【第3章】「アリアとの出会い――長い詠唱とコードのきっかけ」
「ええい……これ以上近寄らないで!」
夕暮れの街外れ。
オレンジ色の光が地平を染め、遠方にそびえる城壁のシルエットが長く伸びている。
そこは比較的草木の少ない荒地が広がり、風が吹き抜けるたびに砂埃が舞い上がっている。
その空気を裂くように、細身の少女の悲鳴がこだましていた。
彼女は焦りの色を帯びた目でモンスターを睨みつけ、必死に詠唱を続けている。
「大丈夫か、危ないぞ!」
夕暮れの街へ向かおうとしていた如月ケイは、その声に驚いて足を止めた。
視線を向けると、少女のそばに、イノシシのような体格のモンスターが構えているのが見えた。
灰色の剛毛に覆われた体を低く沈め、牙をむき出しに唸り声を上げている。
「……光炎の――っと、ああ、……もう一回……光炎の……」
少女は呪文を唱えようとするが、途中で噛んでしまっている。
モンスターは狙ったかのように突進の態勢を整えている。
まるで機をうかがうハンターのような鋭い眼光だった。
「ううっ、だめ……全然間に合わない……!」
「下がってろ!」
ケイは咄嗟に地面から落ちていた木の棒切れを拾い上げ、威嚇するように振り回した。
魔力ゼロで魔法が使えない身だが、ここで放置すれば少女が危ない。
ケイの心臓は早鐘を打ち、ブラック企業で追い詰められたあの日々とはまた違う緊張が全身を支配する。
けれど今は、理屈よりも先に体が勝手に動いていた。
「くっ……こっちを見てくれ!」
ケイは棒切れを思いきり振り上げ、モンスターの注意を引くよう大声を上げる。
一瞬、獣の血走った瞳がギョロリとケイを捕らえた。
──ドッ!
モンスターが足を踏み込んだ。一瞬のうちに距離を詰めて突進してくる。
「やばいっ……!」
ケイは慌てて脇へ飛びのいた。
すんでのところで牙を避けたものの、モンスターの体毛がかすめるほど近かった。
心臓がドクンドクンと跳ね上がり、冷や汗が背中を流れる。
「光の理に宿りし輝火よ、
遥かなる高天へと焦がす聖火を糧とし、
闇を照らす煌を束ね、邪を滅する矢となれ……
大気を裂き、世界を穿つ閃の尖鋒にして、
我が呼び声に応えし焔器よ、
その名は「光炎の矢」!
今こそ目覚め、我が手に集いて貫けッ!」
少女の必死の詠唱が再び聞こえた。
ケイが危うく回避した隙を突くように、今度は呪文が最後まで紡がれる。
そして彼女の掌から眩い火球が放たれ、モンスターの脇腹を直撃した。
ドン、と鈍い衝撃音。
獣は悲鳴を上げ、バランスを崩して地面を転がる。
数瞬うめき声を上げたが、そのままこちらを睨むと、痛みに耐えかねたように森のほうへ逃げ去っていった。
「はぁ……はぁ……助かった……」
少女はその場にへたり込む。
ケイは棒切れを放り出し、急いで彼女の元へ駆け寄った。
近くで見ると、彼女は薄い金髪をポニーテールにまとめた、小柄で華奢な印象の少女だった。
「大丈夫か? 怪我は……?」
「ど、どうにか……。あ、ありがとう……でも、あなたは?」
「ただの通りすがりだよ。俺は如月ケイ。君は?」
「私はアリア。見習い魔術師だけど……ご覧のとおり、暗記式の呪文をうまく唱えられなくて」
アリアは悔しそうに眉を下げる。
その表情には安堵だけでなく、自分の失敗を恥じるような色がにじんでいた。
確かに先ほどの魔法は威力こそあったが、詠唱が長く、途中で噛んでしまっていたことをケイも目の当たりにしている。
「暗記式……あの長い呪文を全部、頭に詰め込んでるわけか?」
「ええ、正統だって言われてるから、覚えなくちゃいけない。けど、焦ると舌が回らなくて……失敗ばっかり」
「それ、効率悪くない? 一字でも間違えたら発動しないんだろ?」
「そう……見習いの私には特に敷居が高いの」
アリアは肩を落とす。
ケイはそんな彼女の様子を見つつ、「魔法」という未知の技術に興味を抱きながらも、仕事で培った“合理的思考”を思い出していた。
「魔法には憧れるけど……実は『魔力ゼロ』って判定されてる。つまり、使えないらしい」
「魔力ゼロ……!」
アリアの瞳が大きく見開かれる。
その反応に、ケイは苦笑した。
会社でも『使えない』レッテルを貼られた社員を何度も見てきたが、この世界での『魔力ゼロ』差別は想像以上に根が深いと聞いている。
「ごめん、驚かせちゃって。でも私は嫌な意味で言ってるんじゃないから。ただ、魔力ゼロって歴史的に不吉とされるって聞いたことがあって……」
「大丈夫、もう慣れつつあるよ。ギルドでも魔力ゼロは珍しいって言われたし」
ケイは言葉を濁すように肩をすくめる。
アリアは少し眉を下げながら、辺りを警戒するようにきょろきょろと見回した。
「こんなところで立ち話もなんだし……私、もう街に戻らなくちゃいけないんだけど、一緒に来ない?」
「助かる。ここはモンスターの気配もまだ残ってそうだし……とにかく、アリアも危ない目に遭わなくて済んだしよかったよ」
二人は連れ立って街道を歩き始める。
遠方には、夕日を浴びて赤く染まるグレイヴァルドの城壁が見え、門のあたりには人影がちらほら見える。
地形的に起伏の少ないこの地域は昔からモンスターが出やすいらしく、貴族や領主の間では結界の強化が常に課題になっている。
しかし『保護費』を払えない人々も多く、街の外れは常に危険と隣り合わせだという話だ。
「暗記式って、やっぱり長い呪文を全部覚えるんだな」
「ええ、これが伝統的で『正統』なんだって、魔術ギルドでも教わったの。でも焦るとパニックになって……」
「もし、長い呪文を<ブロック>に分割して、順番に発動できる仕組みがあったらどうかな? たとえば一度に全部じゃなくて、複数の短い呪文を組み合わせるとか」
「え? 複数に分割……?」
アリアが目をぱちくりさせる。
ケイは仕事でプログラムを書いていた経験を思い出し、自然とその発想を持ち込んでいた。
「そうだ。俺のいた世界じゃ、長いプログラムは<モジュール>に分けて管理する。バグが起きても、部分的に修正できるんだ。もし魔法でも同じことができたら……暗記式よりずっと柔軟に使えるかもしれない」
「確かに……暗記式は一字でも間違えたら失敗だから。もし何段階かに分かれて発動すれば、詠唱ミスしても途中からリカバリーできるかも……」
「ま、『魔力ゼロ』の俺が言っても説得力ないかもしれないけどね」
ケイは少し自嘲気味に笑うが、アリアは首を振る。
「そんなことない。私にはすごく新鮮な考え方だよ。魔術師ギルドの先生たちは『伝統ある暗記式こそ至高』って言うけど、私みたいに詠唱を失敗する人もいるし……」
「新しいやり方があれば、誰でも魔法を扱える可能性が出るかもしれない。前の世界では、みんなでレビューしてバグを潰して……そんなチーム開発が当たり前だったんだ」
「レビュー……魔法を、みんなでチェックし合うってこと?」
「そう。間違いを見つけやすいし、一人で抱えないから精神的にも楽になる。まあこの世界じゃピンとこないかな」
ケイは照れ臭そうに肩をすくめる。
アリアは興味津々の表情でうなずいた。
「それ面白い! 私も暗記式だけに頼ってたら上達しないままだから、もしそんな革新的な魔法ができるなら……」
「いつか実現できたらいいな。もっと安全に、みんなで協力できる仕組みを作りたいんだ」
二人がそんな話に花を咲かせているうちに、街の門が近づいてきた。
見張りの兵士がこちらを怪訝そうに見ていたが、アリアが魔術ギルドの見習い証を見せると、すんなり門を通される。
街の中は、石造りの建築物が並び、路地には露店や行商人があふれている。
大陸屈指の魔術都市というだけあって、魔導ランプがそこかしこに設置され、夕闇でも街角が明るい。
だが、その華やかな一面の裏には重い保護費制度があり、『魔力ゼロ』への差別が存在する。
ケイは以前門前払いのような態度を取られたことを思い出し、複雑な気分になる。
「おい……あれが噂の『魔力ゼロ』じゃないか?」
「最近、ギルドで話題らしい。呪われてるとか……」
通行人のひそひそ話が耳に入り、ケイは思わず足を止める。
そんな彼を見て、アリアがキッと周囲を睨みつけた。
「ケイさんは危険な人なんかじゃありません! 勝手な噂を広めないでください!」
「アリア……ありがとう。俺のせいで、変な目で見られてる君にまで迷惑かけちゃうかもしれないのに」
「迷惑じゃないわ。あなたを放っておく方がよっぽど嫌。だって私、あなたに助けてもらったもの」
アリアは頬を赤らめながらも、真っ直ぐにそう言い切る。
ケイの胸には、熱いものが込み上げてきた。
前の世界では感じなかった『誰かと一緒に戦う』という温かさが、今ここにある。
「……じゃあ、ここで別れるか?」
ケイが言うと、アリアは首を横に振って微笑んだ。
「もしよければ、一緒に夕食でもどう? 街の屋台なら安く食べられるところがあるし、それに……もっといろいろ話してみたい」
「いいのか? 魔術ギルドの見習いが、魔力ゼロの俺となんて……」
「そんな差別はやめてって言ってるでしょ。それにさっきの話の続きとかたくさんしたいし」
アリアは軽くケイの腕を引っ張る。
僅かな空気の流れが、ローブに染みついた草の香りを運んできた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。実は俺も、アイデアをもっと煮詰めたかったんだ。アリアの意見が欲しいし」
「ふふ、決まりね。ほら、あそこの屋台に行こう。シチューが美味しいって評判なの」
そう言って並んで歩き出す二人の姿に、周囲の視線がいくらか集まっていたが、先ほどまでのざわめきは沈静化していた。
アリアが堂々とケイを庇ったことで、あれこれ言いづらい雰囲気になったのだろう。
「アリア、ありがとう。俺みたいな『魔力ゼロ』のやつにも優しくしてくれて……」
「むしろ私が感謝してるわ。だって、あのモンスターから助けてくれたじゃない。私が詠唱ミスを連発してたら、どうなってたか分からないし……」
アリアがそうつぶやいたとき、ケイの脳裏に先ほどの危機がよみがえる。
あの獣の突進は思いのほか速く、ほんの少しの判断ミスで大怪我していただろう。
ケイは冷や汗を拭うように首を振り、「無事で本当によかった」と呟いた。
こうして夕闇に染まるグレイヴァルドの街角を、二人は連れ立って歩く。
暗記式の呪文、魔力ゼロの差別……そして『プログラム的』な魔法の可能性――。
未知のアイデアが多くの困難を伴うことは分かっているが、同時にそこには大きな希望も感じられる。
今日の出会いをきっかけに、アリアとケイの友情の芽が確かに育ち始めていた。