堕ちた先には
自信はあります。
眼下の世界が、見る間に後ろへと流れて行く。
すごいすごい!ババ様の魔法は本当にすごい!
風を切る感覚、顔への風圧、夜なのに見える目。
「どこまでも飛んでいける」
我を忘れて飛び続けた。そして…大事な約束も忘れていた。
後ろに違和感を感じて振り返ると、地平線が明るくなっていた。薄く空に浮かぶ雲が桃色に照らされている。
「いけない!早く降りないと」
しかし遅かった。下降しようと羽ばたき方を変えた瞬間、翼は力を失ったのか、輝きとともに消える。太陽が顔を見せたのだ。
『これでサフィニアは何回でも飛べる。でも太陽と一緒に飛んではいけないよ。翼が溶けちゃうからね』
まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。
下降スピードは一気に速まり、地面がどんどん迫ってくる。
お願い…今日は飛ばして…。
祈りながら自分の翼を開き、懸命に羽ばたく。イメージは天翔る鷹。私の翼…お願い…。
祈りは通じなかった。飛ぶどころか勢いを落とすこともできない。
そして…彼女は堕ちた。
早朝、日が昇ると青年は起き出した。ベッドから這い出し、背伸びをする。その後、顔を洗って身仕度を整え、外へ出た。学校へ行くのは数時間後。
家の裏へ回ると、そこには格子で囲まれた小屋がある。青年は錠前を外して中に入った。
「翔皇号、行くぞ」
手を差しのべると、中から黒い塊が飛びついてきた。
ピュー
腕に止まった塊。それは大きな鷹だった。青年は左の腕に鍋つかみを巨大化させたような物を取り付けている。
青年は小屋に鍵をかけ、近くの練習場へ向かった。鷹は腕から飛びたち、青年の頭上を旋回しながらついてくる。
小道を歩き、用水路を飛び越え、何年間も耕されていない田んぼまで約5分。そこを練習場として使っていた。周りにはかなり小規模の林がある。小さい頃はよく木登りをして遊んだ。
到着すると鷹は空から降りてきて、また腕に止まる。逆の、右手には木の枝が握られていた。
そのまま青年は静止する。5秒…10秒…。時だけが過ぎてゆく。
ピィ…
鷹が小さく鳴いた。
「行け!!」
枝を投げると、鷹はそれに向かって飛んだ。放物線を描く枝の動きを読み、空中で見事に枝を掴む。そして、悠々と戻ってきて枝を青年に渡し、また青年の腕に止まった。
そんなことを数回繰り返し、そろそろ朝食の時間が近づいている。次を最後にしよう。
鷹との呼吸が合う一瞬を待つ。青年と鷹がいるところだけ時間が止まっているようだ。
「行け!!」
青年は思いっきり枝を投げた。しかし…。
「ヤバい、失敗した!」
枝は左に大きくそれて、林の中へ飛んでいく。もちろん、鷹はそれを追いかけた。姿が見えなくなる。
失敗するのはいつものことだ。鷹は少しすると戻ってくる。はずだった。
今日はいつまで待っても帰ってこない。口笛で呼んでみても出てこない。
不審に思って見にいくと、鷹は木に止まっていた。そして何やら茂みを覗いている。
「翔皇号、何か見つけたのか?」
茂みをかき分けるとそこには─
少女が倒れていた。
髪は空を映したような蒼色。服の隙間から透き通るような白い肌が見えている。青年は思わず見とれてしまった。
「綺麗な人だ…」
青年は少女に歩み寄り、しゃがんだ。少女は寝ているのか動かない。
無意識に少女の手を取る。すると、腕に赤い汚れがあった。血だ。少女の体は擦り傷、切り傷、打撲の後がある。大怪我だった。
しかし、それよりも先に気づいたことがある。大怪我よりも先に目がいってしまう程の発見。
少女の腕の裏には、ふよふよとした膜が張っていた。それは手首から胴体へ伸び、表面には翔皇号と同じような毛…もとい羽が生えている。
少女は翼を持っていた。
青年は困惑した。このような人間がいるのかと。目で見たものを確かめるため、手で触れたり、伸ばしたりしていると、少女の怪我に気づいた。
「大変だ…、とにかく怪我の手当を。翔皇号、今日の練習は中止だ!」
青年は少女を抱き抱え、自宅へと向かった。
目を開けると天井が見えた。暖かい。不思議な夢を見た。夜に飛ぶ夢…。
天井は見覚えがなかった。私の家とは違う。
だんだんと意識がはっきりしてくると、記憶も戻ってきた。
「夢じゃない!」
跳ね起きると全身に激痛が走った。特に背中側。
「っ…!痛ぁ…」
ゆっくり元の体勢になる。それでも少し痛かったので、うつぶせになると大分ましになった。
「ここはどこだろう」
かなりの距離を飛んだことは覚えている。その後落ちたことも。てっきり死んだかと思った。
「あら、サフィニア起きたのね」
パッと声のした方を向くと女の人が立っていた。部屋の戸が開いている。
体は動かせない。布団に隠れてその人を観察した。見慣れない服だ。
…長袖の服なんて着てどうやって飛ぶのかな。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ」
女の人がころころと笑う。
「これ、ここに置いておくからね。お腹がへったら食べなさい」
何かを置いてその人は出ていった。
ふぅ…とため息をついて警戒心をとく。知らない人には気をつけなさい。それがお母さんの口癖だった。
緊張がとけたからか、お腹がぐぅと鳴る。
そういえば夜通し飛んだのだからお腹がすくのは当たり前だ。それに昨日から何も食べてない。
するといい匂いがした。横を見るとお盆が置いてあり、湯気が立っていた。
手を伸ばしてお盆を引き寄せる。そのとき、腕に包帯が巻かれているのに気づいた。他のところも確かめると背中や足など、痛いところは大体手当をされていた。
体のことは気になるが、それよりも今は空腹だ。お盆の上には温かいミルク、そしてパンがある。
少しだけ体を起こしてミルクを飲んだ。温かい…。甘い…。
パンは上に色々載っていた。ピーマン、ケチャップ、ウインナー、チーズ。
「はふ…はむはむ」
少し熱かった。でもすごく美味しい。2枚あったパンはいつの間にか食べきっていた。
ミルクを飲みほし、一息つく。何だか幸せ。
お腹がいっぱいになったからか、まぶたが重くなってきた。必死の抵抗も虚しく、また深い眠りへと落ちた。
次に起きたのは夜だった。外が暗くなっている。
さっきお盆があった場所には何もない。しかしいい匂いがした。部屋の外からだ。
ゆっくりと体を動かすと、さっきより痛みが引いていた。起き上がって立つ。まだ痛いが歩けない程ではない。
怪我はどうなっているかと確認したら、服は脱がされて包帯でぐるぐる巻きにされていた。慌てて辺りを見回すと部屋の角に服がたたまれて置かれている。
服を着て部屋から出た。匂いを頼りに壁づたいに歩いていくと灯りのついた部屋があった。
そっと覗くと人が二人座っていた。そこそこの広さの部屋で、机には食べ物がある。匂いの正体はこれだ。
美味しそう…そう思ったら、またお腹が鳴った。さっと壁に隠れたがもう遅い。二人に見つかってしまった。
振り向いたのは女の人と男の人。男の人はチラリと見たきり、食事に戻る。
「あら、おはよう可愛い少女さん。あなたもこっちにきて一緒に食べましょう」
声をかけてきたのは、さっきパンを持ってきてくれた女の人だ。一瞬どうしていいか分からず、キョトンとしていると、女の人は自分の口元を指差して言った。
「言葉、分かるかしら?」
返事がないから心配に思ったのだろうか。慌てて首を縦に振ってそれを伝える。
「よかった。あなたの髪の色珍しいから外国の人かと思って。ほら、ここにおいで」
指示されるまま座る。男の人の正面の位置だ。
「待っててね、すぐできるから」
女の人は立ち上がり、台所へ向かった。何もすることがない。そして何となく気まずいので、うつむいて机の木目を眺めることにする。
「なぁ」
声に反応して顔を上げると、机の反対側に座っている男の人と目が合う。そっと視線をそらしたが、彼はまだ自分を強く見つめていた。
「お前さ、名前は?」
急な質問に戸惑ったがおずおずと口を開く。
「サフィニア…ニゲラ・サフィニア」
「ふーん…、名前は異国語みたいだな」
青年はその返事を咀嚼して考えこむ。その他人を詮索するような態度に少しムッとした。
「…悪い?」
ついキツイ口調でつっかかってしまう。名前のことだけはとやかく言われたくなかった。
「ああ…すまん。悪気はないんだ。…綺麗な名前だな」
「え…あ、うん。ありがと…」
責めようとしたのが空回りすると何となく気持ち悪い。
「俺は翼飛。そんで、さっきからいるそこの女が」
「晴子です。この男の義母なの」
えっと…えぇ…?その情報はどんな顔をしたらいいのか。しかし二人は何が面白いのか大笑いしている。とりあえず愛想笑い。
「サフィニアちゃんっていうんだ。よろしくね。はいこれ、召し上がれ」
目の前に出されたお盆の上にはご飯、焼き魚、野菜等々があり、サフィニアの食欲をそそらせた。
すぐにでも口に入れたい衝動をなけなしのプライドで抑える。
「無理しないで、どうぞお食べ」
やはり人の厚意を断るのは失礼だ。ここはいただくとしよう。仕方ないなー。
「いただきます…」
食べよう…としたが、サフィニアの手が止まった。
「あの…食べる道具を…スプーンとか」
スプーンもナイフもフォークも見あたらない。
おろおろしていると正面の翼飛が口を開いた。
「何か色々文化が入り交じってんな。ほら、そこにある箸を使うんだよ。その2本の棒。そう、それをこんな風に食べ物を挟んで口まで持っていくんだ」
翼飛はその箸とやらを使って器用に食べ物を食べていく。少し真似をするが、なかなか上手くいかない。段々イライラしてきた。
「最初から箸は難しいわよ。はい、スプーンとフォークとナイフ」
それを手渡されてホッと胸を撫で下ろす。箸というものは少しずつ練習するとしよう。
ナイフとフォークを使って食べ進める。料理はどれも美味しく、サフィニアは無心で食べた。
その間、他の二人は談笑したりテレビなるものを見たりしている。それがつけられたとき、人が入っているのかと思った。
そうこうしているうちに食事も終わりかけていく。
「なぁ」
顔を上げると翼飛がこっちを見ていた。口には食べ物が詰まっていたので、首をかしげて続きを促す。
「分かってないかもしれないから言っとくが…俺はお前みたいなやつを初めて見た」
…?
「翼がある人間なんて見たことない」
!!
じゃあ…この人たちは…
素早く椅子から立ち、後方へ跳んだ。
「あー待て待て」
翼飛が慌てて制止をかけた。助けてもらった事実が頭に浮かび、それに従う。一応逃げ道である後ろの扉は確保していた。
「別に捕って食おうとか見せもんにしようとか、そういうことはしないから…」
翼飛の声は平淡だがサフィニアを気遣う心が見えるようだった。
「お前を見つけたとき…体は怪我だらけだった。擦り傷や切り傷もあったけど、一番でかい怪我は背中の打撲傷。まるで高いところから落ちてきたような…そんな傷だった」
翼飛が見つけてくれたんだ…。まず驚いたのはそれ。てっきり晴子さんが見つけてくれたのかと思っていた。
「あなたが…見つけてくれたの?」
「最初に見つけたのは俺じゃないけど、倒れてたとこからここへ運んだのは俺だ。でもそれしかしてない。手当ては晴子がしたしな」
でも助けてくれた。
「背中の打撲傷と腕の羽。飛んできたのか?そうだとしたらどこから来た?何故落ちた?」
翼飛の目は真剣そのもので体は机に乗り出していた。その圧力に思わず口をつぐむ。
「話したくないことだってあるわよね」
晴子さんはそっとサフィニアの肩に手を置いた。しばらく考えて、こくんとうなずく。もう少し頭の中を整理したかった。
ご飯を食べ終わると晴子にお風呂を勧められた。傷がしみたが、体の芯までしみわたる。充分に暖まったあと、風呂から出るときれいに畳まれた服があった。その上には文字の書かれた紙。
『サフィニアちゃんの服、洗濯するからこの服に着替えてね』
長袖長ズボンの上下。サイズはピッタリだ。少々腕がキツいが仕方ない。
晴子の着なくなったジャージというものらしい。動きやすくていいと思った。
昼間あれだけ寝たのにもう眠い。晴子に連れられてさっきまで寝ていた部屋にたどり着く。
「おやすみなさい、サフィニア」
晴子の声が夢へと落ちるサフィニアの頭に響いた。