倉木 凛
母が死んだのは、私が小学校二年生の時だった。姉さんと二人、テレビを見ている時にそれを急に聞かされて、何を言われたのかを理解できず、茫然となった事を覚えている。
父は心の弱い人で、その悲しみから目を逸らす為にお酒へ逃げた。残された私たちを男手一つ、懸命に育て上げようとはしてくれた。しかし良き親であらねばという重圧と、ままならない現実との狭間を前に、折り合いをつけることが出来なかったのだ。幸い暴力を振るわれたりはしなかったが、それでも家の中は諍いが絶えず、私はそれが悲しくていつも膝を丸めていた。
結局のところ父と私たちの関係は、そのまま修復される事なく終わってしまった。ある日を境に行先も告げず、父は私たちの前から姿を消してしまったからである。姉さんは一応捜索願いを出していたが、それでも諦めたようにこう言っていた。あの人が戻ってくる事はもう無いだろうと。そこには寂しさと同じくらいの安堵が見え、私もそれに同調した。酷い女だと、泣きながら二人で笑った。
再び残されてしまった私の前に、用意されたのは二つの道。このまま十八歳までを施設で過ごすか、それとも既に、成人していた姉についていくか。姉さんはどちらでも良いといい、私は迷うこと無く後者を取った。姉さん。自分が着飾るのを諦めて、掃除をして洗濯をして、遠足のお弁当だって作ってくれた姉さん。年の離れたその姿に、私は失ってしまった母を求めた。もっと甘えていたかったのだ。
そんな姉さんを助ける為、私も中学を卒業したら、すぐに働きに出るつもりでいた。しかしそれを止めたのは姉自身で、彼女は諦めた進学を私に託し、おみやげの話が欲しいとそう言うのだ。そうすれば自身の経験出来なかった、高校生活というものを満喫出来ると。勿論それは方便で、姉さんにはとっくにお見通しであったらしい。私が友人達と同じように、高校生になれないのを気に病んでいた事を。
学校に行けないのが嫌だったんじゃあ無い。みんなと同じになれないのが嫌だったのだ。だから別に難関校という訳でもなく、普通に勉強をすれば普通に入れる、普通の高校を私は受けた。当時の私と付き合いがあった、殆どの友達と同じように。結果は合格。そして姉さんにお祝いを貰い、念願のブランドバッグを手にした私が友人達と、ご機嫌で立てた卒業旅行。それが、『あの日』だった。
『……え?』
首筋へ受けた衝撃に、暗転した意識が戻ってくる。最初に目に入ったのは勉強机。小学校への入学の際、母と一緒に選んだピンク色の、可愛らしいウサギがデザインされた私のそれ。そこには同じくウサギの人形がずらりと並び、教科書を広げるべきスペースを圧迫している。脇には立て掛けられたカレンダー。そして日付欄の花丸と、『みんなでドリームランド!』の大きな文字。知らず、唾を飲む。
青いカーテン。毛布がくしゃくしゃのままのベッド。脱ぎ捨てられたパジャマ。事ある度に増えていった、お気に入りのウサギのグッズ。ああ。私の部屋だ。十五年前の、あの日の、私の部屋だ。帰ってきた。はは。ははは! あははははは! 帰ってきた! 帰ってきた! 帰ってこれた!!! 姉さん! 姉さんは居るだろうか!? きっとリビングだ! 姉さんは朝のコーヒーが大好きだからっ!
『開きっぱなし』だった扉を抜けて、洗面所の真横を通り、シュンシュンと沸くお湯の音を目掛けて走る。焦がれていた人はすぐに見えた。頬杖をつきながらテレビの前、寝起きでぴょんぴょんと跳ねた髪を弄り、マグカップを傾ける綺麗な人。この人を取り戻したくて、私は人形を作り続けた。最後まで納得のいく子は出来なかったが、しかしそれも最早必要無い。ただいま。ただいま! 姉さ……!
「……お! な~によ凛、朝から気合入ってるじゃないの。お洒落しちゃって~。」
「にひひひ~! あったり前じゃない! お姉ちゃんが買ってくれたこの鞄、みんなに見せびらかしてやらないとね!」
気配に気づいてか振り返り、彼女はこちらへ向かって言葉を投げる。それに万感の思いが込み上げる中、不意に私では無い者の声が響いた。間違いなく私のそれだ。けれど発したのは私じゃない。困惑は一瞬で、そしてその一瞬のうちに声の主は、私に重なってきて前へと抜けた。短い髪、ショートパンツに黒のタイツ、ちょっと大きめのだぼだぼジャケット。なんで? 十五歳の、あの日の私。
「ふふん。そ~言ってくれるとね~、お姉ちゃんも頑張った甲斐があったわ~。で、朝ご飯どする? 一緒に食べてく?」
「ううん、途中でお菓子でも買ってくよ。行きのバスでさ、みんなで買ったのを齧ってけば十分っしょ。」
「……一応聞いとくけど、その『みんな』って彼氏じゃないわよね? 言わなきゃ鋏でちょん切るわよ、そりゃあもう色々と。」
「お姉ちゃんさぁ、やめてよいい大人なんだから、そうやって子供っぽい事言うの~。心配するんなら自分が先でしょ? 男の人と居るの見たこと無いし。」
「きさま! 言ってはならんことを口にしたなっ!!?」
人差し指と中指を、ちょきちょきと動かしながら放たれる、子供の頃からの姉の口癖。それに『私』は軽口で応じ、小走りで逃げるようにして去っていく。楽しそうに笑いながら。なによこれ。なんでアレは私じゃないの? なんで? 私は帰ってこれたはずでしょう? 姉さん。私を見てよ姉さん。その女は私じゃない、私じゃないの。私……わたし……。じゃあ、わたしって、だれ?
高揚した心が一気に冷えて、そしてこの後に何が起きたのかを思い出す。あ、あ。そうだ、止めないと。このままではまた事故にあって、車に撥ねられた私は寝たきりになってしまう。『私』を見送った姉さんは、私のことには気づいていない。きっと見えないし聞こえないのだ。それならばこれはきっと、過去を変える為の試練じゃないのか? その思い付きに必死で縋り、堪らなくなって後を追う。
『止まってっ! 止まれ! 止まりなさいよっ!!! ねぇっ! お願いだからぁっ!!!』
「うあ、てぃみの奴めっちゃメール送ってきてるし。返しとかないとうっさいかなー。」
朝の時分はまだまだ冷える、三月の緩い陽気の下。何も知らない呑気なままで、鼻歌交じりに歩く『私』の腕を、引き留めようとして何度も何度も掴んでかかる。けれども両の手はすり抜けて、その度に喚き散らして懇願をして、止まってくれと願うものの一向に言葉は届かない。さわれない。話せない。神様、これで一体どうしろというのですか。急がないと、急がないとあの横断歩道がきてしまう。
普段は殆ど車が通ることの無い、大通りへ出る為に渡る小さな道。だから私も高を括り、友人にメールを送りながら歩いていたのだ。碌に前なんて見ようともせず。だけど今なら思い出せる。この時は近くで大掛かりな造成があり、見慣れない大型の車両の行き来があった。自分の身長ほどもあるタイヤを履いた、テレビでしか見たことの無い大きなトラック。『私』は徐行するそれに気づいていない。
赤信号を無視する『私』。迫る車体はコンテナを一つ丸ごと乗せた、見上げる程に背丈があるもの。そしてその背の高さが仇となった。物陰から飛び出す格好となった小さな身は、運転席からの死角へ完全に入り込んでしまったのだ。引き留める手は届かない。慌てて顔を上げる『私』の腕が、前面のライトに当たり撥ね飛ばされる。次いで鞄が引っかかり、身体ごとタイヤの内側へ引きずり込まれた。え?
上がった悲鳴が一瞬で途切れ、硬い物の砕ける音が連続して鳴り響く。衣服は挟まった溝に剥ぎ取られて、ゴムのように伸びきった皮膚が、薄紅色のまだらに染まるのがはっきり見えた。胴体は抱きかかえるようにしてタイヤの上。どうやらそこで詰まったらしく、回転に合わせて削れるような音を発しながら、ぶらぶらと伸びた手足を揺らしている。
やめて。
水音の混じるブレーキ音。それと同時にホイールからぶら下がっていた、姉さんの買ってくれた鞄の紐が千切れて落ちた。私の目の前にある、ピクリとも動かない『私』の身体。そしてそうであるにも関わらず、ショートにしていた私の髪は、接地した路面に挟み込まれて真下にある。そこから広がっていく赤い色。ゆっくりゆっくり、とろとろと広がっていく、赤い色。ときどき白。
やめて。
生きているはずが無い。だって素人目に見ても即死じゃないか。あれで生きているはずが無い。なんで? 私は病院のベッドで寝たきりに。なんで? 死んじゃった。なら此処にいる私はなに? 姉さんにあんな姿を見せたの? あ、メール。メール送らなきゃ。てぃみに、行けなくなっちゃったって。ごめんなさいって言わないと。姉さんにも。死んじゃったのに?
身体が芯の芯まで凍り付いて、総毛立つような感覚に襲われる。寒い。震えが止まらない。怖い。必死で両肩を抱きすくめても、走る悪寒が収まらない。嫌だよ、こんなの。助けて。助けて、姉さん。わたし頑張ってきたのに。十五年も頑張ったの。病院で目を覚まして、心配かけてごめんなさいって、姉さんに謝りたくて。だからコーヒー、姉さんの淹れてくれたコーヒー、また、飲みたいな。
『いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁああああっっっっっ!!!!!』
無くなってしまう。私が千切れて無くなってしまう。それに耐えられなくなってしゃがみ込み、赤い中に流れて浮かぶ、『私』の破片へと両手を伸ばす。それに何の意味があるというのか? そんなことはわかっていたが、しかしやらずには居られなかった。赤。赤。赤。白。それら鮮やかさを一心不乱で集めようとし、そして不意に色を失って世界が止まる。寒い。
動き続けていた赤い色が、表面に波を浮かばせたまま、灰色になって凍り付いた。トラックのドアを開けて、慌てて降りようとした男の人が、宙に浮かんで固まっている。のろのろと上げる視線の先、目についたのは羽虫を捕らえ、身を翻そうとするツバメの姿。それにも構わずに爪を立て、ガリガリと夢中で指を動かしたのち、無意味を悟って涙をこぼす。
折れた。私を私として保っていた、縋るべき大事なものが。ならばいっそ何もかも、全てを諦めて膝を丸めてしまったならば、楽になることも出来るだろうか。そんな衝動に駆られた中で、突然に響くのは硬い靴音。そして視界の端に映り込んだ、真っ黒いスーツの足。助けて。助けてくださいチクタク様。かつて私を救ってくれた、顔の無い無貌の神様。もう一度私に機会を下さい。
遮二無二必死で腕を伸ばす。いま一度の救いを求め、がむしゃらに必死で腕を伸ばす。しかし震えるそれは無下とされ、神様は顧みもせずに通り過ぎて、そのまま死んでしまった『私』の前。そしてコツコツと叩かれた靴底に、まるで応じるかのようにして影が答え、光る玉虫の色が現れた。気持ち悪いドロドロの、ありえないほどに大きなアメーバ。あるいは使い古しの油を吸った、冷え固まった泥の塊。
ゲームで幾度となくやっつけてきた、序盤のお得意様であるモンスター。その出来損ないみたいなそいつはズルズル這って、タイヤとアスファルトとの間に見える、『私』の髪へと近づいていく。そして聞こえる硬い物を、噛んで砕いた際の鈍い物音。次いで柔らかい何かを集めて啜る、くぐもった水気のある咀嚼音。グチャグチャと響き、クチャクチャと鳴り、それから激しく明滅をして姿を変える。
現れたのは短い髪、ショートパンツに黒のタイツ、ちょっと大きめのだぼだぼジャケット。その服装までを再現された、動かない『私』とも違う新たな私。そしてその十五歳の、私のモドキはひとしきり呆けてみせて、突然にこちらをぐりんと向いた。明らかに私を捉えた目。満足気に頷くチクタク様。パカリとひらけた大きな口。そうして『私』となったその泥から、甲高く私の声が吐き出される。
やめて。……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
『テケリ・リ』と。
たすけてノマちゃん




