1 出会い
その日、学校の課外授業で、ピピは生まれて初めて陸族館というものを見た。
ピピたちが近づくと、青い海の底に大きな気泡のようなものがいくつも連なって、海面から差し込む光で真珠のように輝いているのが見えてきた。それらが潮流に流されないようにだろう、全体を包み込むように巨大な透明ドームが覆っている。
ドームと海底には少し隙間があり、そこが館内への出入口であった。
ピピの学校の生徒たちが、触腕の真ん中にある噴水管から勢いよく水流を吹き出しながら、次々にその隙間を潜り抜けてドームの中に入って行った。
泳ぎが下手なため皆より遅れたピピは、中に入ると一生懸命触腕で水を掻いた。急ぐ時でも、建物の中では噴水管を使ってはいけない決まりになっているからだ。
ようやくみんなのいる場所に追いつくと、先生がクチバシをこすって点呼をとっているところだった。
「ピピ、ピピ。ああ、そこにいるのね。これで全員そろったわね。みんな、陸族館は初めてかしら。そう。じゃあ、簡単に説明するから大人しく聞くのよ。ほら、キキ、マリンスノー(=プランクトンの死骸などが雪のように海中を漂っているもの)を食べるのは、お昼まで我慢しなさい」
注意された生徒が吸水管を閉じたのを確認すると、先生は説明を続けた。
「さて、ドームの中にある大きな丸い泡みたいなものは空気槽よ。透明だけど、水圧に強い素材で作ってあるわ。中の空気は、海の上からポンプで吸い込んで循環させているの。ほら、空気槽同士もパイプで繋いであるでしょう。もっとも、空気だけだと浮き上がっちゃうから、下の三分の一ぐらいは砂が入ってるわ。そして、上の空気がある部分に動物がいるのよ」
生徒たちがザワつき始めた。
「静かにして。そう。水の中じゃないのよ。空気の中で生きてるの」
先ほど注意されたキキという生徒が、「窒息しちゃうよ!」と大きな声を出した。
「静かに。ちゃんと説明を聞いて。この陸族館にいる動物は、元々空気の中で生きていたのよ。だから、わたしたちクラーケン族と違って、空気の中の酸素を吸収できるの」
またキキが、「変なの!」と声をあげた。
「ちっとも変じゃないわ。空気の中には水の中よりたくさんの酸素が含まれているのよ。だから、今では水の中に棲んでいるけど、エラを持つほど進化していないために、時々海面に出て空気を吸う必要がある動物もいるわ。そうね、例えば、ケートスのように」
騒がしかった生徒たちが、一気に静まり返った。
自分の言葉の効果に満足したように、先生は眼柄をクルクルと回した。
「さあさあ、時間がもったいないわ。これから動物たちを見ながら説明するから。はい、ちゃんと並んで。キキ、順番を守るのよ」
空気槽越しに見る陸棲の動物たちは、生徒たちにとって初めて見るものばかりだった。
ピピも眼柄をできるだけ延ばしてみたが、見物客が多すぎて良く見えない。
しばらく順番を待って、やっとチラリと見えた説明プレートには、『キリン』と書いてあった。ものすごく大きな生き物だ。
(ケートスとどっちが大きいかな。それにしても変な形だ。首が長すぎるよ。あれじゃ泳ぎにくいじゃないか。ああ、そうか。この生き物は泳げないんだっけ。でも、泳がずにどうやって移動するんだろう)
ピピがそんなことを考えていると、キリンがゆっくり数歩進んだ。
(へえ、あの細い四本の触腕を動かすのか。タカアシカブトガニみたいだな)
キリンが歩いたのは、飼育員からエサをもらうためのようだ。
キリンの前にいる飼育員は、全身をスッポリ透明な防護スーツで包んでいた。もちろん、スーツの中は海水で充たされている。
関節部分には補助動力が付いているようだが、浮力のない空気の中では大変な重量である。慣れているはずの飼育員でさえ、立っているのが精いっぱいのようだ。
キリンの方から近づいて首を下げるのを待ち、トゲトゲした海藻のようなものを食べさせている。
先生の説明によると、キリンに与えているエサは、一番大きな空気槽で育てている陸生の植物で、『アカシア』というものらしい。
ピピはもう少しキリンを見たかったが、先生は先を急がせた。決められた時間内に全部を見て回らなければならないからだ。
他にも『シマウマ』『カバ』『ゾウ』『ヌー』などいろいろな動物がいたが、ピピは特に『フラミンゴ』の飛ぶ姿に驚いた。
(水がないところで、どうしてジャイアントクリオネのように泳げるんだろう)
当然のことながら、ピピは水がない場所というものを経験したことがなかった。
昔、この海球が『地球』と呼ばれていた頃には、水のない場所がたくさんあって、そこが『陸』と呼ばれていたことは学校で教わった。だが、それがどういう状態なのか、想像することさえできなかった。
最後の動物は『ヒト』だった。説明プレートには、『まだ陸があった頃の知的生物』と書いてあった。今ではすっかり退化してしまい、知的能力を失っているらしい。
その空気槽はひときわ大きく、中に数匹のヒトがいた。みな亜麻色の長い髪の少女たちであった。背の高さはピピとあまり違わないくらいだろう。
ピピには知る由もないことだが、みな服を着ておらず、裸足で砂の上を歩いていた。
彼女たちは全員が同じ顔をしていた。それが普通のことなのか、そうではないのか、もちろん、ピピにはわからない。わかるのは、少女たちが生気のない無表情な顔をしていることだけだった。
(いや、一匹だけ、他のヒトと様子が違うぞ。目からポロポロと水があふれている。あの子はどうしたのかな)
ピピがそう思ったとき、頭の中に不思議な声が聞こえてきた。
(ああ、誰もわたしの声は聞えないのね)
(あれっ、この声は何だろう?)
ピピがそう考えると、その少女がビクッとした。
(きみ、もしかして、わたしの声が聞こえるの。だったら、返事をして!)