言わぬがハニー
目を覚ますと、天井がいやに高かった。
あれ、ここはどこだっけ、とつばめはぼんやりしながら記憶を辿った。自宅の布団よりも遥かに寝心地の良いベッドは、寝返りを打つとスプリングが柔らかく軋む。肌触りの良いカバーが掛けられた枕に顔を埋め、とろりとした眠気に身を委ねていたが、意識が冴えてくると曖昧な記憶が束ねられて形を成した。
「……ああ、そうだ」
東京に旅行に来たんだった、とつばめは内心で呟いた。ベッドサイドのデジタル時計を窺うと、時刻は午前六時になる手前だった。傍らのもう一つのベッドを窺うと、既に空っぽになっていた。
「お父さんは?」
つばめは寝癖がひどい髪を気にしつつ、上体を起こすと────警官ロボットが控えていた。直立不動で、つばめが寝入った時となんら変わらない姿勢を保っていた。彼は赤いゴーグルに淡い光を灯し、つばめを見下ろしてきた。
「サブマスターは所用にて外出した」
「朝一で?」
「本官のフレームを製造している工場での打ち合わせを行う、とのことだった」
「あー、なるほど」
「必要とあれば、連絡を行うが」
「いいよ、別に。用事があれば、お父さんの方から連絡をしてくるだろうし」
つばめはベッドから抜け出すと、伸びをしてから、カーテンを広げて窓を開けた。冴え冴えとした朝日と共に流れ込んできたのは、冷えた空気と都会の喧騒だった。ミラーガラスに彩られたビル群が朝日を撥ねて煌めき、排気ガス混じりの朝靄が垂れこめている。
久し振りに訪れた東京は、以前となんら変わっていなかった。建物がごちゃごちゃしているし、都心はどこもかしこも人間で溢れ返っているし、昼夜を問わず騒がしい。一ヶ谷市で起きた危機など知る由もない人々が、鬱屈とした面持ちで日常を繰り返している。
今回、佐々木家の面々が東京にやってきたのは、つばめの高校入学祝いの旅行のためであり、つばめとコジロウを監視している政府と接触するためでもあり、そのついでに長孝はコジロウに必要不可欠な部品を発注しに行ったというわけだ。
なので、旅行というわりには落ち着きがなく、政府の人間だけでなく設楽道子による監視も常に行われているので、つばめは気が休まらなかった。例によってセキュリティの都合でやたらと高級なホテルのスイートルームに宿泊させられたこともあり、尚更だった。
せっかくだから使い倒してやれ、とつばめは眠気覚ましにシャワーを浴びて着替え、髪を整えようとしたが、母親譲りの癖毛が四方八方へと飛び出していた。整髪料を掛けてドライヤーでブローしてヘアアイロンを使っても、まだ収まらない。結んでも跳ねてしまう。つばめはしばらく鏡と睨み合っていたが、彼を呼んだ。
「コジロウ、手伝ってー」
「了解した」
コジロウは洗面所にやってきたので、つばめはブラシとヘアアイロンを手渡した。
「いつもみたいによろしく」
「だが、サブマスターは」
コジロウはヘアアイロンを軽く握り、やや逡巡するも、つばめは跳ね放題の髪を抓む。
「コジロウのマニュピレーターのパワーゲインはそこまで繊細じゃないから、髪の手入れをさせるのはお勧めはしない、ってやつでしょ? お父さん、自分が作ったロボットを信用してないよねぇ。でも、私はコジロウを信用しているから」
つばめが笑みを向けると、コジロウはしばらく躊躇ったが、つばめの肩を押して鏡に向き直らせた。最初に整髪料のスプレーで髪を湿らせてから、加熱したヘアアイロンで毛束を挟み、ゆっくりと動かして伸ばしていく。先程は鏡を見ながら自力でセットしたが、上手くいかなかった。だが、コジロウは的確な位置で、適度な動きで髪の跳ねを押さえてくれる。
真っ直ぐ伸びた毛束をブラシで梳かれる際、ちょっとだけ頭皮にテンションが掛かるが、それがむず痒いようでいてなんだか嬉しかった。お母さんもこんなことをしてくれたかな、きっとしたよなぁ、とちらりと考えながら、つばめは鏡越しに彼を見上げた。
マスクフェイスからは表情を窺えなかった。
朝食の最中、父親から連絡があった。
なんでも、コジロウのフレームの発注先の工場との話し合いを終えた後も予定が入ってしまったらしく、夜まで帰ってこられないのだそうだ。となれば、夜までは自由行動ということか。無論、政府側の監視の目は光っているが、気にしなければどうということはない。
それはつまり、コジロウとデートが出来るということだ。つばめはその事実に気付いた途端、ルームサービスの朝食をさっさと平らげ、情報収集を始めた。東京の都心なのだから、デートスポットなど履いて捨てるほどある。だが、ロボットと共に出掛けても楽しめる場所など限られている。となれば、彼女の力を借りて調べた方が手っ取り早いだろう。
「道子さーん」
つばめはスマートフォンを取り出し、設楽道子に電話を掛けると、一秒も経たずに彼女は電話を受けた。画面の向こうに映し出されたのは、ラフな部屋着姿のフルサイボーグの女性だった。
『はいはーいっ、なんでしょう?』
「お父さんが夜まで帰ってこられないから、その間、コジロウと一緒に出掛けようと思うんだけど、この辺に丁度いい場所ってある?」
つばめが問い掛けると、道子は腕を組む。
『ちょっと待って下さいねぇ、検索しちゃいますから。……最近出来たショッピングモールはありますけど、コジロウ君が一緒となるとちょっと微妙ですねぇ。あと、警官ロボ丸出しの外装を換装していかないと目立ちすぎますよ』
「それについては問題はない。本官が換装する」
コジロウが返すと、道子は唸る。
『うーん、そうですねぇ……。となると、あれぐらいしかなさそうかな?』
「それって何?」
つばめが身を乗り出すと、道子はホログラフィーモニターに目的地のウェブサイトを表示させた。
『自動車メーカーのショールームですが』
お台場にある大型の施設で、車の販売よりもエンターテイメントに特化しているテーマパークのようなものだった。歴代の名車が展示されていたり、体感型シミュレーターもあったり、と。中でも近頃人気なのは、人型特殊車両に関する展示なのだそうだ。つばめは画面をスクロールさせ、展示車両の画像を見ていたが、ふとある人型特殊車両に目を留めた。
「あれ、この子」
外装のデザインはまるで違うのに、コジロウにどことなく似ている気がする。全体的な雰囲気というか、パーツの具合というか。つばめが眉根を寄せていると、道子が言った。
『ああ、その車両はコジロウ君と同じフレームを使っているからですよ。耐久性の高さとフレームの頑丈さを生かして、レース用にチューンナップされているんです。といっても、展示車両ですからレースに出場する当人ではないんですけどね』
「それじゃ、コジロウの遠縁の親戚みたいなもんか」
つばめが納得すると、コジロウは反論した。
「本官はそう判断しない」
『で、私のアドバイスは役に立ちましたか?』
道子にじっと見つめられ、つばめは頷いた。
「あ、うん。お土産、買って帰るね」
『わーい、楽しみにしてまーす!』
道子はひらひらと手を振りながら、通話を切った。つばめはコジロウを見やると、彼は僅かながら視線を外していた。どうやら、つばめがコジロウ以外の人型特殊車両と接するのを快く思っていないらしい。以前にも、コジロウは自分の分身である機体とつばめが触れ合おうとしたら、物凄い速度で戻ってきて割り込んだことがあるので、ロボット相手には猛烈に嫉妬する性分らしい。
それが可愛いような、ちょっと面倒臭いような。つばめはにやにやしながら、コジロウをお色直しさせるべく、ホテルの地下駐車場に停めたトレーラーに移動させた。そのコンテナにはコジロウのスペアパーツや整備用具が格納されていて、コジロウのスペアの外装も揃っている。なので、つばめは外装の色やデザインを選んでやってから、着替えに勤しむコジロウを見守った。その後、つばめも身支度を整えた。ダッフルコートの下にセーターを着込み、膝丈のデニムスカートにタイツを合わせてブーツを履いた。
たまには妬かれるのも悪くない。
それから、お台場に移動した。
警官ロボット以外の何者でもない白黒の外装から、比較的地味な外車を思わせるネイビーの外装に換装したコジロウを道路に走らせ、つばめは電車に乗っていき、現地で合流した。ほんの少しの間ではあるが、離れていると気が気ではないのか、コジロウからは滝のように連絡が入っていたのだが。
つばめが件のショールームの前に至ると、コジロウはマスクフェイスを向けてきた。黄色のゴーグルとダークグレーのマスクフェイスは普段とはデザインが違うが、細かな仕草はそのままなので、表情の機微は窺えた。ほんの少しだけ首の角度を曲げてから戻したので、つばめが無事に到着してほっとしたのだろう。
「つばめ。問題はなかったか」
「うん、なんにも。コジロウの方は?」
つばめが彼に手を差し伸べると、コジロウは手を伸ばしてきた。
「問題はない。オンラインにてショールームへの入場手続きを完了したことにより、保安上の問題はクリアしている」
「じゃ、行こうか」
つばめがコジロウの指を握ると、柔らかく握り返してくれた。コジロウが言った通り、ショールームの出入り口にはセンサーが付いたゲートが設置されていたが、何事もなく通り抜けることが出来た。このメーカーのものでもない人型特殊車両が現れたことにより、人々が若干ざわめきはしたが、大した騒ぎにはならなかった。
順路を辿り、メーカーの歴史と共に展示されている歴代の名車を見ていった。レトロなスポーツカー、かつてはレースで名を馳せた名車、庶民にも普及していた大衆車を経て、最新鋭車両の展示スペースにやってきた。デザインと機能性を兼ねたフォーミュラカー、タフなラリーカー、そして人型特殊車両が慎ましく並んでいた。
「ああ、これが」
つばめがレース用の人型特殊車両を見つけると、背後でコジロウがぎしりと身じろいだ。それを横目に、つばめはコジロウになんとなく似ている車両に近付いた。艶やかな銀色の外装が赤の差し色で彩られ、スポンサーやチーム名が入ったデカールがそこかしこに貼られていて、マスクフェイスの頭部には力強いバンパーが付いている。これがコースを高速で周回し、他のレーシングカーと熾烈な争いを繰り広げるのだと思うとわくわくしてくる。
もしかすると、とつばめは思い描いた。遺産絡みの争いが起きることなく、吉岡グループと佐々木長孝と小倉重機による人型ロボットの開発競争による争いだけが繰り広げられていたら、コジロウは華々しい舞台で活躍していたかもしれない。RECのリングに上がることはあったが、コジロウとしてではなく、別物のロボットファイターとしてだった。
そう思うと、コジロウを独り占め出来ているのが嬉しいような、なんだか勿体ないような気がしてくる。だが、そうなるとコジロウが大勢のファンやチームのスタッフに取り囲まれ、あれやこれやと世話をされて、時にはレースクイーンやアイドルとも接することがあるわけで。と、考えていくと徐々に腹が立ってきた。
自分の妄想で苛々するなんてどうしようもない、とは思うのだが、一度覚えた感情はそう簡単には振り払えない。つばめはコジロウの手を握ると、足早に人型特殊車両の展示スペースを後にした。
この気持ち、どうしてくれよう。
真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。
ショールームを後にしてからも、つばめはコジロウを連れてお台場をだらだらと見て回った。休日を謳歌する学生グループ、家族連れ、デートに来たカップル、といった人々が絶えず行き交っていた。モールの屋上に設置された観覧車に乗り込んでいく姿をぼんやりと目で追っていたが、コジロウとは無理だよなぁ、とちらりと思った。観覧車のカゴがコジロウの重量に負けてしまう。
東京湾を一望するベンチに腰掛け、つばめは細いため息を零した。楽しいデートになるはずだったのに、気が滅入ってくるのは、自分のせいに他ならないのだから。だから、コジロウに八つ当たりするのは筋違いである。
「つばめ。帰投すべきでは」
海から吹き付ける風が冷えてきたからか、コジロウは案じてきた。つばめはベンチに腰掛けずに突っ立っているコジロウを見上げるも、また海に目線を投げた。
「コジロウが一緒なら、別にどうってことないし」
「だが、サブマスターが」
「お父さんは、まあ……うん……」
父親を心配させるのは気が引ける。つばめは言葉を濁し、膝を抱えた。こうして、有り触れた人間的な幸福をこれでもかと見せ付けられると、多少なりとも妙な気分になる。
つばめがコジロウを一人の男性として愛しているのは、やはり普通のことではないのだ。船島集落で暮らしている間は忘れていたのに、思い出してしまった。開き直っていたと思ったのに、まだ覚悟が足りなかったようだ。
「ちょっと歩こう」
つばめはベンチから立ち上がり、コジロウに手を差し伸べると、コジロウは躊躇いもなく手を掴んできた。だが、指の太さが違い過ぎて絡ませることも出来ないし、手を組むことなんて夢のまた夢だ。西日に焼かれる海沿いの公園を隣り合って歩くが、コジロウの歩調はつばめの半分以下の速度だ。そうでもしないと、つばめを追い抜いてしまうし、繋いだ手を引っ張ってしまうからだ。
彼の金属の指からは、機械熱がじわりと滲み出してきて、それがつばめの体温と混ざり合う。日が落ちた後の三月の潮風は冬の厳しさを取り戻していて、関東特有の乾いた空気が肌をぴりっとさせる。雪深い一ヶ谷市の冬とは、質が異なる寒さだ。
少しでも気を抜くと、あの壮絶な出来事が脳裏を過ぎる。自分のものではない心臓が疼き、愛情と呼ぶには苛烈な感情の末に果てた、祖父の姿が蘇る。義理の姉の歪み切った思いの末路が、胸の奥底に淀む。
皆は言ってくれる、つばめは何も悪くないと。振り回されていただけに過ぎず、そこに何の責任もないと。それ自体は事実だと思うし、慰めてくれるのはありがたいのだが、あれほど深く遺産に関わったのだから、背を向けるべきではないと思う。だから、政府に監視されながらも船島集落で家族と生きると決めたのだ。
だけど、いや、だからこそ、つまらないことにこだわってしまうのだろう。コジロウの信念に似た頑なな愛情は決して揺らがないのに、つばめの心を幾度となく支えてくれた恋心も乱れないのに、薄っぺらな恋人ごっこをしたくなる。ないものねだり、というやつか。
「つばめ」
「ん?」
コジロウが足を止めたので、つばめも足を止める。
「本官はこのような事態を想定していない」
「私が帰るのを渋ること?」
「それは想定の範囲内だ。だが、つばめの言動から判断して、先程までのつばめは機嫌を損ねていた。しかし、そこに至る前後の出来事を分析しても、機嫌を損ねる要素が割り出せなかった。よって、本官はつばめに対していかなる行動に及ぶべきか、判断を付けかねている。よって、対処を誤った可能性が高い」
「それは私が悪いの。コジロウは気にしないで」
思い出すと恥ずかしくなってきて、つばめは目を伏せた。
「ならば、今後の判断材料としてつばめの内面に発生した異変を」
「だーから、それを言えないほど恥ずかしいのであって!」
つばめが強く言い返すと、コジロウは一瞬臆した。
「……了解した。以後、言及はしない」
「それでよろしい」
つばめは表情を戻してから、コジロウと繋いだ手を前後に振る。彼の肘と肩の関節が滑らかに動くのは、父親の整備の賜物だ。
「ん」
つばめが手招きすると、コジロウは事も無げに片膝を付いて屈んだ。普段とは違う外装とマスクフェイスでも、彼は彼だ。ホテルに戻ったら、父親と合流したら、思うように触れ合えなくなる。つばめは首に巻いていた幅広のマフラーを外し、コジロウの頭部に引っ掛けてからぐいっと引き寄せ、乾いた唇と冷たいマスクを重ねた。
その瞬間、コジロウがぎしりと不自然に関節を軋ませた。驚いたのか、喜んだのか、その両方かもしれない。つばめはそっとマフラーを外し、彼のマスクに残る唇の痕を拭ってから、照れ隠しで笑った。
「帰ろっか」
「…………了解した」
コジロウはやや間を置いてから応じ、立ち上がった。それから、お土産物を買うためにショップに行き、いかにもお台場らしいものをたんまりと買い込んだ。荷物持ちはもちろんコジロウである。父親とも連絡を取り、夕飯前には帰ると伝えた。
欲しいものは、全て手に入れた。一生掛かっても使い切れないほどの莫大な財産、家族、そして愛する警官ロボット。これ以上求めるものなどないと思っていたが、そうでもないらしい。自分の浅ましさを疎みつつも、つばめは彼に整えてもらった髪を抓んだ。
明日もまた、彼に甘えてしまおう。




