誰にも言えない秘密
どんなに時間が経っても、過去は決してなかったことにはできない。
私には、誰にも言えない秘密がある。
「来月の飲み会、また美咲の家に行ってもいい? みんな、美咲のだんなさんの料理が食べたいんだって」
元同僚からの電話。彼女たちとは、私が会社を辞めてからも年に2、3回は会っている。
以前、みんなを家に呼んでホームパーティーをした。夫は料理上手で、人に振る舞うのが好きだ。人当たりのよい彼は、私の同僚たちともすぐに打ち解けた。
「うちに来てくれるの? ぜひぜひ。だんなも喜ぶと思うよ」
「よかった。あ、それから美咲、覚えてるかな? 企画部の塚本さん。ほら、あのイケメンの。たまたま声かけたら来てくれるって。いいよね?」
……え?
「じゃあ、来月ね。楽しみにしてる」
「あ、あの……」
戸惑う私にかまわず、電話は切れた。
「来月、みんなうちに来たいって言うんだけど、いい? 何か作ってくれる?」
「ああ、もちろんいいよ。みんなに美味しいもの食べさせてあげるよ。何を作ろうかなあ」
夫は嬉しそうに言った。
その姿を見ながら、一抹の不安がよぎる。――本当に、彼が来るんだろうか。
「一条さん、今帰り?」
営業部に在籍していた、まだ20代の頃。仕事のあと、声をかけられた。企画部の塚本さんは、3つ年上の先輩だ。
「……はい」
一緒に電車に乗り、会社の最寄り駅から2駅ほど離れたところで降りる。
静かなバーのカウンターでお酒を飲んだ。あまり会話はない。
「今日……いいよね? 美咲」
ほどよく酔いが回ったところで、同じビルの上の階にあるホテルへ向かう。
月に数回、こうして彼と会った。付き合ってはいない。お互いに目的はこれだけ。そして、このことは誰も知らない。
大学生のころ、ずっと想いを寄せていた相手にひどい捨てられ方をした。目の前が真っ暗になり、自暴自棄になった。人と話すのも億劫になり、ただふわふわと漂うような毎日。そんなとき、バイト先の男性に誘われて一夜を過ごした。何の感情もない相手でも、体が触れ合うだけで気持ちが紛れる。自分は生きている、なぜかそう感じた。
私のなかで何かがぷつりと切れた。ただ、楽になれるほうへ流れていった。
「美咲、久しぶり。ああ、だんなさまも。いつもすみません」
同僚たちが遊びに来た。女性が5人。そして、その後ろから男性が1人。
「お久しぶりです、一条さん。いや、いまは香山さんだったね」
塚本さんが微笑みながら、私に細長い紙袋を差し出した。高そうなお酒が入っている。
「見違えたよ。すっかりいい奥さんになって」
「いえ……わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
私はできるだけ自然な笑顔を作った。
夫の作った料理を並べて、お酒を飲んだ。塚本さんは私とは離れた席で、同僚たちと談笑している。料理を終えた夫も加わり、和やかな時間が流れた。
――よかった。この調子なら、楽しい飲み会で終われそう。
空になった皿をいくつか持って、台所へ向かう。この洗い物を片づけたら、冷えた飲み物を追加で持っていこう。ふと、足元がふらつく。
――少し酔ったかな。
初めは緊張で、あまりお酒が進まなかった。でも、少しずつこの状況にも慣れてきた。このまま楽しく飲んで、おしゃべりして、そして何ごともなく終わればいい。
「ああ、これも洗ってもらっていいかな?」
すぐ後ろで声がした。塚本さんだった。
「あ、はい。そこに置いといてください」
笑顔で答える。すると、彼は私のすぐ横に立ち、小声でささやいた。
「……まさか、来るとは思わなかった?」
背筋がぞくっとした。
「そんなに身構えないでよ。僕も結婚して、子どももいるんだ。幸せなんだよ」
幸せ……それなら。すると彼はふっと笑った。
「そう。いまの生活に何の不満もない。……ただ、退屈なんだよね」
ガシャン。洗っていたお皿が手から滑り落ちて、大きな音を立てた。
「おっと、大丈夫?」
塚本さんはお皿を拾うふりをして私の手を取った。体が硬直する。水道の水はそのまま流れ続けている。彼は私の耳に顔を近づけた。息遣いをすぐ近くに感じる。水音にまぎれてささやく声。
「また、会おうよ、あの頃みたいに……いいよね? 美咲」
「なっ……」
「大丈夫。誰にも言わないよ。過去のことも、これからのことも。会ってくれるならね」
――会ってくれるならね。
体の奥が震えてくる。私は結婚して、いまは静かに暮らしている。もう、あんな生活には戻らない。戻りたくない。
「あの頃、美咲が会っていたのは僕だけじゃなかったよね。……知ってるんだよ、君がどんな生活をしていたか。――だんなさんは、知ってるのかな?」
そう、私が会っていたのは、塚本さんだけではなかった。同じように、何人もの男性と……。そして、そんなこと、夫に言えるはずもない。もし、知られてしまったら……。
「美咲、どうした? もしかしてお皿、割れちゃった?」
夫が台所に入ってきた。
「いや、割れてはいませんよ。大丈夫です」
塚本さんは、何食わぬ顔で夫に答えた。
「美咲さんはちょっと酔ったみたいですね。顔色が良くない。少しベッドで横になるといい。服を脱いで、楽な格好でね」
何気ない言葉が、意味深に聞こえてしまう。
体の奥の震えが止まらない。立っているのがやっとだ。さっきまでの会話は、夫に聞かれていないだろうか。
「美咲なら大丈夫ですよ。意外と酒、強いんです。それに……僕は彼女のことは全部知っています。僕たち夫婦には隠しごとはありませんから」
夫は塚本さんをまっすぐに見た。
何を言ってるんだろう。私は何も話していない。全部知ってるなんて、そんなこと……。
「そろそろ席に戻りませんか、塚本さんも、美咲も。もっと料理、食べてくださいよ」
飲み会は終わった。「美味しかったです」みんなはほろ酔いで、手を振って帰っていった。塚本さんは、最後まで私と目を合わせなかった。
「……さっき、何であんなこと言ったの?」
片付けが終わって落ち着いたところで、夫に聞いた。
私と彼の会話が聞こえていたんだろうか。それとも、どこからか耳に入っていたのか。
「今日、朝からずっと変だったから。きっと何かあるんだろうなって。でも、過去に何があったとしても、僕はいまの美咲を信じてる。だって、過去に経験してきたすべてがあって、いまの美咲がいるんでしょ」
過去に経験してきた、すべて。あんな、どうしようもない日々も。
「だから、何も言わなくていい。人に言えない過去なんて、誰にでもあるんだよ。もちろん、僕にもね」
彼は、私とは違う。きっと、秘密なんてない。
「それより、腹減ったなあ。料理してるとそれだけでお腹いっぱいになっちゃって、あんまり食べてないんだよね」
コンビニに行って、何か買ってくる。夫は玄関へと向かった。
「……一緒に、行ってもいい?」
追いついて、腕をつかんだ。
「うん、いいよ。一緒に行こう」
この人と一緒に歩いていく。秘密は秘密のまま。胸の奥にしまって。




