その14 兼業稲作農家の実態――生活編
昭和50年代当時は、まだ兼業稲作農家にとってお米は副業として成り立つだけの収入があった、と先の収入編で書かせていただきました。
しかしながら、この当時の私の家は、書くのも恥ずかしくなるくらい貧乏でした。
お友達のおうちと比べて貧しいな、というよりもはっきり言って貧乏でした。
生活全てにおいてお金にも余裕がなかったというのもありますが、なによりも精神的に余裕が全くありませんでした。
気持ち的に、精神的に貧乏だったのです。
考えてもみてください。
土日祝日ともなれば、確実に両親は朝から晩まで農作業に出かけていくのです。
農作業は今も昔も体力勝負の3Kの仕事筆頭ですが、仕事で帰りが9時10時なんて当たり前の生活をしていた父親にかわり、母は女だてらに、男性でも1時間もかつぐのは厳しい草刈り機で普段からあぜ草刈りを行っていました。
農業の機械化により女性にも作業ができる分野が広がった分、父親が会社で間に合わない作業を母親が女の細腕でこなしていたのです。
たとえ機械化されても、農作業は力仕事であることに変わりありません。
実家の母は今年70歳になりましたが、未だに二の腕には年齢にはそぐわない立派な力こぶがあり、手と指はまるで男性のようにがっちりと太くて、ごつごつと節くれだっています。
母がスカートをはいて、おしゃれをする日は授業参観日の日だけであり、それ以外はお化粧もせず、髪をふりみだして農作業つけの毎日だったのです。
時代的にいわゆる企業戦士であった父は、自然と帰宅が遅くなりました。
夜半過ぎの帰宅も多く、母親の農作業の遅れにもイライラとして、話題に出るといえば仕事と田んぼの話ばかりです。
子供の学校で、いつどんなイベントがいつあったのかなんて知らなかったでしょう。
聞く余裕も興味を持つゆとりも、当時の父には皆無でした。
田んぼからの収益をあげることに、血道をあげていたからです。
この頃はまだ家で苗をつくっていたので、ゴールデンウイークは家族総出で苗箱を作る作業に追われます。
田植えの日には、空になった苗箱を用水路につかりながら亀の子タワシをつかって洗わねばなりません。
子供といえども立派な労働力として扱われましたので、いい加減なことをすれば容赦のない叱責が飛びました。
私の誕生日は6月なのですが、ちょうど田植え後の稲の管理でいそがしく、まともに祝ってもらったことはありません。
社会人になるとさすがに仕事を優先させて遠のきましたが、中学生・高校生時代は当然のように部活動を休んで手伝わねばなりませんでした。
遊園地に遊びに行ったり、誕生日に外食してお祝いしたり、映画を見に行ったり……。
そんなふうに家族そろってのお出かけやイベントを楽しんだ、なんて片手で数えるくらいしか経験がありません。
夏休みも毎日田んぼの水の管理がありますから、遠出は基本無理ですし、めずらしく父が宿をとってくれて泊まりがけに海水浴にいけるとなってもお盆以降で、海にはクラゲが大量に発生していました。
海を目の前にしておきながら、海水に入れないようなありさまでした。
毎日の生活は常に追い立てられるようなものであり、せっかくのお休みであっても両親は農作業に出ていく。
お祝いごともまともにしてもらえなければ、遊びにも連れて行ってもらえない。
友だちの自慢話を横に聞きながら、『○○ちゃんちはどうだった?』といわれても答えられない、本当にみじめな思いをかみしめていたのです。
友だちの家ももちろん農家でしたが、みんなの家は祖父母が中心となって農作業を行っていましたので、わたしの幼少期のような家は少数派だったのかもしれません。
ですがこの経験は、人の子の親となったいまでも、わたしの中で暗く尾を引いています。
精神面だけでなく、金銭面でも切迫していました。
収入編で先述したとおり、稲作による収入はたしかにかなりの額でした。
しかし、最初の頃のお金のはなしの項でふれたように、農作業を楽にできるように、と農家は次々に開発される農機具を購入していかねばなりませんでした。
田植え機も当初は手押しだった二条植え田植え機が、4条植えが開発されれば効率化を求めて買い替えます。
この次に、手押しタイプから乗車タイプが開発されればやはり体力面からの効率を考えて、当然のことながら買い替えを検討します。
トラクターの馬力もあがり、広範囲をおこし多機能化が進めば、より効率の良い方へと目が向いてしまいます。
コンバインも、刈り取り能力が次第に向上していき、やはり買い替えが検討されます。
新商品の投入速度は、まさに日本の技術開発力の真骨頂というべきものでした。
農家さんたちは、高価な機械だけれどお米からの収入があるから大丈夫と、と新しいものを求めて我先にと買い替えを行っていました。
つまり、お米からの収入は右から左へと流れていっており、手元に残るお金はほぼないような状態だったのです。
農業収入があるから我が家にはお金がある、お金があるから借金ができる、借金ができるのは財力があるのだと認められている、他人よりも優れているのだ、という論法マジックに、当時の農家の多くが酔わされており、我が家もご多分にもれていなかったのです。
やがて農業機械の効率化と大型化が一段落し、購入の波も頂点を描いた時に、お米の価格下落がおこりました。
この、大型の農作業用機械の購入ピーク時こそが、今の農業の高齢化のトップにある稲作農家さんたちが現在所有している機械になります。
サラリーマンの収入がどんどんと上昇するなか、お米の価格は坂を転がるというよりは断崖絶壁から身を投げるような勢いで下がりました。
しかしお米の価格下落がはじまっても、サラリーマン家庭の兼業農家さんはまだしばらくの間はしのげていたのです。
なぜならば、ちょうどその頃は、そう、バブル期に突入していたからです。
購入した農業機械の借金をお米の収入でまかなえなくとも、今では信じられないバブル期の年収・ボーナスが支えてくれていました。
とはいうものの全ての機械を購入すれば、土地付き新築に新車付きで購入するのと同じだけの金銭ボリュームです。
毎月のお給料から天引きで何万と借金分が差し引かれ、当然ボーナスも、ほとんど全てが借金返済のために羽を生やして消えていきました。
兄と私は、ちょうどこのバブル絶頂期にまさに大学進学時期をむかえていました。
当時の父の年収と母のパート収入をあわせたら、私たち兄妹が希望の大学をねらうために、塾に通わせてもらえるくらいの余裕はあったはずです。
ですが父が最高年収を得たバブル期であっても、兄も私も塾に通う余裕などなく、金銭面の問題から本来の希望をあきらめざるをえず、希望校を変更しなくてはなりませんでした。
やがて、このバブルもはじけてサラリーマンの収入も減収に転じました。
実家は幸いにも、バブル後数年でなんとか借金を返済し終えました。
ですが、この頃に機械を購入しなくてはならなかった農家さんの苦労は、とても言葉で言い表せないものであったと思います。
お金があるはずなのに、お金がない。
自分たちの親が必死になってかせいでくれたお金なのに、手元にのこらない。
別にギャンブルやお酒により生活を崩したというわけではないのに、お金がない。
つねに我慢をしつづけ、やりたいことを押し殺し、楽しみさえもてず、経験する機会も与えられず、夢をかなえるための進路希望さえねじ曲げねばならないほど、お金がない。
多くの農家の人は、この理不尽さに言葉を返すことなく黙し続けているのです。
なのに土仕事をしたことがない人に限って、こういうのです。
『田んぼって、税金もかからないタダ同然の土地なのでしょ? なのに家を建てて売ればものすごいお金にもなるし、土地を埋め立ててアパート経営とか副業でできちゃうし、別にお米だって一年の半分もつかわないし土日ちょっと作業するだけで会社とはべつにお金がかせぐことができるうえに、重たいお米を買ってくる手間もないし、残りを気にせず食べられるし、ほんとにいいね、田んぼっていう財産を持っているなんて、うらやましいわ』




