終わり良ければ全て良し
情報を取得し、記録し、保存する。
市立高校の制服姿のつばめは、卒業証書の入った筒を振り上げながら駆け寄ってきた。白い息を弾ませながらやってくると、花飾りの付いた胸を張り、ホームランを予告するバッターのように黒い筒を掲げてみせた。自慢げに口角を上向けているつばめを、卒業証書越しに捉えたコジロウは、彼女の頭上に傘を差し掛けた。
「降雪は継続している」
「そりゃまあ、そうだけどさ。卒業したこと、ちょっとは褒めてもいいじゃない」
期待していたリアクションが返ってこなかったからだろう、つばめは不満げに唇を尖らせる。
「教育課程を修了した証明書の閲覧は帰宅後に行うべきだ。サブマスターが駐車場にて待機している」
ざくざくと雪を踏み分けながら、コジロウはつばめを伴って校門に向かった。三月を迎えても、雪国にはまだまだ雪が降り積もる。除雪車によって校門の左右に押し退けられた雪の固まりは、捲り上げられている底の部分が泥で黒く汚れていた。他の卒業生達は友人と記念写真を撮ったり、教師と別れを惜しんだり、親に卒業祝いの言葉を掛けてもらったり、と、皆、めいめいに高校生活最後の日を過ごしていた。
「結局、りんねは卒業式に来られなかったね」
つばめはコジロウの左腕を掴み、離れないようにしながら、残念がった。
「療養中だからだ」
コジロウが平坦に返すと、つばめは通学カバンからはみ出したもう一本の筒を見やった。
「帰り道に病院に寄っていこうね。で、卒業式をしてやろうよ。出席日数は芳しくなかったけど、りんねの成績は学年一位のままだったんだもん。文香さんにメールして、りんねが食べられそうなケーキがあるかどうか教えてもらって、それを買っていこうよ。しばらく会っていないから、話したいことが一杯あるんだ」
「妙案だ」
「で、ミッキーが帰ってくるのは明日だっけ。RECの海外公演、上手くいったみたいでよかったね」
「興行収入は日本円に換算して五〇〇億円を超えたとの情報を取得している」
「なんかもう、桁が大きすぎて逆に想像が付かないねー。でも、それだけ、ミッキーとレイが凄いって証拠だよ」
つばめは満足げに頷いてから、駐車場に入ると、父親の待っている自家用車に向けて手を振った。人工外皮を被っている佐々木長孝は、娘と息子に相当する警官ロボットに片手を挙げてみせた。つばめは父親に駆け寄ると、自分の卒業証書を見せた後、りんねのお見舞いと卒業祝いに行こうと提案した。長孝はそれを快諾し、コジロウは車の後に付いてこいと命じた。コジロウはそれを了承し、雪が積もった傘を折り畳み、つばめに手渡した。
降りしきる雪の中、両足のキャタピラを作動させて凍結気味の路面を踏み締めながら、コジロウは佐々木親子の乗ったワゴン車を追っていった。少し曇ったバックガラスの奥では、運転席でハンドルを握っている長孝につばめがしきりに話し掛けている。聴覚センサーを高めれば、その内容は聞き取れないこともなかったが、一から十まで知るのはあまりよくないことだとコジロウは感覚的に理解しつつあった。
ワゴン車が赤信号で停車したので、コジロウもまた速度を緩め、一旦停止する。赤いゴーグルに貼り付いた雪片を拭い去り、機械熱で水滴を蒸発させていると、多次元通信装置でメールを受信した。それはつばめからのメールで、高校卒業まで毎日登下校に付き合ってくれてありがとう、これからもよろしくね、という文面だった。コジロウはその内容と意図を理解するべく演算能力を駆使してから、文章を構成し、入力し、返信した。
了解した、任務を継続する、と。
収集した情報の索引を作成する。
長く伸ばしていた髪をばっさりと切り落としてショートカットにしたつばめは、真新しい喪服に身を包み、細い煙が立ち上る線香を見つめていた。その背に視線を据え、コジロウは玉砂利の上で直立していた。吉岡りんね、の名が新しく側面に刻まれた墓石は冷え冷えとしていたが、色とりどりの花に囲まれていた。
一昨日、吉岡りんねと藤原伊織は生命活動を終了した。集落の分校を卒業した後、りんねは一ヶ谷市内の市立高校に入学したが、二学期を迎えて間もなく、体調を崩して入院した。その時は簡単な処置だけで退院することが出来たのだが、その後も何度も入退院を繰り返すようになった。産まれる前から命を失い、強引に産まれさせられた後は佐々木長光に散々弄ばれてしまったため、りんねの遺伝子情報には修復不可能な欠損があった。その影響による病症は、現代医学では到底治療出来ないものだった。
それから、死期を悟ったりんねは、苦痛を軽減する緩和医療だけを受けて伊織と共に余生を過ごすようになった。成虫であるが故に寿命が短い伊織も、りんねと生き切ることを望んだ。病院から退院して集落の自宅に戻り、母親と暮らしながら、好きなことをした。本を読み、映画を見て、散歩して、伊織と押し花を作り、食べたいものを食べ、皆と思い切り笑い合った。そして、りんねは伊織と惜しみない愛を交わし合い、二人でその日を決めていたかのように眠りに付いた。自宅の自室で、大好きなものと大好きな彼と共に、最後の人生を終えた。
「お疲れ様」
つばめは墓石を優しく撫で、涙を湛えた目を細めた。吉岡りんね、享年十九歳。藤原伊織、享年二十三歳。
「もう二度と、あんな目に遭わないように祈っておくね。次に産まれる時は、りんねも、伊織も、真っ当に産まれてくるようにって一杯お願いしておくから。だから、ゆっくり休んでね」
深くため息を吐いたつばめは、ハンカチで目元を拭ってから、コジロウに振り返る。
「あれだけ泣いたのに、まだ涙が出てくるよ。どうしよう」
「つばめ」
コジロウが身を屈めると、つばめはコジロウの分厚い胸部装甲に縋り付き、肩を怒らせる。
「ごめん、もうちょっとだけ」
「了解した」
つばめの震える手に角張った手を添え、コジロウは背を丸めた。合金製の外装に爪を立てながら、つばめは声を上げて泣いた。生前のりんねと伊織が幸せであればあるほど、残された者の寂しさは募るものだからだ。つばめが息苦しくならないようにと背中をさすってやりながら、コジロウは演算能力を駆使し、つばめが感じている感情を己の疑似人格で再現出来るようにと情報を収集し、分析し、保存していった。
泣くだけ泣いたおかげで気分が凪いだつばめは、浄法寺の敷地内にある岩に腰掛けているコジロウの膝に座り、りんねの数奇な人生と思い出を一つ一つ言葉にしていった。一時期はあんなに恨んだのに、羨んだのに、今では自分の一部分のように思える、とも。コジロウの胸元に散らばる涙をハンカチで拭いながら、つばめはコジロウの指をきつく握っていた。その理由を問うと、どうしようもなく寂しいからだと答えた。
理解しきれなかったが、手を握り返した。
蓄積した情報を類別する。
白、白、白。それ以外の色彩を徹底的に排除した、機能性が皆無な衣装を身に纏い、つばめははにかんでいる。佐々木ひばりが結婚記念の写真を撮った際に着ていたものとどことなく似たデザインのウェディングドレスを着て、つばめは照れていた。再び長く伸びた髪をセットされて儚げに透き通ったヴェールを被せられ、生花を使ったブーケを手にしている。若くして亡くなった母親に似てきた顔立ちは美しく、体形もバランスが取れている。衣装に見合った化粧も施されているため、目鼻立ちが強調されていた。ドレスの襟刳りは広く、丸く膨らんだ胸の谷間が露わになっていて、心臓の位置に付いた片翼の傷跡も同様だった。
私は自分がおかしいって解っている、とつばめは笑顔で言い切った。レースの長手袋を填めた手を伸ばしてコジロウのマスクフェイスに触れながら、つばめは淡いピンクの口紅を差した唇を開いた。
「でもね、やっぱり、他の誰も好きになれないんだ」
コジロウのマスクをなぞり、唇に相当する位置を人差し指で押さえながら、つばめは背伸びをする。
「高校の時、コジロウじゃない誰かを好きになるんじゃないか、なれるんじゃないか、って思ったことがあるの」
「それは」
コジロウが身動ぎ、関節を軋ませると、つばめはアイシャドウに彩られた瞼を瞬かせる。
「思っただけ。あの頃は、ちょっと遅れてきた反抗期っていうか、思春期の一番面倒臭い時期だったから、コジロウから離れたら私は早く大人になれるんじゃないかって考えちゃったの。でね、そんなことを考えちゃった時に限って部活の先輩から告白されちゃったんだ。で、ちょっとだけ付き合ってみようかな、なんて思っちゃったんだ」
だけどね、とつばめは苦笑し、コジロウの胸に額を当てる。
「やっぱり無理だった。その人、凄くいい人だし、優しいし、私のことを大事にしてくれるんだろうなぁって解ったけど、どうしても最後の最後で踏ん切りが付かなかった。どうしても、コジロウのことを先に思い出しちゃったから」
「その行動の意味が解らない」
コジロウがつばめの素肌の肩に手を添えると、つばめは金属の冷たさで肩を竦める。
「もしかして、ちょっと怒った?」
「本官には、つばめを叱責する理由がない」
「その割には力が強めなんだけど」
素肌に浅く食い込む指先に目をやったつばめに、コジロウはすかさず手を離す。
「本官の握力制御プログラムに異常は生じていない」
「誤魔化さないの」
「本官は……」
この不可解で複雑な情緒パターンを表現するための語彙が、すぐに割り出せなかった。コジロウが言い淀むと、つばめは唐突に笑い出した。笑うような事態なのだろうか、とコジロウが混乱していると、つばめは化粧が崩れてしまいかねないほど盛大に笑い転げてから、ちょっと情けなさそうに眉を下げた。
「妬いた?」
「本官はその語彙に相当するような情緒は」
が、言葉とは裏腹に、コジロウはつばめに詰め寄りかけていた。つばめはコジロウを制し、仰ぎ見る。
「ほら、妬いたんじゃないの」
「それはつばめの主観的判断であって」
「そういうところ、全然変わらないよね。私は色々と変わっちゃったけど、でも、これだけはずっと同じ」
コジロウを愛している。コジロウのマスクフェイスを両手で挟んで引き寄せたつばめは、コジロウのマスクに潤った唇を添えてきた。温度感知センサーがつばめの体温を感知すると、ずくん、とムリョウが熱量を増大させる。余剰分のエネルギーをバッテリーに回し、平静を保ちながら、コジロウはつばめの腰に手を回す。
神の前で永遠の愛を誓ったのは、十六分三十二秒前の出来事だ。本当に形だけの結婚式で、友人である集落の住人達どころか父親すらも呼ばず、一ヶ谷市の片隅で半ば放置されていた教会を借り、立会人も牧師も招かずにそれらしい言葉を並べ立てて愛を誓った。それでいいのかとコジロウが問うと、つばめはそれでいいと答えた。父親でさえも理解出来ない領域にまで深入りしてしまっているから、と、主は少し悲しげに言った。
「愛しているって、言える?」
薄汚れたステンドグラスの下で、コジロウのマスクに付いた口紅を拭いながら、つばめは囁いてくる。
「その語句を復唱することは可能だ」
コジロウはつばめと目を合わせながら返すと、つばめは眉根を寄せる。
「そうじゃなくて、さっき言ったじゃない。病める時も健やかなる時もー、って。で、私の愛の定義についても随分前に教えたじゃない。覚えているでしょ?」
「無論だ。そして、つばめの愛に対する概念は理解している」
「じゃあ、なんで言えないの?」
「本官には情緒と呼ぶべき主観が完成していない」
つばめを抱き締め、背を丸め、膝を付く。どれほど情報を収集して分析してムジンの演算能力を駆使して主観と情緒を再現しようとも、つばめが与え、注いでくる感情の量には到底追い付かない。だから、根拠に欠ける言葉を述べたところで空しいだけだ。つばめの腕がコジロウの首に回され、二人の隙間が埋まる。
「完成していないから、どうだっていうの」
つばめはコジロウの耳元に備わっているパトライトに頬を寄せ、かすかに笑う。
「言えるなら言ってよ。でないと、こんな恰好までした意味がなくなっちゃうよ。このドレス、オーダーメイドなんだから高いんだよ? コジロウに見せるためだけに、わざわざ作ってもらったんだから」
「人型特殊車両には戸籍が存在しないため、人間と婚姻関係を結ぶことは不可能だ」
だが、とコジロウはつばめの腰を引き寄せ、豊かなドレープが付いたドレスの裾を押し潰す。
「それを違法とする条令も、それにより課せられる罰則も、それを取り締まる法律も、現状では存在していない」
「んふふ、解ってきたじゃない」
「よって、それらを考慮し、つばめの発言内容を検討し、判断する。発言の許可を」
「はい、どうぞ」
つばめに促されると、コジロウは若干の間を置いてから言い切った。
「……愛している」
たったそれだけの短い言葉を絞り出すだけで、どれだけの時間と経験と情報を得なければならなかったのだろう。うん、と感慨深げに小さく頷いたつばめを支えながら、コジロウはこれまでの経験と情報を反芻する。愛という概念や価値観や主観は、パンダのぬいぐるみであった頃に得ていた。それもこれも、つばめがコジロウに一心に愛情を注ぎ込んでくれたからだ。だから、ムジンに蓄積した情報を分析して、愛がいかなるものかを知った。
けれど、それを知れば知るほど、コジロウはつばめを愛してはいけないのだと理解せざるを得なかった。つばめは人間であり、前途有望な子供であり、物質宇宙で唯一無二の力を持つ管理者権限を有しており、道具の一つであるムリョウとムジンが管理者権限所有者を独占するのは以ての外だと自覚していた。だから、愛してはならないと自我を戒め、潰し、否定し、ムジンを物理的に破壊して演算能力を低下させ、完全に消し去れたと思っていた。
だが、愛してはならないと思った相手から愛された。パンダのコジロウだった頃とは正反対の言動を取り、つばめの興味を惹くまいとしていたのに、つばめはそうではなかった。警官ロボットがコジロウがパンダのコジロウであるという事実を知らなくても、真っ向から好いてきた。コジロウの密やかな決意と覚悟は他でもない主によって蹂躙され、戒めは破られてしまった。しかし、道具の範疇を越えられないと解っていたから、愛に応えられなかった。
「ずっと、ずっと、一緒だからね」
二度目のキスを終えてから、つばめは恍惚とする。
「了解している」
コジロウが返すと、つばめは全ての幸福を凝縮したような笑みを浮かべた。愛してもいいのだと、愛されてもいいのだと、集積回路の片隅で認識する。それもまた管理者権限による命令によるものだ、という言い訳じみた結論が弾き出されるが、即座に削除する。つばめに言わされていたとしても、思わされていたとしても、それはそれで幸福なことなのだと判断したからだ。他でもない、主が幸福なのだから。
太さも材質も違う指を絡め、体を寄せ、時間と感覚と感情を共有した。曖昧で不定型なものを寄せ集め、形作り、かつて抹消し尽くした愛とは少し違う愛を構築していった。兄弟間の愛とも、主従の愛とも、友人関係の愛ともまた異なる、男女間の愛だった。道具らしからぬ独占欲に相当する行動原理が生じたコジロウは、つばめの細い顎を掴んで上向かせると、哀切に細い吐息を零していた唇を塞いだ。
この瞬間、欲望を理解した。
類別した情報を、細分化する。
コンプレッサーと繋がっているスプレーガンを用いて、コジロウの外装に黒い塗料を吹き付けてから、佐々木長孝は塗り残しがないかどうかを入念に確かめた。彼の周囲には、生乾きの外装が円を描いて置かれている。いずれも黒一色で、揮発剤が蒸発しきっていないからか照りがあった。時折、工場に入り込む風が新聞紙の端を捲り上げ、一週間前の見出しを見せてきた。N型溶解症に関する記事だった。
「俺に報告すべきことはないのか、コジロウ」
スプレーガンを横たえてコンプレッサーの電源を切ってから、長孝は作業着の袖から伸びている触手を曲げた。オーバーホールされるために分解されているコジロウは、作業台に置かれている頭部の視覚センサーを通じてその仕草を捉えたが、何を答えるべきか否か、逡巡した。確かに、佐々木長孝に報告すべきことはいくらでもある。二人だけの結婚式を挙げたことは報告すべき事象の範疇に入っていたが、それを報告することは望ましくない、と判断して押し黙った。長孝は数本の触手を束ねて填めていた軍手を外すと、手近な椅子に腰掛ける。
「報告出来なければ、無理にしなくてもいい。察しは付いている」
「その理由は」
「明言出来るようなものではないが、確信した理由はつばめとお前の雰囲気が変わったからだ。俺が本社への出張に行っている間に、何が起きたのか、何をしたのか。その内訳を問い質すつもりはないが、遠からずそうなるだろうという懸念は抱いていた。そうならないはずがないのだとも、予想していた。……ひばりも許してくれるだろう。それがお前達が見出した幸福であるというならば、責める謂われはない。俺も責めはしない」
ぎし、と年季の入ったパイプ椅子を軋ませ、長孝は背を丸める。外見は加齢を感じさせないが、動作の端々からは老いが現れ始めていた。窓から差し込む日差しの強さとは対照的に、長孝とコジロウに掛かる影は濃い。
「手放しで祝福してやれないのは寂しいが、それもまた仕方ないことだ」
フレームと内部機関を曝しているコジロウを見やり、長孝は凹凸のない顔の眉間と思しき部分にシワを寄せる。
「だが、つばめとお前の出した結論が正しいと言っているわけではない。正気の沙汰ではないことは、誰の目から見ても明らかだ。機械と人間である以前に兄妹なんだ。確かに、お前につばめを守ってやれと命じた。助けてやれとも願った。俺が傍にいられない分、傍にいて支えてやってくれとも言った。愛してやってくれ、と命じたかどうかはよく覚えていない。思いはすれども愛するな、と命じておけばよかったかもしれないが、もう手遅れだ」
「本官は法律に抵触する行為を犯してはいない」
「そうだな。そう思っておけばいい」
長孝は緊張を緩めるように、細く、長く、息を吐く。
「だが、一方でお前達が出した結論が最良だとも判断している。母さんの……いや、俺の血を残してはいけない。ニルヴァーニアンは人類と交わるべきではない種族だった。俺自身もそうだった。だが、取り返しの付かないことをしてしまった。それを償うべきだった。だが、俺に過ちを償える力はなかった。だから、つばめがお前以外の誰にも惹かれていないと知って安堵した。しかし、納得し、理解するまでにはもう少し時間が掛かる」
「その理由は」
「親だからだ」
「その語彙に関連する情報、及び資料を照会、参照するが、極めて不明瞭。よって、結論を理解出来ない」
「解らないのなら、それでもいい。解っていたとしても、解らない振りをするのであれば、それでもいい」
「その表現は理解しがたい」
「ままごとだろうと何だろうと、契りを結んだことに変わりはない。最後まで添い遂げてやってくれ」
「了解している」
「だったら、それでいい」
この話はこれで終わりだ、と言い、長孝は腰を上げた。コジロウの黒い外装に触れて塗料が乾いているかどうかを確認してから、乾いたものは倉庫に運んでいった。影の濃さよりも更に深い黒を視界の端で捉えながら、コジロウは長孝の言葉を何度となく反芻した。文章としては理解出来るが、その行間に垣間見える情緒は掴みきれず、理解には遠く及ばなかった。
コジロウのフレームを調整し、摩耗した部品や緩衝材を交換しながら、長孝は時折妻のことを話した。いつになく感情的に声色を波打たせながら、コジロウの記憶中枢に妻との思い出を保存するかのように、情報を並べていった。それを一つ残らず記録し、保存していくと、コジロウの未熟な情緒が揺らいだ。
そして、寂寥を理解した。
細分化した情報を、処理する。
つばめは享年二十歳の母親よりも年上になってから、三ヶ月が経過した。洗い晒しの少し毛羽立ったシーツは、目に染みるほど白く、薄暗い部屋の中では発光しているかのようだった。年季が入って毛羽立ってきた畳に広げたシーツに縋りながら、つばめはとろりとした目でコジロウを見上げてくる。薄く火照った頬と汗ばんだ首筋が、西日を含んで柔らかな輪郭を得ていた。乱れた服を直そうともせずに、つばめはコジロウに手を伸ばす。
「これで、よかったんだよね……?」
「つばめがそう結論付けているのであれば、本官は異を唱えない」
そうだ、これでいい。コジロウは思考回路の片隅で持論に等しい主観的判断を処理し、打ち消してから、つばめの指に自身の銀色の指を伸ばし、交わらせた。
「満足したのは、私だけだけどね」
空しく苦笑したつばめに、コジロウは体を寄せる。
「本官は、つばめの命令を忠実に」
「ごめんね」
「その言葉の意味が理解出来ない」
「だって、こうでもしないと私はコジロウのものにはなれなかったから。コジロウは私のものだけど、私はコジロウのものじゃなかったから。だから、こうしなきゃ気が済まなかったの。でも、やっぱりさ、違うよね、こういうの」
馬鹿みたいだ、と呟き、つばめはコジロウの膝に突っ伏した。その空しさも、悲しさも、やるせなさも、情報としては理解出来る。だが、それを理解した上での判断が下せない。つばめがいかにコジロウを愛そうと、コジロウがいかにつばめを愛そうと、乗り越えられない壁はいくらでも立ちはだかっているからだ。
愛する者の体を求めるのは、人間の本能だ。つばめもまた、真っ当な生き物だったというだけだ。けれど、相手がロボットでは、どれほど求められても返せないものが多すぎる。その隔たりを埋めたいがために、薄膜を破りたいがために、つばめの欲求に応じた。だが、それは更なる空しさを生むだけだった。その先には何もないと、あるはずがないのだと解ってしまったからだ。愛すれば愛するほど、愛する女性が傷付いていく。
「好き」
コジロウにしなだれかかりながら、つばめが譫言のように漏らした。その言葉の意味は、幼い頃とは全く別のものだと理解し、認識している。年端もいかない幼児の好意と、成人を迎えた女性の好意は、似て非なるものだ。その感情の根幹は同じでも、ベクトルが正反対だ。純然たる愛情ではなく、独占欲が多大に含まれた執着心だ。
それは、コジロウも同様だった。ぐしゃぐしゃに乱れたシーツを引き上げ、つばめの白い肌を隠してやると、つばめは少しほっとしたように顔を綻ばせた。閉め切った障子戸の向こう側から、集落の中で遊び呆けている子供達の声が聞こえてくる。小倉家の長男、護と、武蔵野家の長女、ひなたと、周防と一乗寺の間に産まれたが、両親が婚姻関係を結べなかったので一乗寺の私生児として認知された、翔也だった。
護は四歳、巽は三歳半、翔也は二歳半で年頃は離れているが、他に都合の良い遊び相手がいないので一緒に遊ぶしかないのである。それぞれの親も近くにいるらしく、時折、呼び掛ける声が聞こえてくる。その度に、つばめは丸めた背中を引きつらせた。すぐ傍に真っ当な幸せがあると知っているから、尚更、コジロウとの間に何も成せないのが悔しいのだ。安易な言葉で慰められるほど、浅い業ではない。だから、その背を支えるだけで精一杯だった。
その時、絶望を理解した。
処理した情報を元に、構築する。
クテイの根の処理が八割方終わった船島集落跡地から、身元不明の赤子が発見された。アソウギに溶けていた人々の中に妊娠していた女性がいたが、人間としての姿を取り戻した際に胎児が異物として排出されてしまったのではないか、という仮説が立てられた。周防を始めとした政府の人間が事実関係を洗い出した結果、妊娠三ヶ月の状態で怪人化した女性がいたことが判明したが、シュユの力を借りて蘇って一ヶ谷市内で暮らしていた女性から事情を聞くと、彼女は自分が妊娠していた事実を知らなければ胎児が体外に排出された事実も知らなかった。つわりもほとんどなければ、腹も膨らみづらい体質だったのだろう。
新しい名前を得て人生をやり直し、家庭も持っている女性に押し付けるのはあまりにも酷だということになり、赤子は養護施設に送られることが決まった。だが、乳児院に入れる前に精密検査をした結果、赤子には僅かではあるがクテイと同じ遺伝子情報が混じっていた。遺伝子情報を改変されていなければ、赤子は染色体異常で産まれることすらなかった。アソウギの能力とクテイの情念と、赤子本人の生存本能が成した力業だった。
となれば、事情は大いに変わってくる。つばめの完成された管理者権限には程遠いものの、管理者権限の端切れを得て産まれてきた赤子とあっては、悪意を抱いた人間達に道具扱いされかねない。ならば、つばめの住まう集落で育てた方がいいのではないか、という意見が出た。それに賛成したのは、他でもないつばめだった。
「本当に、その子を育てるの?」
紺色の作業着姿の美月は、サイドテールに結んだ髪を払ってから、つばめが抱いている赤子を覗き込んだ。
「うん。お父さんも手伝ってくれるって言ったし、この子が私みたいにひどい目に遭ったら可哀想だから」
うんせ、とつばめは腕に力を入れ、四キロ近い重量がある赤子を抱き直した。
「その子の名前、決めたの?」
「女の子だから、すずめ、って付けた。お母さんがひばりで、私がつばめだから、それ以外に思い付かなくて」
「そりゃいいね。よく似合っている」
「りんねと伊織にも会わせてきたよ。皮肉な話だけど、りんねがああいうことにならなかったら、遺伝子情報を改変した前例が作られなかったから、この子も産まれなかったはずなんだよ。そう思うと、色々と考えちゃって」
「きっと喜んでくれるよ。りんちゃんも、伊織君も」
「うん、そうだね、だといいね。で……ミッキー、本当に引退しちゃうの?」
「今年で二十四だから、昔みたいに若さを売りに出来なくなったし。それに、腕がコレだし」
そう言って、美月は義肢となった左腕を上げた。軽いモーター音が唸ると、手首と肘が滑らかに曲げる。三ヶ月前のRECの会場設営中の事故で、左腕を切断せざるを得ないほどの重傷を負ったからである。
「RECの規模が大きくなると、その分、レギュレーションもきつくなってきちゃってさ」
美月は生身の右腕で、人工外皮を被った左腕を撫でる。
「何年か前、サイボーグのオーナーがロボットファイターを遠隔操作して試合をしていたって事件があったでしょ? 口頭でコマンドを送るよりも余程的確だし、迅速なんだけど、対戦相手が試合展開を読めなくなるから、演出も何も台無しにされちゃうんだよ。だから、その後に色々と規定を設けて、サイボーグのオーナーは原則的に試合禁止にするってことにしたんだけど、それが自分の首を絞めることになるとはねー。人生って解らないなぁ」
「でも、小倉重機の仕事は続けるんでしょ?」
「もちろん。私と一緒にレイも引退するけど、私以外の誰にもレイの体はいじらせない」
美月はつばめの背後に控えているコジロウを見、残念がった。
「もう一度、シリアスとエンヴィーにも出てもらいたかったけど、子供が出来ちゃったなら仕方ないよね」
「うん、ごめん」
「いいっていいって。私とレイの引退試合は最高に盛り上げるから、楽しみにしていてね」
美月は笑顔を保とうとしたが、ぐ、と声を詰まらせ、右手で作業着の布地を握り締めた。
「もう一回王座を取れば、レイは通算二〇冠を達成出来たのになぁ……。王座戦の対戦カードだってとっくに組んであったし、対戦相手との攻略方法だって考えてあったし、衣装だってデザイン画を起こしてあったのにさぁ……。またヒールターンして、羽部さんみたいなキャラのヴァイパーレディになって、レイも毒ヘビキャラのヴァイパーバイトに改造して、思い切り暴れるつもりだったのにさぁ……。それなのに、それなのにぃっ」
私がこんなになっちゃったからぁ、と美月は叫ぶや否や、崩れ落ちた。つばめは赤子をコジロウに預けると、美月を抱き寄せてやった。子供のように泣きじゃくる美月はつばめにしがみつき、これまで誰にも言えなかったであろう心情を叫んでいた。トップを守り続けてきた誇らしさと辛さ、強くなればなるほど厚くなる周囲との壁、レイガンドーを愛して止まないのに戦わせずにはいられない矛盾、RECの人気が最高潮に達しているのに引退しなくてはならない歯痒さ。ありとあらゆる感情を吐き出す美月を、つばめは抱き締めてやっていた。
泣き止んだ美月を見送ってから、つばめはコジロウの腕から赤子を受け取った。集落の住人達や政府関係者から贈られた大量のベビーグッズが溢れている居間に戻り、オムツを替え、ミルクを与えると、すずめと名付けられた赤子は寝入った。ベビーベッドの傍に膝立ちになったつばめは、すずめの無垢な寝顔を見つめる。
「すずめがうちの子になったのは、私が変なことを考えちゃったせい?」
「つばめの願望によって因果律が変化する可能性はゼロではないが、遺産が手元に存在していないため、つばめの願望が物質宇宙の物理法則に強烈な作用を与えるとは思いがたい。よって、それは杞憂だ」
「私が欲しがったから、ミッキーがあんなことになっちゃったの?」
「つばめの願望と美月の負傷に因果関係は見受けられない。よって、無関係だ」
「でも……」
つばめは声を詰まらせたが、一度深呼吸した後、すずめのぷっくりとした小さな手に人差し指を差し込んだ。反射的なものだろう、すずめは義理の母親の指を握り返してきた。
「解った。もう、欲張ったりはしないよ」
「つばめが気に病むことではない」
「どんなことだって、釣り合いが取れているんだよ。お金を払った分だけ、欲しいものが手に入るのと同じなんだよ。欲しいものが何もかも手に入って、充分幸せで、これ以上は欲しがるわけがないって思っていたのに、人のことを羨んだりしたから、こんなことになったんだ。当たり前のことなんだよ、充分足りているのに他のものを欲しがったりしたから、新しいものを入れるための場所が欠けたんだ。だから」
これからは何も欲しがらない。並々ならぬ決意を込め、つばめは言い切った。コジロウはそれに異議を唱えようとしたが、体が不自然に軋んだだけだった。つばめが決めたことであれば、その決定を妨げるような意見を述べるのは筋違いだ。そもそも、ロボットの領分ではない。すずめを愛でるつばめを見下ろし、コジロウは拳を固めた。
彼女は変わっていく。大人になったからだ。常に新陳代謝を繰り返している生物に対して不変を望むのは醜悪なエゴであり、そんなものを考えたこと自体が誤りだ。だが、主観的極まりない判断と意見は思うように削除出来ず、コジロウは拳を緩められなかった。コジロウに一心に注がれていたつばめの愛が、今や、すずめに向いていた。
憂慮を理解してしまった。
構築した情報を用い、自我を編成する。
きゃあきゃあと歓声を上げて逃げ回る子供達を追い掛けていくのは、黄色と黒の外装と背中の昇り竜が特徴的な人型重機、岩龍だった。特撮ヒーロー番組の真似事をしているらしく、皆、岩龍に必殺技と思しきポーズを取っては奇妙な単語を叫んでいる。その度の岩龍は仰け反り、やられた振りをしている。
護、ひなた、翔也の三人は物心付く前から一緒にいるため、仲が良い。護は少々大人しい性格だが、父親と姉の血を受け継いでいてロボットファイトの世界に興味津々だ。ひなたは母親に似て男勝りな性分の少女である一方、三人の中で最も思い遣りがある。翔也は特異な性質の母親の血をあまり受け継いでおらず、常識的な性格だが、時折エキセントリックな一面を覗かせる。そんな三人に遅れながらも走っているのが、つばめの義理の娘、すずめだった。今年で三歳になり、口も達者になった。年長の護とは八歳も歳が離れていて、体の大きさが違いすぎるが、三人と同じ遊びに混ざろうと、毎日一生懸命だ。負けず嫌いな性分なのだ。
「なあ、コジロウ」
格闘用から土木作業用の両腕に換装しているレイガンドーは、すずめを見守っている警官ロボットを窺う。
「お前がしたことは、無駄だったんだな」
「その言葉の意味が解らない」
「だってそうだろう。お前は、自分を戒めるために自力でムジンを割って、理性を俺に、感情を岩龍に与えたんだ。武公はちょっと違うな。お前の青臭い部分、とでも言うべきか。そうした理由は解っている。余計なことを考えずに、つばめを守るためだったんだろう。だが、お前って奴は」
泥の付いた両手を払いながら、レイガンドーは佐々木家の庭先に視線を投げた。母親然とした佇まいのつばめが、はらはらしながら娘を見守っていたが、コジロウの目線に気付いて笑みを向けてきた。その左手の薬指には、コジロウの外装の合金を加工して作られた銀色の指輪が填っていた。すずめを養子として迎えてからしばらくした頃に、佐々木長孝が息子の破損した外装を削って加工し、娘に贈ったものである。
「昔は俺も若かった。お前に苛立ったことがあったが、今はそうでもない。むしろ、お前から分離させてもらったことを感謝しているよ。そうでもなければ、俺は美月と出会えなかった。一緒に戦うことも出来なかった」
レイガンドーは欧米風の動作で首を横に振る。現役時代にアメリカで暮らしていたせいだ。
「だが、その結果は」
「言うな。美月の左腕が潰れたのは、誰の責任でもない。俺が美月を肝心な時に守ってやれなかった。それだけのことなんだ。それに、デビューしてからの十年間、俺と美月、そして岩龍はトップを突っ走ってきた。だから、息切れする前に休んでおけってことなんだと思っている。美月も散々苦しんだが、今はこれで良かったと言っている。護と一緒にいられる時間も増えたし、俺をいじり回せる時間も増えたしな。RECのレギュレーションは変わらんが、オーナー以外の枠で復帰出来る可能性はないわけじゃない。だから、悪いことばかりでもないんだ」
「そうか」
「だから、これからもよろしく頼むぜ」
兄貴、とレイガンドーはコジロウを小突いてから、畑の開墾作業に戻った。大型のバケットを備えた両腕を用いて土を盛大に掘り返すレイガンドーを、美月が監督していた。左腕の義肢は歳を重ねるごとに最新型に交換しているため、今では生身の腕と遜色のない外見になっていた。RECのリングでは色味の強い化粧をしてアイドル紛いの派手な衣装を着ていたが、機械油と泥の汚れが付いた作業着を着てレイガンドーを見守るようになってからは表情が心なしか柔らかくなっていた。ロボットファイトに青春を費やし、若さを使い切ったからだろう、達観しているようでもあった。美月とレイガンドーが言葉を交わす様も穏やかで、暖かみがあった。
ぐおおおおお、と呻いて仰け反った岩龍は、仰向けに倒れた。ヒーローごっこも一段落したらしく、護が勝ち誇り、ひなたが決めポーズを取り、翔也がそれを少し冷めた目で見ていた。息を切らしながら三人に追い付いたすずめは、最後まで遊びに混ざれなかったのが相当悔しかったのか、徐々に涙目になった。
「こーじーろーぉーっ!」
途端に、すずめはコジロウの元に駆け寄ってきた。
「ねえコジロウ、岩龍と戦ってよぉ! どかーんばきーんぐわっしゃーってやっつけてよー!」
「その命令は受け付けられない」
「なーんーでー! だって、コジロウって強いんでしょ、岩龍は悪い奴なんだよ、どおしてぇー!」
すずめはコジロウの脚部装甲にぺちぺちと平手を当てたので、コジロウは腰を屈めて目線を合わせる。
「岩龍は本官と敵対関係ではない。更に、岩龍は人間に対して危害を加えない」
「じゃ、僕と戦ってみる? ねえねえねえ?」
佐々木家のガレージから出てきた武公がすずめに話し掛けるが、すずめはむくれる。
「やだ。武公は強くないから、コジロウに倒されても面白くないもん」
「これでもメガトン級王座を二度も取ったんだよ? それを強くないだなんて言わないでよ」
武公が拗ねてみせるが、コジロウは武公を押しやってから、再度すずめに言う。
「本官と岩龍が戦闘を行うべき、正統な理由が存在しない。よって、すずめの命令は」
「もーいいっ、お母さんと遊ぶー!」
コジロウなんて嫌いっ、とすずめは言い放ってから、おかぁさーんっ、とつばめの元に駆けていった。一部始終を見ていたつばめは、すずめにまとわりつかれて家の中に引っ張られていった。
「ああいう言い方しかしないから、嫌われちゃうんだよ」
それでもお父さんなの、と武公に茶化されたので、コジロウは反射的に武公の側頭部に拳を入れた。がしゃあっ、と合金と合金が激突すると、武公はたたらを踏んで後退った。
「なんで殴るの!」
「本官はその呼称に相当する立場ではない」
コジロウは冷徹に言い放ち、兄弟機に拳を突き付けた。困った兄貴だなぁもう、とぼやきながら、武公は掠り傷が付いたマスクフェイスを押さえてガレージに戻っていった。レイガンドーからは三年、岩龍からは二年遅れてRECを引退した武公も、長孝の手で格闘用から土木作業用に改造してもらっているのである。
コジロウは佐々木家の敷地内を巡っていくと、庭に面した居間では母と娘が戯れていた。散々走り回ったので汗を吸った服を着替えさせられたすずめは、母親に髪を梳かれながら、子供ながらに愚痴を零している。つばめはその幼い言葉に耳を傾けながら、笑いを堪えている。
「ねえお母さん、コジロウってお巡りさんなんでしょ?」
「そうだよ。パトカーと同じ色だし、頭のところに警察のマークが付いているからね」
「じゃ、なんで悪い奴と戦わないの? 岩龍はね、ニンジャファイターを苦しめる地獄ロボ軍団の一人なんだよ」
「そっか、今日はそういう設定だったのか」
「セッテイじゃなーい、本当のこと!」
「はいはい」
「でね、岩龍も悪いロボットだけど、もっともっと悪い奴らがいるじゃない。あーるいーしーに出てくる、ブラックボマーってのもすっごく怖いし、一杯物を壊すし、この前は女の人を攫ったじゃない。で、警察って正義の味方なんでしょ? 警官ロボットは困っている人を助けるロボットなんでしょ? それなのに、なんでいつもおうちにいるの?」
「うちというか、この集落にいるんだよ。すずめが寝た後に、怪しい人がいないか、変なことが起きていないか、誰か困っていないかってパトロールしてくれているんだよ」
「どおして?」
「可愛い可愛いすずめを守るためだよ」
「どおして?」
「すずめのお母さんの、私も守るためだよ」
「どおして?」
「そりゃ……コジロウは、私の」
つばめは言葉を濁し、すずめの髪をボンボンの付いたヘアゴムで結んでやった。
「まも兄ちゃんちには、あんまり帰ってこないけどお父さんがいるよ。ひな姉ちゃんちには、でっかいけど凄く優しいお父さんがいるよ。しょう兄ちゃんちにも、刑事さんのお父さんがいるよ。なのに、なんでうちにはお父さんがいないの? ねえ、どおして?」
ボンボンの付いた頭を揺すり、すずめは問い掛ける。つばめは娘と向き直り、微笑みかける。
「すずめが大きくなって、色んなことが解るようになったら、少しずつ教えてあげる」
「お父さんのことも?」
「うん。ちゃんと話してあげる」
「嘘吐いちゃダメだよ? 嘘だったら、コジロウにタイホしてもらうからね?」
「大丈夫だって。だったら、ほら、約束しよう」
つばめが小指を差し出すと、すずめも短い小指を伸ばしてきた。指切りげんまん、と約束を交わす母と娘を視界に捉えていたが、コジロウは視線を外した。つばめとすずめが戯れる声を背に受けながら、コジロウは集落内の警邏に戻った。すずめに家族として認識されていない以上、親子の団欒に割り込めるはずがないからだ。
子供達とのヒーローごっこを終えた岩龍は、レイガンドーに手伝ってもらいながら泥だらけになったボディを洗っている。美月はそんな二体を見守りながら、身振り手振りで必殺技を繰り出している弟の話も聞いている。
駆け足で帰宅したひなたを、畑仕事から帰ってきた武蔵野が出迎えた。そして、第二子を妊娠している小夜子にも出迎えられ、手を洗ってこいとせっつかれていた。ひなたはお昼御飯が何なのかが気になるらしく、しきりに台所を覗いていたが、母親から手伝えと言われると喜び勇んで台所に駆け込んでいった。
マイペースな足取りで帰宅した翔也は、分校での教職に戻って久しいが勤務態度は一切変わらない母親、一乗寺皆喪を起こしに掛かった。休日となれば、昼過ぎまで起きてこないからだ。内閣情報調査室の諜報員としての職は退いたものの公僕であり続けている周防国彦は、一ヶ谷市内の警察署にて警官として勤務している。なので、非番と休日が重なることは希で、今日もまた母親と息子を残して仕事に出ている。だから、だらしない母親とあまり家に寄り付かない父親の元で生まれ育った翔也は、子供達の誰よりもしっかりしている。
浄法寺の近くに差し掛かると、庭木の剪定をしている道子と、長年使い込んだバイクを手入れしている寺坂から挨拶された。吉岡家の近くにも行くと、ドライブインの定休日なので自宅で休息を取っていた吉岡文香からも挨拶をされた。娘とその恋人の墓に供えるために育てた花を摘んでいた。極めて平穏だった。
逃げ水が白く撥ねるアスファルトを歩きながら、コジロウはいつしか船島集落跡地に辿り着いていた。クテイの根の残骸の処理作業は全て終わっていて、船島集落跡地は更地となっていた。どことなく船底に似ていた地形も、クテイの根を掘り出したり、崩れた斜面を修復したため、いびつになっていた。処理作業を行っていた人間達は一人残らず撤収していて、現場事務所であったプレハブ小屋も撤去され、重機も一台残らず引き上げていた。船島集落跡地に通じる唯一の道には、政府が設置した監視カメラと各種センサーは設置されていたが、警備を行う人間の姿は見受けられなかった。砂埃と枯れ葉が堆積した道路を歩いていくと、錆びたプレハブ小屋に差し掛かった。
「やあ」
集落から外れたプレハブ小屋で暮らしているシュユは、ふらりと触手を振ってコジロウを出迎えた。
「君はそのままでいいさ、コジロウ君。だって、それが君って奴じゃないか」
シュユは遺産同士の互換性を通じ、コジロウの思考の奥底にある薄い感情を読み取ったようだった。コジロウは反論もしなければ返事もせず、シュユの住居の前を通り過ぎて歩き続けた。
コジロウは思考する。つばめの幸福と自分の幸福は同一ではないのだと、理解出来たからだ。つばめはコジロウが傍にいてくれればそれだけでいい、と言った。それが、つばめの信じる愛の形なのだと。だが、その言葉は、傍にいる以外の何も出来ないコジロウに対しての思い遣りでもあったのだ。
コジロウはムリョウであり、ムジンであり、ロボットであり、機械であり、道具だ。それ故に出来ることは多々あれど、それ以上に出来ないことも多い。だが、人間臭いわだかまりを表には出さずに、つばめの命令を貫き通すことこそが自分の使命なのだとも判断する。つばめの幸福を支え、守り抜けるのは自分だけだとも自負する。そして、それが愛と称すべき主観だと断定する。生み出せなくても、与えられなくても、添い遂げられればいい。
揺らぐな、迷うな、躊躇うな。過去の数々の経験を糧にして得た自我と感情を強張らせて、ロボットとしての矜持を保つためにも、コジロウ自身が見出した愛を果たすためにも。決意を固める際に握り締めた拳を緩め、凄惨な過去が宿る土地に背を向け、愛する女性とその家族が待つ家へと進路を定めた。
己の意思で下した判断だった。
七〇年の年月を経て、船島集落跡地には草木が生い茂った。
コジロウは主を支えてやりながら、鬱蒼とした森へと姿を変えた、因縁の地を見下ろしていた。吉岡文香が経営していたドライブインがあった場所も更地になっていたが、駐車場であったアスファルトは残っていた。雑草が生えて至る所にひび割れが出来ていたが、車一台分のスペースを区切っている白線は昔と変わらない姿で雑草の合間に横たわっていた。コジロウはつばめを横抱きにして、集落を一望した。
「ねえ、覚えている?」
「本官は、つばめと出会ってからの全ての事象を記録し、記憶し、保存している」
「ここで初めて、コジロウに会ったの。凄く強くて、格好良くて……今でも、たまに思い出すぐらい」
「本官も記憶している。つばめが管理者権限を用いて本官を再起動させ、管理者権限を行使して命令を下したことを」
「あの日は、何もかも信じられなかった。あの時は、美野里さんがああなることは予想もしていなかった。ただただ、お金が欲しかった。そして、あなたが欲しくなったの」
「その行動と判断は正確だった」
「うん。そうだね」
「つばめは何も心配することはない。すずめも、その子孫も、本官が守り通す」
「ありがとう。また、お婆ちゃんとお母さんに会えるかな。ちょっと先にあっち側に行っちゃった、お父さんにも会えるかな。他の皆にも、会えるかなぁ。会ったら、色んなことを話したいんだ」
「つばめがそれを望むのであれば、異次元宇宙と遺産は応えてくれる。本官がそうであったように」
「うん。いつか、コジロウを迎えに来るね。一人になんて、させないからね」
「……了解している」
「今、気付いたんだけどね」
「いかなる事実に」
「コジロウってさ、了解した、じゃなくて、了解している、って言う時があるでしょ。それって、ちょっと意味が違うんだよね。了解している、ってことは、私の言うことも気持ちも最初から解ってくれていたってことだから」
だから、あなたには最初から感情があったんだね。そう呟いて、つばめは痩せた手でマスクフェイスに触れる。
「もっと早く、そのことに気付きたかった」
「それは、最重要機密事項だ。だが、管理者権限所有者からの命令であれば情報を開示することは可能だ」
「馬鹿だなぁ、私も。最後の最後にならないと、そんなに大事なことに気付けないなんて」
つばめは掠れた声で笑ってから、コジロウの肩装甲に頭を預ける。色素が抜け落ちて白くなった髪と弛んだ肌が痩せ細った骨格に貼り付き、コジロウが背負っている酸素ボンベと繋がっているマスクの内側に吐き出される呼気はか細い。体温も脈拍も低下していて、今にも途切れてしまいそうだ。もう少しだけ猶予を、とコジロウは密かに願いながら、主を抱く腕に力を込める。そう思うだけ、空しくなると知っているはずなのに。
「もう何も欲しがらない、って、あの時決めたのにね。でも、やっぱり欲しいものはあるよ」
つばめはコジロウの首の後ろで手を組み、懇願してきた。
「もう一度、言って」
「愛している。本官は、僕は……つばめを何よりも愛している」
コジロウは背を曲げ、つばめの頬にマスクを寄せる。白く血の気の失せた肌と、白い外装が重なる。
「愛してる。コジロウ。だから、ずっとずっと私のものでいてね」
私もあなたのものだから。その言葉を言い切る前に、彼女の呼吸が止まった。脱力した両手を取って、胸の前で組ませてやってから、横抱きにし直した。積層装甲に搭載されたセンサーでかすかな体温が抜けていくことを感じ取りながら、コジロウは膝を折った。ムリョウが高ぶる、ムジンが過熱する、電脳体が震える。やり場のない感情が機体を痺れさせ、全ての機能が著しく低下した。発声装置が停止し、慟哭すらも出せなかった。それが寂しさなのだと肉体的に感じながら、どれほどの時が過ぎようとも、つばめの命令を貫き通すと誓った。
たとえ、この宇宙が終わろうとも。
赤い砂塵、白い光、黒い闇。
そして、黄色い布地。シュユが纏っていた布地の残骸を握り締めるが、その中身は何千万年も前に朽ちていた。遙か昔に、彼も滅んだ地球の一部と化したからだ。話し相手がいなくなったのは寂しいが、いずれまた出会えるだろう。この宇宙の万物は、輪廻しているからだ。老化した末に膨張し、赤色巨星となった太陽の熱波に薙ぎ払われた地球は跡形もなく、コジロウと佐々木家の墓石の周囲だけが、未だに原形を止めていた。正方形に切り取られた地球の欠片に立ち尽くし、太陽の死骸である白色矮星が発する超高温の熱を浴びながらも、コジロウは佐々木家の墓石に寄り添い続けていた。
「お疲れ様」
「本官は疲弊しない」
「そういうところ、相変わらずだね」
「職務の継続中につき、警戒姿勢は緩められない」
「うん。そうだろうと思った」
「所用か」
「約束したでしょ。迎えに来たの」
「待ち侘びていた」
「私も」
赤く焼けた砂と風化した黄色い布を握り締めていた銀色の手に、小さく柔らかい手が触れる。コジロウが人差し指と中指を広げると、その手は指を二本だけ握ってきた。振り返ることを恐れるほど、それが空想や妄想や夢の類ではないのかと疑いたくなるほど、現実と意識が交わってしまったのではないかと危惧するほど、嬉しかった。かち、と指輪が積層装甲に擦れた際の僅かな金属音を、膨大な電磁波の影響で絶え間ないノイズに襲われているはずの聴覚センサーが拾った。間違いなく、感知した。
ぎし、と砂が堆積したために関節部の駆動が鈍くなった指を曲げ、その手を握り返してやる。心臓の代わりに過熱するムリョウと、いつになく凄まじい情報量を処理しているために処理落ちする寸前のムジンに促され、コジロウは赤いゴーグルを下げる。そこには、忘れもしない、忘れるはずもない、忘れることなど有り得ない姿で。
あの日の、彼女がいた。
了




