化け物
本作は残酷な描写を含みます。
悲鳴が聞こえた気がした。
寝ぼけ眼でむくりと身を起こし、周囲を見やる。暗闇の中、安宿の大部屋にはそこかしこに人が転がって寝息をたてており、別段、妙な事が起きた様子は見受けられなかった。視線を下ろせば、ゼリグの奴もぐーすかと寝こけておる。はて、気のせいであったか。彼女の胸元にもぐりこんで二度寝をしようとした矢先。
叫び声が聞こえた。どこぞ、遠くから漏れ聞こえるようなかすかな声ではあったが、空耳などでは無い。断末魔にすら聞こえる、恐怖の色を孕んだそれと共に、わずかに血の臭いを感じてちろりと舌を出した。再び周囲を見渡すが、身じろぎする者は一人としていない。私のほかに、これに気づいたものはおらぬようだ。私の身体能力のなせる業であろうか。
外か。やはり、何事かあったのは違いあるまい。確認せねばならぬ。居ても立っても居られなくなり、みなを起こさぬよう、するりと寝所を抜け出した。
宿場の外壁に沿ってぐるりと回るが、これといっておかしなものは見つからぬ。だが、血の臭いは濃くなった。さらに、この外であろうか。
篝火の下で寝こけている不寝番の頭上をひょいと飛び越え、外壁の上に舞い降りる。うむ、猫にでもなった気分だ。とうの昔に夜の帳は降りており、月明かりを頼りに目を凝らすが、相変わらずの殺風景な原野が見えるばかりである。
こうしていてもらちが明かぬ。とーんと、軽く外壁を蹴って闇の中に身を躍らせ、ふわりと地に伏せる。鼻をすんすん鳴らしながら、きょろりきょろりとにおいの元を探ると、街道の外れ、草木生い茂る藪の中から、それはやってきているようであった。あの先か。
暗闇の中、血臭を頼りに走る。さすが吸血鬼の身体というべきか、月明かり一つあればこの身には十分であるようだ。折り重なった草木の間を縫うように、するりするりと駆け抜ける。うーん、でも吸血鬼というより猫っぽい。猫だこれ。にゃあ。しかし、それらしき妙なものは見当たらぬ。においだけで探すはやはり無謀であっただろうか。私は猫であって犬ではない。
引き返すか。そう思い始めた頃、不意に、視界の端に人影を認めた。思ったよりもまあ、ずいぶんと距離のあった事だ。すごいぞ私。くるりと身を翻し、そちらへ足を向ける。一歩踏みしめるごとに濃くなる血臭に、知らず、私は舌なめずりをしていた。
ざくりざくりと草叢を踏み、無遠慮に近づいていく。と、短い下草の生い茂るやや開けた場所に、二人の人間が立っているのが見てとれた。いや、あれを人間と言ってよいものか。
一人は、褐色の肌と、白い髪を持つ少女である。一糸まとわぬ姿で裸身を晒し、化粧のつもりであろうか、その肌にはところどころ、白い泥が塗り付けてある。さながら未開の部族といった出で立ちであるが、その小ぶりな双丘と、やわらかそうな腹の下で、彼女の半身は巨大な蜘蛛の頭部と繋がっていた。
六本のまだらの足が地を踏みしめ、太ももの付け根にあたる場所からは、二本の鎌腕が突き出してぎちぎちと刃を鳴らしている。陰部からは長く鋭い牙が生え、これまた、がちりがちりと音を立てていた。私を威嚇しているのだろうか。
蜘蛛の少女はその大きな瞳を黄色く輝かせ、こちらをじぃと見やっている。額にはこれまた小さな瞳が六つ、ぎょろりぎょろりと並んでおり、せわしなく動いているようでいて、その視線はしっかと私を捉えていた。
もう一人は、取り立てて言うところの無い人間の男ではある。問題は、その形が少々歪であることだ。
男の首はくの字に反れて折れ曲がり、伸びてしまったゴムのように、ぶらりと不自然に垂れ下がったその先で、血にまみれた頭部が背にべちゃりと頬をつけていた。目は恐怖に見開かれ、何も映しておらぬ癖に、これまたぎょろりとこちらを向いている。
まるで、己を助けに来なかったことを、私に向かって恨みがましく責め立てているかのようだ。今にも、再び叫び声をあげんとばかりに大口を開き、口から鼻から、ごぼりごぼりと血を吐き出し続けていた。
到底、生きてはいまい。ふと、違和感を感じたので目を凝らす。悲鳴の主はこの男で間違いなかろうが、その叫びを発したであろう大口には、何かが足りないのだ。下顎が無い。蜘蛛の少女に視線を戻すと、彼女はその手の中で、だらりと肉の垂れ下がった入れ歯のようなものを弄んでいた。ああ、引きちぎられたのか。
なんとも、異様な光景である事よ。少女の手元で、ころんころんと顎が転がされ、千切れかけた舌がぶらぶらと揺れる。なるほど、なるほど。これが化け物というものか。
ふーーむ。腕を組み、左手を口元に添え、唇を指の腹でとんとんと叩く。彼女の姿はアラクネーだの女郎蜘蛛だのという奴を彷彿とさせるが、さて、言葉は通じるであろうか。彼女に、一つ聞かねばならぬことがある。
と、瞬間、彼女の姿が掻き消えた。驚く間もあればこそ、衝撃を感じ、草の上に押し倒される。気が付けば、目の前で彼女の牙ががちがちと音を立てていた。私の目線が入れ歯に向いた隙に、あそこから一足飛びに跳んできたようだ。素晴らしい身のこなしだ。私とどちらが高く跳べるだろうか。
「なんじゃ、おぬし、あの人間のお仲間か。残念だったのお、ちょいと前まで、まだ動いておったが、見てのとおりじゃ。」
意外となかなか、可愛い声をしている。グロテスクな腹の下で益体も無い事を考えるが、ひょいと視線を上げれば、彼女の整った顔が目に入った。まあ、納得と言ったところか。ゆるりと伸びてきた鎌腕が、私の喉元に当てがわれる。ぐにりと、先端が肉に食い込んだ。
「やわこそうな肉じゃ、良いのお、良いのお。今日は馳走じゃ。どこから喰ろうてやろうかのお。」
少女の陰部から突き出した、ぬらりてかりと光る牙が、かちかちりと忙しなく蠢く。涎をとろとろと垂らして濡れそぼったそれは、彼女の美しい裸体と相まって実に淫猥だ。このまま眺めていたいと思ったが、大人しく喰われてやるわけにもいかぬ、まずは挨拶といこう。押し倒され、草むらに寝そべったまま、こほんと軽く咳払いをした。
「初めまして、蜘蛛さん。私はノマと申します。夜分遅くに押しかけてしまい申し訳ございませんでした。そちらの彼、ご遺体について、一つお伺いしたいのですが宜しいでしょうか?」
「んぅ?なんじゃ、おぬし、肝の太いやつじゃのお。今からわしに喰われるというに、たわけたことをぬかす。くひひ、聞きたい事があるなら、あちらへ逝ってから直接聞いたらよかろうに。」
「そこをなんとか、冥途の土産を頂けませんか?」
「いやじゃ、おぬしの余裕ぶった態度が気に入らぬ。もっと泣け、喚け、無様に命乞いをしてみせい。そうしたら、まあ、考えてやらんこともないぞ?くひひひひ。」
鎌腕の先端が、私の喉元からつついっと唇まで伸びてきて、口内に入り舌先をこねまわす。遊んでいるのか、それともこのまま引き裂く気なのか。思わず身を固くしたが、蜘蛛の少女は私の舌をねぶるだけで一向に痛みは訪れぬ。
そのうちに彼女の鎌が引き抜かれ、つぅと、唾液にまみれた先端が糸を引いた。あぁ、いってしまう、名残惜しい。あの男も、これをやられたのだろうか。少々ばかり、嫉妬してしまう。
おっと、堪能している場合では無かった。なんせ今、私はばりむしゃと喰われる寸前であるのだ。蜘蛛さんの顔色を窺えば、私がまるで怯える様子を見せぬ事に機嫌を悪くしたようで、歯を噛みしめて、ぎぃと口を真一文字に歪ませている。さすがに、次は顎を裂かれてぱかりと頭を割られるやもしれぬ。
死にはせずとも、さすがに生きたまま喰らわれるのは御免こうむる。何より、私は彼女と話がしたいのだ。手を伸ばし、蜘蛛のお腹をわっしと掴んで持ち上げる。彼女が何事か喚いたが、構わずそのまま、力任せにえいやっとひっくり返した。蜘蛛の少女が慌てて振るった鎌腕が、私の頭に突き立ってべちんべちんと音を立てる。痛ひ。
続けてむっくりと起き上がるが、彼女は狂乱してめちゃくちゃに鎌腕を振り回すものだから、危なくて近寄れぬ。また服を破かれてはたまらない、腕まくりをし、ていっと腕を突っ込むと、鎌腕が私の白いお手々にばしばしと当たって止まったので、その隙に引っ掴んで軽く捻り上げてやった。
ヒッと、少女が小さく悲鳴をあげて息を飲む。痛かっただろうか?痛くないよう、なるべく優しく力を込めたつもりなのだが。
蜘蛛の少女はすっかり観念してしまったようで、十本の手足も力なく項垂れてしまった。ひっくり返ったままの褐色のお腹にのっしと跨り、両腕を掴んで押さえつける。彼女は震え、目の端に涙を溜めていたが、それでも目を吊り上げて私のことを睨みつけてきた。
「なんじゃ!?何者じゃおぬし!とうてい人ではあるまい!?どこから流れてきおった!!?」
「先ほど申し上げたとおり、私はノマと申します。人では……ちょっと無いかもしれませんが、それより、私のお話、聞いていただけないでしょうか?」
「だまれ!だまれ!痴れ者めが!!さてはおぬしが件の流れ者じゃな!?この近辺はわしらの縄張りじゃ!おぬし一匹でどうにかなるものでは無いぞ!はよう!はよう出ていかぬか!!」
蜘蛛の少女がじたばたと手足を振り回し、私の腕を振りほどこうとする。埒が明かない、まずは落ち着いてもらわなければならないだろう。少女の体を押さえつけていたお手々をぱっと離し、腕を伸ばしてその細い首に手を添える。きゅっと軽く力を籠めると、途端に、彼女はガチガチと歯を鳴らして震えだした。
「わたしの、おはなし、きいて、いただけませんか?」
にっこりと笑顔を向けると、蜘蛛の少女はその目に涙をいっぱいに溜め、顎をこくこくと振って頷いてくれた。
少女の手を握って引き起こし、その場に座らせてやる。さて、尋問……いや詰問……いや、お話タイムといこうじゃないか。
「まずは、貴方のお名前を聞かせて頂けませんか?いつまでも蜘蛛さんでは何ですので。」
「わしはマガグモじゃ……」
そういうなり、頬を膨らませてぷいっと顔を背けてしまったマガグモさんのほっぺをむにっと掴んで、顔をこちらに向けさせる。
「では、マガグモさん。次に、これが私の聞きたかった事なのですが、あのご遺体……人間の男の人、宿場から攫ってきたんですか?」
「宿場?」
「人間の巣です。」
「ちがう。あの人間は巣の近くをうろうろとしておった。巣に入っていくものと思ってしばらく眺めておったが、いつまでも入っていかぬものだから、攫って食ろうてやったのじゃ。」
「では、あの男の人は、人間の巣から攫ってきたのでは無いのですね?」
「くどい。そう言うておる。あといつまでわしの顔を引っ掴んでおるつもりじゃ!離さんか!」
彼女がぶんぶんと腕を振り回すので、ぱっと手を離して両手を挙げた。すまぬすまぬ。
「で、なんじゃ。あの人間はおぬしのお仲間か。化生の身で人に与するなど見下げ果てた奴じゃ、お里が知れるのお。くひひ、殺すならさっさとせい、うつしよの身が朽ち果てようとも、いつかおぬしを憑り殺してくれるわ。」
「マガグモさん、声、震えてますよ。」
「う、うっさいわ!この痴れ者が!!」
マガグモはそう言って捨てると、また顔をぷいっと背けてしまった。頬が赤い。ふーーむ、そうか、そうか。この子の言を信じるのであれば、あの男は宿場から、人の世界から攫われたわけでは無いようだ。
宿場の近くにいたにもかかわらず、日が落ちても入っていこうとしなかったあたり、顔の割れた物盗りか人攫いか。いずれ脛に傷持つものだったのだろう。先日の、野盗のお頭の言葉を思い出す。あるいはあの男が、件の人殺しであったやもしれぬ。
「ふん。もう抗いはせぬ、殺すなり生き肝を食らうなり好きにせい。」
「別に、貴方を害そうとは思いません。私の知りたかった事は聞けました、お食事の邪魔をしてしまい申し訳ありません。」
本心である。だが途端、彼女は戯けた事をと言わんばかりに、胡乱げな目を向けた。
「お仲間のかたきを討とうとは思わんのか。わしはおぬしのはらからを喰ろうたのだぞ。薄情な奴じゃ。」
「そう言われましても、私はあのご遺体と面識はありません。まだご無事なようでしたら助けてさしあげる事もやぶさかではありませんでしたが、もう亡くなっておられますし……宿場から攫われたわけでは無いのなら、私から申し上げる事は何もありません。」
なるほど、確かに、彼女は人喰いの化け物であるからして、人間にとって危険極まりない存在であろう。ここが現代日本であったならば、すぐさま追い立てられ、駆除されるべきである。ここが現代日本であったならば。
短いながら、道すがらにこの世界の理をゼリグに聞いてきた。なんのかんのといって、人と化け物はそれなりに棲み分けをしているのだ。夜は化け物の世界であり、無用心にそこに踏み入って喰われたとして、それは死にたい奴か阿呆のする事という暗黙の了解がある。
この子が、それを踏み越えて宿場から人を攫ったのであれば、この場でくびり殺す事もやむなしであった。だがそうでないのなら、あの千切れた男が愚かであっただけの事。元日本人としての正義感を振りかざして彼女を滅する事は、己の身勝手のようで些か気が引けた。
一歩下がる。両手を挙げてひらひらりと手のひらを見せ、さらに数歩さがると、ぺたりとその場で座り込んだ。
「もう、マガグモさんの邪魔は致しません。ご安心くださいね。」
「何を考えておる……得体の知れぬ奴めが。」
蜘蛛の少女はのろのろと身を起こすと、八つの瞳で私を睨み付けてくる。すっかり嫌われてしまったようだ。ちょっぴり悲しくなるが、まあ、致し方あるまい。
「何も、妙な事など考えておりませんよ。」
「たわけたことをぬかしおる。わしがそんな戯れ言に騙されるとでも思うたか?」
「騙す必要などありません。私が貴方を殺めるつもりでいるなら、先ほどもうやっていますので。」
掲げたお手々で宙を掴み、そのままぐしゃりと握り潰して見せると、彼女は苦々しげに顔を歪ませた。
しばし、射殺さんとばかりの八つの視線を受け止めていたが、私に害意が無いことをわかってもらえたのか、それともせっかく仕留めた獲物を諦めるが惜しかったか。彼女はゆるゆると踵を返すと、時折こちらにちらちらと目線を送りながら、憐れな男の元へ近づいて行った。
さて、はたしてやはり、彼女は人を喰らうのだろうか。最早この場に用は無いが、私の中の猟奇探求の悪趣味さがむくりと頭をもたげて、己の脚をこの場に縛り付ける。
固唾を飲んで見守っていると、蜘蛛の少女は男の前をはだけさせ、剥き出しになった胸元へ食らいついた。胸肉から喰うのだろうか、鶏の胸肉なら食いでがあるが、人間のそれはどうであろう。美味いのだろうか。
益体も無い事を考えていると、男の鎖骨が一本、軋むような音と共にその関節から引き剥がされ、食い千切られた。少女は口に咥えたそれをべっと吐き出すと、骨の剥ぎ取られた傷口に手を添えて胸骨に指をかけ……
みじみじみじみじみしべぎぃ。
思わず耳を塞ぎたくなる。肉と脂が飛沫を飛ばし、胸骨が引き剥がされ、肋骨が折れ砕けた。肉の裂け目から手が差し込まれ、一抱えもありそうな肉塊がぶちぶちと引き千切られる。
腕の中のそれを見て舌なめずりをすると、彼女は満面の笑みを浮かべて肉塊に喰らいついた。ぶぢぶぢと音が鳴り、小さなお口が肉をついばむ。
思いのほか、弾力があってこりこりとしていそうな肉だが、もしやあれは心の臓だろうか。実に、美味そうに食いおる。心臓を喰らうとはいかにも儀式めいた何かを感じるが、化け物と言うだけはあって、心の臓を喰らう事には単なる食事以上の意味があるのやもしれぬ。
呆けたように眺めていると、私の視線が気に障ったか、彼女は喰らいかけの心臓を隠すように腕の中へ抱え込んだ。
「なんじゃ、やらんぞ。一等美味いわしの好物じゃ。おぬしはほれ、そこの骨でもかじっておれ。」
前言撤回。単純に食い意地が張っていただけのようだ。そう言うなり、むしゃりむしゃりと咀嚼を再開すると、男の心臓は見る間に少女のお腹に収まってしまった。あの小さな体によくまあ入るものだ。蜘蛛の身体の方にいっているのだろうか。
続けて、二の腕が持ち上げられ、捻り上げられ、ごぎりぶぢりと音が響くと、肩から腕が一本、引き千切られた。皮が剥がされ、脂を削がれ、人の腕の形をしている以外は肉屋にでも置いてありそうな姿となったそれに、彼女の細い指が這う。ついついと、何かを探るような仕草をしたかと思うと、筋の繊維が一束摘ままれて、ぴりりと引き剥がされた。
少女が腕を頭上に掲げ、大口を開き、涎で濡れた舌がてろりと垂れ下がる。小さな舌で巻き取るように一束の肉を口に含むと、くちゃりくちゅりと咀嚼を始めた。お行儀が悪い。でも何かに似ている。ああ、裂けるチーズとか、カニカマに見えないこともない。真っ赤で血が滴っている点を除けばだが。
程なくして、腕が一本平らげられた。彼女はそのまま、同じように四肢を外し、ばらしほぐして、腹の中に収めていく。心の臓以外の臓腑は食わぬのか、ぶちゅぶちゅと引き千切ってはぽいぽいと打ち捨てられていたが、生き胆だけは別格であるようで、手の中に納まるなりはぐりと口をつけると、むぐむぐと、リスのように口を膨らませた少女の口の中に消えていった。
肝臓の最期の一片をごくりと飲み下し、けふっと息を吐くと、蜘蛛の少女は真っ赤に染まった口元をごしごしと拭いながら立ち上がり、こちらをじいと見てくる。まだ肉は大分残っているが、食事はこれで終わりという事だろうか。
「なんじゃ、まだ居ったのか。ほれ、食い残しじゃが、残りはくれてやってもよいぞ。」
「要りませんよ。私は人の肉は食べないのです。生き血なら頂きたいところなんですけどね。」
「偏食な奴じゃな。血ならまだ残っておるぞ。大分零れてしまったがの。」
「あまりそそられませんね。飲むなら女の子の血がいいです。丁度、目の前にいるような。」
私がそう言ってちろりと舌を出すと、彼女はざざざっと、後ろへ向けて飛びずさる。
「冗談ですよ。」
蜘蛛の少女が、信じられぬとでも言いたげな眼でこちらを睨む。平静を努めたが、私も己が信じられぬ。血が飲みたいと、自然に口をついて出た。跳ねっ返りの少女に対して優位を取ってやりたいと思い、軽口で返してやろうとは思ったが、こんな事を言うつもりでは無かったのだ。
冗談ですよ。マガグモに対して投げかけたのか、自分自身に言い聞かせたのか、どちらであろうか。自分でもわからぬ。しかし、目の前で人間が解体されていく様を見て、その非日常に中てられたのか、内心では酷く興奮していたのは確かであった。
目の前の少女の、生き血を啜る様を想像してみる。組み伏せ、嬲り、細い喉に牙を突き立てて味わう。その甘美さに口元が歪んでいく。これではまるで化け物では無いか。自身が以前とは変わってしまった事は自覚できるのだが、その事に違和感も嫌悪感も感じない。それがまた恐ろしい。
やはり私は浅慮であった。私は、吸血鬼になるという事を、人間では無い存在になるという事を、ただのごっこ遊びの延長程度にしか考えていなかったのだ。それがどうやら私はその心まで、怪物となってしまったのやも知れぬ。
「……ノマとかいうたな。散々コケにしてくれおって、覚えておれよ。次は、こうはいかぬからな。」
マガグモが何かを言っている。ああ、やはりこの子は可愛い声をしている。私の下で鳴かせてみたい。
私の眼が次第に細まっていき、口の端が歪み、吊り上がり、ぎしぎしと笑い声が漏れるに至って、蜘蛛の少女は身の危険を感じたかさっと身を翻すと、逃げるように闇の中に消えてしまった。
「この屈辱は絶対にわすれんからなぁ!ノマァ!!」
捨て台詞が響き渡る。ああ、逃げられてしまった。だが安心した。あのまま居たら、私は何を仕出かしていた事やら。おぞ気が走る。
マガグモが去ってからもしばし立ち尽くしていたが、唐突に吐き気を感じ、その場でげろりと吐き戻した。
胸の中がぐちゃぐちゃで、頭の中がまとまらない。涙を流しながらうずくまり、吐き続けた。胃の中が空になっても嗚咽は収まらぬ。
しばし、そうしてうずくまっていた。ようやく落ち着いて顔を上げてみれば、空は既に白み始めており、夜明けが近いことを感じさせる。
ああ、しまったな、長居をしすぎた。ゼリグの奴が目を覚ます前に戻らねば。今の私は、さぞや酷い顔をしている事だろう。
その後は、やや道を違えながらも、どうにかこうにか安宿まで帰り着いた。幸いにしてゼリグはまだぐーすかと寝こけておる。彼女の懐に潜り込み、しがみつくと、私はすぐに眠りに落ちた。
眠りにつく間際、視界に映る彼女の肌と、どことなく甘い匂いを前に、ああ……美味しそうだな。と思った。