第3話 駿河侵攻
「武田信玄? あの有名な?」
中田の問いに、井原は静かに頷いた。
「そう」
「武田信玄と言えば、風林火山の人? 甲府駅前に銅像もある、あの?」
「そうよ」
「でも、確か武田は、北条、今川と三国同盟を結んでなかったか?」
聞きかじった知識で尋ねていた中田に、井原は首を振った。
「それは、もっと前の時代ね。いわゆる甲相駿、つまり武田、北条、今川の三国同盟は確かにあったんだけど、氏真の父・義元が桶狭間で織田信長に敗れてから、徳川が独立したのよ」
井原は、歴女たる知識を総動員して、彼女たちに解説を加えるのだった。
「そして、さっき見た、まつ、嶺松院が武田義信の死によって今川家に戻されたことで、武田にとって、今川に義理立てする必要がなくなったわけ。間もなく、同盟を破棄して、攻めてくるはずよ」
「ど、どうします? 私たち、戦えないですよ。死んじゃいますよー」
途端に顔を青ざめてうろたえていたのは、川口だった。
だが、井原はあくまでも顔色を変えていなかった。
「ある意味、どうしようもないわね」
「どうしようもないって、そりゃないぜ、井原よ」
高原が明るい態度で、しかし顔色を曇らせるが、井原は、
「歴史を変えてはいけないからね」
とだけ返していた。
「そうか。タイムスリップ物ではよくあるからな。歴史を改変したら、戻った元の世の中が変わって、私たち自体が存在できなくなるかも、って奴だろ」
中田のセリフに応じて、井原は頷く。
「でも、どうするんですか、先輩? どの道、ずっとこの戦国時代にいるわけにはいかないじゃないですか? どうやって戻ります?」
1年生の中村が不安げにか細い声を上げていた。
「それは、おいおい考えるわ」
「おいおいって、また適当な」
高原が呆れたように溜め息を突いた。
中田は先程から黙ったまま、考え込んでいたが、やがて、
「まなか」
声をかけていた。
「何、葵?」
「私たちは、ゲリラ豪雨に遭って、その後に落雷を受けて、タイムスリップした。なら、同じ状況になれば戻れるのでは?」
「それは私も考えたわ。でもね、現代とは決定的に違う問題があるの」
「何だ?」
「戦国時代には、ゲリラ豪雨なんてなかったのよ」
「……」
一同が、黙り込んでしまい、空気が一気に重くなっていた。
戦国時代は、実は「小氷期」と呼ばれる、現代よりもはるかに寒い時代だったのだ。そのため、現代のように温暖化を原因とするような、ゲリラ豪雨が頻繁に発生することはなかった。
「それでも、嵐の夜くらいはあるのではないですか?」
川口が、おっとりとした口調ながらも、若干焦ったように声を上げていた。
「そうね、あるかもしれない。でも、どの道、冬の太平洋側の気候ではまず起こらないはず。少なくとも来年の夏まで待つ必要があるわ」
「え、じゃあ、半年もこの戦国時代にいるんですか? スマホは? アプリは?」
「諦めるしかないわね」
井原の冷たい一言に、一堂は沈黙していた。
「とりあえず、今日は疲れた。寝よう」
リフティングを披露したことで、一番疲労が溜まっていた、中田の一言に一同は頷き、与えられた屋敷に、布団を敷いて仰向けになり、川の字になって眠りに着いた。
だが、この混沌とした、先が見えない状況では、誰もまともに眠ることが出来ず、全員が明け方近くまで眠りに着けずにいた。
翌日。
永禄十一年(1568年)十二月六日。
情報伝達が現代ほど速くないから、彼女たちは気づいていなかったが、甲斐の武田信玄が、この日、「駿河侵攻」を開始した。
数日後の十二月十二日。
「ご注進! ご注進!」
というけたたましい声と共に彼女たちは目覚めた。どうやら武士が馬で駿府館の方に駆けて行ったようだった。
「何だ、朝っぱらから」
不機嫌そうに高原が体を寝床から起こした。
「ついに来たわね」
井原は、歴史を知っているから、覚悟を決めていた。
やがて、駿府の館から使者がやって来た。
その使者は、若い武士で、今まさに出陣する前というような、甲冑姿で現れて、玄関口でこう告げたのだ。
「申し上げます。お館様はこれより薩埵峠に出陣されます。皆様方は、急ぎ駿府の館に避難するように、とのご指示でございます」
早口で、告げると使者は慌ただしく去って行った。
「薩埵峠って、あれですよね。富士山がよく見えるところですよね?」
相変わらず緊張感のない声を出す、穏やかな性格の川口が声を上げる。
薩埵峠。後の江戸時代に、歌川広重が「東海道五十三次・由井」の浮世絵にも描いている、富士山の名所として知られている。
「そうよ。武田はもうそこまで来たのね」
井原は、落胆したように肩を落とす。
事実、12月6日に駿河侵攻を開始した武田軍は、9日に駿河国富士郡の大宮城を攻撃。今川軍は一旦、ここで防衛に成功するも、武田軍は進路を西に向ける。そして、交通の要衝である内房を経て駿府方面へと向かった。この「内房口の戦い」にて今川家臣荻清誉が討死している。
急ぎ駿府の館に向かった彼女たちを迎えいれてくれたのは、留守として残された二人の女性だった。
氏真の正室である千早、後の早川殿。氏真の妹のまつ、後の嶺松院。
屋敷の中、つい先日氏真と謁見した、広い座敷で、彼女たちと対面した。
「千早様、まつ様。氏真様が薩埵峠に出陣されたと伺いましたが?」
代表して、歴史に明るい井原が声をかけた。
「はい。氏真様は、薩埵峠へ出陣されました。私は氏真様のご無事を願っております」
「案ずることはない。いくら義父上でも、兄上の命までは取るまい」
千早、そしてまつ共に不安の色を面上に浮かべながらも、気丈に振舞っているのが、彼女たちには痛々しいほどわかるのだった。
そこで、彼女たち、特に井原が思いきった提案をしていた。
「お二人共。私たちも女子です。戦では役に立ちませんが、代わりに面白い話をお聞かせ致しましょう」
と。
「ほう。私を楽しませることが出来るかな?」
どこか、お茶目なところがある、可愛らしい姫にも見える千早が、気丈にも笑顔を見せていた。
そこで、井原が展開したのは、いわゆる「サッカー」の話とルールだった。この世界では一般的ではない、11人による試合制度。
その面白さ、魅力を彼女は伝えたのだが。
鋭く突っ込んで来たのは、もう一人の大人っぽい女性、まつだった。
「そなたら。話を聞くに、京の都から来たというのは嘘じゃな」
「えっ。ヤバ」
高原が思わず小さな声で発していた。
嘘がバレて、罰せられると思ったのだろう。
しかし、彼女は笑顔だった。
井原が観念して、声を上げる。
「はい。申し訳ございません。実は私たちは、あなたたちが知らない、未来から来たのです」
思いきったことを言ってのけた、と井原以外の一同が驚き、緊張していると。
「未来。未だ来たらぬ世。その先の世から何をしに来たのじゃ?」
未来と言う言葉は、元々、仏教用語であるという。
意味は通じるが、この時代は一般的な言葉ではなかった。
「それはわかりません。我らは、『時の迷子』ゆえに」
あえて、戦国時代に合わせたような口調で、井原は器用に述べていた。
夏の昼、突如豪雨と雷に襲われ、戦国時代に飛んできたこと。帰る手段がないこと。そして、「サッカー」というスポーツを嗜んでいることなど。
「ほう。つまり、そなたらは今よりはるか先の世の駿河から参ったと申すのか?」
通常ならば、怒られても不思議ではない、戯言にすら聞こえるこの話を、しかしながら、一番興味を示したのは、他ならぬ千早、そしてまつだった。
特に、千早は夫である氏真をよく見ており、1年前に長女を産んでいた。この後、早川殿が亡くなるまで40年以上も付き沿う夫婦で、夫婦仲は良かったとされている。
その千早、早川殿は夫が好きな蹴鞠に似ている「サッカー」に対し、強い興味を示した。
「”さっかー”とはそないに面白い物か? どこぞの遊びじゃ?」
「南蛮渡来の遊びにござりまする」
すっかり、戦国時代の話し方に馴染んでいるのは、歴女の井原。むしろ彼女は戦国時代の雰囲気を楽しんでいる節すら感じられた。それに対し、中田がまつの相手をしていた。
「先の世とは、今からいかほど先の世じゃ?」
「そうですね。大体、450年くらい先ですね」
「四百五十年じゃと。信じられぬが、その面妖な出で立ち、嘘ではないようじゃ」
こうして、女性陣が会話をしている間に、戦況は刻一刻と変化し、それは今川家を窮地へと追い込む物だった。
「いやあ、負けた負けた」
と、翌日、氏真がどこか清々しい表情で館に戻ってきたが。
実態は、酷いもので、氏真は薩埵峠で迎撃の構えを見せた物の、瀬名信輝・朝比奈信置・葛山氏元など、今川家の家臣たちの離反が重なって、氏真はほとんど戦わずして、あえなく退却していた。離反した家臣はいずれも重臣とも言える面々であり、彼らは既に武田氏と内通していたからだった。
その後の展開は早かった。
その日、13日。
氏真は荷物をまとめて駿府館を退去し、西の遠江国(現在の静岡県西部)にある掛川城に退却する。この時、妻である早川殿の輿も用意できずに徒歩で逃げたとされている。結果、早川殿の父・氏康は、娘が徒歩で逃げるという屈辱的な状況となったことに対し激怒し、後に娘婿の氏真の求めに応じて、援軍を今川に送ることになる。
そして、彼女たち5人もまた、仕方がなく、氏真一行に従って、駿府を退去した。
「っていうか、逃げてどうすんだよ。この先、どうなるんだ?」
逃げながらも、高原が問いかける。歴女の井原は当然知っていた。
「掛川城には、忠臣の朝比奈泰朝という武将がいるわ。彼を頼って戦うはずよ」
「で、実際、歴史ではどうなったのですか?」
一応、周りの者には聞こえないように、小声で川口が尋ねる。
「掛川城の戦いは大体半年続いて、翌年5月に今川家は降伏するはずだわ」
「半年! その間、私たちはどうするんだ?」
中田の悲鳴にも似た声に、井原は沈痛な面持ちで、こう答えるのだった。
「まあ、何とか耐えながら、現代に帰る方法を探るしかないわね」
「マジかよ!」
「あーあ。スマホ使いたいですね」
「早く帰りたいです」
高原、川口、そして中村が溜め息混じりに言葉を吐いていた。
彼女たち五人は、西へ落ち延び、掛川城へ到着する。




