第一話 はじまり
家を出る時、今日はいつもとは違った。
いつもなら寒いと感じるのに、今日は何も感じなかった。
憂鬱な学校も今日はむしろ晴れやかな気持ちに近かった。たぶん、今日が最後と思えば、そんなくだらないことを考えることはできなかったのだろう。
私は、少し暗くなった放課後の学校の廊下を歩きながらそう思った。
今日は日曜で、この時間は部活も終わって、学校には職員室に詰める当直の先生しかいない。とても静かだ。
廊下をしばらく歩いて行くと、階段にたどり着く。
そして、さらに上っていくと屋上にでた。
この学校、最近にしては珍しく校舎の屋上を開放している上に、鍵もかかっていない。こんなザル警備の学校もそんなにないだろう。
私は、階段をあがりきって、屋上のドアをあけた。
「ほぉ、寒い。」
思わず身震いして声が出る。
冬の夕刻なのだから寒いのは当たり前か。
顔をあげて、屋上の端に歩いていく。
西日が地面をオレンジ色に染めていた。
屋上の端まで来ると、私は柵を掴んで景色を眺め始める。
しばらく眺めていると、ふと、自分の手が震えていることに気がついた。
まさか、ここまで来て怖くなったのか。
心臓の音も聞こえ始めて、頭がもうろうとするのを感じる。
落ち着け、そう自分に言い聞かせた。
「早く、やらないと。」
そう声に出す。
自分の決心が揺らぐ前にやろう
私はその場で着ていたコートを脱いで、鞄を下す。
そして、しゃがんで鞄の中から白い封筒を取り出した。
とりだすその手も震えている。
手紙の封筒の上に水滴が落ち、中の手紙が透けて見えた。
しゃがんだまま白い封筒を見つめていると、遠くから市庁舎の上から流れる鐘の曲が聞こえてきた。
顔を上げて深呼吸をし、鞄を置いた横に封筒を置くと、勢いよく柵をつかんで立ち上がる。
胸は強く締め付けられていて痛かった。でも、体が重いようには感じなかった。
しゃがんでいたので足が少ししびれていたが、最後の感覚だと思うと可愛く思えた。
柵を乗り越えると、後ろでに手すりを握ったまま、屋上の縁に立つ。
下を見ると、少し足がすくむ。
ここは四階ぐらいのはずだが、ずっと続く底のない暗い穴があるよだった。
「はあ。」
私は深呼吸をして、一旦上を向く。
見上げた空には細くばった月が白く光っていた。
私はもう一度深呼吸をして下を見ないように前を向きなおす。
すると、頬を温かい線があごに向かって伝い始めたのを感じた。その量はだんだん増えていき、気づけば
私は泣きじゃくっていた。
だめだよ、私。そんな顔じゃ。
お父さんが私を見てもっと悲しんじゃう。
目元を何度もこすりながらそう思った。
これではだめだ。落ち着こう。
私は目をつぶって三回また大きく深呼吸をする。
そして、頬の口角を頑張って上げた。
涙が乾いて動かしにくい。
腕を目にもっていって涙をぬぐう。
もう一度、深呼吸をする。
すると、なぜだろうか、特にもう怖くは感じない。
自分の心臓の音だけが静かに響いている。
もう私は何もこわくない。全て向こうで受け止めてくれる。
また、水滴が私の頬を伝っていた。
ただ、今度はこれ一つだけだった。
もう一度、下を見てみる。
今度は、さっきとは反対に、下までが近く感じる。
私はゆっくりと静かに目をつぶった。
一瞬周りが静かになる。
お父さんお母さん、ごめんね。自分勝手でごめんね。
私はそう心の中でつぶやいた。
そして、パッと柵から手を放した。
私は風に身を任せる。
風切り音が耳をついばむ。
重力とその音から落ちていると感じる。
私は30秒ぐらいだろうか、そのぐらい長く落ちているように感じた。
すると、一瞬足に何かがあたった。
それと同時に、目をつむっていた時の闇の世界から一瞬で真っ白な世界が見えた。
真っ白な世界のまぶしさからなのか、ぼんやりとする。
そして、すぐにその世界の白銀の光の中に深く、深く沈んでいった。
ーーーー
私はなんだかふわふわとしたような、ぼんやりとした白い世界の中で寝転がっていた。
ここは暑くもなく寒くもなく、ずっと眠っていられる。
ずっとここにいたい、ここで一生過ごしていたい。
少し気を許すと、そんな風に思ってしまう。
でも、それでもいいかもしれない。
ずっとこうやって眠っている方が幸せだ。
あれ、逆にどうして寝てはいけないのだろうか。
どうして私はこんなふうにこの世界に抵抗しているのだろうか。
私はふとそう思った。
何もそんな理由はないじゃないか。
こんなに心地よい世界でずっといられるのならば、幸せでいいじゃない。
そう考え始めると、なんだか本当のことに気づいた気がして、胸が楽になった。
私はすべてを床に任せて半目だった目を完全に閉じた。
床はまるで床暖房のごとく温かい。
ああ、幸せだ。
目を閉じると、黒い中に白や青や赤なんかのいろんな色が星のようにちらついている。
私の意識がだんだんと遠のく中で、かすかに声がするような気がした。
「こいつは死んだのか。」
「いえ、まだ死んでおりません。ですので天上です。」
死んだ? そうなのか。まあ、もうどうでもいい。この際死んだなら死んだでもいい。この沼にずっと埋まって居よう。
他にも何か言っていたような気がするが、あとは何も頭には入ってこない。
まあ、どうでもいいや。
再び、私は
無意識の中に深く沈んでいった。