ミカルだよっ!チュッ!
仕事終わりの缶チューハイを開け、いつものように推しの配信画面を開く。
画面の向こうでは、ピンク髪の2Dモデルがふわふわと揺れていた。チャンネル登録者数5万人。最近ジワジワと人気を伸ばしている個人勢Vtuber「姫宮ミカル」だ。
声がめちゃくちゃ可愛い。リスナーのあしらい方も上手いし、リアクションもいちいち愛くるしい。
「ミカルちゃん、今日も一日お疲れ様〜」
コメントを打ち込みながら、俺は赤色の投げ銭——1万円のスーパーチャットを投げた。画面上で真っ赤な枠が輝く。
『わぁぁ!タナカさん、いつも太っ腹な赤スパありがとう〜っ!ミカル、タナカさんのこと大好きだよっ!チュッ!』
画面越しに投げキッスが飛んでくる。仕事の疲れが吹き飛ぶ瞬間だ。
「可愛いなぁ、マジで……」
思わず独り言が漏れる。この一言と笑顔のために、俺は明日もサービス残業に耐えられるのだ。
その時、スマホがブーブーとけたたましく振動した。実家からの着信だ。
配信の音量を少し下げ、通話ボタンを押す。
「もしもし、オカン?」
『あ、大輔? ちょっとお願いがあるんだけど。お姉ちゃんのアパートの鍵、預かってたでしょ? 今すぐ届けてあげてくれない?』
「は? なんで俺が。あいつ自分で管理しろよ」
『今、家の中で鍵を失くして外に出られないらしいのよ。大事な配信(仕事)の機材を買いに行きたいのに困ってるって』
嫌な予感がした。
姉の部屋は、俺のマンションから徒歩5分ほどの目と鼻の先にある。一人暮らしを始めた時、親に「互いに何かあったら助け合え」と合鍵を渡されていたのだ。
「……はあ、分かったよ。今から行く」
溜息をつき、配信をバックグラウンド再生にしたまま上着を羽織った。イヤホンからは、ミカルの「じゃあ次はみんなからの質問コーナーいってみようか〜!」という可愛い声が聞こえている。
夜の住宅街を歩き、姉の住むアパートの階段を上る。
301号室の前。チャイムを鳴らそうとしたが、鍵を持っているのだからそのまま開けて入ればいいかと、ドアノブに鍵を差し込んだ。
カチャリと音を立ててドアを開ける。
玄関には脱ぎ散らかされたヒール。足の踏み場もない廊下。相変わらず雑な生活感だ。
「おい、合鍵持ってきたぞ——」
リビングのドアを開けた瞬間、イヤホンから聞こえていた声と、部屋の中に響く声が**完全に同期した。**
「……あ、質問きたー!『好きな食べ物は何ですか?』だって!ミカルはね〜、苺のショートケ——」
防音用のアクリルパネルで囲まれたデスクの中央。
ヘッドセットを装着し、マイクに向かって身振り手振りで「可愛いポーズ」を決めている女がいた。
部屋着のスウェット。ぼサぼサのボサボサ髪。スッピンで目元にはうっすらクマ。
足元には飲みかけのペットボトルが転がっている。
間違いなく、俺の実の姉(28歳・独身・ズボラ)だった。
デスクのモニターには、俺が投げた赤スパと「タナカ」のユーザー名、そしてリアルタイムで動くピンク髪の美少女モデルが映し出されている。
俺はフリーズした。
姉も、ドアの開閉音に気づいて振り返り、完全にフリーズした。
部屋を支配する、恐ろしいほどの静寂。
PCの画面の中では、無音のままピンク髪のモデルだけが首をかしげて瞬きをしている。
「……え?」
先に口を開いたのは姉だった。
マイクのミュートボタンを慌てて連打し、ヘッドセットをぶん投げると、般若のような顔で立ち上がった。
「ちょっと大輔!? なんで勝手に入ってきてんのよ! 今配信中……って、待って」
姉の視線が、俺の手に握られたスマホの画面に注がれる。
そこには、配信をリアルタイムで再生しているYouTubeの画面。そして、一番上に表示されている「タナカ」の投げ銭履歴。
姉の目が点になり、次に俺の顔を見つめ、最後にもう一度スマホ画面を見た。
「……タナカ?」
「…………」
「嘘でしょ……あんた、毎週末うちに『可愛い』って1万投げてた『タナカ』なの……?」
血の気が引いていくのが分かった。
脳内で過去の記憶が高速再生される。
『ミカル、タナカさんのこと大好きだよっ!チュッ!』
『タナカさん、いつも応援ありがと〜!ぎゅ〜ってしてあげる!』
俺は……俺は、実の姉の投げキッスに胸をときめかせ、姉の「ぎゅ〜」に癒やされ、そのために血汗を流して稼いだ手取りから毎月何万円も投げ込んでいたのか?
「うあああああああああああああッ!!!!」
俺は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。絶望と羞恥心で吐き気がする。
「待って、私の方こそ無理なんだけど!! 弟に『大好き』とか言ってたの!? きつい! 死にたい! 返金するから! 今すぐ口座番号教えて!!」
姉も頭を抱えて発狂し、部屋の中をのたうち回り始めた。さっきまでの「姫宮ミカル」の可愛さは微塵もない。ただのパニックになったアラサー女だ。
「……もういい。忘れろ。俺は何も見なかった」
俺は鍵を床に置き、ロボットのような動きで玄関へ向かった。
「待って大輔! 配信どうすんのこれ! ミュート入ってなかったら私終わるんだけど!?」
「知るか! 自分でなんとかしろ!」
部屋を飛び出し、夜風に当たりながら走った。
スマホの画面を見ると、配信は「機材トラブルのため一時中断」の文字。チャット欄は『ミカルちゃん大丈夫?』『なにかあった?』と心配するリスナーの声で溢れていた。
自室に戻り、缶チューハイをぐっと煽る。
二度と配信は見ない。スパチャも二度としない。そう固く心に誓った。
……だが、翌週の金曜日。
気付けば俺は、またYouTubeを開いていた。
画面の中では、相変わらず可愛いピンク髪のモデルが動いている。中身があのボサボサ髪の姉だと知っていても、声と動きのプロ意識だけは本物だった。それに、配信機材のローンや生活費で苦労しているのも、弟として知ってしまっている。
『みんな〜、今日も来てくれてありがとう!』
俺は深いため息をつき、チャット欄を開いた。
青色のスパチャ——1,000円。
金額は大幅に減らしたが、投げないという選択肢はなかった。
画面の向こうで、一瞬だけモデルの動きがぎこちなく止まり、すぐにどこか気まずそうな、それでいて少し吹き出しそうな声が聞こえた。
『……あ、タナカさん。……うん、ありがと。大事に使うね』
投げキッスも「大好き」もない、ひどく素っ気ないお礼。
けれど、チャット欄の他のリスナーには分からない、二人だけの妙な連帯感がそこにはあった。
俺はチューハイを飲み干し、「たく、世話の焼ける姉だ」と小さく呟いた。




