元伯爵令嬢キルエリッヒ・ドーマウス
「実際のところさーぁ、ゼリグのほうはどうなのよー。ちょっとくらいは隠し持ってんじゃないんですかーー?」
「うっせー、こないだも言っただろうがよ。もう逆さに振ってもなんも出ねーって。キティーの方こそ隠し財産の一つでもねーのかよー。」
寝具の上にぐでんと横たわり、同じく横で寝っ転がった赤毛の悪友に、もうちょっとくらい金持ってんじゃねーのかよと聞いてみたのですが、帰ってきたのはつれない返事。
ああお金が無い、お金が無い。ついこの間までは小金持ちで良い気分だったというのに、まさかこのキティー様がこんな醜態を晒すとは思いませんでした。はふーん。
いや、それにしても疲れました。ノマちゃんを競り落としてから、七曜が一巡りするまでのこの七日あまりというもの、金貨千枚を工面する為に二人して方々を走り回っていたのですから。
あれは本当に、私達のありったけでした。今回の仕事の為に兄から渡された軍資金も、その仕事の報酬も、実家から持ち出してきた財産からゼリグが蓄えていた手柄首の報奨金まで、用意出来るだけの現金をつぎ込んだのです。
商売道具である武器防具の類や、着るものに住むところまで現金化しなくても済んだのは幸いでしたが、もはや私達は一文無しの素寒貧。一刻も早く次の仕事にありつく必要があるでしょう。
「なあ、キティー。お前はどう思うよ?競りの舞台に立っている時のアイツの目、やっぱり魅了の呪いとかその手の代物だと思うか?」
「さぁてねえ。あの手の呪いの類って門外漢なのよねえ。とはいえ、いくらノマちゃんが可愛い上にあの場でその実力や有用性を示して見せたとは言っても、あの会場の熱気はちょっと異様だったわ。あの子が意図してやったのかはともかく、なんらかの呪いの類が発動してたと考えるべきでしょうね。」
あの時、あの会場にいた私達は明らかに正気ではありませんでした。正気であったならばいくら見知った少女とはいえ、後先考えずにあんな大出費をするような判断を下すはずが無いのですから。
怪しまれぬよう、入札に参加できるようにと軍資金を預かって、赤毛の友人と二人、兄の手引きで潜り込んだ非合法の競り会場で見た物は、数日前から姿の見えなくなっていた銀髪の少女が舞台の上で見世物のように扱われる姿でした。まあ当の本人は乗りに乗っていましたが。
彼女が姿を消してからも、我が友人は「むしろあの銀髪がどこで何をやらかしてるかのほうが心配だ。」とか言ってそしらぬ振りをしていたものですが、その割にはそわそわと落ち着きの無い様子で、急に立ち止まってはひょいひょいと裏路地を覗きこんだりするあたり、可笑しいやら微妙に鬱陶しいやらなんとも言えない気持ちにさせられたものです。
まあ、正直に言えば私も似たようなもので、心配こそしていなかったものの、それでもなにか面倒ごとに巻き込まれたのだろうと気に病む気持ちも、多少は無いでもなかったのです。
それがまあ、目の前で繰り広げられるのは、いつの間にやら囚われの身となっていたらしき件の少女が、舞台の上で檻から飛び出し満面の笑みで恰好を付ける茶番劇。
彼女の無事を確認出来たことに安堵するよりも先に、若干イラっとしたのはまあ仕方の無い事でしょう。我が友人のほうもそれは同じであったようで、手にした酒のグラスにぴしりとヒビが入ったのを私は見逃しませんでした。
その時点では、私達にノマちゃんを落札するつもりなど無かったのです。そのような事をせずとも、あの子は勝手に逃げ出してくるであろうことはわかっていたのですから。まあ、その際ついでに悪徳商人やら成金貴族やらがいくつかぶっ潰れるかもしれませんが、そこまでは面倒を見切れません。
友人と二人して静観の構えで、どんどんと上がっていく入札額にはしゃぎ回り、どったんばったんと踊り狂う銀髪の小娘を生暖かい目で見守っていたものですが、不自然さを感じ始めたのはこのあたりからでした。
興奮して息を荒くしたノマちゃんの紅い目が、さらに紅く暗く輝いて、その光に誘われるように天井知らずに入札が行われていったのです。
周りの男達が口から泡を飛ばして狂ったように腕をあげ、入札額を吊り上げる姿は一種異様なものを感じさせましたが、その暗い光は私達にとっても無関係なものではありませんでした。
あの子が欲しいと、あの銀髪の少女を手に入れ、迎え入れ、お仕えしたいと、私の心に強烈な欲求が沸き上がったのです。この衝動が明らかに異常なものあることを頭では理解出来ていたのですが、私は、私達は己の欲求に逆らうことが出来ませんでした。
私達も腕を振り上げて入札に参加し、後先考えずに額を吊り上げ、一度は金貨七百五十で止まった数字を一気に突き放しての金貨千枚。さすがに他の連中は諦めてくれたようでしたが、直後に冷静になって、思わず頭を抱えたものです。
そろりと横を見れば、友人も青い顔をしていました。「やっちまった……。」じゃねーよ。私もやっちまったよ。どっちか止めろよ。本当に。
まあそのうっぷんは当のノマちゃん本人で思う存分晴らさせて貰ったわけですが、私達の心変わりと彼女の瞳の輝きが無関係だとは思えません。あれもあの子の、吸血鬼とやらの力の一端なのでしょうか。
「気がかりなのはねぇ、私達より財力があるであろうあの場に居た他の連中が、金貨千枚で手を引いたことなのよねー。私達同様に魅了を受けていたのなら、己の身を滅ぼしてでももっと食い下がって来そうなものなんだけど。」
そのおかげで私達はノマちゃんを落札できた、いや落札できてしまったわけなのですが、正直助かったというべきでしょうか。おそらく私達は、あれ以上に額が上がっていたとしてもそこで引くことは無かったでしょうから。例え私達自身を抵当に入れて、何もかもを投げ出してでも。
「心当たりならあるな、私達二人には、他の連中とは違う事情がある。」
自問自答のつもりだったのですが、返事は意外なところからやって来ました。頭脳労働は私の仕事であり、我が友人は頭を使うは苦手な子だと思っていたのですが、何か心当たりでもあるのでしょうか。
「血だよ。私達二人は、ノマの奴に血を飲まれてる。アイツが自分で言ってただろ?血を吸った相手の心と身体を支配しちまうってな。アタシら二人は、身体こそ化け物に変じることを避けられたが、心は支配されちまってたって事じゃねーかな。あの銀髪の小娘にさ。」
「私達は、あの子に心を支配されていたから、魅了の呪いがより強く、その効力を発揮したと?」
「そういう事、なんじゃねーかなあ。まあ、当てずっぽうだがよ。」
……なるほど、筋は通っている気がします。あの銀髪の少女を手に入れたいと願ったは、あの会場に居た者はみな同じであった事でしょう。ですが彼女の魅了は、己の全てを投げ出させるに至るほどに強烈なものでは無かったが故に、入札に参加していた彼らは金貨千枚で手を引いたのです。あの子に心を支配されていた私達二人を除いて。
ぎりり、と、奥歯を噛みしめました。冗談ではありません、例えノマちゃんであろうとも、私の心は私のものです、他の誰にも渡しはしません。私は、私の物なのですから。
あの会場での、ノマちゃんの瞳の暗い輝きは、おそらく興奮した彼女が無意識に行った事なのでしょう。ですが、それをあの子が、意識的に向ければどうなるでしょうか。その時私は、己というものを失い、あの子に言われるがままの操り人形になってしまうのでは無いでしょうか。
ノマちゃんがそのような事をするとは思えませんでしたが、きっとやろうと思えば出来るのです。その事を考えると私は恐ろしくなり、震える体を自らの腕で強く抱きしめました。
「ゼリグ、なんとかして、あの子の支配を抜け出すわよ。まあ、今はまずお金の工面からだけど、いずれにせよこのままではいつか身を滅ぼす事になるわ。」
「そいつは賛成するがな、何か手はあるのか?正直言ってノマの奴を正面から打ち倒すなんて出来る気がしねーし、そのそも解呪の方法をアイツが知ってるのかも怪しいぞ。」
「そりゃあ、まあ……なんとかするのよ!なんとか!絶対に私達はノマちゃんに打ち勝って、あの子の支配を脱するのよ!自分の心を誰かに支配されるなんでまっぴらごめんだわ!!」
己を鼓舞し、気勢を上げて、寝ころんだまま右腕をぐっと突き上げて拳を握りしめました。
やってやる!私達は絶対に!あの子を打ち倒して自由を手に入れるのです!!
よーしやってやるぜと決意を固めた私は、空いた左手で、私のお腹の上で白目を剥いてピクピクと痙攣するノマちゃんのお腹をムニムニと揉んだのでした。やわらかーい。
さて翌日、昼食を終えて早々に、外套を羽織って帽子を目深に被った私は金策の為に家を後にしました。なんせ決意は固めてみたものの、まずは先立つものが無ければ生活もままなりません。
ゼリグはゼリグで、手っ取り早い稼ぎに心当たりがあるとか言って、朝も早くから出かけて行ってしまいました。ですので、私も己の心当たりに向かうことし、王都の中心たる貴族街へと足を向けたのです。今は兄が当主を務めている、私の実家へと。
正直に言えば、実態調査の報告書を上げる前に急遽現金が入用になったので先に金くれ、金。と無心をしたばかりですので、兄には顔を合わせづらい事この上無いのですが背に腹は代えられません。
というかそもそも仕事の報告が済んでいませんし、さっさとこの件を終わらせて、次の仕事の口利きをお願いしようと思ったのです。なるべく儲かるやつを。
せっかくなのでノマちゃんも連れて行き、エセ皇女様と兄の顔を繋いでおこうかと思ったのですが、彼女は朝っぱらから部屋に閉じこもり、貨幣と帳簿を相手になにやらうんうんと唸っていたものですからそっとしておきました。
思い返すは彼女を買った翌日の事。金貨千枚の返済の為に、何か仕事を任せてくださいと言う彼女に対し、競りの会場でこの子は算術を操れるという触れ込みであった事を思い出した私達は、すっかり手持ちが心許なくなった金銭の管理を任せてみたのです。しかしまあ、これがまたとんだ藪蛇でありました。
家計簿はあるかと言うので無いと返し、ここ最近の仕事の収支を教えろと言うので忘れたと返し、とりあえず手持ちの資金を見せてくれと言うので、手持ちの巾着を放り出した後、なんかそこらへんにしまっておいた気がすると記憶を頼りに家探しをしていたらノマちゃんがキレました。
彼女に言わせれば、私達はどんぶり勘定も良いところなのだそうです。現物と記憶を頼りにノマちゃんが帳簿をつけてみれば、辛うじて私達の収支は赤では無かったようですが、ほとんどザルも同然でした。入ってきただけがばっと出ていくのです。
「いいじゃない適当で。私達が稼いだお金なんだし、今のところ生活出来ているんだし。」と、ゼリグと二人で反論したところ、二人して地べたに座らされて、椅子の上でふんぞり返った銀髪のガキにお説教されました。
それでも大人かと、今は良くてもいつお金が入用になるかわからないのですから、ちゃんと金銭の管理をして蓄えを残しておくべきだと叱られたのです。うぜえ。
ちょっとアレなんとかしなさいよ、と友人の方を横目で見れば、あの赤毛の野郎は目を開けたまま寝てやがりました。ちょっとどこで覚えたのよそのテクニック。後で私にも教えなさいよ。
ノマちゃんは、昨夜にさんざっぱら私達に嬲り者にされた鬱憤が溜まっているのか、なんか明後日の方向に話が飛びながらも熱弁を振るいうっとおしい事この上無いのですが、慣れない正座とやらをさせられた私達はすっかり脚が痺れてしまって無抵抗です。
ですがまあ、彼女の言う事には一理も二理もありました。確かに私達は、急遽お金が必要になる事態に遭遇し、目減り中であったとはいえ、実家から持ち出してきたり手柄首の報酬金だったりという蓄えがあったからこそ、それを切り抜けることが出来たのですから。
納得いかないのは、お金が入用になったその原因は、私達に偉そうに説教をかましているこの小娘だと言う事です。腹立つわー。
まあその夜に、ひとしきり言いたい事を言ってむふーっと満足気なノマちゃんの顔を、私達の腹立たしさをぶつけてやって泣き顔に変えてやったのでその件についてはすっきりしました。
しかしながら、その翌日から彼女も彼女で、やられた分をやり返すかのように私達のお金の粗を見つけてはお説教をかましてくるのです。そしてイラっとした私達が夜になってそれをノマちゃんにぶつける悪循環。
とはいえあの子のお説教もちゃんと的を射た事を言っており、明らかな言いがかりでは無い以上、いずれお説教のネタが無くなったあの子に私達が勝利することは確定しています。まあ良いとしましょうか。
「待たれよ。ここから先はドーマウス伯の私有地である。許可無き者は立ち去るが良い。」
がしゃん、っと。目の前で交差された槍の音に我に返りました。どうやらいつの間にやら、実家の正門前まで来ていたようで、門衛二人が私の事を胡乱な目でねめつけます。ふむ、どうやら居眠りなどはしていないご様子。お仕事ご苦労。
「お兄様……いえ、ドーマウス伯に用事があるのだけど、通してもらえるかしら?先触れは出していないのだけど、構わないでしょう?」
帽子をとって顔を見せれば、途端に門衛達は封鎖を解いて、私に道を開けてくれました。
「失礼、キルエリッヒお嬢様でしたか。どうぞ、お通り下さい。」
「ありがとう。でもお嬢様は止めて頂戴。今の私はただのキティーよ。」
そう返し、無駄に立派な門構えの正門をするりと潜り抜けます。もはや実家であるドーマウス伯爵家とは関係のない事を主張しておきながら、使えるところでは嫡出子である事を振りかざすあたりずるい気がしないでも無いですが、使えるものは使うのが私の信条です。便利な肩書は使い倒させて頂きましょう。
本邸とはいえ狭い王都の中の事、そう大層なお庭があるわけでもありません。すぐにお屋敷が目に入りましたが、正門を潜ったその脇に、妙に豪華な仕立ての馬車が停められているのが気にかかりました。兄は多忙故、どこぞのお客人でも迎えている最中であるのかもしれません。
本館に近づいてみれば、いつの間に連絡が回っていたのか、使用人が数人並んで私を出迎えてくれていました。彼ら、彼女らは恭しく私に頭を下げ、代表として年かさの執事が一人、前に出ます。
「お帰りなさいませ、キルエリッヒお嬢様。若様は執務室におられますが、現在はお客様とご歓談されております故、申し訳ございませんが今しばらくお待ち頂ければと。」
「構わないわ、先触れも出さずに訪問したのは私のほうだからね。それと、何度も言うようだけどキルエリッヒは止めてくれないかしら?」
「失礼致しました。しかしながら私どもにとってみれば、キルエリッヒお嬢様はどうあろうとも、このドーマウス伯家のお嬢様であらせられるものですので。」
じとりと半眼になってみましたが、百戦錬磨の老執事はひょいっと肩を竦めて見せるだけでした。思わず閉口しましたが、なにせこのご老人は私の事を生まれた時から知っているのです。この私をもってしてもどうにも勝てる気がしない苦手な手合いであるのですから、ここは引かざるを得ないでしょう。
「……まあ、いいわ。あなたと張り合っても勝てる気はしないもの。お兄様の所用が終わるまで待つから、客間に通して頂戴。」
「かしこまりました。すぐにお通し致します。」
老執事が目配せをすると、私のお付きについた一人を残して、控えていたメイド達が散って行きます。客室担当の者達に、私の急な訪問を伝える為でしょう。おそらくは、私はこれから何か適当な名目で遠回りをさせられて、その間に彼女らが大急ぎで出迎えの準備を整えるのです。
昔の私にとってみれば、己の為に全てが整えられているというのは当然であったものの、市井に降りてからは私も色々と学んだのです。彼女らの苦労を思えば急な訪問を多少心苦しく思うものの、その慌てる様を想像してみるのは少々意地の悪い楽しみでもありました。いやまあ、わざとやっているわけでは無いのですけど。
「ではお嬢様、私もこれにて失礼させて頂きます。案内はこちらの者に行わせますので、なんなりとお申し付け下さい。」
老執事も頭を下げて去っていき、残されたのはくすんだ金髪の、客間女中の少女が一人。見ない顔ですが最近雇われた子でしょうか。それで花形のパーラーメイドに抜擢されるとは大したものです。
その横顔はまだ幼さを残しているものの、ちょっと垂れ目のその顔は、どことなく小さい頃の私を彷彿とさせました。客間女中専用の、フリル多めのお仕着せがなんとも可愛らしい事。もしかして私に似ているから厚遇されているとかじゃ無いですよね?
「そ、それではキルエリッヒお嬢様、わ、私がご案内をさせて頂きましゅ!」
噛んだ。可愛いなこの子。持って帰っちゃ駄目だろうか。お手付きにしたい。
予想のとおり、客間女中の少女は準備の時間を稼ごうとしているようで、私を先導して歩きつつも、お庭の案内を~とかお屋敷の案内を~とか言い出して私を遠回りさせようとしてくるのですが、ここは私の生家であるのです。いまさら案内されるものなどありはしません。
それを指摘してあげれば、彼女はぴしりと固まったあと、おろおろと視線を彷徨わせながらどんどんと目尻を下げていきました。やっぱ持って帰りたいなあ。この子。
正直に言って客対応としては失格も良いところですが、私みたいな奴が相手であれば、小動物のような彼女の狼狽え様は十分に目を楽しませてくれるものなのです。老執事もそれがわかっているからこそ、新参の彼女に大役を任せたのでしょう。私に対する生贄という貧乏くじを引かされただけとも言えます。
「ぶふー。おや、そこに居らっしゃるのは、もしやキルエリッヒ嬢では無いかね。」
女中ちゃんをつつき回して、ニヨニヨと良い気分であったところに水を差されました。目を向ければ、そこにいたのは四人の少女を侍らせた、ぶくぶくと肥え太った豚のような男。
どうやら、兄が迎えている客人とはこの男であったようです。昔からドーマウス伯家と親交のあるこの豚は、知らぬ相手では無いもののどうにも嫌悪感を感じて好きになれません。
出来れば顔を合わせたくなかった相手なのですが、所用が済み、退出するところへ鉢合わせしまうとはつくづく運の無い事です。
「……お久しぶりでございます、マッドハット卿。ですが、私はドーマウス伯家からは既に勘当された身であるからして、今はキティーと名乗らせて頂いております。どうかそう、お呼び頂ければと。」
「ぶふふー。そうか、そうか。市井に降りたとは聞いていたが、壮健そうで何よりだ。慣れぬ生活には色々と苦労もあるだろうが、必要であれば私を頼りなさい。君のような美しい女性が身を持ち崩すのは見るに忍びないのでね。」
私の身を案じる風で、その視線は私の胸や腰のあたりを向いています。この男を頼れば見返りに何を要求される事やら。
男の視線が女中ちゃんにも及び始めたのを見て、するりと彼女の前に出て、不躾な視線から守ってあげました。ゼリグの奴はこの男の事を評価しているようなのですが、こんな豚のどこが良いのか私にはさっぱりわかりません。
「ええ、その際は、ぜひマッドハット卿を頼らせて頂きます。そのような境遇に陥らないよう気を引き締めたいものですね。」
「ぶふふ、まあそう、遠慮為されるな。君に対してなら我が家の門戸はいつでも開いている故、困った事があればいつでも訪ねてくるといい。」
私の嫌味に気づいていないのか受け流されているのか、豚は相変わらず私をジロジロと舐め回してきます。殴りかかれば勝てるでしょうが、さすがに兄の客人を相手にそういうわけにもいかないでしょう。かといって年季の入った古狸に口先で勝てるはずも無し。
うふふ、ははは、と目だけが笑っていない談笑を続けていると、背中の後ろの女中ちゃんが私の裾を握ってちょんちょんと引っ張り始めました。さすがに経験不足の彼女にこの空気は耐え難かったようです。もうちょっと待っててね、私から引いてやるのも癪なので。
「ご歓談中失礼します。ご主人様、そろそろお時間です。次の予定がございますので。」
「む、もうそんな時間か。それではキルエリッヒ嬢、私はこれにて失礼させて頂くよ、ぶふー。」
もうめんどくせえからぶん殴ろうかこの豚と思い始めた頃、後ろに控えていた四人の少女の一人、長い黒髪を腰まで伸ばして、猫の耳と尻尾を生やした黒猫のような少女が割って入りました。よし、あっちが先に引いたわ。勝ったわ。何にだろうか。
先ほどまでこの豚と談笑と言う名の殴り合いを続けていたので気づきませんでしたが、この子にも、残る三人にも見覚えがあります。あの競り会場で、獣人国の元男爵令嬢と言う触れ込みで売られていた獣人の少女達。
栄えある王国侯爵家のご当主様ともあろうものが、おかしなところに出入りしているものですね。と指摘してやりたいのはやまやまですが、例え気づこうともあの手の場所に居たことは公言しないのが暗黙の了解というものです。なぜにそんなことがわかるのか、と己の身にも跳ね返ってくるのは目に見えているのですから。
すれ違いざま、豚の後ろに続いて歩く猫耳ちゃん達にこっそりと手を振って見せれば、彼女達も尻尾をゆらゆらと揺らして返してくれました。うーん、やっぱり可愛いなあ、あの子達。ちくせう。
それにしても、あの子達を買ったのはあの豚でしたか。実は私も猫耳の魅力に負けて、あの会場で思わず手を上げかけたのですが、ゼリグの奴に頭を張り倒されて止められたのです。
てめえ何すんだこの野郎、とテーブルの下でお互いの足をげしげしと踏みあったものですが、そのおかげでノマちゃんを買えるだけのお金が残ったのですから結果的には良かったのでしょう。私としては逃した魚の大きさに身を裂かれる思いのであるのですが。
なにせ、あんな可愛い子達が豚の餌食になっているのです。ぜひとも四人まとめて救い出し、手元に置いてお手付きにしたいところですが、さすがに強盗も良いところですので我慢せざるをえません。
というか少女四人も攫って戻れば、ノマちゃんにさんざっぱらお説教を喰らった上にゼリグに官憲に突き出され、その報酬が私達の飯の種になること間違いなしでしょう。ちなみに私だけ臭い飯です。
しかし、あの侯爵家ときたらどうなっているのでしょうか。当主の好色に任せて無計画に使用人を雇い入れているようですが、知る限りマッドハット侯爵夫人は強い女性であるからして、夫に何も言っていないとは思えません。何事も無ければ良いのですが。
廊下の端で、マッドハット卿が黒猫の少女に何事か話しかけているのが遠目に見えたので、何か情報は得られないかと指を振るって白の神にご加護を願います。
願うは白の神の魔法「集音反射器」。目に見える範囲の音を集める程度の術ですが、まあ盗み聞きくらいには使えるでしょう。
「ぶふー。そういえばなクロネコ、今夜あたり、そろそろ揚げ物が食いたいのだがな。」
「なりません。ご主人様は少々お太り気味であらせられますので、しばらくはお野菜と蒸し料理を召し上がっていただきます。」
「おいクロネコ、儂は貴様の飼い主だぞ!?」
「奥様に言いつけますよ?」
「やめて。」
……いや、本当に、なにをやっているんでしょうね。あの家は。
「キルエリッヒお嬢様、こちらが、その、ご当主様の執務室であらせられまひゅ!」
「……うん、知ってるわ。ありがとう。」
さて、多少回り道はしてしまったものの、ようやく本日の目的である、兄の執務室の前までやってこれました。
先客が帰ったので、あの後すぐに兄の所へ乗り込もうとしたのですが、ご当主様にも準備があるからと女中ちゃんに引っ張られるようにして客室まで連れていかれてしまったのです。
まあ、肩で息する客室担当のメイド達の頑張りを無下にするのも気が引けましたので、ゆっくりお茶を一杯頂いてからこうして参った次第ではあるのですが。
私に代わってノックをしようとする女中ちゃんを手で制し、目を瞑って、すぅと一度深呼吸をして目を開き、私はごつんと、拳で扉を叩きました。
「お兄様、キティーです。入りますよ。」
「この品の無いノックの仕方はキルエリッヒか。構わん、入りなさい。」
兄の返事を最後まで聞くこと無く、あわあわと手を彷徨させる女中ちゃんを置いて執務室に入ります。入るなり、兄と向き合って立ち止まる私の後ろを、女中ちゃんはシツレイシマースと小声で潜り抜けると壁際にぴたりと立って置物になりました。
正面の大きな執務机に腰掛けるは私の兄、私のやんちゃに耐えかねて引退してしまった両親に代わって当主に着いた、現ドーマウス卿です。私よりも大分と暗い桃色の髪と瞳をした我が兄は、社交界では随分とおモテになる様子ですが、いまだに浮いた話の一つも聞いたことがありません。
「久しいな、キルエリッヒ。直接顔を合わせるのは暫くぶりか。」
「ええ、お久しぶりです。お兄様。この度は……。」
「で、仕事の報告か?それともまた金の無心にでも来たか。先日の競り会場では随分な散財をしたようだな?この愚妹めが。」
っち、もう耳に入っていやがったか。ゼリグとノマちゃんには兄との関係は良好だと言ったところで、実際にはこの有様。兄にとってみれば家から放り出された私など、多少便利な手駒の一人に過ぎないのでしょう。
「……調査結果の報告に参りました。こちらの資料に見聞きした物事と、関わりを確認出来た人物を纏めてありますので、後程ご確認下さい。」
「渡せ。今確認する。」
相変わらずせっかちなお人だ。前に出て封書を差し出せば、兄は短剣でぴっと封を切って私の報告書を読み始めました。ちなみに書式の監修はノマちゃんです。
「ふむ、相変わらず、あの蠍の商会は手を広げているようだな。これ以上勢力図を塗り替えるようなら何か介入も必要か。」
「西方の連合王国や、極東のひんがしからの品も目立ちました。これまでに無い独自のルートを開拓しているようですね。」
「結構だ。に、してもキルエリッヒ。お前が落札した皇女様に関する記述が無いようだな?」
……皇女様?ノマちゃんか。あの子の情報も既に兄に伝わっているようだが、何か兄の琴線に触れるものでもあっただろうか。
「確かに、あの子は美しい銀の髪と紅玉の瞳を持っていますが、だからといってそれだけで皇女様などと。まさかお兄様は、あの闇商人共の宣伝文句を信じるおつもりで?」
「キルエリッヒ、あの娘が本当に亡国の皇女であるかどうかなど、我々にとっては些末な話なのだ。問題は、あの娘の容姿と能力は、彼女の事をかつての帝国の正統後継者であるとして祭り上げるに足るものである、という事なのだよ。」
「かつての帝国領土は、とうの昔に北方の蛮族共の支配地域に組み込まれてしまっています。今更人族領域で、亡国の皇女を担ぎ上げて良からぬ企てをする者が居るとでも?」
「可能性の話だ。現状でそのような輩がいるとの情報は掴んでいないが、あの娘が世に出れば、そういった国を乱したいだけの馬鹿共が湧いて来かねん。」
なるほど、兄の言うことも理解できます。彼女の望む望まぬに関わらず、あの子の特異な容姿と能力が厄介ごとを引き寄せるという事なのでしょう。
あの頭の軽いあんぽんたんが、神輿の上に担ぎ上げられて調子に乗る様が目に浮かびます。まあ、積み上げれるだけ積み上がった高い高いお神輿が、自重に耐えかねて土台ごと見事に崩壊していくのも同じくらい目に見えるのですが。
「本来ならばな、彼女の存在を確認した時点で、我々の側であの娘を確保して飼い殺しにするつもりだったのだ。それを、お前が例の悪癖を発揮して横から攫って行ったせいで、予定を変更せざるを得なくなったがな。」
「あの場に居た手駒は私達だけでは無かったという事ですか。ではマッドハット卿も本日はその件で?」
「その通りだ。今日の議題は突然現れた、あの厄介な銀髪の皇女様の事だったのだよ。まあ、卿はドーマウスの娘が出張ってくれたおかげで金貨が浮いたと喜んでいたがね。」
「ではその浮いたお金で、これ幸いと自分の趣味にお金をつぎ込んだわけですね。」
「……何の話だね?」
「先ほど、マッドハット卿が連れていた獣人の少女達です。先日の競りに出されていた商品ですよ。あの子達は。」
「…………まったく、卿の好色にも困ったものだ。」
そう言って、兄は頭を抱えてしまいました。兄に一発喰らわせる機会は中々無いので、今回は良いネタが手に入ったものです。んふふ。
いやしかし、かなり危ないところでした。どうやら兄はノマちゃんの身柄を確保して軟禁でもするつもりであったようですが、そんな事をされてあの子が大人しくしているとは思えません。仕事の報酬を受け取りに行ったら実家が崩壊してましたなんてとても笑えたものではありませんので。
「まあ、他家の問題だ。私が口を挟む事でも無かろうて。それよりもだ、お前が散財した金貨千枚、こちらで用意してある。割符を渡すから持っていくといい。」
「……どういうことでしょうか?お兄様に施しを受けるいわれはございませんが。」
「あの少女は、元々こちらで確保する予定だと言っただろう?今回の調査の必要経費の範疇だ。持っていけ。」
…………思わず、眉がぴくりと動きました。どういう魂胆でしょうか。私に恩を売って首に紐を付け、手元に戻す気では無いでしょうね。
一度は勘当された身であるとはいえ、私はドーマウス伯爵家の嫡出子。さらには神学校で教養を学び、自分で言うのもなんですが外見も優れた若い娘です。多少経歴に傷がついているとはいえ能力は本物である以上、他家との婚姻に出して結びつきを強めるには都合の良い駒であると言えるでしょう。
冗談ではありません、今の私は自由の身であるのですから。ノマちゃんにもお兄様にも、私の心と身体を縛り付ける権利などありはしないのです。
「失礼ですがお兄様。その件については辞退させて頂きます。あの銀髪の少女は、私が自分の意思で購入したもの。ここでその金貨を受け取ってしまっては、あの子の今後について、お兄様の意見を尊重しない訳にはいかなくなってしまいますので。」
「それとこれとは話が別だ。お前がどう考えようとも、それが王国の為になるのであれば私はあの娘の一件に介入する。だがこの金貨はそれとは関係の無い、お前が受け取るべき正統な報酬だ。」
「いえ、お兄様、私はそうは思えません。ここでその金貨を受け取ってしまえば、私はお兄様とドーマウス伯家に対しての負い目を背負うでしょう。お兄様であれば、そこに付け込んで私を操る事など容易いはずです。」
「キルエリッヒ、私はそのようなつもりは……。」
「お兄様。お兄様は、常に王国と、ご自身の家の為に動いていらっしゃる。それはそれで正しいことなのでしょうが、その為の駒として私を手元に戻したいと思っていらっしゃったとしても、最早私は籠の中の鳥では無いのです。それを忘れないで頂きたい。」
言い切ってやりました。つい頭に血が上って、久しぶりにお兄様に対して噛みついてしまいましたが、自分の意見を取り下げる気はありません。私は間違ったことは言っていないつもりですし、かつてのように、何かの為にと理由を付けて、己の身体を売り渡す事を許容するつもりもないのです。
思わぬ私の反撃に兄は押し黙ってしまいましたが、ここは追撃の一手でしょう。今のうちに言いたい事を言うだけ言って畳みかけ、反論される前にさっさととんずらをするに限ります。なんせ弁舌では兄に敵いませんから、勢いで押し切って態勢を立て直される前に当て逃げしなければなりません。
「そもそもにしてこの執務室、私への当てつけのつもりですか?お兄様は、私がドーマウス伯家の駒として、自分の思い通りにならないことを余程嫌っていらっしゃると見える。」
目を睨みつけながらの私の一言に、図星を指されたのか兄は思わず呻き声をあげました。なんせ、正面の執務机に座る兄の後ろ、壁の一面には、ででーんと巨大な私の肖像画が飾られているのですから。これは私への嫌がらせに他ならないでしょう。恥ずかしい。
それも一枚ではありません、部屋の外周にはぐるりと取り囲むように、幼い時分から家を出た年まで、様々な年齢の私の肖像画が飾られているのです。
これらはドーマウス伯家のお抱え絵師の手によるもので、毎年私の誕生日に成長の記録として描かれていたものなのですが、すっかり倉庫で埃をかぶっているものとばかり思っていたのにいつの間にやら引っ張り出されて、こうして四方八方から私を見つめる呪いの絵画と化していやがるのでした。
「私は、恥ずかしいからやめて欲しいと何度も申し上げたはずです。お兄様は、そんなに愚かな妹に対して嫌がらせがしたいのでしょうかね。」
「い、いや……これはだな、キルエリッヒ…………。」
よし、言ってやった言ってやった。後は兄が口を開く前に逃走あるのみ。
「ではご機嫌よう、お兄様。それと、私はもはや貴方の妹、キルエリッヒではありません。今は貴方とは何の関係も無いただの傭兵、キティーですので、それをお忘れなく。」
そう言い捨てて、扉を開けて退出します。去り際に女中ちゃんを一瞥すると、彼女は悲しさと生暖かさが入り混じったうえで笑いを堪えていそうな、なんとも絶妙な表情をしていました。今のやりとりになにか可笑しい事でもあったでしょうか。
後ろ手に扉を閉めれば、聞こえて来るのはガタンと何かが倒れる音と、「だ、旦那様ぁぁぁぁあ!お気を確かにぃぃぃぃい!!」という小さな悲鳴。兄は途中から顔色を悪くしていたのですが、働きづめで無理が祟ったようです。愚妹はしばらく顔を見せませんので、ゆっくり養生して欲しい物ですね。べー、だ。
そんなこんなで、すれ違う使用人達と挨拶を交わしつつ、伯爵家の敷地外まで戻ってきた私は、思わず路地裏に頭を突っ込んで叫び声をあげました。
「あああぁああああぁぁ!!!やっちまったぁぁぁぁぁあああ!!!?」
これはまずい。何をやっちまったって、いつの間にやら、自分の我を通して兄に一発かます事が目的になってしまって、本来の目的であった金策が丸ごとどこかにすっぽ抜けてしまっていたのです。
補填の金貨千枚はいずれにせよ断ったでしょうが、そうでなくとも何か回してもらえる仕事は無いか、口を効いてもらうつもりであったというのに。
今更引き返して話を持ち掛けるにしても、さすがに気まず過ぎます。ここはほとぼりが冷めるまで大人しく引き下がらざるをえないでしょう。まったく誰でしょうか。兄に喧嘩を売って関係を拗らせた愚か者は。ぐぬぬ。
はふーん。こっちは大失敗でした。まあ、ゼリグの奴も当てがあると言っていたのです。色良い話を持って帰ってくる事を期待するとしましょうか。
とぼとぼと帰りつつ、いつぞやゼリグが買ってきた焼き菓子のお店の前で足を止めましたが、ノマちゃんから数字という形で現実を突きつけられた今となっては無用の出費はなるべく控えたいところ。お茶請け一つ満足に買えないとは情けないものです。はぁ。
お店の前でむーんと腕を組んで唸っていると、後ろからそろりと近づいてくる、外套を羽織った小柄な女が一人。まさかとは思いますが、この白昼堂々に物盗りでしょうか。もしそうならとっ捕まえてOSIOKIしてやるのですが。
気づかない風を装っていると、彼女はするりと私の懐に入り込み、小包みを差し出して去っていきました。一瞬こちらを振り向いて、にこりと笑いかけたは女中の少女。そして思わず受け取ってしまった包みからは焼き菓子と思しき甘い香り。
ふふふ、誰の指示だかわかりませんが、なかなか気の利いた事をしてくれるでは無いですか。今度会う機会があれば、存分になでなでしてあげましょう。
それにしてもまあ、私の呼吸の合間を読んだ、実に良い体捌きをするものです。包みを差し出されただけであったので手は出さなかったものの、一方で反応しきれなかったのもまた事実なのでした。
差し出されたのがお菓子では無く刃物であったならばどうなっていた事やら。あるいは彼女の本業は、兄の子飼の暗部要員であるのやもしれませんね。
まあ、私が詮索しても詮無き事。上手い事お茶請けも手に入った事ですし、帰ったらお茶でも入れて、ノマちゃんのご機嫌を取るとしましょうか。
そう考え直してニヤリと笑い、私は足取りも軽く家路についたのでした。
哀れシスコン兄さん




