バグと鋏は使いよう
物質宇宙より望む異次元宇宙は、儚い。
薄膜越しに見える世界は薄っぺらく、奥行きもない。厚みもなければ重みもなく、温度も水気もない。溢れんばかりの情報が寄り集まって出来ているのだから、質量がないのは当たり前なのだが、物質宇宙の確かな手応えがある世界に慣れてしまうと、その頼りなさが少々鼻に突いてくる。もっとも、鼻に当たる器官は備えていないのだが。
カレーパンと缶コーヒーを片手、否、左手側の触手で携えつつ、シュユは正座していた。どういう風の吹き回しか、政府が船島集落跡地の外に出ることを許可してくれたので、せっかくだからということで、浄法寺の本堂で行われる映画の上映会に参加してみることにした。上映されたのは七五年も前に制作された映画ではあったが、名作と謳われるだけのことはある内容で、その情景描写の美しさと深みは年月を経ても色褪せていなかった。
本尊の仏像を背にする恰好で、シュユは庭に面した障子戸に貼られたスクリーンを見つめていた。顔には眼球が存在していないので、触手の尖端を向けて光の点滅と色彩の変化を探知し、収集した情報を、異次元宇宙の演算能力を用いて再構成した映像を感知している。皆、映画の展開に魅入っていて、黙り込んでいた。
人造人間と少女の触れ合いを描いた映画、シザーハンズは、佳境に入っていた。人間達の生臭さと醜さによって迫害された人造人間の青年と、彼に恋心を抱いた少女の末路は、美しいほど切ないものだった。彼らに似た境遇にある皆はおのずと自分達を重ねているらしく、皆、嗚咽を殺していた。
エンドロールが終わって本堂に明かりが付き、プロジェクターが止められても、皆はすぐには立ち上がらなかった。それもそうだろう、感情が高ぶりすぎると肉体にも影響が出てしまうのだから。生体アンテナのみならず、アバターの全身で彼らの感情を生で感じ取ったからか、シュユは平坦な情緒が僅かに波立っていた。
「……なんでこの映画を選んだんだよ、なあ、みっちゃん」
生理食塩水の擬似的な体液をぼろぼろと落としながら、寺坂が道子を睨むと、道子はにこにこした。
「この内容なら、皆さんのドツボに填るんじゃないかなーと思いまして」
「填りすぎてぇ、苦しいぃ……」
コジロウに縋り付いて滂沱しながら、つばめが嘆くと、その背中をコジロウがさすった。
「つばめ。呼吸を整えるべきだ」
「伊織君、伊織君は大丈夫だよ、追い出したりしないからね、絶対だよ」
伊織に力一杯抱き付きながら、りんねが泣きじゃくっていたので、伊織は触角を下げてりんねを撫でた。
「おう。解ってるっての」
「あれ、タカさんは?」
武蔵野に手渡されたタオルで顔を拭い、小夜子が本堂を見回すと、武蔵野は外を指し示した。
「途中でふらっと外に出ていったきり、戻ってきやしねぇ。気持ちは解るが」
ほらよ、と小夜子からタオルを返されると、武蔵野は人目を憚らずに顔を拭った。来月で臨月を迎える小夜子の下腹部は重たく張り詰めていて、彼女だけは座布団ではなく座椅子を与えられていた。二人の子供は無事産まれ、健やかに育つのだと、異次元宇宙から打ち寄せる情報の波がシュユに伝えてくる。だが、それを明言するのは野暮というものなので、シュユはその情報を黙殺しておいた。未来とは、見通せないからこそ素晴らしいものなのだ。
「ああもう、どうしてくれる。どうしてくれんだよ、このやるせない気持ちは」
全力で抱き付いてくる一乗寺を宥めながら、周防が零すと、一乗寺は自分の両手を開いて見つめる。
「なんかもう、困っちゃうね。今が本当に幸せなんだなぁって解るから。丸腰でいられるんだもん」
「ええ、全くね」
映画の上映中、大人しく寝ていた息子の様子を確かめながら、小倉直子は目元を拭った。
「ああいう人間には二度となっちゃダメよね」
娘とその思い人の様子を見、文香は苦笑いする。
「で、シュユはどうだった」
生理食塩水の涙を拭い去った寺坂に問われ、シュユは少し首を曲げる。
「見ている側の感情に働きかける演出と描写が絶妙だったね」
「じゃ、面白かったんだな」
「そういうことになるね」
「なら、いいけどよ」
次回はもっと派手なやつにしようぜ、と寺坂は道子に迫るが、道子はすぐさま否定していた。ベッタベタに甘いラブロマンスにしましょうよ、と道子は力説するが、寺坂は大味なハリウッド映画がいいと食い下がっている。浄法寺で映画の上映会を始めようと言い出したのはどちらであったか、どちらでもなかったのか、それ自体があやふやではあるのだが、娯楽があるのはいいことである。映画だけであれば、衛星放送などで延々と放映しているが、自宅のテレビとスクリーンで見るのとでは迫力が段違いだ。寺坂が若い頃に買ったはいいが、押し入れで埃を被っていた音響装置も本堂の四方に配置してあるし、何より住民が少ないので、近所迷惑を気にせずに音量を上げられるのが最大の利点だ。その甲斐あって、浄法寺での月に一度の上映会には、余程のことがない限りは集落の住民全員がやってくる。退屈凌ぎには丁度良いからだ。
上映会の後のお茶会が終わり、皆が帰ると、本堂はがらんとした。シュユはスクリーンの撤収を手伝ってやると、道子からやたらと感謝された。寺坂は用意は手伝ってくれるものの、片付けは手伝ってくれないから、感激したのだそうだ。寺坂は渋い顔をすると、シュユの触手から丸めたスクリーンを奪って納戸に向かっていった。
「ニルヴァーニアンにも、こういう娯楽ってあったんですか?」
人数分の茶碗を盆に載せた後、座卓を濡れ布巾で拭きながら、道子が問うてきた。
「あったんじゃないかな。宗教という概念があるんだから、宗教を流布するために用いる手段として、物語を作っていた可能性は高いね。映画にしろ、演劇にしろ、文字が読めなくてもストーリーさえ追うことが出来れば、作り手側の伝えたい概念や価値観といったものは教えられるからね」
茶菓子の残りである酒饅頭をもそもそと食しながら、シュユが答えると、道子は納得した。
「確かにそうですねー。演劇は元々宗教的な祭事が発展したものですから、宗教と演劇は切っても切れない関係にありますからね。ニルヴァーニアンは宗教ありきの種族だったみたいですから、尚更ですね」
「だが、ニルヴァーニアンは元々何を信じていたんだよ」
納戸から戻ってきた寺坂は、プロジェクターの配線を外していった。
「ああ、それもそうですねー。最終的に神様っぽい立ち位置に進化はしましたけど、神様の概念があるってことは、ニルヴァーニアンにも神様がいたってことですもんね。まあ、神様って言ってもピンキリですし、唯一神とか絶対神とかもありますけど、土着の神様とか、道具の神様とかも神様の部類に入りますからね」
で、どんな神様だったんですか、と道子からも問われ、シュユは答えに窮した。
「神様?」
「でなきゃ仏か、閻魔様か、なんでもいい。敬意と畏怖を同時に抱く存在か、事象か、概念か、とにかくそういうのが神様ってもんだからな。知ったところで何がどうなるってわけじゃないが、知って無駄でもないだろうしな」
プロジェクターを箱に収めてから、寺坂が振り返った。シュユは触手を垂らし、俯く。
「神様……」
「まさか、いないのか?」
「でなきゃ、ニルヴァーニアンは俺が神だーって勢いの種族だったんですか?」
寺坂と道子に問い詰められ、シュユは腰を捻って更に俯く。
「う、うーん」
思い出せそうで思い出せない。もうちょっと考えさせてほしいな、と二人を押し返してから、シュユは下半身の触手を波打たせて本堂を後にした。浄法寺と隣り合った墓地の片隅に立ち尽くし、夕焼けに染められた集落を一望し、シュユは懸命に異次元宇宙に宿る情報を引き寄せようとした。情報の波が増えるように煽り、荒立たせるも、思うような情報が見つけ出せない。普段であれば、目当ての情報は息をするようにダウンロード出来るのだが。
不意に空しさに襲われ、シュユは墓地の端で下半身の触手を抱えて座り込んだ。背中から生えた青く透き通った光輪、生体アンテナも感度を上げてみるが、結果は同じだった。うねうねと不規則に蠢く触手の束に顎を載せて、茜色と藍色のグラデーションが掛かった空を仰ぎ見ながら、シュユは情報の海に意識を委ねた。
ニルヴァーニアンに神様はいたのだろうか。
遠い過去か、遙かな未来か。
そのどちらかであり、どちらでもある時間軸に、ニルヴァーニアンの原型たる種族は存在していた。時間とは平坦に直進するものではないからだ。空間と次元が捻れていれば、同一の時間軸であろうと、過去であると同時に未来となる場合も珍しくはない。だから、ニルヴァーニアンの存在していた惑星と物質宇宙も、時間の残滓が降り積もる底に位置していると共に、時間の砂粒を一つ一つ零す匙の上に位置している。
当初は地球人類とも大差のない種族であり、肉体を伴い、重力に縛られ、価値観にも個体差があった。それがなぜ、平坦な思想と価値観を良しとするようになったのか。切っ掛けがなければ、ニルヴァーニアンは精神波で意思の疎通が行えるだけの炭素生物の範疇に留まっていたはずだからだ。記憶を引き出すために波間を探っていくが、手応えがない。異物で塞がれているかのように、断線しているかのように、情報の連鎖が途切れていた。
「ふむ」
異次元宇宙に精神体を浮かばせながら、シュユは星々の散らばる闇色の海を見渡した。どうやら、何らかの理由でニルヴァーニアン全体に情報の取得制限を行っているらしい。シュユがニルヴァーニアンの神様に関する情報を検索しても一向にそれらしい情報が算出されなかったのも、それが原因と見ていいだろう。
「でも、どうしてだろう」
過去を知らなければ、己の種族について理解出来ない。理解出来なければ納得出来ず、納得出来なければ了承出来ず、了承出来なければ嚥下出来ない。ただの炭素生物だった時代はニルヴァーニアンにとっての汚点という扱いなのかもしれないが、だとしても、あまりにも安直だ。仮にも、物質宇宙の神として君臨しようとしていた種族のやることではない。かといって、ニルヴァーニアンが全く別の知的生命体に接触されて過去と歴史を封殺されたとも考えにくい。異次元宇宙を構成している情報は、一切合切がニルヴァーニアンに由来するものだからだ。
「いかがなさいましたか」
太陽風に似た粒子とエネルギーを含んだ微風が吹き寄せ、シュユを包んでは過ぎ去り、声を残していった。
「やあ、クテイ。意外と元気そうだね」
精神体としての形をも成していないが、かつて、物質宇宙に憧憬を抱いたがあまりに地球に降りた彼女に間違いなかった。白色矮星の色味に近い青白い光の粒子が集うと、曲線の多い輪郭を作り、クテイの立体映像がほのかに浮かび上がった。シュユは触手を伸ばすが、クテイには触れられず、光の粒子がほろりと崩れた。
「彼を葬るために、そこまで消耗しちゃったのかい」
「ええ」
異次元宇宙の波間に漂いながら、クテイは凹凸のない顔を反らし、頭上に横たわる銀河の渦を仰いだ。
「長光さんの業はあまりにも深く、重く、暗いものでしたから。シュユが感知している私も、本物の私ではありません。異次元宇宙に残った私の情報の残滓にシュユが概念を与えてくれたからこそ、一時的に情報が凝固し、かつての私と大差のない人格と情緒と思考パターンを備えたのです。本物の私は、輪廻の環にすらも至れないほどの深淵にて、長光さんを抱いております。それしか、出来ることがありませんから」
「そう。彼の人格とそれに関連する情報は不純物が多すぎるからね、処理に時間が掛かるのは当たり前だよ」
シュユが労うと、クテイは卵形の頭部をシュユに向けた。
「つばめちゃんとコジロウ君、長孝は御元気ですか?」
「そりゃもう。だから、きっちり寿命を全うするさ」
「でしたら、よろしいのです」
微笑むように、クテイの目元が柔らかく歪む。
「せっかくだから聞いておきたいんだけど、ニルヴァーニアンの神様って何だろうね」
シュユが尋ねると、クテイは仮初めの肉体を構成している光の粒子を瞬かせる。
「我らにとっての神ですか」
「そう、神様。僕達は神様になろうとしたけど、なり損ねた。でも、神様になろうと思ったってことは、僕達にも神様がいたはずなんだよ。でも、それがどうしても思い出せない。思い出そうとしたけど情報が分断されていて、物質宇宙からだと接触も出来なかったんだ。だから、わざわざ異次元宇宙に来てみたんだけど、手詰まりでね」
「それは不思議ですね。シュユはニルヴァーニアンの中でも旧いものでありますのに」
「うん、そうなんだよ。だから、アクセス権限は幅広いはずなんだけど」
「長光さんに、少しずつ刺激を与えて新陳代謝を促さなければならないのですが、圧倒的に情報が足りないのです。それを得るために、私はこうして異次元宇宙に至ったのです。ですが、シュユから概念を与えられていなければ、私は私という形を作ることすらも危ういほど弱り切っております。ですので、シュユ」
「ああ、うん。そうだね。話し相手がいるのといないとじゃ、気概が変わるしね」
要するに、クテイは連れて行けと言っている。シュユが了承すると、クテイは安堵したのか、光の粒子から零れる光が柔らかくなった。では、まずはどの時代の情報から掘り返そうか。幻影にも満たないほど脆弱な存在でしかなくなったクテイを伴って、シュユは波間に精神体を滑り込ませた。
冷たくもなければ重くもなく、息が詰まるはずもないのに、精神体の芯が絞られるように痛んだ。それはシュユが感じている畏怖なのか、クテイが感じている寂寥なのか、或いは他のニルヴァーニアン達が感じている敬意なのかは定かではなかったが、原初の感情を突き動かすものであることは確かだった。
時間の砂と共に、緩く、静かに、沈んでいった。
生命の起源は、人類と大差のないものであった。
ニルヴァーニアンが息づいていた惑星は、とある銀河の片隅に浮かぶ星系にて公転周期を巡っていた。その星も地球と同様にラグランジュ・ポイントに位置しており、生命が育つために不可欠な水を多分に宿し、恒星からの熱と重力を程良く受けながら何十億年も過ごしていた。数え切れないほどの天変地異の末に掻き混ぜられたアミノ酸が結合し、細胞となり、ありとあらゆる試練を経て進化した末、ニルヴァーニアンが出来上がった。地球に息づく生命との決定的な違いは、そのアミノ酸がL型ではなくD型であったということである。
窒素を吸収して酸素を排出する排出する植物が生い茂り、青というよりも紫に近い色味の空が広がり、空の色を写した海に覆われた惑星にて、ニルヴァーニアンは緩やかな文明を築いていったが、長い歴史を紐解いてみても、ただの一度も戦争が起きたという記録はなかった。それもこれも、ニルヴァーニアンは産まれながらにして精神体が繋がっている種族だからだ。だから、価値観の相違も起こらず、意見も食い違わず、思想も割れず、知能も一定で、平和と呼ぶに相応しい時代を過ごしていた。その頃はまだ、目も鼻も口もあり、手も足も揃っていた。
牧歌的な平和は何十万年、何百万年と続いていたが、ある時を境に文明が急激に発展した。だが、それについての情報はほとんど残されていない。ニルヴァーニアンの住んでいた惑星の情報を全て取り出し、異次元宇宙に再現された母星の中をどれほど捜してみても、それらしい情報は見当たらなかった。
「さて、どうしたものかなぁ」
情報の海の中に再現された母星の地表に降り立ったシュユは、農業と稚拙な科学だけで成り立っている原始的な文明社会を眺め回しながら、取っ掛かりがないものかと思案した。
「これを用いてみてはいかがでしょう」
シュユの背後に浮かぶ幻影、クテイが差し出してきたのは、人間の子供の拳大程の小さな肉塊だった。
「つばめちゃんの心臓じゃないの。どうしたの、これ」
シュユが驚くと、クテイは小鳥のように暖かな心臓を、触手で優しく包み込む。
「長光さんを鎮めるためにはどうしても必要でしたので、つばめちゃんの心臓と管理者権限に関わる情報をほんの少し失敬したのですよ。管理者権限は遺産に適応される遺伝子情報でありますが、遺産を動かせるということは、異次元宇宙に充ち満ちている情報も揺り動かせるということです。遺産はあくまでも、異次元宇宙に宿る演算能力を物質宇宙に引き出すための道具でしかありませんから」
「そういえばそうだね。でも、どこに使おうか」
シュユは泡立つ波が打ち寄せる海岸線を見渡していると、クテイは海の沖合いを指し示した。
「あちらに情報の空白地帯が存在しております。そこに手掛かりがある気がいたします」
「あ、本当だ。じゃ、行ってみよう」
シュユはクテイを伴い、ざぶざぶと波間に分け入っていった。濡れた砂を踏み締めて潜っていくと、水の冷たさと水圧の厚みまでもが再現されており、触手と下半身が重たく圧迫された。だが、そんなものをいちいち味わっていたら切りがないので、真っ直ぐ歩いて浅瀬から深みに没した。
白く爆ぜる水泡を纏いながら、シュユとクテイは下っていった。水面から離れて行くに連れて陽光が弱っていき、海中が暗くなる。荒くれた岩場を通り、海草の森を抜け、水中の生物達を横目に進んでいくと、海底に巨大な黒い箱が鎮座していた。触手を伸ばして触れてみるが手応えはなく、暑くもないが冷たくもない。遺産の一つであるコンガラに似ていなくもないが、古代の母星にはコンガラは存在していないはずである。だから、これはコンガラではない。
「となると、これが空白地帯かな」
寺坂や道子が執心しているゲームには、たまにグラフィックのミスがある。3Dダンジョンなどで視点を変えると、通路と壁の合わせ目に黒い空白が出来ていたり、何もないはずの空間でいきなりぶつかったり、壁に向かったら体がめり込んでしまったり、というようなものだ。異次元宇宙における母星も、言ってしまえば再現度が異常に高い3Dダンジョンゲームなので、その部分の情報を削除、或いは封印するのは容易いのだろう。
だから、黒い箱が出来上がっている。その中に何があるのかは解らないが、知ってみて損はないだろう。シュユはクテイを促し、つばめの心臓を黒い箱に触れさせた。途端に黒い箱が薄らぎ、海水の流れが変わり、僅かなノイズの後に中身が露わになった。そこには、ひどく錆び付いた機械が横たわっていた。
「なんだろ、これ」
「ロボットでしょうか。ですが、ニルヴァーニアンの歴史に置いて、ロボットは生み出されませんでしたし、使われたこともありません。私がロボットに関する概念や知識を得たのは、長孝を通じてのことでしたので」
シュユが不思議がると、クテイも見当が付かないのか訝った。ニルヴァーニアンがロボットに相当する機械を発明しなかったという事実は、シュユも把握している。ニルヴァーニアン同士は決して争わなかったので、兵器を作ることもなければ、農作業の能率を上げるための道具も荒削りなものしか生み出さなかった。道具が便利になればなった分だけ、労働者の仕事が減ってしまうと考えていたからである。
となれば、このロボットと思しき機械は全くの異文明からの来訪者なのだろうか。だとしても、一体どこからやってきたというのか。銘板でも付いていれば多少の見当も付くのだろうが、それらしいものは見当たらなかった。作業用に特化した形状らしく、球状の胴体からは四肢が生えていて尖端が枝分かれしていた。背面にはスラスターの役割をするであろうノズルが放射状に並んでいたが、砂や海草などの堆積物で目詰まりを起こしていた。
きっとこのロボットはこのまま朽ちていく運命にあるのだ、とシュユとクテイが漠然と考えていると、海面が割れた。大粒の気泡に包まれながら潜ってきたのは、薄着の少女だった。銛を片手に細長い両足で水を蹴り、短く切った髪を靡かせながら海底へと進んでいく。恐らく、この海岸近くにある漁村の住民だろう。少女は岩場の隙間に隠れていた魚に狙いを定めると、銛で突こうとしたが、ロボットに気付いて目を留めた。
そして、ロボットもまた彼女に気付いた。
海底から引き上げられた古びた機械は、漁村に運ばれた。
少女を始めとした住民達の手で、分厚い外装にこびり付いている貝や藻を剥がされ、洗われていくうちに、彼の全貌が明らかになった。無駄という無駄を削ぎ落とした球状の胴体は鈍色で、それが堆積物の隙間から見えていたせいで錆のように思えただけであり、実際は錆一つ浮いていなかった。数十本の金属製の触手も同様で、潤滑油も当の昔に枯渇しているはずなのだが、滑らかに駆動した。
ニルヴァーニアンは平和を体現している種族ではあったが、その実では極めて閉鎖的な種族でもあった。どこの馬の骨とも解らないロボットとも精神体が通じているのだと思い込み、話し掛けたが、ロボットは精神感応能力に匹敵する通信手段を備えていなかったのか応答しなかった。その後も何度か住民達に話し掛けられたが、ロボットの反応は変わらなかったので、住民達はロボットから関心を失うようになった。
けれど、ロボットを最初に見つけた少女だけは、彼が気になっていた。腹が減っているから機嫌が悪いのだろうと判断し、魚を運んでみるが、ロボットはそれを食べるはずもなかった。魚は嫌いなのだろうと山から果物を取ってきてみたり、果物は旬ではなかったからと根菜を持ってきたり、と手を替え品を替え、少女はロボットと交流を図ろうとした。それでもやはり、ロボットは反応しなかった。
話し掛けても、食べ物を分けても、通じ合えないのだと少女は理解した。少女が理解すると、他の住人達もおのずとそれを理解した。理解し合えない相手がいるという価値観は、それまでのニルヴァーニアンに存在すらしていないものだったので、凄まじいカルチャーショックが起きた。当然ながら漁村は混乱し、漁村の近隣の住民達にも伝播し、その住民達から更に他の住民達に伝播し、とニルヴァーニアン全体に混乱が蔓延していった。
「こんなことがあったなんて、知っていた?」
漁村の住民達が逃げ出していく様を傍観しながら、シュユが問うと、クテイは否定する。
「いいえ。存じ上げておりません」
「そりゃ、宇宙の神たるニルヴァーニアンにとっちゃ、ロボット一体にビビっちゃったのは汚点だろうけど、隠すほどのことでもないような気がするんだけどなぁ」
シュユは疑問に駆られながらも、時間の経過を早めるためにクテイと共に再び海中へと潜った。つばめの心臓を使って情報の空白地帯を解放したからだろう、歴史の転換期の年代がいつなのかも把握出来るようになったので、その頃合いを見計らって海から上がると、住民が消えていた漁村が様変わりしていた。
漁村は見違えるほど栄えていて、簡素な民家は一つ残らず取り壊されており、仰々しい建物が建っていた。その形はロボットに酷似していて、球状の構造体が中心に据えられ、末広がりに触手が伸びていた。何がどうなってこうなったのだと戸惑いつつ、シュユとクテイが扉を擦り抜けて建物の中に入り込むと、円形の大広間の中心にロボットが置かれていた。その傍らには、年月を経て成長した、あの少女が控えていた。
そして少女は言った。彼は神だと。
理解出来ないものを畏怖し、畏怖するが故に敬意を抱く。
それは、どこの世界でも変わらないことだ。だから、ニルヴァーニアンにも神の概念が生まれた。かつての少女が巫女となり、意思も言語も何一つ疎通出来ないロボットを神だと祭り上げると、その信心が伝播していった。人々の輪の中心に据えられたロボットは黙したまま、やはり動かなかった。それから何年経とうとも、変わらなかった。
月日が過ぎていき、ニルヴァーニアンが神が存在しているという概念に慣れてきた頃、神に対して懐疑的になった者がいた。その懐疑心もまた波状に広がっていき、神ならばいかなる苦痛にも耐えられるはずだと信じてロボットに危害を加えるようになった。しかし、膨大な年月を海底で過ごしても錆一つ浮いていなかったロボットに、稚拙な道具では掠り傷も付かなかった。それが更に人々の信仰心を高めたが、高ぶりすぎてしまい、ロボットはあらゆる苦痛から解放された存在なのだと思い込むようになった。
その概念が生まれた時を境に、ロボットの扱いは一変した。それまでは台座に乗せられて丁寧に磨かれていたのだが、台座から引き摺り下ろされて人々に打ち据えられるようになった。神を敬い、祈りを捧げるためにかつての漁村を訪れた者達もまた、棒を振るい、ロボットを殴った。それでもロボットは耐え抜き、何百、何千、何万、何億もの苦痛と信心を受け止めた。だが、ある日、度重なる打撃で関節が緩んでいたらしく、ロボットの触手が外れた。
神が傷付いた、との混乱がまたしても膨れ上がり、ニルヴァーニアン全体に蔓延していった。そして、その概念はいつしか、ニルヴァーニアンは神を滅ぼし陵駕出来る、というものに成り果てた。
「なるほどねぇ、そういうことだったのか。道具が神様だった、なんてことを知ったら、今のニルヴァーニアンにとってはカルチャーショックなんてものじゃないよ。天地どころか宇宙の法則がひっくり返るぐらいの衝撃だよ。だから、昔のニルヴァーニアンが封じておいたんだ。余計な混乱を招いてしまわないように。だけど、そういう重要なことを知らずにいたものだから、新しい世代のニルヴァーニアンが増長しちゃったのもまた事実だ。難しいねぇ」
ニルヴァーニアン達によって分解されていくロボットを見下ろしながら、シュユは理解した。
「私達のこの姿は、彼を模したものだったのですね」
「で、遺産は彼に搭載されていた部品の模造品だったんだ。ムリョウ、タイスウ、アソウギ、コンガラ、ナユタ、アマラ、ラクシャ、そしてフカセツテン。ニルヴァーニアンの技術では模倣することが出来なかったから、それに近しい能力を備えた道具を造ったんだ。他の星に神託を伝えに行こう、だなんてことを思い付いたのも、彼の通信装置に恒星間通信がザッピングしたからだったんだね。蓋を開けてみれば、どうってことないことばかりだね」
「それが現実というものでしょうね」
シュユの傍らでクテイが呟くと、ロボットの球状の胴体を止めていたボルトが引き抜かれ、外装が剥がれた。
「で、彼がどこから来たのかは誰も知らないんだね」
「それを知ってしまったら、神という概念自体が崩壊してしまいます。その概念が失われれば、ニルヴァーニアンの根幹が揺らぐことでしょう。今の私達には、己が神であるという自負が欠かせませんから」
「でも、僕は知りたいなぁ。現実の彼はもう存在していないけど、彼の情報は引き出せるはずだからね」
つばめちゃんを貸して、とシュユが触手を差し伸べると、クテイは渋りつつも孫娘の心臓を差し出した。
「あまり深入りなさりませぬよう」
「深入り出来るほど、底があるとは思いがたいけどね」
海面を跳ねて砂浜へと至ったシュユは、ロボットを取り巻いていた人々が去っていくのを待ってから、スクラップと化した神に近付いた。てらてらと光る機械油が砂に染み込み、砕けたレンズが紫色の空を写していた。主要な部品も打ち砕かれていたが、ここは現実ではない。異次元宇宙に保存された情報までもは砕けていないはずだ。
基盤と思しき青白い板につばめの心臓を寄り添わせると、電流が走り、ロボットの動力機関が動き始めた。彼は砕けたレンズを動かしてシュユを捉えると、濁った機械音声を発した。
「情報収集と同時に状況確認の後、座標特定開始」
「やあ」
シュユはロボットの前に腰を下ろし、顔を寄せた。
「君はどこから来たんだい?」
「艦隊の空間転移装置の誤作動により、当初の目標地点とは異なる座標へと転移、後に具象化。以後、行動不能に陥り、自己修復作業と並行し、艦隊へ誘導ビーコンを送信。未だ応答なし」
「だってさ」
シュユがクテイに振り返ると、クテイは彼の割れたレンズの縁に触手を添わせ、撫でた。
「それはさぞやお寂しかったでしょうねぇ……」
「他には何を知っているの?」
シュユはつばめの心臓でロボットの集積回路を小突くと、彼は応じた。
「本機は艦隊の工作部隊に属する、作業用無人機である。植民地となる惑星を探索するために外宇宙への進軍を行う際にルート上に存在する障害物を排除し、艦隊の進路を切り開くのが本機の主要任務である」
「てぇことは、君は兵器じゃないんだね」
「本機は任務内容に応じて装備を変更するが、戦闘用には設計されていない」
「じゃ、艦隊はどこの惑星の種族が作ったの?」
だが、その問いに答えは返ってこなかった。つばめの管理者権限を用いて強引に旧い情報にアクセスした弊害なのか、情報の劣化が始まり、ロボットの集積回路は一握の砂となって白い砂に混ざった。それ以外の部品も儚くも崩れ去っていき、触手に触れた砂も砕けて微細な粒子となった。
だが、シュユは満足した。知りたいことを知れたからだ。同族の神の起源と、その神の正体と、神の存在によって生じた概念と、それによる影響に関する情報だ。神は作り物で、作り物の神を真似て、神になろうとした同族達に対して侮蔑とも同情とも言い難い感情が沸き上がり、シュユは肩を揺すった。そして、彼女に問うた。
「ねえ、クテイ。僕達はどこに向かおうとしていたのだろうね。そして、どこに行き着いたのだろうね」
「生きることは捜すことです。それを知りたければ、生きなければなりません」
「うん、そうだね。そうなんだけどさぁ」
なんか気が抜けちゃったよ、と零してから、シュユはクテイの触手につばめの心臓を返した。クテイは小さな肉塊をそっと持つと、胸の内に収め、光の粒子の中に解かした。彼女の概念を取り払って脆い精神体を解放してやった後、シュユは故郷の残骸から飛び立った。海、空、大気、重力を抜けていき、情報の宇宙へと至った。
神とは理解出来ないものに与える概念であり、箱であり、器だ。シュユが人間を理解しきれないように、人間もまたシュユを理解出来ないのであれば、シュユは人間にとっては神の領域に至っているという理屈になる。それが楽だと思う一方で、神とは退屈なものだとも思う。神として括られた時点で、人間と同じ目線に立つことを許されなくなったのだから。ニルヴァーニアンはつくづく傲慢な種族だ。それ故に、佐々木長光に付け入られ、食い潰された。
何事も、過信してはいけないということだ。
物質宇宙に意識を戻してから、シュユは集落の中をふらついていた。
船島集落跡地にあるプレハブ小屋に帰っても、面白くないからだ。浄法寺での上映会が終わってから、数時間が経過しているので、皆、それぞれの自宅に帰っている。日も暮れているので人気はなく、静まり返っていた。底冷えする夜気に馴染む虫の声が足元から上がり、鬱蒼とした針葉樹林では鳥が思い出したように鳴いていた。
夜露が降りて水気を含んだアスファルトの上を歩いていきながら、皆の住む家を窺っていく。時間帯からして夕食を終えた頃合いなのだろう、話し声や食器を洗う物音が時折聞こえてくる。農作物が生い茂った田畑からは肥料の混じった土の匂いが立ち上り、嗅覚を刺激してきた。行く当てもなく、遅い足取りで進んでいると、シュユの視界の隅に赤い光が掠めた。それが何なのかは、今更考えるまでもなかった。
「やあ」
シュユは振り返り様に触手を向け、パトライトを点灯させている警官ロボットを捉えた。
「コジロウ君」
「貴殿は早急に住居へ帰還すべきだ」
「それはなぜだい」
「貴殿は政府の保護下にある、要人だ。よって、警護されていなければならない」
「こんなに星が綺麗なんだから、狭い小屋に戻っちゃうのは勿体ないじゃないか。ここの方が良く見えるし」
「貴殿の住居と集落は直線距離にして二キロ六四五メートルしか離れていない。よって、恒星の観測に支障を来すとは思いがたい。尚、集落内では各世帯の住居に光源が多数存在するため、恒星の観測に相応しい場所であるとは言い難い。よって、貴殿の発言には矛盾が生じている」
「そんなにお堅いことを言わないでほしいなぁ」
「本官は事実を述べているまでだ」
「まあいいや、ちょっと話をしよう」
「本官は貴殿と情報交換を行うべきではない。つばめの護衛、及び集落内の警戒任務に当たっている最中だ」
「相変わらずなんだから」
シュユはちょっと笑ってから、こっちにおいで、と触手を絡めてコジロウを路肩に引っ張り寄せた。コジロウは抵抗しようとしたが、それはほんの一瞬で、触手は振り払われなかった。恐らく、つばめからシュユに危害を加えるなと命令を下されていたのだろう。少し傾斜の付いた地面に腰を下ろすと、コジロウも隣に座った。
「遠い未来か、果てしない過去か、そのどちらでもあって、どちらでもないことだけど」
シュユはコジロウの赤いゴーグルから漏れる光を帯びた横顔を上げ、星々が散る夜空を一望した。
「ニルヴァーニアンは、神様を得る。君みたいな、硬くて頑丈で武骨で融通が利かない、ニルヴァーニアンにとって到底理解出来ない存在を神様として敬い、神様の概念を得て、神様を越えて、神様になろうとするんだよ。だけど、その結果はご覧の通りさ」
「本官には理解出来ない」
「理解出来なくてもいい、覚えてくれていればいいんだ」
シュユは袈裟懸けに着ている黄色い布の裾を整え、下半身の触手を隠した。
「神様にはなろうとしちゃいけないよ。だって、神様ってのは万能であることが大前提なのであって、欲望という欲望を削ぎ落として、隙もなくして、余裕も揺らぎもブレもなくさなきゃいけない。その揺らぎやブレを補い合っていることでニルヴァーニアンは神に近付けたけど、補い合いすぎて、自分達の力だけでは生きることすら危うくなった。だから、色んな惑星で神様ごっこをしていたんだ。解り切ったことなのにね、上に行けばいくほど、下を幅広くしていく必要が出てくるってことは。だから、神様になったら、不特定多数を幸せにしなきゃいけない。幸せにしてくれという願望を受け止めてやらなきゃならない。でも、それは君の任務じゃない。そうだろう、コジロウ君」
「本官の管理者はつばめだ。非常事態、或いはつばめが命令を下している場合を除き、本官はつばめ以外の人間の命令を受け付けることはない。決して、ない」
「それが解っているなら充分だよ。つばめちゃん以外の誰も、何も、欲しがっちゃダメだ」
「本官には欲求に相当する判断パターンは存在しかねるが、それに近しい情緒は完成しつつある。よって、貴殿の忠告を理解することは不可能ではない」
「そっか。だったら、いいんだ」
コジロウが理解してくれるのであれば、それで充分だ。シュユは満足し、頷いた。
「本官より貴殿へ、質問の許可を請う」
「へ?」
思い掛けない言葉にシュユは戸惑ったが、コジロウに注視されたので、応じてやった。
「ああ、いいよ。で、何を聞きたいの?」
「管理者権限とは、遺産を用いて未開の惑星を開拓するためにニルヴァーニアンのアバターに与えられた生体情報の一種であるが、管理者権限所有者による接触、及び命令以外では稼働しない遺産を地球へ持ち込んだ理由を開示してもらいたい」
「逆に聞くけど、なんでそんなことを知りたいの?」
「本官はつばめに関する情報を収集し、把握し、保存する義務がある」
「確かに、クテイと遺産がなければ、つばめちゃんはこの世に生まれていなかったもんねぇ」
シュユはコジロウの突き刺すような強い眼差しに臆しながらも、記憶を掘り起こした。
「ええとね、物質宇宙の男女の恋愛を偏愛していたクテイが不良品扱いされて物質宇宙に廃棄された、っていうことは知っているね? で、僕がその監督役としてフカセツテンに乗り込んでいたんだけど、そのフカセツテンは別の星に向かう予定だったんだよ。今更言うまでもないだろうけど、知的生命体は存在しているけど文明は未発達な惑星だよ。だから、地球で使う予定はなかったんだ。だけど、クテイがああなって僕もこうなっちゃったものだから、遺産をどうにかすることも出来ず、大人しくしているしかなかったんだ。つまり、偶然、たまたま、うっかりってことなんだ。管理者権限はニルヴァーニアンにとっては珍しくもないものだけど、つばめちゃんはクテイがタカさんの生体情報をいじったせいで管理者権限との相性が良くなりすぎたんだ。だから、ああいうことになっちゃった。だけど、クテイに悪意はないし、タカさんだってそう。つばめちゃんを苦しめるつもりでやったわけじゃない。例外はいるけどね」
「偶然であり、他意はないのか」
「そう、偶然。まあ、広い目で見れば必然なんだろうけどね。つばめちゃんが生まれたことも、コジロウ君が造られたことも、他の何もかも、みーんな。だから、あんまり思い詰めないことだよ」
「本官は、思い詰めるという語彙が相当するほどの情緒は備えていない」
「つばめちゃんのルーツが気になって悩んじゃうんだから、備えているって考えてもいいと思うけどな」
「本官は悩んではいない」
「はいはい」
コジロウの堅苦しい答えに、シュユは笑ってしまった。
「本官は任務に戻る」
コジロウは腰を上げ、立ち上がる。バックパックを背負った背中に、シュユは言う。
「宇宙なんてものはね、虫食い穴だらけだよ。物質宇宙も異次元宇宙も、もちろん、僕達の内側にある内面の宇宙もね。問題はその穴じゃなくて、その穴に何を埋めるかだよ。いい加減な神様でも、便利な道具でも、大好きな人のことでも、なんでもいいんだけどね。だから、コジロウ君にも穴はあるよ。それを、つばめちゃんのことだけで埋めておくといいよ。そうすれば、君は絶対に迷わないし、惑わされないし、困らないからね」
「貴殿から忠告されるまでもない」
「だね」
じゃあね、と警邏に戻ったコジロウに触手を振ってから、シュユは帰路を辿った。船島集落に近付くに連れて道路の舗装が悪くなっていき、日々重機が行き交うためにアスファルトが磨り減り、砂利道になり、獣道も同然の草むらになった。威勢良く成長している雑草を掻き分けながら、シュユはプレハブ小屋に戻った。
皆と飲み食いしてから時間が経ったので、食べたものが消化されてしまって空腹に陥っていた。シュユは冷蔵庫や食糧庫を開けて溜め込んでおいた食糧を取り出すと、腹を膨らませるために食べ始めた。食糧の食感、味、温度、匂いといった刺激という刺激を受け止めて異次元宇宙に流し込んでやりながら、シュユは神様を得なかった場合のニルヴァーニアンはどういった進化を遂げただろうかと考えた。だが、行き着くところは変わらないだろう。最初から神を越えたいという欲求を抱いていなければ、発露するわけがないからだ。
だから、ニルヴァーニアンを変えなければならない。
一丁のハサミをもらった。
食べ物の袋を開けづらい、とかなんとか適当な理由を付けて設楽道子から譲渡してもらったものだ。政府の人間によってシュユの身辺からは、武器になる可能性があるものを徹底的に排除されているので、刃物なんて以ての外だった。本当はビニール袋を開ける際にハサミなど必要ないのだが、なんでもいいから道具が欲しかった。道具を手にして道具を使う喜びを知れば、ニルヴァーニアンにまた新たな刺激を与えられるからだ。
物理的に、物質宇宙の物質を変えられる道具だ。シュユは細く分けた二本の触手でハサミを構え、手元にあった枯れ葉を断ち切った。小気味良く金属同士が擦れて重なり、刃が食い込み、分断された。床に落ちた枯れ葉を見、シュユは満足した。続いて、小屋の片隅にある棚に詰め込んである書類を取り出しては切っていった。あの映画の主人公のような芸当は出来ないので、紙切れがデタラメな紙切れになっただけではあったが、単純であるからこそ楽しい作業だった。切れ味の良い刃で小気味良く切り刻んでいくと、足元には紙吹雪の山が出来上がった。
「なんだこりゃ」
唐突に不躾な言葉を掛けられたので、振り返ると、ジャージ姿の寺坂善太郎がプレハブ小屋に入ってきた。
「やあ」
シュユがハサミを振りながら挨拶すると、寺坂は鋭角なサングラスを上げ、紙切れの山を注視する。
「ハサミをもらってやることがそれとは、ガキと同じだな」
「だって、面白いじゃない」
ちゃきん、とハサミを鳴らしてから、シュユは両腕の触手を大きく広げる。
「僕は物質宇宙に存在していないはずの存在なのに、物質宇宙の物質に物理的な作用を与えられているんだよ。それが面白くないわけがないじゃないか。僕がハサミを使って紙を一枚切ったことによって発生する事象が、物質宇宙に認められたという証拠でもあるんだから。アバターもまた物質宇宙の一員であると同時に、ニルヴァーニアンは物質宇宙の戒めから逃れられない、という確固たる事実でもある。だから、僕は紙を切るんだ。僕が紙を切ったことがバタフライエフェクトとなり、物質宇宙全体にどんな作用を及ぼすのか、考えただけでわくわくするよ」
「あーそうかよ、意味解らねぇ。んで、重要書類とかは切ってねぇよな?」
「君達にとって重要なものが、僕にとって重要であるという保証はないよ」
「じゃあ切ったのかよ。また面倒臭ぇことになりそうだなぁ」
寺坂はシュユが作った紙吹雪の山を一掴みすると、放り投げた。空中に広がり、雪のように舞い散る。
「んで、この前聞いたけど返事を聞きそびれまくっていた質問なんだが」
「あれね。うん、ニルヴァーニアンに神様はいたよ。でも、その神様はニルヴァーニアンが自分達を神様なんだと思い込むための踏み台に過ぎなくて、ニルヴァーニアンにとっての神様は自分自身だったんだ。だから、神様はいたことにはいたけど、いないと言えばいなかった」
「じゃ、お前の神様は何なんだ?」
「おいしいもの!」
「解りやすくて結構だよ」
寺坂は肩を揺すり、笑った。シュユは意味もなくハサミを動かしながら、寺坂ににじり寄る。
「だからね、色んなものを食べてみたいんだ。もっともっと持ってきてよ、世の中には僕が食べたことがないものが一杯あるんでしょ? ねえ、よっちゃん?」
「こんなクソ田舎じゃ、店の品揃えも悪いぞ」
「通販があるじゃない」
「あー、そうだな。んじゃ、政府の経費で落ちる分だけだぞ」
「わーい。ありがとう、よっちゃん」
「んで、何が喰いたい」
かなり面倒そうな寺坂に問われ、シュユは景気良く言った。
「足が多い生き物!」
「タコとかイカとか、そういう系?」
「うん、だと思う」
「思うって……」
なんだよ適当すぎんな、とぼやきつつ、寺坂はシュユのリクエストを伝えるべく、携帯電話でメールを打ち始めた。相手は道子である。ニルヴァーニアンの驕り高ぶった価値観を引き摺り下ろすためには、神格化されているものを一つ一つ潰していく必要がある。まずは、あのロボットと似たような姿をしたものを食べてやり、敬うに値しないものだという概念を知らしめてやる。タコやイカがどんな味がするのかも楽しみだが、多大なカルチャーショックを受けるであろう同族達の反応が楽しみで仕方ない。
手元にあった紙を切り、頭と両手足の触手を作り、ニルヴァーニアンにどことなく似せた形に整えた。その触手を一息に断ち切ると、紙吹雪の山に新たな紙片が降り積もった。そうやって少しずつ変えていけば、いずれはそれが旧く歪んだ価値観を駆逐し、陵駕し、ニルヴァーニアンが一新される。どれほどの時間が掛かるのかは解らないが、同族を変えることこそが、自分が変わった理由であり目的なのだと確信する。重要、との朱印が押された書類を掴んだシュユは、ハサミが赴くままに切り刻み、盛大に紙吹雪を撒き散らした。
俗なことほど、楽しいものだ。




