第四章 黒い核、黒い影
北方の廃坑は、山肌に穿たれた巨大な口のように口を開けていた。
崩れた梁、錆びたレール、風に鳴る鎖。かつて鉱夫たちの喧騒で満ちていたこの場所は、今や空洞と闇だけが支配している。
「魔力濃度、上がってる……」
マリアが掌に小さな魔石を掲げる。淡い光が脈を打つように強弱を繰り返した。
「霧の森と同じ匂いがするわ。――核がある」
二人は灯りを最低限に落とし、坑道を進んだ。床の砂利を踏む音が異様に大きく響く。
分岐を二つ抜けた先、空間が突然広がった。崩落を免れた採掘室。天井のクレバスから、糸のような光が一本だけ落ちている。
その中央に、ひとりの影が立っていた。
黒衣。仮面。痩身。
仮面は笑っている。彫り込まれた笑口が、冷たい。
「お出迎え、とは礼儀正しいわね」
リーナが杖を構えると、仮面は肩をすくめてみせた。
「歓迎だとも、聖王級リーナ・エルフェリア。――“依頼の間違い”に文句を言いに来たのかい?」
マリアの眉が跳ねた。「やっぱりあなたたちが依頼を操作したのね」
「子分の仕事さ。黒幕は別にいる。私はただ――餌を撒いたに過ぎない」
仮面は軽く指を鳴らした。
足元の魔法陣が眩しく点り、数十の刻印が同時に呼吸を始める。
幾何学の線が赤へ、青へ、紫へと色を変え、やがて黒に沈んだ。
リーナは一歩踏み出した。「やめなさい」
「見ていけ。君たちが相手にする“世界”の作り方を」
仮面の男が外套の内側から掌大の黒い宝珠――召喚核を取り出した。
核は心臓の鼓動のように脈打ち、坑道の空気が一斉に逆流する。
――集まってくる。
死の匂い、鉱山に染みついた嘆き、地の底に眠る残滓の魔力。
それらが核へと吸い寄せられ、ひとつの形に凝る。
「やめ――!」
リーナの声より早く、男は核を魔方陣の中心へ滑らせた。
黒が爆ぜ、光が反転する。
そこに立ち上がったのは、鉄と骨を編んだような獣だった。
四肢の関節は鎖で補強され、胸郭の奥、露出した心窩に黒い宝珠が鼓動している。
人工魔獣。
「……最低」
マリアが吐き捨てる。「魂の縫合に、鉱山事故の死者を混ぜた……!」
仮面の男は首をかしげた。「材料に文句を言う料理人はいない。それに――君たち《銀の翼》には丁度いい相手だ」
ハウンドが吠えた。金属同士が擦れ合うような悲鳴。
リーナは即座に魔力の流れを切り替える。癒しを自分へ――自己循環。
血流が加速し、視界が研ぎ澄まされる。世界が半歩遅れる。
「核は胸の中心。引き抜けば止まるはず!」
「了解!」マリアが詠唱に入る。「《シール・ライン:三重拘束》!」
床から銀の鎖が伸び、ハウンドの四肢を絡め取る。
リーナはその隙に踏み込み、杖を刃へ変じて胸へ突き入れ――火花。
刃は弾かれた。核の周囲に薄い膜。拒絶膜が走っている。
「膜を剥がす。三秒、持たせて!」
「二秒で十分よ!」
マリアの詠唱が跳ね上がる。「《分解光:結界式》!」
核を覆う薄膜がキィィンと悲鳴を上げて薄くなる。その瞬間を、リーナは逃さなかった。
足裏が石を噛み、刃が黒へ滑り込む。宝珠が震え――
仮面の男が指を鳴らした。
魔方陣の外縁が新たに点火。床の影が伸び、ハウンドの胸へ吸い込まれ、核がさらに奥へ沈んだ。
「惜しい。君は速いが、“泣かない”今の君はまだ一枚薄い」
挑発。
リーナの胸に、冷たい怒りが走る。
テオの笑顔が、陰影で浮かび上がる。――でも、彼女は泣かない。もう、流されない。
「泣いて強くなるのも、泣かずに届く強さも、両方手に入れるわ」
返す言葉と同時に、リーナは床のレールへ杖先を突く。
治癒の光を“伝導”に変えて流し、金属音を連鎖させる。
レールが鳴り、反響が結界紋様を乱した。
「今!」
マリアが火矢を雨のように降らせ、拘束鎖を瞬間的に熱して膨張させる。
歪んだ鎖がハウンドの胸郭をきしませ、核の位置が再び浅くなる。
リーナの体が――消えた。否、見えない速度で跳ねた。
刃が核を掠め、ひびを入れる。
手応え。だが割れない。黒の奥で、別の気配が笑った。
「やっぱり君は“核”が苦手だ。魂の側に立つ者ほど、核の縫合に躊躇する」
仮面は静かに首を振った。「優しさは刃を鈍らせる。だから彼は死んだ」
マリアの瞳が燃えた。「黙れ!」
魔導書が強く閉じられ、次の瞬間、彼女は詠唱ではなく投げた。
重い革表紙が仮面の額に直撃する。仮面がかすかに揺れた。
「詠唱短縮。《雷針》!」
天井のクレバスから落ちる光を媒介に、白雷が坑室を貫通する。
雷はレール、鎖、鉄骨を伝い、ハウンドの体内へ。核の表面に網目の亀裂。
「もう一押し!」
「任せて!」
リーナは吸う息で身体の隅々に光を満たした。
癒しの循環が鼓動と一致し、足の甲から指先までが一本の刃のようになる。
跳ぶ。
空気が裂け――核を突く。
砕ける音。
黒い宝珠が粉を噴き、ハウンドが膝をつく。
「終わり――」
「じゃない」
仮面が手を叩く。
砕けた核の破片が逆流した。散ったはずの黒塵が、リーナの刃を伝って肘、肩、胸元へと這い上がる。
冷たい。骨の内側に氷の糸を通される感覚。
「核は“宿り先”を選ぶ。器を――君に移す」
マリアが叫んだ。「離れて!」
リーナは反射で自身へ回復解除をかけ、体内の異物を光で洗い流す。
胸の中で黒と白がぶつかり合い、火花のような痛みが走る。
彼女は歯を食いしばり、静かに、しかし徹底的に黒を押し戻した。
――わたしは癒し手。魂は、渡さない。
黒塵が吐き出され、床へ散る。
仮面は、たのしげに指を鳴らした。「合格。君は“器”に選ばれない。だから面白い」
坑室の空気が変わる。
男の背後、別の魔方陣が静かに立ち上がった。先ほどより大きい。
「やる気なら、付き合うわ」
「いや、今日は顔合わせだ。――主からの挨拶を伝えるだけ」
仮面は指先で宙に線を描く。
光が束ねられ、空中に紋章が浮かび上がった。
三つ首の王冠と、反転した聖印。王都の古文書でしか見ぬはずの禁紋。
マリアが息を呑む。「そんな……王都の封印庫にしかないはずの印よ」
「鍵穴があれば、鍵は作れる」仮面は軽く頭を垂れた。「主は“王都の心臓”に興味がある。次は――そこだ」
「逃がすと思う?」
リーナの足が半歩、滑るように前に出る。
「逃げるとも。子分の勤めは、生きて次を連れてくることだから」
魔方陣が光になり、男の輪郭が薄くなる。
同時に、崩落の気配。天井が呻き、岩の音が連鎖した。
「罠!」
「出口、こっち!」マリアがレールの走る補強トンネルを示す。
崩れる岩塊の合間を、二人は走った。
リーナは自己循環を脚へ集中し、落ちてくる梁を肩でいなして押し返す。
マリアは背後に氷壁を重ね、落石の角度を逸らせる。
最後の横穴を抜けた瞬間、背後で空間が潰れた。
土埃が嚙むように肺へ入る。外の風が甘く、眩しい。
岩場に膝をつき、二人はしばらく言葉を失った。
やがて、マリアが先に口を開く。「……黒幕は王都を狙ってる。ギルドだけじゃ手に負えない」
「ええ。ギルド長に禁紋の写しを渡す。王都魔術院と教会――両方動かす必要があるわ」
マリアがリーナの顔を見た。
少しだけ迷ったあとで、静かに頷く。「……あなた、泣かなかったね」
「うん」
「強がってる?」
「違う。テオが背中を押してくれた。――泣くときは、ちゃんと前へ進むために泣く。今は、踏ん張るとき」
風が山の稜線を渡り、灰色の外套の裾を揺らした。
テオの匂いは、もう薄い。けれど確かに、そこにいる気がした。
「テオ」リーナは空に向かって小さく呟く。「あなたの槍、役に立ったよ」
山影が傾き、王都の方角が黄金色に滲む。
リーナは立ち上がり、背筋を伸ばした。「行こう。次は王都を守る番」
マリアも立ち上がる。「うん。私たちの街だもの」
二人が歩き出す足音は、もう迷いがない。
人工魔獣の核片はマリアの封印箱で静かに眠り、仮面の男が残した禁紋は布に包まれてリーナの懐にある。
黒幕の気配は近い。けれど――届かない場所にはいない。
丘を越えるたびに、空は明るくなった。
戦う癒し手の影は細く長く伸び、やがて王都の石畳へと溶け込んでいく。
その先で待つのは、黒幕の子分ではない。
――王都の心臓に寄生する、本当の“敵”。
リーナは胸の奥で静かに誓った。
守る。癒す。斬る。
そのすべてを抱きしめて、もう二度と、誰も奪わせない。




