銀髪の怪物
「マリベルの姉御、不味いぜこりゃあ。こんな有様じゃあとても夜営なんて出来ねえ。日が落ちる前に別の場所を探さねえと……。」
「わかっています。いま地図で確認しているのですから、その小うるさい口を閉じて待っていなさい。」
夜営の予定地には至る所に手足と臓物が散らばって、血の染み込んだ土は赤黒く変じて耐え難い血臭を放っています。これではとても、ここに陣を張る事など出来ないでしょう。
弔われない死者は病を運ぶ悪鬼と化すのです。日が落ちて人の時間では無くなる前に、この百名が陣幕を張れる場所を選定しなおさなければなりません。
ああ、運の無い事。まったくもって運の無い事。そもそもにして私は、切ったはったの明日をも知れぬ生活から抜け出す為に、マッドハットの旦那の誘いに乗って慣れぬ家政婦などをやっているのです。安穏としたお屋敷勤めをして暮らすはずが、なんでまた、こんな鉄火場に駆り出されているのやら。
「はあ。やってられませんねまったく。そもそもにして私はただの家政婦なのですよ、こういうぶっ殺したりぶっ殺されたりするのは業務外だと思うのですがね。」
「いや、姉御。ただの家政婦は俺達「鷲獅子」を、生意気だとか難癖つけて全員叩きのめして、実質的に頭張ったりはしねーと思うんですがね俺は。」
「……あ?なんか言ったかネヴィン?」
「すんません!だからそうやってすぐメイス担ぐの止めて貰えますかねって危ねえぇええええええ!!!??」
っち、外したか。まったくもって運が無い。鉄火場に駆り出された上に貸し与えられた兵力は、いま私の目の前で金棒を避けながら奇怪な踊りを見せるエルフの男、ネヴィンの率いる傭兵団「鷲獅子」と、ドーマウス子飼のドワーフが率いる傭兵団「火炎獅子」の百名だけ。
こいつらの腕に不満はありません。見知った仲です、ネヴィンも火炎獅子の爺様も私から見れば肝の太さが足りませんが、それでもやる時はやる連中であると知っています。常日頃から自主的に集団行動の訓練も行っていて、王都でも指折りの連中だと太鼓判を押してやれる程度には使える連中なのです。まあ本人に言うと調子に乗るから言いませんが。
だがそれでも、根本的に兵力自体が足りていません。確認されているはぐれは一匹のみですが、一匹であるという保証も無いのです。夜間と合わせて二交代制、いや、三交代制で常に気を張って臨むのであれば、この倍以上に頭数が欲しいところ。
マッドハットの旦那に向けて、私達を死地に送り込みやがってと毒づいてやりたいところですが、王国は蛮族共との小競り合いで疲弊しているうえに百人隊という精鋭を失ったばかり。小国のお貴族様二人の手配で用意出来る限りの戦力がこれだったのでしょう。王都で物の不足が囁かれる中、食料も物資も十分過ぎるほどに用意してくれました。これ以上は望めるはずも無し。
まあどの道、私達が死ねば旦那方も一蓮托生です。王家の代わりにでかい顔して化け物退治を名乗り出て、失敗しましたとくれば両家の威信は地に落ちます。何もしないで指を咥えていた連中が、これ幸いと両家の代わりに幅を利かせて騒ぎ出す事でしょう。
私程度にも考え付く事、王国議会の魑魅魍魎共とやりあっている旦那方だってわかっているはずです。勝てば坊ちゃまの名声となり、負ければ最悪没落か。だがそれでも王都の混乱を防ぐ為、やらねばならぬ、勝たねばならぬときたものです。やっぱりただの家政婦の仕事じゃないだろうこれ。軍人呼んで来い軍人。あ、それでもう負けたっけか。
いちおう助っ人も居るには居ますが、かつて私が手塩に掛けて育ててやったゼリグはともかく、残りはドーマウスの色ボケ娘に殺人鬼の金髪娘。おまけに噂の皇女様ときたものです。これで使えない連中であったならピクニックじゃねーんだぞと蹴り飛ばしてやるところでしたが、生憎と腕が立つのだからタチが悪い。
特に色ボケ娘は白の神に仕える神職です。手足を失っても助かる芽があるとくれば、兵どもの士気にも繋がります。あの傲岸不遜な性格はとうてい私の好むところでは無いですが、精々役に立ってもらうとしましょうか。ドーマウス家の親族と言う立場上、死なれてしまうと厄介ではありますが、まああの娘が死ぬような状況になれば私のほうが先に死んでいます。大した問題でも無いでしょう。
しかしあの金髪のガキ、私が昔に半殺しにしてやってそのままくたばったもんだと思っていましたが、ドーマウスに拾われて子飼になっていやがりましたか。まあ色ボケ娘の護衛くらいは任せられるでしょうか。幸いにして、私がかつて自分を捕らえた傭兵だとは気づいていないようなので、このまま放っておくことにしましょう。気づかれて騒ぎ立てられても厄介です。
まあそこまでは良いとして、問題はあの皇女様。エセ皇女だのなんだのと旦那方から事前に情報は貰っていましたが、コッケントライスを素手で殴り飛ばして頭を潰すなど、神の加護があるとはいえ到底人間業とは思えません。おまけに続けて血を奪い、飲み干していく様はまさに化け物そのもの。ゼリグもとんだ隠し玉を連れてきてくれたものです。
とはいえ本来森の奥に潜むはずのコッケントライス、それがこんな街道沿いまで出てくるなどと完全な不意打ちでした。犠牲者無しで切り抜けられたのはあの子のおかげであったのです。いや、あの怪物を見事に手懐けて操った、ゼリグの手腕と言うべきでしょうか。
今のところ、ゼリグは上手くあの銀髪の怪物を手懐けられているようですが、いつその牙が私達に向かうとも限りません。正直言って私から見れば危険極まりない存在ですが、ことこの場に限っては実に頼もしい存在とも言えます。精々、例のはぐれとつぶし合って貰うとしましょうか。
あの銀髪、人を食った態度も気に入りませんが、何が一番気に入らないって私のゼリグと仲良さげなのです。私のほうがゼリグとの付き合いは長いはずなのに、ゼリグは私より、あの銀髪のほうと仲良さげなのです。気に入りません。気に入りませんね。あの色ボケ娘とつるんでいる事といい、友人は良く選べと教えてあげたはずなのですが。
それにしてもドーマウス家のお仕着せを着ているあたり、あの銀髪の娘はいつの間にやらあちらに取り込まれている様子。ドーマウスの色ボケ娘に飼われているという話までは聞いていましたが、既にあちらの若旦那がここまで食い込んでいるとは思いませんでした。生きて戻ったらマッドハットの旦那に報告する必要があるでしょう。
「あー、ひっでーなこりゃあ。はぐれの野郎やりたい放題やりやがって。ノマ!悪いけどちょっと頼むわ。」
「ういーしゅ。」
近場に良い場所が見つからず、爪を噛みながら地図とにらめっこをする私の横で、ゼリグが声を飛ばします。はて、あの化け物に暴力以外の何をさせるつもりでしょうか。
銀髪の化け物が気の抜けた返事を返しつつ、両手を掲げて何事かを呟きます。何を始める気かと眺めていれば、おぞましい事に一帯にこびりついた血だまりが浮き上がってその血臭ごと、ずるずると彼女の手に吸い込まれていくではありませんか。
……不気味な光景です。なにより不気味であったのは、彼女が人の血を飲んでいるという事。あの化け物が自らの意思で人を襲わないという保証が、一体どこにあるというのでしょうか。
やはりこの機に、はぐれの化け物と相打ちになってもらうべきでは。そう考えているうち、少女はその細い腕を大きく振りかぶって、今度は二度三度と大地を殴りつけました。
どかん、ずどんという大音と共に地がはじけ、小屋が一棟入りそうなほどの大穴が開きます。巻き上がった土煙の中、紅い瞳を輝かせながらゆらりとこちらに振り返る少女は、まるで物語に登場する悪鬼のよう。
とっさに得物を抜きかけたのは私だけでは無いようで、ネヴィンも火炎獅子の爺様も、その気配から剣の柄に手をかけようとしたのが感じられました。
「傭兵のみなさーん!この穴にご遺体を周囲の土ごと運び入れてくださーい!終わったら土をかぶせて埋葬しますのでー!!」
「そしたら私が白の神に願ってこの場を清めるからー、そしたら陣幕の設営を始めちゃっていいですよーぉ。」
銀髪がぶんぶんと手を振って声をあげ、色ボケ娘がそれを引きついで私達に話しかけます。「おー。よくやった、あとで焼き菓子を一個やろう。」とか言ってる場合ですかゼリグ。貴方、あの銀髪が目の前で何をやらかしたのか見ていなかったのですか。感覚麻痺してるんじゃ無いですか。
……ははは、止めておきましょう。あの銀髪の娘とはぐれを相打ちに、などと余計な企みをするのは止めておきましょう。もしあの銀髪が牙を剥けば、王国にとって今回のはぐれなど比較にならぬほどの脅威となるはずです。現状でゼリグが手綱を握ることが出来ているのなら、私が妙な手を出さぬのが吉と言うもの。
あー。運が無い事。まったくもって運が無い事。早いところ終わらせて、お屋敷に戻りたいものです。はぁ。
ゼリグの差配で銀髪と色ボケ娘を操って、どうにかこの場を使える状態に整えることが出来ました。人員の半数に陣幕を張らせ、もう半数に持ってきた麦で粥を炊くよう指示を出します。幸いにしてコッケントライスの肉もありますし、大食らい共の腹を満たすには十分でしょう。
出来ればかまどを組んでパンを焼くのが好ましいのですが、残念ながら日が落ちて人の時間が終わるまで、あまり時間が残されていません。作業を急がせる必要があります。
先ほどの大音を聞きつけて、はぐれがこちらに向かってくる可能性を考えれば、本来であれば半数ほどを武装させて歩哨に立たせたいところ。しかし幸いにして、こちらには例の銀髪がいます。いざとなればあの娘をぶつけて、態勢を整える時間を稼いでもらいましょうか。
その銀髪はといえば、みなが忙しく動き回る中、木箱に腰掛けて森の奥を眺めていました。先ほど彼女が飲み干した赤い絨毯の伸びていた、暗い暗い森の奥を。
「ノマさん。見張りをしてくれているのですか?」
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。でしたか。昔の人は良い言葉を残したものです。この機にこの危険な娘について、もう少し人となりを知っておくのも悪くないでしょう。
「あ、マリベルさん。いえ、サボっていたりはしませんよ。ただ、こう、何をどう手伝って良いかもわからなかったので、せめてこう、化け物が近づいてこないかの見張りをですね。」
こちらを振り向いた少女は、何やらあわあわと手を振り回して慌ててみせました。そういえば出発前にも、私はこの子を叱りつけていましたね。また叱られるとでも思ったのでしょうか。まだこの娘の危険性を目の当たりにする前だったとはいえ、今朝の私はよくこの化け物に対して強気に出れたものです。
「別に責めてなどいませんよ。日が沈むまでに陣幕を張って夜をやり過ごす準備を整えなければならない以上、歩哨にほとんど人数を割けずにいたところだったのです。ノマさんなら誰よりも早く敵を見つけ、誰よりも早く飛び掛かることが出来るでしょう。頼もしい事この上ありませんね。」
褒められるとは思っていなかったのか、少女は目を一瞬丸くして、ニっと破顔して照れて見せました。ふむ、意外と扱いやすいですねこの娘。当家の新入りメイド共よりよほど素直です。これなら私にも上手い事、操る事が出来るでしょうか。
「ありがとうございます。なにせ相手は昼間っから人を喰らう危険な化け物ですからね、一刻も早く排除しなければいけません。私にはこの腕っぷししかありませんが、これでお役に立てるのでしたら幸いです。」
「ノマさんの力は先ほど見させて頂きました。あれならば生半可な相手に後れをとる事も無いでしょう。なんなら王都周辺の化け物連中、根こそぎ排除して頂きたいくらいですね。」
実際、この娘なら可能でしょう。コッケントライスの巨体と正面からぶつかって、耐えるどころか逆に殴り飛ばしてしまうような出鱈目な頑強さ。今聞いた限りでは、幸いにしてこの娘は今のところ私達に味方しようとしてくれています。上手く操れば、王国民たる私達の居住範囲を広げる事も出来るかもしれません。
「んー、それは、どうでしょうか。私はゼリグ達、人族を知っています。蛮族のゴブリンさんにも会いました。そして人を喰らう化け物にも出会い、言葉を交わしたことがあります。」
「お嫌ですか?」
否と言ったか、この娘。やはり全面的に人の味方というわけでも無いようだ。まして化け物と言葉を交わすなどと信じられない事を言う。
「人族も蛮族も、昼間に暮らす者という意味では人なのです。そして人は昼に、化け物は夜にと棲み分けがされているのですから、それを守っている化け物達にこちらから手を出すというのは私は気乗りがしませんね。」
「ノマさん、蛮族は人ではありません。人族と蛮族を混同するなど石を投げられてもおかしくない発言は慎みなさい。まして、私達人族は、化け物と棲み分けなどしているつもりはありません。私達は、狭い世界に、押し込められているのです。」
なんという事を言うのか。やはりこの娘は化け物だ、人の目線を持っていない。ゼリグは、この娘のものの考え方を知っているのか?
今朝がたのように強気で責めてやれば発言を翻すかと思いましたが、彼女はその血のように紅い瞳を細めて、私の目を見つめ返すだけでした。どうやら考えを変えるつもりは無いようです、機嫌を損ねてしまったでしょうか。彼女の操縦を失敗したことで、思わず背中に汗が伝いました。
「マリベルさん。マリベルさんは人族ですから、人族の利益を考えたものの見方をしていらっしゃる。それが悪いとは言いません。ですが蛮族にも、そして化け物達にも己の生き方があるのです。生活があるのです。私はマリベルさん達を守ります。マリベルさん達に味方します。ですが、マリベルさん達を全面的に支持するものではありません。」
「……それがあなたの飼い主である、ゼリグやキティーさんの命令であってもですか?」
「同じ事です。彼女達と私は友人ですが、私は彼女達に従うモノではありませんので。」
ゼリグは、この娘の手綱を握ることが出来ていると思っていました。ですがそれは、薄氷の上の事だったようです。やはりこの娘は危険極まる。彼女の意思とゼリグの意思が反した時、この娘を誰が抑えることが出来るというのでしょうか。
腰のメイスに手をやろうとし、何度か手を握って開いて、結局腕を降ろしました。今は身内で争っている場合ではありません、得物を向けるべきははぐれの化け物なのですから。こんなところで争って、戦力をすり減らすなど愚の骨頂。そしてその場合、ここから居なくなる戦力とは、私でしょう。
「……そうですか、ノマさんの考えはわかりました。貴方は、まるでご自身が、人族では無いかのような事をおっしゃるのですね?」
「私は、ただ平等に接したいと思っているだけですよ。私はこの世界に対して、平等でいたいのです。」
……この娘は、人族でも蛮族でも、まして化け物ですらないのかもしれません。まるでこの世の外からやって来た、世界の観察者とでも言うような事を言うこの少女は、いったい何者なのでしょうか。あるいはこの子は、もしかしたら神の眷属なのかもしれません。そう思わせるほどに、私の価値観から余りに外れた、不可解で不気味な事を言うのですから。
ですが平等を謳うというのであれば、彼女の言には見過ごせない部分がありました。
「……ところでノマさん、貴方は以前にも化け物に出くわした事があると言いましたが、その化け物はどうされたのですか?」
「夜の野外で人を襲って食べてはいましたが、その者は宿場にも入っていかないような爪弾き者のようでした。なので、特に何もしていません。」
「その化け物と、今回のはぐれの化け物、貴方にとって何が違うのでしょうか?私からしてみれば、人を襲う怪物である事に変わりはありません。殺せるのであれば殺しておくべきです。」
これ以上余計なことを言って刺激するなと頭の中で声があがりましたが、それでもこれだけは言ってやりたかったのです。目の前で人を喰らう化け物を見逃したのに、此度のはぐれは殺すのかと。
「その化け物は蜘蛛の姿をした少女でした。女の子だったので殺すのも気が引けましたし、なにより彼女は棲み分けを守っていましたので。」
「その棲み分けというのは、ノマさん。貴方の作った決まり事でしょう?貴方は、己の中の決まり事に他者を当てはめて、その自分にとっての良し悪しで、生殺与奪を握ると言うおつもりですか?」
何様だお前は、偉そうに。ぴしゃりと言ってのければ痛い所を突くことが出来たのか、銀髪の娘は唇を噛んで視線を彷徨わせました。少しは意趣返しになったでしょうか。
「…………確かに。結局のところ私は、己の感情を正当化させる為の理由を探しているに過ぎないのでしょう。あの時の私は蜘蛛の少女を殺したくないと思い、今の私ははぐれの奴を殺したいと思っている。心とは移ろいやすく、まっことままならぬものですね。」
少女が視線を落とし、口の辺りに手を添える。そう来ましたか。人の感情とは、理屈に従って動くものでは無いのだと、そう言われてしまってはこれ以上何も言えません。子供らしいようで子供らしくない、何とも老獪なやり口です。
「……ノマさんはおいくつですか?」
「十歳くらいですね。」
「…………何歳くらいサバを読んでいるのでしょうかね。」
「六十歳くらいですかね。」
「貴方は…………。」
「……ふふふ、冗談ですよ。」
そう言って、少女はくるりと背を向けて、再び森の奥を睨み始めました。これで話は終わりという事でしょうか。ですが一つだけわかったことがあります。こいつを子供だと思うのは、もう止めです。
「じきに粥が炊き上がります、それを食べたら貴方も寝て、明日に備えなさい。夜番はこちらで手配します。」
「ありがとうございますマリベルさん。お言葉に甘えさせて頂きますね。」
私も再び指揮を執る為に、銀髪の化け物に背を向けます。もしかしたら、この娘は本当に皇女なのかもしれません。百年前に滅びた帝国の、その当時を生きていた皇女当人が、神の気まぐれによって化け物と化して、世をさ迷い歩いているのかもしれません。
そんな突拍子の無い事を考えてしまうほどに、私にとって彼女は不気味な存在となっていました。
幸いにして襲撃を受けることも無く、陣幕を張って大食らい共に飯を食わせ、無事に夜を明かす事が出来ました。日が昇るのを待って馬に飼い葉を与え、騎兵達を送り出します。
彼らの任務ははぐれを誘い出し、一人でも生き残ってこの陣地まで奴を誘い込む事。さて何人が生きて帰ってくれる事でしょうか。叶うならば、出陣前にゼリグの言っていたとおり誰一人欠けることなく、王都の高級酒場で高い酒を飲みたいものです。もちろんお貴族様方の奢りでね。
ふぁーあ。軽く拳を握りこみ、こめかみをとんとんと叩きます。ゼリグに貸し与えた天幕が夜も遅くまで妙に騒がしく、中々寝付くことが出来なかったのです。金棒片手に怒鳴り込んでやろうかと思いましたが、あの銀髪が怖いので止めておきました。
しかしまあうるさかった事うるさかった事。天幕越しで声がくぐもっていてあまり聞き取れなかったものの、何やらあの銀髪が騒いでいて、それをゼリグが叱り飛ばしている事だけはわかりました。
「うわぁぁぁぁあああんゼリグぅぅぅぅ!マリベルさんに叱られたぁぁぁぁあ!!思い上がってるって!傲慢だって怒られたぁぁぁああ!私いい歳なのに恥ずかしいぃぃぃいいい!!」
「うるっせええええええええっ!しがみつくな!さっさと寝ろ!!この馬鹿!!!」
たしかこんな感じでしたか。あの銀髪もゼリグの前では猫を被っているのか、ずいぶんと萎らしい態度を見せるではありませんか。おそらくそれでゼリグに取り入って、あの子を騙しているに違いありません。あの老獪な娘のやりそうな事です。
「姉御、いま良いか?夜番の連中から受けた報告で耳に入れたい事がある。」
「どうしましたかネヴィン。はぐれの尻尾でも掴みましたか?」
ふむ、何事かあったようです。昨夜に件のはぐれはこの周辺に居なかったのでは無く、暗がりに潜んで私達を窺っていたのでしょうか。
「はぐれの仕業かどうかってのはわかんねえんだが、夜番の連中の中にな、気を失うほどのとんでもねえ絶叫を浴びせかけられたって奴や、凍った足元に足を取られてすっ転んだ奴がいたって話が上がってきててな。」
「氷?この時期にですか。その絶叫とやらを他に聞いた者は?」
「いやそれを喰らった当人の他にはいねえ。第一そんな馬鹿でかい叫び声が上がったなら、俺達だって飛び起きているはずだしな。」
なるほど。人差し指を頬に添え、指の腹でとんとんと叩きます。心当たりがある、あいつらか。
「捨て置きなさい。そのやり口、王都近辺をねぐらにしている化け物の中に心当たりがあります。大方、屋外に人が居ると見て喜び勇んで来たものの、陣幕が張られているのに手を出しかねて、嫌がらせだけして去っていったというところでしょう。」
「だが姉御、化け物は化け物だ。昨夜は無事でも、今日の夜も同じだとは限らねえ。」
「そこで手を出してくるような考え無しなら、昨晩の時点でとうに襲っているでしょう。昼間は人の世界、夜は化け物の世界で私達は棲み分けをしているのです。今私達は、化け物の世界の一部を切り取って人の世界に変えている。連中にとってみれば、この突如出現した人の巣に、迂闊に手をだそうという気にはならないでしょうからね。」
「はあ、そんなもんですかね。俺にはちょっとピンとこねーや。」
「そういうものです。例のはぐれはその棲み分けを守っていないからこそ、こうして危険を冒してでも、人によって退治されようとしているのですからね。」
くくく。言って、思わず失笑してしまいました。人と化け物は棲み分けをしているなどと、私は昨晩の銀髪と同じことを言っているではありませんか。いや、私はその棲み分けを認めたつもりなどありません。人は己の生活圏を、化け物共から奪い返すべきなのです。きっと、マッドハットの旦那もそう言う事でしょう。
くつくつと笑う私にネヴィンは怪訝な顔をしてみせましたが、私が話を続ける様子が無い事を察したか、引き下がって踵を返すと、部下達に指示を飛ばし始めました。
日が昇るにつれてにわかに慌ただしくなっていき、麻袋の土嚢が積まれ、槍を手にした傭兵達が右に左にと駆け回ります。空はあいにくの曇天で、方々に落ちる雲の影と、鈍った日の光がこの先の困難を連想させました。
「ようマリベル、おはようさん。もう騎兵は放ったのか?」
ネヴィンと入れ替わるようにして、槍を担いだゼリグが姿を見せました。眠たげに欠伸を噛み殺す様は兵達には見せられませんが、まあ今見ているのは私だけです。許してやることにしましょうか。
「おはようゼリグ。先ほど全隊を放ったところです。上手く釣り上げられると良いのですがね。」
「普段なら化け物となんて間違っても会いたくないところなんだがな、今回はそうもいかねえ。好き好んでアイツらと戦わなけりゃならねえなんて、ままならねえもんだよなー。」
「ええ、まったく。他の連中はどうしましたか?姿が見えませんが。」
「キティーの奴なら寝床でまだぼけーっとしてるよ。頭に血が足りねーんだとさ。シャリイの嬢ちゃんは「お嬢様のこんなお姿、人には見せられません!」とか言って世話を焼いてる。」
「やれやれ、お屋敷じゃあ無いのですから、もう少し緊張感を持ってほしい物ですね。それで、あの銀髪の……いえ、ノマさんはどうしましたか?」
「あいつなら、ほれ、さっきからずっと、あそこでああしているよ。」
ゼリグに釣られて目をやれば、そこにあったのは積み上げられた土嚢の上、槍の合間に腰掛けて街道を眺める少女の姿。歩哨達に交じって見張りに立つその姿は、姿形だけなら大人の真似をする子供のようで可愛らしいものですが、生憎と私はあの少女の中身を知っています。可愛いなどと、そう素直に思う事が出来たならどんなにか良かったか。
昨日のコッケントライスとの一戦を目の当たりにしている兵達も同じ心境であるのでしょう。周囲の兵たちは槍を構えて見張りつつも、やや居心地悪そうに身じろぎし、銀髪の少女から半歩ほど距離を置いていました。
「……ゼリグ、貴方がなぜあの少女に肩入れしているのか、今は深くは問いません。」
「いや、深いも何も、たまたま拾っただけの腐れ縁なんだけどな。」
「ですが、私はあなたに傭兵のいろはを教えた者として、もう一度この言葉を送りましょう。友人はよーく選びなさいと。」
「いや聞けよ。ノマの奴とは、たまたま拾ってたまたま一緒にいる破目になっちまっただけのだなー……。」
たまたま拾っただけの相手に、金貨千枚も出したりはしないでしょう。あの競りで貴方達が彼女を手に入れる以前から、貴方達が彼女と接触を持っていた事くらいは調べがついているのです。
厄介事に見舞われたのであれば、何故に私を頼ってくれなかったのか。いや、お屋敷勤めに舞い上がって勝手に姿を消したのは私のほうでしたか。しかし腹は立つのです。ゼリグが私を頼らずに、いつの間にかあの銀髪の小娘とねんごろになっていた事に腹が立つのです。
積み上げられた土嚢の脇で、くどくどとゼリグと話し込む事しばし。熱弁を振るう私を周囲の兵達が避けていき、すっかり遠巻きにされた頃、不意に銀髪の少女が立ち上がって土嚢の上から飛び降りました。
陣の前面に出た彼女は北に延びる街道を睨みつけ、唸り声を上げて牙を剥きます。指を強張らせてがちがちと蠢かせるその様は、まるで獲物を前にした蜘蛛のようにも見えました。
「ノマさん、何か?」
「どうした?ノマ。」
「…………花が咲きました。」
花?なんだ?何を言っているのだこの娘は。
「……また咲いた。二つ、三つ……ああ、匂いが混じってわからなくなった。血の匂いの塊から飛び出してきたものが二つ、真っ直ぐこっちに向かって走ってきます。」
何がなどと、もう言われるまでもありません。ぱしんと手を打ち鳴らして注目を集め、声も枯れんとばかりに叫びます。
「やっこさんが来るぞてめえらぁ!!仮眠してる連中も全員叩き起こせ!!方角は北だ!!槍を構えて突き出せぇ!!!」
どうやら、はぐれの奴はかなり近くに潜んでいたようです。指示を出し終えるその前に、一騎の騎兵が街道の彼方にその姿を見せました。その全身は血に濡れて、馬も口から泡を吹いていますが、それでもよろめきもせずに真っ直ぐこちらに向かってきます。
「くふふふふ。ああ、よかった。化け物の文字どうり、なんとも醜悪な怪物ですこと。マガグモのように少女の姿をしていたらどうしようかと思っていたのですよ。気兼ねなく殺すには気が引けてしまいますからね。」
すでに銀髪には相手が見えているようですが、肩を震わせて歓喜に震えるその姿はこの娘こそが怪物であるかのよう。姿次第ではどうするつもりであったのかと言ってやりたいところですが、今はそれどころではありません。逃げる騎兵に追いすがる何者かが、ようやく私達の視界にもその姿を見せたのですから。
まるで四つ足の獣のような、ぶよぶよとした白い何か。巨大な猿のようにもヒキガエルのようにも見えるそいつは、その手に赤い槍を握り締め、どたどたとみっともない走り方であるというのに馬上の人に追いつこうかという勢いで距離を詰めてきます。
はぐれと言うからには、他の化け物とは毛並みが違うのだろうと思ってはいましたが……なんでしょうかあれは。あんな醜悪な化け物は見たことがありません。その巨体には短く伸びた首こそついているものの、その先に頭部と言えるものは無く、てらてらと粘液に濡れた肉色の触手が不気味に蠢いてのたうっているのです。
私も槍を引っ掴み、土嚢の裏まで駆け込んで、ゼリグと二人、石突を地に突き立てて槍を突き出します。あれがはぐれか。あれが此度のはぐれの化け物か。なるほど、銀髪の言うとおり、文字通りの怪物です。
奴を視界に入れたその瞬間、頭の中で何かがガリガリと削り取られる異様な感覚に一瞬視界が歪みましたが、かぶりを一つ振ってどうにか持ち直し、前を向いて脂汗を拭いました。
「ふ、ふふふ。ゼリグ、生憎と私は、あんな怪物と相対するなど初めての事です。貴方はどうですか?」
「悪りぃな!アタシだって見た事ねーよ!あんな気持ち悪りいやつ!!ノマぁ!来やがるぞ!あのカエル野郎を上手い事こっちに誘い込めぇ!!!」
叫んだゼリグが言い終わるその前に、銀色の塊が矢のように飛び出していきます。目で追えぬほどの速さで駆けるそれは、見る間に距離を詰めていくと逃げる騎兵の横を通り抜け、今まさに槍を構えて投げようとしていたはぐれの化け物のどてっぱらに突き刺さりました。
岩を刃物でひっかいたような、不快な悲鳴が響き渡ります。最高の出だしです、あちらに不意を打たれるどころか、こちらが先制して不意を打つ事が出来たのですから。後は畳みかけるのみ。
「ははははは!!!!!待ったぞ!!さんざっぱら待ったぞこのくそバケモンがぁあ!!散々私に不愉快な思いをさせやがってえ!!殺す!!お前は殺す!!ぶち殺す!!!」
銀髪の少女が化け物の巨体に掴みかかり、爪を突き立て、腕を突き刺して肉をむしり取り、その度に怪物の悲鳴が上がります。おいおい、もうどっちが化け物だよあれ。やっぱりこの場で二匹とも処分したほうが良いんじゃ無いでしょうか。
私もネヴィンも部下達も、みなが顔を引きつらせる中ゼリグが一人、手を叩いて喝采をあげています。おまえ強いなあ、この中で一番肝が太いんじゃないだろうかこいつ。
まあ、まずはあの化けガエルから始末する事としましょうか。その次は…………。
ふふふ。生きて帰れたら、ゼリグの奴にノマさんとの付き合い方を、ゆっくり教えて貰う事にしましょうかね。
そう思いなおし、ぺろりと唇を舌で湿らせながら、私は震える体を押さえつけるようにぎりりと槍を握りこんで、その切っ先を化けガエルに向けたのでした。
いろんな人に危険視されるノマちゃんですが、その実態は調子に乗りやすいお馬鹿です。




