異形の軍勢
遠くから聞こえる大勢の人間が吠える声に、ぴくりと耳を動かしてふと足を止めた。なるほど、これがいわゆる鬨の声という奴か。さすがに現実、見事なものである。ドラマとは臨場感というものが違う。
おそらく両軍の衝突は近いのであろう、こちらも急がねばならぬ。さぁて、今日の私は闇に放たれた刺客、怪人ノマちゃんだ。待っておれよオーク共、暗闇から迫る化け物の恐怖というものを、嫌という程に叩きこんでやるからのぅ、うへへへへ。
いやまあ、今は秋空も見事な朝っぱらなんですけどね。
姿は見えずとも感じられる意気軒高にしばし耳を傾けて、それから日除けの帽子を被りなおし、えっちらおっちらと森の中の行進を再開する。
予定ではこのまま戦場をぐるりと迂回し、敵軍の後背を突いてやる手筈になっているのだが、実を言えばいささかばかり自信が無い。いや腕っぷしは十分である。この身体が振るう暴力の理不尽さには、私は全幅の信頼を置いている。
では何が不安なのかと言ってみれば、これが土地勘の無い者の森歩きであるという点だ。一応この近辺の簡単な俯瞰図は貰ってきたのだが、既に己の現在位置を見失いつつある気がする。このまま明後日の方向に向かってしまったらどうしよう。
あぁ、無いものねだりだとはわかっているが、せめて道案内が欲しかった。そうすれば大分と安心も出来たのだが。ゼリグは山歩きが得意であるそうだし、シャリイちゃんもお仕事柄、この手の単独行動は得手としていそうである。黒猫ちゃん達は……どうかな。猫だから得意そうだけど、でも黒猫ちゃん達だしなぁ……。
船頭多くして船山に上る。頭の中の猫耳ちゃん達はてんでばらばら、あっちやこっちやに動き回り、最終的に遭難の責任をとらされた私が逆さまに磔にされたあたりで思わずくふりと笑いが漏れた。
いかん、現実逃避をしている場合では無かった。ふぅむ。そろそろ一度、位置関係の確認をしておきたいところなのだが何か良い手立ては無いものか。
ゴソゴソと懐をまさぐって地図を取り出し、眉を寄せながらにらめっこをする。それから地図を傾けて首をかしげ、次は逆さまにひっくり返して目を細めながら口もへの字にひん曲げて、最後にぷひゅーと息を吐きながら手の中の紙をパタリと閉じた。
ははは。うん、諦めよう。百聞は一見に如かずというし、やはりこういうものは己が目で確かめるに限る。なお、お前の目の前にあった紙が一見だろうと言う内なる声は黙殺するものとする。むふー。
はてさて、ならば如何したものか。確かめるというのなら、やはり空からかなぁ。自慢の銀髪をサラリと撫でて、くりくりと弄びながら思考を回す。もみもみくるくると考えて、それから刃物のように伸ばした爪で、ブツリと一房切り取った。
途端、うねうねと蠢き始めた手の中の銀糸の束は、見る間に膨れ上がって形を成して、やがて姿を現したのは三本足の銀の鴉。そいつは軽く毛繕いをしてから一声鳴くと、翼をはためかせて腕から飛び出し、高く澄み渡った空の彼方へと舞い上がっていく。
木々の隙間を抜けて飛び出し、上空を旋回し始めたそいつの影を、下から見上げて眺める事しばし。ふむ、思い付きだが上手くいってくれるだろうか。左目をパチリと閉じて、ゆるゆると挙げた小さなお手々で右目を覆い、それからグジュリと握り込む。
一瞬真っ暗になった視界はしかし、すぐに光を取り戻して一面の青に塗りたくられた。私の感覚でいう右の目玉をギョロリギョロリと動かしてみれば、空の青が山々を境として緑へと移り変わっていくのがよく見える。いやはや、絶景かな絶景かな。
視線を動かすうちに緑も途切れ、続けて眼下に捉えたのは開けた場所にひしめき合う小さな小さな人間達。一緒に居た時はやたらと大勢の兵隊さんが、ごちゃごちゃとしているようにしか思えなかったが、こうして俯瞰してみれば全体が凹の字になっていて実にお見事。
いやまあ、戦の機微なぞ素人さんである私にはさっぱりもってわからぬが、とりあえずはほうぼうに掲げられた紋章旗が彩りを添えていて、格好良いとでも言っておきましょうか。素人さんなりに。
うむ、まずは満足。左目を開けて空を見上げ、遥かな先でゆったり飛び交う一羽の鴉を視界に入れる。おそらく今頃、あの鴉の頭には私の右目がニョキリと生えて、さぞや薄気味の悪いご面相になっているのだろうて。くふふ、怖や怖や。
故事によれば、神武天皇は天照より遣わされた鴉を用い、航空偵察を実施したのだとかなんとか。太陽に嫌われた吸血鬼であるこの私がその真似事をしようとは、けだし面白い事もあるものよ。っていうか本当に不便なんですよねコレ。だから最初にデイウォーカーになったつもりだったんだけどなぁ。
再び左目をぎゅむりと閉じて、お空の右目に意識を向ける。さてこの広々とした大パノラマ、地図によれば国境に相当する山々が北で、先日まで滞在していた街が南にあたり、私が分け入ったのはその東。地平の果てまで黒々と続く原生林である。
見渡すところ、街のやや北。我らが王国軍は森に沿うようにして開けた平地に展開しており、いざとなれば森に潜ませた手勢をけしかけるという私の提案を、ルミアン君達が汲んでくれたであろう事が見て取れた。
で、あるならば、その王国軍から向かって北に位置している小集団がオーク達か。自軍の一部が突出してしまっている可能性を考えて一応そちらにも近づいてみれば、眼下をぞろぞろと歩いていたのは赤い軍旗を掲げた浅黒い肌の大男達。
うむす、良い筋肉だ。やはりこちらの連中が、話に聞くオークさん達で間違いはなかろうて。本当に豚さんでは無いのだなあなどと感心しつつ、そのまま上空を旋回して集団の司令塔と思われる人物を、きょろりきょろりと探して回る。
さすがにこちらは一羽の鴉。頭上を飛んでいたところで気に留める者もいないとあって、無遠慮にひとしきり舐め回し、程なくして空に蠢く私のお目目は、周囲からかしづかれる一人の女性に目をつけた。
それは目鼻立ちの整った美人さんで、しかしてその体躯は周囲の男達に負けず劣らず。己の身の丈にも匹敵する巨大な剣を背中に担ぎ、燃え盛るような真っ赤な髪を乱雑に括って束ねた彼女は、身振り手振りで周囲の男達に何かしらの指示を出している。
恐らくは彼女が首魁。えらく若いが、はてさて彼らの指導層にあたる者の縁者だろうか、それとも若くして頭角を現した生え抜きか。いずれにしても、聞かされているオーク達の侵攻目的は闘争其の物というくらいであるし、そのような蛮行を働くには若者の方がらしいと言えばらしいのかもしれない。
さて、こちらの手筈は私が事を起こすまでの間、敵将を誘い出しての一騎打ちによって時間を稼ぐ事にはなっているが、果たしてやっこさん、上手く誘いに乗ってきてくれるであろうか。眼下の彼女は如何にもそういった催しを好みそうな、猪武者という風体ではあるのだが。
おっといかん。いかんなぁ。初見の相手に向かって如何にも思慮に欠きそうな猪であるなぞと、若人を軽んじるのは年を食った者の悪い癖である。高空より見下ろしながら嘴の端をぐぎりと歪め、思わず自嘲の笑みを浮かべたところでふと何かを感じ取ったのか、頭上を見上げた件の彼女と目が合った。気がした。
まさかと目を見張ったのも束の間の事。次の瞬間には私の視界は赤く白く赤熱し、驚いて振り回した翼の先端、風切り羽根に散った火の粉が瞬く間に膨れ上がって翼を飲み込んだのが見えたあたりで、私の驚愕は思考と共にぶつりと途切れ、暗闇の中へと飲まれて消えた。……何事?
周囲の青は消え去って、私の右目に深い緑が戻ってくる。遠く空を見上げれば、そこに映るのは小さく煙を上げながら炎に巻かれ、地へと落ちていく一羽の鴉。それは地上に達することなく燃え尽きて、灰となって砕けてほつれ、お空の彼方に霧散した。
混乱のあまりにしばし目を瞬いて、それから拳を握り、顔を歪ませて舌打ちをする。何をされた? 火矢の類では無い。火が燃え移ったのでは無く、炎の中へ身体丸ごと突っ込まれたような感覚であった。果たしてそれを成せるのは火炎放射器か爆弾か。しかし、あんな高所に?
カリカリカリと、親指の爪を噛む。爪の端に切れ目を入れて、ブヂリと一片食い千切り、そこでようやくこの世界には魔術がある事を思い出した。
聞くところによれば、赤の神の信奉者は炎術を操る事が出来るという。寡聞ゆえにそれを行使する様は見たことが無いが、あのような高射砲の真似事が出来ようとは驚きだ。で、あるならば、おそらくその下手人は、空を飛ぶ我が分身の姿を捉えたあの女か。
……心配だ。十中八九、この後行われる一騎打ちにおいて、オーク側の代表者として出てくるであろうはあの女。対するこちらの代表はメルカーバさん。彼女はキティーも認める、王国随一の身体強化術の使い手であるという。サソリの旦那も影で熊女などと言って太鼓判を押してはいたが、しかしそれでも不安は残る。
相手は大剣を扱う闘士にして、重火器にも匹敵しうるかもしれない炎を操る魔術師なのだ。ここまでに手に入った情報から察するに、オークという連中の気性からいって遠距離から一方的に嬲られるような事態には陥るまいが、それでも相手にその手札があるという事実が私の心をざわつかせる。
そもそもにして私の分身を撃ち落とし、灰になるまで焼き焦がしてしまうようなあの威力。もしもメルカーバさんが一発貰ってしまおうものなら、キティーが介入する間も無く落命してしまうであろう事は想像に難くない。
心配だ。ああ、心配だ。ならばどうするか? 決まっている。万が一の為に森に潜ませておく我が手勢を、狼だけとは言わずにもっともっと増強するのだ。いや、万が一なぞとみみっちい事は言わず、積極的に介入させる事すら考えるべきであるかもしれない。
……よし、腹は決まった。首の後ろに両手を回し、豊かな銀髪をばさりと勢いよくかきあげる。途端、そこからゲロリと吐き出されたのは数匹の銀の狼。そいつらは私の周囲をすろすろ歩くと目の前でぺたりと座り、さぁ指示を寄越せと言わんばかりにウォン! と鳴いて舌を出す。
勿論これで終わりでは無い。私は、私に居心地の良い環境を与えてくれる人達を守る為、我が軍勢を差し向けてやると決めたのである。やると決めたのなら徹底的にだ、躊躇はしない。先人もこう言うではないか、やらぬ後悔よりもやる後悔と。
髪をぐしゃりと握り締め、ふんにゅふんにゅと気合を入れる。それに合わせて私の背中からは次から次へと狼の群れが吐き出され、その中に交じって頭を突き出した巨大なムカデの大きな顎が、ガチリガチリと音を鳴らした。
大ムカデの一匹では飽き足らず、大蛇に大コウモリに大サソリ。イノシシにホオジロザメ、フクロウナギに巨大なパンダと、思いつく限りの猛獣たちをゲロゲロゲロと生み出していく。なんだか最後の方で変なのが一匹混じった気もするが、まあいいや。一匹どころじゃ無かった気もするけれど、まあいいや。
最後の一匹をスポンと吐き出し、それから真っ赤なスカートを翻してくるりと回り、周囲に満ちた異形の集団へとカーテシーにてご挨拶をつかまつる。ふはははは、これより諸君らは我が手駒にして夜からの使者、その名も銀の軍勢である。名前はなんとなく今考えました。
そして今からこの私は……そう、魔人ノスフェラトゥとでも名乗りましょうか。吸血鬼だからノスフェラトゥ。これでもこのノマちゃん、ネーミングセンスにはいささかばかし自信がある。ふっふふふ、我ながら中々の格好良さに、思わず気分が高揚してしまうではないか。まるで心が若返ったかのようである、具体的には中学二年生くらいに。
ノリに乗った気分の良さに、たまらず空を見上げて高笑いを一つ。ははははは! 御覧じるがよいわ忌まわしき太陽よ! この魔人ノスフェラトゥ様ちゃんの門出の日を、貴様も祝福するがよい!
ほぅれ、ホウジロザメとフクロウナギもビッチビッチと跳ね回って、我が降臨を歓迎しておるわ……ってアッツゥいぃ!? 帽子ずれた!!! 直射日光が熱っつぅいぃぃ!!?
ひっくり返ってジタバタし、帽子を目深に被りなおしてピョコンと跳ねて、白い目でこちらを見るパンダ達の前でコホンと一つ咳払いをする。はい。落ち着きました。すいません。
ともあれこれだけ揃えれば頭数は十分。まさしく完にして璧である。命令を待ちきれないとばかりにギチギチガウガウと吠え猛けるそいつらを、私はゆっくり見回すと鷹揚に頷いて、そしてぐったりし始めたサメとウナギを視界の外へと追いやりながら、腕を振るって出撃の号をかけた。さぁゆくがよい! 我が精鋭達よ!
それを合図に狼達が吠えて鳴き、ムカデとサソリが頷きあって、魚類の尻尾を掴んだパンダを先頭にゾロゾロゾロと、銀の軍勢は森の外縁へと移動を始める。うむす、これで良し。後は先ほどの鴉のように、私が連中の視界を通して状況を把握しつつ、必要に応じて指示を下せば良いだろう。
後は任せた。まあ動くのは全部、私自身ではあるんだけれども。懐から取り出したハンカチをひらりと振って、我が分身の勇士を見送り、さぁてそれじゃあオーク共にカチコミをしかけてやんべかと、くるりと身を翻したところで思わずガクリと膝をついた。
……気持ちが悪い。なんだこれ。俯きながら、吐き戻しそうになった口元を小さなお手々で覆って隠し、だらりと溢れた涎の糸に、顔をしかめて舌打ちをする。頭が痛い。目に映るものが多すぎて、脳味噌の中がチカチカする。ああ、わかった。情報量が多すぎるのか。
べっ! と唾を吐き出して、それから伸ばした袖で唇をこすり、手招きをして我が分身達を呼び戻す。私は元々人間だった。複眼を持つ昆虫でも無ければ監視カメラの類でも無い、目玉二つの人間様だ。これまでに私は人間としてしか生きた事が無い。
そんな私にとって、一度に数十の目玉から入ってくる映像を処理しようなどと、土台無理な話であったらしい。先の鴉のように完全に感覚を投入してしまうか、今しがたまでのように私自身を起点として指示を下すのであれば問題も無かったが、複数の分身を遠隔で操ろうとするに至り、ついに頭の中が耐えきれずに沸騰してしまったのだ。いや本当、どうしましょうかねこれ。
眼前でお座りをした分身達を眺めて回し、パンダのお腹に顔をうずめながら考える。さて解決法は簡単だ。私が王国軍側の状況を把握する事をすっぱり諦め、完全にこの分身達に、事の対応を委ねてしまえばよい。
だがそもそもにして、こやつら銀の軍勢は私の心配とお節介から生み出された産物である。大雑把な命令を与えて放任するには、些かどころでは無く不安が過ぎるというもの。せめて私からこのパンダ達を預かって、現地で細かい指示を下してあげる事の出来る者が居てくれれば……。
と、ここでわたくし閃きました。無いものねだりをするくらいであれば造ってしまえば良いのである。こやつらの指揮権を持ち、私の意図を汲み取る事の出来る、そんな知性ある我が眷属を。これまでに試した事があるわけでは無いが、やるだけやってみる価値はあるだろう。
さぁ思い立ったが吉日だ。先日に作り出した銀の巨腕の応用で、ぶわりと伸ばした銀髪をくるりと曲げて螺旋を描き、それを重ねて大雑把な人型を積み上げていく。あとは猛獣たちと同じように、姿形をイメージして外へ放り出してやるだけではあるのだが、さて。
頭に描くは私と同じ、銀髪赤眼の女の姿。だが下手に人の姿をしている分、失敗して知性の無いゾンビのような存在にでもなってしまえば如何にも可哀想な話である。思いつく限り、出来るだけの事はしてあげるべきか。
口に指を突っ込みながら、ほっぺたをうにーと引っ張って牙を剥き、そのままガブリと指先を噛み切って血を溢れさせ、人型に押し当てて流し込む。
血は吸血鬼の象徴だ。だからなんだと言ってしまえばそれまでであるが、なんせ私自身が胡散臭い神によって作られた、これまた胡散臭い存在である。こういった儀式的、魔術的な行為が意味有る結果をもたらしてくれるであろう事は、なんとなく期待の出来るところであった。
ついでのおまけだ、遠慮なく持っていくがいいと言わんばかりに毎度おなじみ、エナジードレイン逆噴射もどっぱどっぱとぶち込んで、そのうちに目の前の人型が、なんだかヤバイ感じにウネリグネリと暴れだしたあたりで思わず腕を引っ込める。
おおぅ吃驚。やり過ぎただろうか。はて、なんぞ妙な化学反応でも起こしたかしらんと、目を細めて見守る事しばし。やがて突然に銀の人型がほつれて破け、細い腕が宙に向かって突き出された。私と同じ、精気に欠けた白い肌の、女の腕である。
べり、べり、べりと、銀糸で編まれた型紙から人の形をした異形の存在が生まれるその様は、さながら繭を破って翅を広げる蝶の如し。やがて全身を現わした彼女は地に降り立つとよろけて倒れ、その虚ろに揺らめく瞳でもって、私の姿を見上げてみせる。
まずは成功か……いや、どうかな。顎に指をあててそのままずり上げ、口元を覆い隠してふぅむと唸る。目の前で座り込む女の姿は銀の長髪に紅玉の瞳と、概ね私の想像した通りの産物ではあったのだが、だが一点だけ、決定的に間違っている部分があった。無いのである。左半身が。
いや、厳密には言えば有る。彼女の左半身は、右半身の断面から生えたタコだかイカだかのような触手の束が絡み合い、うねり巻き付きあって人を模した何かを形成しているのだ。
私の生み出す獣たちは大方にして、眼球が無かったりのっぺらぼうだったりとどこかしら不気味な姿になるものではあったが、どうやら彼女もそのご多分に漏れる事は無かったらしい。
爪を走らせて己の首元に切れ込みを入れ、吹き上がった血を指で操りながら転がし編み込み繕って、一着の真っ赤なドレスを作り上げる。私のものに勝るとも劣らない、十二分に見目の良い代物だ。
ひとしきり、その出来栄えを確認してから頷いて、それから全裸のままに乳房を揺らし、土を引っかいて喉を鳴らす彼女の背へと羽織らせる。ついでに懐をゴソゴソ漁って銀の横笛を引っ張り出すと、これもおまけだと言わんばかりにその手を握って持たせてやった。
かつてキティーの奴に、銭勘定ばかりしていないで芸事の一つも身につけなさいと言われて持たされた一品である。まぁ案の定、ろくすっぽ練習もせずに肥やしとなっていたわけではあるのだが、それでも一応は持ち歩くようにしていたのだ。なんせ抜き打ち検査をされた際に、戸棚で埃を被っていますではバツが悪い。
赤眼の女は渡された横笛を不思議そうにポヤリと眺め、それからコロリコロリと手の中で転がしてみせる。ふむ、似合う似合う。いくら銀の怪物とはいえ女の子、どうせなら可愛く美しく生み出してあげたかったのだ。銀の横笛はそのお詫び、せめてものオシャレさんである。
さてそれでは、この子の名前は如何しようか。知性ある者として生み出した以上、元より名づけをしないなどという選択肢は存在しない。どうせなら綺麗な響きで、かつ恰好の良い名前をつけてあげたいものである。ふーむ、紅い瞳に銀の長髪。綺麗なお顔に銀の横笛。うむ、うむ、うむうむうむ。
「よし。私の声が聞こえますか? 私はノマ、貴方の創造主にして、これより魔人ノスフェラトゥを名乗る者。聞こえたのであるならば、まずはそのドレスを身につけなさい。」
相手は生まれたての赤子も同然。なるべくゆっくりと、それでいて優しく話しかけてやる。背後でゼィゼィ言っている魚類達の視線が少々ばかり恨みがましいが、今はそちらは後回しだ。がんばってくれ。
女は相変わらず虚ろな目をしながらも、それでも私の問い掛けに反応したのかピクリと一つ身じろぎし、ノロノロと立ち上がりながら、渡した衣服をパサリと広げた。よーしよしよし、ちゃんと意思の疎通は出来ているな。
「コホン。えー、それでは私は生みの親として、貴方に名を贈りたいと思います。貴方の名は、踊るフルート吹き。わかりましたか?」
古くは言霊として伝えられるように、言葉には特別な力が宿ると聞く。それがその者を現わす名とくれば尚更の事。別に前世においてそのようなオカルトを本気で信じていたわけでは無いが、かといってそのような無信心者でも蔑ろにするには気が引けるのが名前というものである。
今はちょいとアレな感じのフルートちゃんだが、きっと名づけをする事で何かが変わってくれるに違いない。そのような期待も若干込めつつ、ぴょこりと人差し指を立ててチッチと振るい、ちょっぴりおしゃまに言ってのけたその瞬間。
「おお! おお! 偉大なる我が創造主! 至高にしていと尊き御方! 魔人ノスフェラトゥ様! この踊るフルート吹き、しかとその名を頂戴致しました!!!」
彼女の赤眼はギラリと輝いて鋭さを増し、瞬く間にドレスに袖を通した異形の女は銀の横笛を胸に抱きつつ、私の前に跪いて歓喜に打ち震えてみせたのである。ちょっと変わり過ぎじゃないですかね、
……いや、確かに知ったかぶりで恰好をつけてはみたが、まさか本当にこれほど劇的な変化をもたらすとは思わなんだ。だがこのテンションの高さは正直ちょっと予想外というかなんというか、すごい変わり方したなこの子。さっきまでは知性を与えてあげられたのか、ちょっと不安になるくらいのダウナー系だったのに。
低くへりくだったままにこちらを見上げ、目をキラキラと輝かせて私の言葉を待つフルートちゃん。ああ、見える見える。きっと今頃彼女の後ろでは、そのお尻から生えた不可視の尻尾がご指示を求め、ぶんぶんぶんと振られているのだろうてよ。
「う、うむり。よいお返事です。それでは私は創造主として、貴方に最初の命を下します。周囲に控えたこの獣たち、銀の軍勢を率いて森の外縁部にその身を潜め、南に陣取る王国軍と、北から襲来するオーク達の戦闘に介入なさい。わかりましたね?」
「はい! ノスフェラトゥ様! 我ら眷属、主より頂きしこの力を以ってして、必ずや愚昧なる人間共を皆殺しにして御覧に入れます!!!」
「やめなさい。」
思わずこめかみにお手々をやって、中指の先でとんとんとんと叩いて唸る。ぬぅ、えらく好戦的な子になってしまったものだ。だがこうして接してみた限りでは、彼女は私の命令に絶対服従。言いつけを破るようには思えない。
とすれば、あとは与えてあげる命令次第か。なるべく具体的に、やるべき事とやってはならない事を提示してあげる必要があるだろう。銀の横笛を握り締め、シュンと俯いてしまったフルートの肩をポンポン叩き、ニコリと笑いかけてやる。
途端に顔を上げた彼女は再び目を輝かせると、左半身の触手の山を、わちゃわちゃぶんぶんと振るってみせるのだから現金なもの。まあこれはこれで、見慣れてしまえば可愛いかもしれない。なんだかワサビ醤油が欲しくなってきた。
「良いですか、フルート。貴方達の役目は王国軍の、つまり人間達の手助けをする事にあります。そして浅黒い肌をもったオークなる大男達、彼らは目下、私の敵にあたる存在です。ここまでは宜しいですね?」
「は、はい。人間は味方、オークは敵。ご拝命致しました。」
「結構です。ただし私にも事情がありまして、あからさまに人間側へ肩入れするような姿を見せるわけにはいきません。貴方達はあくまでも正体不明の化け物集団、銀の軍勢として戦場に現れ、それとなく人間達を守りつつ、オーク達を蹴散らして追い払うのです。ただしこれも、出来れば命までは取らぬように。」
「に、人間は味方。でも味方じゃない。オークは敵、でも殺しちゃ駄目。私達は正体不明の、銀の軍勢……え、えーと。えーと。はい。」
うーん大丈夫かなあ。頬にぺたりと右手を添えて、かくりと首を傾けながら、両手をほっぺたにあててオロオロする彼女の姿をしばし眺める。要は演じろということなのだが、産まれて初めて与えられるお仕事にしては些かばかり難しかったかもしれない。
しかし私としても、必要であるからこうしてこの子を産みだしたのだ。どうにかこうにかやり遂げて貰わねば困るというもの。
「言い方を変えましょう、フルート。貴方達はただ暴れなさい。ただし誰かに致命的な怪我を負わせたり、まして殺してしまう事の無いように。それでいて如何にも恐るべき、正体不明の化け物の群れであるかのように振る舞うのです。それで概ね、私の目的は達成されることでしょう。わかりましたね?」
「は……はい! この踊るフルート吹き、全知なるノスフェラトゥ様の崇高なるお考え、完全完璧に理解を致しました!!!」
誰も殺さぬように、ただ恐ろしげに振舞って暴れろという単純な命令が功を奏したか。彼女は背筋を伸ばして胸に手を添えると一礼し、如何にも出来る女ですよと言わんばかりばかりに鼻をフンスと鳴らしてみせる。
いや私はもう、君が少々ポンコツ気味だと知っていますからね。あーあー、そんなに横笛をピコピコと振り回してまぁ子供みたいに。いや子供か。文字道理の私の分身、血を分けた我が子である。悲しいかな、ポンコツであるのも已む無しか。
しかしそれでも、私から指揮権を与えられた事で彼女の立場は無事に確立されたと見て取れて、指揮棒のように振り回される横笛の動きに合わせ、周囲の怪物たちもワンワンギャンギャンピッチピチと、跳ねて回って吠え猛けるのであるからまぁ騒々しい事この上無い。
ふふふ、微笑ましいね。しかし盛り上がっているところ申し訳無いが時間は有限。こうしている間にも王国軍とオーク達の衝突は刻一刻と迫っているのである。
軽く右手を掲げて配下の者達の注目を集め、そして斜めに振り下ろす動きと同時、彼らは私の眼前に跪いてこうべを垂れる。ふむ、気分は良いが、どうにも慣れませんねこういうものは。こういう偉そうなのはらしくない。だが上下関係を明確にしなければ混乱を招くのもまた事実。偉そうな上役を演じるのもまた、必要なお仕事の内というものである。
「宜しい。ではお行きなさい、そして使命を果たすのです。貴方には期待をしていますよ、踊るフルート吹き。」
「はい! 我ら一同! 必ずや御方様のご期待に添えるであろうことをお約束させて頂きます! どうか吉報をお待ちくださいませ! ノスフェラトゥ様!!!」
言うが早いが、軽い身のこなしで飛び上がり、パンダの背に乗って出陣の号を発するフルート吹き。時折こちらを振り返っては触手の束を蠢かせ、にこにこわちゃわちゃと手を振ってみせる彼女に続き、銀の怪物による百鬼夜行もその行動を開始する。
私もそれに応えて腕を振り、次第に速度を上げて遠ざかっていく異形の衆を、その影が見えなくなるまで見送って、それから笑顔を消して、下がった口角をするりと撫でた。
ふむ。豚も煽てりゃ木に登る、とは言い過ぎか。だが言葉一つで心証というものは大きく変わる。気恥ずかしかろうとなんだろうと、期待とねぎらいは大切なのだ。例えその言葉の目的が察せられようと、やはり口に出して貰えれば嬉しいものである。
そういえば、私は前世で結婚もしていなかったし、子を設ける事なぞも終ぞ無かった。はてさて彼女、踊るフルート吹きは我が子というべきか、それとも今世における私の部下というべきか。
……まあ、どちらでもよいか。見事私の期待を成し遂げたのであるならば、相応に思い切り褒めてやる。いずれにせよその事に変わりは無い。願わくば、彼女が死者を出すことなくこの争いを収めてくれるであらん事を。
さて、これで事前に仕込める手は全て尽くした。細工は流々、後は私が仕上げを果たすのみである。なにせ私はゼリグ達から期待をされたのだ。ならばそれに応えてみせねば、年長者としての面目が廃ってしまう。
確か北はこちらであったなと足を向けつつ、無事にお役目を成し遂げた事でスゴイスゴイとちやほやされて、鼻高々の自分を想像する。ははは、きっと今頃フルートも、私を相手に同じ事を考えているのであろうて。犬の尻尾の如く振り回される、触手の束が目に映るようである。
子供でも大人でも生まれ変わっても、他者に認められて褒められることの嬉しいものよ。それこそが私の承認欲求を満たしてくれる。変わらんなあ、年を食っても何年生きても、ガキの時分から根っこの部分はちっとも変わらん。
我が分身である産まれたばかりの赤眼の彼女と、転生してまで生にしがみついた私に垣間見えたその共通点に、私は少しだけ鼻を鳴らし、自嘲の笑みを浮かべたのである。
…………あ。でもおそらくはフルート達の介入によって、王国の民が自らの手によって外敵を撃退したという実績により、兵達に自信をつけさせるというルミアン君達の目論見の一つが、木っ端みじんに粉砕されかねない気が。
いや……まあ、うん。そこは頭を下げて許して貰おうか。何事も命あっての物種である。皆の身の安全には代えられないだろう。うん、そうだ。そうに違いない。だから、まあ、なんだ、その。
ゆ、許してくれますよね?
不安要素爆誕。




