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蛇の道はヘビー

 その荷物は、唐突に届いた。

 恐ろしく重たい上にやたらめったら大きな箱には厳重に封が施され、分厚い梱包材で覆われていた。だが、中身は一目瞭然だった。吉岡グループが経営している運送会社の名が入っている荷札の傍に、怪人在中、と赤地に黒で印刷された札が貼り付けられていたからだ。送り主はフジワラ製薬であり、宛名は伊織になっていた。

 それを受け取らざるを得なかった伊織は心底不愉快で、梱包材を乱暴に引き剥がして散らかした。御丁寧なことにクール便で配達されたので、箱全体がひんやりしていた。防水加工された紙を剥がすとエアパッキンが顔を出し、その下には保冷作用のあるアルミフィルムが出てきたが、まだまだ箱の本体は出てこない。

「死ねクソ」

 苛立ってきた伊織は吐き捨ててから、右手だけを軍隊アリのそれに変化させて爪を振り下ろした。途端に梱包材のミルフィーユが真っ二つに切り裂かれたが、勢い余って床にも深い傷が付いた。その裂け目から、段ボール箱の中に詰まっていた緩衝材の粒状の発泡スチロールが溢れ出し、扇状に散らばった。大振りな白い粒に混じり、一枚のディスクが転げ出てきた。

「何だこれ」

 伊織は爪の間にディスクを挟み、ラベルを読んだ。

「はぁ!?」

 途端に声を裏返した伊織に、一同の視線が集まった。

「なんだ、やかましい」

「余計な騒音で集中力を削がないでくれますかぁーん、業務妨害ですぅーん」

「ぬ」

 大型モニターのパソコンと睨み合っていた武蔵野、道子、高守から一斉に非難され、伊織は舌打ちした。

「うっせーし。てか、そっちの仕事が遅いのが悪いだけだし。つか死ね」

「仕方ないだろう、お嬢が俺達に無茶振りしやがったんだから。ロボットのセッティングなんて専門外も甚だしいってのに、俺達の仲間に相応しい個性を持たせるためには俺達の手で一から入力すべきだーって言いやがって……。あ、また間違えた」

 武蔵野は太い指で光学センサー式のキーボードをぎこちなく叩いていたが、角刈りの髪を掻きむしった。

「こういうのはお前が専門だろうが、道子。適当に処理しておいてくれよ」

「生憎ですがぁーん、私の専門はハッキングであってプログラミングじゃありませぇーん」

「似たようなもんだろ、そんなもん」

「違いますぅーん。クラッキングともまた違いますぅーん。そりゃプロテクトを解除して侵入したりぃ、プログラムの穴を見つけて滑り込んだりするためにはぁ、それ相応の知識が必要ですけどぉ、プログラムを組むための知識となるとまたジャンルからして違うんですぅーん。だからぁ、専門外も甚だしいんですぅーん。武蔵野さんだってぇーん、拳銃は撃てるけど一から製造出来るわけじゃないですかぁーん」

 道子がつんと顔を背けたので、武蔵野は高守に向いた。

「じゃ、高守はどうなんだ」

「……ん」

 高守も短い首を横に振って、目を逸らして爆発物の材料が散らばる作業机を見やった。こちらもまた専門外だ、と言いたいようだった。武蔵野は慣れない作業で凝った肩を解すために回し、パソコンデスクから立ち上がった。

「まあいい、このデータは一旦保存しておけ。ロボットの機体はまだ組み上がってもいないし届いていないんだ、そう焦るような話じゃない。壁の大穴のせいで隙間風と朝晩の底冷えはひどいが、アンブッシュで一夜を過ごすよりは余程快適だし、我慢出来ないようなことでもないしな」

「ではではぁーん、お昼の支度をしてまいりますぅーん」

 道子は手早くキーボードを操作してデータを保存し、ウィンドウを閉じてからパソコンデスクを離れた。高守もまた自分の作業に戻りたかったらしく、小走りに作業机に駆け寄っていった。武蔵野は自身の武器の手入れをするために自室に戻り、道子はキッチンで途方もなく不味い昼食の支度を始め、高守は細々とした機械を抱えて地下階へと引き籠もってしまったので、リビングには伊織一人だけが取り残された。

「つか、何これ。ダサすぎんだけど」

 伊織はディスクのラベルを見、舌を出した。悪のひみつビデオ、と伊織の父親の字で書き記してあった。このまま叩き割って黙殺してしまってもいいのだが、液体についての説明書が同封されていなかったので、恐らくディスクに収めた映像で説明しているのだろう。面倒ではあるが、目を通しておく必要がある。

「んー、と」

 伊織はケースを開け、パソコンのディスクスロットに差し込んだ。メディアプレイヤーを作動させ、しばしの間の後にディスクが読み込まれた。映像が始まると同時に、仰々しいBGMが流れ出した。そして、悪趣味極まりないテカテカの紫のカーテンを背景にして、ドクロをモチーフにした衣装を着た中年の男が現れて高笑いした。

『うわはははははははっ!』

 その笑い声を聞いた途端に伊織はパソコンを殴り付けそうになったが、寸でのところで堪えた。

『この映像を見ているということは無事に荷物が届いたと言うことだな、我が息子よ!』

 黒に赤の裏地のマントを大きく広げて仰け反った中年の男は、意味もなくマントを前後させた。

『大手を振って戦いに出たはいいがスタートダッシュで盛大に躓き、成果が上げられないのは悪の組織の定番中の定番だ! なあに気に病むことはない、誰もが通ってきた道だ! むしろ通らない怪人などいない!』

「うっせぇ死ね」

『我らが主力であればここぞとばかりに怪人を送り込むのだろうが、資金面の都合で吉岡グループと手を組んで共闘関係を結んだ都合でそうもいかない! おまけに政府に嗅ぎ付けられたため、証拠隠滅のために研究所を一つ爆破してしまった! 長年の念願であったので凄く気持ち良かったが、損害は何億になることやら!』

「知るか、んなこと!」

『と、いうわけであるからして、我らの科学力で生み出した完全体に等しい怪人であり我が息子である伊織、いや、軍隊アリ怪人アントルジャーよ! 同梱されていた液体を混ぜて部下となる怪人を完成させ、他の企業からは一歩抜きん出た活躍をしてしまうがいい! うわはははははっ!』

「だぁから、とっとと本題に入りやがれ!」

『ではそろそろ説明しよう! この辺にしておかないと、社長室に運んできたランチが片付かないって秘書の三木君にしこたま怒られそうだからな! 仕事が完璧なのは素晴らしいんだが、いかんせん気が強いのだあの女性は! だが、それがいい! 妙齢の女性の尻に敷かれて上手いこと操縦されるのは心地良いのだ!』

「説明するっつってからうだうだ喋るんじゃねぇクソ親父! ガチで殺すぞこの野郎!」

『と、言う感じに焦れ焦れにさせておけば我が息子はテレビかモニターの前でマジ切れしている頃合いだろうから、そろそろ本題に入ろう! でないと、うん、リアルに首が飛ぶ可能性が非常に高いのでね』

 と、伊織の父親でありフジワラ製薬の社長である藤原忠は己の首をさすってから、画面に向き直った。

『怪人の作り方は非常に簡単だ! A液の入っている容器にB液を入れてよく掻き混ぜてから、一時間後にC液を入れて更に良く掻き混ぜる! その際に高栄養剤を入れておくのを忘れるんじゃないぞ、無事に固体化した怪人が目覚めても低血糖でぶっ倒れちゃうからな! 注意点は以上だ! 尚、この映像を収めたディスクは自動的に消滅するわけがないから物理的に消滅させてくれたまえ!』

 ああっ三木君っ、との動揺した声と共にカメラが左右に揺れ動き、挙げ句の果てに床に転げ落ちた。それ以降は横向きになった絨毯と壁際の映像だけとなったので、伊織はディスクをパソコンから取り出すと同時にへし折った。真っ二つに割れたディスクをゴミ箱に放り投げてから、伊織は思い切り頬を歪めて髪を掻き毟った。

 物心付いた頃から、伊織の両親はずっとこんな調子だった。先代社長である祖父が五十年前に手に入れたという謎の液体を倉庫で発見し、その効能を知って以来、特撮番組の悪役じみた行動に明け暮れている。わざわざ業者に発注して作らせた悪の組織のような衣装も山ほどあり、それ専用の倉庫を持っているほどである。最初はまともだった母親もいつの頃からか父親に毒されてしまい、今となっては社員すらも父親の思想に染められた。一人息子である伊織も当然のように父親の愚行に巻き込まれた挙げ句、謎の液体を研究していた研究班に伊織の遺伝子は謎の液体と相性が良いと言われ、その結果、実験に実験を重ねられて生体改造された。

「冗談じゃねーし」

 伊織は箱を引き裂いて中身を引っ張り出すと、無造作に床に転がした。何が悲しくて、心底鬱陶しい悪役ごっこに付き合ってやらなければならないのだろう。それは父親の理想であって伊織の理想でもなんでもない。伊織と似た経緯で変身能力を与えられた人間にも興味は更々ない。増して、世界征服など以ての外だ。

 A液、B液、C液と書かれた手描きのラベルが貼り付けられている円筒形のボトルを三つ並べてみたが、それらを開けて混ぜ合わせたいとは欠片も思わなかった。A液は赤っぽく、B液は緑っぽく、C液は白っぽく、いずれも粘り気が強かった。全部排水溝にでも垂れ流してやろうか、とちらりと思ったが、それでは配水管が詰まってしまう可能性がある。どうせ捨てるなら解りづらい場所が良い、と判断した伊織はボトルを全て抱えて立ち上がり、大穴が開いた壁を塞いでいるブルーシートを捲り上げて外に顔を出し、三つのボトルの中身を捨てた。

 空になったボトルをリビングの隅に放り投げ、伊織は梱包材も段ボール箱も片付けもせずにソファーに寝そべり、退屈凌ぎに数年前に発行された週刊少年漫画雑誌を広げた。カビ臭く、湿気を吸ってページがよれていたし、肝心の内容もそれほど面白くはないのだが、ぼんやりしているとほんの少しだけ気分が紛れた。

 人殺しは好きだが、父親の愚行に付き合う気はない。



 自習。

 黒板に書き残されたぶっきらぼうな文字を見、つばめは目を丸めた。日曜日も一乗寺の姿が見当たらなかったが、週が開けたら帰ってきているだろうと漠然と思っていたが、そうではなかったらしい。きっと公安の任務が忙しくなったから副業が疎かにせざるを得ないのだろうが、そうならそれで連絡を入れてほしい。無駄足を喰った。

「だってさぁ」

 つばめは教室に入ってきたコジロウに振り返ると、黒板を指し示した。コジロウは教室に入ると、黒板を一瞥してからつばめに向き直った。

「了解した」

「自習、っつってもなー……」

 つばめはたった一つしかない机に座ると、通学カバンを開けて教科書を取り出しかけたが、手を止めた。自習用のプリントか何か置いてあるのではないかと机の中を覗き込んでみたが、紙切れ一枚入っていなかった。黒板前にある教卓の中を覗き込んでみても空っぽで、それらしいものは見当たらなかった。ということは、つばめ自身が勉強する範囲を決めて勝手にどうこうしろ、ということらしい。プリント一枚も準備出来ないほど急ぎの任務だったのか、それともただ単に面倒臭くなったから放り出していったのか。どちらにせよ、傍迷惑だ。

「そういえばさあ、コジロウ」

 机に戻ったつばめは、自己修復機能と外装交換で見た目は元通りになったコジロウに向き合い、尋ねた。

「学校って誰が掃除しているの?」

「一乗寺諜報員だ。分校の校舎は一乗寺諜報員の寄宿舎であり、管理下でもある」

「道理で」

 そこかしこが埃だらけなわけだ。つばめは教室の隅に堆積している綿埃を見つけ、げんなりした。もう一つの教室は完全に倉庫と化していたし、一乗寺の私室も同然の職員室は荒れ放題だった。一応、ゴミはきちんと捨てているようだが、無造作に拳銃のマガジンや弾薬が放置されていたことを覚えている。男女共用のトイレにしても、あまり清潔とは言い難い状態だった。今までは自宅の住み心地を良くすることだけで手一杯だったので、学校にまで気を掛ける余裕はなかったのだが、生活環境が整ってきて心構えが出来てくると細かいことが気になってくる。

「よし、掃除しよう」

 つばめが手を打つと、コジロウが意見した。

「つばめ。それは自主学習とは言い難い行動だ」

「掃除も立派な情操教育の一環でしょ?」

 つばめが言い返すが、コジロウも更に言った。

「それは教師の監督下にある場合であり、自主学習すべき時間に行うべきものではない」

「相変わらずだなぁ、もう。掃除したら綺麗になって気持ち良くなるんだから、それだけでいいじゃない。それとも何、コジロウは私が埃で噎せ返って喉を痛めてもいいってこと? 気管支を悪くして入院しろと?」

「……それは」

 コジロウが珍しく言い淀んだので、つばめはにんまりした。

「解ればいいの。じゃ、ジャージに着替えてくるから、ちょっと待っていてね」

 ジャージ入れにしているトートバッグを抱えて教室を出たつばめは、隣の空き教室の引き戸を開けた。小さな分校に更衣室などという洒落たものはないからだ。引き戸を開けて不要物が雑然と詰め込まれている教室に入り、手近な机にトートバッグを置いて制服に手を掛けた時、物音と共に三角コーンの山が動いた。

 ブレザーを脱いで折り畳み、トートバッグの中に入れてから、つばめは教室を見回した。誰かが忍び込んでいるのだろうか、と窓に目を凝らしてみるも、全て施錠されていて窓枠にも埃が積もっている。心なしか滑り込む外気の量が多くなっていて、足元に溜まっている早朝の冷気が濃い。廊下側の掲示板、黒板、教卓、と観察していくと換気扇が壊れていることに気付いた。羽根も枠も外れていて、千切れたケーブルがぶら下がっている。

「人間は入れないよなぁ、あんなに狭い場所」

 つばめは自分の肩幅と換気扇を目測で比べてみたが、子供の体格でもまず通り抜けられない大きさだった。三十センチ程度の正方形だし、換気扇の外には体をねじ込ませられるような足掛かりもなく、侵入経路としては不自然極まりない。今朝は昇降口が施錠されていたので、コジロウが外装の内側に貼り付けていた合い鍵を使用して中に入ったのだが、泥棒の類であれば手っ取り早く窓を割って侵入しようと思うだろう。丁度良い大きさの石を見つけて投げ付ければ、それで済む。なのになぜ、難易度が高い換気扇を敢えて選んだのだろうか。

「いや、待てよ?」

 それ以前に、船島集落に外来者がいただろうか。そんな人間がいたとすれば、コジロウが真っ先に感知して対処しているはずだ。つばめも美野里も気付くはずだ。船島集落に至る道路は一本しかないし、それ以外のルートでは道らしい道は存在していないので、ジャングル行軍しなければ辿り着けず、集落内は田んぼだらけなので広い場所に出てきた途端に目に付く。寺坂であれば真っ先に美野里に会いに来るだろうし、一乗寺が帰ってきたのであれば自分で鍵を開けて宿直室で爆睡しているだろう。となれば、考えるまでもない。

「また新手か」

 今度はどこの差し金なのか、考えるのも面倒臭いが、相手をしなければやり込められてしまう。つばめはため息を一つ零してから、ごとごとと揺れる三角コーンに近付いた。積み重ねられた机を押しやり、椅子を退かし、トラロープの束を蹴り飛ばしてから、三角コーンの足元を覗き込んでみた。

 そこには、薄茶色の太い異物が渦を巻いていた。ぱっと見ただけでは正体が解らず、つばめは首を傾げて上履きを履いたつま先で小突いてみた。太い異物は僅かにひくついたが、それきりだった。指先で恐る恐る触れてみると、ぞっとするほど冷たかったが生物らしい弾力が返ってきた。三角コーンを抱くような格好でとぐろを巻いている異物の直径は三十センチ近くあり、極太だった。となると、これがあの換気扇を破壊して侵入してきたのだろう。

 とりあえず異物の正体を突き止めようと、つばめは首を伸ばして三角コーンの向こう側を見下ろした。薄々感付き始めてはいたが、確認してみないことには解らないからだ。そうでありませんように、そんなことがあってたまるか、と願いながら目を動かしていくと、極太の異物が鎌首をもたげてきた。

「おい」

「うわぁやっぱりヘビぃっ!」

 目の前に現れたヘビに、つばめは絶叫して飛び退いた。途端に全身から嫌な汗が噴き出し、机や椅子を薙ぎ倒しながら後退った。口を利いたのだから元々は人間だったのかもしれないが、それでもヘビはヘビなのだ。つばめは涙目になりながら退路を確保しようとするが、ヘビはしゅるりと動いてつばめの前に立ちはだかってきた。

「おい、そこの女子中学生」

「やだやだやだぁっ! ヘビ嫌い、超キモい!」

 つばめが首を横に振ると、ヘビは瞬膜を開閉させた。

「出会い頭に何を言うんだよ。失礼すぎるよ、最近の子供ってのは。あー最悪」

「ヘビに決まってんじゃん! やだやだ近付かないでよー!」

 つばめは教室後部の黒板に背中を当て、制服が汚れるのも構わずに引き戸へと後退っていく。

「せめて僕の質問には答えてくれよ、いいだろ?」

「よくないよくなーいっ!」

 つばめが半泣きで絶叫すると、ヘビは舌を出し入れさせた。

「今までの事情で大体のことは解っているだろうが、僕はお前の命を狙っている怪人だ。諸々の事情で真正面からの襲撃が出来ないから、こうしてコソ泥みたいな真似をする羽目になってしまったんだ。この僕が、だ。最高学府を卒業してストレートにフジワラ製薬に内定を決めたこの僕が、だ。作戦の都合とはいえ、泥と埃にまみれて這いずり回るのは極めて屈辱的なんだよ。だから、御嬢様一味の低脳な連中が手間取っている間に出し抜いてやることにしたんだよ。だが、僕は一社会人であり、物事には手順がある」

 床に堆積した埃に筋を付けながら、ヘビはつばめに這い寄る。

「お前の下僕の警官ロボットにアポ取りしてくれないか? それ相応の手順を踏んでから行動すれば、御嬢様一味もごちゃごちゃ文句を言ったりはしないだろうしな。この僕の命令だ、聞け」

「あ……」

 そんなの絶対嫌、と言い返したかったが、つばめは腰が抜けてしまった。前々から爬虫類は苦手だと思っていたが、常識の範疇を凌駕したものに出会うと恐怖や嫌悪感が突き抜け、いっそ笑えてきた。汚れきった床にぺたんと座り込んだつばめは、乾いた笑いと悲鳴の中間の声を力なく漏らしてから、弱々しくコジロウに助けを求めた。

 掃除どころではなくなってしまった。



 とりあえず、場所を移動した。

 いつもの教室に戻ったつばめはコジロウの厳つい腰にしがみついて体を隠しつつ、教卓側でとぐろを巻いているヘビをじっと睨み付けていた。ヘビは先割れの舌をちろちろと出し入れさせていて、全長五メートル以上はあろうかという長い体を持て余していた。枯れ葉の降り積もった山林ではカモフラージュになること間違いなしの緑色のウロコは艶やかで、時折動く丸い目の縦長の瞳孔は糸のように細くなっている。

 コジロウを盾にしながら、つばめはヘビと睨み合い続けていた。気色悪い上に巨大な爬虫類とは会話なんてしたくもないのだが、話し合いの席を設けなければ、つばめは絞め殺されてしまうだろう。そうでなければ、小鳥のように頭から丸飲みにされてしまうだろう。そんな事態を防ぐためには話し合って解決する他はないだろうし、このヘビは吉岡一味よりは話が通じそうな気もしたからだ。だから、腰が抜けたつばめはコジロウに助け起こしてもらってヘビ共々場所を移したのだが、話をどうやって切り出したものか。

「おい、低脳ロボット」

 先程と同じく、ヘビは不躾な語彙で話し掛けてきた。つばめが竦むと、コジロウがすかさず身構える。

「つばめに危害を加えるというのであれば、本官は即刻護衛行動に移る」

「ああ違う、そんなに急な話じゃない。そう、まずは段取りの確認だよ」

 ヘビは首を横に振ってから、コジロウとその陰に隠れているつばめを見やった。

「そっちの女子中学生が件の佐々木つばめで、お前はムリョウってロボットだろう? その辺の情報は、本社の資料で確認済みだ。僕の仕事は、御嬢様一味に所属している低脳の中の低脳のハシゴ状神経系な御曹司、藤原伊織と大して変わりはない。もっとも、あの馬鹿息子には出来ないことを山ほど任されてるけどね。まあ、僕は根っからの理系人間……じゃないか、理系の怪人だから、殺人狂の馬鹿息子とは違って人を襲うのは得意じゃないけどね」

「怪人になって人を襲うのが得意な人間なんて、そうそういてたまるもんか。で、ムリョウってのは」

 つばめがコジロウの背中を仰ぎ見ると、コジロウは横顔を向けた。

「本官の以前の個体識別名称だ」

「へえ、そうなんだ。知らなかったぁ」

 つまり、祖父が付けた名前か。つばめが付けたコジロウよりは洒落ているが、しっくり来ないのはコジロウと呼ぶのに慣れ親しんでいるからだろう。余裕が出てきたつばめは、コジロウの腰に腕を回した。つばめは足腰にまだ力が戻ってこないので椅子に腰掛けているのと、元々の身長差があるせいで、つばめはコジロウの臀部にあたる外装に顔を寄せる形になった。角張っていて厚みも丸みもない尻なのだが、不意に触りたい衝動に駆られた。

「人前でいちゃつかないでくれる? そういうのって殺人衝動に繋がるんだけど」

「へあっ!?」

 再度ヘビに話し掛けられた途端、つばめは我に返って椅子ごと身を引いた。コジロウの尻を触りそうになっていた手を慌てて引っ込め、ぎこちなく表情を取り繕った。警官ロボットに痴漢行為を働いてどうする。

「で、その木偶の坊のロボットの名前はムリョウじゃないのか? コジロウっていうの? うわダッサ」

「コジロウはコジロウだからコジロウ! ダサいのは自覚しているけど似合うからいいの!」

 つばめが言い返すと、ヘビはちろりと舌を伸ばした。

「馬鹿はどこまでいっても馬鹿なんだなぁ。まあ、この僕は優秀だからそんなミスは犯さないけど?」

 ヘビは独り言を漏らしながら俯き、長い体をボール状に丸めた。

「今回、この僕がわざわざお前達の前に出てきてあげたのはね、この僕の科学技術と天性のセンスで調整して体内に注入したアソウギの仕上がり具合を確かめるためさ。で、そのついでに戦ってあげる。光栄だろう?」

「何が光栄なもんか。で、アソウギって何?」

 ヘビの言葉に出てきた単語をつばめが繰り返すと、コジロウは銀色の拳を握り締めた。

「遺産の一つの個体識別名称だ。これはあくまでも仮定に過ぎないが、何らかの原因でフジワラ製薬がアソウギを所有し、遺産を奪取するための作戦に利用しているのだろう」

「何だよ、そのつまらない話は長引きそうか?

 じゃ、僕は出ていく。お前らと同じ空気を吸うのも嫌だ」

 ヘビはやる気なく頭を下げてから、文字通り蛇行して教室を出ていった。床を這う独特の物音が遠ざかると、つばめは安堵して脱力した。ひたすら態度が悪いヘビに腹を立てるよりも先に恐怖が襲ってきたからだ。

 離れてしまうのは惜しかったが、つばめはコジロウの腰に回していた腕を外し、椅子の背もたれに寄り掛かった。無意識に呼吸を詰めていたせいで薄くなっていた血中酸素を上げるために深呼吸した後、両の拳を固めて身構えているコジロウを見上げ、その背部装甲をぽんぽんと軽く叩いた。

「もういいよ、コジロウ。今はヘビがいないんだし」

「つばめ。あの個体に生体接触を行ったか?」

 どことなく、コジロウの語気が強張っていた。つばめはきょとんとする。

「触ったか、ってこと?」

「そうだ」

「そういえば、ちょっとだけ」

 つばめが人差し指を立てると、コジロウは佇まいを整える。

「これより、遺産の一つであるアソウギの性質と能力について、簡潔に説明する。前マスターが本官の人工知能に施したセキュリティによって本官は遺産についての情報を口外することは不可能だったが、フジワラ製薬が所有している遺産がアソウギであると判明したことによってセキュリティ規約第七条が適応され、アソウギについて口外することが可能となった。よって、説明する」

 コジロウはヘビの出ていった方向を見据え、スコープアイの輝きを強める。

「アソウギとは、現住生物とその周辺環境を複合的に判断し、現住生物のゲノム配列から生体構造を解析と同時に分析した上で環境に適応した合成生物を作成する無限バイオプラントだ。その形状は粘液。だが、アソウギ単体だけではその能力を発揮することは不可能であり、管理者権限を持ってしてもバクテリアの合成すらも完遂出来ない。理論の上ではフジワラ製薬が有する化学技術ではアソウギを作動させることすら不可能なのだが、何らかの手段でアソウギに働きかけ、アソウギに対して

 拒絶反応を起こさない人間にアソウギを投与して改造しているのだろう」

 コジロウの発声装置から矢継ぎ早に出てくる訳の解らない単語に、つばめは戸惑った。

「無限バイオプラント? それって何? 何のためのもの? なんでそんなのがコジロウと同じ遺産なの?」

「その理由について明言することは、セキュリティによって妨げられている」

「粘液ってことは、いやちょっと待てよ、いやいや待たなくてもいいけど」

 混乱してきたつばめは、先日の出来事で知った事実と今し方知った事実を頭の中で整理した。無謀にも吉岡一味の本拠地である別荘に乗り込んだはいいが逆に追い詰められ、吉岡りんねの唇を奪った後に暴走した藤原伊織との交戦中に把握した情報に寄れば、軍隊アリ怪人に変身出来る伊織は体液の七割を遺産に置き換えている。それはつまり、フジワラ製薬が所有している遺産、アソウギに違いない。そして、伊織と同様にヘビに変身しているヘビ青年もまた、体液の何割かをアソウギに置き換えているのだろう。

 伊織に触れた時は、止まれ、コジロウを離せ、と強く念じていたから伊織はその通りに動いた。だが、ヘビ青年に不用意に触った時は何も考えていなかった。これはなんだろう、と軽く触れてみただけだ。コジロウが開示してくれた情報に寄れば、アソウギは管理者の思念を読み取って変形するものではないので、あのヘビ青年が不定型な物体になることはないだろうが、管理者権限が触れたことでヘビ青年の体内に満ちているアソウギを活性化させてしまった可能性は大いにある。と、いうことは、前回の二の舞になってしまうのでは。

 巨大化した軍隊アリはともかく、巨大化したヘビは嫌すぎる。つばめは気が遠くなりかけたが、なんとか踏ん張ってコジロウの腕を掴んだ。すると、校庭と呼ぶには広すぎてグラウンドと呼ぶには狭すぎる広場から物音がした。

 直後、教室の窓に奇妙な影が映った。



 羽部鏡一(はぶきょういち)。年齢は二十六歳、出身は東京、国立大学の化学科を卒業してフジワラ製薬に就職し、製薬部の研究部員として日々働いていた。近年のフジワラ製薬の本業ともいえる遺産による人体改造の基礎研究を任されていたが、羽部は偶発的に胃散を投与された人間を液状化させる方法を見つけ出した。それから間を置かずして、液状化させた人間を再び固体化させる方法も発見し、一介の研究員から化学者の仲間入りを果たす。

 そして、その研究の成果は大いに役立てられたようだった。一乗寺は撃つ機会を失って冷えたままの愛銃を左脇のホルスターに収め、思い切り舌打ちをした。フジワラ製薬の名が入ったトレーラーのコンテナには円筒形の容器が五百個以上も格納されていたが、全て開封されて空っぽになっていた。トレーラーが横付けられているのは中流程度の勢いのある川で、砂利と雑草が散らばる河原には空の容器が山のように転がっていた。

「こいつがろくでもねぇ研究をしなきゃ、俺達は無駄足を踏まずに済んだんだがなぁ。溶かした人間を川に流しちまうなんてえげつない手段を、思い付く方も思い付く方だが、実行する方も大概にイカレてやがる」

 周防は羽部鏡一についての情報が連ねられた書類を握り潰し、トレーラーを睨み付けた。

「いい感じに追い詰めたのに、ばこばこ先手を打たれまくりだねぇ。俺達は出塁すら出来ないわけ? 凡退?」

 一乗寺がぼやくと、周防は苦々しげに嘆息する。

「もっと悪い。バッターボックスにすら足を踏み入れちゃいない」

「で、その羽部って野郎が今回のヤマの肝だってことは、すーちゃんはどうやって調べを付けたわけ」

「何、簡単だ。研究所内の監視カメラやらカードキーの入出記録を調べてみて解ったんだが、俺達が目を付ける前から、あの爆破解体された研究所からは羽部の姿が早々に消えていたんだよ。地方の子会社に出張扱いになっていたんだが、交通機関にそれらしい姿はなかった。出張先行きの切符を買ったという記録もなかったし、出張先の子会社にも来ていなかった。だが、本社には戻ってきていない。他の連中は大体足取りが掴めたんだが、羽部だけが宙ぶらりんだったんだ。どこかにいるはずだが、どこにいるかが掴めない。つまり、どこにでも動かせる位置付けにいるってことだ。おまけに、奴の頭の中にはろくでもねぇ研究の成果が詰まっている。基礎研究に関するデータはフジワラ製薬のメインサーバーに保存されているからな、ネット環境さえあればどこからでも引き出せる」

「でも、その羽部って野郎は戦闘員じゃないんだろ? いくら吉岡グループが共闘規定を設けているとはいえ、それが適応されるのはつばめちゃん絡みのことだけじゃん? 他の企業に見つかったらゲームオーバーでねぇの?」

「それがだな」

 周防は彫りの深い顔に顔に渋面を作り、携帯電話から地図のホログラフィーを投影した。

「三日前にフジワラ製薬が発送した自社製品配送ルートだ」

「うあーお……」

 早々に先手を打たれていた。一乗寺は地図を見、変な笑いを浮かべた。様々な配送業者を使ってフジワラ製薬が自社製品を配送したルートが中部地方の地図に重なっているのだが、そのうちの一つが病院でもドラッグストアでもない山奥に配送されていた。地形と道筋を見る限り、その配送先が吉岡一味の根城である別荘であることは間違いなさそうだった。あんなに辺鄙な山奥に居を構えている人間は、そうそういるものではない。

「てぇことはあれだね、馬鹿息子の伊織の手下にしておいて一味に加えちゃおうって腹だね。でも、あの馬鹿息子の性格からして上手くいくわけないって。あいつはアリンコのくせして狂犬みたいな性分だし、部下なんかをプレゼントされたって使う前に捨てるに決まっているよ。違うな。捨てるのを前提として送った、とか?」

 一乗寺が喋りながら考えをまとめると、周防は太い顎をさする。

「液体を捨てる時、排水溝に流すにしても地面にぶちまけるにしても、てんでバラバラの方向には捨てないもんだ。馬鹿息子にその気が毛頭なくとも、液体が混じっちまえばそれでいいんだからな。フジワラの社長はふざけているように見えるが、形から入っている分、やることは確かだ」

「俺、帰るわ。なーんか面倒なことになっちゃったりしちゃっている気がするんだよねぇ」

 肩を竦め、一乗寺はトレーラーに背を向けた。周防は皮の厚い手で、一乗寺の背を叩く。

「それがいい。授業計画だってあるだろうし、佐々木の孫娘も寂しがっているだろうしな」

「すーちゃんはいい人だねぇ。俺はただ、その羽部って奴のドタマをぶち抜きたいだけなんだけどな」

 愛銃のAMTハードボーラーのグリップに手を添え、一乗寺は口角を上向ける。

「川に不法投棄された液体人間共には銃弾は通用しないが、元の姿に戻った羽部には通用するじゃん?」

「その頃までに羽部が生き延びていたらいいんだがな。馬鹿息子が口封じに殺しちまっているかもしれんぞ」

「大丈夫だって。あの手の輩はね、ああウゼーって思ったことには絶対に腰を上げないの」

 俺もそうだから、と笑顔で返してから一乗寺は現場を後にした。公安のトレーラーに首尾良く用意されていたバイクに跨って河川敷を脱し、土手を下りて通行規制が掛かっているために静まり返っている県道を通り、国道に入って船島集落を目指した。フルフェイスのヘルメットに内蔵されている無線機に時折入ってくる報告にいい加減な答えを返し、定期連絡をあしらいながら、拳銃の引き金を引ける瞬間を心待ちにした。

 それだけが人生の楽しみなのだから。



 窓のカーテンを引いて、校庭とグラウンドの中間のような広場を窺った。

 あの影絵の主を見定めるべく、つばめは慎重に視線を動かした。ここ数日の上天気で乾き切った広場の地面に横たわっているのは、四本の手足が生えたヘビ青年だった。正に蛇足だ。人間と同じような関節が付いた五本指が生えた手足を必死に踏ん張り、起き上がろうとするが、バランスが取りづらいのか苦労している。

「うおっふぁえ」

 ヘビ青年は二本足で立ち上がりかけたが、長すぎる尻尾が災いして横転した。

「だ、大丈夫?」

 窓を開けてつばめが話し掛けると、ヘビ青年は震える足を伸ばすが、またも横転した。

「お前なんかに心配されたくないよ、ていうか見るなよ、この僕が格好悪いなんて許されざることなんだから!」

 あうっ、と弱く悲鳴を上げ、ヘビ青年は三度横転した。これでは手足を使わずに這いずって移動した方が余程早いのではないだろうか。あまりにも足腰が覚束無いヘビ青年に、つばめは同情心すら湧いてきた。だが、相手は紛れもなく敵なのだ。どれだけ見た目が変でも、態度が情けなくとも、遺産を悪用している企業の差し金であることには変わりはない。つばめの肩越しに広場を見据えるコジロウは、表情こそ現れないが緊張感があった。

「うん。うん、ん、大体は予想通り。心拍は単純計算で二百、凄い、凄いぞ、吉岡りんねの生体組織の非じゃないね。これならどんな生体改造にも耐えられる、それどころか、アソウギの能力を応用した遺伝子工学が」

 ヘビ青年は独り言を連ねながら長い背を弓形に曲げ、関節の外れる顎を大きく開く。

「脳細胞がくっついてきた。ああ凄い、あー気持ちいい……」

 肩のない首をゆらりと反らし、ヘビ青年は瞳孔が針の如く細くなった目で、つばめを捉える。

「アソウギには、重大な欠陥がある。遺伝子と蛋白質と水分と多少の金属物質を与えれば、環境に適応した生物を生産出来たり、生身の人間と適当な生き物を一緒に放り込んで溶かし込んじゃえば改造人間が出来上がるけど、量産体制には至らない。それどころか、アソウギを投与して体液の大半をアソウギに置き換えなければ、改造人間は生物としての形を保てなくなっちゃう。僕はその作用を応用して改造人間の生体組織を液状化させ、保存出来る技術を見つけ出したけど、そんなのは所詮副産物だったりする」

 ヘビ青年の円らな瞳に力が籠もり、瞼を狭めるように瞬膜を少し出す。

「アソウギは与えられた遺伝子からその生物を取り巻く環境を分析すると同時に状況適応能力を見出し、授ける。それはつまり、苛烈な環境下にある生物の遺伝子を使用して改造人間を作り出せば、どれだけ脆弱な人間であろうとも驚異的な力を持った怪物になれるというわけだ」

 バランスが取れるようになったのか、ヘビ青年は確かな足取りで校舎に近付いてくる。

「馬鹿息子の伊織がその良い例だよ。あいつはとことん馬鹿だけど、あらゆる化学実験を行っても生き延びた軍隊アリの遺伝子とアソウギを体に混ぜ込まれて改造されたんだ。だから、あんなにも完成度が高いんだ」

 ヘビ青年は先割れの舌を伸ばしながら、顎を最大限に開いて牙を剥く。

「社長は僕を君の元に差し向けてくれた。ステレオタイプな世界征服計画には差したる興味はないけど、僕の能力を認めてくれたばかりか生かしてくれたのは社長だけなんだ。その恩義には報いる必要がある」

 先程までの辿々しい態度とは打って変わって、ヘビ青年は流暢かつ勝ち気に己の考えを並べ立てていった。余程自分の能力が認められたことが誇らしいのだろう、少々解りづらいが笑顔すら浮かべている。長い尻尾も上機嫌に左右に揺れていて、広場の地面に太い筋がいくつも付いている。コジロウはヘビ青年に応戦するべく、顎を引いて拳を固めたが、つばめはコジロウを制してヘビ青年と向き合った。

 戦闘を回避出来る良い考えが浮かんだ。



 ヘビのマウントポジションを取るのは難しい。

 だが、それは手足が生えていない場合だ。蛇足ってことわざは正しかった、とつばめは変なことに感心しながら、コジロウに押さえ込まれているヘビ青年を見守った。長い体をうねうねと必死に動かしたが、ヘビ青年は怪人体に変身した際に生やした両手足を逆方向に曲げられているので、コジロウの万力の如きホールドから脱せずにいた。羽交い締めされた上に両足をも固められているヘビ青年は息苦しげに舌を伸ばし、指の間に水掻きのような膜が張った手でコジロウの外装を弱々しくタップするが、コジロウは決してそれを聞き入れずにヘビ青年の縦に長い体に覆い被さっていた。世にも珍しい、警官ロボット対ヘビ怪人のレスリングだ。

 つばめはコジロウに、ヘビ青年を取り押さえておくように命令した。外骨格が強固な伊織とは違って、ヘビ青年の耐久性はそれほど高くなさそうなので、コジロウの凄まじい腕力で殴り付けたら過剰なダメージを与えてしまいかねない。先程の口振りからしてヘビ青年は高学歴の化学者であると見ていい。暴力と殺人衝動の固まりである伊織のように本能的に体を捌けないだろうから、コジロウと真っ正面から戦っても勝負になる以前の問題だ。と、いうことで、つばめは必要最低限の労力でヘビ青年を籠絡する策を講じた。その結果が、これである。

「はい、ワン、ツー、スリー!」

 教室の窓越しにつばめがスリーカウントを取ると、ヘビ青年は息も絶え絶えに文句を言った。

「卑怯だぞぉっ、どれだけウェイトに差があると思ってぇっ……」

「降伏せよ。さもなくば、強硬手段に及ぶ」

 つばめのスリーカウントが終わると、コジロウはヘビ青年の後頭部に額に当たる外装を据えた。ヘビ青年は更に文句を吐き出そうと顎を開くも、ヘッドバッドを放とうとしているコジロウの態勢に気付くと口籠もった。

「ああ、うぅ……」

「コジロウ、そのままでいてねー」

 つばめが呼び掛けると、コジロウは顔を上げた。

「了解した」

 教室の窓を閉じてから昇降口に向かい、上履きからスニーカーに履き替えたつばめが広場に出ると、ヘビ青年は捨てられた子イヌのような眼差しを向けてきたが相手にはしなかった。己の重量と腕力を最大限に生かしてマウントポジションを維持しているコジロウは、つばめが至近距離に近付いてきたと知ると脚部装甲を開き、内蔵されているタイヤを出してヘビ青年の足に噛ませた。途端に、ヘビ青年の尻尾が縮み上がる。

「そ、そのタイヤ、動かさないよね、ねっ!?」

「さあて、どうだか」

 つばめが腰に手を当てて嫌みったらしく笑うと、ヘビ青年は狼狽えた。

「わ、悪かったよ、予告もなしに襲撃してさぁ。で、でっでもあれだろぉ、まだ何もしてないじゃないかぁ」

「私を痛い目に遭わせるために来たんでしょ? なのに自分が痛い目に遭いたくないなんて、変じゃんか」

「でも、それは未遂……」

「未遂でも、格好だけであっても、私を良いように利用しに来たのは事実じゃない。それなのに、自分がやられそうになったら及び腰になるなんて情けないにも程があるよ。大体さぁ、私がこれまでどんな目に遭ってきたか解る?」

「資料には全部目を通したし、御嬢様一味の報告書だって読んできたこの僕に対して、その質問はないなぁ」

「見ると聞くとじゃ大違いだよ」

 ここ最近の大異変を、つばめは訥々と語り出した。

「ただの一度も会ったことのないお爺ちゃんのお葬式があるからって連れ出されたら、良く解らない遺産を全部相続させられて、従兄弟の極悪成金美少女とその部下に命を狙われて。初日なんてあの伊織って奴に胴体を掴まれてぶん投げられたんだよ。その次は吹雪の中を一生懸命歩いていたら砲撃されて、ついでに雪崩を起こされて。またその次は、大事な大事なお姉ちゃんの命が狙われて。更にその次は食糧を買い出しに出かけたらホームセンターで待ち伏せされて、先生が銃撃戦を始めちゃってさぁ。で、その次は平日は襲わないでほしいって吉岡一味の別荘に交渉しに行ったら、逆にお姉ちゃんを殺すって脅されて。まあ、きっちりやり返したんだけど。でもって、この前の日曜日なんてお天気が良いから菜の花畑に散歩に行ったら地雷原になっていて」

「うっわひでぇ」

 ヘビ青年が半笑いのような語気で感想を述べたので、つばめはむっとした。

「で、あんたは私を半殺しにして研究材料にするためにここに来たと。ゲームだったか漫画だったかのセリフだったと思うけど、銃を撃つ覚悟があるのは撃たれる覚悟がある奴だ、ってのがあるんだよね。だから、いたいけな中学二年生の女の子をひどい目に遭わせるってことはそれ相応にひどい目に遭う覚悟がある、ってことだよね。ない、とは言わせないよ?

 むしろ、言うな。言ったらコジロウのタイヤが大回転だー!」

 つばめが威勢良く指差すと、ヘビ青年は首を振り回した。

「ひいいいいいい!」

 彼の引きつった悲鳴にちょっと快感を覚えたが、気を取り直し、つばめは話を続けた。

「このまま何もせずに引き下がって遺産を体の中から取り除いて、何事もなかったかのように普通の人間として社会生活を送るっていうのなら、私もそれに協力してあげる。遺産の操り方なんて知らないけど、べたべた触っていればそのうちなんとかなるよね。でも、遺産を使って手に入れた能力とか会社の地位とか給料が大事だから、って言うのであれば話は別。遺産ごと私の管理下に置いてやるー!」

「ひいいいいいい!」

「だってそうじゃん、お爺ちゃんの遺言書に寄れば遺産の一切合切は私のものなんだもん。てぇことは、その遺産を体液にしているあんたも、あの伊織って奴も、全部が全部私の所有物って理屈になるじゃん」

「いや、それは屁理屈ってやつじゃ」

「文句ある?」

「……いや、別に」

 つばめに睨まれ、ヘビ青年はそっと目を逸らした。

「ね、給料はいくら?」

 つばめが質問すると、ヘビ青年は面食らった。

「なんだよ、出し抜けに。合コンに来た三十代の行き遅れ女でもあるまいし、キモッ」

「いいから答えろ、でないとコジロウのタイヤが」

「解った解った、解ったからそれだけは勘弁してよ。もう……」

 ヘビ青年は瞬膜を開閉させて瞬きしてから、答えた。

「ええーと、新卒採用されてから四年が過ぎたけど、その間に賃金は気持ちだけ上がったんだよなぁー。交通費とか社員寮の家賃とかを差っ引いた手取りは確か、十三万六千円と少々だったような」

「うっわ安ぅ! 人間じゃなくなった代償がそれだけ?」

「あ、で、でも、来月からは手当が付くんだからな! 怪人手当と時間外勤務手当が! それらを合算すると手取りは二十万を超えるんだけどね、怪人体の維持に必要な薬剤は自費で買わなきゃならないし、それが保健適応外の代物なもんだから、結局は大して変わらないような、変わるような……」

 ヘビ青年は徐々に語気を弱め、尻尾をだらりと下げた。その様に、つばめは思わず嘆いた。

「世知辛いったらありゃしない」

「まぁねぇ。フジワラ製薬は景気の良い企業だと思ったから、苦労に苦労を重ねて就活して入社したんだけどさぁ」

「じゃ、その倍は出そう」

「はい?」

「倍じゃ不満なら三倍は出す。それでも不満なら、言い値で」

 つばめが指を三本立てると、ヘビ青年は目玉が零れ落ちかねないほど目を見開いた。

「……へあ?」

「だーかーらー、私があんたを雇ってあげるって言ってんの。フジワラ製薬と私の部下の掛け持ちでダブルスパイをしてくれるって言うのなら、それはそれで好都合じゃない?

 ちょっと敵の情報を流してくれるだけで、私の方からの給料も入るわけだし。私の話を蹴ってフジワラ製薬の社員で居続けるって言うのなら、この場で倒すけどね」

「ちょ、ちょっと待って、ね」

「はい、どうぞ」

 つばめがにこやかに返すと、ヘビ青年はしばらく口の中でもごもごと呟いていたが、目を上げた。

「敵陣営の配下の者を丸め込んで手中に収めて間諜に使う、というのは兵法の基本中の基本だけど、いざその立場になったら物凄く戸惑うね。でも、悪い話じゃ……ないかもしれない、んだよなぁ」

「でしょ? 吉岡りんねに部下がいるんだもん、私の方にいなくてどうするっての。コジロウは別格だけど」

「ちょっと考えさせてよ、それぐらいの時間はくれよ、悪い返事はしないからさぁ。この僕がだよ?」

 ヘビ青年は頭を下げると、つばめを下から見上げてきた。下手に出てはいるものの、卑屈さと陰険さが奥底から滲み出ている。他人の顔色と時流を窺いながら己の能力と実力を発揮する機会を見逃さず、押してみて分が悪いと判断したらすぐに引く。人間的には嫌な部類に入るが、間諜としては悪くない。問題は忠誠心の有無だ。

「ま、いいや。考えがまとまったら、声を掛けてね。それまで私は学校を掃除するから」

 つばめはヘビ青年とコジロウに背を向け、足早に校舎に戻っていった。呼び止める声が聞こえてきたが、明確な答えではなかったので取り合わなかった。スニーカーから上履きに履き替えて教室に戻り、改めてジャージに着替えてから掃除に取り掛かった。積もりに積もった埃をホウキで床という床を掃き掃除し、固く絞ったモップを掛け、トイレもまた入念に掃除し、職員室も手を付けられる範囲で綺麗にしていくと、心なしか校舎全体が明るくなった。

 熱中しすぎて、ヘビ青年のことをすっかり失念していた。



 船島集落に帰還した一乗寺が目にしたのは、奇妙な光景だった。

 鮮烈な西日に照らされた校舎前の広場で、コジロウが俯せになっていた。その両手足は何者かを拘束しているかのように曲がっていて、両足のタイヤも露出している。だが、その体の下には空間が広がっているだけで拘束するべき相手は存在していなかった。心なしか影になっている部分の地面が湿っている程度で、何かが押さえ込まれていたという痕跡すら見当たらなかった。言うならば、エアマウントである。

「何これ?」

 バイクを止めてフルフェイスのヘルメットを外した一乗寺が不思議がると、教室の窓が開いてジャージ姿のつばめが顔を出した。熱心に掃除をしていたらしく、髪にもジャージにも埃が付いている。

「あ、先生、お帰りなさーい」

「うん、ただいまー。で、これは何をさせているわけ? 幽霊でも掴まえたの?」

 一乗寺が妙な態勢のコジロウを指すと、つばめはぎょっとした。

「ああっ! すっかり忘れてたぁっ!」

「何を」

「あのですね先生、ヘビが出たんですよヘビが! 超デカいのが! んで、それが例によって私のことを狙っていたものだから逆にやり込めてやろうって思って、コジロウにマウントを取らせてから取引を持ち掛けたんですけど!」

 つばめは窓枠から身を乗り出し、汚れた雑巾を振り回す。

「うっかり掃除に熱中しちゃってヘビ野郎の存在を綺麗さっぱり忘れた挙げ句、逃げられたわけだ」

 うわダッセ、と一乗寺がストレートな感想を述べると、つばめは赤面した。

「御名答です」

「で、どんな取引を持ち掛けたわけ?」

 正直興味はなかったが一乗寺が尋ねると、つばめは苦笑した。

「そのヘビってのがフジワラ製薬の差し金らしくて、フジワラ製薬の三倍は給料を出すからダブルスパイをしてくれーって頼んでみたんですよ。でも、すぐに答えてくれなくて、仕方ないから掃除を始めたら面白くなっちゃって」

 ごめんコジロウ、もういいよ、とつばめが命令を解除すると、無理のあるエアマウントの態勢を保っていたコジロウは関節から高圧の蒸気を噴き出し、一度俯せになってから起き上がった。ロボットであろうとも、長時間変な態勢でいたために過負荷が掛かっていたらしく、廃熱によって僅かばかり陽炎が起きていた。

「で、自習はしたの?」

 一乗寺が再び尋ねると、つばめは言い返してきた。

「自習のプリントも置いていかなかったくせに、よく言いますね」

「あーそうだっけ? ごめーん」

 てへっ、と一乗寺が自分を小突いてみせると、つばめは冷たく言い捨てた。

「それだけは止めて下さい。リアルに殺意を覚えます」

「廃熱と同時に各部の点検、及びエネルギー供給の開始」

 コジロウは理不尽かついい加減な命令に文句も言わずに、機体の不具合を確認し始めた。長らく留守にしていた担任教師に文句をぶつけてくるつばめをやる気なくあしらいながら、一乗寺はコジロウを見やった。彼と交戦したヘビ怪人の正体は十中八九、フジワラ製薬の研究員である羽部鏡一だ。

 だとしても、疑問が残る。羽部鏡一本人だとしたら、なぜつばめの前にわざわざ顔を出したのか。つばめと接触することはイコールでコジロウと敵対することになるのだから、怪人への変身能力を得ているとしても戦闘経験が皆無な羽部にとっては極めて不利な状況に陥るはずだ。実際、コジロウにあっさり確保されて拘束されていたばかりか、つばめに無茶苦茶な取引を持ち掛けられてしまった。吉岡一味が住んでいる別荘に液状化した状態で輸送された後、無事固体化したはいいが、フジワラ製薬を見限って裏切るつもりだったのだろうか。或いは、フジワラ製薬側とこちら側を繋げる内通者となるべく潜り込む手筈だったのか。それとも、全く別の目的なのだろうか。

「ねえつばめちゃん、そのヘビ野郎に何かした?」

 湿り気の残る地面に触れながら一乗寺が呟くと、つばめは少し考えた後に答えた。

「ちょっとだけ触りましたけど。最初に見た時にはヘビだとは思わなかったから、何かなーって。で、それからしばらくしたら、寝起きでぼんやりしていた感じのヘビの人が急に元気になって難しいことを一杯喋って、私に襲い掛かってきそうになったからコジロウにマウントを取ってもらって。なんか、まずかったですかね」

「これは俺の想像に過ぎないんだけどさぁー……」

 一乗寺は、湿り気のある土を指先でなぞる。

「この前、つばめちゃんが藤原伊織に触った時は明確な命令を頭に浮かべていたから、事態はどうにか好転した。だけど、その明確な命令がないまま管理者権限が適応されたとしたら、どうなると思う? 俺が考えるに、ログイン画面にアカウントとパスワードを入力した状態になるんじゃないかってね。どの遺産にしたって、アクセスもログインもされなきゃ動くはずがないんだよ。管理者権限の持ち主がアクセスしてログインしてコマンドを入力して初めて動く代物なんだよ。なのに、ログインしたまま放置したってことは、コマンド入力し放題ってことじゃんか」

「え? そ、そんなにヤバかったんですか?」 

「情報を秘匿しすぎるってのも考え物だよ、いやマジで。そりゃつばめちゃんに遺産絡みの情報を与えずにいれば、つばめちゃんが私利私欲に走る危険性は軽減出来るし、余計な騒動が起きなくて済むだろうけどさあ、当の本人に危機意識が生まれないもんだから丸裸も同然なんだよ。これだからお役所仕事って嫌ーい」

「ごめんなさい。私、そんなことになるとは知らなくて」

「いいのいいのー。つばめちゃんは責任を被るような年齢でもなければ立場でもないし、始末書が来るとしたら俺にだし、そもそもつばめちゃんは被保護対象者であって自分から行動に出ることを想定されていないわけだし、政府側の対応がグズグズの穴だらけなのは今に始まったことじゃないし。それに、俺としてはちょっと楽しかったりする」

 一乗寺は立ち上がると、おもむろに拳銃を抜いて湿った地面に発砲した。

「怪人なんてものは法律上は存在していないんだから、フジワラ製薬の怪人共が徒党を組んでつばめちゃんに襲い掛かってきてくれたら、ガンガン殺せるじゃん?」

 銃声に驚いて硬直しているつばめを目の端に捉えつつ、一乗寺は熱を帯びた愛銃に目を細めた。銃口から昇る細い硝煙と鼻腔を刺す火薬の匂いと、肩と腕に残る痺れを伴う余韻が、性的興奮にも等しい高揚感を味わわせてくれた。ヘビ怪人に変身した羽部鏡一を殺せなかったのは心底惜しいが、楽しみが先に伸びたと思えばいいだけのことだ。さあ来い、限りのない欲望に溺れた化け物共よ。

 知恵の実はここにある。

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