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プロローグ

「おい、如月。まだソースの不具合が残ってるぞ。ちょっとチェックしてくれ!」

 夜を徹して灯るデスクランプの下、背筋を伸ばした男が苛立ちを隠さず声を張り上げる。


「はい、すぐ確認します」


 呼ばれた名は如月ケイ。

 彼はこのブラック企業のITエンジニアとして働いていた。

 空調の音すら遠く感じる深夜、彼の視線はディスプレイに注がれている。


「頼むぞ……もう納期は明日の朝だ。ミスがあったらお前の責任になるからな」


 上司の言葉は容赦なく、その背後には徹夜続きで顔のむくんだ同僚たちがうなだれていた。


「すみません。すぐに修正を……」


 ケイは乱雑なコードを目で追い、キーを叩き続ける。

 隣では焦りの表情を浮かべた若手社員が声を潜めた。


「如月さん、もう徹夜三日目ですよ。少しは休んだほうが……」

「大丈夫だ。休む暇はないだろ。リリース前だし、これ以上延期はできないって……」


 ケイの声は弱々しいが、その指は止まらない。


「でも、以前も無理な残業で後輩が体調を崩したじゃないですか。あれ、如月さんずっと気にしてるんでしょ?」


 若手は唇を噛み、モニターから目を離した。

 ケイは焦燥感を押し殺すように画面へ向き直る。


「……あのときは俺のマネジメント不足だった。だから今度こそ納期を死守して、誰にも迷惑かけたくないんだ」

「無理させたくないって思ってるのに、結局今もこんな……」


 若手が言いかけたとき、別の同僚が重いため息をつきながら口を開く。


「納期を落とすなんて、この会社じゃ許されないからな。如月は自分がやるしかないと思ってるんだろ」

「でも、もう限界なんじゃないか?」


「限界でもやるしかないんだよ。俺が動かなきゃ、また誰かに無理を押しつけるだけになる」


 ケイはそうつぶやくと、熱に浮かされたような瞳でディスプレイを見据えた。


「如月、コードレビュー終わったか? あと五分で報告が必要なんだ」


 上司の不機嫌そうな声が再び響く。

 オフィスの一角ではいくつもの電話が鳴り、誰も彼もが疲れ果てていた。


「あと少しです……! この部分のバグを修正して──はい、ビルド通りました!」


 ケイは無理やり笑みをつくったが、その顔色は明らかに悪い。

 画面に並ぶログは無慈悲なほど数が多く、一つでも見逃せばすべてが台無しになる。


「――じゃあ、次はこっちのタスクだ。すぐ取り掛かれ」


 上司は成功を喜ぶ暇も与えず、別の仕事を叩きつける。

 ケイは「はい」と答えたが、握りしめたマウスがわずかに震えていた。


「如月さん……もう休んでください。僕たちで分担しますから」


 若手社員が恐る恐る声をかける。

 けれどケイは首を横に振った。


「ありがとう。でも……俺がやらなきゃ。あのとき仲間を守れなかった分、今度は全部背負わなくちゃいけないんだ」


 過去の苦い経験――仲間が体調を崩して退職した事件――それがずっと彼の心を縛っている。


「そんなの、如月さん一人で抱え込むことじゃ……」

「でも、もし誰かが壊れたら、また俺が後悔する……」


 ケイの瞳は自責の色を帯び、意地のように画面へ没頭する。

 使い古したマグカップのコーヒーはすっかり冷えきっていた。


「大丈夫そうか、如月?」


 別の同僚が声をかけた。

 あちこちで同僚たちは限界に近いが、なんとか気力を振り絞っている。


「やるしかないよ……みんな、今は踏ん張ろう」


 ケイは座り直し、小さく肩を回す。

 そして再びキーボードを叩きはじめた。


「警告ですよ、如月さん! テストサーバーが落ちてます!」


 オフィスの奥から悲鳴に似た声が上がる。


「わかった、すぐ見に行く」


 彼は無理やり席を立ち上がろうとして、ぐらりと大きくふらついた。


「おい、大丈夫か!?」


 一斉に周囲の視線がケイに集まる。


「……大丈夫だ。ちょっと立ちくらみしただけ」


 苦笑いしながら、意地でも椅子には戻らない。

 ディスプレイを覗き込みながら、足元の散らかった資料を踏まないよう気をつけて歩く。

 若手社員は心配そうに見守るが、自分もタスクを抱えていて手が回らない。

 数秒迷った末、若手社員はぽつりとつぶやいた。


「……すみません、俺も対応が詰まってるんで、誰か助けてあげてください」


 しかし、助けを出せる人間は誰もいない。

 そこかしこで徹夜明けの社員が、顔色の悪いままモニターを凝視している。


「あと少し……これを乗り切れば、みんなが報われる……」


 ケイは声に出して自分を鼓舞するようにログを解析する。

 まばたきは明らかに減り、肩は固く張り詰めたままだ。


「如月、テストサーバー立ち上がったか?」


 上司が怒鳴る。

 ケイはクラッシュしたログに目を走らせ、エラーの原因を探る。


「……原因はライブラリのバージョン不一致……すぐにパッチを当てます!」


 必死にキーボードを叩き、ビルドを回す。

 しかし横からは別の不具合報告が飛んでくる。


「また別のバグがあった! どうなってるんだよ!」

「……対応します。順番に、順番に……!」


 ケイの声はかすれている。

 誰が見ても彼は疲労の極みにあるが、仲間を救えなかった苦い記憶が、その身体を動かし続けるようだった。


「如月さん、これ……バグの修正パッチ当てました。確認してもらえますか?」


 若手社員がファイルを差し出す。

 ケイは「助かる」と言いながらも、画面を覗く表情は冴えない。


「ありがとう。じゃあ、コードレビューしよう……」

「あの……少し仮眠を取ったほうがいいですよ。やつれすぎです」

「いや、大丈夫。俺が休んだら納期に間に合わない」


 そう断言するケイの身体は小刻みに震えている。

 上司が執拗にスケジュールを催促しているのが見えると、一瞬だけ顔が強張った。


「こんなに追い込まなくても……」


 周りの同僚が視線を交わすが、止めることはできない。

 ケイは意地になって、プログラムの不具合をつぶし続ける。


「如月、あと五分で進捗まとめを出せ!」

「わかりました……すぐに」


 切り詰められた時間。

 作り笑いを浮かべながら、ケイはモニターの文字がかすんでいくのを感じていた。


「如月さん、顔色が……もう無茶しちゃダメですよ。お願いします、少しでもいいから横になって……」

「……平気だ。ほんの少しで……もう少しで全部終わるから」


 彼はふらつきながらファイルをチェックする。

 指先は何度も入力をミスし、再入力を繰り返していた。


「如月、今度は新規機能の検証をやってくれ! 残り時間は……」


 上司がさらに追い打ちをかける瞬間、ケイの動きがふと止まる。


「……っ、ぐ……」


 彼は息を詰まらせたように肩を大きく揺らした。


「如月さん!?」


 誰かが叫ぶ。

 ケイの視線は一瞬宙をさまよい、デスクに手を伸ばすも力が入らない。


「――駄目だ、目が……」


 言葉を途切れさせ、がくりと膝をつく。

 若手社員が慌てて駆け寄るが、支えきれない。


「如月が倒れたぞ!」


 混乱の声が飛び交う中、オフィスの床に崩れ落ちたケイの意識は急速に遠のいていく。

 視界が歪み、モニターに映るコードの残像がちらついた。


「くそ……救急車を……! 大丈夫か、如月! 如月ッ!」


 同僚の鬼気迫る声も、遠くで反響するばかりだ。


「……もう……こんなのは……」


 ケイの唇が震え、小さな声にならない呻きがこぼれる。

 彼の視線は天井の蛍光灯をぼんやり映し出し、そのまま静かに閉じられた。


「誰か呼んで……如月さん、しっかり!」


 若手社員たちが必死に呼びかける。

 しかし、ケイは頭の奥で『このままではまた仲間を壊してしまう』という恐怖と自責を抱えながら、暗闇へと沈んでいった。


 ――そのとき、彼を包む世界が不意に途切れた。

 周囲の喧騒が一瞬で消え、ケイの意識は深い闇の底へと落ちていく。

 最期に浮かんだのは「二度とこんな働き方をしない」という切ない願いだけ。


 やがて、誰もいない静寂が訪れ、ケイはすべてを奪われたように倒れ込む。

 ケイの身体からは小さな吐息すらも消え入りそうだった。


 しかし、それは終わりではなく、新たな物語の始まりでもあった。

 彼の心臓はかすかな鼓動を残し、次に開かれる瞳の先で、まったく未知なる風景を捉えることになる――。


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