黄衣の王
「……お、重い! しんどい! 挫けそうっ! け、化身さまぁ! ご用命のあった『トリデ』ってのは、ここでお間違えは無いでしょうかぁ!?」
「えぇと、ちょっと待ってくださいね。……えぇ、どうやらそのようです。ありがとうございますねイツマデさん。おかげでぐっと到着が早まりました。まぁそのケシンさまってのは気になりますが。」
「ふんっ! 長々とよぅも付き合わせおって。これじゃからおぬしと顔を合わせたくなんぞなかったんじゃっ!」
人の半身を持つ鷲の巨躯、大空を舞う巨鳥のあやかしたるイツマデちゃん。その背でガックガックと揺さぶられつつ、問われた言葉にふいと後ろへ視線を向けて、そこなアリのお方を一つ見て取って言葉を返す。頷く彼のその真横、悪態で以って被さってきたのはマガグモちゃんで、それが実に正鵠を射ているのだからなんともはや、返す言葉もござりんせん。どぅも、わたくしノマちゃんです。
ちなみにヤマヂチさんは最後尾で解凍中、雪ん子娘のタルヒちゃんはぴったりとそれに寄り添っており、三人娘は鷲掴みにされて天地入替ご無用也と、もはや状況はわっちゃわちゃ。正直重量過多もよいところであるが、目を離すには危なっかしい子ばかりであるのだから仕方がない。これで各々楽器の一つでも持ち出した日には、さながら無礼な面子の音楽隊である。ワンワンニャーン。
さてそんな我々の遥か下方、眼下に見えるのは巨大な蟻塚にも似た土の城で、地上十階にも達しようかというその建築は、彼らソシアルの確かな技術というものを感じさせる一品である。その随所では軍旗が風を孕んで身を翻し、相も変わらずヒョウヒョウと規則的な音を発しているが、しかし気にかかるのは派手な装飾で着飾ったその姿。鼻につくのだ、顕示欲というやつが。なるほどこれは人間臭い。
「……これ見よがし、ですねえ。しかしサクロルムさん、仮住まいの前線基地という割には、いささかばかり絢爛というものが過ぎますな? これもまた、軍団長殿のご趣味なわけで?」
「王国のノマ、それは私の関知するところでは無イ。とはいえあの狂った男の為す行いダ。ならばこのようニ、無駄を積み重ねる事とてままあろうヨ。」
「さいですか、それはまた迂遠なことで。さって! ではこれにて直上です! みなさぁん! 準備のほどは宜しいですかぁ!? 今から真下に突っ込みますよぉっ!」
ぱちん! と一つおててを叩き、殊更に高い声で以って発するその呼びかけに、答えて応じるは呉越も同舟ふね込み八名。実際のところ敵の敵は敵なわけで、拉致した敵に休戦中の敵になんか敵っぽいお味方様と、もはやその立ち位置がわからないったらありゃあしない。それを纏めて目的の為に同行させる、ノマちゃんがやらねば誰がやる。
「突っ込むぅっ!? おいノマ! わしゃあそんなこと聞いておらんぞっ!? イツマデ! タルヒ! ぬしらもなんぞ言ってやらんかっ!」
「嫌じゃ! 嫌じゃ! 嫌じゃ! アチキはもうな! 混沌様に見限られるような真似はしとうないっ! お断りじゃっ!」
「……口惜しいが負けた身じゃ。じゃからして、私に言える事なんぞとあろうものかい。どうせならほれ、そいつは下で宙ぶらりんになっておる、奴のお仲間にでも告げてやったらどうじゃてな。」
「くっそぅ! ばけもん共め! はーなーせっ! はーなーせーよーっ! ボクらは先生から教示を受けた、栄えある少女十字軍なんだぞぉっ!」
「むっきーっ! そもそもさぁ! なーんでミーシャ様たちがこんなお荷物扱いなのさぁっ!? もーっと丁重に扱うべきじゃんっ!? てー! ちょー! にぃっ!」
「あはは~。私たちを放っておくとね~、何をしでかすかわかったもんじゃあないんだってさ~。ひどいよね~、味方を信用してくれないなんて。」
苦言諦観に文句の嵐。思い思いに言葉を重ねられるその只中を、『シャーラップっ!!!』の一言で有無を言わせずばっさりと断ち、お腹に収めていたゴリアテ君を下方に向けてゲロリと吐き出す。鶴の一声なんぞとあまり好むものでも無いが、今は有事であるのだからしてご容赦を頂きたい。馬鹿と煙はなんとやら、空を制するのは戦いの基本なわけで、ならば優位は生かすに限る。これで私は真剣なのだ。
「改めてお伝えしましょう! この下にですね! 『悪い奴』という札を張り付けられたお人が居ます! その方に去って頂いて八方丸く収める為に! わたくしこうして骨を折って来たわけですよっ!」
「骨が折れて砕けそうなのはわしらなんじゃがっ!?」
「蜘蛛の化生ヨ。奴の人となりは大体察しタ。調子に乗っている時のコイツは駄目ダ、諦めロ。」
「お分かり頂けて大変結構! 素面で殺し合いなんぞ出来ますものかっ! そぉいぅわけでぇっ! 行きますよぉ皆の衆っ! 為せば成る! ゴリアテ君だって男の子ぉぉぉっ!!!」
ただでさえグラグラ飛んでいた鷲の化生。そこへどでかい白亜紀生まれが突如ぶら下がってきた事で、崩れた均衡は必然的に真下へ向けた落下を始める。取り巻く風は勢いを増し、遠間に見えていた土の壁もぐんぐんと近づいてきて、そして私たち音楽隊は盛大な破砕音を響かせながら、ダイナミックお邪魔しますを敢行した。いや失礼、なんせわたくし達ってばご無礼ですので。
「あぎゃぎゃぎゃぎゃっ!? む、無茶苦茶をしおるっ!? おぅいヤマヂチ! おんし何時までぐぅすかと寝ておるつもりじゃ! 粉々に割れておらんでしゃきっとせいっ!!!」
「はっ!!? な、なんじゃ!? なんじゃこのごった返した状況は!? おぅマガグモ! あの流れ者め! 我らをどこの果てまで連れてきおったっ!?」
「おはようございますご無事で何より! これでもわたくし焦燥でして! 必要とあれば無茶でも苦茶でも惜しみませんゆえ! そしてさっそく出迎えですよぉ! やっこさんがた思ったよりも動きが早いっ!!!」
崩れて積もった瓦礫の上、もぅもぅとくゆる土煙が成した白い壁を、切り裂き破って飛び出してくるのは番犬ならぬ番トカゲ。二足で走るそいつは後肢に巨大なカギ爪を有し、白くてか細いこの喉笛を、いざや掻っ切らんと迫るのであるからまぁ怖い。背丈は大人の半分ほど、つまりはちょうど私の目線に等しいわけで、思わず声をかけてしまったのもむべなるかな。お元気ですか?
しかして当然ながらお返事は無く、代わりに寄越されたのは高く跳躍しての無言の強襲。それはあわや私の眼前にまで至ったものの、ティラノな彼に噛み止められて思うさまに叩きつけられ、無念にも勝利の咆哮の添え物と化して儚く散った。その頭上に舞い落ちるのはズタボロとなり、いまや埃に濡れてしまった華美なる軍旗。なんかどっかで見ましたねこの光景。
「痛ってぇぇぇぇっ!? くっそ! 鼻を打ったじゃないか! ほらぁ呆けてんじゃないよ田舎娘! こいつら一匹二匹どころじゃないぞ! おかわりが来やがったっ!!!」
「あはは~っ! はーい首すっぱ~んっ! んで次はどうすんのさぁ王国の~!? 親玉をぶった切りに来たんでしょう!? 此処にはさ~ぁ!!?」
「クリスティーっ! 前見てってば前っ! アリンコ共もどんどん寄って来やがってるよぉ! っていうか何処らへんなのさココ!? ミーシャ様には入力無いぞぉ!!?」
襲い来るトカゲの群れをその尖兵に、急速即刻に展開して我ら一同を取り巻きますは、お馴染み蟻の蛮族たるソシアル達。その一角を音の振動が貫き通し、続けて襲う熱波と雷撃が十と数匹を火刑に処すが、連中それを一顧だにもしないのだからなんともまぁ。敵ながら天晴れというかなんというか、個々の意思を徹底的に排除したその在り方は、理解こそあれやはりどうにも共感しかねる。不気味なのだ。
「心配ご無用察しはつきます! かの軍団長殿が『人間らしく』なってしまったとあれば、その居場所はまずは間違いなくお城のてっぺん! 目指すは空の行き詰まりたる天守ですよっ!」
「王国のノマ! 貴様の発言は是認に欠けル! 何故にそうであると断言出来ル!?」
「私もかつては人間でした! よってその弱さ醜さには一家言ありましてね! ひと様を見下せてなにより目立つ! ひひ! 中々に良いものですよぉ! 高いところってのはねぇっ!!!」
よぎった嫌悪を興奮という仮面に隠し、己を昂らせるような口調で以って、その不気味の一員たるサクロルム氏へと言葉を返す。返答は緑色に光る眩い術で、それは襲い掛かる新たなトカゲを衝撃の槌で殴り倒し、飛来する矢の雨をも弾き飛ばしてぶわりと爆ぜた。ほほう、なかなかどうしてお強いことで。緑の偽信徒たる私も顔負け。これはお任せしても大丈夫かな。
「じゃ! ちょっくらぶち抜いてきますよ上階までね! 皆さんはここで通せん坊をお願いします! 化生の方々もちょいとばかし、それを手伝ってあげていて下さいな! お手数ですけどっ!!!」
「言えば許されるとでも思うたか!? チビ助がっ! 我らをこんな蟻の巣へ連れ込んでおいて、それを顎で使ってやろうとは戯れ言をっ!」
「ヒャヒャヒャ! 言うないヤマヂチぃ! これは言わば聖戦ぞ! なんせアチキらは今、化身様の御命に従っておる故になぁっ!!!」
「っち、鳥頭めが。せっかくひんがしから逃げてきたというに、やはり帰するところは殺し殺されというわけか。ったくのぉ! 世はどこも生き辛くてかなわんなっ!」
どかん! と強く踏み込みますは、土で固められた厚い床。目指すは遠目に見えた階段で、兵隊蟻の塞ぐそれを目掛け、わたくしノマちゃん猪突猛進、唸る砲弾さながらにして突き進む。それを阻まんと兵隊達も密集するが、渦巻く霧に羽根の槍、更には突き出す氷塊が大穴を空け、最後は真っ白い網に根こそぎ浚われた事によってこじ開けられた。加勢に助太刀大変結構、うーん善きかな。
ははははは。互いに通じ合えたこの喜び、これに勝るものなぞそうはあるまい。そんな悦楽を胸に駆け、目測違いで突き刺さった階段の縁と共にぶっ飛びながら、行ってきますねと片手を挙げる。上下反転する視界のさなか、妙にしっかと目に留まるのは、べぇと舌を突き出したマガグモちゃん。利害はともかくとして心はわかる。やはり彼女らと話し合う余地は有ろう。そして、ならばさて。
かの軍団長殿は、どうであろうか?
高くそびえ立つ土の壁。それに寄り添ってぽってぽってと歩きながら、何か目を引く物は無いだろうかときょろりと見渡す。時折重くズシンと響き、周囲を震わせる大きな音は、階下でいまだ続く大暴れの証左であろう。まぁ私も暴れていなかったというわけでは無いが、それも二つは下の階層まで。特に此処に至っては兵の一人も伏されておらず、その癖をして塵の一つも落ちてはいない。もうそろそろか。
三歩を歩いて真上を見上げ、二歩を歩いて角を覗き込み、見えた突き当りの奥の奥。ついに見付けたのは見上げんばかりの大きな扉で、その隅々にまで施された飾り彫りが、なんというか如何にも『らしさ』というものを感じさせる。いや、別に悪趣味という程では無い。しかし不必要な一切を省きに省く、道中お目にかかったこれまでの造形を鑑みるに、やはりどうしても否めない。悪目立ちである。
さぁてそれではどうしたものか。相手は悪党。そう決めつけて正義よろしく蹂躙するか、それともノックをしてから極めて紳士的に蹂躙するか。その選択を幾らか迷い、首を傾けてポキンと鳴らし、それからコンコンコンっと三度を叩いて扉を押した。考えてもみれば一方的で、得られた情報は多角というものにどうにも欠ける。まずはじっくりと言葉を交わし、それからぶん殴ったとて遅くはあるまい。
「……失礼します。わたくし此処より北西は人族の国、王国より参りましたノマと申しまして、こちらソシアルが第四軍団長、レガトゥス・フォウ様のお部屋で合っておられますでしょうか?」
「アァ? 何もんダ、テメェ? レガトゥス・フォウは俺だがヨ、テメェみてぇな貧相な餓鬼ニ、急に訪ねてこられるような覚えはねぇナ。」
「ごもっとも。ですがあなた方のこれまでにおけるその振る舞いと、人族に組する私の立場。それを考えて頂けたなら、おのずと察しは頂けるかと。」
開けた隙間からヨイセっと身体を滑り込ませ、さっそく目の合う一人の御仁へと言葉をかける。銀の王冠に玉の指輪、それら装飾でギンギラギンに着飾りながら、金の玉座へと腰掛ける巨躯のアリ。その彼が金貨を弄びつつ、同じく私へと放つ誰何に対し、返してあげるのは『ボコりに来ました』という暗なる言葉。ヘーイ、態度が悪けりゃあやっちゃいますよ?
「カカカっ! こんなチビで刺客かヨ! マ! そのチビにココまで踏み込まれちまってんダ! 俺サマも焼きが回ったってぇもんだナァ! よぅガキんちょ! どうせ下で始まってやがるドンパチもヨゥ、テメェの差し金かなんかダロ? 手引きは誰ダ? 怒りゃしねえカラ言ってみナ。」
「貴方の部下の一人ですよ。第九師団の祭儀監督官、サクロルム・フォウナイン氏です。これはあくまで受け売りですが、殺して欲しいと頼まれました。我欲に染まり、軍を私物化する狂った方をね。」
「そーカそーカ! あの野郎メ! 俺を目障りにしてやがるのは知っちゃあいたガ、まさか敵を手駒に引き込むたぁナ! ったくふざけた話ヨ! 俺からすりゃア、あいつらの方が余程に狂ってやがるってのにヨォ! なぁ王国ノ、テメェもそうだとは思わねぇカ?」
「……肯定は致しかねます。ですがまぁ、仰りたい事はわからないでもありませんね。」
勢い余って鷲掴みにした金と銀を、なんとも大仰に身振り手振り、ジャラジャラと振り撒いてみせるアリの王。いや、王と呼んでしまうのは語弊があるが、しかし今の彼には相応しかろうて。天井は高く、壁は大きく取り払われて展望と化し、そこで財宝に囲まれる偉大な男。もっともそれが、裸の王様であるのかまではわからない。さて。
「おおっと待ちナ! 待て待て待てヨォ! テメェが人か物の怪かはわからねぇガ、人族に味方するってぇこったぁヨ! 連中と同じ感性ってもんを持ってんだろウ!? そいつを見込んでちょいとばかシ、俺のお宝を見てやっちゃあくんねぇカ!? そっからでも遅くねえサ、殺り合うにはヨ!」
「いえ、まだ殴りにいったわけではありませんが。しかしね貴方、それならとうに拝見しておりますとも。なんともまぁ、金銀煌びやかでいらっしゃる事。これが今までに襲い奪い去った、その成果であらせられるというわけですか。」
「カハハ! そう凄むなっテ! こんな物はまだ序の口ヨ! もっともっと素晴らしい宝がたぁくさんアル! ついてきナ! それで俺に自慢をサセロっ!!!」
不意の提案に面を喰らった私を置いて、立ち上がり玉座の裏側へと回る彼が、なにやら探ってぐいと押し込んだのは壁の継ぎ目。それは途端にぎしりと動き、大きく回って周囲をその背面へと誘い込むと、さも何事も無かったかのようにして静かに閉じた。本気であろうか? 罠であろうか? しかしいずれにしても追わねばならず、後者なら踏んでぶち抜くという対処に限る。なんせわたくし脳筋ですので。
毒を喰らわば皿まで食うし、尾を踏むついでで頭も踏む。そんな心持ちでえいやっとばかり後ろに続き、しばしを歩いて開けた広間。そこに鎮座ましましていた物に一瞬呆け、それからなんと解釈をしたものかと頭を捻った。ちなみに裸の王様は自身満々、さぁ感嘆を見せろと待ち構えていらっしゃるが、いったいその自負はどこから来るのか。一言で言えばたいへん困る。
彼の言う『素晴らしき』お宝たち。まずはその先鋒として、真っ先に目に付いた物は団子であった。水を含みやすい土を団子に丸め、ダマを砕いてなめらかに纏めながら、表面に乾いた土を刷り込んでいく。時にそれを休ませながら、砂を振るって細かい粒をたくさん集め、何度も何度もまぶしつけては綺麗に磨く。立派に拵えた台座の上、そんな懐かしきピカピカの泥団子さまが、そこには在った。
次に目に付いたのは流木である。どことなく東洋の竜を思わせる、そんな良い感じに曲がりくねった単なる朽ち木。どうやらしっかりと灰汁抜きもしてあるようで、濃褐色の抜けた白い肌が、まるで太古の化石のように見えなくもない。もはや遠きかつての日、亡き祖父が居間に飾っていた物に似ているだろうか。あれで意外と手触りが良く、撫でると気持ちがよかったりするのである。
蝉の抜け殻がある。光沢の綺麗な石がある。大小の硝子玉がある。小さな色付きの瓶がある。布を張り合わせた人形がある。籠に入れられた昆虫がいる。糸を固く編み込んだ毬がある。いずれも子供が集めて宝物とするような、幼い自我の小さな芽生え。そうとしか言い様のない品物たちが、そこには如何にも貴重な財産であるかのように並んでいた。いやあるいは、紛れも無くそうなのだろう。彼にとっては。
「カッハハハ! ドウダァ!? コレが俺サマの宝物殿ヨ! アノ石なんかは新入りでナ! キュキュっと磨いてやりゃあ光を弾いテ、スッゲェぴかぴか光るのサ! 何なら今から見せてやろうカ? ホレホレ。」
「……なるほど。私もね、かつて父に色紙で飾った箱を貰い、その中に宝物を詰め込んでいた覚えがあります。貴方のこれは、その遠い記憶によく似ている。そして、だからこそ言わせてもらいましょう。『こんな物』の為に、敵味方問わぬ大勢を死に追いやったのですか?」
「勿論ヨ! 俺はもはや『ソシアル』では無イ! 俺は『俺』になったのダ! だから欲シイ! アレも欲シイ! コレも欲シイ! モット欲シイ! モットモットモット! 俺は『俺』の物が欲シイ!!! お前にはわからんカ!? この渇望ガッ!!?」
叫び、拳を握り、欲をぶち撒ける哀れな男。いや、これを哀れとは言うまいて。我欲を持つは当然であり、それを満たさんと求める事に、なんら可笑しなところなど有りはすまい。彼は少しも狂っていない。その自我は全く以って正常であり、ただ少しばかり、利害の不一致があったというだけの話である。度し難いほどに。
「……王国ノ。ドウダ? 教えてクレ。人の感性を持つお前にとッテ、俺のお宝は『文化』に見えるカ?」
「……その言葉は様々に面を持ちますので、一概には。しかし私の思ったままで言うのならば、まぁ、そう呼んで宜しいのではないでしょうか。使えない物に価値を見出す。それもまた、文化人の風流かと。」
嘘は一言も言っていない。彼はその心底からの言葉を語り、私もまた本心で以ってそれに応えた。それがお気に召したのだろう。王様は機嫌良く身体を揺すり、ドスドスと御殿の中央にまで歩み出ると、そこに飾られていた一冊の本をその手に取った。装丁は薄く黄味を帯び、古びていながらも異様な存在感を放つ分厚い書誌。気のせいだろうか? 不意に世界が歪んだ気がする。
「これは『黄衣の王』といウ。遥かなるヒアデスの星、遠きカルコサという地を舞台にした、美しき詩劇の綴られた一冊ダ。ケモノ人の国を攻めたアノ日、俺は偉大なる緑の神の神殿デ、この編章を見出しタ。イヤ、見出されたのダ! そして俺は目覚めタ! 『個』を認めぬ在り方ガ! 如何に愚かなるものであったのかヲッ!」
「合点がいきました。つまり貴方の変心は、その一冊に中てられてのものであったのですね。」
「祝福と呼ベッ!!! 大いなる神の御意思ヲッ! そのような言葉で貶めるナッ!!!」
激昂が飛び、私の銀髪をそよ風のように優しく撫でる。殺す気などとうに失せた。哀れとは言わない。愚かとも言うまい。ただただ悲しい。掛け合うボタンが一つ二つも違ったならば、共に阿呆が出来たに違いあるまい。出来れば喧嘩別れで済ませたいところであるが、果たして彼の渇きはそれを許してくれるであろうか。
「俺が『俺』になった時、俺は我らソシアルを恥だと思ッタ。増えて食ってまた増えル。本能の赴くままのソレニ、なんら『文化』ヲ、我らが生きた成果の総体ヲ、感じ取る事が出来なかったからダ。それは絶望にも等しかっタ。だからナ、サクロルムの造反を聞いテ、実はちょいとばかり嬉しく思ッタ。」
「…………何故でしょうか?」
「奴に自我が芽生えたからダ! 我らの仕組みに従うを良しとセズ! 上位者たるこの俺サマに逆らいやがっタ! 変わることが出来たのヨ! 神々の祝福に頼らずとモ! 自らの意思を持つことが出来タッ! それは我らソシアルが高みに昇ル、素晴らしきその萌芽でアルッ!!!」
高らかに高説を謳い、その手の一冊を恭しくも置く悲しき王。そして振り向くと同時に四本の腕が素早く動き、シャリンッ! と重なる音と同時、四振りの剣が握られる。無骨な長剣、精緻な宝剣、奇怪な曲刀、厳つい短剣。それらはまるで腕の一部であるかのように、怪しく蠢いて逃げ場を封じ、私を壁の際にまで追い詰める。来てしまったのだ。来るべき時が。
「……一つ言わせて頂きます。勝てませんよ、この私には。」
「だろうナ。単身ここまで殴り込んでくるような奴ダ。ましてサクロルムの肝入りとくれバ、そりゃあ余程の怪物であるんだろうヨ。」
「ならば何故? 出来るのならば、貴方を殺したくはありません。」
「此処で兵を引く事も出来るだろうサ。だがナ、もはや異分子となったこの俺ヲ、本国で待っているものといやぁ処刑のみヨ。ならば俺はこのまま死にたイ。俺が『俺』として思うままに生きタ、この大地で黄泉路につきたイ。」
唐竹に振り下ろされた長剣が、受けた左腕を真芯に捉え、骨までを断ち切って正中の線を縦に切り裂く。鈍く痛んだそのお返しとばかり、残った右手で放つ手刀は短剣の峰に噛まれて折られ、三指を道連れとして受け流された。そして私は一歩を進み、三歩を下がった彼の前で、ぐじゅぐじゅと音を立てて再生する。
「……わかりました、貴方の覚悟を尊重しましょう。最後に何か、言い残したい事があれば伺いますが?」
「……クソ化けもんメ。それならヨゥ、俺のこのお宝タチ。コイツら一緒に、揃って俺の墓穴に埋めてやっちゃあくンねぇカ? オオット! ただし緑の神様の御本だけハ、祠かなんかに供えてくれヨ? 土で汚しちまうのハ不敬だからナ。」
「律儀なお方だ。ええ、わかりました。承りましょう。」
「それト、サクロルムの奴にことづてヲ。『馬鹿メ』、とナ。」
瞳を閉じ、言葉を反芻しながら指の背を唇へそっと当てて、そして両のまぶたを静かに開く。向けられる切っ先は未だに四つ。馬鹿め。馬鹿め馬鹿め馬鹿め。それを言われるのはお前の方だ。それだけの潔さを、何故に最後の瞬間まで使えなかった? 自分の欲を、何故に操ってあげる事が出来なかった? 馬鹿な男。若造め。誰の心にも当然にある、醜さとの付き合い方を誤りおって。
どちらともなく姿勢を落とし、じりじりと距離を詰め合いながら、一息で命を奪う為の間合いを測る。そして影は交錯し、硬いものを貫く衝撃の音が激しく鳴って、一瞬の後。
一切の剣戟は絶えて、静かになった。
与えられたものそれ自体は、紛れも無く祝福でした。




