【第2章】「初めての街と保護費制度の洗礼」
「いらっしゃい、うちは安宿というほどでもないけど、まあ小綺麗にはしてるよ」
「助かります。宿を探していて……」
如月ケイは小さな木造の宿屋に足を踏み入れた。
石畳の通りに面した扉を開けると、ほんのりとスープの香りが漂ってくる。
カウンターの奥に立つ中年女性――宿の女将は笑顔で迎えながら、ケイの服装を上から下まで見回した。
「ずいぶん変わった身なりだね。どこか遠い国から来たのかい?」
「ええ……まあ、そんなところです」
「そりゃ大変だ。ところで、保護費はちゃんと払ったのかい?」
「保護費、ですか?」
ケイが首を傾げると、女将は驚いたように眉を上げる。
この街、グレイヴァルドでは、領地を取り囲む結界を維持するため、住民から保護費と呼ばれる税金が徴収されている。
その結界は街全体を覆い、モンスターの侵入を弱める役割を果たす――といっても、完全に防ぎ切れるわけではなく、魔力を消耗しきると穴が開くことさえある。
だから結界石を常時安定させるには莫大な維持費が必要で、結果的に住民が苦しむ構造になっていた。
この保護費はこの街に訪れる旅人からも徴収しているらしい。
「まだ納めていないのかい?」
「実は、ギルドで手続きすら満足にできていなくて……」
「そりゃあ困ったねえ。保護費を払ってないと本来は結界の一員とみなされないから、宿にも泊まれないんだよ」
女将が困ったように口を曲げるので、ケイは慌てて頭を下げた。
会社でも同じだった――理不尽なルールがあっても、従わなければ追い込まれる。そんな光景を思い出す。
「すみません。事情がありまして……とにかく、今晩だけでも泊まれませんか?」
「いいよ、うちはそこまで厳しくないからね。でも早く保護費の手続きをしないと、街の外へ追い出されるかもしれないよ。領主様の目が厳しくなっててね」
「追い出される……?」
ケイの表情が強張ったところで、宿の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは痩せぎすの男。役人のような服装をしており、その背後には金属鎧をまとった衛兵が二人ほどいる。
「おい女将、今月の保護費がまだ全部納められてないと報告を受けたが?」
「そ、それはもう少し待ってください。まだ全部は用意できなくて……」
「言い訳はいい。この街は領主様の結界維持で守られているんだ。住民がちゃんと協力しなきゃ、モンスターの餌食になるだけだぞ」
役人は苛立ちを隠さず、衛兵を引き連れて食堂を一瞥すると、さっさと出ていく。
重い沈黙が残る中、女将が気まずそうにケイを見つめた。
「ごめんね、領主が替わってから徴収が一段と厳しくなってね……。二階の一番奥の部屋が空いてるよ」
「ありがとうございます、助かります。あの、宿代を払うお金がなくて……雑用でもなんでもしますから泊めてもらえませんか?」
「お金がないなら、明日の朝食の前に皿洗いでもしてくれればいいさ」
「ありがとうございます、頑張ります」
ケイがそう答えると、女将は少しだけ笑みを見せた。
かつてブラック企業で疲れ果てていたとき、助け合いなどままならず、結局誰もかれもが追い込まれていった――そんな苦い記憶を思い出して、ケイは心がちくりと痛む。
「夕食時には声をかけるから、少し休むといいよ」
そう言ってくれた女将のやさしさが、ケイにはありがたかった。
二階の狭い部屋に入ると、ケイは固いベッドに腰を下ろして深い息を吐く。
この世界に来てからまだ間もないというのに、問題は山積みだ。
ギルド登録すらままならない『魔力ゼロ』で、保護費も払えない。
会社での『能力が足りないなら居場所はない』という圧迫感と、奇妙なほどダブって見える。
――夜。
「ほら、食事だよ。質素だけど、腹は満たせるから」
「ありがとうございます」
女将が用意してくれた夕食は、薄いスープと固いパン。
だが空腹のケイは、それを無心で平らげる。
と、そのとき食堂の片隅で交わされている客のひそひそ話が耳に入ってきた。
「おい、あそこの村が保護費を払えなくて、結界をはれずにモンスターに襲われたってよ」
「なんでも領地の端っこは結界が弱いらしく、定期的に補強が必要だってのに、金がないから放置してたそうだ」
「夜襲を受けたって話だな。何人か怪我したとか……」
そんな会話を聞き、ケイは眉をひそめる。
結界というシステムがある以上、本来ならある程度はモンスターを防げるのに、保護費を払わなければ結界に含まれない。
システムに加入できない人々が、モンスター被害にあいやすいというわけだ。
ケイには、不合理なしくみがブラック企業の姿に重なって見え、胸の奥がざわつく。
そこへ昼間も来た役人がふらりと姿をあらわした。
酒を飲んできたのか、顔が赤い。
「おい女将、今月の分はちゃんと納められるんだろうな?」
「ええ、すいませんけど、もう少し……」
「しつこいが、領主様がカンカンなんだ。街のための結界維持には金が要る。みんな我慢してるんだから文句は言わせんぞ」
食堂の空気が一瞬で冷え込み、客たちは沈黙に包まれる。
ケイは立ち上がろうとするが、女将が目配せして首を振る。
役人の背後には衛兵が控えており、下手に刺激すればケイ自身が窮地に立たされるのは明白だ。
役人の視線がケイに向き、嫌な予感が走る。
「なんだ、その不満そうな顔は?」
「ええと……別に不満とか……」
「おまえはちゃんと保護費を納めているんだろうな?」
「いえ、実は『魔力ゼロ』といわれて働き口もなく、お金がなくて、まだ……」
ケイがごまかすのをやめて正直に言うと、役人はあからさまに嘲笑を浮かべた。
「はは、そりゃまた厄介だ。昔から『魔力ゼロが大厄災を招いた』なんて伝承があるからな。おまえが疫病神だなんて噂が広まったら、ここもとばっちりだろうよ」
「そんな根拠のない……」
「根拠なんぞ要らんさ。皆が不安になれば、それが現実になる。それがこの世界の常識ってもんだ」
役人は衛兵を連れて出ていく。
残された静寂の中、他の客はうつむいたままで何も言わない。
女将が小声で話しかけてきた。
「あの人も、昔はもっとまともだったと聞くよ。領主が変わってから、急に保護費を吊り上げられて……結局、あの人も上の命令に逆らえなくなってしまったのかもね」
「本当は嫌々やっているのに、あんな態度しかとれないってこともあるんですね」
「誰だって、自分が追われる身になるのは嫌だからね。わかっていても抗えないのさ」
女将の言葉に、ケイは苦い笑いを浮かべる。
そう、会社でも同じだった。
上司に逆らえず、部下に無理を強要してしまう社員たち――彼らもまた被害者だったのだ。
「でも、こんな制度、間違っていると思います。結界を守るためとはいえ、払えない人たちは見捨てられるなんて……」
「私に言われてもねえ。領主様やお偉方が決めたことだし、ここじゃどんなに声を上げても通らないよ」
女将は苦笑して去っていく。
情報量の多い話ばかりで、ケイは頭を抱えそうになる。
以前の自分も、会社の体制を変えたくても、上層部の圧力にはまったくかなわなかった。
変えるには、大きな力と知恵だ。
――翌朝。
「よし、これで皿は全部洗い終わりましたね」
「ご苦労さん。助かったよ」
女将に礼を言われながら、ケイは慎重に皿を拭き上げる。
すると、入口から年配の男が慌ただしく入ってきた。
「おい女将、聞いたか!? 昨日の夜、隣村がモンスターに襲われたそうだ」
「なんだって!? それって結界が張れなかったっていう……あの村かい?」
「ああ。領域の外れにあるから、さらに不利だったんだろう。複数の怪我人が出たって話だ」
女将の表情は曇り、ケイも手を止めて話に耳を傾ける。
食堂の客たちも口々にささやき始める。
「結界を張れたら防げたかもしれないのに……結局金がないと安全すら買えないなんて」
「昔は大厄災後の復興支援として、最低限の負担で結界を維持してたって聞くが、今は領主たちが私腹を肥やしてるんだろ」
「領主様はどうでもいいのかね。結局は金次第ってことか」
ケイはその会話を聞きながら、かつて自分が働いた会社を思い出していた。
売上至上主義で、下層社員に負担を押し付け続ける構造。
守られない弱者は次々に倒れていく――今、この世界でも同じような理不尽を見ているのだ。
「やっぱりおかしい。守られるべき人たちを見捨てるような仕組みなんて……」
「若いの、あんたもそう思うかい? けど、政治やら法律やら、俺たち庶民にはどうしようもないんだよ」
「……そう、簡単じゃないですよね」
年配の男はうなだれ、ケイは言葉を失う。
しかし、胸の奥には小さな怒りの炎が灯り始めていた。
――昼過ぎ。
ケイは宿の雑用をこなしつつ、少しでも保護費の仕組みを探ろうと街を回って情報を集めていた。
すると、同じような話があちこちから聞こえてくる。
「昔は大厄災の復興対策で結界が簡単に張れるよう国が補助してたんだ。けど領主たちが権力を握ってから、保護費はどんどん吊り上げられてね」
「賄賂を払えば徴収率が下がる地域もあるらしい。そりゃ不正が横行するわけだよ」
「結局、金を持ってる奴だけが安全を買えて、貧しい者はモンスターの餌だ。こんなのおかしいけど、誰も逆らえないんだ」
あまりの実態に、ケイは怒りを通り越して呆然とする。
かつてのブラック企業でも、上層部は高額報酬を得て、下層社員は徹夜残業。やがて心身を壊して退職していく――。
不合理な搾取をどうにか正したいと願っても、一人ではどうにもならなかった苦い過去が脳裏をよぎる。
「でも、今度こそ放っておけない……。何とかしなきゃ」
ケイは歯を食いしばり、拳を握る。
確かに自分には魔力もないし、ギルド登録も難しい。
しかし、この世界に来たことが偶然だとしても、もう一度だけ挑戦してみたい。
誰もが無理なく生きられる仕組み――前の世界で果たせなかった夢を、ここで実現できるかもしれない。
周囲では、いつものように露店の呼び込みや商人の声が響いている。
けれど、そこにはなんとなく諦めの色が漂う。
保護費を払えない人々、腐敗した権力、魔力ゼロへの差別――そのすべてがケイを追い詰めるには十分だったが、同時に彼の心には揺るぎない決意が芽生えつつあった。
「このまま引き下がるわけにはいかない。世界の仕組みを少しでも変えたい。……今度は、仲間を壊させないためにも」
保護費制度の洗礼を受け、結界による防衛の裏側を垣間見たケイ。
その胸には、『不合理を正そう』とする炎が確かに燃えはじめていた。