悪鬼ノマ
「っち、アタシらしくも無いね。」
ひらひらと手を振って、キティーに担ぎ上げられたノマを見送った。ぷるぷると震えながらアタシに向かって手を伸ばす姿は、荷車に載せられて出荷される子羊みたいに見える。こんなのが本当に、夜な夜な人を喰らおうっていう化け物なんだろうか。
アタシ達を騙そうとしている演技だという可能性は捨てきれなかったが、あの銀髪にそんな腹芸が出来るとは思えない。だって馬鹿なのだ。ここ数日、ずっと一緒にいたのだからよくわかる。
茶でも飲んで気を落ち着けようとしたが、茶器の中はすでに冷え、ぬるくなってしまっていた。慣れぬ茶を一息に飲み干す。やっぱり、こういうお上品な品はアタシの性には合わないようだ。
今夜も酒場へ繰り出そうか。ノマの奴も、弱いが一応イケる口のようだ。がばがば飲ませて酔わせたら、今日の一件も許してくれないだろうか。キティーの奴は簀巻きにして家に放り込んでおけばいい。
ああ、そうなればいいな。あのお馬鹿な子をこの手にかけるなんて事は、できればしたくない。
らしくもないアタシの感傷は、寝室から聞こえるどっすんばったんという雑音に水を差された。キティーの奴は派手にやっているようだ。手荒な真似はするなと言ったのにこれである。
この様子では、ノマの奴もそう簡単には許してくれないだろう。いっそ飲ませまくって記憶が飛ぶほうに賭けてみるか。
皿の上に残った菓子の欠片を、ひょいと摘まんで口に入れた。その矢先。
「あぐぅっっ!ぎっ!いっ!!」
キティーの呻き声と共に、鈍い音が響いた。咄嗟に、剣の柄に手をかけて立ち上がる。
頭の中まで桃色だろうが腕は確かだ、あいつが後れを取るとはただ事では無い。ノマが仮に化け物であったとして、正面から挑んでくるような腕っぷしのある奴にはとても見えなかった。だからこそ、あの子の泣く様を見たくなかったアタシは、あの桃色に任せきりにしてしまったのだ。
見積もりが甘過ぎた。あの銀髪は今の今まで、見事に猫を被ってアタシ達を騙していたらしい。
くそ。どうやらもう、一緒に酒は飲めそうにない。
寝室に飛び込むと、それはもう酷い有様だった。
二、三人は寝転がれそうな、無駄にでかいベッドの上ではキティーの奴が倒れ伏し、ぴくりとも動かない。両の腕は歪にねじくれて圧し折られており、振り乱された髪が顔を隠して、その表情は窺えなかった。
彼女の上には見慣れた銀髪が圧し掛かり、首元に顔をうずめている。ぴちゃりぴちゃりと、何かを舐め取るような水音が聞こえた。
思わず剣を抜きかけたが、ぴくりと手を止める。場所が悪い、こんな狭い場所では振り回せたもんじゃない。腰の後ろに手を回し、短剣の柄に手をかけた。
「ノマ、アタシだ。聞こえるか?」
アタシの声に反応したのか、銀髪の少女はぎしりと動きを止めると、ぐるんとこちらへ振り返った。
悪鬼がいた。目は爛々と紅く輝き、先ほどまで菓子を頬張っていた口からは、血が零れて滴り落ちている。桜色の舌は赤く染まって濡れそぼり、口内に溜まった血をくちゅりくちゃりと咀嚼して飲み下すと、満足気にぺろりと口元を舐めた。
姿形は変わらない。朝に弱くてみーみー鳴きながら叩き起こされて、甘いものに舌鼓を打ち、口に詰め込みすぎてリスみたいに膨れていた、あの、ノマだ。だが今のこいつは、アタシの知る少女では無い。
「聞こえていますよ、ゼリグさん。」
「悪かったな、手荒な真似をしちまってよ。キティーのやつはまだ生きてるのか知らねえけど、ここいらで手打ちにしてくれたら、ありがたいんだけどな。」
かきりと、短剣を抜いた。ノマから見えないよう後ろ手に隠し持つ。
「嫌です。私、まだ、欲しいものがありますので。」
「菓子なら、そこで寝てる桃色が作れるぞ。詫び代わりに好きなだけ食ってやればいい。」
「お菓子も良いですが、他に欲しいものがあります。もっともっと美味しいものです。」
「へぇ。アタシに隠れてそんな美味いもの喰ってやがったのか。で、何が欲しいって?」
「えへへ、それはですねぇ。」
ベッドの上で、悪鬼がゆらりと立ち上がる。首をかたんと傾けると、上目づかいにアタシを見た。
「欲しい、ホシイ、ホシイんですよ。ゼリグさんのぉ、血ぃぃがああぁぁぁあ!」
ノマの身体が宙に跳ね、五、六歩はあった間合いを一瞬で詰めてきた。かぎ爪のついた五指を広げ、短い腕を振り回してアタシに迫ってくる。
想定していたより遥かに速い。何度か化け物とやり合った事が無い訳ではないが、こんな、風のように動く奴は居なかった。
咄嗟に体を捻ってかぎ爪を躱すと、壁を背にして短剣を構える。
「おら、来いよ、銀髪のチビ。アタシの血が欲しいんだろう?アタシは、ここだぞ。」
ノマの動きは尋常では無い。先ほどの一撃を避けれたのもまぐれみたいなものだろう。だが、付け入る隙はある。
「あは、あひは、アははははははハハハハハはハハ!!」
予想どうり、ノマは再び、腕を振り回しながらアタシに向かって真っすぐ突っ込んできた。素人丸出しの動きだ、殺し合いどころか喧嘩すらまともにやった事が無いんじゃないか、こいつ。
いくら速かろうが、どこに向かってくるかわかっているなら対処は容易い。手にした短剣を目の前まで迫った悪鬼に向かって投げつけると、床を蹴り、全力で横っ飛びに転がった。
床を転げてベッドの端にぶち当たり、がばりと身を起こす。顔を上げて前を見やれば、突進しながら振り下ろされたノマの腕は壁から床までをえぐり取り、その身体は勢い余って、壁をぶち抜いて隣の部屋に転げ出ていった。
あーあー、冗談じゃねーぞ。なんて馬鹿力してやがる、一発受けたらお終いだなこりゃ。
ノマが瓦礫に埋まっている隙に、腕を伸ばしてキティーの足を掴む。そのまま一息に、ベッドから引きずり下ろした。
「おい!くたばっちまったのかキティー!?寝た子を起こしといて一人で勝手に逝くんじゃねーぞてめえ!!」
「うっさい……わね、勝手に……殺すんじゃない……わよ……」
反応があった、まだ生きてやがったか、悪運の強い奴め。
「おう、生きてるみてーだな。癒しの奇跡でなんとかなんねーのか?」
「……駄目ね、もう、体が動かないわ。私の懐に入ってる呪符、持って行ってちょうだい。」
「役に立つんだろうな。」
「……私の切り札。威力は保証するわ、お願い。」
キティーの懐に腕を突っ込むと、よれた紙が指に触れた。中心に燃える目をもった五芒星の描かれたそれは、何の変哲もない紙切れにしか見えず、如何にも頼りなさそうだ。こんなのが役に立つんだろうか。
「よれよれじゃねーか。大丈夫なのかよこれ。んで、どうやって使うんだ?」
続きを促したが、もう、返事は返ってこなかった。先ほどまで辛うじて聞こえていた、ひゅーひゅーという呼吸の音も、いつのまにか聞こえなくなっている。
「っち、肝心な時にくたばっちまいやがって……信じるからなぁ!相棒!!」
アタシが吠えて剣を抜くと同時に、銀髪を振り乱した悪鬼が瓦礫の中から飛び出した。
すぐさま飛び掛かってくるかと思ったが、予想に反して動きが無い。見れば、ノマの右目には先ほど投げつけた短剣が突き刺さり、彼女はそれをなんとかしようと手を彷徨わせている。
運が良い。目眩ましの牽制程度のつもりだったのだが、予想外に効果を発揮してくれたようだ。
ノマの死角に回り込んで機を窺っていると、慌てていたのか、わたわたとしていた悪鬼はようやく短剣の柄を掴んで、ぐちゅりと引き抜いた。
「うーあー。ゼリグさん、酷いです。びっくりしました。」
言い終わらぬうちに、ノマの右目の孔に肉が盛り上がり、見る間に新しい眼球が出来上がると、じとりと私を睨んでみせる。
「ああ、悪かったな。次は、もっと上手くやるからよ。」
以前に、こいつが祈りを捧げていた事を思い出す。化け物の癖に癒しの奇跡が使えるってのか、冗談じゃねーぞ。
「はい、私も、次はもっと上手くやります。」
ノマは手にした短剣の柄をめきりと握りつぶすと、砕けた破片をぽいと投げ捨てた。
剣を構えてじりじりと間合いをとる。腰の短剣はもう一本残っているが、それでどうにかなる相手でも無いだろう。心臓を突けばなんとかなるかもしれないが、果たしてそれで死んでくれるのかすらわからない。
狭い室内で振り回すには向かないが、ノマの大振りをいなすのならまだ片手剣のほうがマシに思えた。どの道、攻めに関してはキティーの遺してくれた呪符に賭けるしか無いのだ。せめて、小型の丸盾でも持ってくるんだったとほぞを噛む。
「来ねぇのか?ノマ。」
「ええ、ゼリグさん。いま、行きます。」
ひたりひたりと一歩ずつ、化け物が距離を詰めてくる。その度に、アタシは一歩下がって、見る間に壁際に追い詰められた。
「さっきみたいに突っ込んでこないのかい。」
「ゼリグさんには、こっちのほうがやり辛いだろうと思いまして。」
っち、要らねえ知恵をつけやがって。悔しいがやり辛い事この上ない。あの怪力だ、殴られようが掴まれようが、身体のどこかに触れられたら、それでアタシの負けなのだ。一度捕まればもうどうしようもないだろう。
壁沿いに、出入り口に向かってずるりずるりと身体を滑らせる。ノマもアタシの行先を塞ぐように、先回りしてそちらに歩みを進める。
銀髪の少女は、もう目と鼻の先だ。ゆらりゆらりと、嘲る様に近づいてきて、下からアタシを見上げてきた。
「ゼリグさん、背が高いですよね。何度もこうして見上げました。」
「小さいからな、お前。足もおせーもんだから、王都に来るまで何度も背負ってやったな。」
「脇に抱えられて、荷物みたいに運ばれましたね。恥ずかしかったです。」
「菓子を買ってやっただろうが、あれでチャラにしてくれよ。美味かったか?」
「ええ、美味しかったです。今からもっと美味しいものを頂きますけど。」
追い詰められたアタシに、ノマがゆっくりと腕を伸ばす。駄目で元々、振り下ろした剣は肩口を捉えて薄皮一枚傷をつけたが、けれどもそれだけだった。刃が通らない。
「っち、ほんと、出鱈目な身体してやがんな。お前。」
「あははははは。駄目ですよお、ゼリグさん。切っても突いても私には効かないんですから。ほらぁ、余計な抵抗なんてするもんだからー。」
剣を握る右腕に、ノマが手を伸ばしてそっと手を添える。そのままぐじゃりと、骨まで握り潰された。
歯を食いしばって悲鳴を堪える。ノマの手のひらが小さいものだから辛うじて切断は免れたが、肘から先、前腕の三分の二ほどが食い千切られるように持っていかれた。
右腕がだらりと垂れさがり、かしゃんと、剣が床に落ちる。ぶらんぶらんと揺れる腕はまだ繋がってはいるものの、これでは千切れたのと対した違いも無いだろう。
「ぐ……っ!ぎぃ……っ!」
「ひひ、あはは。痛いですかぁ?ゼリグさん。」
「ああ、すっげえ痛てぇ。泣きそうだ。なあ、楽しいか?ノマ。」
「もちろんです、私は吸血鬼。支配種たる存在なのですから、多少は獲物を嬲って遊ぶも嗜みというものでしょう?」
「……猫かお前は。でもまあ、やっぱな、馬鹿だわ。お前。」
「へ?」
振り下ろされた剣、握りつぶされた右腕。派手な動きにばかり気を取られて、こいつはアタシの左腕をまるで見ていなかった。
「馬鹿だからよ、こんな見え透いた手に引っ掛かる。」
アタシはぱしんと、ノマの平たい腹に、キティーの切り札を押し付けた。
ごう!!
効果は劇的。ぽかんと口を開いたノマの阿呆面ごと、吹き出した炎が見る間に包み込んで燃え盛る。
おいおい、炎術は赤の神の領分じゃなかったのかよ。巻き込まれて焼死なんて洒落にもなんねーぞ。
ずるずるとその場にへたり込んだが、熱さは感じない。炎は天井を舐めるほどに激しく吹き上がっているのに、室内に延焼する様子も無かった。
なーるほど、対象のみを滅ぼす、神様の火ってか。さすが切り札。白の神さまさまってな。
「ゼリ……グ……さん……こ……れは…………ぁ」
ノマが何か言おうとしたが、喉まで炎に巻かれたのか、すぐに声にならなくなった。そのうちに、炎の中に浮かぶ黒い影がぼろぼろと崩れ落ち始める。
少女を燃やし尽くした炎はいっそう高く燃え上がると、中心部に殺到して、床の中に沈み込むように消えていった。残ったのは一山の灰だけだ。
終わったな……あーあ。
残った左腕で剣を拾い上げ、よろよろとベッドまで向かうと、どさりと身を投げ出した。
ノマもキティーも逝っちまった。なんで、こんな事になっちまったんだろうな。
灰の山に顔を向ける。ノマ、お前は結局、何だったんだ?
あの時、山の中でお前を拾わなければ良かったのか。余計な真似はせず、見て見ぬふりをすべきだったのか。
アタシは自分の選択が間違っていたとは思っていない。自分の信じる、正しい行いをしたはずだ。
その結果がこれか。
ぞぞぞ
涙が出てきた。どうせもう、ここには誰もいないのだ。声を上げて泣くなど何年振りかわからないが、いっそ思い切り泣いてしまおうか。
ぞぞぞぞぞぞ
部屋の中で何かが動いた。思わず身を跳ね上げ凝視すると、灰の山が持ち上がり、人の形を成しはじめる。
「……おいおいおい……冗談だろ。」
ずぞぞぞぞぞぞぞ……ざざざざざざざざ……ぶわぁ
うねる灰色の中から小さな腕が突き出てきた。
続けて、起き上がった灰が霧散し、中から銀髪の悪鬼が姿を現す。真っ赤な瞳が不快そうにアタシを見据えた。
「よう……ノマ……気分はどうだ?」
「悪くありません。しいていうなら、あなたにしてやられた事が不愉快なくらいです。」
「そうかい、本気で出鱈目だな。お前はよ。」
「私も驚きました。意外となんとかなるものですね。」
もう、打つ手は無い。剣を支えに、ずるずるとへたり落ちる。
死ぬのは怖くないが、こんな化け物を王都に解き放ってしまう事が恐ろしくてしょうがなかった。
アタシのせいだ。アタシが、こいつを招き入れてしまったのだ。
「ゼリグさん、何か言いたい事はありますか?」
「はぁ……何もねーよ。好きにしやがれ。」
ぼふんとベッドに倒れこんだアタシの上に、ぺたぺたと近づいてきたノマがぴょんと飛び乗った。そのまま身体をよじ登るようにして近づいてきて、ひょこりと顔を覗き込んでくる。
ああ、昨日の夜も、こんな風にして一緒に寝たっけな。
「楽しみです。ゼリグさんの血、ずっと飲むのを我慢してましたから。」
「ああ、そうかい。くそったれが。」
ノマが舌を突き出して、アタシの首筋をぺろりと舐めた。何が楽しいのか、そのままぴちゃぴちゃと首筋を舌で嬲って遊んでいたが、やがて顔をあげ、ぱかりと口を開けると。
アタシの首に、ノマの小さな牙が突き立った。