月の獣
本作はグロテスクな描写を含みます。
「あああ!もう!!やっぱりお主みたいな得体の知れぬ奴に関わるんで無かったわい!!儂をこんな厄介事に巻き込みおってぇ!!!」
「じゃあかましい!!こいつにはお前さんも迷惑してるんでしょうが!つべこべ抜かさんと手伝わんかい!!」
満月が照らす森の中、化けガエルが咆哮をあげて襲い掛かり、丸太のような腕を振るって小さな私を吹き飛ばす。こなくそ、また吹っ飛ばされてなるものかと、私も腕を伸ばしてしがみつき、突き刺した指が悲鳴をあげて、軋んで砕けて圧し折れるのも構わずに、怪物の腕に齧りついてその懐に潜り込んだ。
勢いそのまま、腕を振りかぶって爪を立て、怪物の胸板に叩きつける。脚を振り回してその膝を、ぶよぶよとした白い肌にめり込ませる。怪物の表皮を削り、脂肪層を吹き飛ばして肉片が飛び散るが、血の一滴も流れやしない。
昨日もそうだった。先ほどの攻防でもそうだった。私は一切の加減などするつもりも無く、殺すつもりでこやつから精気を、血液を奪おうとしておるのに、こやつはそのいずれにも抵抗し、あろう事か血を流す事すらしないのだ。こやつ本当に生き物だろうか。
だが私が爪を突き立てればこやつは呻き、肉を抉り取れば苦し気な叫びをあげる。そして時折なにやら不気味な呪言を唱えては自らの傷を癒すのだ。一見して千日手のように見えるものの、傷を癒す必要があるということは、癒さねばこの怪物とて死んでしまうという事であろう。
正直自分でももう何がどうなってんだかわからぬが、とりあえずこの身は灰になっても死なず滅びぬ不死身の身体。削り合いならば私の方に一日の長がある。例え殺し切る事が出来ずとも、こやつが動かなくなれば勝ちなのだ。殺し尽くすまで殺してやる。
唸り、抉り、噛みつき、引き千切り、暴力の限りを尽くして怪物の身体を切り刻む。そのうちに口角が上がり、声が漏れ、ひゅーひゅーと喉から音を漏らしながら、知らずのうちに私は笑い声をあげていた。
「あは!あはははは!!あひははははあははははははははははははははははははははひゃぁ!!!!!」
くひひひひ、楽しい!楽しいのお!!笑いが止まらぬ、なぜにこんなに楽しいのだろうか。なぜにこんなに笑えるのだろうか。
ああ、そうか。こやつが私の敵だからだ。こやつが、殺しても構わぬ私の敵であるからだ。私には、この怪物を誅殺すべき正当なる理由がある。私が正義で、目の前の怪物は悪なのだ。よってなんら良心の呵責に苛まされる事も無く、私はこやつを殺しても良いのである。
ひひひ、一切の遠慮無く振るうことの出来る暴力の、なんたる愉悦であることよ。まさに愉快痛快である。ははははははは。
怪物も私の身体を引き剥がし、叩きつけ、引き千切り、踏み潰して抵抗するが、先日に比べるとその動きは幾分かキレが無い。見ればやつの身体には白い糸が絡みつき、それは時にねばつき、時に鋼の如き強度をもって、怪物の動きを封じ、阻害し、邪魔をしているようである。
ちらりと視線を向けてみれば、距離を取り、私を盾にしたマガグモが、方々を跳ね回りながらひゅんひゅんひゅるりと糸を吐き、あるいは糸球を投げつけて、私の事を援護してくれていた。ははは、なんだかんだでやってくれるじゃあないかあの子、状態異常とかまるで魔法使いのようである。これが終わったら私の腕の一本でも奢ってやろうか。きっと美味いぞ、あはははは。
優秀な後衛に気を良くし、口角を吊り上げながら右腕を振り上げて、怪物の脳天を打ち砕かんとしたまさにその時、私の右腕に糸がぶっ刺さって骨を貫き、肉を引き裂き、その腕を半ばまで切り飛ばした。おいごらぁ!!
「こらぁ!マガグモぉ!私にも当たってんぞぉ!!?ちゃんと狙わんかいボケェ!!!」
「うっさいわたわけぇ!!文句があるならお主のほうが避けんかいど阿保!!そんでもって儂の盾になれえ!!!」
すっぱん! と綺麗にぶっとんだ自分の腕に驚愕し、思わず顔を向けて苦情を叫ぶ。やらかした当人から返ってきたのは罵りの言葉であったものの、なんかもう彼女の顔はめちゃくちゃ必死で、かえって逆に私の方が落ち着いた。あ、うん、なんかごめん。
視線を正面に戻してみれば、目の前にあったのは節くれだった怪物の白い指先。ものの数秒のやり取りではあったものの、怪物から視線を逸らしたその数秒は奴にとっては十分なものだったようで、イソギンチャクだかタコだかのようなその不気味な頭をがぱりと開き、私に向かって不快な音を吐き出した。
「……ニャル・シュタン、ニャル・ガシャンナ。」
途端、右腕の傷口に熱が走り黒い淀みが湧き出して、傷口を膿ませ腐らせ、私の身体を蝕みだす。ゼリグの身体を蝕んで彼女の身を苦しめた、あのみょうちきりんな呪いの類か。っち、厄介な絡め手を使いおるわ。
すかさず残った左手で右手の二の腕を掴み取り、肩口から関節ごと力任せに引き千切る。ゼリグの時は苦しませるつもりで加減でもしておったのか、私の右腕は見る間に黒ずみ腐れ落ち、方々から骨を覗かせて煙を上げ始めた。うわぁゾンビみたい。
「っは!小手先の小技を使いおって!おらぁ!!お前も男なら身体一つで勝負せんかい!!食らえやぁ!!!ロケットパーーンチ!!!!!」
思いっきり上体を仰け反らせ、左手で握りしめた私の右腕を怪物の頭めがけて投げつければ、肉が腐り、剥がれ落ちて半ば白骨と化した私のお手々は綺麗な直線を描きながら、ずぶりと怪物の頭に突き刺さる。ひゃっはー! ナイスシューッ!!
衝撃に耐えかねたか突き立った私のお手々は四散して、骨の破片がばらりばらりと降り注ぎ、私はといえば早くも再生した右腕と左のお手々を打ち鳴らして、感嘆の声をあげながら思わずいぇいと飛び跳ねた。
とはいえ注意一秒怪我一生、人は学習しないもの。次の瞬間には大きく振り上げられた怪物の大振りが私の顔を捉えて振りぬかれ、首から上がぐちゃりと潰れて吹き飛んだ。
ぎゅぺ!! っと鳴き声をあげる私の頭が弾け飛び、頭蓋の欠片と脳漿を撒き散らしながらたたらを踏む。どうやら調子に乗り過ぎてしまったようだ。いやはや、本当に怪我は一生とはよく言ったもの。いやもうこれ怪我どころじゃないけども。
「お、おいノマぁ!!大丈夫か!?生きておるのかお主!!?」
後方に居たマガグモが悲鳴をあげる。そりゃ当然だ、もし私がやられようものなら次はあの子の番である。見たとこ彼女は人間にとっては十分過ぎるほどに脅威であろうが、このカエルを相手にするにはいささかばかり荷が重い。早急に声をかけて安心させてあげなければ。
「ごぼ!!がばっ!!げぼるぶぼばっしゃああああああああぁぁっぁぁあ!!!がぼべ!!!」
「ひぎゃああああああああああああああぁっぁあっ!!お化けぇぇぇぇぇぇっぇええ!!!!!」
大丈夫だ! すぐに治るから問題ない! と叫ぼうとしたのだが、頭が無いので声なぞ出せず、私の食道だか気管支だかから空気が漏れて、盛大に血液を噴き出した。うおお、噴水みたい。
首の切断面から血を噴き上げながら、手足をじたばた振り回して大丈夫だよアピールをしてみるが、逆効果であったのか既に彼女は口をぱくぱくとさせながら涙目である。うん、私もキモいと思う。正直すまんかった。
頭が無いのに物も見えるし音も聞こえる、マジでどうなってんだ私の身体。さすがの邪神お手製摩訶不思議ボディーというべきか。っていうか頭が元に戻らない。なんか治らないんですけど頭。あれ、これやばくね? 今の衝撃でなんかバグったか私の身体!?
物こそ見えるが頭が無いせいか重心が崩れてバランスがとれぬ。私がふらふらわたわたと無様に踊っている内に、怪物は頭に突き刺さった私の手首を抜き去って放り投げ、この身を叩き潰して止めを刺さんとその両の腕を振り上げた。
うおお! 南無三! 私を貫くであろう衝撃を覚悟して、思わず両手で頭を守ってしゃがみ込む。とはいえ頭が無いのでその手はすかりと空を切り、べちりと柏手を鳴らして……けれども待てど暮らせど、一向に私の身体が吹き飛ぶ様子は無い。ん、なんだ。何が起こった。
はてなと思って上を向けば、怪物の背後から何者かが襲い掛かったと見てとれて、あやつは金切り声を上げながら背後のそいつに掴みかかり、その身を震わせて暴れ狂っている。
一瞬マガグモが回り込んでくれたのかと思ったが、彼女は怪物の方を指さしながら、今もぱくぱくと蒼白な顔をして金魚の真似事をするばかり。なんやねん、今度は何が出てきたっちゅーねん。これ以上厄介事は御免じゃぞ。
見れば怪物の肩口に齧りつき、痛打を与えていたのは巨大な銀色の狼であった。
私の身体ほどもあろうかというその頭部には目も鼻も無く、のっぺらぼうの中に真っ赤に裂けた口だけがやたらと悪目立ちをするその異様。そしてそいつはぞろりと生えそろった牙でもって、今にも八つ裂きにしてやらんとばかりに怪物へと食らいついているのだ。
マガグモの様子を見るに、彼女と同じ土着の化け物というわけでは無さそうだ。このはぐれと同じ、いずこからの流れ者であろうか。
また面倒な奴が出てきたものだと歯噛みをするが、見たところこの二匹の怪物は互いに敵対をしているようで、ならばこれは好都合。こやつらが争っている内に態勢を立て直して、って、ここでわたくし気が付いた。
銀色の狼の、のっぺらぼうのその頭部に、なんか顔がはりついているのである。みればそれは剥ぎ取られたかのような少女の顔で、美しくも不気味に歪んだ顔の皮膚が、狼の額のあたりにべちょりとへばりついていらっしゃるのだ。
一瞬思わず引き攣ったが、よくよく見ればなんか見覚えのあるその顔は、水鏡に映る私の顔に瓜二つ。うわ、なにあれキモ。
いや、っていうかもしかしてこの狼、私か?私の頭か?これ?
試しにその爪であやつの腹を引き裂いてやれと念じてみれば、銀色の狼はそれに従うかのように動いてその爪をカエル野郎に突き立てる。
たまらず咆哮をあげた怪物が狼を殴りつけ、掴み上げてその首を力任せにもぎ取れば、とたんに狼は真っ赤な血を吹き出しながら四散し消え失せ、その血煙はこちらまで戻ってきて私の頭部を形作った。
なぁるほど、こりゃあ面白い。なにがなんだかよくわからんが、ともあれこの土壇場で動物変化が解禁されたようである。ふはははは、今から私はノマちゃんマークIIだ、覚悟せえやこのクソガエルが。
治った頭をぺとぺと触り、ぺろりと舌なめずり一つ。さあてどんな動物に化けてやろうかと頭に浮かべ、調子ぶっこいて隙を晒した私は怒り狂った怪物に掴み上げられ、右手をもがれ左脚を千切られ、頭を引っこ抜かれてそのまま地面に叩きつけられた。学習せんなー。私。
っていうかまたかよ!!またノマちゃんデュラハンモードだよ!!今度は手足まで半欠けでさぁ! ええ加減にせえよこらぁ!?
地に叩きつけられ残った手足もあらぬ方向に圧し折れて、骨が飛び出し肋骨が折れ砕け、血を吹き出しながら弾んで転げて転がって、吹き飛ぶ身体の側面からめきりと突き出ましたは八本の蜘蛛の脚。土を引っかき爪を立て、岩を砕いて急制動。
とっさにやってみたがなんかマガグモみたいになったなこれ。悪く思わんでくれよ、わざとじゃない。小さな胴体から生えた八本の脚は高く長く伸び、私の身体を持ち上げて身を起こす。
タカアシガニっていうかアメンボみたいな見た目になったノマちゃんボディーの、その千切れた首からはカミキリムシのような顎が生え、ガチガチと音を鳴らしながら怪物のその身を引き裂かんと、私の胴体は猛然とカエル野郎に襲い掛かった。おらぁ! 死にさらせやボケナスがぁぁぁぁあ!!
怪物も慌てた様子で身構えて、なんかガサガサとキモい動きで迫る私の体を迎え撃つが、千切れて四散したのは私の胴体だけではない。私の頭部は再び巨大な狼となって立ち上がり、右腕は銀の大蛇となって怪物の身を束縛し、左脚は大百足になってその手足に食らいつく。
いや、もうこれ、完全にクリーチャーですね私。ゼリグをはじめ一部の者には吸血鬼であると明かした私ではあるものの、さすがにちょっとこの姿は見せられない。こんなん見られようものなら問答無用で人類の敵である。
と言うかそもそもこの見た目では会話が通じる相手にすら思えんぞ。およよよよ。
「……ニャル!シュタン!!ニャル!ガシャンナ!!ニャル!シュタン!!ニャル!ガシャンナ!!」
怪物が手足を振り回して狂乱し、殺到する私の身体達を引き剥がしながら、矢継ぎ早に呪いの言葉を投げかげる。そのたびに大蛇が絞め殺され、百足が踏み砕かれ、狼が腐り落ちて銀の肉片を零しながら崩れるが、どす黒い血の塊となって飛び散ったそれらは私が一睨みをすると、途端に元の姿を取り戻して再び怪物に襲い掛かるのだ。
ふはははは、どうだ怖かろう!怪物めが!!こうなったノマちゃんは無限湧きである。狼を殺そうと、百足を八つ裂きにしようと、大蛇を引き千切ろうと、元は私の身体の一部であるそれらは瞬く間に再生し、あるいは私の身体の一部として戻り、再びその姿を変じてあやつに襲い掛かるのである。いやもうマジでこれは人には見せられない。あまりにも怖すぎる。
私の胴体がそのカミキリムシの如き顎を鳴らしてゲッゲッと笑えば、死に物狂いとなったカエル野郎は狼たちを強引に振り切って我が胴体に掴みかかり、蜘蛛の脚をむしり取ってその身を二つに引き裂いた。着眼点は悪くない。狼たちを操作している本体がこの胴体であろうという、その着眼点は悪くない。
だが私の意識がどこに宿っているのか、もはや私自身にもよくわからぬのだ。あるいは先ほどから流れ落ち、飛び散り、渦を巻くこの血液こそが、私の本体なのかもしれぬ。
力任せに縦に引き裂かれた私の胴体はそれでもなお動きを止めず、その断面から零れ落ちる血と臓物に交じるようにして、銀の髪を輝かせた私の上半身がぐにゃりと生える。
左右の断面からそれぞれに生えた私の半身の顔は真っ黒で、闇そのもののように渦を巻き、真っ赤に裂けた口からケラケラと笑い声を吐き出して嘲笑う。やがて胴体部分ごとその姿が溶け砕け、幾百の顔の無いハゲタカにその身を変じて飛び立って、それら銀色の群れは怪物の肉に向かって殺到した。
大蛇が締めあげ、大百足が噛み裂き、狼が喉元に食らいつく。そして怪物の露出した肉に何百と言うハゲタカが殺到し、その肉をついばみ食らい尽くす。
「……クトゥルー!フタグン!!ニャルラトテップ!ツガー!!シャメッシュ!シャメッシュ!ニャルラ……ッゴグッ!!」
怪物も腕を掲げ、呪言を唱えて傷を癒そうとはするものの、その広げた大口に向かって何十というハゲタカが殺到し、触手を引き裂き口を突き破り、喉に詰まって願いの言葉を封じてしまう。
その間にも狼たちの動きは止まらない。意思を持った一個の生物のように怪物の身に殺到し、肉を引き剥がし、その身を喰らい、見る間に怪物のその身は小さく痩せ細って擦り減って、やがてそいつは観念したかのように膝をつく。
「イア! イア! イア! イア! イあ! いあ! いあ! いぁ!! いあぁぁぁあぁあ!!!」
その口から銀色のハゲタカをごぶりと吐き出し、あるいは口内でかみ砕かれたか、どす黒い血の塊となった私の一部を吹き出して、怪物は救いを求めるように月に向かい、手を伸ばして一つ吠え、それきり、だらりと、動かなくなった。
……キティーは、こやつの呪言を白の神への祝詞だと言った。こやつは最後に、その信仰する神へと助けを求めたのだろうか。月明かりの中、天に向かって伸ばされたまま痙攣するその腕は、信じる神に裏切られ、見捨てられ、嘲笑われた愚かな狂信者のようであると、なぜだか私には思えてならない。
こやつが本当に私と同じ、あの邪神の誘いに乗って、自ら愚かな選択を選んでしまった地球人類であったのか。もはやそれは確かめようも無い。だがそうだとしても、私が殺したのが元同胞であったとしても、私は後悔はしないだろう。
なぜならこやつは、私の敵であったのだから。
狼の身が溶け崩れ、渦を巻く赤い液体となったそれに百足に大蛇、ハゲタカの群れが殺到し、巨大に膨れ上がった血の塊はやがて収縮し形を成してパシンと弾け、血のようにどろりと赤い、豪奢なドレスを纏った私が姿を現した。
スカートの裾をちょいと摘まみ、もはや物言わぬ肉塊と化した怪物へ、ちょんと一つカーテシーを決めて見せる。さようなら、化け物。ごきげんよう、また会う日まで。さようなら。さようなら。
腕を振り上げ、指を折り曲げて何かを掻きむしるような形を作り、そのまま力任せに地を抉る。抉って抉って掘り返し、ぽっかり開いた大穴に怪物の身を横たえて、野に埋めた。
怪物であろうと、敵であろうと死ねば仏よ。死者を鞭打つ趣味は無い。南無阿弥陀仏。
あーー、しかし疲れた。いかに死なぬ身とはいえ、自分の意識がどこにあるかもわからぬような分裂モードは精神的なストレスが大きい気がする。これは慣れるまでこっそり練習が必要だろうか。
とはいえ王都の中でこんなん見つかろうものなら、今回なぞ比較にならんほどの騒ぎになるであろうことは目に見えているのだ。いやほんと、どーっすっかなー、これ。
まあ考えていてもしょうがない。当面の危険は去ったのであるからして、今はぐったりさせて貰う事としましょうか。
んーーーっ!っと一つ伸びをして、身体を投げ出して大の字にぶっ倒れて横たわり、私は大きく欠伸をしてみせた。あー。疲れたー、つーかーれーたー。甘い物食べたーい。
「あー……ノマ、おい。お前、今でもノマじゃよな?あの怪物は、死んだのか?おい?」
夜の闇夜の森の中、そこら中が抉れ弾けて木々が圧し折れた惨状で、どこに隠れておったのか、マガグモの奴が樹木を伝って降りてきた。そういや君、途中から姿が見えなくなってましたね。逃げとったんかいこら。
「ちゃんと倒しましたよぉ、私がね。っていうか酷いじゃあないですかマガグモ。途中までは手伝ってくれたのに、私がやられそうになった途端に逃げて隠れてしまうなんて。」
「阿呆、あんな悪夢のような有様を見せられて逃げんほうがおかしいわ。で、ノマ、お主、今でもノマじゃよな?急に暴れだして、儂を取って食ったりせんよな?」
んーむ、かなりびびらせてしまったようである。しかし人を喰らう化け物が、己の身を喰らわれる事を心配するとはちゃんちゃらおかしい。血を編み編みしてドレスも復活させたこのパーフェクトノマちゃんが、今更そのような理不尽な暴力を振るうものかよ。
大の字に寝ころんだままブリッジし、そのままシャカシャカと動き回って蜘蛛の少女に近づいていく。途端に彼女は顔を引き攣らせ、悲鳴を上げて飛びずさるが私のほうが大分早い。
シャカシャカシャカシャカ走り回って飛び掛かり、空中で反転して彼女の上にのっしと馬乗りになると、その柔らかい頬っぺたをむにむに引っ張って笑って見せた。
「これこの通り。私は私です。いかに理不尽な姿になろうとも、むやみやたらに暴力を振るうような私ではありませんのでご心配なく。」
「だぁかましい!!今のお主の気色の悪い動きのほうがよっぽど理不尽だわ!!さっさと退かんかい阿呆が!!」
私がほっぺを引っ張るたびに、彼女は十本の手足をばたつかせて抵抗するが、いつぞやを思うとその動きはやや精彩に欠けるものがある。先ほどの私の狂気の如き姿を見て萎縮してしまっているのだろうか。人に恐れられ、あまつさえ化け物にまで恐れられてしまうとはなんとも悲しい事であることよ。およよよよ。
「ああ、そうそう、すっかり忘れてました。私と再戦したいんでしたよね、屈辱を返してやるとか言ってましたし。早速今からやりますか?」
そう言って一つ、お手々をにぎにぎ。いつの間にやらマガグモとはお互い大分砕けた口調で話しておることだし、なんだか友人になれそうな気もするのだ。ここいらで一つ、殴り合って親睦を深めるのも悪くはあるまい。ここが夕日の下の河川敷では無いのが悔やまれるところである。
ひゅんひゅんしゅしゅしゅと拳を振るえば、蜘蛛の少女はしかめっ面で舌打ちをして、んべっと短い舌を突き出した。
「嫌じゃ。儂は死にとうない。もうお主には金輪際関わらん、同胞にもお主には手を出さぬよう伝えておく故、どこへなりとも好きに行くが良いわ……ってべたべたくっ付くな!離れんかいこらぁ!!」
いや、そんなこと言われても、もう関わりたくないとか言われてめちゃくちゃショックだったのだ。ぶっちゃけさっきの怪物とのド突き合い以上の大ダメージである。
人から拒絶されるのは悲しいのだ、寂しいのだ。受け入れてくれとは言わない、仲良くしてくれとも言わない。だがせめて、私は良き隣人で居たいのだ。
私を引っぺがそうと力を籠めるマガグモに、そうはさせまいと力いっぱいしがみつく。己がうざ絡みをしている事は重々承知ではあるのだが、先ほど完全に人の身を捨て去ってしまった事の反動か、なんだか無性に人恋しくて堪らない。
人と触れ合い、肌を重ね、頭を撫でて欲しいという強烈な欲求が沸き上がる。まあ目の前の少女は半分蜘蛛だけども。
私の歳を考えれば何とも無様で大人げない姿ではあるものの、己を律し、社会の中でこうあるべきと、自分を飾る事の責務は既に前世で十二分に果たしたのだ。今の私は子供の姿であるからして、多少の我儘は許して貰えまいかというものよ。いや本気で嫌がられたら引っ込みますが。
女三人寄らずとも十分とばかり、しばしわーわーぎゃーぎゃーと騒ぎ立て、しかしてついにキレたマガグモの噴き出した糸が私の脳天にぶっ刺さったその瞬間、頭上に輝き続けていた満月の光が遮られて、すいっと辺りが暗くなった。
なんじゃなんじゃと見上げれば、月明かりの中で空に浮かぶは一隻の船。木造と思しき長い船体には長く大きな帆が張られ、その左右から無数に突き出た櫂が宙を漕ぎ、それはゆっくりゆっくりと浮き沈みしながら私達に向かって降りてくる。
あれは……前世にテレビか何かで見たことがある、確かガレー船とかいうやつか。異世界のガレー船は空を飛ぶらしい。ははは、空飛ぶお舟とは何ともお洒落な話では無いか。あとはその乗員も、こじゃれた衣装に身を包んだ美男美女であれば完璧であった。
だがまあ現実は非情なもので、その船舷には無数の白いカエル共が身を乗り出してこちらを見据え、あるいは指で指し示して何事かを騒ぎ立てているのだ。これまたとんだ美男美女であることよ。まあ美白と言う点では負けてはおらぬか。
つい先ほど、ただ一匹でもあれほどに荒れ狂った怪物の姿を無数に目にし、腕の下の少女はもはや顔を蒼白にして声も出ない。私はといえば天をねめつけ睨み上げ、銀の髪を編み込んで翼を生やし、大鷲の如きその翼を羽ばたかせて既に臨戦態勢である。
あはははは、上等だ。仲間一匹失ってなお学ばぬ馬鹿共であるのなら、その身で思い知るまで教育してやるまでのこと。なぁにわざわざ降りてくることはない。私自ら伺って、ご挨拶のうえでパーティーとしゃれこもうじゃあ無いか。
料理は私、ワインは血潮、お代は貴様らの命である。牙を剥き出しにして頭上のお舟ににっこりと微笑みかけて、いざ飛び立たんとしたその瞬間、一本の赤い槍が投げ落とされて、私の近くに突き立った。
外したのだろうか?いや、なんとなくではあるが、最初から私に当てる気が無かったようにも感じられる。なぜだろうか?私は仲間を殺した憎き仇であろうと言うのに。
はてなと首をかしげて空を見上げれば、満月の端が次第に欠けて、月食を思わせるそれはやがて、月の中に開いた大きな大きな黒い口になった。そして空飛ぶお船は浮かび上がって高度を上げて、真っ黒な口の中へと消えていく。
やがて帆が飲まれ、船体が消え、櫂の最後の一本が消え失せて。残ったものはまるで最初から何も無かったかのように、私を見下ろす大きく綺麗なお月さまのみ。
地に突き刺さった赤い槍を引き抜いて、ひょいと掲げてしげしげと眺めてみる。違和感を感じるという事は無く、なんぞ呪いの類がかけられているというわけでも無さそうだ。
なるほど、「受け取れ勇者よ。」とでも言うつもりか? あの連中とは最後まで言葉の一つも交わす事は無かったが、存外に洒落のわかる連中らしい。
惜しいものよ。仮に知性があって言葉を交わせるというのであれば、このような出会い方なぞしなければ、殺し合いなぞせず酒の一杯くらいは付き合ってやらんでも無かったというものを。
まあ、大人しく引き下がるというのならこれ以上はどうこう言わぬ。そもそも追いかけようにもどうしろというのか。月の裏側にでも行けってか?あほらしい。
赤い槍をくるりと回し、くるくるひゅんひゅんと見栄を切る。おお、かっこいいじゃない?と思ったのも束の間の事。素人の刃物遊びが祟ったか、私の手からすっぽぬけた槍は宙に逃げ、くるりと放物線を描いて未だ満月を見上げたままの、マガグモの真横に突き刺さった。あ、すまん。
「っはひゃ!? え、あ、逃げた? 彼奴ら逃げおったのか!? た、助かったわい……。っていうかまた槍ぃ!? お主かぁノマ! これやったのぬしか!? ほんといい加減にせぇよこらぁ!!?」
いや、悪い悪い。ははははは。笑って誤魔化すな?あ、はい、ごめんなさい。注意不足でした。はい、すいません。はい。
とはいえまあ、これで本当に一件落着か。あの白いカエルにあれほどの仲間がおったは想定外ではあったものの、姿を見せぬよりはああして全貌が見えたほうがまだマシというもの。
なによりこれほどの物量差があって、なおあの連中は引くことを選んだのである。この私がこの地にこうして居る限り、あやつらがこの近辺で再び活動を起こす事はあるまいて。
明日もあの白いカエル共は私の与り知らぬ世界のどこかで、獲物を追い立て、殺し、喰らって引き千切り、狩りを楽しむのやもしれぬ。私にはそれを許容する事は出来ない。が、だからといって、これ以上私に出来ることがあるわけでも無い。
私は神様では無いのである。私が手を差し伸べ、手を貸してやることが出来るのは、あくまでこの手の届く範囲の中だけなのだ。いかに私が化け物の身であろうとも、私が持っているものはただ一つ、この腕っぷしだけであるのだから。
「ねえ、マガグモ。一つ聞かせて貰っても良いですか?」
私が思考の海に沈んでいるうち、抜き足差し足でこそこそ逃げようとしていた蜘蛛の少女に声をかける。途端に彼女は肩を震わせ、これ以上厄介事はごめんだとばかりに顔を歪めて振り向いた。ごめん、マジで泣きそうだからそれやめて。人から拒絶されると悲しくなるの。
「……なんじゃ、あの流れ者の一件は片付いた。これ以上お互いに用など無いはずじゃ。ああ、儂はもう、お主をどうこうしようなぞ思わんぞ。自ら死に向かう趣味なぞ無いんでな。」
「…………マガグモ、貴方は先ほど、獣が獲れぬと言っていましたね。獣の肉で腹を満たせるのなら、人を襲わずとも良いのではありませんか?」
彼女は何も言わなかったが、その身体ごと私のほうに振り向いて、聞こうという姿勢は見せてくれた。続きを促されたとみて、私も言葉を続けて紡ぐ。
「いま、私は王都に……この先にある人間達の巨大な巣にその身を置いていますが、彼ら、彼女らが貴方たち化生の者に向ける敵意と恐れは相当なものです。貴方たちが人を襲わず、獣を獲って暮らし、あるいは人間から供物と言う形で食物を捧げるのであれば、人と共存していくことも可能ではないのですか?」
先日にマリベルさんに言われたこと、私はけっこう気にしていたのだ。人は狭い世界に押し込められている。人間の立ち位置で見れば、それはまさしくその通りであろう。
なんせこの世界、人の生存圏は極端に狭いのだ。此度の化け物騒ぎにおける動員兵力が約百名。一国の首都が封鎖されようという事態に陥りかけたというのに、たった百名である。地球での古代史を紐解いても、大陸における争い事では万の数字を見かけることはそう珍しい事では無いというのに。
それほどにこの世界、人の生きていける範囲は狭く小さく、その限られた生存圏を人族と蛮族に分かれて奪い合い、さらに同族同士で国家を形成して住み分けているのである。これでは人口が増えようはずも無し。
ただその割に、文明の発達は中世どころか近世にも到達しようというあたり、如何にもこの世界は邪神の遊び場らしいと言えるだろうか。あの邪神の好む、地球のサブカルチャーに存在する異世界観に合わせる為に、おそらくこの世界の文明は幾度となく干渉を受けてきたのだろう。例えそれが不相応な発展であろうとも。
私の提案は無用な争いごとを避け、人と化け物双方に利益をもたらす良い提案に思えた。自分で自分を褒めてやりたいと鼻高々になったものだが、けれどもそれは、物を知らぬ素人の浅はかな考えであったようで、蜘蛛の少女からは冷たく侮蔑の目を向けられた。
「ノマ。お主が人間どもの味方であることはよぅくわかった。じゃがな、儂らにとっては獣も人も同じじゃ。人間なぞ喋る猿でしか無い。そもそもにして、地上に元々暮らしておったのは儂ら化生の者じゃというのに、その儂らが後からやってきた猿共に、なぜに譲ってやらねばならんのじゃ。」
予想外に返ってきた激しい拒絶に、己の過ちに気づいてほぞを噛む。どうやら私は彼女の逆鱗に触れてしまったようで、蜘蛛の少女は怒気も露わにその眼を赤く光らせながら、私をぎろりと睨みつけてみせた。
マガグモは強い。先ほどの私と化けガエルの戦いでは逃げ回りながら援護するに終始したが、此度の事件で駆り出された約百名。仮に私が居なかったとして、もし彼女があの糸をもって罠を張り待ち構えていたならば、容易に全滅させる事も出来るだろう。
彼女たち土着の化け物にとって、人間は自分たちの生活空間に後から入り込んできた害獣でしかないのだ。さしずめ先ほどの私の提案は、畑を荒らす猪に、加減してやるから畑を半分寄越せと言われているに等しいという事か。
「儂らが猿共を狩り尽くさずにのさばらせてやっておるのはな、ノマ。口惜しい事に儂らは人間共の数には到底敵わんからじゃ。数でもってして死に物狂いで抵抗されれば、儂らとて無傷じゃあおれん。ただその日の飯にありつきたいだけであるというのに、そんな危険な橋を渡るなぞ阿呆な話じゃ。」
ああ、ゼリグがどこかで言っていたな。人は化け物に対して抗することは出来る。だがそんな危険な橋を好んで渡るやつなぞそうはいないと。彼女らにとってもそれは同じで、互いに己の命もかかっていないのに藪をつついて蛇を出すような真似はしないという事か。
「……そうですか。それもそうですね。私は人と暮らす身である以上、どうあっても人の味方をしてしまいます。貴方たちにとってはさぞ面白くない話であった事でしょう。忘れてください。」
「ふん、それがわかったならええわい。それにそもそもにして、人を襲い、その肉を喰らえというのは儂ら化生の者の守護神たる〝這いよる混沌〝様の思し召しじゃ。猿共は混沌様の存在を認めずに、白の神だのなんだのという偽りの神を崇めておる。そんな連中と儂らが共存などと怖気が走るわ。」
ぬう、王国の人たちが五色の神を崇めるように、彼女らにもまた、奉じる神が居るらしい。種族間に生存圏、おまけに宗教的な対立までまあ出るわ出るわ。世界の外からやってきた我が身としては、皆が平和に共存できる世界を希望したいところではあるものの、これは素人が迂闊に手を出せるような問題では無いようだ。
「んじゃあの、ノマ。もうお主みたいな化け物に会う事の無いよう、混沌様に祈っておくぞ。」
「そうですね。またお会いしましょう、マガグモ。次はお友達になれることを祈っていますよ。」
これでもう話は終わったとばかり、蜘蛛の少女は背を向けて、私に向かって拒絶の言葉を投げかける。言われて私はそうはさせじと言葉を被せ、強引に距離を詰め寄った。
「やぁかましいわ!儂はお主になんぞ会いたくないと言うとろうが!!二度と儂にその阿呆面見せるで無いぞ!!わかったか!!!」
「いーやーでーすー!!人と化け物が相容れないと言うのであれば、私がその第一号として懸け橋になろうではありませんか!ほーら握手しましょう!!握手!!!」
「嫌じゃ!!!」
わきわきうへへと手を蠢かせながら近寄れば、彼女は顔を引き攣らせて一歩引き、六本の脚で飛び上がって樹木の上に舞い上がると、見る間にその姿を隠して消えてしまった。
んーむ残念、逃げられてしまったか。私が襟元を開いて見せたことで、少しは彼女の心も氷解してくれていると嬉しいのだが。
目を細めれば闇の中、私の瞳はちらちらとこちらを窺いながら離れていく、マガグモの姿を捉えることが出来た。追いかける事は可能だが、さすがにそれはしつこいというもの。これ以上は本気で彼女を怒らせてしまうだろう。いやまあ、もうさっき怒らせてしまったのだけれども。
はー。まあ、こんなもんかなあ。当初目標は達成したのだ。マガグモと友人になって化け物との共存の一歩を踏み出すという加点目標こそ逃したものの、急いては事を仕損じるとも言う。今日のところはこれくらいで満足しておくとしましょうか。
遠くを見やれば大分長い事時間が経っておったのか、キティー達の元を発った時分には宵の口であったというに、既に木々の彼方、夜空との境目は白みがかり、夜明けが近い事を思わせた。
疲れた、疲れた。おそらく彼女らも首を長くして待っておることだろう。ゼリグも既に目を覚ましておるやも知れぬ。
戻ったら戦勝祝いに盛大に騒ごうか。ドワーフの団長さんが開けてくれると言っていた、火酒とやらも楽しみである。強いお酒って飲んだこと無いけども。
そういうわけで、戦利品であり奴らを打ち負かした証拠の品でもある赤い槍をよっこらせと担ぎ上げ、真っ赤なドレスを翻すと私は一路、王都に向かって歩みを進めるのでありました。
いや疲れたよほんと。思わず髪をぱさりと払い、私の銀色の髪はそれは美しく波打って、その内側に無数の目玉や牙を一瞬見せて、やがて静かに…………元に戻った。
当面の危険は去りました。しかし月の獣はいまだ存在し、彼らは月の裏側からやってきて、明日も明後日も、世界のどこかで狩りを楽しむのでしょう。あるいは、ノマちゃんに追い返された彼らが次に目をつけるのは、地球のどこかであるやもしれません。
そしてこの一件で、彼女は己の人外っぷりを衆目の目に晒してしまいました。ノマという危険を排除しようと、あるいはその力を利用しようと、否が応でも彼女の立ち位置は変化していくことになるでしょう。それが彼女の望むことであるかは別として。




