好事、マイン多し
全身隈無く、激痛が滾っている。
細胞の一つ一つが食い破られ、引き千切られ、こね回されるかのような苦しみが絶えず襲ってくる。流れ出た汗がシーツを濡らし、喘ぎと共に呻きが漏れる。だが、それがたまらなく心地良い。突き出した舌は渇き、見開いた眼球は干涸らびかけ、衣服を一切纏っていない肌は冷や汗でぬるついているが、躍り出したいほどの高揚感がある。
あれから、何時間が過ぎたのだろうか。伊織は体の上に申し訳程度に掛けられているタオルケットで顔と首回りの汗を拭ってから、上体を起こした。それだけの動作で筋肉痛に苛まれたが、気にするほどのものでもない。寝心地がやたらに良かったのは、ソファーに寝かされていたからだった。いつもはその辺りの床で適当に眠っているので、まともな寝床を与えられたと知って意外に思った。何度か瞬きしてぼんやりとした視界をクリアにすると、壁一面が鮮やかすぎる青に染まっていた。巨体と化した伊織が破壊した壁の大穴にブルーシートが張ってあり、破損部分とシートの隙間から冷気が忍び込んできていた。風を受ける度にブルーシートがたわみ、青い影が膨張する。
「やっと起きやがったか」
寝起きの伊織を小突いてきたのは、疲れた顔をした武蔵野だった。
「んー、ああ?」
伊織がぐしゃぐしゃの髪を掻き毟りながら曖昧な返事をすると、武蔵野は盛大に嘆息した。
「お前の後始末をするのに手間取ったんだからな。後の片付けはお前がやれ。だが、その前に風呂に入ってこい。汗臭くて敵わねぇんだよ。それと、適当な服を着てこい。お前の粗末なモノなんか見たくもねぇんだよ」
「面倒臭ぇ……」
心底億劫だったので伊織は武蔵野を張り倒してやりたかったが、そんな気力さえ湧かなかった。遺産の力を存分に使ったのはこれが初めてではないが、ここまで疲れ果てるのは経験していなかった。巨大化したとしても、身動きが取れなくなるのは精々二三時間程度だった。それなのに、今回は夜が明けるまで目覚めもしなかった。これが、佐々木つばめが保有する管理者権限の力なのだろうか。
リビングの隅に壁の破片が山と積み重なっていて、木屑と梁から落ちた埃で穴だらけの床板は全体的に白っぽくなっていた。吹き抜けの最上階にあったのでシャンデリアは無事だったが、それ以外の内装は壊滅状態だ。暖炉も潰れていて、レンガと煙突が粉々になっている。二階の位置にあった出窓も消え失せていて、元々はどんな内装であったのか思い出しづらいほどだった。それを眺めていると、今更ながら敗北感を味わわされた。
今度こそコジロウを確実に追い詰めた、と思ったのだが。敵陣に飛び込んできたつばめを手中に収めるのは簡単であると伊織も考えていたし、他でもないりんねが確信していた。つばめの管理者権限についても、りんねが伊織を始めとした遺産に与える効果と同等だと思っていた。所詮は名ばかりの権力なのだと。だが、蓋を開けてみれば、つばめは伊織を引っぱたいただけで行動不能に陥らせてしまった。りんねの場合では、唾液ごと粘膜を刮げ取って摂取しなければ効果を得られないというのに、この違いは一体何だ。佐々木長光の血の濃さは同じであるはずなのに、条件はどちらも変わらないはずなのに。訳もなく悔しくなり、伊織は舌打ちした。
「で、お嬢はどうしたん?」
「東京に行っちまったよ。道子も連れてな」
「はぁ?」
「この別荘を直すために必要な重機を手配しに行くんだそうだ。ここまでぶっ壊れちまえば、別の拠点を作った方が早いと思うんだがなぁ。佐々木側に俺達の居場所が割れちまっているし、体勢を立て直すためにも、移転した方がいいと進言したんだがお嬢は聞き入れてくれなくてな。で、俺とお前が留守番だ」
「あの根暗なチビのおっさんもか?」
「いや、高守は仕事だ。昨日の朝飯の中にちくわが入っていたのは、高守だったじゃないか。お嬢と佐々木の小娘が取り交わした約束と、今日の日付を思い出してみろ」
武蔵野がキッチンのカレンダーを指し示したので、伊織は目を凝らした。
「あー、日曜?」
「そうだ。あの馬鹿げた約束のせいで、俺達は土日勤務になっちまったからな。誰もが羨む週休五日の身の上だが、ちくわロシアンルーレットが当たる確率は五分の一だから、これまで以上に暇になっちまう」
暇潰しに鍛え直すか、と武蔵野が呟くと、伊織は舌を出した。
「うげぇ。暇すぎてマジ死ぬし」
「お前に勤労意欲があるとは意外だな」
武蔵野のからかい混じりの言葉に、うっせぇ、と吐き捨ててから伊織はソファーを下りた。わざわざシーツを敷いてから寝かせてくれたのも武蔵野だろうが、感謝する気は更々なかった。余計な御世話だ。気に掛けられたところで、嬉しいともありがたいとも思わない。他人など、煩わしいだけだからだ。
適当に何か喰ったら片付けを手伝え、と武蔵野が言ってきたが、伊織は生返事をしただけだった。力の入らない足を引き摺るように階段を昇っていき、生欠伸を繰り返す。面倒だとは言ったが、体中のべとつきが煩わしいのは事実なのでバスルームに向かうことにした。その前に伊織の部屋として割り当てられた部屋に入り、量が少ないわりに散らかり放題の私物をひっくり返して着替えを引っ張り出し、背中を丸めて歩いていった。
二階の南側に面したバスルームのドアを開けると、りんねが使用しているシャンプーやトリートメントの甘い香りがふわりと漂い、伊織は顔を歪めた。その上品ながら粘つく香りを外に出すために窓を全開にしてから、蛇口を捻って温水を出した。頭からつま先まで一度に流すと全身の汗が剥げていき、ぬるつきが収まっていくが、心地良さよりも歯痒さが沸き上がってきた。意味もなくタイルの壁を殴り付けるが、疲労が溜まっているせいで大した力が出せず、薄っぺらい肉と骨がタイルに激突しただけだった。発散しきれなかった戦闘衝動が燻り、体液が煮詰まる。
戦わなければ、体液に喰い殺される。
なんて清々しい朝だろう。
雨戸を開け放って縁側に立ったつばめは、朝日を全身に浴びながら深呼吸した。やはり、行動に出ると出ないのでは大違いだ。思い切って敵陣に乗り込んでみて本当に良かった。少なくとも、平日はびくつかずに過ごせるようになったわけだし、土日だけ警戒していればやり過ごせるのだから。その安心感からか、いつになく熟睡出来た。
けれど、心から笑えるわけではない。つばめは雪がちらほらと残る庭に面した雨戸を開けていき、玄関に至ると、つんと機械油の匂いが鼻腔を刺激してきた。玄関と居間の間にある風防室には、多大に破損したコジロウが土間に座り込んでいた。一晩経っても破損箇所はあまり修復されておらず、アイセンサーカバーや胸部の傷はそのままで機体のそこかしこに刻まれた傷跡も痛々しかった。つばめは突っ掛けを履き、土間に下りる。
「コジロウ、大丈夫?」
「基本機能の維持については問題はない。エネルギー供給システムに生じた若干の不具合の影響で自己修復機能が一時的に低下しているが、デバッグと同時にシステムのリロードを行っている」
「それ、いつ頃終わりそう?」
つばめはコジロウの傍に屈み、破損が著しいマスクフェイスに柔らかく触れた。外装は冷たいが、内部は熱い。
「五時間四十分後を予定している」
「そっか。じゃ、それまではじっとしていてね」
「了解した」
コジロウが平坦に快諾したので、つばめは無性に切なくなった。結果オーライだとはいえ、つばめの迂闊な行動でコジロウが破損したのは事実だ。文句の一つでも言ってくれても構わないのに、コジロウはどこまでも従順だ。それが嬉しくもあり、やるせなくもある。戦闘中に伊織が言っていたように、コジロウは道具としての本分を弁えている。だから、つばめの見通しがどれほど甘くとも、判断がいい加減でも、躊躇わずに従ってくれる。ロボットとしてはそうあるべきであり、そうでなければつばめの身の安全など守れないのだが、胸の奥がちくりと痛む。
「ごめんね」
つばめは手のひらでコジロウの外装の汚れを拭いながら謝ると、コジロウは赤い瞳を向けてきた。
「つばめが本官に謝罪する理由が見受けられない」
「だって……」
こんなにも好きなのに、大事にしたいと願っているのに、コジロウをちっとも上手く使ってやれていない。こんなことなら、やはり吉岡りんねの所有物になった方が幸せだったのではないだろうか。刃物一つ取っても、使い方次第で絶品の料理が作れたり、綺麗な細工の彫刻が作れたりする。場合によっては人や動物を切り裂くことすら出来る。だが、つばめはコジロウを上手く使えた試しがない。下手に感情移入しているばかりか好意までも寄せているから、コジロウを道具扱いするなんて以ての外、と常に心の片隅で思っているからだろう。だから、いざという時に大胆な行動を取らせられない。彼と家族になりたいのか、完璧な主従関係を築きたいのか、一振りの刃物を握る使い手になりたいのか、つばめが決めかねているせいでもある。
「難しいよなぁ、色々と」
つばめはコジロウが動かないのと人目がないのをいいことに、コジロウの肩に寄り掛かった。いっそのこと手でも握ってやろうか、とも思ったがさすがにそこまでの勇気はなかった。コジロウは動作が不完全な首を動かし、つばめを窺ってきたが、つばめから指示がないと知ると首を所定の位置に戻した。
「事態は難解ではない。つばめの身柄と財産を奪取せんと画策する企業と団体の数こそ多いが、動機はいずれも同じだ。遺産を操るために不可欠な管理者権限を保有しているつばめを所有物にせんがために共同戦線を張り、船島集落とつばめに襲撃を繰り返している。よって、戦況は複雑に見えるが、構図は至って単純だ」
独り言に対してコジロウが真っ当に答えてくれたので、つばめは少し笑った。
「で、コジロウは私を守るために戦ってくれる、ってことだね」
「そうだ」
「うん、そうだね」
そう言われると、深く考えることなどないのかもしれない。第一、つばめはりんねと部下の扱い方で勝負をしているというわけではないのだから。あちらはあちらで、こちらはこちらだ。やれることをやれるだけやればいい。
「おっはよぉーっ、つばめちゃあーんっ!」
寝起きなのにテンションの高い美野里が、居間を通り抜けて駆け寄ってきた。が、つばめとコジロウの構図を見るや否や、あらま、とにやけて後退った。
「後は若い二人でごゆっくりぃー」
美野里は背を向けて台所に行ってしまったので、つばめはすぐさまコジロウから離れ、赤面しながら弁解した。
「あっえっ、これは別にそういうわけじゃなくってさあ!」
「いいのよ、つばめちゃん。お年頃の女の子のボーイフレンドの一人もいない方が珍しいんだもの。その相手がロボットだったってだけよ。だから、お姉ちゃんは気にしないわっ!」
振り向き様に美野里は親指を立ててみせたが、つばめは照れ臭くなって顔を背けた。
「だから……そんなんじゃなくて……」
恐る恐るコジロウを窺うが、コジロウは無反応だった。当然だ、コジロウにとってはつばめと美野里のじゃれ合いの理由も意味もどうでもいいのだから。
「ねぇどうするぅ? お赤飯でも炊いちゃうー?」
台所から美野里が浮かれた調子で話し掛けてきたので、つばめは全力で言い返した。
「普通でいいの、普通で! 大体、お姉ちゃんはお赤飯なんて炊けないでしょ! 御飯は私が作るから、お姉ちゃんは大人しくしてて! コジロウに変なことも吹き込まないでよね!」
「えぇー、お姉ちゃんも朝御飯作りたーい」
美野里が不満げに唇を尖らせたが、つばめは語気を強めた。
「お姉ちゃんに生活能力が皆無なのは今に始まったことじゃないし、料理なんて特にダメじゃん。着替えてくるから、ちょっとそこで良い子にしていなさい。解ったなら、お返事!」
「はーい」
美野里は心底不満げだったが答えたので、それで良し、とつばめは頷いてからふすまを閉めて自室に向かった。弁護士になるために勉強尽くしの人生を送ってきた弊害で、美野里は家事がほとんど出来ない。母親の景子は同じ弁護士ではあるが要領が良く、料理も掃除も洗濯も買い出しもそつなくこなすのだが、美野里はどんなことをさせてもトンチンカンになってしまう。部屋を片付けたはずなのに余計に散らかってしまったり、掃除機を掛けたら手近な棚にぶつけて物を壊してしまったり、買い出しに出かけたはずなのに道に迷ってしまったり、と。弁護士としての能力は申し分ないので、他人に迷惑を掛けないためにも結婚せずにバリキャリとして一生を終えてもらいたいものだ。
寝間着を脱ぎ、美野里の服と一緒に買い込んできた春物のトレーナーとスカートに着替えた後、洗面所に行って顔を洗って髪をツインテールに結んだ。これも服のついでに買ってきたエプロンを着ながら台所に戻ったつばめは、昨日のうちに仕込んでおいた煮干し出汁を漉して一煮立ちさせ、具材を入れてから味噌を溶いた。昨夜のおかずである車麩と野菜の煮物を温め直しつつ、目玉焼きを二人分焼き、タクアンを薄めに切った。炊飯器の中で艶やかに炊き上がっていた白飯を茶碗に盛り、火の通った味噌汁を椀に盛り、二つの盆に分けて載せた。煮物と目玉焼きとタクアンも二人分に分けて盛ってから、盆に載せ、美野里を呼んだ。
「お姉ちゃーん、自分の分は運んでよーう」
「はいはーい」
美野里は台所に来ると、量が多めに盛られた盆を持って居間に戻っていった。つばめは一通り火を消してから、自分の分の盆を抱えて居間に向かった。テーブルを囲むのではなく御膳に載せて食べるのはまだまだ不慣れではあったが、向かい合って食べることに変わりはない。頂きます、と手を合わせてから食べ始めた。
「にしても、今日は良いお天気だねぇ。残っている雪もみんな溶けちゃうんじゃないかな?」
美野里は目玉焼きに醤油を存分に掛けてから、丸ごと白飯の上に載せた。
「そうだねぇ」
つばめは味噌汁を啜り、内心でその出来に満足した。美野里は目玉焼きで白飯を食べつつ、眉を下げた。
「ごめんね、つばめちゃん」
「ん、何が?」
つばめが聞き返すと、美野里は俯く。
「またつばめちゃんと一緒に住めるようになったのに、役に立てなくて。昨日だって、私がもっとしっかりしていたら、やり込められることなんてなかったかもしれないのに」
「うん、そうだねぇ」
「あ、そこは違うでしょ! そんなことない、って慰める場面でしょ!」
美野里がむっとするが、つばめは事も無げにタクアンを囓る。
「お姉ちゃんが自覚しているなら、それでいいの。問題はその後だもん。ダメな点を改善出来るか否か」
「辛辣だなぁ」
「あの成金御嬢様を相手にするんだもん、こっちだってシビアに行かなきゃ。ビジネスライクには出来ないけど」
「それもそうよねぇ。生半可なことじゃ相手に出来ないってのは、身に染みたもの」
そう言いつつ、美野里は車麩の煮物に箸を付けた。目玉焼きの黄身に醤油を掛け、つばめはふと思った。
「そういえば、先生は? 昨日、別荘に案内してもらってから見かけないけど」
「軽トラックを返しに行ったけど、その頃には分校にもいなかったわよ。政府の諜報員だっていうから、きっと何かの仕事で出かけちゃったのよ。まあ、その方が静かでいいんだけど」
「だね」
一乗寺がいないと、それだけでやかましさが格段に減る。つばめは食べ終えた食器を重ねてから、提案した。
「じゃあ、今日は散歩でも行こうよ。引っ越してきてから一週間になるけど、集落の中を見て回る暇なんてなかったんだもん。お弁当でも作ってさ、歩き回ってみようよ」
「うん、それがいいね! そういえば、日当たりが良い原っぱに菜の花が咲いていたわ」
「じゃ、決まりだね」
つばめは快諾し、空の食器を重ねた盆を抱えて立ち上がった。
「コジロウ、お弁当箱……はないだろうから、重箱ってどこにあるか解る?」
台所に入る前に土間に顔を出し、尋ねると、コジロウは左腕を挙げた。
「重箱であれば、台所の食器棚の最下段に入っている」
「ありがとう!」
つばめは自分の分の食器を水に浸し、食後のお茶を淹れるべく、ヤカンで湯を沸かし始めた。すると、土間から上体を乗り出したコジロウが、台所で忙しく動くつばめに声を掛けてきた。
「つばめ。外出するのであれば、本官が同行する」
「いいっていいって、その辺なんだしさ。昨日の今日だもん、吉岡一味だって大人しくしていてくれるって。あそこまでやり返されたんだから、普通はやる気なくすって。それに、コジロウだって私が起動させてからは働き詰めだったし、体が元通りになるまでは大人しくしていてよ。無理させたくないし」
「しかし」
「これは命令だよ?」
「……了解した」
つばめの得意げな笑顔に対し、コジロウは若干間を置いてから了承した。コジロウが言うことを聞いてくれたので、つばめは頬が緩みそうになるほど安堵した。美野里と一緒にのんびりと散歩をすれば時間なんてあっという間に過ぎてしまうだろうし、春先の暖かな日差しの下で他愛もないお喋りに興じたい、という気持ちもあった。お弁当に何を入れるかと考えているだけで浮かれてきて、束の間ではあるが、祖父の遺産を巡る争いのことが忘れることが出来そうだった。せっかく田舎に来たのだから、その気候を満喫してもいいではないか。
少なくとも、罰は当たるまい。
おにぎりを握り、卵焼きを焼き、水筒にお茶を詰めた。
大きな冷蔵庫の中身を日を追うごとに食い潰してきたのと、急な思い付きだったので手の込んだ料理を作る余裕はなかったが、美野里と二人だけの散歩なのだから気負う必要はない。漆塗りの黒い重箱の空間を塞いでいくのが楽しくなってきて調子に乗った結果、二人では食べきれないであろう量のおにぎりを握ってしまったが、余ったらそれは夕食にでも回せばいい。コジロウに在処を訊き、押し入れから引っ張り出した風呂敷で重箱を包んでから、お茶がたっぷりと入った水筒とコップを二つ携えて出発した。
空はどこまでも高く、風に引き千切られた雲の切れ端が、山並みの合間に漂っている。春独特の瑞々しい匂いが気持ちを浮き立たせ、何度も何度も深呼吸してしまう。つばめは足取りが軽くなり、思わずスキップした。雪解け水が溜まった場所や土が緩んでいる部分さえなければ、水筒を手にしていなければ、全力疾走していただろう。
「今日はお散歩に出て正解ねー。家の中にいたら勿体ないわぁ」
美野里は重箱の入った風呂敷包みを下げて、空を仰ぎ見て目を細めた。日頃、つばめが目にしている美野里の格好は仕事着であるスーツ姿ばかりなので、私服姿の美野里はなんとなく新鮮だ。先日の買い出しでサイズだけを合わせて適当に買ってきた服だが、上手く着こなしている。ジャージのワンピースに七分丈のレギンスを合わせて、長い髪を一纏めにして後頭部でピンで留めてある。靴もまた、つばめが間に合わせで買ってきたスニーカーだが、色も形も今日の服装に馴染んでいる。それもこれも、美野里が見栄えのする美人だからだろう。
目が大きく鼻筋が通っていて、やや童顔気味ではあるが、化粧が上手いので年相応の魅力を備えている。決して長身ではないがスタイルが整っていて肉付きも程良く、スーツを着ていても解るほど胸は大きい。実の兄弟ではないので、その部分が遺伝しないのが残念極まりない。吉岡りんねも十四歳らしからぬスタイルの良さだが、従兄弟では血の繋がりは当てには出来ない。だから、未来の胸囲に希望を抱くだけ無駄なのだ。
「で、お姉ちゃん、菜の花畑ってどこにあったの?」
余計な考えを振り払ってからつばめが言うと、美野里は南西側を指し示した。
「何年か前に来た時に、あっちの方で咲いていたのよ。桜もあるんだけど、菜の花の方が咲くのが早いから」
「へー。その頃ってさ、お爺ちゃんが生きていたんだよね?」
「ええ、もちろん。御元気だった頃よ」
「どんな人だった?」
振り返り様、つばめはなるべく軽い調子で尋ねた。
「そうねぇ……」
美野里は歩みを緩め、春風に弄ばれた前髪を押さえる。
「優しい人だったわ。でも」
「でも?」
「なんでもない。とにかく行きましょ、お花が咲いているかどうかも確かめなくちゃ」
「えぇー、そういう言い方をされたら余計に気になるじゃんかぁー」
つばめが拗ねてみせると、美野里は人差し指で行き先を示した。
「大したことじゃないわよ。それよりも、ほら」
と、美野里が指差した先には、鮮やかな黄色の絨毯が広がっていた。菜の花のねっとりとした濃厚な香りが鼻先を掠めていき、山からの吹き下ろしを受けて柔らかな葉と茎が波打った。船島集落を囲む山の斜面と繋がっている緩やかな傾斜の奥には、美野里が言った通りに桜の木が待ち構えていた。だが、その蕾はまだ硬い。
春真っ盛りの花畑に誘われ、つばめは大股に踏み出した。
こりゃ凄い、と武蔵野が感嘆した。
伊織が振り返ると、大柄な男は手狭な作業机に向かっていた。伊織の記憶が正しければ、その机は高守信和が一日中向かい合っているものであり、その上には本や書類の塔が築かれていて、ガラクタのような電子部品が満載された箱が机の周囲に積み重なっていた。高守に割り当てられた部屋がないわけではないのだが、どういうわけか地下階に繋がる階段の前に机を置いては作業に没頭していた。人のことは言えないが、変わった男である。
リビングに散乱した木片の片付けは全て終わったわけではないが、どうせりんねも道子もすぐに帰ってくるわけでもないので急ぐ必要はない。そう判断した伊織は武蔵野に近付くと、彼は設計図らしき紙を見せてきた。
「なかなかのモノだぞ、これは」
「何これ」
だが、伊織にはまるで意味が解らなかった。小振りな箱の中に配線や電極が仕掛けられている、という程度のことしか理解出来なかった。武蔵野は銃器を扱っているからか機械には通じているらしく、高守の神経質で矮小な文字に囲まれた配線や仕掛けを眺め回しては感心していた。素人目には、やたらと線が多い画に過ぎないが。
「これは地雷だぞ」
武蔵野は設計図を机に広げ、その内容を指し示した。
「ここに火薬が入っている。で、それに繋がっているのが起爆装置だ。仕掛けからして振動感知式だな。しかし、際どいセッティングだな……。対人地雷なのは間違いないが、このセンサーのデリケートさからすると、踏む前に炸裂するかもしれないぞ。普通はそこまで柔な仕掛けにはしないものなんだが、まあ、俺達の仕事が仕事だから標的が地雷原に入ってきちまう前に炸裂するのがベターかもしれんな」
「は? そんなんじゃ爆弾の意味がねーじゃん」
「佐々木の小娘の血肉が吹っ飛べば吹っ飛んだだけ、俺達の儲けも減るんだぞ」
「あ、そっか」
「忘れるようなことじゃないだろ。だから、佐々木の小娘の負傷は出来る限り少なくする必要があるんだよ。しかし、地雷としての威力がないんじゃ何の意味もない。この火薬の量だと指は千切れて肉も抉れるだろうが、相手の戦意を奪うには充分だ。損害は最低レベルで済むし、行動不能に陥るだろう。そうすれば、勝てる」
「あのチビのおっさん、割と頭が回るんだな」
爆薬の扱いに長けているようには見えないが、人は見かけによらないということか。伊織が感心すると、武蔵野は小型対人地雷の設計図を置き、地図を見つけ出した。GPSと衛星写真を組み合わせて作った船島集落の地図で、南西側の緩やかな斜面に赤いペンで大きく丸が印されていた。更に丸で囲った部分を拡大した地図もあり、細かく赤い印が付けられていた。地雷を埋めた場所だな、と武蔵野が説明してくれたので、それが何であるかを問う必要はなかった。解像度が恐ろしく高い衛星写真の中には、開花には程遠い様子の桜の木が数本並んでいて、菜の花が生えている花畑が広がっていた。と、いうことは。
「花畑の中に地雷原、っつーこと?」
うわえげつねー、と伊織が舌を出すと、武蔵野は船島集落の方角を見やった。
「きっと、佐々木の小娘が地雷に引っ掛かるかどうかを確認しに行ったんだろう。桜だけじゃなく、花が咲いたら見に行きたくなるのは人間の性みたいなもんだが、それを利用するとは恐ろしいな」
それについては同意せざるを得ない。口数も極端に少なく表情も動かさず、人付き合いもほとんどしない輩なので、高守がどういう人間であるかは掴みかねていた。常人とは言い難い連中で構成された一味に放り込まれたことに辟易したからああいう態度なのだろう、と漠然と思っていたが、そうではないようだ。真意を見せずに影に徹することで物事の流れを読み、確実に隙を衝くような男なのだろう。もしかすると、一味の構成員の中で最も油断ならないのが高守なのかもしれない。二人の会話が途切れた時、炸裂音が聞こえた。
件の地雷が起爆したらしい。
悲鳴さえ上げられなかった。
何が起きたのか理解するまで、しばらく間があった。つばめは口をあんぐりと開けたまま、歩き出した格好で硬直していた。ぎこちなく首を動かして振り返ると、菜の花畑の手前で美野里が腰を抜かしている。黒々とした煙が辺りに立ち込めていて、地面が派手に抉れて軟らかな土を曝していた。その周囲には、粉々に砕け散った水筒とコップの破片が撒き散らされていた。つばめは一度深呼吸してから、状況を整理し直した。
「えー、と……」
まず、菜の花畑に入った。道らしいものはないので真っ直ぐ踏み込んでいったが、その途中で石か何かに躓いてつんのめってしまった。その勢いで手にしていた水筒が滑り落ちてしまい、地面に落ちたかと思った瞬間、前触れもなく地面が爆発した。もしかして、いやいやまさかそんな、だが、それ以外には考えられない。
「これって地雷……?」
つばめがおずおずと抉れた地面を指差すと、顔面蒼白だった美野里は涙目で頷いた。
「た、たぶん」
「どこの誰が、なんてことは考えなくても解るか。何を今更って感じだし」
だが、迷惑極まりない。つばめは嘆息した後、細切れになってしまった菜の花を見下ろした。つい先程まで綺麗に咲いていたのに、根っこから吹き飛んだので台無しだ。全くひどいことをするものである。とりあえず物騒な場所から脱しようとつばめは身を反転させたが、美野里が絶叫した。
「ダメダメ、歩いちゃダメ! どこにあるか解らないんだから!」
「でも、自分の足跡を辿っていけば」
と、つばめは足元を見下ろしてみたが、菜の花がこれでもかと咲き乱れているので足跡は草陰に埋もれていた。顔を上げて目線も挙げるが、特に意識していなかったので、どこをどうやって歩いてきたのかが思い出せなかった。菜の花を掻き分けて足跡を探そうにも、掻き分けている際に踏んでしまったら、と思うと足が竦んできた。今になって地雷の威力が恐ろしくなり、コジロウに助けを求めたくなった。だが、出掛ける前に動くなと命令してきたのだ。彼にも休みを与えたくて、ゆっくりと傷を直してほしかったから、ああ言った。それなのに助けてくれだなんて、虫が良いにもほどがある。増して、地雷原に踏み込んでこい、だなんてひどすぎる命令だ。
「つばめちゃーんっ、お願いだから動かないでねーっ!」
美野里は必死になって声を張り上げてきたので、つばめは力一杯答えた。
「言われなくても解ってるってぇー!」
「だ、だけど、このままじゃいけないわ。どうにかしてつばめちゃんを助けないと、お弁当が無駄になっちゃう!」
動揺しすぎたのか、美野里は泣きそうな顔で重箱を抱き締めた。
「それも確かな事実だけど、とりあえず先生に連絡してみたら?」
美野里が慌てすぎたせいで動揺する機会を逃したつばめが指摘すると、美野里は手を打った。
「そういえばそうね!」
重箱を置いてから携帯電話を取り出した美野里は、一乗寺に電話を掛けてみたが、いつまでたっても繋がる気配はなかった。二度三度と掛けてみても同じことで、美野里は気落ちして通話を切った。
「ダメ、繋がりもしないわ。この肝心な時に役に立たないんだから、あの不良教師は」
「期待してはいなかったけどさぁ、もうちょっと、うん……」
締めるところを締めてほしいものである。つばめが落胆すると、美野里は自宅の方向に振り向いた。
「なんだったら、コジロウ君を呼んできましょうか?
あの子だったら、確実につばめちゃんを助けられるはずよ」
「いいよ、自分でなんとかする」
「そんなことで意地張ってどうするの、こういう時に頼るべき相手じゃない!」
美野里の意見も尤もではあるが、つばめは聞き入れたくなくて顔を背けた。ただでさえズタボロのコジロウを余計に痛め付けてしまえば、自分が情けなくてたまらなくなる。もちろん死ぬのは嫌だし、地雷を踏んで手足が吹っ飛ぶのも御免被るが、コジロウをもっと大事に扱ってやりたい。だから、つばめも吉岡りんね一味と戦うのだ。コジロウのように体を張って立ち向かうことは出来ないが、つばめに出来ることもあるはずだ。
しばらく考え込んだ後、つばめは美野里にある提案をした。美野里は心底嫌がったが、背に腹は代えられないということで連絡を取ってくれた。それから小一時間後、アメリカンバイクの爆音が船島集落に轟いた。曲がりくねった道を通るたびに派手なブレーキングとドリフト音を撒き散らして近付いてきたのは、ハーレー・ダビットソンに跨った男だった。黒光りするフルフェイスのヘルメットに昇り竜が刺繍されたスカジャンを羽織って、擦り切れたジーンズに履き潰したスニーカーを履いている。アメリカンバイクの後部には、丸めた法衣が縛り付けられていた。
「この俺を呼んでくれやがったなぁ、みのりん!」
ハイテンションでアメリカンバイクから飛び降りてヘルメットを脱ぎ捨てたのは、寺坂善太郎だった。
「丁度すっげぇ暇だったんだ、どっか行こうぜ! な! デートしようぜ!」
「私とつばめちゃんも、そう思ったからこそお散歩に出てきたんですけど」
美野里が憂いながら菜の花畑を示すと、寺坂は鋭角なサングラスを掛けてから目を凝らした。
「なんだあの穴、なんかが爆発したのか?」
「ここ、地雷原にされちゃっていたみたいなんだ。うっかり水筒を落としちゃったら、地雷が作動しちゃってドッカーンって。でも、先生は連絡が付かないし、コジロウはまだ動かしたくないし。だから、寺坂さんに頼ろうかなぁと」
つばめが事の次第をざっくりと説明すると、寺坂はげんなりした。
「俺をなんだと思っていやがる。寺生まれのなんたらみたいに万能じゃねぇんだぞ」
「ほら、触手があるじゃない」
つばめが寺坂の右腕を指すと、寺坂はバイクグローブを外して包帯を巻いた右手を出した。
「これかぁ? だが、こいつは大して伸び縮みしねぇんだぞ。リーチはせいぜい五メートルだ。だから、やるだけ無駄なんだよ。それに俺は爆破オチなんてごめんだ、どうせ死ぬなら腹上死って決めてんだよ!」
「朝っぱらから変なこと言わないで下さい!」
赤面した美野里が寺坂を引っぱたくと、寺坂はちょっと機嫌が良くなった。
「おおう可愛いリアクション、さすがは俺のみのりん」
「その辺で黙らないと、お弁当を分けてあげませんからね!」
美野里が重箱を抱えてそっぽを向くと、寺坂は少し考えた後、つばめを指した。
「その弁当を作ったのって、みのりんじゃなくてつばめか?」
「うん、そうだけど」
「じゃ、まともに喰える代物だな! 俄然やる気が出てきた! 朝飯喰ってねぇんだもん!」
寺坂が意気込みながらスカジャンを脱ぎ捨てて右腕の袖を捲り上げると、美野里は拗ねた。
「どうせ私の料理はおいしくないですよぅ」
寺坂の気合いが入る動機の単純さにつばめは少々呆れもしたが、ふと疑問も過ぎった。美野里と寺坂は十年来の付き合いだと美野里から教えてもらったが、単なる知り合いであって友人でもなんでもなく、男女の関係などではないと強調された。だが、美野里の手料理の不味さを知っているとなると、寺坂との関係はただの知り合いであると言い切れるほど薄いものでもなさそうである。
「で?」
寺坂は右腕の包帯を解いて触手を広がらせたが、すぐにつばめ目掛けて伸ばしてこなかった。
「で、ってなんですか」
美野里が聞き返すと、寺坂はつばめと自分の位置関係を確認してから、つばめに尋ねてきた。
「つばめー、今、体重はどのくらいだ?」
「この前計った時は四十二三キロぐらいだったかなぁ」
つばめが答えると、寺坂は不満を剥き出しにした。
「俺のストライクゾーンからは大外れだな。やっぱりこう、女ってのは肉付きが良くねぇと」
「そんな話をするために来たの? 違うでしょ? お弁当食べたくないの?」
つばめが目を据わらせると、寺坂は気を取り直した。
「あー悪ぃ悪ぃ。俺の体重が九十キロちょいだが、重量差がそれだけだと持ち上げても落っこちるかもしれねぇぜ。下手をすれば、俺までそっちに引っ張り込まれちまう。触手はギリギリ届くがな」
「じゃ、どうするんですか?」
美野里が不安になると、寺坂はにっと笑った。
「みのりんがバラストになりゃいい。さあ来い、俺の胸でも背中でも!」
「バイクにして下さい。あっちの方が確実です」
冷ややかな目で美野里がアメリカンバイクを指すと、寺坂は残念がった。
「ノリ悪いんだから、もう」
ぼやきながらアメリカンバイクのハンドルを掴んだ寺坂は、右腕の触手を振るって解き、つばめへと放ってきた。赤黒い肉の帯が弛み、絡み、束になって真っ直ぐに迫ってくる。甘い香りを振りまいている菜の花を掻き分けながら近付いてきた触手に、つばめは身を乗り出した。だが、なかなか掴めない。触手の長さがごく僅かに足りないらしく、握り締めようとするが手中に入らない。寺坂はアメリカンバイクのハンドルを曲げて腰を落として距離を稼ぎ、右肩も捻り出してきた。そのおかげで指では掴めたが、これではつばめの体重を支えきれない。持ち上げることが出来たとしても、すぐに滑り落ちてしまう。ならば、勇気を振り絞るしかない。
「でぇいっ!」
距離を稼げないならば、飛ぶしかない。つばめは寺坂の赤黒く冷たい触手を思い切り握り締めると、足元を蹴って前のめりに跳躍した。その際に菜の花が散って瑞々しい茎が潰れ、青臭い匂いが漂った。ほんの十数センチではあったが、つばめと寺坂の間の空間が狭まる。途端に細めの触手が翻ってつばめの手首から腕に絡み付き、体重を支えるに充分な強度が出来上がった。寺坂は強く踏ん張り、一本釣りをするかのように触手を挙げる。
「どっせぇーい!」
束の間、つばめは重力から解放された。黄色の絨毯が眼下に広がり、右腕に絡み付いている触手の気色悪さに意識を向けるだけの僅かな余裕が生まれる。風を受けてスカートが丸く膨らみ、前髪が後方に撫で付けられ、寺坂と美野里が真下からつばめを見上げている。これで助かった、とつばめは破顔しながら美野里へ手を伸ばした。
その時、アメリカンバイクが転倒した。
全てがスローモーションに見えた。
慣性の法則に従って空中に放り出されたつばめは、一部始終を観察出来ていた。実時間では一秒にも満たないのだろうが、つばめの体感時間はその何百倍にも引き延ばされていた。つばめを持ち上げようと力を入れすぎたせいで寺坂の足元が滑ってハンドルも傾き、前輪が変な方向に滑って地面から外れ、アメリカンバイクの車体全体が横倒しになった。一拍遅れて、アスファルトと金属が激突する衝撃と音が空気の震動と共に伝わってくる。更に寺坂がバランスを崩した際に生じた力が触手を経て及び、つばめの進行方向をねじ曲げた。
目が零れ落ちんばかりに見開いてつばめを凝視している美野里の髪が舞い上がったが、ショッキングな出来事が立て続けに起きたからか汗ばんでいて、数本の髪が頬と額に貼り付いている。細かな涙の粒が浮かび、奇妙な形に歪んだ口はつばめの名を呼んでいる。寺坂が上を仰ぎ見、つばめの右腕に絡み付けた触手を増やそうとするが、つばめの体重に応じた強さの遠心力がそれを許さなかった。右腕をきつく縛っていた十数本もの触手が一本、また一本と滑り抜けていき、せめてもの意地で触手の尖端だけでも捉えようとするが、人差し指の第一関節にすら挟まらず、そして。
「うおおおおおいっ!?」
「つばめちゃああああああんっ!?」
突如、時間の流れが戻ってきた。寺坂の情けない悲鳴と美野里の絞め殺されそうな悲鳴を受けながら、つばめは死を確信した。やはり寺坂になんか頼るんじゃなかった、もっと建設的で確実な方法を選ぶべきだった、コジロウに気を遣ったのも間違いだったのかな、だけど、と十四年の人生の走馬燈を見ていた。と、その時。
ぬかるんだ田んぼに頭から突っ込みそうになったつばめを、あの鋼鉄の手が受け止めてくれた。泥と雪解け水を巻き上げながらスラスターの出力を弱め、軟着陸する。足元に熱風を伴った波紋が広がり、田んぼの畦が濡れた。無意識に閉じていた目を開き、つばめが見上げると、心なしか破損が回復しているコジロウがいた。
「負傷はないか、つばめ」
「命令無視したー!」
助けてもらったことを感謝する前に、つばめは不躾な言葉を口走ってしまった。おまけにまた横抱きにされている。その恥ずかしさと、意地を張ったのに無駄になった空しさと、頼りになりすぎる彼に対する諸々の感情を持て余し、つばめは目眩がするほど頭に血が上った。コジロウはつばめの文句には構わずに足を進め、田んぼから出ると、舗装された道路につばめを立たせた。両足にたっぷりと泥を纏ったコジロウも道路に上がり、直立した。
「つばめ」
コジロウが冷静極まる声で話し掛けてきたので、羞恥に駆られたつばめはつっけんどんに返した。
「何だよーもう!」
「本官は、いかなる事態、いかなるコンディションであろうと、現マスターの安全を最優先することが義務付けられている。現マスターの命令を無視する行動を取らねば護衛出来ないと判断した場合、本官は現マスターの命令を無視して行動することが可能となっている。よって、つばめの意見は」
「まあ、そんなことだろうと思ったけどさぁ!」
所詮は機械なのだ。少女漫画的な展開を想像した自分がどうしようもなく馬鹿馬鹿しくなって、つばめは彼に背を向けて虚勢を張った。ヒロインの危機を都合良く察知して駆け付けるヒーロー、というには無機質すぎるし、彼自身の態度も極めて冷淡なので、余計に自分の妄想が情けなくなってくる。コジロウが駆け付けてくれた理由にしても、考えるまでもなく先程の地雷の爆発音だ。つばめの命令を無視するために必要なプロセスがあったから、雪崩の時に比べれば初動が遅かったようだが、それでも充分間に合っているのが空恐ろしいところだ。
「あービビった、心臓すっげぇ痛ぇー……」
寺坂が触手の右手で禿頭を掻き毟ると、美野里はその場にへたり込んだ。
「ほっとしたら、腰が抜けちゃったぁ……」
「地雷の処理作業を開始する」
コジロウは泥の足跡を付けながら菜の花畑に向かっていったので、つばめは慌てた。
「それこそダメだって、どこに埋まっているかなんて解らないんだし! それに、また爆発したりしたら!」
「各種センサーによる走査で、地雷は振動感知式であると判断している。よって、処理方法は簡単だ」
コジロウは菜の花畑の前に屈むと、顔を上げた。目線を左右に配らせて菜の花畑の広さと斜面の角度を確かめ、地面に軽く拳を当てた。そして、上体を捻ってその拳を高く上げた後に振り下ろした。ずんっ、と地面全体が波打つほどの振動が発生した。傍目からではただのパンチにしか見えなかったが、コジロウの拳は地中深く埋まって手首までもが没し、無数のひび割れも枝分かれしながら四方に伸びた。
直後、菜の花畑が吹っ飛んだ。土が粉微塵に砕け、火の粉が舞い、爆風が駆け抜け、黄色く小さな花を咲かせていた菜の花は一本残らず消し飛んだ。甘ったるい香りは土と煙の匂いに塗り潰され、吹き下ろしで黒煙が薄らぐと変わり果てた地形が露わになった。どこぞの紛争地帯だと言っても差し支えのない光景に、つばめはしばし言葉を失ってしまった。コジロウは事も無げに拳を引き抜くと、土を払った。
「作業、完了」
「わ、ワイルドだなぁ」
確かに簡単ではあるが、力任せすぎやしないか。頭上を舞い散る黄色い花吹雪を視界の端に捉えながら、頭の片隅でそんなことを考えたが、つばめはそれを口には出さなかった。地雷や爆弾の類を処理するには結局のところ爆発させる必要がある、と社会の授業で教えてもらった記憶がある。特に地雷は処理が面倒で、掘り返す作業中に誤って起爆させてしまうことだってあるし、全部掘り返したつもりでいても妙なところに残っていることもあり、それを踏んでしまう事故も後を絶たない。だから、一度に全て起爆させて処理するのが最も安全で確実ではあるのだが、これでは花見の風情もへったくれもない。この分では、桜の木も無傷ではあるまい。
「桜は倒れやしねぇよ。あればっかりは、どうにもならねぇように出来ているんだ」
つばめの懸念を察したのか、寺坂がもうもうと立ちこめる黒煙の奥を示した。緩やかに下りてきた風が濁った煙を払いのけると、無惨な菜の花畑の先には、傷一つない桜が悠々と枝を伸ばしていた。
「終わったんならもう行こうぜ、いい加減に腹減ったんだよ」
寺坂は立ちゴケしたアメリカンバイクを起こすと、跨り、ヘルメットを被った。
「これだけのことがあったのにノーリアクション? 色々と信じられないんですけど!」
足腰の力が戻っていないのか、美野里は座り込んだままだった。寺坂は愛馬を暖機しつつ、美野里を見下ろす。
「みのりんだって、じきに慣れるっての。銃声にせよ、爆弾にせよ、何にせよ。歩けないんなら乗れよ、ついでに俺に乗ってくれちゃってもいいんだぜ?」
「全力でお断りしまっす!」
美野里は意地で立ち上がったが、足元がふらついていた。
「ついでだからさ、爺さんに初七日の経を上げてってやるぜぃ」
寺坂のやる気に欠ける言葉に、つばめは眉根を曲げた。
「ついでって、それが寺坂さんの本来の仕事でしょ」
じゃー俺は先に行っとくから、と寺坂は触手を戒めていない右腕を振り回してから、排気音を散らしながら佐々木家に向かっていった。美野里は寺坂の後ろ姿を力一杯睨んでいたが、つばめに縋り付いてきた。
「全くもう……」
「先生といいなんといい、どうしようもない大人ばっかりだなぁ」
けれど、心底嫌いになれないのはなぜだろうか。つばめは足元が覚束無い美野里を支えて歩いたが、実を言えば自分の足元もそれほど確かではなかった。つばめの背後には両足と右の拳を泥まみれにしたコジロウがおり、その気配を感じているから背筋が伸ばせているようなものだった。万が一倒れたとしたら支えてくれる、という安心感があるからでもあったが、それ以上にコジロウに情けない姿を見せたくない、という意地を張っていたからだ。
今後のためにも、コジロウに守られてばかりではいたくない。しかし、彼を守れるような力もなければ才覚もなく、助力すらも難しい。ならば、コジロウに守られるに値する女になってやる。そしてあわよくば、プログラム言語だけで出来上がっている彼の人格を突き動かし、心を生み出させ、つばめに惚れさせてやる。
吉岡りんねが抱いているであろう野望に比べれば些細な願望かもしれないが、今のつばめにとっては、コジロウへの恋心を肯定するだけで大仕事だ。野望にせよ願望にせよ欲望にせよ、当人の身の丈に合ったものでなければ叶えられるはずもない。だから、好意を寄せる相手と両思いになりたい、と思うだけで充分だ。
叶いもしないことほど、願いたくなるものだ。
別荘の片付けがそれなりに進み、日も暮れた頃合いに、矮躯の男は戻ってきた。
というより、いつのまにか別荘に戻ってきたことに気付いたと表現した方が正しい。伊織は武蔵野と共にリビングに散乱した木片を一纏めにして外に出し、埃まみれの床を掃除し、少し緩んだブルーシートを貼り直し、一段落したので夕食を摂ろうと支度を始めた時、視界の隅に高守の姿が見えた。足音も立てずに地下階の階段を昇ってきたのか、幽霊のように突如現れたのである。高守を視界の隅に捉えた伊織は、悲鳴が喉の奥から出そうになるほど驚き、戸棚から出した袋ラーメンを床に落としてしまった。一呼吸してから、伊織は毒突く。
「んだよ、てめぇ」
「ん、ああ」
伊織の反応で武蔵野は察し、食器棚を閉じてから振り返った。
「で、どうだった」
薄暗い階段からシャンデリアの明かりが落ちているリビングに入ってきた高守は、くたびれた作業着に乾いた土と枯れ葉を付着させていた。履き潰した作業靴を脱いでから手近なスリッパに履き替えた後、高守は撫で肩の間から短く生えている首を横に振った。普段と表情に差はないが、心なしか気落ちしているようではあった。
「まあ、そんな感じはしたがな」
最初から上手くいくことなんてない、と高守を慰めつつ、武蔵野は三人分の丼を取り出した。
「役に立たねー」
伊織は片手鍋に水を入れると、ガスコンロに掛けた。喰うなら手伝え、と武蔵野から言われたからである。りんねや他の者達に命じられると心底癪に障るのだが、武蔵野が相手だと苛立つ気にならないのが不思議である。伊織が武蔵野に対して敵意どころか関心も抱いていないから、だからだろう。仕事の上のどうでもいい関係というのは、意外と楽なものだ。片手鍋の中に湯が煮立ってくると、武蔵野は火力を緩めてから乾麺を入れた。
「醤油で良かったか?」
武蔵野が袋ラーメンの空袋を高守に見せると、高守は頷いた。
「お嬢が戻ってくるのは、もう二三日先になるんだそうだ」
「何、電話でもしたん?」
丼の底にスープの素を入れながら伊織が言うと、武蔵野はふやけてきた乾麺を菜箸で解した。
「暗号回線でな。まあ、お嬢にも色々あるんだろうさ。その間、俺達は自由だ」
「自由っつっても、こんなクソ田舎じゃ……ん」
やかましい着信メロディーを耳にして、伊織は言葉を切った。ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。薄い金属板状の携帯電話の受信ボタンを押すとホログラフィーが浮かび上がったが、映像通話モードではなく、ただの音声通話モードだった。少々面倒に思いつつも、伊織は携帯電話を音声通話モードに切り替えた。
「あー俺、あー、あ、うん?」
スピーカーではない骨電動式の受話器を側頭部に当て、伊織は受け答えた。
「は? 何それ? つかマジ? うっわー、ヤバくね? 俺? あー別に?」
一通り会話を終えてから通話を切ると、煮えた乾麺と湯を丼に入れる手を止めて武蔵野が尋ねてきた。
「何の電話だ」
「商売敵に喋るわけねーじゃん!」
伊織は武蔵野に思い切り中指を立ててから中身の入った丼を取り、箸を引っ掴んで、熱気の籠もるキッチンから抜け出した。りんねがいるわけでもないのだから、武蔵野と高守と同じテーブルを囲んで食べる意味も理由もない。階段を昇って二階の自室に入った伊織は、壁のスイッチを押して照明を付けてから、床に直接丼を置いた。
「つか、マジ?」
電話の内容を反芻しながら、伊織は底で固まっているスープの素を掻き回した。味覚なんて当の昔に弱り切っているのだから、味を馴染ませても無駄なのだが、ついつい人間らしいことをしてしまう。今し方まで煮立っていた乾麺を啜り上げても、舌と粘膜が火傷する温度であるにも関わらず痛みも熱さもまるで感じない。せいぜい感じるのは、喉越しと胃袋の圧迫感だけだ。嗅覚だけは異常に鋭敏なので、味が想像出来るのがまだ救いである。
名前通りの厳つい外見の割に几帳面な武蔵野が載せてくれた輪切りのネギと海苔を絡めた麺を貪りつつ、伊織は久し振りに真面目に考え事をした。フジワラ製薬が先だって攻勢に出たのならば、伊織もそれ相応の行動を取る必要がある。戦いになるとなれば、ようやくまともに味の解るものを口に出来る。その瞬間を想像するだけで、神経が逆立つ。伊織は口角を吊り上げ、尖った八重歯を剥いた。
鉄錆の味が懐かしい。
鎮火しても尚、燻っていた。
先手を打たれてしまった。それも、決定的な手段でだ。一乗寺は苛立ち紛れに蒸かしたタバコを吸い込んでから、ため息混じりに吐き出すと、火災の名残である煙に己の紫煙を混ぜた。コジロウの無線を通じて得た情報を元に、藤原伊織が本来所属している企業であるフジワラ製薬に探りを入れて、過去の調査記録や人員の流れから見当を付けた研究所に捜査令状を送り付けたまではよかった。だが、その直後に研究所で火災が発生した。
地方都市の郊外に設置された研究所は、コンクリート製の箱のような建物だった。分厚い塀と電流の通った鉄柵に取り囲まれていて、小振りな要塞のようだ。周辺住民への聞き込み調査では怪しげな噂や情報は得られなかったものの、この研究所では高頻度で治験の被験者を募集しており、治験を終えた被験者のほとんどがフジワラ製薬と契約を結んで正社員となっているのが判明した。だが、その後、正社員となった被験者は実家に戻ることすらなく、連絡すらも
途絶えていることも解った。だから、ここの研究所で伊織のような怪人を生み出しているのだと判断して乗り込もうと突入部隊を編成したのだが、到着した時には既に火の手が上がっていた。
「ちょーっと焦りすぎたかなぁ?」
一乗寺は出番のなかった愛銃をホルスターに戻し、タバコのフィルターを噛み締めた。
「でも、研究所からトンズラこいた車両はトレース出来たんだよね? 出来ないと言わないでよね、すーちゃん?」
「当たり前だ、ボンクラな仕事はするもんかよ」
そう答えた男は、一乗寺の防弾ジャケットの内ポケットに手を滑り込ませると、素早くタバコを取り出して銜えた。一乗寺はライターに火を灯して向けると、その男は身を乗り出してタバコに火を灯し、深く吸った。
「トラックが十台、バンが二十五台、乗用車と軽自動車が合わせて三十二台。そのどれが遺産を持ち出した車なのかはまだ解らんが、全部が当たりだと楽なんだがな。対戦車砲一発で終わらせられるからな」
「そりゃいいねぇー、後片付けが面倒だけど!」
一乗寺がけらけらと笑うと、紺色の戦闘服姿の男、周防国彦は太い眉を顰めた。
「お前、あの子の前でもその調子なのか?」
「まー、今更どうにかなるもんでもないし?
俺の頭がおかしいのは、今に始まったことでもないもん」
「そこをどうにかするのが大人ってやつだろう。もう少し付き合え、確保しておきたい人間がいるんだ」
「へいよー。んで、東京にお戻りになった御嬢様はどうするん?」
「泳がせておけ。敵が尻尾を出すまで手を出せないのが歯痒いがな」
だからすーちゃんと呼ぶな、と周防は一乗寺の肩を小突いてから、事後処理に奔走する消防署員達の元に戻っていった。一乗寺はにこにこしながら周防の広い背を見送ってから、吸い終えたタバコを携帯灰皿にねじ込み、不意に表情を強張らせた。怪人を殺すのは、もうしばらくお預けになりそうだ。それまでは銃撃戦も楽しめまい。
退屈極まりない。