箱庭の世界
気が付いた時、まず最初に匂いが鼻についた。
草花の青臭い匂いと土の匂いを感じる。ここはいずこかの山中であろうか。ぼやけた視界の中で定まらなかった輪郭が形を持ち始めると、果たして。
周囲に視線を巡らせればまばらに生えた木々と下草が視界に入る。鬱蒼とした大森林というわけでも無く、間伐されて人の手が入った跡が見られることから、ここはさしずめ人里近くの里山といったところだろうか。
都心で暮らすようになってからはすっかり足が遠のいてしまったが、子供の頃は昆虫やトカゲを追ってこのような場所を駆け回ったものだ。だが私は追いかけるのが楽しかったのであって、追いかけられるのは御免こうむりたい。
懐かしさと一抹の寂しさを噛みしめながら立ち尽くす私の前に、痩せた犬がのそりと姿を現した。
野犬であろうか、狼であろうか。私のような素人にはその区別に自信を持てぬが、痩せ細り、目だけが異様に輝いたその姿は、まさに飢えて彷徨う野犬といった体である。
恐怖を感じる。設定どおりであれば野犬程度この体はどうにでもねじ伏せられるはずだが、私が人間であった以上は本能から来る恐怖に逆らえないのだろう。
怪我も恐ろしいが感染症も恐ろしい。もはやそのような事を恐れる体では無いのだと頭では理解しているが、足がすくみ、体が震えてしまう。私は今、どうするのが正しいのだろうか。
かつての生の中で、危険な野生動物と正面から向き合う機会など終ぞ無かった。己の過去の経験から回答を導く事が出来ずに立ちすくむ私に向かって、野犬が距離を測るように近づいてくる。知れず、私の足は後ろに下がり、たたらを踏んで倒れこんだ。
「熱い!熱い!!?」
途端、火勢を間近にしたような熱を感じた。熱した調理器具に触れてしまった時のような痛烈なものでは無いが、耐えがたい灼熱感がある。
これは果たしてなんであろうか。痛いのならばまだわかる。倒れこんだ拍子に、尖った木でも刺さってしまったのであろうから。それとも、混乱した私の感覚が、熱と痛みを取り違えているのであろうか。
気が付けば、倒れこみ隙を晒した私の足に野犬が食らいついていた。灼熱感の原因はこれであろうか。野犬は口から泡を吹きながら牙を突き立てようとしているが、彼の一撃は私の肌に通らぬようである。
唸り声をあげながら悪戦苦闘する犬を、呆然と眺めること、しばし。次第に落ち着きを取り戻してきた。犬は私を傷つけることが出来ぬのだ。自らの優位性を確認できた事で、考えを巡らす余裕が生まれる。
犬は私を傷つけてはいない。ではこの、未だ消えぬ灼熱感の原因は何なのだろうか。己の身に何が起きているのかわからぬ。
暴れる犬を足にぶら下げ、体のあちらこちらに触れてみたり、周囲を見回したりしていると、私がつい先ほどまで立っていたであろう場所は木々の影になっている事に気が付いた。一方で、いま私が倒れこんでいるこの場所は木洩れ日が揺れているのだ。野犬の影により風情などとは程遠い踊りを見せるそれを、私は思わず睨みつけた。
日光か?この灼熱感の原因は。私は、吸血鬼の弱点を克服しているのでは無かったのか?
この身が傷ついていない以上、強靭な肉体を持っていることは確かである。邪神の言が全て偽りであったわけでは無いようだ。だが、こうして約定を違えられている事に気づいてしまったからには、私が設定したこの体が実際にはどのような状況になっているのか、早急に確認せねばならぬだろう。
早速とばかり、己の脚にかじりついた犬を見つめて私に従えと念じてみるが、魅了や動物支配はその力を発揮せぬようだ。ならばせめてこの縛めを脱しようと、体を霧や霞へと変じるよう念じてみるが、どれほど試せどなんら変化を生じることは無かった。どうやら私が振るう事の出来る力は、この体の強靭さだけであるらしい。
まあそれが確認出来ただけでも幸いか。とりあえずはこれをなんとかするべきかと、犬の頭に手をかけて引きはがそうとしたものの、手が小さくて上手い事掴めない。強引に力を籠めてしまうとその部分だけ握りつぶしてしまいそうである。さながら熟れ過ぎたトマトを扱うかの如し。
それでも、自分の頭にかかった圧力に驚いたのか、野生動物として自分より強いものを避ける本能なのか。犬から力が抜けたところを、やや強引に引きはがしてやった。
さてこの犬をどうすべきだろうか。口から泡を吹き、血走ったその目は私に狂犬病という言葉を連想させる。処分すべきなのだろうが、平和な世に暮らした元、一市民として、動物をこの手にかけるという事については少々どころでは無い抵抗があった。
だが、この犬が襲い掛かったのが私では無く、ただの子供であったのならどうであろうか。ここはおそらく里山である、そのような、取り返しのつかぬ事態がいつか起こるであろうことは、十二分に想像が出来た。
殺すべきか。いや、殺さねばならぬ。覚悟はできた。できたつもりだ。
せめて、痛みや恐怖を感じる事の無いよう、犬の頭の両側面に優しく手を添え、一息に握りつぶした。
眼球と脳漿が飛び散って、私の身体を真っ赤に汚す。握りしめた手を開けば、頭がい骨であろうか。白くて硬そうなものが粉々になり、白と桃色の混じった液体と共に、私の指に絡みついているのが見てとれた。だが不思議と吐き気がこみ上げてくることも無い。
凄惨な絵面に、喉を握りつぶすべきであったかと考える。が、それでは即死させてあげられたかわからない。これで良かったのだと己を納得させた。
犬は死んだ。私が殺した。せめて埋葬はしてやるべきであろう。感染症の発生源になるやもしれぬし、何より私が心情的に楽になる。犬の為では無く、これは私の為の埋葬だ。
地面を強く蹴り飛ばせば、腐葉土や朽木が爆ぜ、土砂のように舞い上がる。ぽかりと空いた穴に犬の体を横たえて、犬の頭だったものも拾い集め、体液の飛び散った周囲の土と共に穴の中に入れてやった。
名も知らぬ花を一輪、摘み取って備えてやり、形ばかりの墓の前で手を合わせる。手を合わせるが、何に祈るの言うのか。仏様にでも祈っておこうか。
それにしても、吸血鬼らしい能力が身体能力しか無いとはおそれいった。これでは吸血鬼少女では無く、ただの怪力少女である。とんだアマゾネスだ。この分では、日光以外の弱点もそのままなのでは無かろうか。この体の検証が必要だろう。
手を合わせたまま思いは千々に乱れ、最終的にあの黒いモヤが、いやらしい笑みを浮かべる様が頭に浮かんだ。
私の慌てふためく様が、お前の愉悦か。邪神め。