大怪異
「あれは……空から…………?」
「坊ちゃま!顔を伏せて目を閉じて!!!」
月明かりの照らす夜の下、まともに頼れる光といえば、そこかしこに立てられた篝火の荒々しくも頼りない炎のみ。
その静けさを食い破るようにして現れた怪鳥達を、それでもメルカーバ卿の指揮の下でどうにかこうにか打ち破った矢先に現れたのは、なんだかよくわからない銀色と金色の塊でした。
前方に見える森の向こう、空の彼方からやってきたそれは私達の上を通り過ぎると地に突き刺さって大きく跳ねて、そして巨石の残骸に突っ込むと、銀色の破片を撒き散らしながら破裂したのです。
目を見開く私の元へ、次いで押し寄せてきたのは吹き荒れる風と土煙。私はその異様な光景を前に思わず身を竦ませてしまい、そして私を庇って押し倒し、抱きすくめてくれたマリベルの身体に視界を遮られた事で何も見えなくなりました。
ぎゅうと目を閉じた真っ暗闇のその中で、彼女の身に着けた皮鎧に飛礫が当たる、ガツガツという鈍い音がやけにはっきりと聞こえます。風はビュウビュウと吹き荒れて、そして私の心臓はその音に負けないくらい、バクバクと悲鳴を上げていました。
何が起きたのでしょうか。何が落ちてきたのでしょうか。わからない、わかりません。でもだからこそ、私は早く状況を把握しなければなりません。皆が動くべき方向性を示さなければなりません。
だって私は、それを求められるだけの立場にいるのですから。それだけは、わかります。
「ぶぺっ!ぺっ!ちっくしょ!砂ぼこりで土塗れじゃねーか!?おおぃ若様!?なんか落ちてきたけどありゃなんだぁ!!?」
「わっ……わかりません!それよりもクロネコ!あなた血が!!?」
「へん!こんなもん唾でもつけときゃあ治るっての!そんな事よりシロゲ!チャトラ!トビ!お前らも全員無事だな!?怪我とかしてねえだろうな!!?」
「「「がってん!!!」」」
長い長い一瞬が過ぎ去って、ようやく解放された私の目に映ったものは、腰まで伸びた長い黒髪を土で汚したクロネコの姿でした。
その体にはいくつか小さな擦り傷が出来ており、額からも血を流していましたが、まったく堪えた様子を見せない彼女はその血をペロリと舐め取りながら、気丈にも仲間の無事を心配してみせるのです。
それに応える三人の少女達を前にして、咄嗟の事とはいえクロネコ一人の身を案じる事しか出来なかった私は自分を恥じて、少しだけ顔を俯かせました。彼女の言葉は、本来ならば私こそが上げなければいけない声であったというのに。
「ご無事ですか?坊ちゃま。」
「え、ええ。ありがとうマリベル。私は大丈夫ですが、貴方もクロネコも傷を…………。」
「この程度傷の内にも入りません、ご心配なさらず。それよりも坊ちゃま、これは少々……いえ、かなり宜しくない状況です。クロネコ達を護衛に付けますので、坊ちゃまだけでもここから退避する事を進言させて頂きます。」
クロネコ達と同じように土塗れになったマリベルが、頬から流れた血を指で拭ってメイスを構え、私を庇うようにして前に出ます。
周囲を見渡せば傭兵達も騎士達も、身体を汚した埃を拭いもせずに、目の前にいる何かを防ごうとして槍を掲げ、けれどもその矛先は定まらず、カタカタと恐怖に慄くように震えていました。
ハルペイアの脅威は打ち払いました。ならば先ほど空から降ってきたものの正体は…………。怪鳥達の暴威を物ともせずに打ち勝った大人達が、恐れ震えるようなあの存在は…………。
「ヒャヒャヒャ!駄目で元々!風を狼ごと地に叩きつけてやったが、中々どうしてアチキも頭が回るもんじゃのお!どーーぉじゃノマぁ!おぬし自慢の大狼も木っ端微塵じゃぞぉ!ヒャ~ッヒャヒャヒャヒ!ゲッホゴホガホ!!!」
空から落ちてきた大きな塊に打ち壊されて、瓦礫の山と化した巨石の残骸。その頭上で高笑いをする少女の姿は、しかし到底少女のそれとは言い難い異質極まるものでした。
それはちょっとした小屋程もの身の丈を持つ黄金色の大鷲で、しかしてその巨体の頭部に乗っているものは猛禽の頭では無く、金髪金目の少女の裸体なのです。
哄笑をあげながら翼をはためかせ、ゆっくりと地に降り立つ金の大鷲。その異形を前にして、背筋に走ったおぞけに耐えかねた私は咄嗟に唇を噛み、喉の奥からせり上がる恐怖の声を押し殺します。
お目にかかるのは初めてですが、きっとあれが、化け物という存在なのでしょう。人族、蛮族を問わぬヒトの天敵。幼少の頃よりその脅威を何度となく教えられてきた、私達ヒトを狭い世界に押し込め続ける古き怪物。
何故空からこのような存在が降ってきたのか。その経緯はわかりません。でも、ノマさんは彼女に負けてしまった。その事だけははっきりとわかりました。なにせ勝ち誇る化け物のその足元、崩れて砕けた岩の隙間からは、小さな子供の細い脚が姿を覗かせていたのですから。
落ちてきた勢いそのまま、頭から瓦礫の中に突き刺さったのだろう彼女の体はその半分以上が土中に埋まり、衝撃の激しさをまざまざと見せつけます。いえあるいは、いま見えているあの脚はたまたま綺麗に残っただけで、彼女自身はとうに粉々になってしまっているのかも知れません。
如何に優れたご加護の使い手であろうとも、あのような勢いで岩に叩きつけられた者が、無事で居られるわけが無いのです。それこそ化け物のような理不尽な存在でもない限り。
「…………っち、今度こそくたばりおったか。ノマの奴め。」
大鷲はノマさんの小さな脚を、二度三度と小突き回してぼそりと呟き、そしてこちらへ向き直るとその金の瞳を不気味に輝かせながら、射殺さんとばかりに私達を睨みつけました。
「……さぁて猿ども、よぅもアチキに、同族殺しなんぞという不愉快極まる真似をさせてくれおったのぉ。どうせアレじゃろう、あやつにおかしな事を吹き込みおったんじゃろう?おぬしら猿どもがなぁっ!」
化け物が言葉を発して身じろぎをするその都度に、風が吹き荒れて渦を巻き、ギシギシと空気が音を立てて軋みます。
目の前にいる奇怪な少女が途方も無く恐ろしい存在だという事は、嫌と言うほどに理解が出来ました。ではその恐るべき存在に対し、私達はどのように対処したら良いのでしょうか。私は、どのような指示を発したら良いのでしょうか。
マリベルは、私にクロネコ達と一緒に逃げろと言ってくれました。しかし私にはその提案を受け入れるという選択肢はありません。つい今しがた、私はこの場における一番の責任者である事を宣言したばかりなのですから。
逃げるのは結構。後の事を考えて己の命を長らえる事もまた、私に課せられた使命の一つです。しかしそれは進むべき方針を示してからの話であり、それも果たさずしてただ逃げ出すなどと、到底許されるものではありません。私が、私を許せないのです。
「あ~~~~~っ!くっそ!よりにもよって槍羽根かよ!?ノマのやつ下手を踏みやがったな!厄介な奴を連れて帰ってきやがって!!!」
「ゼリグさんは……あの化け物の事を知っているのですか?」
「昔に一回だけ出くわした事がある!あんときは死ぬ前にもっと美味い飯を食っておけばよかったと後悔したもんさ!なぁマリベル!!!」
「……正直に言って思い出したくもありませんね。坊ちゃま、あれは私が知る限りで最も好戦的で危険な化け物です。坊ちゃまの身の安全も保障致しかねます故、早くお逃げ下さい。」
ゼリグさんがガシガシと頭を掻きながら槍を担ぎ、マリベルが私の肩を押して後退を促します。そして私はクロネコ達に手を引かれ……けれども私はその手を払い除けて、唇を噛みしめながら強引に踏み止まりました。
「おい!何やってんだよ若様よぅ!?逃げろって言われてんだろ!?こっちだよこっち!?」
「ごめん!クロネコ!みんな!私はまだ下がれません!……メルカーバ卿!貴方ならこの局面、どのように対処されますか!?」
己を強引に押さえつけようとする使用人達の手をかいくぐり、斧槍を地に叩きつけたまま微動だにしない騎士団長殿へと問いかけます。
化け物と正面切って戦えるなどとは思いませんが、逃げるにも逃げ方というものがあるのです。兵達を混乱させたまま逃げ帰り、私一人が生き残ったところで何が出来るというものでもありません。
「マッドハットの坊や……いえ、ルミアン。古今東西において、私達人間が化け物と戦う方法はいつだって一つしかありません。決死の覚悟で損害を無視して打撃を与え、手傷を負うのを嫌がった相手を引かせる事。ただそれだけです。」
「医に携わる者としてみればつくづくクソみたいな戦い方だけど、過去の記録を遡ってみても本当にそれしか無いのよね~~。畜生が。」
「お嬢様!キルエリッヒお嬢様も早く後方にお下がりください!ここは危のうございます!!!」
「い~や~~よ!シャリィちゃん、こないだの白ガエルの時だってそうだったでしょう?治癒術士の仕事は癒す事。神の御業を最も必要とする人達は、常に死と隣り合わせの場所に居るものなの。ゼリグやメルがこの場に踏み止まっている限り、私だって意地でもこっから動いてやらないからね。」
メルカーバ卿が振り返りもせずに答えを発し、言葉を引き継いだキルエリッヒ嬢はお供の少女を押しのけながら前に出て、それから私の顔を覗き込むと少しだけ愉快そうに、ニィと口角を上げて笑いました。
怖い癖に、本当は逃げ出したくてたまらない癖に、震えながら踏み止まった滑稽な私の事を、少しくらいは彼女達に認めて貰えたのでしょうか。それが少しだけ嬉しくて……けれども決死というその言葉に、私はなんと答えて良いのかわからなくなって口を噤んでしまいます。
自分が死ぬかもしれないのが恐ろしいのか、クロネコ達を失ってしまうかもしれないのが恐ろしいのか。それともオーク達の撃退という使命も果たせずして手駒を失い、父の期待に応えられなくなるのが恐ろしいのか。いえ、おそらくその全てでしょう。
このまま何もしないわけにはいきません。それは分かっているのです。でもその先の事を考えてしまうあまり、私は言葉を発する事が出来ませんでした。ただ相手を引かせるだけの勝利とも言えぬ勝利を手に入れる為に、その為にみんな死んでこいなどと、ちっぽけな私の心は耐えられなかったのです。
「はっ!そう悲観するもんでもねぇぜ子爵様よう!今アタシ達の取れる手段はもう一つ!そこで伸びてるノマの奴を叩き起こして、あの化け物に放り込んでぶっつけてやる事さ!」
「隻腕!馬鹿な事を言うものではありません!あの有様で彼女が生きているとでも思うのですか!?」
「あのちんちくりんがあんな程度でくたばるようなタマだったら、アタシはそもそもあいつを一人で送り出したりなんてしちゃあいねえよ!キティー!わりぃけどまた死にかけるかもしんねぇから、そんときは宜しく頼むわ!!!」
「……本当に死んだらあんたが死ぬまでぶん殴ってやるわ。やるならさっさとやっちまいなさいな!」
叫ぶや否や、赤毛の彼女は宙に浮かぶ怪物のその巨体を回り込むようにして駆け出します。大鷲の化け物はそんな彼女を見咎めるようにして首を動かすとギシリと笑い、二対四枚の翼の振るって荒れ狂う風を巻き起こしました。
彼女の勝手な行動を咎めたい気持ちはありましたが、今は迅速な行動が求められることもまた事実。渦巻く風が空気を引き裂く不気味な音が鳴り響き、巻き上げられた小さな飛礫がガツガツと容赦なく打ちつけるその中で、己の無能を噛みしめながら出来る事と言えば、ただ信じて託すことのみ。
「ヒャヒャヒャヒャヒャ!!!逃がすものかよ猿どもめが!同朋の仇じゃ!死ね!死ね!疾く死ねぇ!!!」
「っちぃ!槍が来るぞぉ!!!全員伏せろ!頭吹っ飛ぶぞ!!!」
哄笑をあげる化け物が身に纏った風の塊を解き放ち、それと同時にゼリグさんが足元に転がるなんだかよくわからない銀色の毛玉を蹴り飛ばしながら叫びます。
放たれた突風は何条もの金色の光となって化け物の翼から飛び出すと、四方八方に広がって地に突き刺さり、岩を砕いて土を爆ぜさせ、周囲をかき回して暴虐の限りを尽くしました。当然、私達とてその暴威と無関係ではいられません。
「伏せなさい子供達!がっ!?ぐうっ!!?」
クロネコに覆いかぶさられて倒れこむ私の目に映ったものは、こちらに向かって飛び込んでくる金色の矢のその一本。それは咄嗟に射線に入り込んだメルカーバ卿によって弾かれて空へ跳ね、けれどもその身に纏った暴風でもって私達を打ちのめし吹き飛ばします。
誰のものだかわからない手足が飛び散り、どこかで真っ赤な花が咲き、空には妙に太い銀色の蔦が張り巡らされて、ぐちゃぐちゃになった視界の中で私は…………銀色のツタ?
ぐるりと回る世界の中で、一瞬だけ何も聞こえなくなり……。そして地に背中を叩きつけられた事でカハリと息を吐いたその衝撃と共に、私の元へと音が戻ってきました。
「がぁあああああああああ!!?足が!?俺の足があああああああああ!!!!?」
「足の一本吹っ飛んだくらいで男がピーピー泣くんじゃないわよ!!!アンタ達!傷口の真上を強く縛ってそいつを後ろに連れていきなさい!こんだけ人数が居るのなら神職崩れの二人や三人いるでしょう!?」
「でもキティーさんよぉ!?四肢の欠損を治せるほどの使い手なんてアンタくらいで……っ!!!」
「後で診てやるから待ってなさい!勝手に死んだらぶっ殺すわよ!!!メル!アンタは平気!!?」
「右腕一本持っていかれた!次は無いぞこれは……っ!!!」
「診せなさい!あの化け物相手に曲がりなりにも立ち回れるのはアンタくらいなんだからねぇ!さっさと治すわよ!!!」
「相変わらず人使いの荒い奴だなお前は!!?」
ぐらりと遠退きかけた私の意識は周囲の悲鳴と怒号によって引き戻されて、そしてマリベルと必死の形相を見せるクロネコ達の手によって、身体ごと引っ張り上げられて身を起こします。
周囲を見れば、化け物の放った一撃によって私達の陣形はズタズタに引き裂かれてしまったようで、私の足元にも土に染み込みつつある血の川と共に、誰かの脚が一本転がっているような有様でした。
幸いにして、使用人の彼女達は多少の擦り傷を負っているものの大きな怪我は無いようですが、その幸運もいつまで続いてくれることでしょうか。
「ひ、被害は!?状況はどうなっていますか!!?」
「見てのとおり、陣に穴を開けられました。ここからは乱戦ですよ、貴方も腹を括りなさい、ルミアン。」
誰に向かって発したのかもわからない問いの言葉に答えてくれたのはメルカーバ卿。私達を庇ってくれた彼女もその右腕をぐしゃりとひしゃげさせて脂汗を流しながらうずくまり、駆け付けたキルエリッヒ嬢によって治療を施されている最中でした。
淡い光が卿の腕を包み込み、痛々しい姿を晒すその腕を見る間に癒して元通りにしていきます。父からは前線に出るのであれば、マッドハットの娘の近くから離れるなと言い含められたものですが、それもこの光景を目の当たりにすれば得心がいくというものでしょう。
キルエリッヒ嬢の献身もあり、私もメルカーバ卿も未だ健在。命令を発すべき上位者は生きています。卿は乱戦になると言いましたが、今ならまだ整然とした撤退をする事が出来るのでは無いでしょうか。
何故かはわかりませんが、化け物は人里に入る事を嫌うと聞きます。後方の宿場まで何とか逃げ込んでしまえば、少なくともあの怪物を正面から相手取るよりは、被害を抑える事が出来るかもしれません。
「…………メルカーバ卿、撤退しましょう。ノマさんや負傷者を見捨てる事になりますが、それでもこのまま闇雲に戦ったところで全滅しかねません。」
「いーや。それは悪手ね、ルミアン君。こちらが逃げる事しか出来ない弱い獲物だという姿を見せてしまえば、それこそあの化け物は私達を狩り尽くすまで追ってきかねないわよ。それにこの最悪の状況、実はちょっとばかし好転してきたかもしれないのよねぇ。」
口を挟んだのはキルエリッヒ嬢で、メルカーバ卿の治療を終えて宙に目を向ける彼女に釣られて見上げてみれば、そこにあったのは空に張り巡らされた銀色の蔦。それはフヨフヨと浮かびながら、月明かりを反射して鈍い輝きを放っています。
幾重にもより合わさったその太い太い銀の蔦は、一部が千切れたり欠けたりしてボロボロになっており、その傷痕は何かが凄まじい勢いで衝突した事を思わせました。あれが、私達をあの致命の一撃から、紙一重で守ってくれたのでしょうか。
「……ざっと見たところ死者は無し。放っておけば死にそうな奴は何人もいるけれど、それでも密集してただの大きな的になっていたにしては被害が少ないわね。あの変な蔦のおかげかしら?まあ、誰の仕業なのかは、なんとなく察しがつくのだけれど。」
苦笑いを浮かべる彼女の視線は空を漂う蔦の束をなぞってくだり、やがて私と彼女のそれは、地に大穴を開けた金色の羽根の前で尻もちをつく、ゼリグさんの頭の上で交わります。
ぽかんと口を開けた彼女の頭上に浮かんでいたのは、先ほど蹴り飛ばされたなんだかよくわからない銀色の毛玉。いつの間にかコウモリのような翼を生やしたその毛玉はパタパタユラユラと宙に揺れて、そこから繋がる無数の蔦も、その動きに合わせてゆっくりゆっくりと揺れていました。
見れば蔦の伸びる先は私達の方だけで無く、何十と伸びた銀糸の束の一部は大鷲の化け物へとその矛先を向けており、彼女の巨体を雁字搦めに縛り上げてはジタバタと逃れようとするその動きを封じているのです。
「ヒャヒィ!?この蔦は……!?ノマぁ!!!おぬし生きておるのか!?い、いや嬉しくなんかはないぞぉ!ええぃ姿を見せい姿を!!!」
「イツマデさん……。友人を傷つけられることは、私にとって譲れない一線です。申し訳ありませんが、もう手加減をするつもりはありません。ゼリグ!キティー!みなさんも生きておられますね!!?」
「ノマ!?おまえ岩の下に埋まってるんじゃないのかよ!どこに居やがんだお前!?」
「ゼリグ!ここですここ!私はここですってば!!!」
「だからどこだよ!?ってぎゃあああああああああっっ!!?」
ノマさんの鈴を転がすような声が響くと同時、私達の頭上を覆っていた銀色の蔦がギュルギュルと巻き取られながら毛玉の中に吸い込まれ、そしてその真下から、真っ赤なドレスを身に纏う女の子の身体がスポーン!と生えてきました。
続けて毛玉の一部がパカリと割れて、深紅の瞳を持つ少女の顔が現れます。っていうかあの毛玉、ノマさんの頭だったんですか。ゼリグさんに蹴り飛ばされて目を覚ましたんですか。
あの……ちょっと体の作りが適当過ぎませんか。ノマさん。
「ふぅははははー!ノマちゃん復活!みなさんこの私が来たからにはご安心ください!すぐにそこの化け物を撃退してみせますので!!!」
「あぁそうだよなぁ!お前は灰になってもケロっと起き上がってくるような奴だったよそういえば!ったく気持ち悪りぃ動きしやがって!」
「ちょっと!心はガラスなんですよ!!?」
「うるっせー!!!それよりお前、脚はどうしたよ脚は!!?」
「あ、すいません今くっ付けます。」
頭から生やしたコウモリの羽根をパタパタとはためかせ、スカートで浮かび上がるようにして宙を漂う銀髪少女の小さな身体。脚の無い彼女はその髪の一房をヒュルリと伸ばすと、先ほど砕けた岩の隙間から顔を覗かせていた細い脚を縛り上げて持ち上げます。
千切れた両脚は糸で巻き上げられるように彼女の元へと飛んできて、スカートの中へ飛び込むとガシン!ガシン!と、骨を打ち付けるような不気味な音を響かせて引っ付きました。
それに伴いコウモリの翼も銀糸の髪の中へ溶け消えて、そして彼女は、まるで赤い靴のように血で彩られた綺麗な脚で、ピチャリと音を立てながら地に降り立ったのです。
あの…………やっぱりいくら何でも、体の作りが適当過ぎませんか。ノマさん。
「ぬぐぐぐぐぅ!ほんにしつこいのぉおぬしは!?どうあっても死なんとでも言うつもりか!!?」
「死にたくなったらいつか死ぬかもしれませんが、今はその時ではありませんね!今度こそ退いて頂きますよ、イツマデさん!!!」
「ほざけぇや!使徒様の名を騙る罰当たり者めがっ!!!」
「よくわからないことで怒られても困りますっ!!!」
開口一番、突風を吹き荒らしながら翼を振るった化け物はついに銀の蔦、いえ、ノマさんの髪による拘束を引き千切り、再び金色の槍を放つべく身構えます。
応じたノマさんもその銀髪を腕に巻きつけて纏わせると、生い茂る銀の蔦で瞬く間に膨れ上がった巨大な腕を振り回して勢いそのまま、大鷲の少女を目掛けて力いっぱい振り下ろしました。
「ヒャヒャヒャ!阿呆が!ぬしのその技はとうに破られたのを忘れたかえ!!?」
「言ったでしょう!もう手加減はしませんと!!!」
立っていられないほどの暴風が渦を巻き、地に手をついて顔を庇う私の前で、再び振るわれた巨大な翼が空気を爆ぜさせ、何条もの光の槍が放たれます。
光はノマさんの振るった銀の巨腕に深々と突き刺さり、端々を抉って弾け、蔦の破片を撒き散らしながら爆散させました。けれどもその暴威は再生と増殖を繰り返す蔦の中に飲み込まれ、果てなく大きさを増し続ける銀の腕はぐんぐんと伸び上がって、その巨大な五指をもって大鷲の少女へと襲い掛かるのです。
慌てふためく金の大鷲は何度も何度も槍を放ち、己に覆いかぶさろうとする腕を吹き飛ばそうと試みます。ですがその抵抗も瞬く間に再生する銀の蔦によって阻まれて、いえそれどころか、千切れかけた無数の蔦は別個に伸びる長い長い腕となり、四方八方から彼女に掴みかかって巻き付く事で、その一切の身動きを封じてしまいました。
「ぎっ!ぎぎぎぎぃっ!ノマぁ!なんでじゃ!?それだけの力を揮えるというに!本当になんでおぬしはぁ!!?ひゅいぃっ!!?」
「いつかゆっくりとお話をさせて頂きますよ!!!ですが今は!これでおさらばです!!!!!」
大きな大きな銀の腕はついに化け物の巨体へ達し、その身体を掴み上げて握り締め、彼女の姿を手のひらの中へと覆い隠してしまいます。
最後に聞こえたのは大鷲の少女の声にもならない微かな悲鳴で、それすらも洪水のような銀糸の中に飲み込まれて消え去ると、彼女の体は何度も何度も振り回されて…………。
「クソガキがぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁああああっ!!!覚えておれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおっ!!?次は殺す!!!殺す!!!絶対殺すぅっ!!!!!」
そして勢いよく投げ放たれた大鷲の化け物は、夜空の向こう、森の彼方へと飛ばされていき、呪詛の言葉を撒き散らしながら、遠く、遠くに消えていったのです。
「なあ、若様。アタイ達、助かったのか?」
「そう……思いたいところなんですけど…………しかし、これは…………。」
化け物の脅威は去りました。しかし目の前で起きた事のあまりの異常さに、誰も、それ以上の言葉を発しようとはしませんでした。
膨れ上がった巨大な腕をしゅるしゅると巻き戻す目の前の少女の事を、英雄だと称えれば良いのか、化け物だと恐れたら良いのか、それすらもわかりません。
ただ一つ確かなのは、彼女は、ノマさんは明らかに先ほどの化け物を上回る力を持った存在であり、その気になれば容易に私達を皆殺しにする事が可能だという事。これに異を唱える者はいないはずです。
恐る恐ると顔色を窺う私に向かい、ぞっとするほどに美しい銀の少女が、ゆっくり、ゆっくりと近づいてきます。
ノマさんが近づくに従って、何人かの兵達が怯えたように武器を構え、その震える矛先を彼女へ向けようとしましたが、けれどもそれは、メルカーバ卿やマリベルの手によって強引に押さえつけられました。
彼女達も察しているのでしょう。もしもあの少女がその気になれば、到底、私達ヒトに抗するすべなど有りはしないという事を。
あるいは、彼女は人の世に紛れ込む事を覚えた化け物であり、自らの餌を他の仲間に奪われる事を嫌った結果として、私達の事を助けてくれたに過ぎないのかもしれません。自らが生み出した、そんな突拍子も無い考えに怯えてしまうほどに、私の心は泣き叫びたくて逃げ出したくて、もう限界でした。
そして彼女はついに私の目と鼻の先にまでやってくると、無様に身を震わせる私と、私を庇うように前に出たクロネコ達を前にへにょりと少し眉を下げ、それから悲しそうな顔をして、ペコリと頭を下げたのです。
「……ルミアン様、申し訳ございません。怪鳥達の対処は任せて欲しいと自ら言い出しておいてこの体たらく、本当に何と言ってお詫びをすればよろしいのか。」
「……え?え?あ、あの、確かに結果として私達は戦いに巻き込まれてしまいましたが、それでも怪鳥達の大半はノマさんが追い散らしてくれたのでしょうし……な、なにより貴方は、あの大鷲の化け物を退けてくれたではありませんか。」
予想外に下手に出てきた彼女の態度に、しどろもどろになりながらも言葉を選んで返します。これは彼女の本心でしょうか。それとも、こちらを油断させて取り入ろうとする罠でしょうか。
「いいえ、いいえ。本来であれば私が怪鳥達を追い払う事を、きちんとルミアン様を通して全体に通達したうえで、このような事態への対処を整えてから事に当たるべきであったのです。それを私は自分の力に酔いしれて、迂闊に皆さんの事を危険に晒してしまいました。どうぞ、どのような罰でもお与えください。」
ノマさんは語りながら俯いて、それきり顔を上げようとはしませんでした。そして小心者の私はといえば、正直に言って背中に伝う嫌な汗が止まりません。
彼女の言う事は最もです。ノマさんの勝手な行動が引き起こした一連の事態について、しかるべき罰を与えなければ皆に対する示しというものがつきません。それは、わかっているのです。
ですがいったい誰が好き好んで、あの異形を見せつけられた直後に彼女に対して罰などと言いだせるものでしょうか。万が一、それでこの子に逆恨みでもされようものなら間違いなく命は無いでしょう。下手をすればこの場で挽肉にされかねません。
「ねえノマちゃん。罰だって言うのなら、ノマちゃんのあの他人に精気を与える変な術。あれをそこらで転がってるくたばり損ないにばらまいておいて頂戴な。千切れた手足は後で私がくっつけておくから。」
「お安い御用です。あの……死者は、出ていないのですよね?」
「幸いな事にね。死にかけはたくさんいるけど、私がここにいる以上はすぐに処置が出来るし大丈夫でしょう。ふふん、やっぱり治癒術士の本懐は最前線でこそ遂げられるのよねぇ。」
「キルエリッヒお嬢様、そのお心がけは立派だと存じ上げますが、でもお嬢様の身に何かあったらと思うと私は生きた心地がしませんよぅ……。」
固まってしまった私に助け舟を出してくれたのはキルエリッヒ嬢で、お供を引き連れた彼女は私とノマさんの会話に割って入ると、するりと話を引き取ってくれました。
父から話を聞く限り、彼女とゼリグさんはこの恐るべき少女と既に二月以上の時を共にしているという事ですが、彼女達はノマさんの事を恐ろしいとは思わないのでしょうか。いえ、あるいは彼女達は既に、この銀の少女の怪しげな術で狂わされてしまっているのかもしれません。
そうです……考えてみれば、大体にしておかしいのです。ノマさんはあの大鷲の化け物に対し、その圧倒的な力を示しました。にも関わらず、彼女はあの化け物を遠く彼方に放り投げたに留まって、私達の目の前で殺める事をしなかったのです。
本当に彼女が化け物達と敵対しているのなら、あの場でその巨腕を持って、握りつぶすなり絞め殺すなりの事は出来たはず。それをしなかったという事は、やはり彼女の正体は人の世に浸透した化け物であり、裏では他の化け物と繋がって私達の国を乗っ取ろうとしているのかもしれません。
…………なんという事でしょうか。皆、あの銀髪の少女に対する恐怖のあまり、声を上げることすら躊躇してしまうその重圧のあまり、この真実に気づく事が出来ないのでしょう。そうです!そうです!きっとそうに違いありません!!!
「……なあ、治癒士のねーちゃん。なんかうちの若様が目をグルグルさせながらブツブツ言ってるんだけど、大丈夫かアレ?」
「んにぃ~~~、おやびん……私もなんだか、頭の中がグチャグチャして気持ち悪いですぅ…………。」
「んー、極度の緊張からくる恐慌ね。こうなると正常な判断が出来なくなってしまうのよ。しばらく静かにしていれば治るわよぉ。」
「いや、キリー……そういう程度の話じゃないだろう。正直私も、あの少年の考えている事は手に取るようにわかるぞ……。お前はあの娘の正体を知っているのか?」
「まあ少しはね。たまに勝手に噛みついたりもするけれど、基本的にお菓子と血を与えておけば大人しいもんだから、ノマちゃんっていう生き物はああいうもんだと思って慣れなさい、メル。」
「あ、あれを御したまま行軍を続けるのか……。大丈夫なんだろうなおい。」
クロネコ達が私と少し距離を取り、キルエリッヒ嬢に何やら耳打ちをしているのが聞こえます。きっと彼女もノマさんの脅威を前にして、どう振る舞って良いのかを判断できなくなり混乱しているのでしょう。
ノマさんが大人しく鳴りを潜めている今の内に、王国の未来の為、そしてクロネコ達の為に、私は行動を起こさなければならないのです。そう、私は!私が!えーと!えーと!!!
「ノマぁぁっ!お前のせいでまーた死にかけたじゃねーか!罰が欲しいっていうんならくれてやるよおらぁぁぁぁぁん!!!」
「んにょああぁっ!?へっぶぅ!!?ちょっ!?それでもゼリグの事も皆さんの事もちゃんと助けてあげたじゃあないですかぁ!?」
「うるっせえ!いい加減お前は自分の力を制御する事を覚えろって言ってんだよ!脳味噌はいってんのかお前!」
「こっちだってやろうと思ってやってるんないんですー!不可抗力ですー!ふーかーこーうーりょーくー!!!あ痛ぁ!!?」
ゼリグさんの声が聞こえたと思ったその瞬間、風を切って飛んできた赤い槍がノマさんの後頭部に突き刺さり、ビッタン!と倒れた彼女はそのまま跳ね返るように起き上がって抗議の声をあげました。
なんか、こんなビヨンビヨンと起き上がるオモチャ、あったなあ。などと考えながら真顔になった私の前で、走り込んできたゼリグさんに頭突きを放とうとしたノマさんは足払いをかけられて転倒し、頭を踏みつけられながら刺さった槍を引き抜かれます。
キュッポン!!!と、如何にも中に何も入っていなさそうな軽い音を立てるその姿を前にして、やっぱりこの子にそんな大それた事というか、裏表を使い分けられるようなオツムは無さそうだなあ…………。と、考えを改めた私は夜空を見上げ、深くため息を吐いたのでした。
きっとこの少女は人知を超えた、何か途方も無く恐ろしい…………ただのお馬鹿なのかもしれません。




