リベンジ・ミートの夏
それもこの夏のせいだ。暑く残虐な夏の。
―― 冷蔵庫ばっかり開けていないで、外で遊んで来たらどうなんです? ヨン?
いつもはあまり声を荒げたことのないハンナ婆やが、目を三角にして僕に向かい、リネンのシーツをぶん回した。まるで蝿扱いだ。
でも叩き潰される前に、もちろん僕は表に飛び出した。にやけた笑いを頬に張りつけて。
笑っていないと、そうでもしないと、まるで真面目に反応しようものなら、この夏に取って喰われてしまうのは僕じしんだ。
ハンナは僕が生まれる前からのうちの家政婦で、仕事ばかりのママ以上に、我が家の隅々まで知り尽くしている。
7月に入ってさらに8月、暑くなるにつれ、ハンナはイラついていることが増えてきた。
全然帰ってこないママならば気にすることもないだろうが、たまに帰って来るだけの鈍感なパパでも気づいたようで、ハンナにも、夏休みが必要なんじゃないか? とおそるおそる彼女に言ってみたことがあった。
ハンナは『敬愛するヘル・アインベルク』にすら、じろりと白目の多い一瞥を投げかけたのみ。それでパパも、まるでかき回していたスープに急に呼ばれたのに気づいたように、目線を手元に向けてしまった。
ハンナに蠅のように追われて外に飛び出すと、白い光が真上から僕を照らしていた。街路樹はどれも力なく立ちつくし、大きな葉は黒ずみ萎れ、これまた力ない枝にようやくしがみついている。
広場のまん中、枯れかけた噴水のまん中に、煤だらけの天使がもつれてじゃれあっている ―― 永遠の姿のまま。頭から白く垂れているのは鳩の糞だろう。僅かに残った水はすっかり紫色に濁り、何だか分からない死がいが半分沈んでいた。いっしゅん、饐えた匂いが鼻をついた。
「遅いぞ」
噴水の向こう側、小さな日陰から赤毛のヴラッドが立ち上がる。続いて、その横からチビのキムが飛び出した。二人とも汗まみれだ。
「オレ達が融けだして石畳に吸い込まれちまってもいいのか?」
「街頭から吊るされるよりはマシだ」
僕は口をあまり開けずにそう答える。匂いをできるだけ吸いこみたくないのもあったが、こんなのを街頭カメラに映されて唇を読まれたりでもしたら。
「まあ、そしたら今度はオレが始末つけてやるからさ」キムが小学生みたいに足をふみ鳴らす。
「早く行こう、早く知りたいよ」
キムのじいさんばあさんはここよりもっと暑い国の出身だと聞いていたが、キムの一族は本当に暑いのが平気なんだろう、汗をかいているのは同じようだが、特にこたえたような顔ではない。
僕らは小走りに路地をくぐり抜け、表通りから少し入った店の前で立ちつくした。
昼過ぎということもあって、客足はなかった。そう、この店はたいがい開店と同時に売り切れとなる。
それでも几帳面な彼は、夕方4時までは店を開けている。
青銅の看板、豚が笑っている。切り抜かれた目の向こうに、太陽に焼かれた空がちかちかとまたたいている。
肉屋では豚は決して笑わない。誰もが気づいている事実、しかし、誰も指摘しない事実。
今日の僕たちは事実を確認しに、ここに来ていた。
肉屋にしては小柄で、肉屋らしく小太り、そしていつも柔らかく笑ってるドーンさんは、前掛けで手を拭きながら、厨房から出てきた。
「ヨン、ヴラッド、キム、こんにちは、今日はどうしたんだい、お揃いで」
「僕たち」キムにつつかれ、僕はしぶしぶ言った。
「いつも、ドーンさんちのコッホシンケンがとってもおいしい、って話をしてたんです」
「ああ、そうかい」
ドーンさんの笑みがほんの少し、変わってみえた。何だろう。つやのある頬のせいだろうか? 汗もかいていないような、狭い額が更に狭く見えたせいだろうか?
「もう今日の分は売り切れだが」
「はい」
「それで?」
「近頃、前に比べて、もっとおいしくなったね、って話がでて」
「ほおぉ」
少しのばし気味の相槌とともに、ドーンさんが一歩前に出た。
「分かってくれたかい? 近頃、ちょっと作り方を変えてみたんだよ」
―― 聞きたい
―― 聞きたくない
「へえ? でも」
時間稼ぎのために、僕はあえて間延びしたようにのんびりと訊いた。
「なんでか、聞いても?」
「いいともさ」
ドーンさんは、自信に満ちた声で、こう言った。
「なんたって、リベンジ・ミートを使っているからね。正真正銘の……」
そして言い足した。「それも、たっぷりとね」
うす暗い店内の温度が急に下がった気がした。
まさか本当に答えてくれるとは思ってもみなかったから。
口の中であやふやに「そうなんですか」「ありがとう」「じゃ、また」それぞれつぶやくように言って店を出て、最初の数メートルは何気ない様子で歩を進めていた僕らは、彼が覗いていないことを知るや、だっと駆け出した。
石畳が妙に滑る。思うように前に進めない。少しでも早くその場を去りたいせいなのか、それとも本当に熱で融けだしているせいなのか……僕らじしんが。
ドーンさんの奥さんのアリシアは先月はじめ、街頭に吊るされた。
店に来た客たちに、何かと噂話を振りまいたのが原因らしい、と言われていた。
誰が密告したかは、結局分からず終いだったらしい。
ドーンさんは妻の靴先を見上げながら、ただ黙って突っ立っていたそうだ。
口を半開きにしたまま。
蠅があたりいちめんものすごいのに、しばらく口を半開きにしていたらしいぜ、と後になってからヴラッドが僕にこっそりそう言った。
だから口の端から蠅が出たり入ったりしててさ。
それからしばらくして、コッホシンケンの味が変わった、と近所で囁かれるようになった。
不味いのならば仕方ない。ドーンさんはすっかり、生気をなくしていたから。事実、商品はめっきり少なくなったし、店自体、平日の昼間でも閉まっていることもあった。
それが、なぜかまた店は以前のようにきちんと開いていることが多くなったのだ。
精肉が減った分、ハムやソーセージの類が増えた。
そして、以前からご自慢だったコッホシンケンがいつも、切らすことなく売られるようになった。
ドーンさんのコッホシンケンは、その美味しさのおかげで開店と同時に瞬く間に売り切れとなることが多くなった。
以前からのお得意さんは急に減った。しかし、地元紙の取材やネットでの口コミなどを経て、今では新しいお客がどんどんと押しかけてくる。
「やっぱりな」
さりげなさを装いつつも、うつむき加減にヴラッドが言う。
「やつ、リベンジャーに登録されたんだ、だから」
僕はただ黙って、汚い石畳だけを見つめて歩いていた。
「いったいあのオヤジ、誰を刺したんだろうな、アリシアを密告したのはどうせひとりかふたりだろう? しかし材料に不足はなさそうな、かなりの数を指摘したんだろう」
「ヨン、お前んち母さん、アリシアと幼馴染であの店によく寄ってたんだろ?」
キムが突然立ち止まり、一番触れられたくない質問をしてきた。
「近頃、何か言ってなかったのかよ?」
「……ママは、」
午後遅くなったとは言え、通りにはまだ凶暴な熱気が充満していた。
口の中に妙な粘りがへばりついている。僕はそれを気にしている。言葉はしぜん、重くなる。
「近頃帰ってない、仕事が忙しいから、って」
それを伝えたのはハンナだった。
奥様はしばらくお帰りにならないそうですよ。お仕事がかなり立て込んでいるようで。
ヴラッドがキムに怖い顔で目配せしたのが、目の端にみえた。
「……ああ」
キムはごくりとつばを飲んでから、ようやくかすれた声を出す。
「まあ、大人は誰も忙しそうだからな」
僕は下を見たまま、うなずいたきりだ。
あまりの暑さのせいだろうか。
人びとは極度に怯え、疑い深くなった。
大人の誰もが他人を信用せず、利益になることには敏感になって増幅させ、不利となることには極端に目をそむけ、あたかも元から無かったようにふるまう。
ドーンさんの店が流行る理由も、大人はちゃんとわきまえているんだろう。そして、利益になると知ったからこそ、彼の商品、彼の店をほめたたえ、ネットでも画像つきで触れまわっているんだ。
僕は分かりたくない。
アリシアが吊るされて暫くしてから、忙しかったママが全く家に帰って来なくなったこと。
ハンナは元々、ヘル・アインベルクには忠実だが『奥様』と呼ぶ時に何となく喉につっかえた言い方をしていたこと。
「まあ、オレたちはしたいようにするしかないさ」
ヴラッドの声はわざとらしいくらい明るい。
「誰も子どもを刺すことはできないしね……子どもでいられるうちは」
だから少しでも、楽しいことを考えて楽しいことをして暮らすしか、ない。
頬にひきつった笑いを浮かべて。
そして誰もが大人になると、吊るされないように怯えながら暮らし、殺られる前に誰かをやたらめったら刺して回るようになるのだろう。
友人たちと別れてから、重い足取りのまま、僕は我が家に向かった。
ハンナに見られないように、冷蔵庫を確認するのが毎日の習慣になってどのくらい経つだろう?
それでもハンナには、すべてがお見通しなんだけど。
僕はもうあのコッホシンケンは絶対に食べないだろう。
ハンナがいくら茹ったように太った頬を赤らめて外から戻ってきて、
「ようやく並んで、手に入ったんですよ」
と買ってきてくれても。
それもこの夏のせいだ。暑く残虐な、すっかり狂った匂いを振りまく夏の。