旅…それは歌 驚きの連続 光輝く感情 VIII
2つ目の部屋。
順番に尋ねることにした私は、フールさんの部屋の斜め向かいのドアをノックした。
だが返事がなくて、でも鍵が空いていたのでゆっくり開ける。
入ってみると
スー、スー
ハンモックでティブさんが寝ている。クッションとたたんである毛布をお腹に乗せ、寝ている顔を隠すためか、帽子を顔に乗っけている。
流石に起こすのも躊躇われるので、先に別の部屋を訪ねることにした。
そしてドアを閉めようとした時だった。
「来たね」
「へっ……」
驚いて変な声が漏れる。もう一度ドアを開くと、片手で帽子をあげたティブさんがこちらを見ていた。
「すみません、私、起こしてしまったようで……」
ティブさんはハンモックに座り、帽子をかぶり直す。
「別に寝てなかったから大丈夫だよ。入んなよ。みんなの部屋、回ってるんでしょ?」
「はっはい」
は、話が早い。眼鏡をかけてて知的そうな雰囲気をまとっているティブさん。それはあながち間違ってはいないかも知れない。
部屋に入ると、まず目に入ったのは大きなピアノだった。
黒いピアノ。
窓からの光を浴び、黒い肌に空の様子が写っている。白いカーテンがひらひらと舞い、窓が開いているのがわかった。
本棚がたくさんあり、大きな本がぎっしり並んでいる。近寄ってみると、どの背表紙にもアルファベットが書いてある。
よ、読めない……。
「アップルティーでもいいかい?」
ティブさんがポットを持っている。
「あ、はい!ありがとうございます!」
ありがたい……。
「ハノン、ブルグミュラー、ソナチネ、ショパンにベートーベン……」
「な、なんで読めるの?」
「え?だってこれ、有名な音楽家とか有名なピアノの楽譜とかばっかりだよ」
彼女は当たり前のように言う。つくづく何者……いや、何ウサギかと思う。
「へぇー、よく知ってるね。その辺は最近全く弾いてないなぁ」
「ピアノ、お好きなんですね」
「まぁね。でも今は、ラヴの作った今日の方が記憶に新しいかな」
そう言いつつ、ティブさんは嬉しそうだった。
ラヴさんの作った曲。昨日も少しだけ聞いたけれど、改めていろんな曲を聴いてみたいな。
「はい、悪いけどあそこの椅子で我慢してもらってもいい?」
そう言ってティブさんが指したのは三脚の椅子とテーブルで、花瓶に一つの花が差して置いてあった。お茶を飲むのには十分なくらいに快適だ。
「ティブさんは?」
「僕にはハンモックがあるから。ホラ、冷めちゃうよ」
促されるまま、私は椅子に座る。彼女はテーブルに降り立つと、一口頂戴、と言った。
私はうなずくと、少し大きいサイズであるコップを頼らない手でなんとか持ち、一口すすろうとする。
だが、ふと彼女の耳がピンと上に上がり、毛という毛が逆立った。
「あっちぃぃぃぃやけどしたぁーー」
「気をつけなよ、熱いの分かってたでしょ?」
「むぅ〜〜〜〜」
ふと、ティブさんは小さく笑った。片手をグーにしてさ口元を押さえて。
眼鏡の奥の目が優しく微笑んだ。
「仲がいいんだね」
私も彼女もすぐに返事ができなかった。
え……仲がいいって言うのだろうか。
思わず顔を見合わせる私たちを見て、ティブさんは笑った。
「あははっ、わかった、いいよ。答えなくても。それより、何か用があってここに来たんだろ?」
「あっ、えっと、えぇーっと」
用と言っても急な用事とか、何にもないんだが??
どう話を繋げたらいいか迷っていると、突然思い出した。
あの幻想的で、静かな森で演奏していた楽器。
小さなピアノみたいな楽器。この人の相棒は誰なんだろう。
私は思い切って聞く。
「あっあのっ、昨日演奏していたのってピアノじゃないですよね?さっき部屋にお邪魔したフールさんには、ベースがあって、ベースのことを相棒っておっしゃってたんです。
だからティブさんにも、相棒はいるのかなって…」
「あぁ。フールのやつ、相変わらずだな。ん〜そうだなぁ……」
そう言うと、ティブさんはコップを置き、大きなピアノへと向かう。
椅子を引き、ピアノの前に座る。ガタンとフタを開ける音がして、鍵盤にかけてある細長い布を膝にかけた。
白くて美しい鍵盤が見える。
ティブさんは目を閉じた。そして大きく息を吸い、吐く。
鍵盤に手を添え、スッと息を吸い、そっと体重をかける。
一滴の水滴がストンと落ちたような音。波紋が広がり、私の中まで染み渡る。
一音一音が身体中で響き、音に包まれる。
静かな夜だった。空には星がなく、大きな月だけが、白く、輝いている。
足元を見れば、鏡のように全て写っている。
月の光がやさしく降り注いでいる。
切なくて、でも悲しさは感じなくて、幻想的な、そんな世界に私はいる。
ピアノを弾くティブさんは、全身で音を感じるようにゆるやかに揺れている。ピアノとひとつになったかのように。
やっぱり、ティブさんにも、相棒がいる。
そう思い込んだ。
最後の一音。ペダルを踏む足がゆっくりと戻る。
世界は午後の風通しの良い部屋に戻る。
拍手をするのも忘れて、感動の余韻に浸っていた。私はティブさんの声で我に帰る。
「僕は、7つの時からピアノをしているんだ一度もやめたことはなかった。いくつもの曲を弾いてきた中で、一番弾いていたのが、この曲なんだ。
『月の光』
僕のうちは、一家で音楽好きでね、みんなからリクエストされた曲をよく弾いては喜んでもらって……褒められるととても嬉しかったけれど、当時の僕はどうして満足できなくてね。
僕の、僕にとっての、人生となるような曲が欲しくなった。そんなの、生きていくなかで、長い年月の中で見つけるものなのにね。
それで見つけて、一気に気に入っちゃったのがこの曲。
それが一つの転機かな。僕は人が変わったようにますます音楽に貪欲になっちゃって。ピアノ以外の楽器にも手を出し始めた。
もちろん、ピアノも弾いていたよ。
でも、明らかにピアノに触れる時間は減っていた」
別に、良いのではないかと思った。貪欲になる程夢中になれるものなんて、そう簡単に見つけられるものじゃない。
特技が色々あることは良いことなのではないだろうか。
何かを口に出したかった。言葉を。だけど、開いた口から出てきた言葉はなかった。
「あんまり、うまくないだろう?かなり久々に弾いたものだから」
「いえ、そんなことは!」
ティブさんはふわっとやさしく微笑んだ。やさしくあたたかいそよかぜが通り過ぎた。
「ティブさんにも、相棒がいるんですね。なんだか、憧れます」
唐突に思ったことを何も考えずに口にした。だがすぐに後悔した。
ティブさんはうつむいて、悲しそうに笑ったから。
ティブさんは立ち上がり、布を元どおりにかけ、鍵盤にフタをする。
カタンという音が妙に響いたような気がした。
どうしよう、何か失礼なことを言ってしまったのかもしれない。
とても不安になった。思わず立ち上がろうとすると、ティブさんが手で制した。
そして、愛おしそうにピアノに片手をやさしく置く。
そのとき、小さな光の粒とともに、
ピアノが消えてしまった。
「……ッ!」
「このピアノは、僕のイメージ」
「え……」
「僕は相棒を、おいてきてしまったんだ」




