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可愛い子にはタブーをさせよ

 実に長い夕食だった。

 ディナーが始まったのは午後七時過ぎだったが、終わったのは午後十時を回った頃だった。その間、設楽道子は吉岡一家が貸し切りにしたフレンチレストランの個室の前で待機していた。三時間以上も突っ立っていたことになるが、そこはフルサイボーグなので肉体的な疲労は感じないし、早々に節電モードに切り替えておいたのでバッテリーの浪費も少なく済んでいた。退屈凌ぎにインターネットにアクセスして動画やSNSを見ていたが、ネットサーフィンにも飽きてきた頃合いにようやく会食がお開きになった。

 吉岡一家が長々とディナーを楽しんでいた個室のドアをウェイターがうやうやしく開けると、恰幅の良い中年の男が最初に出てきた。仕立ての良いスーツの下腹部は大きく膨らみ、生え際が少々後退しつつある髪が後頭部へと撫で付けてある。顔立ちは濃いが決して悪印象はなく、経済界を渡り歩いてきた貫禄があった。この男こそが、吉岡グループの総元締めである吉岡八五郎だ。

 続いて現れたのは、シルクのとろけるような艶を際立たせるデザインのディナードレスで肢体を包み込んだ妙齢の女性で、ワインの酔いでかすかに上気した首筋が匂い立つような色香を醸し出していた。彼女こそが吉岡りんねの母親であり、吉岡グループの大株主でもある、吉岡文香だ。一人娘の容貌に勝るとも劣らぬ美貌の持ち主であり、年齢を重ねても衰えないどころか円熟味を増している。

 最後に個室から出てきたのは、ゴシックな雰囲気の黒のドレスに身を包んだ吉岡りんねだった。普段は真っ直ぐ垂らしている黒髪はふんわりと結われて後頭部にまとめられ、薄化粧をも施されている。控えめなフリルとレースが付いたドレスの裾が柔らかく揺れ、ローヒールのパンプスが分厚い絨毯に埋もれた。

「いつも娘が世話になっているね、道子さん」

 吉岡は道子に近付き、人好きのする笑顔を見せた。

「いえいえ、こちらこそ御嬢様の元でお仕事をさせて頂けるなんて光栄ですぅーん」

 道子が笑顔を返すと、文香はウェイターが差し出してきた毛皮のストールで肩を覆った。

「あまり結果を急がなくてもよろしくてよ。私達には、お金も時間もあるのだから」

「承知しておりますぅーん、奥様、旦那様ぁーん」

 道子がメイド服の裾を持ち上げて一礼すると、吉岡夫妻は娘を頼むと言い残して立ち去った。二人の姿が見えなくなるまで道子は頭を下げていたが、その気配が遠ざかるとメイド服の裾を離した。りんねがエナメルのハンドバッグを差し出してきたので、道子はそれを受け取ると、りんねの一歩後に続いて歩き出した。

「御嬢様ぁーん、御両親との御食事はいかがでしたかぁーん?」

「鴨のローストの味が落ちていました。クレームブリュレの焼き色も今一つでした」

「それはそれはぁーん」

「ですが、コンソメスープの香りと真鯛のソテーの焼き加減は向上していましたので、フルコースの完成度は保たれています」

「それはそれはぁーん」

「御母様からクラスメイトのお話を伺いました。その居場所についても、クラスメイトの御母様が御母様にお伝えしてくれていたものを耳に入れました。何やら厄介なことに巻き込まれていらっしゃるようです」

「それはそれはぁーん、よろしゅうございましたねぇーん」

 道子が同じ言葉を繰り返すと、りんねは一度振り向いた。

「皆さんから、何か連絡はありましたか?」

「定期連絡に寄ればぁーん、高守さんの作戦が失敗したそうですぅーん」

「そうですか。それは残念ですね」

 言葉の割には冷淡な反応を返し、りんねはまた歩き出した。ゴシックなドレスに合わせるにしては地味な水晶玉のネックレスが細い鎖骨の間で揺れ、間接照明の光を撥ねる。

「参りましょう、道子さん」

「はぁーいん。御屋敷にお戻りになられるんですねぇーん?」

「いえ、今夜は直帰いたしません。少し、寄りたいところがあるので」

 行き先は車に入ってからお伝えいたします、と言い残し、りんねは歩調を速めた。お堅い性分のりんねが夜遊びとは珍しい、とは思ったが口には出さず、道子は駐車場に向かった。吉岡夫妻が乗ってきたリムジンは既に発車しており、優雅な車体は影も形もなかった。道子は小走りに駐車場を通り抜け、運転手共々主の帰りを待ち侘びていた銀色のベンツCLKクラスの後部座席のドアを開けた。りんねは後部座席に乗り込み、シートベルトを締めた。道子も反対側のドアを開けて乗り込み、座り心地の良いシートに身を沈め、シートベルトを締めた。

「それでぇーん、御嬢様ぁーん。どちらまで車をお出しすればよろしいのですかぁーん?」

 道子がハンドバッグを渡しながら尋ねると、りんねはハンドバッグから携帯電話を出し、操作した。

「京浜工業地帯の天王山工場までお願いいたします」

「あらまぁーん。そこって確かぁーん、自動車のフレーム組み立て工場だったけど色々あって倒産してぇーん、格安で買い叩かれてろくでもないことに使われているところですよねぇーん?」

 りんねらしからぬ行き先に道子が目を丸めると、りんねは運転手を促した。

「ええ、その通りです。発車して頂けますか」

 その指示に従い、メルセデス・ベンツは滑るように発進した。フレンチレストランの従業員に見送られながら道路に出た高級車は、静かな排気音と品の良いエンジン音を響かせながら、赤いテールランプが幾重にも連なる車列に紛れ込んだ。誰も彼もが帰路を急ぐわりには進みが遅い幹線道路を脱し、京浜工業地帯に繋がる道路に入ると、いくらか車の台数が減って進みやすくなった。りんねは終始無言で、眩い夜景を見つめていた。

 久し振りに家族に会ったというのに、反応が薄すぎやしないか。道子はりんねの整った横顔を見つめながら、ふとそんなことを考えた。だが、考えるだけである。意見する意味も必要もないので、音声として変換する作業すらせずに脳の内に収めた。道子もそうだが、一味の部下は全てりんねの道具だ。破格の給料を受け取る代わりに十四歳の少女の手足となって働くのが役割なのであり、無駄口を叩くことではない。

 だが、こう思ってもいる。遺産相続に関わる一切合切をりんねが一任しているというのも妙だ。部下達はその筋のプロではあるが、りんねはそうではない。どれほど頭が良かろうと十四歳の少女に過ぎないのであり、友達と遊びに興じたいのではないだろうか。研ぎ澄まされた刃を思わせる美貌の下にも、年相応の素顔があるはずだ。

「道子さん。こちらから、天王山工場のデータベースに侵入出来ますか?」

 りんねがホログラフィーモニターを向けてきたので、道子はその中に投影されているレイアウトが素人臭いウェブサイトを見つめた。パスワード制のSNSを装ってはいるが、その実は天王山工場で行われている違法賭博を専門に扱うサイトだった。違法賭博を愛好する者達の間だけで通用する隠語と略語が飛び交い、読みづらい。

「うーん、それはちょっと難しいかもしれませんねぇーん。ウェブ上にアップされているデータは大したことはないですしぃーん、データベースは完全に独立していますぅーん。なのでぇーん、現地に行って直接サーバーをどうこうしないと難しいですねぇーん。違法賭博だけあってぇーん、その辺はきっちりかっちりやっていますぅーん」

「そうですか。でしたら、その方法でお願いいたしますね」

「はぁーいん、了解しましたぁーん」

 道子は笑顔を保ちながら了承すると、りんねはホログラフィーモニターを縮小し、操作した。

「このような経緯ではありますが、久し振りにお会いするのが楽しみです」

 りんねの手元に投影された画像の中では、国立大付属中学校の制服姿の少女が二人映っていた。片方は笑顔を浮かべているりんねで、もう一方の少女は少しクセのある長い髪をサイドテールに結んでいた。目鼻立ちが地味だが表情が弾けるように明るく、りんねに率先して腕を絡めている。その画像を見、道子はなんだか安心した。人形じみたりんねにもちゃんとした学園生活があり、当たり前に友人がいるのだと知ったからだ。

 年下の上司に、いくらか親しみを覚えた。



 小一時間後、銀色のベンツは天王山工場に到着した。

 弱い街灯に照らされた駐車場は汚らしく、件の工場の壁やその周囲にはペンキやスプレーによる落書きが山ほどあった。グラフティーアートの真似事もあれば社会への文句をぶちまけたものもあり、中には薬物の密売人の名前と連絡先も印されていた。駐車場に並ぶ車はどれも原形を止めないほど改造されているので、銀色のベンツは文字通り掃きだめの鶴だった。天王山工場の錆び付いた出入り口にはピアスとタトゥーが付いた若い男達がたむろし、タバコの煙が濃厚に漂っていた。運転手は臆したらしく、ここでお待ちしております、と言って運転席から出ようともせず、シートベルトすらも外そうとしなかった。

 道子は後部座席のドアを開けてやると、りんねは躊躇わずに外に出てきた。銀色のベンツは駐車場に入る段階で目を惹いていたのだろう、若い男達や駐車場のトラックの運転手達の視線がりんねに食らい付いた。道子はりんねを守るように、半歩後に続いて歩き出した。パンプスの硬質な足音を高らかに響かせながら、りんねが天王山工場へと近付いていくと、銜えタバコの男が立ちはだかってきた。限界まで脱色した髪を逆立て、擦り切れたジーンズに醜悪なスラングが付いたTシャツが多少の威圧感を生み出していた。

「んだよお前ら、ここでパーティでもやってると思ったのか?」

「つか、メイド連れなんてヤバくね? 金持ち?」

 別の若い男が、けたけたと笑いながら近付いてくる。

「それともアレか、こいつらって誰かの賭け金だったりするん?」

 また別の男が、安酒の缶でりんねを示す。

「あーあるかもしんねー、レイガンドーは負けが込んでんもんなぁー」

 娘差し出してもおかしくねーし、と若い男の一人が大笑いすると、その笑いが伝染して全員が声を上げた。

「道を空けて頂けませんか。私も一勝負いたします」

 りんねが一礼すると、髪をオレンジに染めた男が馴れ馴れしくりんねに顔を寄せてきた。

「勝負すんだったらさぁ、俺達ともっと楽しい勝負しようぜ。お前んちのメイドさんも一緒にさ、な?」

「戦う前に負けますよぉん?」

 すかさず道子がりんねとオレンジの髪の男の間に割り込み、手首の人工外皮を開いて銃口を突き出してみせた。虚仮威しではないことを示すために低出力でビームを放ち、出入り口付近に転がされていた安酒の缶を撃ち抜く。中身が残っていたアルミ缶に呆気なく穴が空き、レモン味のチューハイが飛び散った。男達は乏しい語彙で罵倒しながら後退ったので、りんねは深々と一礼してから、両開きの鉄扉の脇にあるドアに向かった。

 一部始終を見ていた門番の男は一言二言文句を付けてきたが、りんねが財布を開いて現金の束を差し出すと、すぐさま鍵を開けてくれた。ステンレス製のドアの奥には金網を張ったドアがあり、更に防音壁を張ったドアがあり、最後のドアを開けた瞬間に凄まじい轟音と閃光が襲い掛かってきた。

 強烈なスポットライトとカクテルビームを浴びせられているのは、鋼鉄の獣の檻だった。不格好な人型ロボットが拳を振るうたびに、巨大な檻を取り囲んでいる人間達は叫声を上げる。外装が砕け、オイルが飛び散り、ケーブルが千切れ、機械同士の殺し合いが加速すればするほどに人々は熱狂する。かつては車のフレームを組み立てる工場であった天王山工場は、今や地下闘技場と化していた。単純明解な娯楽で生み出されるのは暴力による快楽だけではなく、ロボット同士の殺し合いの勝敗を巡る違法賭博も横行し、一夜にして莫大な金が動いていた。

「さあ、まだ立ち上がれるか!? かつての無敗の帝王はスクラップに成り果ててしまうのかぁーっ!」

 音割れのひどいマイクで実況役が絶叫すると、人々は壊れかけた人型ロボットに悲鳴とも罵声とも付かない声をぶちまける。リングというには粗野すぎる檻の中で戦いを強いられているのは、青い塗装が剥げかけた大型の人型ロボットだった。道子は一目見て、そのロボットがどの企業の製品をベースにして作った機体であるのか判別した。機械の骨格ともいうべきフレームのクセと独特のモーター音、肘の駆動域の広さに攻撃に対する反応速度からして、工業用ロボットが主要産業である小倉重機の製品を改造した機体だろう。

 壁に貼られているオッズ表によれば青いロボットはレイガンドーという名であり、勝敗表を見る限りでは先週末までは無敗を誇っていた。先程りんねが提示してみせたウェブサイトにアクセスして賭博参加者の書き込みや記事を参照してみると、工業用ロボットらしい下半身の安定性と特殊合金を使用したフレームのしなやかさを生かした戦い方で幾多の苦戦も切り抜けてきたが、新規参入した機体、岩龍にKOされてからは調子が振るわないようだった。そして今夜は、その岩龍にリターンマッチを挑んだようだった。オッズ表から察するに、飛ぶ鳥を落とす勢いで連戦連勝の岩龍に期待を掛ける者達とレイガンドーの復活を願う者達で半々だった。

 レイガンドー、レイガンドー、とのコールが巻き起こる。飾り気のないマスクフェイスは傷だらけで左のスコープアイは完全に潰れていたが、バランサーは無事なのか腰を据えて立ち上がり、歪みかけたシャフトを物ともせずに拳を放った。金属と金属が激突する破砕音の後に吹き飛んだのは、レイガンドーの右の拳だった。

「これはいけませんね」

 がしゃあっ、と檻を揺さぶったレイガンドーの拳を一瞥し、りんねが呟いた。右の拳を失ったレイガンドーはたたらを踏み、左の拳を構え直そうとするも、相手のロボットが顎を突き上げてくる。視覚センサーをあらぬ方向に逸らされたことで一層混乱したのか、レイガンドーは拳を振るうも空を切っただけだった。そして、相手のロボットは腰を落としてレイガンドーの懐に滑り込むと、両の拳を突き出して吹き飛ばした。両足を引き摺って火花を散らしたレイガンドーは檻に背中から突っ込み、破損部分からオイルを噴き出した後に機能停止した。

「KO! 勝者あっ、岩龍(がんりゅう)ぅうううううううっ!」

 マイクに噛み付かんばかりに吼えた実況役は、岩龍のオーナーでありセコンドである男の腕を挙げさせた。だが、男は無反応で、手元の小型ラップトップに目を落としていた。道子はズームして男の手元のホログラフィーモニターを見つめ、人型ロボットのコントロールを行うソフトを判別した。基本的には工業用ロボットの遠隔操作に用いられているソフトと同じフォーマットだが、そっくりそのままであるはずがない。道子は工場内を飛び交う電波を絡め取ると、岩龍のオーナーのコンピューターに意識を侵入させた。だが、深入りはしない。足跡を付けておくだけだ。プロテクトの掛かったハードディスクの深層に潜り込むためには、サーバーの助力を借りなければならないからだ。

「さあ差し出せぇっ、お前の賭け金を!」

 実況役が大きく手を挙げると、レイガンドーのオーナーでありセコンドである男の頭上にスポットライトが降り注ぐ。疲れ果てた中年の男が倦んだ目を上げると、セコンドコーナーの片隅に、鉄臭く油臭い闘技場に似付かわしくない制服姿の少女が身を縮めていた。その顔は、りんねと一緒に写真に写っていた少女と同じだった。

「お……お父さん……」

 少女は青ざめて後退るが、男は岩龍のオーナーを顎で示すだけだった。

「行け」

「嫌ぁあああああああっ!」

 少女は泣き喚いて逃げ出そうとするも、手近な男達が少女を取り押さえ、引き摺っていく。ローファーが脱げるのも構わずに足をばたつかせるも、背が高く腕力のある男達の手は弛みもしなかった。血の気の引いた唇を震わせて唸りを漏らし、顎から滴るほど涙を流すも、誰一人として制止しなかった。それどころか、観客達は煽り立てていく。もう岩龍に勝てる奴はいないのか、あの娘を欲しい奴は岩龍に挑め、と。

「この勝負、お待ち下さいませ」

 りんねが涼やかな声を張ると、狙い澄ましたようにスポットライトが当たった。岩龍のオーナーの元に転がされそうになっていた少女は目を見開き、浅く息を飲んだ。りんちゃん、と動揺した呟きがざわめきに塗り潰される。

「不躾な発言を御許し下さいませ、皆々様」

 りんねはスカートの両端を持ち上げて軽く膝を曲げ、一礼してから、少女に目線を向けた。

「私は吉岡グループの一人娘であります、吉岡りんねと申します。以後、お見知りおきを」

「これはこれは大金持ちの中の大金持ちの御嬢様、このような汚ねぇクズ共の掃きだめに何の御用時で?」

 実況役がわざとらしいほど下卑た口調で言い放つが、りんねは穏やかに返した。

「私は両親の教育方針の一環でマネーゲームを嗜んでおります。魑魅魍魎が跋扈する経済界の一角を担う、というほどのものではございませんが、投資には多少心得があります」

 りんねが歩み出すと観客達は左右に割れ、少女に道を譲った。

「この度私が目に留めましたのは、レイガンドーです」

 途端に、怒濤の如くブーイングが沸き起こる。が、りんねは動じず、機械油に汚れた檻に手を掛けた。

「今、この瞬間より、私はレイガンドーに一億円を投資いたします。リターンマッチのリターンマッチ、と申し上げるのは奇妙ではありますが、最高のコンディションのレイガンドーと最高の経験を積み重ねた岩龍の激闘を、観客の皆々様はご覧になりたくはありませんか?」

 僅かな静寂の後、ブーイングが歓声に反転する。

「だがな御嬢様、これはガキの遊びじゃないんだ、今夜のファイトが無効になったらどれだけ損をすると!」

 マイクを握り締めながら実況役がりんねに詰め寄ってきたが、りんねは小切手を千切り、差し出した。

「どうぞ、お好きな額をお書き下さい」

「話が解るじゃねぇの」

 実況役はりんねの手から小切手を引ったくると、威勢良く叫んだ。

「崖っぷちのレイガンドーに、世にも麗しいスポンサーが現れやがったぁああああっ! 今夜の勝負は一旦幕引きだが、これで終わりだと思うなよ馬鹿野郎共ぉおおおおおっ! レイガンドーと岩龍の真の戦いは一週間後、この場所でだ! せいぜい賭け金を抱えてくるがいい!」

 廃工場全体が揺れ動きかねないほど、皆、熱狂した。ブーイングを発していた者達も場の空気に飲まれたようで、高揚して声を上げている。道子も少しだけ集団心理の影響を受けそうになったが、ノーリアクションのりんねを見て冷静さを取り戻した。割れんばかりの歓声の中、あの少女が無造作に放り出された。父親であるレイガンドーのオーナーを苦々しげに睨んでから、人混みを掻き分けながら、りんねの元に近付いてきた。

「りんちゃん!」

 少女は息も髪も乱してはいたが、顔に生気が戻っていた。

「お久し振りです、ミツキさん」

 りんねが目を細めると、少女は若干戸惑ったようだったが、りんねの手を取った。

「もしかして、私のことを助けに来てくれたの?」

「ええ」

 りんねは少女の手を握り返そうともせずに、太いチェーンが巻き上げられて天井へと引き上げられていく鉄の檻を見やった。鉄の檻に寄り掛かっているだけで精一杯だったレイガンドーは仰向けに倒れ、割れた外装の間から部品がいくつも外れて足元のオイル溜まりに没した。対する岩龍は安定した動作で歩いて地下闘技場を後にした。岩龍のオーナーは小型ラップトップを閉じて脇に抱え、愛機を伴い、資材搬入口から足早に出ていった。

 りんねが食い入るように見つめていたのは、賭け金にされてしまった哀れな少女でも敗北続きのレイガンドーでもそのオーナーでもなく、外装の傷以外は目立ったダメージを受けていない武骨な人型ロボット、岩龍だった。

 それが真の投資先か。



 少女の名は、小倉美月(こくらみつき)といった。

 りんねの銀色のベンツに同乗して天王山工場を脱してからというものの、口を休ませずに延々と喋り続けていた。それだけ鬱積していたものがあったのだろうが、それ以前に五分と黙っていられない性分なのだろう。冷酷であるとさえ感じるほど無駄のないりんねとは正反対の性格だが、正反対だからこそ仲良くなれたのだろう、と道子は自分なりに結論を出した。銀色のメルセデス・ベンツが京浜工業地帯から離れると、美月は更に饒舌になった。

「でね、有り得ないことだらけでさぁ」

 美月はベンツの車載冷蔵庫に用意されていたコーラを傾けながら、喋り続ける。

「三ヶ月ぐらい前だったかな? お父さんが取引先の人に誘われてロボット賭博を見に行って、その時は勝ち馬に、っつーか勝ちロボットに乗れてボロ儲け出来たんだよね。ビギナーズラック的な何かでさ。配当金が三十倍ぐらいになって、私もその恩恵に与ったんだけど、その後がひどくってひどくってさー。最初の頃はお父さんも小遣いの範囲でちょっと賭けてプラマイゼロぐらいだったんだけど、毎週通うようになると賭け金が倍々で増えていって、先週なんてうちの工場の抵当まで賭けたんだよ? ひどくない? ヤバすぎない? それまでは賭け事なんて一度もやったことなかったのにさぁ!」

 コーラで少し喉を潤してから、美月は身を乗り出す。

「当たり前だけど、そんなことしたら従業員が全員路頭に迷うわけ。もちろん私もお母さんも迷いまくりだし、工場に新しい機械を入れたばっかりだから借金だって返さなきゃならないし、他にも色々と払うお金があったわけよ。でも、そういうお金も全部賭けて全部負けやがったの! 有り得なくない!?」

 ええ、とりんねが気のない返事をすると、美月の語気は過熱する。

「で、首が回らなくなったからってうちのレイガンドーを改造して賭けられる方に回ったんだけど、戦い始めてすぐはそりゃー調子が良かったの。あのロボット賭博で使われているロボットのほとんどは工業用のを改造したやつなんだけど、どいつもこいつも改造が有り得ないくらい下手くそで見た目ばっかりでさー。だから、その手のノウハウがあるお父さんとレイガンドーは連戦連勝であっという間に借金も抵当も取り返したんだ。そこで引いておけば良かったのにまーた調子に乗りやがって、岩龍ってやつが出てきてからは落ちまくって金も抵当も奪い返されちゃって、挙げ句の果てに実の娘を賭け金にしやがったんだよ!?

 有り得なさすぎない!?」

「それは御愁傷様でしたね」

「全くだよ。でも、りんちゃんが元気そうで良かったよ。あれからずっと学校に来ないんだもん、心配でさぁ」

 美月はクッションが柔らかな座席に座り直すと、コーラの残る缶を回した。

「そこで止めて頂けませんか」

 りんねは運転手に命じ、道中のコンビニに寄らせた。すかさず道子は車中から出てりんね側のドアを開いてやり、付き従った。んじゃ私も行く、と美月も追い掛けてきた。夜更けのコンビニには、倦み疲れた夜勤のサラリーマンや引きこもりと思しき挙動不審で顔色の悪い若者や塾をサボって時間を潰している中学生などがおり、そんな彼らを死んだ魚のような目の店員が相手にしていた。葬式装束にも見えなくもないドレスを着たりんねが自動ドアをくぐると、皆、一様に振り向いて少しばかり目を見張った。程なくして、手元の携帯電話をいじり始めた。それぞれが愛用しているSNSで、一時の話題をさらうためだろう。彼らの扱う携帯電話の電波を拾った道子は、彼らが書き込んだコメントの内容を吟味して特に問題にならないと判断したが、無断で撮影した写真をネットにアップロードをしたら、その時はハルノネットのメインサーバーとデータバンクを併用して携帯電話会社各社の顧客情報を照会し、りんねを曝した者を社会的に抹殺してやろう。りんねを守ることもまた、部下の務めなのだから。

 コンビニの店内を一巡りした後、りんねはおでんのちくわを一本残らず買い占め、美月は唐揚げとフライドポテトを買った。道子も多少は血糖値が低下していたので、低血糖に陥ることを防ぐためにチョコレートを購入したが、その味が一切解らないのが残念だった。ベンツに戻った少女達は、それぞれの夜食を食べ始めた。

「ほんっと好きだねー、ちくわ。やっぱ、りんちゃんだなぁ」

 黙々とちくわを頬張るりんねに失笑してから、美月は唐揚げを囓った。

「だけど、あれって本気なの? うちの馬鹿なお父さんにぽんと一億円も投資するなんて、正気の沙汰じゃないよ。てか、いくらりんちゃんが大金持ちだからって、そんなに大きな額のお金を扱っていいの? そもそも、どうしてりんちゃんが天王山に来たの?」

「順を追って説明いたしましょう」

 りんねはカラシを付けたちくわを噛み千切り、嚥下する。

「私は至って本気です。利鞘が望めるからこそ、投資するのです。美月さんの御父様がオーナーであるレイガンドーさんは、ロボット賭博に用いられている他のロボットと基本性能に差はありませんが、人工知能の稼動歴が非常に長いのです。いかに完璧な格闘戦プログラムを組まれていようと、咄嗟の判断を行うためには経験が不可欠です。一個の人格が出来上がるほどの年月を過ごした人工知能には、人間味と呼べるほどの柔軟性と自己判断能力が備わっています。それさえ上手く引き出してやれば、レイガンドーさんは岩龍さんに確実に勝利出来ます。美月さんの御父様が作った借財も、一気に取り戻せます。私が天王山工場を訪れた理由については、小倉重機本社工場に到着してからお話しいたしましょう。美月さんの御父様とレイガンドーさんを交えてお話しいたしたいので」

「……そっか」

 美月はポテトをつまみ、複雑な感情を滲ませながら咀嚼した。

「本当は家に帰りたくもないしお父さんの顔なんて二度と見たくないけど、レイガンドーとはちゃんと話をしたいから、私もりんちゃんと一緒に行くよ。うちの工場に」

「でしたら、参りましょう」

 りんねが運転手に促すと、運転手は銀色のベンツを淀みなく発進させた。都心部の夜景を眺める美月の表情は終始暗く、りんねを相手にお喋りに興じたのは空元気だったのだろう。それは当然だろう、賭け事の賭け金にされたばかりか身売りされそうになったのだから、平静ではいられまい。むしろ、これまでよく泣かずに踏ん張ってきたものだと感心してしまう。美月は道子の視線に気付くと、笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつって目元が潤んだ。

「大丈夫、だから」

 それが嘘であることは明白だった。けれど、下手に慰めるのは美月への侮蔑になりかねないので、道子はそっとハンカチを差し出した。美月は懸命に嗚咽を堪えながら白いレースのハンカチを受け取り、それを顔に押し当てた。声にならない声と、これまで溜まりかねていた苦悩と、計り知れない絶望が、少女の引きつった喉の奥から漏れていた。りんねはそんな美月の震える肩に軽く手を添えると、美月は堰を切ったように号泣した。

 けれど、りんねは涙すら浮かべていなかった。



 小一時間程のドライブの後、小倉重機本社工場に到着した。

 その頃になると美月もいくらか落ち着いていて、涙も収まっていた。感情の起伏がはっきりしている分、それほど長引かない質なのかもしれない。銀色のベンツが空っぽで真っ暗闇の駐車場に滑り込むと、ヘッドライトが見覚えのあるトレーラーを照らし出した。トレーラーのコンテナと本社工場の間には、満身創痍の積み荷が滴らせたオイルの雫が滴っていた。それを見た途端、美月はまたも泣きそうになったが押し殺した。強い娘だ。

 本社工場の正面扉は閉ざされていたが、オイルの道標は途切れずに続いていた。分厚い鉄扉の間からは明かりが漏れており、物音もするので主は帰っているようだ。りんねは正面扉の脇のスチール製のドアを美月に示したが、美月が少々臆したので道子がノックした。気怠い返事があったので、道子はドアを開けた。

「夜分遅くに失礼いたしますぅーん」

 メイド服の裾を持ち上げて膝を折って一礼し、道子は年季の入った工場に入った。

「さっきの奴らか」

 油染みの付いた作業着姿の中年の男は、道子を見るとあからさまに嫌な顔をした。

「突然の訪問、失礼いたします。改めて自己紹介いたします、吉岡りんねです」

 道子に続いて工場に入ったりんねが一礼すると、美月の父親は顔を背けた。

「とっとと帰れ、お前みたいな小娘に金を出してもらうなんて情けないにも程がある。レイガンドーは負けちゃいねぇ、部品だっていくらでもある、何度でもやり直しが利く、賭け金だってある。人を虚仮にするのもいい加減にしろ」

「賭け金とは、レイガンドーさん本人ですか?」

 りんねは目線を上げ、水銀灯の鮮烈な光に照らし出されている作業台に横たわっている、スクラップ寸前の人型ロボットを見やった。青い外装はオイルと傷にまみれて汚らしく、右の拳が潰れた腕は単なる鉄の固まりに過ぎず、左のスコープアイどころか頭部の半分が抉れ、完全に機能停止しなかったのは奇跡としか言い様がない。小倉は図星だったらしく、一瞬身動いだ。りんねは、埃っぽく整理整頓が行き届いていない工場内を見渡す。

「見たところこの工場に従業員が出勤している様子はありませんので、違法賭博で負けが込んだために一人残らず解雇してしまったか、或いは従業員すらも賭け金にした挙げ句に敗北したか、そのどちらかでしょう」

「……後者だよ」

 苦々しげに、小倉は吐き捨てる。

「未成年であり可愛い盛りである美月さんを違法賭博の賭け金にしてしまえる、ということは、奥様は当の昔に愛想を尽かしてしまったのでしょうね。そうでもなければ、美月さんをあのような吹き溜まりに引き摺り出せるはずがないからです。レイガンドーさんと岩龍さんの戦闘を少々拝見いたしましたが、レイガンドーさんのフットワークの性能がかなり落ちていたところから察するに、整備不良もあったのでしょう。替えの部品の在庫がどれほど残っていようと、レイガンドーさんのオーバーホールまではお一人では行えないでしょうからね。負けを取り戻そうとするあまりに対戦のスパンもかなり短くなさっていたようですし。それでは、岩龍さんが相手ではなくても負けてしまいます」

「ああそうだよ、その通りだよ!」

 小倉は手近なスパナを投げ捨て、コンクリートの床に叩き付けた。銀色の棒が跳ね上がり、回転する。

「そこまで解っていたんなら、なんで俺なんかに目を付けた! なんで岩龍を買わない!」

「それが投資です。レイガンドーさんには、確実な利鞘が見込めるからです」

 りんねは全く動じずに小倉に歩み寄ると、ハンドバッグから小切手帳を出して一枚千切った。

「どうぞ、これをお納め下さい。レイガンドーさんのオーバーホールに必要な人件費と機材費とその他諸々を一括でまかなえるだけの額をお書きになって下さい。経費が余りましたら、そのまま懐にどうぞ。それでも足りないと仰るのでしたら、もう一枚差し上げます。あの場では一億と申し上げましたが、実際には十億ほど余裕がございます」

「なんなんだ、お前……」

 小倉は小切手とりんねを見比べ、やや身を引いた。

「美月さんのクラスメイトです」

 りんねが目を細めると、小倉は二枚の小切手を引ったくった。

「こいつは返さないからな! 絶対にだ!」

「ええ。そのつもりでお渡しいたしましたから」

「これだけありゃあ、いくらでもこいつを改造出来る……!」

 小倉は年季の入った作業机に突っ伏してペンを握り、心なしか震える手で小切手に金額を書き込んだ。小切手が歪むほど力一杯握り締めて、工場に隣接した事務所に駆け込んでいった。程なくして部品と人員を手配するために電話を掛け始めたらしく、切羽詰まった話し声が響いた。時折裏返り、舌を噛み、言葉を詰まらせながらも、突如降って湧いた幸運に狂喜している。興奮している。また派手なギャンブルに興じられる幸福感に満ち溢れている。

 小倉の姿に、道子は既視感を覚えた。佐々木つばめの襲撃と遺産の奪取という仕事に就く前、手慣らしを兼ねてハルノネットから割り振られた仕事では、人間が堕落していく光景を何度となく見てきた。きめ細かく展開された携帯電話のネットワークを利用した犯罪や闇取引の現場に踏み込み、犯罪者達が死なない程度に暴れ、道子のクセをサイボーグボディを馴染ませるために経験を積み重ねる最中に、安直な欲望に溺れた者達の末路を嫌と言うほど目の当たりにしてきた。

 道子がちょっとデータを操作して預金額を上げてやると両手を挙げて歓喜し、その元手を考えもせずに賭け事に埋没していく。その場合はほとんどがヤクザ紛いの消費者金融の口座と直結させて名義も偽装してあるので、三日と持たずに消費者金融業者に見つけ出され、何もかもを毟り取られる。中にはまともな人間もいて、真っ当に警察に届けたり、銀行に問い合わせをしたりする者もいるのだが、目先の快楽に弱い人間はいずれも奈落の底に滑り落ちていく。蝋をたっぷり塗り付けた靴底で潤滑油を踏んだかの如く、呆気なく。

「……美月」

 ぎちぃ、と作業台に横たわっていたレイガンドーが首を起こし、右だけ残ったアイセンサーでドアの陰に隠れている美月を捉えた。首のシリンダーがぎこちなく上下し、抉れた左目から一際太いオイルの筋が垂れ落ちる。

「レイ、レイぃっ」

 美月はドアを開け放って作業台に駆け寄ると、レイガンドーは右のアイセンサーを瞬かせた。

「そう泣くなよ。かわいこちゃんが台無しだ」

「馬鹿なこと言わないでよ、もう止めてよ、もういいよぉっ」

 美月はレイガンドーの左の拳に縋り付くと、肩を怒らせる。

「そう言われてもなぁ。俺は少しばかり情緒が出来上がっているってだけであって、根っこの部分はそこら辺にいる人型重機と同じなんだよ。だから、社長から戦えと命じられたら最後、戦うだけなんだよ。良い具合にチューンナップしてもらったボディがぶっ壊れるのは惜しいし、他のロボットに勝てないのは悔しいような気がするが、それだけだ。美月が泣いているのを見るのは少し辛いが、俺にどうにか出来る問題じゃない」

 レイガンドーは首を横に振り、関節が潰れかけた拳を開き、汚れた指で美月を慈しむ。

「俺から言えることがあるとすれば、社長に売られる前にどうか上手く逃げてくれ。その手伝いをしてやれたら一番いいんだろうが、生憎、俺はそこまで高度なロボットじゃないからな。資材を運んで組み立てるか、似たような境遇のロボットと戦うか、そのどちらかしか出来ないんだ。ごめんな、美月」

「お父さんをどうにかしなきゃいけないって、何度も何度も、止めたの。私が賭け金になったのも、これで最後にするからってやっとのことで約束してもらったから、だったんだけど……でも……」

 美月がレイガンドーの指に額を当てると、レイガンドーは赤いスコープアイの光を弱める。

「いいんだ、その気持ちだけで充分だよ」

「りんちゃん、レイを連れ出して。私一人じゃ逃げられない、レイも一緒じゃないと嫌」

 レイガンドーの拳を抱き締めた美月が哀願するが、りんねの反応は冷ややかだった。

「私が投資したのは、あくまでも美月さんの御父様です。美月さん御本人ではありませんから、そのお願いを聞いて差し上げることは出来ません。レイガンドーさんも、岩龍さんとリターンマッチをすると約束いたしましたから、無闇に連れ出すことは出来ません」

「りんちゃん……」

 美月はよろめき、目に見えて解るほど青ざめた。美月は大きく息を吸って文句をぶつけようとしたが寸でのところで飲み下し、ドアに向かって駆け出した。レイガンドーがその背中に声を掛けたが、美月はレイガンドーに振り返りもせずに工場から飛び出していった。りんねは美月の行方を追おうともせず、花のように佇んでいた。

「あのぉ、御嬢様ぁーん?」

 追い掛けた方がいいのではないか、と道子がりんねを窺うと、りんねは道子を一瞥した。

「道子さんがしたいようになさって下さい。私は関与しません」

「はぁーいん」

 本当にりんねは美月と友達なんだろうか、と内心で疑念を感じつつも顔には出さず、道子は工場から出た。美月の携帯電話のGPS情報を事前に得ていたので見つけ出すのは造作もなく、大して距離も離れていなかった。夜中の工場街はひっそりと静まり返っていて、春であるにも関わらず温もりがない。だが、それはあくまでも道子の主観であり、肌の感覚ではない。だだっ広い小倉重機本社工場の敷地を出て右に曲がり、進むと、工場建設予定地の空き地が現れた。雑草が生い茂った四角い土地を囲むフェンスの前で、美月は座り込んでいた。

「……あ」

 美月が顔を上げたので、道子は美月の傍に腰を下ろした。

「どうぞどうぞぉーん、お気になさらずぅーん。真夜中に若い娘さんがお一人で出歩くのは危険ですからぁーん、私がお付き合いいたしますねぇーん。泣きたかったら思い切りお泣き下さぁーいん、言いたいことがありましたら存分にぶちまけてやって下さぁーいん、私はいないものだと思って下さって結構ですからぁーん」

「メイドさんは、りんちゃんとはどのくらい一緒にいるんですか?」

 泣き続けて掠れた声で、美月が問い掛けてきた。道子は裾を直してから、答える。

「御嬢様にお仕えするようになったのはぁーん、三ヶ月前ですねぇーん」

「じゃ、りんちゃんが交通事故に遭ったのは知らないんですね」

 美月は冷たく黒々としたアスファルトに目を落とし、潰れそうな胸中から言葉を絞り出す。

「りんちゃんは半年前に交通事故に遭って、それっきり学校に来なくなっちゃったんです。それまでのりんちゃんは、あんなに冷たい子じゃなかったのに。そりゃ、私なんかとは育ちも違うし、有り得ないくらいの大金持ちだから、普通とはちょっと違う感じの子だったけど、御嬢様だなーって雰囲気はあったけど、あんなにお金のことばかり気にするような性格じゃなかったんです。それなのに、どうして、あんな……」

「あらぁん、そうだったんですかぁーん。存じ上げておりませんでしたぁーん」

「もう、どうしたらいいのか解らないの。お父さんはもうダメだし、レイのことも助けられないし、りんちゃんもなんだかおかしくなっちゃって。いっそのこと、死んじゃいたい……」

「死んだところでぇーん、何がどうなるってわけでもありませんよぉーん」

 道子は美月に寄り添い、己や周囲の経験を踏まえた言葉を連ねた。「たとえ死んだとしてもぉーん、事態が解決されるわけでもなければぁーん、収拾するわけでもありませんしぃーん、物事がなかったことになるわけでもありませんしぃーん、辛いことが凄く辛いまま残ってしますしぃーん、それ以前にお葬式やら各方面への補償やら何やらでお金が掛かって掛かってどうしようもありませんしぃーん、下手をすれば変な組織に死体を奪われていじくり回されて改造人間にされて生き返らせられるかもしれませんしぃーん、とにかくろくなことにならないことだけは保証いたしますぅーん」

「何それ」

 道子が連ねた言葉の身も蓋もなさに、美月は悲しみも絶望も一巡してしまったらしく、小さく噴き出した。

「安易に死ぬぐらいならぁーん、這い蹲ってでも生きていた方がマシですぅーん」

 私も善処しますからぁーん、と道子が胸に手を当てると、美月はぎこちなくはあったが頷いてくれた。道子は先程の車中では食べるタイミングを逃したチョコレートを差し出すと、美月はそれを受け取って少し食べてくれた。甘いものを口にしたことで落ち着いたらしく、もう泣きはしなかった。だが、今はまだ父親にもりんねにも会いたくないと言い、立ち上がろうとはしなかった。その気持ちは解らないでもないので、道子は彼女の気が済むまで付き合ってやった。工場街から見える夜空は高いが、船島集落ほどではなかった。

 滑らかな電動エンジンの接近音と共にヘッドライトのビームが差し、銀色の車体が近付いてきた。道子は警戒を緩められない美月を宥めつつ、主を出迎えた。運転手にドアを開けられて後部座席から下りてきたりんねは顔色一つ変えてはいなかったが、身構えている美月を銀縁のメガネに映すと、しなやかに手を差し伸べてきた。

「美月さん。今宵は拙宅でお過ごし下さい。誠心誠意、お持て成しいたします」

「もう私に帰る場所も行く場所もないからって、変な同情をしないでよ。そういうの、凄く嫌」

 精一杯の意地で毒突いた美月に、りんねは携帯電話を掲げる。

「いえ、これは安易な同情ではございません。合理的な判断に基づいた行動です」

 りんねの手元から浮かび上がったホログラフィーモニターに、美月と似た面差しを持つ中年女性が映し出された。リアルタイムのテレビ電話らしく、美月の姿を見た途端に女性は身動ぎ、安堵した。着の身着のまま、といった格好の女性を見つめた美月は徐々に目を見開き、お母さん、と縋るように手を伸ばした。

「美月さんの御母様は、現在、拙宅でお過ごし頂いております。事の次第については、帰宅した後に改めてお話しいたしましょう。込み入ったお話になりますので、お休み頂けるのはもうしばらく先になりますでしょうが」

 りんねは美月の母親に一言二言伝えてから、ホログラフィーモニターを消した。美月は何が何だか解らないらしく、その場に座り込んでしまった。道子はそんな美月を立ち上がらせて、銀色のベンツの後部座席に座らせてやった。りんねは美月が楽に座れるようにと助手席に移動し、運転手に命じて吉岡邸へ車を発進させた。

 疲れ果ててぼんやりしている美月に、車内に備え付けてある薄手の毛布を掛けてやってから、道子はサイドミラーに映るりんねの涼やかな眼差しを見据えた。その視線の先にあるのは都心部の夜景と街灯に挟まれた薄暗い道路だけだったが、りんね自身には世の中の動きが透けて見えているのかもしれない、と道子はちらりと考えた。

 敵に回さなくて良かった、とつくづく思った。



 一連の出来事の顛末は、こうである。

 佐々木つばめを身を挺して守る警官ロボット、コジロウを攻略するためには、対人型ロボット戦略を立てることが不可欠だった。りんねは、そのための情報収集を行ううちに、生産数はそれほど多くはないが高性能な人型重機を製造販売している小倉重機に行き着いたが、小倉重機に関する金と人の流れが正常ではないことに気付いた。小倉重機の経営者はクラスメイトである小倉美月の父親だということは事前に知っていたが、小倉重機についてはそれほど深く調べたことがなかったのである。だから、気付くのが遅れてしまった。

 美月の父親であり小倉重機の経営者である小倉貞利は、毎週末ごとに稼ぎ頭であるレイガンドーを持ち出しては天王山工場に入り浸り、その度にレイガンドーを派手に破損させて帰ってくるようになった。当然ながらそれを不審に思った美月の母親、小倉直美はレイガンドーの映像記録装置を作動させておいた。最初は小倉に気付かれては映像記録装置を切られてしまったので、設定に切り替え、レイガンドーが完全独立稼動する最中に映像記録装置を作動させるばかりか、その映像を小倉重機のパソコンに転送するように設定した。そこに映っていたものは、破壊と暴力と欲望が充ち満ちた地下闘技場であり、賭け事に正気を失った小倉の姿だった。何度も直美は小倉を止めようとしたものの、振り切られてしまった。レイガンドーの機能をダウンさせようとしても、人型重機の扱いについては小倉は何枚も上手だったので不可能だった。違法賭博が横行している地下闘技場の場所を警察に通報しようにも、映像記録装置の発信側の現在位置を割り出せるほど、直美はコンピューターに長けていなかった。事態を打開する解決策を模索している間にも、小倉はどんどん会社の金を使い込んでいき、気付けば本社工場の抵当までもが賭け金にされ、従業員達も一人残らず賭け金にされ、直美までもが賭け金にされかけた。寸でのところで小倉の元から逃げ出したものの、通学していた美月までもは助け出せず、小倉に居場所を知られるのが怖くて電話すらも掛けられず、路頭に迷いかけたところで、りんねの母親である吉岡文香と出会ったのである。

 その後、直美は文香を通じて、自由に身動き出来る上に多額の現金と腕に覚えのある部下を持ち合わせているりんねに美月の奪還を依頼した。そして、その情報を元に、りんねが動いたというわけである。

 長話を終えたりんねは、ガラス製のリビングテーブルに金属板状の携帯電話を横たえた。りんねと向かい合って座っている小倉親子は、何度となくりんねに礼を述べていた。美月は真相も知らずに冷淡なりんねに対して文句を言ったことで気が引けてしまうのか、俯きがちだった。土地も広ければ部屋数も膨大な吉岡邸の一角にある応接間に通された美月は母親と感動の対面を果たした後、りんねが先刻した通りに事の次第を説明されていたのである。道子は五杯目の紅茶を淹れてくると、皆に出した。吉岡邸のシェフが淹れたものなので、味は折り紙付きだ。

「道子さん。彼をお願いいたします」

「はぁーいん?」

 りんねから携帯電話を差し出され、道子はそれを受け取りつつも首を捻った。

「その中には、レイガンドーさんの人格を司るデータの一切合切が入っています。容量不足になりそうでしたので、一部のデータは吉岡グループのホスティングサーバーに転送してありますので、そちら側のデータを回収した上で再構築して頂けませんか。レイガンドーさんの人工知能に用いられている基盤の写真も撮影してまいりましたので、部品さえ手元に揃えば同じ機体が組み上げられます」

「……じゃ、今のレイは?」

 美月が不安混じりに問うと、りんねは道子の手中にある携帯電話を示した。

「小倉重機本社工場にいらっしゃるレイガンドーさんは、ただの抜け殻です。レイガンドーさん自身がそれをお望みになりましたので、ソフト面での破壊を行ってまいりました。ハード面での破壊を行うと小倉さんに感付かれてしまいますし、岩龍さんとのリターンマッチがフイになってしまいますからね。そのリターンマッチ当日は、レイガンドーさんはもう一つのボディを遠隔操作して戦って頂くことになりますが、その際にタイムラグや処理落ちが起きないように、こちら側でそれ専用のサーバーを御用意いたします」

「でも、レイの部品って結構型が古いんだよ? ハードディスクドライブを積みまくったおかげで容量がかなりでかいからプログラムに処理能力が追っついているけど、二三世代前のだよ? 基盤一つ取ったって、そっくり同じものを見つけ出すのは大変なんじゃないかなぁ」

 美月の懸念に、りんねは抑揚を変えずに答えた。

「御心配なさらず。吉岡グループには、それだけの力が備わっておりますから」

「重ね重ね、ありがとうございます。なんと御礼を申し上げたらいいか」

 直美が這い蹲るように頭を下げると、りんねはそれを諌めた。

「あまりお気になさらないで下さい。業務の延長でもありましたので、必要経費はこちらで負担いたします。小倉さんに譲渡した資金についても、返済して頂かなくて結構ですわ。レイガンドーさんの人工知能に関するデータをコピーさせて頂くだけで充分ですから。美月さんが無事であることが一番なのですから」

「ありがとう、りんちゃん」

 美月が笑顔を見せると、りんねはそれと同じ表情を浮かべた。

「いえいえ」

 なんだ、笑えるんじゃないか。道子は視界の隅でりんねの笑顔を捉え、ほっとした。りんねが携帯電話の記憶容量に落として運んできたレイガンドーのデータは膨大で、銀色の針を脳内に宿している道子であっても、短時間では処理しきれないほどの情報量があった。仕方ないので別荘にあるサーバールームに一部のデータを転送して処理量を軽減させてから、吉岡グループが所有しているホスティングサーバーに転送されていたレイガンドーの人工知能のデータをダウンロードし、解析した。その傍らで、少女達は話し込んでいた。

 主立った話題はレイガンドーの新機体についての話題で、両親が離婚することは確定事項なので、管理維持費や置き場所やらの諸々の事情で人型重機に搭載させてやることは出来ないが、出来る限り格好良いロボットに人工知能を搭載させてやりたい、と美月は熱っぽく語っていた。りんねは笑顔を保ったまま、その話に頷いていた。娘の無事を確かめたら気が抜けたのか、小倉直美は早々に来客用の寝室に引き上げていった。それからしばらくして、美月も眠気に襲われたのか、よろめきながら来客用の寝室に入っていったので、客間には静寂が訪れた。道子が情報処理を行いつつもティーカップや御茶請けのクッキーを出した皿を片付けていると、りんねが言った。

「道子さん。レイガンドーさんの人工知能の再構築が終わりましたら、今度は岩龍さんの人工知能をハッキングして頂けませんか。岩龍さんは機体の大きさとサーキットボックスの大きさからして、人工知能の大部分をホスティングサーバーに委ねているはずです。岩龍さんのオーナーはハード面には長けていますが、ソフト面には長けていない方ですからね。人工知能はただでさえセッティングが難しいですし、管理も大変ですし、荒々しい格闘戦を行う方々が機体本体に全てのデータを搭載している場合はほとんどありません。ですから、人工知能そのものを機体に搭載しているレイガンドーさんは特殊なのです。ネットワークから完全に独立しているコジロウさんには負けますが」

 りんねは七杯目の紅茶を傾け、一息吐いた。

「はぁーいん、承りましたぁーん」

 道子が快諾すると、りんねは道子を労った。

「御苦労様です、道子さん。岩龍さんのこともありますし、いずれ別荘のサーバールームを強化いたしますね。その方が、あなたの脳に過負荷が掛からずに済みますからね」

「いえいえーん、そんなお気遣いなくぅーん」

 道子は手を横に振ってはみせたが、内心では喜んでいた。前回の女性サイボーグをハッキングする際にも、別荘にあるサーバールームの出力だけでは心許なかったので、サーバーが強化されるのは願ってもないことだ。それがあれば、ハッキングに必要な情報処理能力の底上げが出来る。道子を電脳世界の住人たり得ている銀色の針の情報処理能力を引き出すためにも、それ相応の力がなければならないからだ。

「明後日の夜が楽しみですね」

 りんねは半分ほど残った紅茶に目を落とし、僅かばかり頬を持ち上げた。

「そういえば御嬢様ぁーん、そろそろお休みになってはいかがですかぁーん? 夜が明けてしますぅーん」

 午前三時を回っている壁掛け時計を示しながら道子が進言すると、りんねはティーカップを下ろした。

「もうこんな時間でしたか。ですが、休むのはもう一働きしてからにいたします。私はこれから部屋に戻りますので、道子さんはお夜食を見繕って頂けませんか」

「ちくわがございましたらぁーん、ちくわにいたしますぅーん」

 道子がにこにこすると、りんねは血の気の薄い頬をかすかに上気させた。

「……ええ、そのようになさって下さい」

 階段を昇っていくりんねの背を見送ってから、道子は真鍮製のワゴンを押して厨房に向かった。長い廊下を通って角を何度か曲がり、レストランのような設備と規模の厨房に入ったが、使用人はまだ誰も来ていなかった。三人分のティーカップと皿を洗って片付けて、大型冷蔵庫を開けてちくわを出した。それをどう料理したものか、と思案した道子は、武蔵野がうどんに載せていたように焼いてみようと思い、フライパンを出した。夜食なのだから、あまり手を掛けすぎてもよくないだろう。調理と並行しながらレイガンドーの人工知能の再構築を進め、更に彼が人格を得るに至るほど重ねた経験と感情の履歴を、また別のホスティングサーバーにコピーしていった。

 この分では、まだまだ脳を休められそうにない。



 抜け殻の機体、抜け殻の男、抜け殻の地下闘技場。 

 三日後のリターンマッチの後に残ったのは、つまらない夢の残滓ばかりだった。岩龍とレイガンドーの再戦に何人もの人々が金を賭け、オイルでオイルを洗う死闘が望まれ、鉄の檻に入れられた哀れなロボット達は、それぞれの主の命ずるままに戦い抜いた。けれど、その主達が気付かぬ間に、どちらのロボットも抜け殻と化していた。

 数多のゴミが散乱している地下闘技場の床に、鉄の檻を突き破って転げ落ちたレイガンドーの抜け殻が転がっていた。その傍に座り込んでいる小倉貞利は茫然自失で、勝負にすらならなかった賭け試合の末路を凝視していた。対する岩龍もまた抜け殻であり、レイガンドーを殴り飛ばした衝撃で反対側の檻を突き破って、壁に埋まっていた。ロボット賭博の試合は、互いが勝負として成立しているからこそ沸き立つものである。だが、その勝負を成立させるためには人間の助力が欠かせず、人型に組み上げた金属塊に人間が感情移入しているからこそ、加虐的な快楽が生まれる。それ故に人工知能は作られ、非人間的な存在に人間味を与え、人間的な主観での娯楽をもたらしてくれるのだ。しかし、哀れなロボット達が人間が望みもしない行動を取れば、娯楽にすらならない。

「御嬢様ぁーん、トレーラーが到着いたしましたぁーん」

 道子が報告すると、観客のいなくなったリングの傍に控えていたりんねが振り返った。さすがに今回はゴシック調のドレス姿ではなく、りんねの嗜好を反映したシンプルなワンピース姿だった。

「では、岩龍さんの搬入作業を開始して下さい」

 りんねが指示すると、吉岡グループのロゴが目立つトレーラーから作業員達が降りてきた。彼らは無惨にも壁に埋まった岩龍にワイヤーを結び付けて、牽引させて壁から引き抜くと、手際良く回収作業を始めた。りんねは彼らの淀みない作業を横目に、小倉貞利の背後に立った。

「それでは、ごきげんよう」

「待て。俺の、俺の家族は、どこに行った?」

 息も絶え絶えの小倉に問われ、りんねは素っ気なく返した。

「美月さんと直美さんの行方を口外することは出来ません。ただ一つ言えることは、お二方は小倉さんに心底愛想を付かしておられるということです。御自分の行動を顧みれば、お解りになりますでしょう」

 コンクリートの床に突っ伏して呻く小倉を一瞥し、りんねは工場の外に出ると、夜風に弄ばれた髪に手を添えた。分解されてトレーラーのコンテナに運び込まれていく岩龍を注視している男に、りんねは歩み寄る。

「御不満がおありでしたら、申し出て下さい。善処いたします」

「岩龍をどうする気だ?」

 岩龍のオーナーは感情の起伏を押し殺した声で漏らすと、りんねは答えた。

「私共の仕事で使用させて頂きます。悪いようにはいたしません」

「何もかも奪っていきやがって」

「奪うなどと仰らないで下さい。私共は、業務を行使しているだけに過ぎません。岩龍さんの価値に見合った対価はお支払いいたしますので、御安心下さい」

「あいつは、今、どうなっている」

「気になるのでしたら、御自分で確かめられたらいかがですか?」

 手の届くところにおられるのですから、とりんねが外を示すが、岩龍のオーナーの男は顔を伏せた。

「それが出来たら苦労はしない。……お前は何者だ?」

「見ての通りの小娘にございます。それ以上でも、それ以下でもありません」

 りんねは一礼すると、岩龍のオーナーの元から離れた。銀色のベンツへと戻ってきたりんねに、道子はすかさず後部座席のドアを開けてやった。りんねは後部座席に乗り込むと、シートベルトを締めた。道子も反対側のドアから乗り込み、シートベルトを締めた。岩龍の解体と搬送作業が完了したのを確認してから、銀色のベンツは船島集落を目指して発進した。物憂げに車窓の外を見つめるりんねに、道子は声を掛けた。

「岩龍のオーナーさんとはぁー、お知り合いなのですかぁーん?」

「いえ、別に。それにしても、これほど上手くいくとは思っておりませんでした」

「そうですねぇーん」

 と、道子が気のない相槌を打つと、りんねは頬杖を付いた。黒い絹糸のような髪が、一束崩れる。

「レイガンドーさんの人工知能は独自の発達をしていたので興味があったのですが、そう簡単にコピー出来るような代物ではありませんでした。なので、まずは外堀から埋めてしまおうと小倉重機に吉岡グループの営業マンを送り込んでロボット賭博に誘い込んでみたのですが、こうも呆気なく事が進むと拍子抜けしてしまいますね。最初から私の申し出を受諾していれば、もう少し穏便な結末になったのですが。念には念を、ということで小倉さんが口にする飲料水に一種の高揚剤を混入させておいたのですが、ここまで効果が覿面だとは思ってもみませんでした」

「はいぃっ?」

 ならば、この出来事の裏で糸を引いていたのは。道子が声を裏返すと、りんねは気怠げに語る。

「吉岡グループが所有する遺産がいかに優れていようとも、知性と個性ばかりは複製出来ませんからね。人工知能の開発は遅々として進んでおりませんので、手っ取り早く成長した人工知能を拝借しようと考えていたのです。戦闘に長けていて人間に従順で、知性の高い人工知能を持ったロボットを探し出すだけでも手間が掛かりました。ですが、その人工知能の持ち主である小倉さんは、吉岡グループがどれほどの金額を提示しようとも頷いては下さいませんでした。おかげで、随分と回りくどい手段を用いらなければなりませんでしたが、岩龍さんという収穫を得られたことを顧みると決して無駄ではありませんでしたね」

「それは、それはぁーん」

「これで私は、美月さんとその御母様に恩を売れたことでしょう。情緒的な判断を伴う計画を立てるのは難しいことではありましたが、恩を売っていて損はない、というのが世間一般の認識ですので売れるだけ売り捌いてみたのです。利子には期待しておりませんが、ゼロと言うこともないでしょうね。美月さんは律儀な方ですから」

「そ……それはそれはぁーん」

「少し寝ます。別荘に到着したら、起こして下さいね」

 そう言い残し、りんねは柔らかな座席に身を委ねた。道子は流れるはずもない冷や汗が滲み出る感触を覚えたが、身震いまではしなかった。ということは、もしかするとロボット賭博すらもりんねの一存で動いていたのだろうか。天王山工場の名義の履歴を照会し、辿ってみると、案の定だった。天王山工場は吉岡グループの傘下の会社の所有物となっていて、名義人の名前は違っていたが、利権は全て吉岡グループのものだった。更にはロボット賭博の元締めすらも、本を正せば吉岡グループの子会社の社員だった。

 見た目ばかりが仰々しい茶番劇だったのだ。そうとは気付かずにりんねに感謝していた美月とその母親が哀れであり、人生を蹂躙された小倉が悲痛だったが、道子はその感情を受け流した。味方でさえあれば利益を得られるのだから、機嫌を損ねないように務めなければならない。それもまた、吉岡一味の業務の一部だ。

 そして道子は、取って付けたような笑顔を顔に貼り付けた。

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