毒親
私の名前は照井美嘉、26歳です。私の母親は毒親と呼ばれる人間です。父親は私が幼少の頃に、私の教育方針で揉めて離婚したと聞いています。私が父親のことを細かく尋ねると母は不機嫌となり口をきいてくれなくなり食事も数日の間貧相なものになります。
保育園の頃から休日は教会のような15人程しか入れない場所に連れていかれて、一日中その楽しくない場所に居させられます。保育園の友達の恵里香ちゃんが同じ集会に来ていたので、一緒に話をできたり、隅で遊んだりできていたのですが小学校入学のタイミングで母に
「あの家族なら引っ越した」
と言われ、以降は唯一の友人であった恵里香ちゃんに会えていません。
小学校に入学し、100点のテストを母に見せますが母は笑いません。母が微笑むのは宗教に関しての肯定的な発言をした時だけ。基本的には常にイライラしており、母を怒らせないよう顔色を常に窺っていました。私も小学校の同級生から
「何を考えているか分からない」「笑っているところを見ないよね」
と言われますが、私は顔の表情や力の入れ方がよく分かりません。人との関わりがうまくいかずにずっと一人でした。家にTVもネット環境も無いので友人と共通の話題が無いということもありました。
中学校では母から部活動に通うことが許されていませんでした。中学1年の時に担任の先生が家庭訪問で、
「部活は義務ではありませんが、全校生徒何かしらに所属していますので是非美嘉さんも…」
と言ってくれましたが母は怒鳴り散らして担任を追い返してしまいました。
家ではやることが無いので勉強をしており学力は高い状態を保てていましたが、私の小中学校9年間は母を避ける無音の家、友人のいない学校、土日の騒々しい集まりだけでした。
高校進学は母に反対されましたが、家で24時間いることは耐えられなかったので、何とか説得し通えることに。
・母に一切の迷惑をかけないこと
・土日の礼拝は必ず全行程を出席すること
という条件を出され部活は断念せざるをえませんでしたが、既に趣味の一環となっていた学業を続けられるのは大きな喜びでした。母の顔色を伺う日常は変わりません。高校1年の時に土日の礼拝をサボってみたことがありました。母は烈火の如く怒り出し、高校の退学届けを書けと詰めてきました。私は泣きに泣いてそれだけは阻止できましたが、母は私のウィークポイントである高校への通学の権利を握っています。礼拝をサボるメリットとデメリットが全く釣り合っていませんでした。それ以降、私は母の指示に従いそれが生活において楽しくは無いながら、楽であったのです。高校の先生には
「この学力だったらどの大学でも行けるのになぁ…」
と、惜しまれましたが大学進学や一人暮らしの提案すら母にする気力はもうありませんでした。そして、私はただ高校を卒業したのです。
それから私は母や宗教団体の勧めで、宗教勧誘の仕事を任されることになりました。私と22歳、38歳の女性3人でワンボックスに乗り、ひたすら各地を回らされます。女性だけだと相手に警戒され辛いからだそうです。服装は白装束で統一…、といった宗教活動を全面に出すことは無く、ある程度オシャレである事を要求されたぐらいです。1戸1戸訪問し、世間話から入り、仲良くなることを優先させ、サークル活動のようなノリで集会への参加を約束していきます。
渡されている資金はギリギリでお風呂は3日に1回、食事も1日1回です。眠るのは車の中なので体中がちがちです。アルバイトですら禁止されているのに、清掃やゴミ拾いといったボランティア活動には参加させられ、地域住民と仲良くなることを強いられています。
4年程は勧誘を中心に活動していたと思います。先輩の2人の女性はその間、この宗教に不満があると言った発言は一切していませんでした。本当に不満が無いのか、告げ口を恐れたのかは今となってはもうどうでも良い話です。私も不満を抱えつつ漏らしてはいないのですから。
その後に私は頭の良さを買われ、経営や経理の仕事の一部も任されるようになりました。宗教法人による節税の仕組みや、勧誘した人の頭数をスムーズにお金に代えるシステムに関しては何も思いませんでした。4年の勧誘活動の中でそうであろうと既に当たりがあったからです。
転機となったのは経理の仕事の一環で過去の資料を探していた時でした。その日、朝から夜まで勧誘の仕事を行ない、20:00過ぎに事務所に帰り、そこから経理の事務仕事をします。そして時刻はすでに深夜の23:30。事務所には誰もいません。資料を探していましたが聞く相手もいないので棚を色々と漁っていると、いつもは鍵がかかっている棚が開いており閲覧が可能でした。監視カメラのようなものも無さそうであったので、ファイリングされた資料をぺらぺらとめくっていると、その宗教団体の暗部が見られました。
「人の頭数をお金に、どころか命をお金に変えるようなことまでやってるのね。」
無感情にぺらぺらとめくっていましたが、あるページで手が止まりました。それは私が保育園の時に仲が良かった唯一の友達の恵里香ちゃんとその両親がその宗教団体の手にかかって殺されていたことが分かりました。
脱会したい。
たったそれだけの事で。地図が添えられていて、山奥のある地点に×印がついています。私は事務所倉庫にスコップとライトがあったことを思い出し、それらを持って×印の地点へ向かいました。その付近に来てから1時間程かけ探し出しその×印の地点を掘ります。15分程掘ったところで白骨が出てきました。
小学校の頃に孤独を知ったのは保育園の頃に恵里香ちゃんという存在がいたからでしょう。その時分に何度も何度も
「恵里香ちゃんは今、何をしてるんだろう?」
「別の小学校で友達できたかなぁ」
と一人で考えていました。
しかし両親も共に殺され、こんな山の奥で埋められていたなんて…。私も幼少から理不尽の波に翻弄され続けていた人間です。思った通りに物事が進まないなんて当たり前。幸せの十倍は不幸がある。…でも、まだろくに人生を経験していない恵里香ちゃんを殺す団体。私がのうのうと考えなく成人し、その宗教団体の手伝いをしていることが急に馬鹿馬鹿しくなりました。
「もしかしてこのスコップは埋めたスコップでもあるのかな。」
父ももしかして、と頭をよぎりましたが、私はもう一度あの事務所に戻り徹底的に調べる必要なんてありません。
私の中の何かが壊れた、私の中のどこかのスイッチが押された、表現は分かりませんが生まれて初めて猛烈にある激情が突き上げてきたのです。
私は計画を練りました。最初の1人目は母。これは譲れません。あなたが一番底だ。私は母に色々と尋ねました。恵里香ちゃんの事を知っていたのか。父も同様に手をかけたのか。母も他の殺人に直接なり間接なり関与していたのか。母は何も答えず、私に絞め殺されました。私は母に質問をしましたが答えに大して興味があった訳ではありません。結果は同じなのですから。死体は教団の手口同様に発覚しないように山の中です。それから同僚に対し
帰り道に偶然を装って合流し、車で人気の無い場所に向かい殺害。山に捨てに行きます。
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ろくに働いてもいない、身内もいない人物が失踪しても捜索届が出されたりするような大事にはなりませんが、さすがに団体の中で連絡が取れない人物が複数出ているので警戒を促すようになっていきます。私も母が失踪している事や、別の同僚のことを知っていないかと聞かれますがしらばっくれます。
彼らは自身が捕食者側だと思っているからか、警戒心が緩く、私の事を母が失踪して不憫な娘だと思っています。私がその時点で一番若い女性であるということも幸いしたのでしょう。男に至っては鼻の下を伸ばして私の誘いに乗ってきました。そして私の不幸の一部を食らい土の中に納まったのです。
帰り道に襲った理由は、夜であることもあるのですが、私が学生時代に最も惨めだったのは帰り道だったからです。周りの皆が部活動をしていて、掛け声や吹奏楽の楽器の音があちこちで聞こえる中で私は一人で帰っていました。私の惨めな日々を塗りつぶすかのように私は教団の人間を帰り道に襲い殺していったのでした。
一時難航するかと思われた宗教団体の解体という名の粛清と再建を完遂させ現在に至ります。続けてきた積極的なボランティア活動が地域での私の顔を売っており再建を後押ししました。この宗教団体の機構を乗っ取り、いくつかの良からぬパイプを残しつつ私のための宗教団体として運営を引き継いています。40年もすれば前団体の全員が私の年下になるので今から楽しみです。
私の母の毒は私に濃縮されより濃く暗く深く。信教の自由と理不尽は私のものであっても構わないのですから。