背中に回した血塗れの手をあなたは知らない
彼女はどうしてこんなことになってしまったのか。
~謎という名の挑戦状~
今でいう京都辺りの何処か。蝉の鳴き声が止み、夏が終わる頃の昼下がり。立ち並ぶ数十数百の京屋敷のうち、一際大きな一軒。その屋敷は、並みの家ならすっぽりその中に入ってしまいそうな程の面積の丸池を敷地の中央に持っていた。その周囲を一周囲うように屋敷があり、その更に外側が庭で、その更に更に外側が、敷地の境界を囲う塀である。そんな具合である。さぞかし風流な人物の邸宅なのであろう。
そんな屋敷の池のほとりの縁側で、褌一丁で座り込み、何かを抱えるように丸まり、指先をしきりに動かす一人の男がいた。やけに筋肉質で、大きな体をしているが、決して若い訳ではないことは、その手先の皺と角つき具合、そして何より、髷が剃り落とされていることから明らか。
未だそれなりにお天道様が夏らしい働きをしているにも関わらず、男は汗一つ流してはいない。すぐ傍に水場があるからというだけでは、理由としては些か足りないだろう。
男が顔を上げ、丸めた背を起こす。すると、男が何かを抱えていたのではなかったことが分かった。男の足元の上には、全長二尺程度の、赤黒く巨大な伊勢海老が、二本の長く太い触覚を逆立て、二本の鋏脚を半開きにして前へ付き出していた。
光に当たって、その鋏脚が、背が、黒光りする。それと同時に、それが非常に精巧に作られた陶物であると分かった。というのも、その背には、伊勢海老自身の外殻と同じ質感をした、底部が一尺を超える程度の大皿が結合してあるようだからだ。
男は、左手に握った、赤漆用の筆を下ろした。両挟脚の先端が赤く濃く縁取りされた直後であるようで、湿り気を帯びているかのようによく光る。
男は右手に握った、黒漆用の筆を下ろした。尾の部分を塗っていたらしく、未だ二つの目と、尾の節の黒紋は、液体特有の光沢を残しているように見えた。
男は、右手を背後に伸ばし、手探りでまた別の筆、でなく、木目の目立つ器を取り、置いた。浅く広いその平らな器には、緋色の粘り気のある漆が注がれていた。
男はそれに、自身の右手の掌をしっかりと漬けた。そして、その右手の掌を大きく紅葉型に開き、押し付けた。男が掌をそこからを放すと、伊勢海老の背の大皿の中央には、くっきりと、男の手の紋様が紅葉状に張りついていた。
男は満足げに息を吐き、一旦そこから離れようと立ち上がったが、後ろから何だかに強く裾引かれ、ひっくり返りながら、
「あなやぁあああああああああ!」
屈強で情けない声を出しながら、そのまま池に沈んだ。それを聞いた近所の者たちが様子を見に来たときには、男は既に溺死していたのだから、それが男の断末魔、ということになるだろう。
裾には、男が転んだときに何処か切ってしまったかのような跡がついていたことには特に誰も気には留めなかった。
*
それは、彼女が作られ、100年が経つところだった。最初から今までずっと、同じ屋敷に彼女はいる。屋敷の中央の池が見える縁側が見える、雨風が届きはしない部屋の奥の床の間に彼女は安置されていた。
100年経過で付喪神となった彼女の意思の芽生えは、その100年を一瞬に圧縮して振り返るような反芻の刺激から生まれる。どの付喪神もそうであり、彼女もそうだった。
だが、彼女は、使い古された日用品ではなかった。飾られ、鑑賞され、大事に手入れされ、扱われる、美術品であった。
だから彼女の100年の記憶は刺激に乏しく、薄い。100年前から既に薄く薄くだが意識を持っていたとはいえ、それは、人格として存在し続けるには足りなかった。作られた最初と、節目の年々に偶に自身が伊勢海老である、と認識することがあった程度だ。
だが、100年が経過した。だからこそ彼女は、雌の伊勢海老として象られた存在である彼女は、持ち合わせた記憶の最も濃い部分を最も強く認識した。
鮮明に思い出す、恐らく、己の魂が込められた瞬間を思い出す。
凡その形はできたが、未完成で、完成へ向けての仕上げである塗りが行われる。光景も音も分からない。だけど、触られ、丁寧にそれでいて念を込められるように大胆に力強くも緻密に塗られる感覚を今でも覚えている。最初の記憶だから。
それは、年に数度の、埃を取るために手入れでふかれるときの、臆病に過保護なくらい繊細で、畏怖による距離感を感じてしまう不満な感覚とは全く違う。
とても安らかで、暖かで、力強かった感覚。いつも畏怖されてばかりの自分が喜ばれ、祝福されたかのような、歓迎されたかのような気分。
あんな風にまた、触れて欲しい。それが誰かは分からない。100年だ。だから恐らく恐らくもう、この世にはいない、と彼女は理解している。それが叶わぬ願いだと知ってはいる。
喉が渇いた。
彼女は、目線に入った池に向かって、その硬く動かない体を引き摺るように動いていき、縁側から顔を出そうとしたところ、体勢を崩し、踏ん張ることもできず、そのまま、落ちた。
体がばらばらに千切れる感じたこともないような痛みと共に、自身の意識が離散していくのを感じた。
*
彼女は、自身が何であったか知らない。意識はいつしか芽生えたが、目や耳といった感覚の一切が無かった。だから何も分からない。自身が女性である、ということ以外、禄に記憶もない。だが、そんなことはどうでもよかった。
唯、彼女は、一つだけ不満があった。それだけがひたすら、気になっていた。それは、今、自分はどんな姿形をして立っているのだろう、ということ。
彼女は、凡そ200年前からずっと同じ屋敷の同じ場所に置かれている。縁側に接した幾つかの部屋の一つの、中央。刀でも置くような台の上に飾られていた。
その前には、彼女の現在の名前と、伝承について白い紙に墨で書き連ねられていた。
【『鬼殻一角』】
それが、彼女の、100年前から存在する躰の名。そしてこうやって意識が意思持つまでにはっきりするまでも、常に考え続けてきたような気がしたが、彼女は、自身の役割を結局のところ、知らない。
【伝承:約300年前、この泉の主であった、人の頭程度の大きさの海老。それを無名の芸術家が釣り上げ、鞣し、革としたものに、その海老の存命時の荒々しさを墨筆で赤漆と黒漆を幾重にも塗り分けつつ、固め、層状に陰影を付けることによって作られた。今ではもう、長々しい触覚の右の一本、この到底あらゆる種類の海老の触角であるとしても太ましく、絵物語の鬼のまだら赤黒模様を持つそれのみが、このように残り、伝わっているだけである。ある時期からこのような呼び名が付き、元の名は忘れ去られたとされている。鑑賞用の装飾品であるとされているが、他の部分と比べた先端の剥がれと摩耗から、ある時期まで筆として使われていたという説もある。】
彼女は文字を読めない。解さない。そもそも、今は目が無い。だからその意味は永遠に知ることはない。そして、もしたとえ、奇蹟の類でも起こって、書かれている内容を知ったとして、それは正しい答えではない。
彼女は一体、何なのであろうか。もう、それはきっと、誰にも分かりはしない。唯一可能性がありそうな彼女自身ですら、こうなのだから。
"背中に回した血塗れの手をあなたは知らない"
漆が特定の種類の樹木の樹液の加工物であると考えると、人の体に流れる血になぞらえられるような気がしたのが事の始まりだった。
~この話を作ったきっかけ~




