交錯した三つの問題 ―青い鳥・バランスの悪い塔・エピソード―
プロローグ
「しかし君がアナウンサーになるとはね」
「私も思ってもみなかったわ」
「大変なんだろ?」
「まだわからない」
「いや、そうじゃなくて内定もらうまでがさ」
「どうかしら」
「どうかしらって。すごい倍率だろう」
「倍率なんて関係ないわよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんよ」
「ふうん」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「娘をアナウンサーにしようかと思ってね」
「いつ?」
「何が?」
「子供できたの?」
「いや、今のはジョークだよ。もしくは遥か未来の希望的観測」
「無理ね」
「何が?」
「あなたの娘がアナウンサーになるという遥か未来の希望的観測」
「どうして?」
「母親がいないから」
「遥か未来にも?」
「遥か未来にも」
「それは初耳だ。ショックだね」
「本気で結婚したいと思っているわけじゃないでしょう?」
「まあ基本的にはね。でも歳が歳だからタイミングによってはあるいは」
「いくつだっけ?」
「来年三十になるね」
「まだまだ先は長いわよ」
「遥か未来にもいないんだろ?」
「深い意味はないわ」
「それはそれは」
「何の話してたんだっけ?」
「話を逸らすのがジョークの機能だからね」
「初耳だわ」
「ニュースとか読むのかな?」
「そりゃあね」
「僕はニュースって嫌いだな」
「私もよ。つまらないもの」
「つまらないね。全くつまらない。起こったことしか言わないからね。これから起こることを何一つ教えてくれないという所が黙示録的につまらない」
「じゃあたまにはあなたのために天気予報でも読むわ」
「嬉しいね。でもあれはアナウンサーの仕事じゃないだろう」
「そんなこと言ったらアナウンサーの仕事なんて何一つないわよ」
「正論だ。仕事なんてそんなものだということだね」
「あなたは?最近仕事はどうなの?」
「下らないね。最近も大昔も遥か未来も下らない。下らない朝に下らなくでかいビルに出社して下らない客に頭を下げて下らない物を売って下らない夜に下らない酒を飲みながら下らない同僚の下らない愚痴を聞いているわけだ」
「そして下らない電車に乗って下らない部屋に帰り下らないベッドに入って下らない夢を見るわけね」
「時には下らない女を抱きながらね」
「あなたって本当に下らないわね」
「知ってる。それを確認するために君に会うんだ」
「仕事以外はどうなの?」
「下らない仕事で稼いだ下らない金を下らないことに使って下らない時間を潰してる。そうそう、最近車を買ったんだよ。下らない色をしたね」
「二人で下らないドライブでもしたいわね」
「いいね。下らない燃料でどこまでも走ることができる。もちろん下らない場所にしか行けないけどね。下らない海にでも行こうか。本当は下らないなりに綺麗な海なんだけど下らない太陽と下らない空のせいで最高に下らない色に見えるんだ。そういう所なんだ」
「ロマンチックなのね」
「すごくね」
「下らない海が一望できる下らない名前のホテルに泊まりましょうか。ベッドの中で下らない話をしながら下らない夜明けを迎えたいけれど、きっと話が下らないからそのうち眠ってしまうのよ」
「なかなか良い」
「きっと下らない夢を見るわね」
「君はさっきもそう言ってたね」
「下らない夢って?」
「下らない夢って」
「おかしい?」
「おかしいのは僕の方かもしれないな。でも実際にはそうでもないんだ。夢は夢だからね」
Ⅰ
この二十四時間で煙草を五十七本吸った。僕は毎日(「毎日」という表現はあまり適切とも言えない。より正確に記述すれば毎二十四時間)、六時間の睡眠を取るから、覚醒している十八時間の間に五十七本の煙草を吸ったわけだ。一時間当たり3.166666…本、煙草一本を吸うのに五分間かかるとすると一時間の内煙草を吸っている時間は15.833333…分、つまり十五分五十秒。覚醒時において煙草を吸っている時間と吸っていない時間の比率は95:204。さて、95:204。こう見れば、そんなに煙草を吸い過ぎているわけでもない。そう思っている。僕の周りにいる人間のほとんどは僕よりたくさん煙草を吸うのだから。そういえば一人だけ。彼は煙草を吸わないんだった。とは言っても彼の場合はまあ少し違うか。彼のことを今紹介しても問題はないが、かといってメリットもない。外を歩いていればきっとそのうち見かけることになるだろう。
「外」という表現は誤解を招くかもしれない。もう少し説明を加えよう。今、僕は古ぼけたアパート(三階建てで一つのフロアにそれぞれ七つの部屋がある)の三階にある自分の部屋の中にいる。 「外」というのはこの部屋の(あるいはこのアパートの)外という意味である。
古ぼけた外観に加え、内装も古ぼけていることこの上ない。裏表のない性格をしたアパートなのだ。人間に生まれ変わったらきっと人気者になれるだろう。ちなみに古ぼけているわりには鼠とかゴキブリとかその手の生き物にはあまりお目にかかることはない。それは僕にとっては非常に喜ばしいことではあるけれど、そのためにこのアパートに住んでいるというわけではない。そもそもこの街にはその手の生き物が多くないのだ。この街にはちょうど二百二十五個ぴったりの命が存在している。それ以上増えることもないしそれ以下に減ることもない。そういうことだ。
僕は今三〇一号室(僕の部屋だ)の窓際に設置されたソファーに座りながら、この街で一番の大通りを見下ろしている。そして煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。スムーズだ。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。この一連の動作を僕はものすごく滑らかに行うことができる。時間が止まる。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。この動作が街一番に美しいのはたぶん僕だろう。大抵の住人はヘヴィースモーカーではあるけれど、誰もその動作を綺麗にやろうとは思わない。僕は誰も気に留めようとも思わないことに気を遣うのが好きな人間なのだ。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。
さて、そうして僕は自分の部屋でソファーに座り、煙草を吸いながらこの街で一番の大通りを見下ろしているわけだ。「この街で一番の大通り」というところが重要なポイントである。実際には全然大通りではないのだけれど、確かにこの街では一番大きな道なのだ。一般的な意味での大きい道が存在しないことは、この街に車がないことに起因している(本当は全く車がないわけではないのだけれど、持ち主は移動手段としてではなくアクセサリーのような感覚で車を所有している)。移動手段としての車が存在しない上に住人も非常に少ないのだから、大きな道が存在する必要などないどころか、あったとしたら罪悪と言っても良いくらいだ。そんなわけで僕が眺めているのは、至極まっとうなこの街で一番の大通りなのである。
大通りを挟んで向かい側には図書館が見える。図書館と呼ばれているからには、もちろん大量の書籍が所蔵されている。図書があるから図書館。最高級に素直な呼び名。素直さの秘訣は、この図書館が他の住人に蔵書を公開するという役割を担っていないこと。この図書館にはとある住人(気難しい人間だと言われている)が暮らしていて、大量の本を彼一人が読んでいるのである。彼が他人に本を見せたがらないからそうなったのか、ただ単にこの街の住人が本を読みたがらないからなのかはわからない。ただそういう図書館なのだ。それが一般的に言う図書館の意味とは異なるとしても、この街の住人にその建物は図書館と呼ばれているのだ。図書館と呼ばれているからには至極まっとうな図書館なのだ。
図書館の側面に設置された時計が僕の部屋からは真正面に見える。この手の時計は下から見上げると小さく見える。ちなみに目の前から見るとほんの少しだけ大きく見える。どちらが見やすいかと聞かれたら返答に困る。少しくらい遠くからでも時間が確認できるというのがこの手の時計の売りの一つなのだから。
さて、この時計によると現在は十三時五十五分である。僕は十四時に正にこのまっとうな図書館を訪ねることになっている。図書館の住人に呼び出されているのだ。「呼び出されている」という表現が失礼に当たるとすれば、訂正してもかまわない。彼は街の多くの住人には気難しいと思われているが、不思議と僕には非常に親切に接してくれるのだ。これが街に伝わる七不思議の一つである。七不思議は確かに存在する。ただし、この物語の主題は七不思議ではないので、今後七不思議に言及するつもりはない。この街には確かに不思議なことがたくさんあるが、それが七不思議を構成する不思議かどうかという問題は何の意味も持たない。
根元まで灰になった煙草を吸殻で一杯になった灰皿に押し付けて、僕は部屋を出た。もちろんこのアパートにはエレベーターなんてあるわけがない。本当に裏表のないアパートなのだ。階段を下りていく。階段を下りていく。エントランスは最高のリズム。そしてステップ。この世界で一番のステップ。扉を開けて、外の空気を胸に入れ、残った煙と一緒に吐き出す。
この街の姿は悪くない。どの建物も僕のアパートに負けず劣らず古ぼけてはいるけれど、古ぼけているという点で均整が取れた街なのだ。悪くない街なのだ。
図書館の隣には店がある。「店」がある。「店」というのは一般名詞ではあるが、この街では固有名詞とも成り得る。この街で「店」と言った場合は図書館の隣にあるこの店を指すのである。この店で手に入れられないものはない。だから「店」なのである。一体どこから仕入れて来るかはわからないが、本当に何でも売っているのである。疑うのなら試してみてほしい。子供の頃にどうしても欲しかったのに買ってもらえなかったもの。本当に何でも売っているのである。ちなみにこの店は二十四時間閉まらない。コンビニエンス。いつでも何でも買うことができる。
ここで僕は部屋に煙草を置いてきたことを思い出す。もちろん店には煙草も売っているわけで。銘柄は一つしかないけれど。でも誰もそんなことは気にしない。一つあるのだからそれで良い。だから僕は煙草を買うために店に入ることにする。約束の相手は時間に厳しいけれど、煙草を買うくらいの時間はあるのだ。
窓ガラスから店の中を確認する。客はいない。店内は煙草の箱に埋め尽くされていて、店の男は一人で煙草を吸いながらハーモニカを吹いている。煙草は口で吸うもので、ハーモニカは口で吹くものだ。この二つを同時にこなすことは一見不可能に思えるけれど、彼はとても器用に煙草を吸いながらハーモニカを吹いている。きっと練習すればできるのだ。彼がどのくらい練習したのかは考えたくもないけれど。
店の入口の扉を開ける前に、窓ガラス越しに目が合う。そして扉を開けた瞬間、彼は僕にこんな風に話しかける。
「お遣いかい?」
「いい大人がお遣いなわけないでしょう」
彼は二十四時間この店の番をしている。ちなみに彼は眠らないという噂があるが、真偽の程は定かではない。本当でもおかしくはないけれど、客がいない時間に寝ることもできそうだ。このバランス感覚があってこその噂。そんなことどちらでもかまわない。彼は「眠らない男」という名前なのだ。
「そうかな」
煙草を吸いながらハーモニカを吹く上に言葉を発するにはまだ練習が足りないのだろう。彼はハーモニカを諦めたようだ。
「煙草を」
煙草というのが煙草の名前。彼は新しい煙草をくわえながら新品の煙草一箱を僕に差し出す。確認しよう。ここは煙草屋ではない。いつでも何でも手に入る店なのだ。とは言っても圧倒的に需要があるのは結局のところ煙草なのだ。そういう街なのだ。
「三分だな」
「わかりました」
こうして僕は煙草を買うことができた。めでたしめでたし。
「でもなあ、誰もが誰かのお遣いよ」
店を出る時、彼はそう言った。時刻は十四時を回っていた。
僕は急いで隣の図書館に向かった。何よりもスピードを大切にして。
「三分の遅刻だ」
図書館のロビーに入った僕を一瞥するとその図書館の住人は煙草の煙と一緒に言葉を吐き出した。
「すみません」
ちなみに彼の名前は「先生」という。なぜ先生なんて呼ばれるようになったのかは聞いたことはないが、彼は先生と呼ばれている。だから彼は先生という名前なのだ。だから僕もいつからか彼のことを先生と呼ぶようになったのだ。幾許かの尊敬の念を込めて。
「まあいい。ともかく最初の質問をしよう。君の名前を教えてくれ」
*
「先生はどうしてあなたの名前を知らないの?」
「どうしてだと思う?」
「あなたには名前がないの?」
「そんなことはないと思うけど」
「どういうことかしら」
「先生はきっと忘れっぽいのかもね」
「だからあなたの名前を忘れてしまうの?」
「そう」
「寂しいわね」
「仕方ないよ」
「それであなたは何て答えるの?」
「スル」
「スル?」
「僕の名前だ」
「あなたの名前はスルじゃないわ」
「そうだね。でも夢の中では僕の名前はスルなんだ。何の疑いもなくね」
「あまりよくわからないけどそう理解しておく」
「ありがとう」
「でも、そもそもどうしてあなたはその街にいるのかしら?」
「わからないな」
「夢だものね」
「それも少し違う気がする。夢の中の僕に質問したとしても応えられやしないんだ」
「どうして?」
「きっと忘れてしまったんだよ」
「いろんなことを忘れてしまうのね」
「そう。もしかしたら大切なことからね」
Ⅱ
図書館の二階には先生の書斎がある。テーブルの上には十一個の灰皿があり(全て同じデザインで、ガラス製のシンプルな灰皿だ)、そのうち十個はそれぞれ百本くらいの煙草の吸殻を溜め込んでいて、灰皿としての機能を果たすことができそうな灰皿は一つだけだ。そしてその灰皿はこの上なく綺麗に磨かれている。十個の汚い灰皿と一個の綺麗な灰皿を一つのテーブルの上に置くことにどんな意味があるのかはわからない。先生にとってはものすごく重要な象徴的意味があるのかもしれないし、或いは何の意味もないのかもしれない。ただ一つ、一体僕はこの綺麗な灰皿を使ってもいいものだろうか。
「そろそろ街には慣れたかい?」
先生は煙草に火を点けた。
「ええ、まあ」
「どんな風に?」
「どんな風に?」
「私には君がこの街に染まっているようには見えないんだ」
先生は綺麗な灰皿に煙草の灰を落とした。それを確認して僕も煙草を吸うことにする。
「そんなことはないと思いますけど」
「このまま暮らしていくのはなかなかに大変だぞ」
先生は灰皿の縁で煙草の先の形を整える。クルクル回して整える。
「大変というのは?」
「君はこの街で何かの役割を担っているわけではない。それはとても不自然なことだ。そうは思わないか?」
煙草の先が綺麗な円錐形になる。とても器用に。
「僕の名前はスルです」
「そうだ。君の名前はスルだ」
「僕が果たすべき役割は何でしょう」
僕も煙草の先を整えてみる。どうしても先生のように上手くはいかない。歪な形になってしまう。
「それは君自身が見つけなくちゃいけない」
「そうですね」
何とか綺麗な円錐形に整えようと試みていたら、煙草の先が折れてしまった。どうも指先に力が入ってしまう。だから僕は新しい煙草に火を点けることにする。とても滑らかに。
「音楽でもやってみたらいい」
「楽器は無理ですよ」
それは円錐形的に不可能なのだ。
「この街では音楽は特別なんだ。なぜかはわかるね?」
「時間芸術だからですか?」
「その通りだ。音楽は音による時間の表現なんだ。だからこの街では音楽は素晴らしいんだ。とりわけね」
「考えておきます」
もしかしたらそれも良いのかもしれない。楽器は何が良いだろう。フルートなんか良いかもしれない。そして僕は煙草を吸いながら同時にフルートを吹く練習を始める。とてもとても長い時間練習する。そして円錐形的な訓練の末に僕は煙草を吸いながらフルートを吹くことができるようになるのだ。一番好きな曲は『タイスの冥想曲』で、マスネ的なフルートの旋律と煙草の煙とのギャップがたまらない。そして僕はきっと勃起してしまうのだ。それは円錐形的にどうしようもないことなのだ。とはいえ僕は少し恥ずかしい気持ちになって新しい煙草を吸うことにする。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。トリオ的に滑らかなのだ。煙草を吸う。フルートを吹く。勃起する。同じことなのだ。そんなことを繰り返すうちにきっと僕は自分の役割を果たすようになるのだ。自然と。自然と。そして僕はスルではなくなるのだ。それが自分の役割を果たすということなのだ。
「さて、それはそれとして、だ。娘が隣で待っている」
「わかりました。今日はどんな話題が良いでしょうね」
「楽にしてくれていいんだよ。ただ流れのままにね」
「そういうことなら流されましょう」
いつの間にか汚れてしまった灰皿に煙草を押し付けて僕は立ち上がる。
「なあ、明日も雨かな?」
「雨?」
「あれはずいぶん君のことを気に入っているみたいだから」
肺に煙が残っているような気がしたから、僕は大きく息を吐き出しながら先生の書斎を後にした。
書斎の隣が先生の娘の部屋になっている。娘といっても先生と血が繋がっているわけではない。血の繋がっていない親子というのも違う。そもそも親子というのが適切ではない。つまりは家主(先生が家主かどうかも怪しいところではあるが)と居候に過ぎない。どんな経緯で彼女がこの図書館に住むようになったのかは知らないけれど、それでも確かに彼女は先生の娘なのだ。
彼女の部屋の扉をノックする。ノックは三回。彼女の返事が聞こえたのを確認して扉を開ける。この部屋に足を踏み入れる時、まず視線は壁へと向かうことになる。部屋の壁は額縁に入った絵に埋め尽くされているのだ。この街には絵が好きな人間なんていないから絵のある部屋は印象的だ。そして僕はこの部屋にある絵のタッチがどれも同じであることを知っている。この街には絵の好きな人間なんていないのだ。おびただしい絵に囲まれた一人の(美しい、と言っても問題はない)女性に窓から入る光が柔らかく当たるシーンがとても綺麗で、それ自体が絵みたいに見えた。
「こんにちは」
彼女は僕の方を向いてこんな風に挨拶をする。僕は彼女の声を「音程のある声」だと思っている。どうもはっきりとは定義できないが、耳に優しい歌みたいな声なのだ。
「僕だよ。わかるかな?」
「もちろん」
彼女は目が見えない。いつから見えないのかは知らないし、知りたくもない。知ったところで何も変わらない。彼女は目が見えない代わりに透き通った瞳を持っている。それでいいのだ。実は僕も目が見えないかもしれないのだ。そういうこともあり得るのだ。
「楽器でもやろうかなって思ってるんだ」
流れのままに。
「そう」
「まあ今先生に言われたからっていうだけなんだけどね」
流れのままに。
「あなたに似合う楽器があるかしら」
「厳しいんだね」
「むしろ良い意味で言っているのよ」
「良い意味?」
「あなたは楽器なんてやる必要はないわよ」
「でも僕はスルだから」
「そんなことどうだって良いわ」
「僕はどうしたらいいんだろう」
「ごめんなさい。困らせるつもりはないの。もしあなたが楽器をやりたいのならやったら良いと思う。でもこの街に住んでいるからって音楽ができないことを気に病む必要は全くないのよ」
「音楽をやらない人っているのかな?」
「いたわ」
「いた?」
「私の夫よ」
「夫?」
「夫よ」
「初耳だな。驚いた。結婚していたの?」
「結婚という表現が適切かはわからないけれど、この図書館で一緒に暮らしていたのよ。言ったことなかったかしら?」
「そんな大事なこと聞いたことあったら覚えているはずだよ」
「大事なことでも時には忘れてしまうものよ」
その通りだ。
「彼とは別れてしまったのかな?」
「そうね」
「どうして?」
「忘れてしまったわ」
「大事なことでも時には忘れてしまうんだね」
とりわけこの街では。
「でも彼はいなくなってしまったのよ。とても好きだったのに」
「彼が音楽をしなかったことと彼がいなくなってしまったことには関係があるように僕には思えるんだけど。やっぱり音楽はこの街で暮らしていく上で大切なんじゃないかな」
「それはまた別の問題よ。やりたくないならやる必要はないわ」
その言葉をきっちり最後まで言い終えてから、彼女は煙草に火を点ける。そして僕は目を瞑って。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。そして僕は目を開ける。目が見えなくても煙草を吸うのに支障はないのだ。たとえ滑らかさが半減したとしても。
彼女の部屋の窓からは向かい側に僕の住むアパートがよく見える。たくさんの絵画が飾られたこの部屋の中にいると、窓の外の景色も一枚の風景画のように見えてくる。僕のアパートが風景画としてきちんと構成されているように思えてくるのだ。この風景画的構図に一つのアクセントが加えられることになる。僕はそれを絶対に見逃さない。アパートの前を小さな青い鳥が飛んで行く。一番滑らかに。
*
「青い鳥は幸せを運んで来てくれたの?」
「どうかな。でも確かに僕はその青い鳥がすごく気になるんだ」
「そりゃそうよね。だって青いんだもの」
「君の言う通りだ。でもそこで僕はその青い鳥を探すことに決めてしまうんだ。不可避的にね」
「あなたはまだ気付いていなかったのね?」
「その時はまだね。どうして気付かなかったんだろう。不思議だよね」
「でもその街の中にいたら確かに難しいかもしれない」
「ともかく僕は青い鳥を探さずにはいられないんだ」
「大変そうね」
「まあね」
「あなたはその後どうするのかしら?」
「僕はまず先生に青い鳥のことを話すんだ。街で一番信頼しているからね」
「そうでしょうね」
「ところが先生は青い鳥なんているはずがないと言うんだよ。でも僕ははっきりと見ているんだ。そう訴えるんだ」
「ええ」
「そして先生はこう言うんだ」
「この街には色がない」
Ⅲ
「色がない?」
「色がないだろう」
「そんなこと考えもしませんでした」
「やはり君はこの街に染まっていない」
「それでも僕は青い鳥を探さなくてはいけないのです」
「それなら探しなさい」
「ええ」
「存在するのなら」
「存在しますよ」
「見てみたいものだ」
先生と僕はほとんど同時に煙草を消す。
「じゃあ僕はこれで」
「何なら薬屋に行ってみると良い。あれはこの街のことを一番良く知っているからな。あるいは鳥のことも何か知っているかもしれん」
図書館を出、店の前を通過してこの街で一番の大通りを二百メートルほど歩いたところに薬屋と呼ばれている建物がある。その呼称に違わず薬を売ってはいるのだが、僕は薬屋で薬を買ったことなど一度もないし、そもそもこの街で薬がそんなに需要があるとは思えない。加えて二十四時間営業の「店」もあるのである。
薬屋の主人は薬屋と呼ばれている。この街で「薬屋」と言った場合には薬を売る建物を指すことよりも、その主人個人を指すことの方が圧倒的に多い。薬屋はこの街では長老だなんて言われている。長老なんてずいぶんとクラシカル(あるいはRPG的)な言い回しだし、この街にはちゃんと市長がいる(そう聞いたことがあるだけで市長に関することを僕は何一つ知らないけれど)のだから長老というのはどうもしっくり来ないが、彼はこの街の大抵のことを知っているらしい。きっとその通りなのだろう。
「薬屋」と「薬局」というのはどう違うのだろうか。まあそれはどうでもいいことなのだけれど、この薬屋(建物としての)の中のカウンターを見るとその一つのニュアンスが感じられるだろう。カウンターにはカラカラに干乾びた根っ子のようなものや、その辺の公園(この街にはないけれど)か何かで拾ってきたとしか思えないような植物(そう言うにはずいぶんと貧相に変わり果てている)が並べられている。
そのカウンターの奥の椅子には一人の老人が腰掛けている。とても深く。こんなに深く椅子に座れるものかと驚くくらいに深く。もしかしたらそれは彼が非常に痩せていることに関係しているのかもしれない。驚くほど深く椅子に座って口笛を吹きながら薬屋は熱心に新聞を読んでいる。新聞はある意味においてはこの街にお似合いではあるけれど、ただし僕はこの街に新聞なんてものがあることを初めて知ったし、この狭い街にそんなに伝えるべきニュースがあるものかと不思議に思わずにはいられなかった。だからと言ってその新聞を見せてもらおうというほどに興味を引かれたわけではないけれど。でもここに新聞が存在するからにはきっと、記者さんが情報を集め、印刷屋さんが誌面を印刷して、新聞配達屋さんが新聞を届けに来るのだろう。毎朝(?)。そしてそれを薬屋さんが読むのだ。熱心に(?)。
「どうも」
僕のその言葉に反応して(きっとそうだと思う。でもそれはあるいは僕の勝手な解釈かもしれない。世の中にはそういうことが多いのだ。とても)新聞から顔を上げた。
「何か用かな?スル君」
「あなたならこの街のことを大抵知っていると先生に聞いたのです」
「それは違うな」
薬屋は笑顔だ。パッと見は感じの良いおじいちゃんと言ったところか。人間いくつになっても「おじいちゃん」とか「おばあちゃん」という言葉の響きには弱いものなのだ。まあそんなことはどうでも良いのだけれど。薬屋は煙草を取り出した。
「そうなんですか?」
「とりあえず君も煙草を吸うと良い。スル君。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。この一連の動作が街一番に滑らかなスル君」
薬屋の言葉通り僕は煙草を吸うことにする。煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。街一番に滑らかなのだ。そして僕はおじいちゃん子なのだ。
「よくご存知ですね。今まで誰にも褒められたことなんて一度だってなかったのに」
「大抵じゃないんだよ」
「え?」
「一つの解答だ」
「何のことですか?」
「この街のことは全て知っているんだよ」
薬屋の吐く煙と僕の吐く煙が混ざり合う。次の瞬間にはその意味を忘れる空中。
「青い鳥のことを聞きたいんです」
「青い鳥?」
「この街に青い鳥がいるんです」
「そんなはずはないだろう」
「僕は見たんですよ。この目でしっかりと」
「この目でね」
薬屋は変わらず笑顔で。
「何か知りませんか?」
「知らないねえ」
「この街のことを全て知っているんじゃないんですか?」
薬屋の返答に不満があったということではなくて、純粋に不思議に思ったのだ。おじいちゃん子なのだ。不純な不思議(?)。
「同じことだよ。スル君。君の目とね」
「どういう意味ですか?」
「目で見るということと、存在するということは決して同じではないよ」
「……」
口笛。
「受け入れるんだ」
「……」
口笛。
「だってスル君、君はこの街に色がないことにさえ気が付かなかったんじゃないか」
「……」
そして口笛。
「青い鳥は存在しないよ。少なくともこの街にはね」
「もしかしたらそうなのかもしれませんね」
「青い鳥なんて忘れて音楽をした方が良い。この街で生きていくならね。フルートをやろうとも考えていたんじゃないか」
そうなのだ。それも悪くないのだ。
「でもやっぱりもう少し探してみようと思います」
僕は青い鳥を探すことに決めてしまう。不可避的に。
「この街に存在する命は二百二十五個だ。その中に青い鳥なんていない。それはわかっていることなんだ」
「存在しないならそれでも良いんです。ただもう一度見てみたいんですよ。ただね」
「スル君。君はなかなかに、頑固だね」
薬屋はずっと笑顔だった。笑顔に見えた。無表情な笑顔というのも存在するんだなと思ったわけで。人間は複雑だから。
「ありがとうございます。青い鳥の話はこれで終わりにしましょう。実はもう一つ聞きたいことがあるんです。ついさっきふと気になったことなんですけど」
「何かな」
muhyoujounaegao(?)
「この街に市長がいるのですか?」
「いるよ。私に聞くまでもなくね」
「どこに?」
「それは言えないな」
「どうして?」
「また似たような問題が起こりかねないからね」
「問題?」
「問題だよ」
「何のことですか?」
「この街で問題と言ったら一つしかないだろう」
「わかりません」
「JAMスキャンダルだよ」
「JAMスキャンダル?」
「そうか。スル君。君が来る前のことだったかな」
「何があったんですか?」
「知らないのなら知らなくても問題はないさ。というよりもその方が幸せだね。とりあえず何の心配もなく生活できるのだから。この街で」
「教えて下さい」
薬屋は信じられないくらい大量の煙を一気に吐き出した後に、首を横に振った。
「土台が弱いのだよ。この街と同じようにね」
*
「市長がスキャンダルを起こしたということ?」
「僕にもわからないけれど、そういうことではないと思う。もちろん市長と何かしらの関係はあるんだろうけど」
「女性問題とかだったらおもしろかったのにね」
「市長の?」
「市長の」
「おもしろいね。実におもしろい。今年一番のおもしろさだね」
「馬鹿にしてるの?」
「なぜ市長が男だと思ったんだい?」
「あなた、自分が同じことを言っているのに気付いていないの?」
「何が?」
「女性関係の相手がどうして男なのかしら」
「なるほど」
「でしょう」
「返す言葉もない」
「まあそれは良いとして、JAMスキャンダルのことを誰かに尋ねてみた?」
「もちろん。いろんな人に聞いてみたよ。やっぱり知らないのは僕くらいだったようだね」
「結局スキャンダルって何なのかしら?」
「それは誰も教えてくれないんだよ。スキャンダルのことを口に出すのはタブーなんだ。きっとね」
「大切なことなのかしら」
「この街にとっては確実にね」
「土台が弱いのだよ。この街と同じようにね。っていうのはどういう意味?」
「僕も後々気付いたんだけど、それがヒントになっているんだよ」
「ヒント?」
「そう。まあ青い鳥とは何の関係もない問題のヒントだけどね」
Ⅳ
街一番の大通りの南端にはとても大きな門がある。門は常に閉ざされていて、その向こう側がどうなっているのか僕は知らない。『地獄の門』というロダンの彫刻がある。あれはとても大きな門なのだ。これは一つのヒントなのだ。この街の門が地獄の門だとか、そういうわけではない。ただ僕はこの街の門を見ていてロダンを思い出したのである。ただそれだけのことである。『地獄の門』のような細かな装飾は施されていないけれど。
門の前はちょっとした広場になっている。一つベンチが設置されていて、そこには必ず男女が座るのだ。カップルがベンチに座って愛の言葉を交わすのだ。素敵なことなのだ。でもほら。この街には一般的な意味でのカップルなんてほとんどいないから。このベンチは彼と彼女の指定席なのだ。二人はいつもこのベンチに座って愛の言葉を交わすのだ。素敵なことなのだ。そして必ず手を繋いでいるのだ。素敵なことなのだ。本当に必ず。手の繋がった男女の物語はロマンチックだ。この門には似合わない。
門の前には門番が立っている。その門番は警察官の制服を身に付けている。どうしてかはわからないが、彼はいつも警察官の格好をしている門番なのである。きっと彼にとっては警察官の制服には何かしらの象徴的な意味があるのだろう。もしそういった象徴的な理由がないのだとしたら、それはそれで象徴的でもある。
「良い天気ですね」
門番の立ち位置の隣に設置された灰皿に煙草の灰を落としながら僕はそんな風に門番に声を掛ける。
「そうでもないですよ。いつもと同じでしょ」
門番はそう答えると拳銃の形をしたライターで煙草に火を点ける。警察官の格好をした人間が拳銃の形をしたおもちゃみたいなライターを使うのはとても滑稽な感じもするけれど、実際にはその時全く違和感はなかった。
「あなたはここで何をしているのですか?」
「門を見張っているのですよ。私は門番ですからね」
門番は灰皿を使う。建物の中ならともかく屋外で灰皿が置いてあるのをこの場所以外には知らない。誰もそんなことを気にしないのだ。でも門番はずっとこの場所にいる。もしかしたら彼自身が灰皿をここに設置したのかもしれない。門番は煙草の灰に周りが埋め尽くされて溺れてしまうのを恐れているのかもしれないし、単に綺麗好きなのかもしれない。はたまた煙草は好きでも煙草の灰は大嫌いなのかもしれない。もちろん実際のところはわからないけれど。彼が灰皿を設置したのかどうかもわからないのだし。
「門の先には何があるのですか?」
「そんなこと僕にはわかりませんよ」
門番は両足でリズムを取るのだ。門番にはリズムが大切なのだ。
「門の先に何があるかわからないのに門番をしているのですか?」
「何も不思議なことはありませんよ。僕は門のこちら側の門番なのであって門のあちら側の門番ではないのですから」
そうかもしれない。何しろこれは門なのだ。
「わからないでもないですね」
「ああそうだ。この門の面白い話がありましたよ」
リズムが変わる。スムーズ。
「何ですか?」
面白いという表現は主観的で、何だか違和感があるけれど、僕は聞かずにはいられないのだ。
「この門は入口なんです」
「は?」
「この門は大きいがゆえに入口なんです」
「どういうことですか?」
「この門は出口じゃないんですよ。決してね」
大きな門は出口ではないというのはやはり僕にはよく理解できなかった。ただしここで僕は、この問題と青い鳥の間に何か関係がありそうな気がしたのだ。直感的に。救い難く直感的に。(そして後に、やはり僅かではあるが入口としての大きな門と青い鳥には関係があったことに僕は気付くことになる)。
「青い鳥を見ませんでしたか?」
「まさか。青い鳥なんているわけがないでしょう」
「そうですか。ならいいんです」
煙草を灰皿に捨てる。
「あなたはこの街を出たいと思いますか?」
煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。救い難く滑らかに。
「思いませんね」
「どうしてですか?」
「正直に言うと、考えてもみなかっただけですよ」
どうしてだろう。
「きっとみんなそうですよね」
門番のリズムの上に門番の言葉がメロディとして乗っているイメージ。
「門番さんは?」
「絶対に出たくありませんね。僕にはわかるんですよ、門番ですからね。時折街を出ようとする奴なんかもいますが、一体何を求めているのか不思議でなりませんね」
「きっと外に出ることを求めているのですよ」
「ええ。そうなんでしょう。きっとね」
そう言うと門番は大きく煙を吐き出した。その時の彼は少し悲しそうな顔をしているようにも見えた。僕はそれを見て彼とはあるいは良い友人になれるかもしれないと思った。
その後、僕は門番から五人組の男(正確には五人組の男と一人の女)の話を聞くことになる。内訳も奇妙なら彼らと彼女の関係はさらに奇妙で、彼女は毎晩五人の男のうちの誰かと寝るのだけれど、男の順番というのは決められているそうなのだ(彼らと彼女の言によれば「太陽によって」)。彼らと彼女はここのところずっと、街を出て行こうと計画しているのだという(昔気象予報士だったというマスターがやっているバーに集って)。そして結局、彼らと彼女は実際にこの街を出て行くことになる(彼らと彼女の言によれば「脱出に成功した」)。さて、彼らと彼女の物語は僕の青い鳥を探す物語とは何の関係もない。ただ、いずれ僕が彼らと彼女の物語を語ることがあるかもしれないのだ。そういうことだ。
話は変わるが、先生の娘はこの一週間ほど体調を崩していて、直近三十七時間はほとんどベッドから起き上がることはなく、ずっと眠っているようだった。先生はとても心配そうだけれど、僕は先生が一体何をそんなに心配しているのか不思議でならなかった。彼女はもしかしたらすごく良い夢を見ているかもしれないのだ。夢の中では彼女の目は見えるのだろうか。救い難く下らない妄想だ。
娘が寝込んでからというもの、先生は引っ切り無しに煙草を吸っていた。先生の書斎に灰皿が二十九個置かれていて、今はその全てが吸殻でいっぱいになって汚れていた。そこにはもう象徴的な意味とか哲学とかいったものが消え失せていた(かつてそれがあったかどうかというのもわからないのだけど)。僕は吸殻でいっぱいになったその二十九個の灰皿を見てすごく悲しい気持ちになった。そういうものなのだ。二十九個の汚れた灰皿は悲しみを乗せてくるのだ。「悲しみを乗せてくる」というのは僕らしくない表現だなと思う。でも二十九個の汚れた灰皿は僕をして慣れない表現をしたい気持ちにさせるのだ。そういうものなのだ
「この街は変わってしまったのかもしれない」
この一言を言い終わるまでの間に先生は三回煙を吐き出した。
「この街が変わってしまったから先生の娘は眠っているのですか?」
この一言を言い終わってから僕は一度大きく煙を吐き出した。
「あるいはね」
「僕にはわかりません」
「私にもわからないよ」
先生の煙草の先端は以前ほど綺麗な円錐ではなくなっている。そして僕は悲しい気持ちになるのだ。円錐形的完全性の喪失が悲しみを乗せてくるのだ。喪失と悲しみは大昔からどうしようもなく結びついているのだ。きっと。
「新しい灰皿でも買って来ましょうか?」
「JAMスキャンダルのせいかもしれん」
「JAMスキャンダルのせいでこの街は変わってしまったのですか?」
「そんなことはないかもしれない。この街は何一つ変わっていないのかもしれん。ただね。スキャンダルに全ての責任を押し付けたいだけなのさ。それで救われていた部分もあったからな。確かにね」
「それはきっと、時の流れに関係があるのですね」
「その通りだ。少なくとも私はそう理解している」
「……」
円錐を見せてほしい。あなたは先生なのだから。僕は先生が好きなのですよ。
「青い鳥は見つかったかい?」
「見つかりませんね」
「ふむ」
「やはり先生の言う通り初めからそんなもの存在しないのかもしれない」
「でもねスル、こうなってみると」
円錐。円錐。円錐。円錐。円錐。円錐。円錐。
「……」
「娘の旦那はね、奇跡が見たいと言っていたんだよ」
*
「旦那さんはどうして奇跡を見たかったのかしら?」
「そればっかりは僕にも先生にも、たぶん娘にもわからないだろうね」
「先生は奇跡の力で娘を目覚めさせたいと思っているの?」
「そうなのかなって僕は思ったけど、でもよくよく考えてみればそんなの先生らしくない気がするね」
「そんな先生でも娘の一大事なら違った風に考えるわよ」
「でも奇跡なんてないんだよ。先生はそれをわかってる。先生だからね」
「存在しないから奇跡なのよね。悲しいけれど」
「悲しいね」
「結局先生の娘は死んでしまうの?」
「僕は知らないんだよ。でも想像するに、死ぬってことはないんじゃないかな」
「どうしてそう思うの?」
「だって悲しいじゃないか」
「でもどうせ人はいつか死ぬのよ」
「もちろん。そう。確かに人はいつか死ぬね」
Ⅴ
青い鳥を巡る僕の物語も残り僅かになった。終局へと続く物語を一体どこから語るべきかというのは悩むところではあるのだけれど、やはりギター男のことから話し始めるべきだろうと思う。ギター男は非常に重要なアクターなのである(青い鳥に関してではなくてこの街の姿に関してという意味ではあるが)。
僕のアパートから街一番の大通りを北に向かってしばらく歩いたところに双子の老婆がやっているホテルがある。そしてそのホテルの前でいつもギター男はギターを弾きながら歌を歌っている。救い難く陳腐な言い方をすればストリートミュージシャンというやつだ。
彼はグレッチのテネシアンというフルアコースティックギターを愛用していて、グレッチの大きなボディとギター男の線の細い身体がすごくアンバランスなのだ(ギター男は身長百七十一センチで体重五十九キロだということだが、もっと細く見える)。
僕は彼の歌を初めて聴いた時、最初は音程のない歌だと思った。でもそれが間違った認識だったことにその後すぐ気付くことになった。重要なのはリズムなのだ。彼の歌はリズムなのだ。そしてグレッチが歌うのだ。きちんとした音程を持って。そして彼の声はとても特徴的なのだ。セクシーなのだ。セクシィ。そして彼の詞もまた特徴的なのだ。不完全なのだ。
そんなわけでギター男の曲は圧倒的に新しかった(そして後に、僕は彼の曲がこの街にすごく似合っていたことに気付く)。グレッチと彼の身体・リズムとしての歌・歌としてのグレッチ・セクシィな声・意味のない詞。不完全性に基づいた完全なのだ。そんなわけで彼の歌は圧倒的に新しいのだ。「不完全性に基づいた完全」なんていう救い難く陳腐な表現をする僕を許してほしい。ギター男の歌を聴けば僕の言いたいことがきっとわかってもらえると思うのだけれど。
そんなことを考えながら僕は双子の老婆のホテルの前まで歩いた。もちろん今日もギター男は歌を歌っている。繊細なのだ。繊細さを押し付けないところが繊細なのだ。
何だかとても似合っているのだ。圧倒的に似合っているのだ。What’s your name?
ギター男の歌を聴いている人間がもう一人いた。彼はマスクをしていてトレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、ギター男の歌をずっと聴いていた。彼はギター男の歌がずいぶん好きなようで、この場所にいることが多いのだ。必ずマスクをしているのだ。
煙草をくわえる。マッチを擦る。煙草に火を点ける。僕の動作とギター男のリズムがきっちり合う。そして僕はマスクをした男の隣に歩いていく。
「僕も彼の歌がけっこう好きなんだ」
「……」
「煙草でも吸うかい?」
案の定、彼は首を横に振った。僕は知っている。彼は煙草を吸わないのだ。僕が知る限りこの街で唯一。彼が煙草を吸わない理由はすごく簡単だ。簡単過ぎて説明する気にもならない。彼の名前を明かせばそれで事足りる。さて、彼の名前は「口なし」という。
「ずっと君に会いに来るべきだと思っていたんだよ。そう。物語の初めからね。もしかしたらもっと早く君に会いに来ていたら良かったのかもしれないんだけど。残念ながら僕は、君がキーパーソンだということにはなかなか気付くことができなかったんだ。ああ。すまない。キーパーソンなんて言い方をするのは良くないかもしれないね。君が悪役みたいなイメージを持たれかねない。悪役とはまた救い難く陳腐な言葉だね。一体悪役ってなんだろう。まあいいや。とにかく君の存在は僕にとって非常に重要なんだ。君はこの街で色々なことと結びついている。いや。結びついているというのも変だな。ごめん。やはりキーパーソンという表現が一番しっくりくるな。救い難く陳腐だけど」
ここで一息ついてから、やっと僕は本題に入るのだ。本題はただ一言。
「さて、僕は青い鳥を手に入れたい」
口なしは心なしか嬉しそうな顔をしたように見えた。そして口なしは北に向かって歩き出した。僕は彼について行く。北へ。北へ。街一番の大通りは消えてなくなる。北へ。北へ。周りに誰もいなくなる。北へ。北へ。僕は彼について行く。
口なしはグロッケンシュピールを取り出す。グロッケンシュピールは重要なアイテムなのだ。
口なしは森の中に入って行く。この街に森があることを僕はこの時初めて知った。そんな僕にはお構いなしで、口なしは森の奥へと入って行く。僕は彼について行く。奥へ。奥へ。口なしはグロッケンシュピールを鳴らす。奥へ。奥へ。僕もフルートでも吹きたい気分。奥へ。奥へ。僕は彼について行く。
二人は森の奥へ消えていく。グロッケンシュピールの響きを残して。
*
「そしてあなたは青い鳥を見つけるのね」
「そうだよ」
「そしてあなたは青い鳥を手に入れるのね」
「そうだよ」
「結局は簡単なことだったのね」
「まあね。でもあの街の中にいるとそれはなかなかに難しい問題なんだ」
「きっとそうなんでしょうね」
「きっとそうなんだ」
「その夢はどんな教訓を与えてくれるのかしら」
「誰も夢に教訓なんて求めやしないよ」
「それもそうね」
「夢は夢だからね」
「口なしはその後どうなるの?」
「それが一番の謎だね」
「キーパーソンだから?」
「救い難く陳腐なね」
「そしてあなたは、あなたというかスルは、スルではなくなるのね」
「そう。よくわかるね」
「けっこう好きなのよ」
「さすがアナウンサーだ」
「どういう意味?」
「ジョークだよ」
「意味のないジョークなのね」
「意味のないことを言うのがジョークの基本だからね」
「ねえ」
「何かな?」
「あなたの言う通り本当に、下らない色をしているのね」
エピローグ
「君が鳥を見つけたことで、この街は何かが変わるかもしれない。君が変わるのかもしれない。何も変わらないかもしれない。そもそも青い鳥がこの街にいること自体が不自然なことであり、それ自体が何らかの変化であることは確かだ。しかし、君は青い鳥を見つけないこともできたわけだ。この街は完全なんだ。不完全という意味で完全だった。完全なものなど存在してはいけないからだ。その意味でこの街は完全な形を保つことができた。私にはわかることはない。ただし、これだけは言える。君は鳥を見つけてはいけなかったんだ」