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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
番外編

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比翼のトゥモロー

「ん」

 目の前に突き出された紙に視界を塞がれ、りんねは目を瞬かせた。近眼ではあるが、あまりにも近すぎると見えないので、りんねは頭を後ろに引いて目の焦点を合わせた。臙脂色のインクで文字と枠が印刷されている薄い紙で、じっと目を凝らしてみると、そこに書いてある文字が読み取れた。

「こんいん、とどけ?」

 意味が理解出来ると頭に血が昇り始め、赤面したりんねは目眩を起こしそうになった。実物を見るのはこれが初めてだ。薄っぺらい紙を黒い爪で挟んでいた伊織は頬を火照らせてふらついているりんねを支えてやると、柔らかくベッドに横たわらせた。布団を引き上げて顔を半分隠し、りんねは上目にベッドサイドに腰掛けている人型軍隊アリを窺う。

「伊織君、それ、どうしたの?」

「周防に持ってこさせた」

「そ、そうじゃ、なくて、なんで、それ……」

「してぇから」

「だっ、だから、なんで」

「したくねぇのかよ。結婚」

 伊織は黒い複眼を反らし、触角をあらぬ方向に曲げた。語気が少々上擦り気味なのは、それだけ伊織も緊張している証拠だ。りんねは布団の中に籠もった暖かな空気を吸い、吐き、布団を抱き締めてから、再度伊織を窺った。N型溶解症に罹患者扱いされている伊織は原則的には船島集落からは出られないのだが、隔離病棟に入院しているりんねの傍から離れないことを条件に船島集落から出ることを許された。だから、彼はりんねの傍にいる。

 りんねが一ヶ谷市立病院に入院してから、三ヶ月が過ぎた。つばめとは違って通信制ではあったが一ヶ谷市立高校に進学して間もなく、りんねは体調を崩した。最初はただの風邪だと思っていたのだが、一向に治る気配もなく、日を追うごとに悪化していった。政府に掛け合って病院に行って診察してもらったところ、免疫不全によって起きる症状だと診断された。その原因が何なのかは、今更考えるまでもない。佐々木長光に弄ばれ尽くした遺伝子を遺産の力業で繋ぎ合わせ、普通の人間と等しい肉体と精神を手に入れた。だが、それが長く保つはずがないことは、りんねが誰よりもよく知っていた。五度も繰り返した死の記憶と、愛して止まない伊織と母親の文香が傍にいてくれるから、死ぬことは怖くもないと思っていた。紆余曲折を経て親しくなった、つばめと美月と会って話が出来ないのは寂しかったが。

「どうして」

 りんねは布団の端から手を出すと、伊織はりんねの右手を優しく握る。ただでさえ薄い肌が免疫不全で脆くなっているので、傷付けないように細心の注意を払い、黒い爪を寝かせて僅かな力で挟む。

「周防のクソ野郎が、俺の戸籍が生きているってことを知らせてきたんだよ」

「そうなの?」

「俺が高校まで進学出来たってことは戸籍があるっつーことだしな。けど、だからどうってこともねぇし、今更死亡届を出すのもダリィし、放っておいたんだよ。そしたら、周防のクソ野郎が俺に言ってきやがったんだよ」

「結婚出来るってことを?」

「まぁな。あいつは一乗寺と結婚出来ねーらしいけどな。その理由は解らねぇでもねぇけど」

「でも、なんで? 伊織君、そういうの、好きじゃなさそうだし」

「別に嫌いじゃねぇよ。クソウゼェけど」

 伊織はベッドに下右足を掛けて上体を曲げると、りんねに顔を寄せてきた。抵抗力が落ちているせいで肌は荒れ、顔にもいくつか炎症が起きているので、りんねは居たたまれなくなって顔を逸らそうとする。が、伊織はりんねの顎に爪を添え、それを妨げてきた。

「綺麗だ」

 伊織はりんねの額に自身の額に当たる部分を合わせ、触角の尖端でりんねの髪を浅く梳いた。

「嘘だよ」

 りんねは伊織の首に腕を回し、抱き寄せる。体に籠もった微熱が、彼の冷たい体に吸い取られる。

「……我慢出来なかった」

 伊織は顎を開いて細長い舌を伸ばし、りんねの乾いた唇を舐める。

「本当は、退院する日まで待とうと思った。けど、俺の時間も、りんねの時間も、そう長くはねぇ」

「うん」

「今日、十六歳の誕生日だろ?」

「うん」

「俺は今年で二十一になるはずだ」

「うん」

「だから、出来るんだよ」

「じゃ、御誕生日のプレゼントが欲しい。プロポーズしてほしいなぁ」

「あぁっ!?」

 途端に伊織は飛び起き、後退り、ぎちぎちと顎を鳴らした。りんねも起き上がり、メガネを掛ける。

「嫌なの?」

「今更言うことなんてあるかよ。俺と、……お前の間に」

「ない。でも、言ってくれなきゃ困る。伊織君の奥さんになれない」

 りんねがむくれると、伊織は爪先で黒い外骨格を引っ掻いていたが、腹部を萎ませた。ため息を吐いたのだ。

「んじゃ、何がいい。善処してみるからよ」

「そうだなぁ……。普通なのがいいな」

「どういう意味での普通だよ」

 伊織は胸郭の中で何かをぼやきながらも、りんねのベッドの傍に戻ってきた。りんねは痩せてしまった腕に繋がっている点滴のチューブを引っ掛けないように気を付けながら、ベッドの傍で腰を下ろして目線を合わせている伊織と向かい合った。サイドチェストから櫛を取り出し、髪を出来る限り整えてから、伊織の黒い複眼を見つめた。

 病室の窓の外からは、ぱらぱらと軽い雨音が聞こえてくる。梅雨ももうすぐ終わりを迎え、また暑い夏が訪れる。その夏を越えられるかどうか、まだ解らない。だからこそ、日々を精一杯生きるのだと、後悔しないように務めるのだと二人は互いに誓い合っていた。

 伊織はりんねの細く青白い手を取り、顎を寄せる。ざらついた外骨格が脆弱な肌に触れてきたので、りんねは彼の顎に指を添え、左手の薬指だけを伸ばした。指輪を用意している時間も余裕もなかった、と言いながら、伊織はりんねの左手の薬指をほんの少しだけ噛んだ。彼がその気になれば、一息に噛み千切れる。いっそ、噛み千切ってもらいたいと思いながら、りんねは鋭い痛みに感じ入った。顎を開いた伊織は、真新しい赤痣が指の付け根に付いた少女の左手を複眼の間に当てる。

「結婚しやがれ。俺と」

「はい」

 伊織の触角の付け根に指を添えながら、りんねは頷いた。

「伊織君の、お嫁さんにして下さい」

 それから、二人は婚姻届の空欄を埋めていった。夫になる人、藤原伊織。妻になる人、吉岡りんね。結婚後の名字をどうするか、ということで小一時間論議した。どっちでもいい、と互いに言い張るので一向に話が進まなくなったが、それもまた楽しかった。狭いベッドの中で体を寄せ合って火照りと冷たさを交換し合いながら、ありもしない新婚生活を語った。行けるはずもない新婚旅行の話もした。出来るはずもない子供の名前も考えた。夫婦らしいことを、思い付く限り口にした。

 雨は、止まなかった。

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