Ouverture
視神経が切れる音と同時に、彼女の悲鳴が部屋にこだまする。
まるで蜜柑の皮をめくる時のような爽快感がスプーンを伝い、指に響く。
…こんな感覚なのか。
新発見だな。
…ベチャ
顔からぶら下がった眼球が、自重と彼女の抵抗で情けなく落ちた。
「あっ、…ああっ、…い、いやぁ!」
片目を閉じる彼女は床に落ちた眼球と目を合わせ劈くような悲鳴をあげる。
「煩いな」
喉に指を入れ、口を塞ぐ。
…噛み千切る力はないようだ。
「おごっ、…うっ、お、おぇぇぇ」
…ビチャビチャ
彼女がほとんど胃液だけを吐き出す。
「声帯って届かないのかな?」
指を伸ばすが、イマイチ触れてる気がしない。
「…おぇっ」
また吐いた。
喉の蠕動運動で指を押し返されるがお構いなしに抉る。
彼女の顔はグチャグチャだ。
右目からは血が、左目からは涙がとめどなく出ているし、鼻と口からは吐瀉物が垂れている。
「笑って。美人が台無しだよ」
指を引き抜き、咽ている彼女に言う。
「…いやっ、…殺さないで」
泣きながら懇願する彼女は、自分の探求心を煽る。
「大丈夫、貴女が勝手に死なない限り、生き続けるよ」
彼女を悪戯に殺す気なんてないのだから。
部屋の隅にあるペンチを拾う。
…取り合えず、歯は抜いておこう。
彼女には必要ないだろうし。
前回はそれで失敗したからなぁ。
「じゃあ、出席を取るぞー。相田ー」
「はい」
「伊藤ー」
「…はい」
「上田ー」
…
…ポン
…?
「おい、居るなら返事をしろ。なにボーっとしてるんだ?」
ふと我に返ると、日誌を持った先生が仁王立ちしていた。
昨日の夜を思い出し、うわの空だった。
…先生に日誌で頭を叩かれたのか。
「…すみません」
「…なんだ?恋煩いか?先生が相談に乗ってやろうか?」
先生の軽口に、クラスメートがクスクス笑う。
「寝不足で」
これは本当だ。
「それは恋煩いじゃないか。…しっかりしろよー」
先生は教卓に戻る。
フレンドリーで、分け隔てないのは構わないが、人を選んで欲しいな…
「あぁ、それと」
先生がこちらを見て呼びかける。
「お前、放課後に職員室に来いよー」
…何事だろう?
分からない。
返事もせず、首を縦に振る。
「よし。次は…田辺ー」
「よう。…今日もぎりぎりだな。それに眠そうだし。…恋煩いか?」
一限開始までの間、隣の斎藤がニヤつきながら話しかけてきた。
「だから違うって。…単純に眠れなかっただけ」
斎藤は馴れ馴れしい奴だ。
入学初日から馴れ馴れしくプライベートに踏み込んでくるし、デリカシーもない。
その癖、頭が良くて、勘も鋭い。
…しかも趣味が悪いときた。
「なんだ?いいアダルトサイトでも見つけたのか?」
…やはりデリカシーがない。
前の席の女子が蔑んだ目でこちらを見る。
…こっちは被害者だってのに。
「まぁね。それよりもう授業が始まるよ」
なぜこんな奴と仲良くなってしまったのか…
人生最大の汚点だ。
…まぁ、面白くはあるけどね。
この高校は偏差値も高くなければ取り上げるものもない、つまらないところだ。
駅から近いだけが取り柄のなんの変哲もないところ。
世の中には孤児を育て、有名企業や官僚、医者やパイロットを選出するような教育機関もあるのに、この高校は学費が安いだけの平凡なところ。
…つまらないな。
でも、夢を叶えるためには肩書が必要だ。
自分のニーズにはあっているため通ってはいるが、退屈は理屈では紛れない。
…何で日本社会はこんなつまらないシステムなんだろう?
皆、文句を言わないのかな?
…まさか、これが楽しいなんて思ってないだろうな?
だとしたら、きっと自分は分かり合えない。
「お前、放課後はどうする?」
カップラーメンのかやくを入れながら斎藤が尋ねてきた。
斎藤は相変わらず、意味の分からない同好会の誘いをしてくる。
…モノポリー同好会ってなんだよ。
今時、そんなのやってるやついるのか?
「先生に呼ばれてる。今日も無理」
「お前、最近付き合い悪いよな」
「どうせ、教室に行ってもモノポリーなんてしたことないじゃん」
ルールも知らないし…
もう1年以上滞在しているが、新品のボードが置いてあるだけで使ったことがない。
「そんなことをやるために作ったわけじゃないからな」
…プライベートルームが欲しかったからって、よくそんな行動力があるな。
「どうせ呼び出しも、すぐに終わるだろ。終わったら来いよ!」
…あまり行動を変化させると怪しまれそうだな。
「分かったよ。遅くなっても文句言うなよ」
「あぁ!」
菓子パンの包装を捨て、教室に戻る。
放課後になり職員室の扉を開ける。
…呼び出された理由は何となく予想がつく。
早めに片付けて、斎藤の待つ教室に行こう。
…アイツは人目をはばかれば付き合いを続けたい奴だし。
「…おっ、来たかー」
奥の机に座る担任の先生が手招きをしながら出迎えた。
先生は人当たりのいい人だが、馴れ馴れしい。
クラスメイトや他の教員にも人気の高い人で、素敵な笑顔が売りの28歳。
…そんな彼が今は真剣な面持ちだ。
「何で呼び出したか分かるか?」
…回りくどいなぁ。
「…進路のことですよね」
先生の机の上には、進路調査票と書かれた紙が一枚。
それの第一希望の欄には『音大 音楽科』の文字。
「…お前、本気か?」
足を組み、「信じられん」と呟く。
「はい」
教員って言うのは、他人の将来に無責任に口を出せる職業なのだろうか…
「お前、吹奏楽か合唱部だったっけ?」
答えの分かっている質問をしてくる。
「いいえ」
だから回りくどいんだよ。
「選択授業で音楽を取ってたか?」
「取ってません」
…美術、楽しかったな。
「普通科ではなくて?」
「音大の音楽科です」
そう書いてあるだろうが。
見えないのか?
「音大の倍率を知っているのか?」
「入学試験も知っています」
先生の顔が歪む。
「…お前の家庭事情は知っている。私大でもいいんじゃないか?」
「音大って書かれてません?」
よく見ろ。
「…分かった。俺はもう何も言わん。…頑張れよ」
先生はため息をついて手を払った。
モノポリー同好会の教室には、週刊誌を読む斎藤がいた。
…そう言えば今日は月曜日だったな。
「おう。進路指導、どうだった?」
斎藤が遠慮なしに尋ねる。
「進路指導で呼ばれたって言ったっけ?」
「やっぱりそうだったか」
…どうやら鎌をかけられたようだな。
コイツはこの手の対話が上手い。
「お前はなんて書いたんだよ?」
斎藤が訪ねてきた。
「…音大だよ」
隠しても仕方のないことだし、素直に言おう。
「そうか、面白そうなところだな」
斎藤には引っ掛かるところがないようで適当に流す。
「お前はなんて書いたの?」
「行かない。俺にはプランがあるからな」
あの夢見がちなヤツか。
…でも。
「それを実現させるとしても、肩書は必要でしょ?」
「肩書なんて、無能が自分の力を誇示するときに必要なものなんだよ。俺にはいらないね」
…まぁ、そうだろうな。
「それよりお前、知ってるか?隣のクラスの乾が行方不明らしいぜ」
…やっぱりその話か。
「知ってるよ。合唱部のでしょ?」
「あぁ。これで県で3人目だ。やっぱり犯人は県民で間違いないんじゃないか?」
…当たってるよ。
「まだ確定ではないだろうけど、可能性は高いと思う」
斎藤は机の上のモノポリーを隅に投げ捨て、テーブルに模造紙を広げた。
模造紙には市内の地図と走り書きのメモ、赤丸が書かれている。
「行方不明者は皆、若い女性で美人だ。犯人は男ってところも確定だと思う。遺体も見つかってないし、被害者はまだ生きている可能性があるな」
斎藤は意気揚々とプロファイリングする。
「同性愛者って可能性もあるよ」
「あるだろうな。…でもそれを言い出したらきりがない。今ある情報で犯人像を思い浮かべる場合、可能性の高い選択をした方が合理的だ。盲信はしないが網羅もしない。…どこかおかしいところがあるか?」
…刑事になればいいのに。
「ないよ。他に分かっている情報はあるの?」
「ねーよ。それを今から調査しに行くんだろ?」
…初耳なんだけど。
斎藤は荷物をまとめ鍵を握る。
「ほら。置いていくぞ。ワトソン君」
部室棟を離れた先、音楽棟にある合唱部の部室に着いた。
ここら辺は吹奏楽部や軽音部など、音楽関連の部活が密集している。
楽器の音や歌声がうるさいと苦情が入り、こんな校舎の離れに詰め込まれているのだとか…
こんな環境じゃあ、演奏技術なんて磨けないだろうに…
「すいませーん!誰かいませんかー?」
合唱部の扉を斎藤が叩と、中から返事が聞こえ、1人の女子が出てきた。
小太りでいかにも合唱部って感じだな…
「…誰?入部希望の人?歓迎するよ」
彼女は口早に人の話を聞かずにまくしたてた。
「あれっ?D組の猿飛さん?君も合唱部なんだ?」
斎藤が社交的な笑みを浮かべる。
「…誰だっけ?」
猿飛が眉をひそめながら尋ね返す。
「E組の斎藤」
「E組の…。あぁ、君があの斎藤君ね…」
猿飛はそう言いながらこちらを睨む。
やっぱり、悪目立ちしているな。
「実は聞きたいことがあって…。猿飛さん、今時間大丈夫かな?」
斎藤は手を合わせてお願いする。
「…えぇ、少しだけなら」
猿飛の頬は赤らんでいた。
部室の中は机と椅子、部員の荷物などが乱雑に置かれてあり、散らかっていた。
合唱部は一名を除き部員全員が女子で、男子の目がない。
…所詮、女なんて見えるところでしか努力しないんだろうな。
「…それで、話って?」
椅子に座った猿飛は平常心を取り戻したようで、冷静な面持ちで尋ねた。
「合唱部の乾さんについて。最近、学校に来てないそうなんだ。…確か猿飛さんも同じクラスだったよね?彼女、なんか変わったところなかった?」
斎藤は前置きもなく直ぐ本題に入ると、猿飛は目に見えて不機嫌になった。
…コイツは勘がいいくせに、こういうところには気が回らない。
「…君、美穂とはどういう関係?」
猿飛は露骨に訝しんでいる。
「…ん?別に知り合いでも何でもないよ。ただ、心配なだけだ」
よくもこう嘘が言えるな…
「…ふーん、そう」
猿飛はあからさまに不満そうに同意するが、きっとその考えは見当違いだ。
斎藤はただの興味本位で探っているだけなんだから。
「それでどう?教えてくれる?」
斎藤は猿飛に顔を近づけ、純粋さで威圧する。
「…はぁ」
猿飛は深い溜息をつき、頷いた。
「最近の乾さんはどう?具合とかは悪くなかった?」
斎藤が事情聴取を始めた。
まずは体調を聞いて、事件性がないこと確認している。
…実際は事件性があることを願っての質問だろうが。
「…別にそんな様子はなかったと思うけど。…二日くらい体調が悪いことなんてよくあることじゃない?」
心配し過ぎよ、と猿飛は続けて言う。
「そうなんだけどさ…。…実は先生から聞いたんだけど、乾さんは行方不明らしいんだよね。親にも連絡してないらしいし…。猿飛さんは何か知らない?最近、思い悩んでいたとか…」
斎藤は神妙な様子で猿飛に告げる。
「…そうなの?」
猿飛は何も知らないような素振りだな。
「そうらしい。…あまり他言しないで欲しいんだけどね。乾さんは何か知らない?どこか思い悩んでいたとか…」
斎藤は徐々に本題に入る。
「…美穂はあまり他の人と仲良くなるタイプじゃなかったからね。…普通に話したりはするんだけど、どこか心を開いていないというか、そんな感じ。私もあまり私生活は知らないわ」
猿飛は手を組んで考えながら答える。
…まぁ、そうだろうな。
「そっか。…じゃあ、誰かと揉めてたこととかってない?ほら、恋愛絡みとか…」
「…聞かないわね。別に誰かと言い争うタイプでもなかったから。事件に巻き込まれたわけではないと思うわ」
猿飛の希望的観測を述べる。
…まぁ、的外れなんだけど。
「きっと、明日には学校に来るよね」
斎藤はその言葉を皮切りに、一礼して部室をあとにした。
「…お前なぁ、もう少し愛想よくしろよな」
斎藤が部室の外で苦言を呈す。
…無茶言うなよ。
「しようとしたさ。でも、猿飛がずっとこちらを睨んでいてその気が失せた。なんだあの態度」
最初はあんな感じよさそうだったのに…
斎藤が乾に興味を示した途端、不機嫌になりやがって。
「あれはお前が一言も喋らずムスッとしてるからだろ。もう少し俺を見習え」
斎藤がふんぞり返る。
…それもそうだが。
きっと、コイツは一生気が付かないんだろうな。
「お前はいつか、女で苦労しそうだな」
…コイツは無駄にモテるしな。
「ん?俺は女に苦労したことはないぞ?」
「…」
お互い無言になる。
…だからだよ。
…疲れたな。
今日は寝不足だったし、斎藤の聞き込みも骨が折れた。
やっぱり、アイツの思いつきには付き合わない方が良かったか…
しかも今回は、自分の首を絞める行為だしな。
夕焼け空を見上げる。
…まぁ、いいか。
面白いし。
家にはもっと面白いものがある。
前々回は、手慣れないことをして殺してしまった。
前回は、油断して自殺。
でも、次こそ…
歩幅が広がる。
「…ただいま。乾さん、元気にしてた?」
扉を開けると、部屋に充満していた悪臭が鼻孔を突いた。
…うっ。
彼女の肛門から抜け落ちたダクトの近くには、糞尿がある。
…尿道に刺したカテーテルは繋がってるな。
「やっぱり、固定した方が良かったかな?」
椅子に拘束された乾に向かってと追いかける。
…返事がない。
まだ生きているはずなのに。
「ねぇ、どう?」
片耳にナイフを入れる。
「ふぁっ、…やえてっ!」
…?
「なんて言ってるの?しっかり喋って」
「ふぁあら!、やえてって!」
…やめて?
あぁ、そうか…
「歯がないと話しづらい?」
彼女は大げさに首を縦に振る。
…面倒なことになったな。
「それじゃあ歌うこともできなさそう?」
質問する。
彼女は怯えながら頷いた。
…やっちゃったよ。
…。
「まぁ、いいか。他に用途があるだろうし」
切り替えよう。
次に失敗しなければいい。
彼女を見る。
…仄かに甘い香りと強烈な異臭を放っている。
「取り敢えず、肥溜めにされるのは適わない。次はダクトが外れないようにしないと」
ロープでいけるものかなぁ。
まぁ、固定できなければ釘でもを打てばいいか。
下準備を仕上げ、寝室に戻る。
…彼女はだいぶ衰弱していた。
そろそろ仕上げないといけないなぁ。
…でも、少し楽しみたいし。
…そうだなぁ。
「まずはピアノだな」
金曜日に作ろうかな。
火曜日の放課後は普段なら斎藤は部室に現れない。
それが今、部室の机に向かい広げた地図を見下ろし、眉をひそめている。
…よっぽどこの事件にご執心らしい。
「…今日は火曜日じゃなかった?」
分かり切った質問をする。
「お前こそ、最近は忙しそうだったけど来たんだな」
斎藤は質問に答えることなく尋ねる。
「あぁ。どこかの高校生探偵気取りが熱心なんでね。手伝いに来てやったんだ」
ほっておくと真犯人を突き止めそうだし。
「あんな小さくなるような間抜けと一緒にするな。それに善意でやっているわけじゃない。単純に面白そうだからやってるんだ。乾が死んでいようが、クラスメイトが攫われようが俺には関係ない」
…コイツは人の心がないのか?
「助手が攫われたら助けてくれるんだろうな?」
じゃなきゃボイコットを起こすぞ。
「助ける努力はしてやる。貴重な労働力だからな」
…じゃあ新しい労働力ができたらどうなるんだよ。
無慈悲に見捨てられるのか?
どういう育てられ方をしたんだコイツは。
「…はぁ」
溜息が漏れる。
「…それで、どこまで分かったんだ?」
斎藤に現状を聞く。
「1人目の被害者は24歳女性、A市の教職員。5月10日金曜日の20時頃、仕事終わりの帰宅中に行方不明になったと予測されている。13日の月曜日に出勤してこなかった被害者を不審に思い、連絡を入れたところで事件が発覚した。親元や友人も所在は知らないらしく、手紙や遺書も見当たっていない。就職の関係で元恋人といざこざがあったらしく、警察は現在、重要参考人として元恋人を探っている。また、被害者の帰路に彼女の血痕らしきものがあり、鑑定の結果を待っているらしい。
2人目の被害者は19歳女性、B市の学生。5月24日金曜日の23時頃、サークルの飲み会終わりに友人が家に送り、それから行方不明となっている。被害者は独り暮らしで、日曜日、恋人が彼女の部屋に訪れた際、窓ガラスが割れていて彼女が不在であったことから事件が発覚した。彼女も1人目同様、行方をくらます蔭がなく、家には犯人と思われる足跡を発見し、まとまった金銭がなくなっていたことから、強盗と誘拐の線で操作を進めている。
3人目はお前も知っているだろうが、2年D組の乾美穂。犯行時刻は6月15日土曜日から月曜の朝にかけてと見られている。土曜日の朝に合唱部の練習を休むとの連絡が入っており、その後数回やり取りをした後に音信不通だそうだ。乾も高校から独り暮らしで明確な犯行時刻を絞れていないそうだ。だが彼女に至っては、家庭環境や学校生活に不和があり、失踪や自殺も線に入れている」
斎藤は調べてきたことスラスラと述べる。
…全部覚えているらしいな。
「どこから仕入れてくるんだ?そんな情報」
「地道な聞き込みと弛まぬ努力だ。最後に笑うのはひたむきで真面目な奴らしいからな」
…。
どうせ何かの漫画の引用だろう。
「…それでお前は誰の名に懸けて、この一連の失踪事件を解決するの?」
このほとばしる熱意はどこから湧き上がるんだ?
「そんなの決まってるだろ?」
斎藤は目も合わせずに言う。
「面白そうだからだ」
斎藤は何かを思いついたのか、地図にメモを書き始めた。
加筆するでしょう。
6/12 加筆しました。
これから書いていく予定です。