『宇宙雑音 -The Fansy Noise-』 第1号 (2014年夏号)
タッツェルヴルム共鳴浸透
ここはスイスではなかった。
ヒマラヤは遥か彼方だ。
鏡面を挟むまでもなく、それは触れられない領域にある。
かじかんだ手を温めるすべもなく死ぬことを知らない、僕は温室の生き物だから。
彼方にある本当の寂しさ。
冬には生命さえほとんど育たぬ極寒の地。
それを僕は想像し、理解できないことに驚いて座りながらビグルモアのステップを踏む。
しかしその地に生まれたとしても、やはりその地を理解できないだろうと、僕は窓の外に消しゴムを放り投げてそっと吐息を漏らした。
高校の教室はいま淋しかった。
放課後の教室は、いま窓外の夕焼けに相対され、哀しくなるほどに薄暗く、さみしさの中でくつろいでいるみたいだ。僕は彼を待ちながら、幻獣事典のページをめくる手を止められない。
彼は言うだろうか、また下らない物を読んでいると?
僕は、知りすぎているイエティの頁を飛ばして、寒風吹きすさぶ地域のマイナーな連中を楽しんでいた。
別に僕はUMAが好きなのではない。ネッシーの実在などどうでもいい。
クラーケンがイカなのかタコなのか、あるいはヒトデのお化けなのかなど好きにすればいい。
ヒトガタだの巨大ミミズだの、下らないバカ話だと思う。
でも、プリニウスの『博物誌』で、フールニヴァルの『愛の動物誌』で、オデリコの『東方紀行』で、アルドロヴァンディの『蛇およびドラゴンの博物誌』で、ボーヴェの『自然の鏡』で、ポントピダンの『ノルウェー博物誌』で、…………それぞれ奇怪な生物について記述されたのは、事実なのだ。
だから僕は、信じるとか信じないとかでなくそれらの事を、どうしても知りたいと思う。
というより僕は、それらを正しく捉えたいのだ。
「なんだかそういうもの」ではなく、「バジリスクス」として、「スキタイの羊」として。
だから、僕の部屋の本棚は幻獣事典や、怪物図鑑ばかりが並んでいた。
同じような内容の本でも、出るとつい買ってしまうのである。
イラストが違うだけで、こうまで印象が違うのかと、改めて怪物たちの魅力に気付くからだ。
……それにしてもと、僕は教室を見回した。
柔らかく夕日の色に染められた教室。黒板は綺麗に緑で、机の板の材質はバラバラで、ところどころ落書きの残るそれら。沈黙するスピーカー。廊下側の窓は半透明で、外を透かして見ることはできないようになっていた。
……遅いな。
いつまで待たせるのだろう、あいつは?
僕はケータイをプリーツスカートのポケットから掴み出して、苛立たしさを隠さずに開いた。
荒々しい、といつも奴に揶揄される動作だった。
Eメールの着信1件あり。
バイブレーションに気付かなかった自分に呆れた。
集中しすぎだよバカ、と何とも言えない脱力感の中で思う。
――――委員会終了下駄箱で待つ。――――
短いメール。しかもこれは件名だ。
本文はない。
いつもそうだ。
やつはあらゆることを面倒がる。
教室で待ってろと言ったのは誰だったろう?
仕方がないので僕は足のバネで勢いをつけて立ち上がった。
イスがガタッ、と少し大きな音を立てて後ろに弾かれた。
もうこうなっては待っていたって、彼とこの教室では会えないだろう。
僕はもうほとんど電気も消え、夕陽に薄暗く照らされた校内を歩いた。
年季の入った廊下のリノリウムの床は、上履きと擦れてもキュッという元気な音は立てず、校舎は昼と違いどこか寂しげな静けさに沈んでいるのだった。僕は鞄にまだ仕舞っていなかった幻獣辞典を開いて、パラパラとさっきの続きを読もうとした。
ページは捲れるたびにしゃらんしゃららしゃと、鈍くなった校舎の中でそこだけ鋭い音を発し、僕の意識をそちらへと引きつける。次の項目は見たことの余りないイラストの付いた、「タッツェルヴルム」という生物だった。ヒマラヤの高い標高にいるというそれは、毒のある蛇のようでもあるが、胴体の膨れた瓶のようで、ちょろりと小さな、しかし恐ろしく強靭な前足を持つのだという。ちなみに後ろ足はないらしく、多くの特徴が日本で目撃されているツチノコと似ており、ともすると同種なのではないのかとも言われているらしい。
変温動物の爬虫類が、そんなに標高の高く気温の低くなるところで生きていけるはずはないような気がするのは僕だけだろうか。きっと、だからこれはなにかの哺乳類の見間違いなのか、あるいはそう、何千万年も前に絶滅したはずの恒温性爬虫類の子孫なのではないだろうか。巨大化という道を捨て、直立歩行の後ろ足を捨て、様々な物を捨てたのに、しかし腕だけは捨てきれなかった彼らは、いったいいま氷の大地で何を思うのだろう。
結局それ以上の項目は読み進められずに本は閉じられた。
物思いに耽りながら僕は、下駄箱の並ぶ学校の正面玄関に至ったのだ。
景色はみな等しく、オレンジに沈んでいた。
グラウンドには運動部が駆け、賑わう声が辺りを満たしていた。
校舎の中には、それでも静けさがあるのは不思議だった。
「………………」
いない。
これは、どうやら校門まで行かなければならないらしい。
彼にも少しは、待つという事を覚えてほしいものだけど。
僕はセーラーの襟が風に揺らされるのを感じながら、明るさに背を向けて歩き出す。
校内の自転車の置いてある側に向かう。
汗をかき始めた皮膚によって、僕は今、夏だという事を思い出す。
それでも僕の心には、さっき読んだタッツェルヴルムが、――彼らが生息するというヒマラヤの白い大地が広がっていた。ジャック・ロンドンの小説に「火を起こす」という短編がある。それはヒマラヤではなくアラスカだったが、そこをひとり行く男が生きるために火を起こそうとする物語だ。彼方まで白い大地、容赦ない吹雪に、男は追い詰められていく。
そんな中でさえ、タッツェルヴルムは息をし、暮らしているのだろうか。
「――よ、遅かったな」
「……あ」
中庭の辺り、校舎の陰に、彼がいた。
変なところで待っていた。
少しふらついた僕に向けて、彼は小さなペットボトルを差し出した。
自販機の爽健美茶、表面は水滴で曇っていた。
彼ははにかんで少し笑って言う。
「今日、暑いなぁ」
僕は予想外の優しさに触れて、受け取りながら何だか、少し口が渇いた。
「うぅん。そう、だね。確かに暑い」
「だよなぁ、じゃあ、早く帰ろうぜ」
彼はスタスタと、駐輪場に歩いていく。
私はその背中、夏服の彼が歩いていくのを、彼から渡された冷たさを胸に抱いて眺めていた。
この胸の冷たさは、何だろう。
暑い大気の中で、この胸にだけある冷たさ、ここにあるヒマラヤの寒さ。
この気持ちの中にうずくまっているのはきっと、これは、タッツェルヴルムなのだろうと感じた。ツチノコじゃなくて、きっと前足だけは捨てきれなかった、そんなタッツェルヴルムなのだ。
彼が振り向いて、心配そうな顔で手を振る。
僕が動かないことが、彼の心を縛った瞬間だ。
僕はふらつきながら目を閉じて、その場にうずくまってしまおうかと少し真剣に悩む。
胸の冷たさが増し、タッツェルヴルムが前足を動し始める。
この冷たさに共鳴して、タッツェルヴルムが僕の心から、全身に向けて浸透すればいいのにと思う。
共鳴浸透、拡散希望。
だから、……ねぇ、僕のタッツェルヴルムよ。
手のひらが冷たい水滴で濡れたから、早く袖口から出てきて、その冷たい息に冷やされた優しい舌でささやかにそれを舐め取り、僕を、そのつぶらな舌の心地でそっと、勇気付けてくれないか?