第三章 光のゆらめき、残された者たち
王都リシェルドに戻ったのは、霧の森の事件から三日後だった。
空は鉛色に沈み、街を覆う鐘の音は、いつもよりも低く聞こえる。
ギルドの正面に立つリーナの肩に、灰色の外套がかかっていた。
それは、テオのものだった。
血の跡は消えていたが、わずかに残る焦げた匂いが戦いの記憶を呼び覚ます。
ギルドの扉を押し開けると、いつもの喧騒はどこにもなかった。
受付前には重苦しい空気が流れ、リーナとマリアを出迎える視線には、哀れみと恐れが混じっていた。
「……《銀の翼》、帰還報告です」
リーナが淡々と告げる。
受付嬢は震える手で報告書を受け取ると、唇を噛んで言った。
「……霧の森の件、ギルド上層が調査に入っています。あの森に《上級魔獣》が現れたこと自体、前例がないそうです」
「……やっぱり、依頼の難度が違ってたのね」
マリアが俯きながら呟く。
その声には怒りと悔しさが混じっていた。
「B級任務のはずだったのに、実際はA級どころかS級に近い。誰がこんな依頼を登録したのか……」
受付嬢の言葉に、リーナは静かに頷いた。
「原因は、私たちが探らなきゃいけない。……テオを死なせたままにはできないから」
マリアはその言葉に強く顔を上げた。
「……“死なせた”って、まるで自分のせいみたいに言わないで!」
「でも、私がもっと早く気づいていれば……」
「違う! あなたがあの魔獣を倒した。生き残れたのはあなたがいたからよ!」
リーナは一瞬、言葉を失った。
マリアの瞳は涙で揺れていたが、そこには責めるよりも、どうしようもない悲しみがあった。
「……もう少し時間が欲しいの」
マリアはそう言って、ギルドを出ていった。
リーナは追いかけようとしたが、足が動かなかった。
外套の裾を握る手に力がこもる。
――あの日の光景が、また胸に浮かぶ。
テオの笑顔。
「お前の笑顔が好きだったから」という最後の言葉。
あの言葉が、まだリーナの胸を締め付けていた。
受付嬢がそっと声をかけた。
「リーナさん……しばらく休んでください。ギルドは、あなたの責任を問うつもりはありません。今回の依頼は、完全な情報ミスでしたから」
「……いえ、休んでる場合じゃないんです」
リーナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、静かな光が宿っていた。
「私、彼が遺したものを無駄にしたくない。あの森で、何かがおかしかった……あの魔獣の背から、魔力の糸のようなものが伸びていたの。まるで、誰かが操っていたみたいに」
「……まさか、人工的な召喚魔法?」
受付嬢の声が震える。
リーナは黙って頷いた。
「それが事実なら、ギルドの規定を超えています。王都直属の調査団を呼ばなければ……」
「ええ。でも、それを待っていたら、また誰かが死ぬかもしれない」
リーナの声は、凪のように静かで、それでいて揺るがなかった。
その夜。
リーナは、王都郊外の丘にいた。
夜風がローブを揺らし、草の匂いが漂う。
手には、一本の槍の穂先が握られている。
テオの槍――彼の形見。
「……ごめんね。守られるばかりで」
リーナは穂先を地に突き刺した。
風が、彼の声のように通り抜けていく。
「私、ようやくわかったの。あなたが守りたかったのは、私の“無力さ”じゃなくて、私の“強さ”だったんだね」
涙が頬を伝う。
けれど、それは悲嘆の涙ではなかった。
静かに空を見上げると、雲間から星が覗いた。
その光が、ほんの少しだけ彼女の心を温める。
「……ありがとう、テオ。もう泣かない。次は、私が守るから」
その瞬間、リーナの中で何かが変わった。
泣いて力を得るのではなく、涙を乗り越えて前に進む強さが宿ったのだ。
翌朝。
ギルドの作戦室に集まったリーナとマリアの間には、まだ冷たい空気が流れていた。
ギルド長のラザンが報告を読む。
「霧の森の件、王都の調査団による暫定報告が上がった。魔獣フェルヴァ=ライオルは、どうやら“召喚核”によってこの世界に呼び出されたらしい」
「召喚核……?」
マリアが眉をひそめる。
「古代魔法の一種だ。生物の魂を核にして、他界の存在を繋ぎ止める。……だが、そんな技術、今の王国では使える者はいないはずだ」
ラザンの視線がリーナに向く。
「リーナ、君は戦闘時に核らしきものを見たか?」
「はい。黒い宝石のようなものが、獣の胸部に埋め込まれていました」
ラザンは重く頷いた。
「その情報だけでも大きい。だが、問題は……次だ」
ラザンは机に一枚の報告書を広げた。
そこには、いくつもの赤い印が王国地図に記されていた。
「ここ一ヶ月で、同様の魔力反応が五か所で確認されている。すべてB級依頼の現場だ」
「……ギルドの依頼登録そのものが、何者かに操作されている……?」
マリアが青ざめる。
リーナはゆっくりと息を吐いた。
「つまり、私たちは罠にかけられた。テオは……その犠牲になった」
沈黙が流れる。
リーナが拳を握りしめる音だけが響いた。
「リーナ、まさか、また行くつもり?」
「ええ。放っておけない」
「でも! テオを失ってまだ三日よ! あなた自身が壊れるわ!」
リーナはマリアの視線をまっすぐに受け止めた。
その瞳には、迷いがなかった。
「壊れても構わない。彼が守ったものを守るためなら」
マリアは息を呑んだ。
言葉を失い、唇を震わせる。
「……あなたって、本当に、ずるい」
「え?」
「そんな顔で言われたら……置いていけないじゃない」
その一言に、リーナはかすかに笑った。
マリアもまた、涙を拭った。
静かな決意が、ふたりの間に戻っていた。
数日後。
リーナとマリアは、ギルドの新たな指令を受けた。
それは、王都北方の廃坑での調査任務。
報告によれば、そこでも“黒い召喚核”の反応が確認されたという。
出発前、リーナはギルド裏の鍛冶場を訪れた。
そこには、テオの槍の柄を修理していた老鍛冶師がいた。
「……直してくれたんですね」
「ああ。お前さんが戦うって言うからな」
老鍛冶師は短く笑うと、槍を差し出した。
穂先には新しい銀の輝きが宿っていた。
リーナはそれを両手で受け取り、静かに頭を下げる。
「彼の意志、今度は私が継ぎます」
廃坑へと続く山道を歩く二人の背に、朝日が差し込んでいた。
霧の森のような恐怖は、もうそこにはなかった。
「ねぇ、リーナ」
「なに?」
「もしまた、あんな敵に出くわしたら……今度は私も逃げないから」
「うん。今度は、三人分で戦おう」
マリアが小さく笑い、空を見上げた。
その瞳の奥には、まだ痛みがあった。
でも――確かに前を向いていた。
丘を越える風が二人の髪を撫でる。
遠く、リシェルドの街が光の中に霞んで見えた。
リーナは胸の中で、そっと名前を呼ぶ。
「――テオ、見ててね」
その瞬間、彼女の杖の先が淡く光った。
まるで彼が答えるように、風が優しく吹いた。
それは、失われた仲間の魂が、二人の歩む道を照らすような温かい光だった。




