第一章 癒しの手の影
王都リシェルド――この街には、数多の冒険者と魔術師が集い、日々戦いや依頼に明け暮れている。
だが、誰も知らないことが一つある。
その喧騒の陰で、静かに光を操る一人の魔術師が、心の奥で戦うことを夢見ているということを。
リーナ・エルフェリア――彼女は王国が認める聖王級の回復魔術師でありながら、B級冒険者として日々を過ごす。
「癒すことだけが私のすべてじゃない」
そう心に秘め、胸の奥で眠る剣士としての意志を、まだ誰にも明かさずにいる。
この物語は、癒しの聖女が涙を力に変え、戦う覚悟を決めるまでの軌跡――。
彼女が歩む道の先に待つのは、悲しみと喪失、そして希望の光だ。
王都リシェルドの朝は、鐘の音とともに始まる。
ギルドホールの扉が開くと、冒険者たちの喧騒が一気に流れ込んだ。
依頼掲示板の前では怒号と笑いが飛び交い、金属の匂いと酒の香りが混じる。
その中で、一人の女性が静かに立っていた。
金の髪を結い、純白のローブを纏った女――リーナ・エルフェリア。
王国が認定する「聖王級魔術師」、すなわち“回復魔法の頂”に立つ者だ。
聖王級の称号は、王直属の大神官クラスに匹敵する。だが彼女は、貴族でも王宮魔導師でもなく、ただのB級冒険者として活動している。
「リーナさん、また治療依頼ですか?」
受付嬢が笑いながら依頼書を差し出す。
「ええ。怪我をしている人がいるなら、放っておけませんから」
リーナは穏やかに答える。
その声には慈愛が宿り、周囲の空気を柔らかく包み込んだ。
彼女の手が触れれば、裂けた肉は瞬時に癒え、折れた骨すら再生する。
戦場で彼女の名を知る者は、皆こう呼んだ――
“癒しの聖女”。
しかし、リーナ自身はその呼び名を好まなかった。
癒しだけが、彼女のすべてではなかったからだ。
かつて、彼女は前線に立ち、魔法の剣を振るった。
だが、一度の暴走がすべてを変えた。
仲間を守るはずの魔力が、制御を失い、彼女の大切な人を奪ったのだ。
それ以来、リーナは攻撃のために魔力を使うことをやめた。
自分に許したのは“癒し”だけ――それが贖罪であり、生きる理由だった。
「リーナ、今日の依頼、俺たちも同行するぞ」
声をかけてきたのは、槍使いの青年・テオと、魔導師の少女・マリア。
彼らはリーナのパーティー《銀の翼》の仲間であり、長年の信頼を寄せる友人でもある。
「ありがとう、テオ。無理はしないでね」
「無理するのはお前だろ? こっちは守られる側だよ」
冗談めかして笑うテオに、リーナも小さく微笑む。
彼女の笑みは穏やかだったが、その奥に隠された想いは誰にも見えなかった。
――戦いたい。
心のどこかで、そう願っている自分がいる。
癒しは尊い。
だが、癒しだけでは守れないものがある。
戦場で倒れていく仲間たちを見送るたび、リーナの胸には焦燥が積もっていった。
「今日は《霧の森》の調査任務よね?」
「ああ。C級の依頼だけど、最近妙に被害が増えてる。魔獣の巣ができてるかもしれねぇ」
「……嫌な予感がするわね」
リーナは杖を握りしめる。
指先から微かな光がにじみ出た。癒しの魔力――しかしその輝きは、どこか鋭さを帯びていた。
「リーナ?」
「……ううん、なんでもないわ」
霧の森は、薄暗く湿った空気に包まれた場所だ。
古くから魔力が濃く、怪異が棲むと恐れられている。
そんな場所での任務など、彼女にとっては慣れたもののはずだった。
だが、この日は違った。
胸の奥に、得体の知れないざわめきがあった。
ギルドを出る前、受付嬢が笑いながら言った。
「リーナさんがいれば、どんな依頼も安心ですね!」
その言葉に、リーナは静かに微笑んだ。
けれど、胸の奥でひとつだけ違う声が響いた。
“安心させるだけじゃ、もう足りないのかもしれない。”
歩き出す足が、わずかに重い。
リーナはそれでも前を向いた。
――もし、癒しの力が命を繋ぐためのものなら。
――その力で命を守ることも、間違いじゃないはず。
そんな考えが、ほんの一瞬、心をよぎる。
それが、この後の運命を変える引き金になることを、
彼女はまだ知らなかった。
霧の森の奥で待ち受けるのは、仲間の悲鳴と、血の匂いと、
そして、リーナの“覚醒”――癒しが戦いへと転じる瞬間だった。
そして、今日もリーナは静かに前を向く。
癒しの力で命を繋ぐだけの日々――それだけでは足りないという胸の焦燥を抱えながら。
王都の喧騒から離れ、霧の森へと足を踏み入れる一歩。
そこには、光と影が交錯する戦場が待っている。
仲間を守りたい――その想いが、リーナを突き動かす。
しかし、彼女自身が戦う時はまだ訪れていない。
それでも、心の奥で芽生えた「戦いたい」という小さな意志が、確かに彼女を変えていく。
次に待つ試練は、彼女の癒しの力を試すだけではなく、隠された力を呼び覚ます――。
霧の森の奥、血と悲鳴の中で、リーナの覚醒の序章が静かに始まろうとしていた。




