Silence × Silence
静かな人たちの話です
彼の耳いわく、この世界はとても静からしい。
「聞こえないんだ」
生きてきて十七年、男の子と親友になるのは初めてだった。
酷く物静かなその人は、クラスの中心に行くことも無ければ、虐められているわけでもないらしかった。
喋らないわけでもないし、くだらない冗談を飛ばすこともあった。
でも、彼の周囲の空気だけ温度や密度が違うように、何かが決定的に違った。
彼は特定の人たちとしか話さず、また別の特定の人たちには話しかけられても無視した。肩を叩かれたり、机に手を置かれたりしたら、流石に顔くらいは向けたけれど。
まるで、聞こえていないみたいじゃないのと思ったのを覚えている。
濃淡のある黒い瞳が、わたしを、振り返る。
(まるで、)
「聞こえないんだ」
と落合君は言った。
膝の上には分厚い本を乗せている。
よく見ると、それはわたしがいつの日か教えてあげたジョン・アーヴィングの「また逢う日まで」だった。
閉鎖された屋上に繋がる埃っぽい階段の最上階は、もはや荷物置き場と化していて、捨てるに捨てられない何年も前のプリントの束が詰め込まれた段ボールが積み重なり、美術室から追い出された欠けた石膏像がおざなりに放置されている。
朝からずっと降っている雨のせいで、視界は暗い。
誰の声も遠くの幻のように聞こえる。
落合君とわたしと物言わぬ石膏像たちだけが、とぷりと沈んで、(或いは、ぷかりと浮かんで)静かだ。
その中で落合君の実はきれいな声が、きれいに響く。
「だから、彼らの言うことは分からない。でも、いいんだよ。確実にたいしたことじゃないから」
「でも、話している人だって、いるじゃないの」
「三淵」
と落合君が、わたしの名前を呼んだ。
十七年名乗り続けた名前も落合君の声に乗ると、清らかな水で泳ぐ美しい魚のように、素敵に響いた。
「俺の耳は、排他的なんだ。すごく。だから聞こえない声や音がある。逆によく聞こえる声も音もある。二元的で極端で排他的なんだよ、どうしようもなく」
「……どう、して」
「分からない」
と落合君は落ち着いた様子で言った。
「理由があるかないかも分からないし、知らない」
わたしは落合君の隣の階段に腰かけた。
ふぅん。
よくどもるわたしの声は見分けがつかないくらい溶け込こんでしまう曖昧で不均一なこの世界が、落合君を基準にすることによって、はっきり二つに分類できる気がした。
柔らかそうな髪がふんわりとかかった耳は、芸術品のようにうつくしかった。
この上なく上質なこの耳は、二元的で極端で排他的で、だからこそきれいなのかもしれなかった。
あらゆる汚いものから見えない力で保護された、全く実用的ではないけれど、芸術的には至高を極めた耳を、わたしはしげしげと見つめる。
静かだ……。
「……落合君に、とって、」
「なに?」
「教室って、五月蠅いの、かな」
「すごく静か。無音映画みたいに。特に休み時間」
「授業中は? あの声が大きい先生のとき、とか」
「そんな先生、いたっけ。大変だね、三淵の耳は」
「……今、は?」
「音で溢れ返ってる。でも、きらいな音じゃないから、心地いい」
雨音。
ページをめくる音。
ふたりの息遣い。
制服が階段に擦れる音。
ずっと下から聞こえてくる人の声……は、落合君には聞こえてないだろうから、除外。
それでも、わたしの出来の悪い耳にとっては、くらくらするくらい、ほんとうに静かだった。
「……じゃあ、わたしの声なんて、きっと、聞こえない、ね」
〈――蚊の鳴くような声〉
〈もっと、ちゃんと話しなさい〉
〈イライラさせないで……〉
「なんで」
落合君は不思議そうに言った。
「三淵の声は誰よりも、よく聞こえる」
二元的で極端で排他的でうつくしい芸術的耳をもつ親友の声は、実はとてもきれいで、わたしも彼のような耳を、心を、持っていれば、この十七年たのしく愉快にやって来られたのかもしれない。
少なくとも、人の言葉にいちいち傷ついたり、自分を卑下したり、そんな情けなくて惨めなことからは無縁だったのかもしれない。
でも、そんなことを言えば、きっと落合君は怒るだろうし、ひょっとしたら、それがキッカケでわたしの声が届かなくなるかもしれないから、わたしは黙って、彼の言葉をゆっくりと反芻した。
きれいな声に乗せられた親友の言葉は、わたしの中で素敵に響いて、うっかりすると泣きそうになる。
思いっきり目を開けて、顔を上げると、はめ殺しの窓に細い雨が降っているのが見えた。
舞い散る、埃。
石膏像の、つめたい横顔たち。
薄暗い、水滴が溜まって、硝子、みずの、いろ……あぁ……。
きれい……。
「三淵?」
「きれいね、すごく、きれい」
落合君が窓を見上げて、わたしが隣を振り向くと、ちょうど眼前にあのうつくしい耳がくる。
……きれい?
うん、きれい、よ……。
「三淵」
「なに」
「親友が違うものが聞こえて、おんなじものが見られるって、すごいことだ。今、気付いた」
聞ける耳を持つけど、うまく伝えられない声のわたしと、選民的な耳だけれども、きれいな声をした男の子。
わたしを親友と呼ぶ彼は、鏡に映った像のように、この世でいちばんわたしとはかけ離れていて、でも反転すれば全く同じ姿になる。
わたし達は、ぴったりと補え合えているような、でもぜんぜん何の解決策にもなっていないような、世にも不思議な組み合わせだった。
溺れるように生きてきて十七年、雑音だらけのこの世界で、うつくしい耳をもつ男の子と親友になる。