スワンプマン
赤い果実を片手にとり、刃物の腹で押してショリショリ回す。これが中々に難しく、ショリショリは長続きせずにブツリと切れて、不格好な甘い紐に変じお皿へ落ちた。気を取り直して刃を寝かせ、さらに同じ過ちを五度六度、繰り返して露わになっていく玉の肌を、パカンと切り付けること八等分。最後に削った木の串を刺し、盛り付け直してさぁ召し上がれ、このノマちゃんなりの気遣いを。
「……アンタ、いつまで入り浸る気よ。」
「おや? ウサギさんのほうが良かったですか?」
「ふざけないでっ!!!」
叩きつけられる手のひらに、先んじて皿を掴むことで避難を果たし、机から腕が退いてくれるのを待って静かに戻す。刻一刻と変わる時局のそれが、落ち着いてくれたのであれば平和なもので、先の大わらわから過ぎて早くも五日。王国へ帰還する為の手配も済ませ、見事成果を勝ち取ったドロシア様の、酒宴は今日も皆を集めての盛況である。しかしそんな労いをお断りし、私は許される限りで此処に居た。
東の大国である衆国が首都、それを貧と富で分けた壁の手前、外区と称される貧民街。そんな人の往来雑多な場所で、こっそりと取ったお宿の中、同じくこっそりと私も果実を食む。目の前には激高し、次いで膝を抱えて寝台の上、塞ぎ込んでしまった少女が一人。左様。彼女こそがつい先日、散々にやり合った挙句縮んでしまい、いまや小娘の身となったかつての敵。衆国がクラキリン女史その人である。
「何よぅ……。もう、私の知っている事なんてさ、アンタには全部話したじゃない。だから放っておいて。放っておいて、此処で私を一人にしてよぅ……。」
「そういうわけにも参りません。確かにここ数日で根掘りに葉掘り、貴方の辿ってきた事情というものは伺いました。ですがまぁだ懸念は残ってまして、具体的には南で使用したトンデモ爆弾、本当にアレっきりで終わりでしょうね?」
「……しつこい。二つ目は無いって何度も言った。私はもう一度死ぬのが怖かったし、アレだって本当に使うとは思わなかったわ。だから無いの。自分も巻き込んで燃やしてしまう、恐ろしいものはアレでお仕舞い。」
「ではあの時、地下で見せた素振りはハッタリだと?」
「破れかぶれよ。」
「さいですか。」
じゃあ燃やしてしまっても、構わなかったんですねあの子達は。そうと言ってやろうとも思いはしたが、今は追い詰めるような真似をぐいと飲み込む。責めるのは後で良いだろう。溺れた犬を叩いて回る、そういった悪意は趣味じゃあない。それに三人揃って復活を遂げ、果ては量産までされていた彼女達だ。あれで終わりでは無いという予感も有った。憎まれっ子こそ憚るのである。たぶん。
「……ま、宜しいでしょう。信じますよ、『無い』を証明する事も出来ませんし。…………あ~、で、その、林檎。そろそろ食べちゃあ貰えませんかね? いい加減、お腹へ何か入れときませんと。」
「……要らない。私、もう人間じゃなかった。生まれ変わって、それでもう一度『私』になって、姉さんのところへ帰れると思ってたの。でも違った。泥の塊みたいなお化けだった。騙されてた。……やだよ。こんなんじゃあ、もぅ、帰ったって……。やだよぉ……。」
次第次第に嗚咽が混じり、支離滅裂となっていく言葉を前に、林檎を一欠片はぐりと齧る。その魅力極まる誘いで以って、事故で亡くなった彼女を救い、この地で狼藉を働かせたというチクタク様。多分にその存在は私の時と、同じ無貌な男であるのだろう。自称神。神であるのかはわからない。しかしそうとしか言えない力は持つ。実に厄介で恩義があって、面妖なりし御仁である。
そしておそらくはそんな御仁にとって、彼女は失敗作であったのだ。世に混乱を起こすという動機を持たせ、機械作成という異能も与えた。しかし自らが脆い人間であるという、認識から来る行動は慎重かつ不活発で、とても満足の行けるようなものでは無かった。だからである。だから不死身で不滅で図々しい、私という化け物の自覚を持った、次があの男には必要だった。思うにきっとそういう事だ。
「ん~、あ~……。そぅですねえ、クラキリンさん。いえ、もうちゃんとお名前は伺ったのですし、倉木さんとお呼びするのが宜しいですかね。」
「……倉木凛なら死んでたわよ。言ったじゃないの。私はもう人間じゃなくて、気持ちの悪い泥の塊。死んだ私の頭を食べて、成り代わった自分を『私』だと思っていた、馬鹿な怪物の成れの果て。」
「じゃあ今日からはリンちゃんで。」
「ちょっとアンタ馴れ馴れしいわ。」
食んだ果実をゴクリと飲んで、茶目っ気たっぷりに片目を瞑る、そんな頭を引っ叩かれる。なんだ案外に元気じゃない。とまで言っては踏み込み過ぎと、自制した口をにんまり歪め、微笑みを返しそっぽを向かれた。なんやかんやで気強い人だ。いずれ立ち直る事も出来るだろう。それがしばらくのあいだ寄り添ってみて、私の抱いた感想である。なんせ心配でありましたもんで。
とはいえしかし愛別離苦。愛する家族と引き離され、自己の同一性までを失った憐れな方へ、力添えをしてあげたいと切に願う。それが江戸っ子の情というものではござぁませんか、わたし生まれたの美濃だけど。ついでに言えば『自分』という、一貫した自我の問題は無関係というわけでもありませんで、出来ればここいらで整理をしたい。よってこれは私欲である。タダでいい人では居られないのだ。
「くっふふふ。まぁまぁ、聞いてくださいなお若いの。クラキさんはそう、スワンプマン。沼男というものを……、聞いたことはお有りですか?」
「……なによ。日曜朝の、小さい子向けなら興味無いわよ。」
「いえ、あれはあれで殺陣とかに見所が。という話では無くてですね。これは思考実験の一種でして、簡単に言うならば何を以って、自分を自分であると認識するのか。そういった類の、まぁ、答えの出ない、問題のようなものと思ってくれれば。」
とある沼地の枯れ木の傍に、とある男が立っていた。彼は落雷によって命を落とし、そして奇っ怪極まる反応により、枯れ木が新しい『男』となった。それは人格から記憶まで、死んだ彼の完全なる複製であり、自身が複製であるとすら気づいていない。そして複製は自宅へ戻り、家族団欒の中で明日を迎え、本物の彼は沼の中。では死んだ彼と新しい彼、二人は同一であると言えるのだろうか?
知ったかぶりの聞きかじり。そんな知識を意気揚々と、語り聞かせる私へ向かい、のろのろと上がる顔が片目を見せる。どうやら興味は引けたらしい。それもそのはずこのたとえ話、まんま私たちの置かれたそれと同じであるのだ。私も彼女も地球で死に、そして体を遠い故郷へと残したままで、『新しく』この地へとやってきた。では今の私は果たして『私』か? つまりはそういうお話である。
「……そのスワンプマンが、私のことだって言いたいわけ? 嫌味な奴。」
「いいえ、『私たち』です。なんせいわゆる前世において、かつて『私』であったその物質は、もはや細胞の一片すらも残りゃぁしません。では。」
自慢の銀糸の髪を梳き、一房さらりと弄んでは、ぴんっと弾いて目を細める。
「ではこうして、新しい肉の中へ住むこの『私』と、既に地球で果てた『私』は同じであるのか。私はね、クラキさん。その同一性を担保してくれるモノが、魂であると思っていました。魂こそが本質であり、中に入っているそれが同じであるのだから、私はいまも『私』なのだと。」
「……回りくどい。魂じゃなかったら何だってのよ? わざわざ引っ掛かるような言い方してさ。」
「ははは。調子が戻ってきたじゃあありませんか。いえね、それで続きを申しますと、貴方の一件を聞いてこんな疑念が浮かんだんです。実のところ『そんなもの』、本当に存在したんでしょうか? ってね。」
魂。霊魂。スピリット。呼び方は種々様々であるが、いずれそれらは死の畏怖に、打ち勝たんとした先人達の、知恵の産物というものに他ならない。と、少なくとも私は思っている。なんせ古今の東西において、その存在は一度として観測されず、常に信仰の中にだけあったのだから。自称神様は死の先を見せ、魂が存すると保証をした。ではその神様への信憑は、誰が保証してくれるというのだろうか?
「……貴方はね、もはや『貴方』では無い貴方のことを、貴方であると思っていました。つまりそれは自らを、自らたらしめているこの記憶は、必ずしも信の置けるものでは無い。そんな怖い事を示す実例です。だからわたしゃあ疑いましたね。引き継いだはずのこの魂と、そして私自身の存在を。」
「……何、言ってんだかわかんないわ。アンタここに居るじゃあない。」
「ええ。その通り私は此処に居ます。ではいつから、私は『私』であったのかという話でして。本当は前世の記憶も神様も、全てが捏造であってその始まりは、森で目覚めたあの時だったんじゃあ無いのだろうか。……ご存じですか? 水槽の中の脳。」
「私のこと慰めたいの? 追い詰めたいの? 鬱陶しいからどっちかにして。」
「僕はいま、昼下がりの公園を散歩している。お日様って暖かいなあ。」
「やめろっつってんでしょうがっ!!!」
ひゅんっ! と一発平手が飛んで、私の頬を軽く張る。その手を掴んでぐいと引き、向かい合わせの泣き腫らした顔に、愉悦を覚えて顔が歪んだ。この醜さが私である。八十数年をかけて培ってきた、私という人間の一部である。私は私を否定しない。私は私を肯定しない。たとえ『私』が造り物であったとしても、その事になんら意味は無い。何故ならばいま此処に在る、この思考こそが『私』であるのだ。
「……で、です。私なりの結論としては、特に気にしない事と致しました。どうあれ今日に至るまで、私の主観においてその意識は、常に連続性というものを保っております。身も蓋もない言い方をしますとね、『今が良いのだから別に宜しい』。」
「なによ……。アンタ本当に何なのよ!? 私を虐めて楽しいわけっ!!?」
「クラキさん。詰まるところ、こちらはそうして飲み下したという訳ですよ。これを真似しろとは申しません。ですがこれからを生きるにあたり、何か参考になさって頂ければと。だってほら、私と同じでたぶん貴方、死ねませんから。」
握って締まる手のひらを、解こうとして藻掻いた腕が、力を失ってくてりと落ちた。目の前の彼女は答えない。それを見届けて拘束を解き、再び丸くなってしまった少女の前に、ちょっとだけ減った林檎をぐいと押し出す。一方で私はご満悦。我思う、ゆえに我あり。自らの得た結論が、偉い先生のそれと同じであった事に、自分も偉くなったような気がして鼻が高い。ははは。馬鹿ですねホントこいつ。
「……お願い。一人にして。」
「心の病というものには、寄り添ってあげる人が必要だと。」
「お願い。」
林檎をもう一切れ串に刺し、ぱくんと口に突っ込んだままで扉を閉める。後ろからはすすり泣き。窓の先のそのまた向こう、前の方からは生還を祝う騒ぎの声。そんな気分複雑の中、感じる気配にあちらやこちら、動かした視線が見知った女の姿を捉えた。フルートちゃんは『お前空気読めねえだろ』と、ゼリグに引き摺られていって不在のはず。よって候補は残りの一人、知る限り怖い彼女である。
「……聞いたわよ。蜘蛛や鳥や、化け物共が居たんですってね。あとは大きな泥のお化けも。」
「あの子達なら逃げちゃいましたよ。もう金輪際、私に関わるのは御免だそうで。」
「ふーん。あ、そう。まぁそれは良いんだけれど、なんで殺さないのかしら? あの女。」
硬い靴音を響かせて、歩み出るのは法衣を纏う、付き合い浅からぬ桃色女。その氷よりもなお冷たい、剣呑な光を湛える目に、あー、ありゃぁおかんむりだわと眉根を寄せる。見た感じ他に人影も無し、たった一人きりで何用か。と、言ってしまうのは無粋であろう。此度の一連の事件において、我が同郷は望んでその被害を拡大させた。救命を是とする彼女にとって、それが面白かろうはずも無い。
「殺して死ぬのか? というのはまぁ置いとくとして。クラキさんは生け捕りにして、その技を国の発展のため役立てさせる。そういったご命令を出されております。キティー。貴方だって知ってるでしょう?」
「ええ、知ってるわよ。だって私もその場に居たもの。でもノマちゃんの力があれば、好きに振る舞うことだって簡単なはず。なのになんで殺さないの? 痛めつける方が好みだった? やり方教えてあげましょうか?」
「えらく食い下がりますね?」
「十と三人。」
カツ、カツ、カツ、と足早に。迫る物音は目の前に来て、影を覆いかぶせたと共に鳴らなくなった。私よりずっと高くにある険しい目が、少し背をかがめて幽鬼のように、頭上でこちらを見下ろしている。彼女は往々にして手厳しい。言葉では勝てたためしが無くて、端的に言えば苦手である。さてそんな御仁のご立腹。内心臆病風に吹かれちゃいるが、顔に出してしまうのも矜持にもとる。縮みそう。
「王国から一緒に来て、私に確認をされた死体の数よ。連れて帰れたのは髪と爪。まあ、あの土壇場の中だったしね。これから彼らは故郷へ帰り、そして親兄弟に迎えられるわ。」
「皆さん覚悟の上ではあったはずです。それに犠牲を出したくなかったのなら、最初から送り込めば良かったじゃあありませんか。この私一人だけを。」
「駄目よ、それじゃあ箔というものが足りないもの。それに私たちはノマちゃんに、大切に飼われているだけの家畜じゃないの。それを掲げるという意味合いでは、一応有意義ではあったわね。少なからぬ数の名誉の戦死は。」
「じゃあこの無意味をやめてください。飲めているのなら宜しいでしょう?」
「集団の意思と個人の感情。その二つじゃあ話は別よ。」
じろりじろりと睨む目に、敢えてそっぽを向いたままで言葉を紡ぎ、常に平坦であることを意識する。その揺るぎなさはどっこいであり、あちらさんもまた己を律し、平静を保とうとしているのが見て取れた。とどのつまりこれも儀式である。胸の内を述べ表して、先の私と同じように、心の置き方というものを探っているのだ。なれば不肖このわたくし、胸を貸すのもやぶさかではない。
「じゃ、話を戻しましょうか。聞かせて貰える? 何か私の腑に落ちるような、ノマちゃんがアイツを殺さないわけ。」
「傷ついて弱った女性をね、叩いて喜ぶような趣味はございませんで。」
「へぇ。あ、そう。じゃあレガトゥス、だったかしらね? アリの親玉。なんでそいつは殺したのかしら?」
「……彼には命と引き換えにしてでも、通したい我というものがありましたから。男がそれだけの、意地と覚悟を見せたのです。だから汲んであげるべきだと思いました。」
「ふぅん。ノマちゃんってさ、前に言ってた前世っての、ひょっとして男の人だった?」
「え。いえ、その。……言ったことありましたっけ?」
「いいえ。初耳。」
突如として突かれた不意に、ひっくり返った声が変に弾んだ。別に隠していたという訳では無い。かと言って吹聴をしたい事でも無い。なんせ美少女様であるこの私、これはお恥ずかしながら自ら望み、欲を昇華させた末の物体である。それが軟弱であるという自覚はあるし、聞かされた側だって多分に困る。まして若い女性なら猶更で、故に私も気を遣った。でも、まぁ、その。ごめんなさいね。
「……やっぱりさ。つくづく馬鹿よね、男の人って。」
「そうでしょうか?」
「ええ、そうよ。あとね、女を下に見ているのが気に入らないわ。」
「……どうも。」
険しかった顔から影が失せ、和らいだ笑みが浮かぶのと同時、伸びてきた腕がでこを弾いた。ぱこんっ! ととっても良い音がして、思わず『あ痛っ!?』と悲鳴をあげる。そしてどうやらこの反応、目の前のド畜生は大変お気に召したらしく、くつくつ笑っては連打を為さりやがるのだ。おい。おいこらちょっと。やめーや普通に怒りますよ? ってあ痛ったぁっ!?
「くくく。ま、いいわ。許してあげる。その代わりに今度また、ノマちゃんの尊厳を踏みにじらせて頂戴ね。」
「アンタこれでもまだ足りないと!? 大体この私がねぇ、その気になったらあっさりと殺されちゃうんですよ? 最近そういうの忘れてません?」
「勿論いつだって忘れてないわ。だって私ね、ちゃんと貴方の許してくれる、ぎりぎりの一線の上で踊ってるもの。それに……。」
「それに? なんですか、勿体つけてないでお言いなさいな。どーせロクでもない事でしょうに。」
「貴方、被虐を楽しんでいるんでしょう?」
人に見せたくはない醜い部分。そのど真ん中を穿たれたことに、ぎくりと固まって顔が強張る。目の前には赤い舌。それを蛇のようにちろりと見せて、喜色を隠そうともしない我が友人は、これで満足とばかりに踵を返した。人生経験年寄り一回。しかし女をやったのは一年未満。ならば彼女は大先輩で、どうにも勝てずともむべなるかな。まぁもう一回りしたってわからんけども。
と、まぁそのように。しょうもない事を考えつつも、後ろ手に振られる手を見送りながら、ばつの悪さにぽりぽりと。頭を掻いては後ろに御座る、先に出てきた扉の先が、どうにも気にかかってしまう私であった。
だってほら。聞かれてたら格好悪いな、と。
これにて衆国編終了です。次回からはしばらく閑話が挟まる予定。




