付けておいて貰えると非常に助かる。後で食い物くらいは差し入れをしてやろう。
アイツの恨みがましい視線を思い出しつつ、私を押し留めようとする女官達を、これは法に則った正式な措置であると、ことさら大仰に言って退けながら歩みを進める。その後ろに従えるのは先に紹介された女性が二人。一人は親友の妹君であるが、もう一人の平民も中々どうして、私を相手に肝の据わった態度を見せてくれるものだ。
さて、少なくとも私の知る限り、件の少女の存在が初めておおやけとなったのは、東西の品が扱われるあまり宜しくない催し物の場においてだという。彼女ら二人はそれ以前から少女を知る者であり、ましてあろうことか、この王都へと連れ込んだ当事者でもあるというのだから驚きだ。
それについて多少は思うところが無いでもないが、今更その是非について論ずるような状況でも無し、いったんは脇にどけよう。ここから見えてくるものは二つ。彼女が化け物の身でありながら、人に見紛うほどの協調性と社交性を持っている事。そして不当に捕まって競りにかけられるという仕打ちを受けたにも関わらず、暴力を振るう事を良しとしなかった温厚な性質である。
そしてその彼女は今まさに、我が妹によって無理やりにその身を拘束されて、この王城へと押し込められているのだ。にも関わらず、未だ我々が城ごと崩壊する憂き目に会っていないあたりにおいて、私の推察は実証されていると言えるだろう。逃げ出したくなってきた。
「例の少女、ノマ君と言ったか。彼女はここの最奥に囚われているという話であったが、その、なんだ。私にも未知なる存在を受け入れる、心の準備というものがある。出来れば君達二人が肌で感じた、彼女の人となりというものを教えて貰えると助かるのだが……。」
「殿下、それでは僭越ながら、このキティーより申し伝えさせて頂きます。あの子の思考は単純明快。裏表を使い分けられるような器用さも無く、人を陥れる事の出来る様な悪知恵も持ち合わせてはおりません。こちらが誠意を以って接する限り、あの子もそれに対し、誠実な反応を返してくれる事でしょう。相違ないわよね? ゼリグ。」
「ん? お、おう。なんていうかですね、アイツはいつでもアタシ達を皆殺しに出来る癖をして、いつだって妙にのほほんとしやがるんですよ。碌に飢えも争いも経験したことが無くて、みんな仲良くなんて平気な顔で言いだしそうな、そんな平和ボケしたお子様です。余程の何かが無い限り、殿下が危惧しておられるような事にはならないと思いますよ。」
投げかけた問いに対し返ってきたのは、いずれも先の推察を補強してくれる救いの言葉。うむ、そう言って貰えるとありがたい。明日に向かっての希望も見えてくるというものだ。その娘にとっての許容できない線引きがどのあたりにあるのかまではわからんが、ドロシアの奴が既にそれを踏み越えていない事を切に願おう。
くそ、それにしてもアイツめ、本当に余計な手出しをしてくれたものだ。一昔前はあにうえあにうえと言いながら私の後ろをついて回り、あにうえを支える立派なせーじかになりますと、舌ったらずにそう言ってくれていたというのに。何がどう間違って、あんな苛烈な性格になってしまったのか。いかん、涙が出てきた。
「誠意を以って接する限り、誠実に、か。我々が普段に王城内でやり合うような、小手先の技を弄するような問答は避けたほうが良さそうだな。あいわかった。その言葉、肝に銘じておく事としよう。」
「それが宜しいかと。迂遠な言葉を用いる事そのものに、あの子が不快感を示すような事は無いでしょう。ですが真意を測りかねたその結果、適切な返答を思いつかずに固まってしまうであろう事は、私共にも容易に想像がつくところでございますので。」
「ははは、心得た。君の寄越してくれた文を読んだ時には心無い怪物だとばかり思ったものだが、やはりこうして、生きた姿を聞いてみるものだな。私が勝手に作り上げていた恐ろしい虚像が、見る間に剥がれ落ちていくのを感じるよ。……っと、どうしたかね? ゼリグ君?」
「…………居やがるな。殿下、少し下がってアタシの後ろへ。キティー、後ろを頼む。」
不意に私の前へと出た赤毛の女性が、そう口にしつつも重心をやや落とし、腰の後ろから一本の短剣を抜き放つ。城内で刃物を抜くなどととても穏やかな話では無いが、ここまで短い時間とはいえ接した限り、彼女が悪戯にそのような真似をする者であるとは思えない。つまり、それをせざるを得ないだけの何かがいるのだ。この『奥』に。
そう思ってよくよく注視をしてみれば、最奥に続く廊下はいくつもの明かり窓が設えられているにも関わらず、どこか闇を孕んでいるかのように薄暗い。つい先ほどまで時折すれ違っていた女官の姿も、この一帯からは気配の一片すらも感じられないとあって、ようやくを以ってこの私にも、ただならぬ静かな異変を察する事が出来た。
「……ただの賊が、易々と入りこめるような場所でもなし。これはもしや、例の彼女の仕業によるものかな?」
「そうでは無いという保証は出来ませんが、少なくともアタシ達の知るノマって奴は、理由も無しに人を驚かせて喜ぶような、こんな戯けた真似は好みませんよ。」
「そうか。信頼しているのだね。」
「ええ、おかげ様で。ところで殿下は何か、身を守るものはお持ちで?」
「愛剣が一本ある。これでどうにか抗する事の出来てくれるような相手であると、なんともありがたいのだがね。」
腰に佩いた冷たい感触を手で感じつつ、すぐ傍へ寄ってきたキティー君へと視線を向ける。己が守られる立場であるというのは承知しているが、かといって女性に庇われるというのも男としての矜持に関わる。いざとなれば、この身を盾とするのも已む無しか。
そうこうする内、空間の端々にこびりついた闇色がぞるりと動き、銀の煙と化したそれは方々から集まってきて、私達の前でおぞましい形を成した。それは赤い衣を身に纏った一匹の化け物で、右半身は銀の髪に紅い瞳を持った、怪しくも美しい女の姿。しかしてもう半身は、十重二十重に重なり蠢く無数の触手によって構成された、酸鼻極まる化生のそれである。何者か。
「くふふ。人間どもよ、これより先はノマ様の居城。御方に無断で足を踏み入れる事、まかり成らんぞ。」
「よう。まあアレで滅ぼせたとは思っちゃあいなかったけどよ、元気そうじゃねえか、踊るフルート吹きさんよ。あの後でノマの奴に、こっぴどく叱られはしなかったかよ? ええ?」
「んん? なんだ、誰かと思えばあの時の小生意気な人間共か。ふん、あの時は御方の命により、貴様らの儚い存在を散らさぬように、手加減をしてやっていたに過ぎん。口の利き方を慎む事だな。」
踊るフルート吹き。そう呼ばれた化け物は、さらに一歩を踏み出して気色ばむゼリグ君に向かい、手にした横笛を弄びながら蔑むように言葉をかける。手強いな、この女。実戦を知らぬ道場剣法であると、影でこそりと揶揄されてはいるものの、これでも私はそれなりに使う方だ。その私を以ってして、この化生の首をはねる未来がどうにも見えない。
報告によれば、この女こそが北方に姿を現したという魔人の尖兵。しかしてその正体は、件の少女によって生み出された眷属という話であったか。ならばこの穏やかならぬ言動はそっくりそのまま、ノマなる化け物が内に秘めた、彼女の意思と受け取る事もできる。いかんな。これは少々、楽観視が過ぎたやもしれん。
「あらあら、叱られた事は否定しないのねえ、フルートちゃん? ここがノマちゃんの居城だなんて息巻いてはいたけれど、その当人は貴方の行動を知っているのかしら?」
「くふ。今は違うやもしれん、だがいずれはそうなるさ。なにせノマ様は全知にして全能なる御方。その偉大なるお姿の前に、全てがひれ伏すのは当然の義務であり……。」
「はぐらかしてないで、いいから質問に答えなさい。貴方がこうしてここに居る事について、あの子はちゃんと承知の上なのかしらね?」
「いや、このような些事でお手を煩わせる事も無いと思い、私は御方の意思を汲んで、自主的にこうして領地の主張をだな…………。」
「つまり、許可を貰わないで勝手にやっているというわけね。あなた以前にも、あの子の命令に勝手な解釈を加えて、私達を掻き回してくれたばかりじゃない。あんまりそんな事ばかりしていると、愛想を尽かされて捨てられるわよ。」
睨み合う私達の間に入り、ひらひらと手を振りながら声を発するのはキティー君。何を悠長な事をと思いはしたが、これがまた覿面な効果を見せたのだから意外なもの。先ほどまで傲慢さを隠そうともしなかった化け物が、その一言を境に顔色を無くしてオロオロと慌てふためく様は、なんとも滑稽な物悲しささえ感じさせる。
これが私達が長きに渡り怯えてきた、化け物の姿だというのか。いや厳密に言えば、この女はその生まれからして、いわゆる『化け物』とは異なるのだろうが……。しかしそうであっても私が未だ、この女を切れる未来を見いだせない事には変わりがない。そのような存在に主と仰がれるノマ君の力、あまり考えたいものでは無いな。
「す、捨てられ…………っ!? あー、うむ。こほん。ようこそ参ったなお客人。我が主に用向きがあるのであれば、この私が取り次いで進ぜようぞ。だからお前達は何も聞かなかった。良いな?」
「その変に調子の良いところ、ノマちゃんにそっくりね貴方。ま、引っ込んでくれたのならそれでいいわ、さっさとあの子のところまで案内して頂戴な。それで構いませんわよね? 殿下。」
「あ、ああ……。そうだな、宜しく頼む。」
振り上げたその拳の、落とし所を失って固まるゼリグ君の肩を叩き、私も抜きかけた白刃をカチリと納める。少々ばかり、残念か。相手が化け物の事とはいえ、初めての死合う機会を失ってしまった。軽く頭を振って息を吸い、自らの昂ぶりと共にそれを吐き出す。落ち着けヘンゼル、今の私は剣士では無く、政治家としてこの場にいるのだ。ゆめゆめ、それを忘れるな。
「……つい先日に殺り合った相手と、こんな馬鹿をやるのも煮え切らねえけどよ、まぁいいや。そもそもお前、なんだってノマから離れてこんな廊下のど真ん中に陣取ってたんだよ? 今アイツがどうなってんのかは知らねえけどさ、血も飲めてないだろうに、ほったらかしにしといて大丈夫なのか?」
「そのノマ様から、人払いを仰せつかったのだ。あのドロシアとかいう不敬極まる女がまたも御方を訪ねてきてな、重要な話があるからと、こうして外に出されてしまった。」
「それって単に、貴方が騒々しい事をいって喚き散らすから、理由をつけて体よく追い出されただけなんじゃあないのかしらね?」
「…………馬鹿なっ!?」
なんだか道化に見えてきた女の対処を彼女らに任せ、果てまでも続く廊下の先を、しげしげと眺めて取る。ふむ、これはおかしいな。いくら王城が広しといえど、この構造には些か以上に無理がある。これは何ぞ、幻術の類でもかけられているのだろうか。迷い惑わせる業は、青の神による力の領分。化け物が五色の神の御業を行使するとは、寡聞にして聞いたことも無いが、はて。
「話中に失礼させて頂くよ、フルート君。この先に君の主が囚われていた部屋があったはずなのだが、御覧の通り、綺麗さっぱりと消え失せてしまっているものでね。こちらも先を急ぐ身だ。このまやかし、早々に解いて貰えると助かるのだが。」
「む。まあそう急くな、人間。御方のおわす部屋ならば、最初からずっとそこにあるさ。これこの通りにな。」
そう言って、怪異の女が一つ指を鳴らすや否や、突然私の眼前に不気味に輝く、黄金色の眼が宙を裂いてしゃがりと開いた。それを皮切りにどこまでも続く廊下に見えたそれは、ぶよぶよと蠢く暗褐色の何かに姿を変じ、八本の足を引きずりながら、ずるりずるりと身を引いていく。なんだこれ。
たたらを踏んで後ろに下がった私の前で、異形の怪物はやがて銀の煙となって霧散すると、フルートを名乗る女に吸い込まれるようにして姿を消した。うーむ、まさになんでもござれ。これが魔人か、侮りがたし。
「ああ、なるほど。いまの大きな蛸に身を変じさせて、その突き当りの扉を隠していたっていうわけね。無駄に凝った事するじゃあないの。」
「なあ、キティー。タコってなんだ?」
「私も実物を見たことは無いのだけれどね、物の本によれば、驚異的な擬態能力を持った美味しい干物らしいわよ。」
「マジか。食えるのかあれ。とても美味そうには見えなかったけどなー。」
「ええい貴様ら、偉大なる御方の眷属を口に入れようとは無礼千万。その不埒な性根、我らが御方の眼前にて首を垂れて悔いるが良いわ!」
つい今しがたに、身を固くした緊張もどこへやら。なんとも気の抜ける会話と共に、怪異の女は異形によって隠されていたその扉を、伺いを立てる事も無く開け放つ。それを止める間もあればこそ、身を乗り出した私は眼前に姿を現した少女の姿に、思わずして目を奪われた。
それは銀糸の髪と紅玉の瞳を持った、どこか作り物めいた美しさを持つ美の化身。そんな彼女が小さな硝子の杯の底に、申し訳程度に溜まった赤い雫に舌を這わせ、今まさに飲み下そうとしているのだ。恍惚と歓喜に身を震わせるその様は、なんとも言い様がなく退廃的で、淫靡なるものを連想させる。なんと、可憐な。
「くくく。どうだ、美味かろう? なにせ紛れもなく、この国で一等高貴な処女の生き血だ。さ、これがもっと欲しいのであれば、強情を張らずにこの私へ忠誠を誓うがよい。」
「ぷっはー。どうも、けっこうなお手前で。ですが血を頂けた事には感謝を致しますが、それとこれとは話が別です。先日にも申し上げましたとおり、そういった重要な物事はきちんと関係各所へ、話を通してからにして頂けませんと。」
「っち。子供の癖して役人みたいな事を言いおって。いいかノマ、お前に血をくれてやるもやらぬも、この私の心持ち一つ。飢えたお前が正気を失い、凶行に走った過去については聞き及んでおる。またも同じ轍を踏み、この私を無惨に殺すような真似はしたく無かろう? んん?」
「いえ、貴方はその役人の親玉でしょうに。それとなんですか、自分の命を人質にとった、後ろに向かって全力疾走してるその脅し。」
銀の少女と卓を挟んで向かい合うは、その手に宝剣を弄ぶ愚妹の姿。指先にわずかばかりに滲んている赤い雫は、先の杯へと生き血を流し込んだ名残だろうか。その後ろで額に手を当てるのは、先日に我が方へ情報をもたらしてくれたというメルカーバ卿の疲れた姿で、なんとなく身に走った申し訳無さに突き動かされ、知らずのうちに頭を下げた。
すいません、うちの妹が。なんかこう、すいません。
「ええい! ざぁかましいわ! つべこべ言わずに黙って首を縦に振れと言っとろうが! こん化け物がぁっ! ドタマカチ割るぞ!? あぁっ!?」
「いーやーでーすー。逆さに振ったって道理の通らない要求に、是と言うわけには参りませんー。それとフルート、あなた血相変えて飛び込んでくるのは何回目ですか。私は大丈夫ですから、もう少し外で待っていて下さいな。」
耳に入る物騒な言葉に慌てて頭を上げてみれば、そこにあったのは言葉の通りに足を持たれてひっくり返され、ばっさばっさと揺さぶられる銀の少女。卓の上にまで足を踏み出してそれを為す愚妹の姿は、どことなく誇らしげに大物を掲げた、漁師のそれを想起させる。
すいません、うちの妹が。なんかこう、すいません。
あまりの有様にピシリと固まったフルート君を脇に押し退け、後ろからひょこりと顔を覗かせたゼリグ君とキティー君を従えながら、ゴホンとこれ見よがしに咳ばらいを一つ。
事そこに至り、ようやく室内の三人は私の存在に気づいたらしい。そしてこちらを見るや、ビッタンッと少女を頭から床に落としたドロシアの奴は、いそいそと椅子へ座り直すと事も無げにこう言ったものであった。
「ほほほ。おやおや兄上、このような場所に何用でございますか? ここは貞淑なる乙女の園。野蛮なる殿方が易々と、足を踏み入れて良い場所ではございませぬ。」
…………いや、今更そんな風に取り繕ったところで、もう遅いからな、おい。
カオス。




