シュールに説法
一ヶ谷市の駅前広場の片隅に、石碑が建っていた。
N型溶解症の犠牲者を悼む、慰霊碑だった。その除幕式が行われたのはつい先日で、N型溶解症を蔓延させたということにされている弐天逸流と長らく関わっていた寺坂善太郎も、来賓として呼ばれていた。慰霊碑を建てること自体は悪いことではないし、サイボーグとなって長らえたはずなのに脳が溶けてしまった犠牲者達の魂がこれで少しは浮かばれればいい、と思ってはいるのだが、式典というものにはどうにも性に合わない。
だから、当日になってすっぽかしてしまったのである。バックレた、とも言う。一ヶ谷市長や市議達、慰霊碑を設営するために奮闘していた関係者一同に対しては顔を合わせづらかったというのも、バックレた理由の一つである。住職という職業と、弐天逸流の悪行が表沙汰になる前から独力で信者達を解放しようとしていたせいで、遺産を巡る争いとは関わりのない人々からは寺坂はやたらと高評価を受けている。だが、その実体がどうしようもない生臭坊主であることは本人が一番理解しているので、周囲からの評価との温度差に耐えられないのだ。
「今度、線香でも上げてやるかな」
法衣を着ていては目立ってしまうので、寺坂はパーカーのフードを被り、色褪せたジーンズを履いていた。一ヶ谷駅前は閑散としていて出入りする人間もタクシーもまばらではあるが、どこで誰が見ているのかは解らない。それでなくても、N型溶解症に関する特ダネを仕入れるために報道関係者がうろついているので、迂闊に正体を知られたら後が面倒だ。以前、取材された際に周囲の評価に釣り合うように外面を良くしてしまったので、そのキャラを貫く必要があるからだ。だが、それが本当に煩わしい。良い子ぶるのは、昔から苦手なのだ。
「お買い物、済みましたよーう」
軽い足取りで駆け寄ってきたのは、デニムジャケットにホットパンツ姿の道子だった。もちろん、いつもの女性型アンドロイドボディを使っているのだが、その日の気分によってウィッグを付け替えたり、化粧を変えたりするので、普段とは大分印象が違う。日頃は大人しげな黒髪のセミロングヘアだが、今日は派手に決めたい気分だったのか、きついパーマの掛かった茶髪のロングヘアだった。髪型に合わせた化粧は濃く、太いアイラインが目元を縁取り、アイシャドーも強めだった。人工外皮に適応した材料で作られた化粧品は種類が乏しく、色も少ないが、道子は日々化粧を研究しているのか、その時々によって印象が大分変わっている。努力の賜である。
「おう」
寺坂が踵を返すと、道子は食料品の詰まったエコバッグを広げてみせる。
「こんなもんでどうでしょうかね、シュユさんへの貢ぎ物。丁度、駅前のスーパーが特売だったもので、予算の範囲内で結構な量を買うことが出来ましたよ」
「加工しなくても出せるのばっかりなら、いいんじゃねぇの?」
その中身を覗き、寺坂がやる気なく返すと、道子はむっとした。
「これでも頑張っているんですからね? いつか必ずおいしい御料理を作ってみせます!」
「どこぞの神様同士が手に手を取ってスキップして信者同士もキャッキャウフフ、な世界になる方がまーだ可能性があるってもんだ。努力だけは認めるよ、努力だけはな」
「むぅ」
道子は唇を尖らせながら顔を背けたが、横目に寺坂を窺ってきた。
「それで、さっきは何をしていたんですか?」
「べっつにぃ」
「あの慰霊碑に、私も祀られているんでしょうかね?」
「一応、みっちゃんもN型溶解症で死んだーっていう死亡診断書を作ってもらったしなぁ。んで、それで死亡届を出して受理されたんだし。だから、そうなんじゃねーの?」
「じゃねーの、ってまた随分と適当ですねー」
「だって、俺、三〇〇万と二万人分の経なんて上げられねぇしさぁ」
「それが出来るのは、本物の神様か仏様ぐらいですしね」
「そうそう。だから、俺達は偽物の神様の御機嫌取りをするっきゃねぇんだよ」
寺坂は無意識にタバコを吸おうとポケットに手を入れたが、サイボーグ化してからは止めざるを得なかったので、何も入っていなかった。電子タバコは忘れてしまった。手持ち無沙汰になった右手を遊ばせながら、寺坂は一ヶ谷駅の地下駐車場に向かった。その片隅に止めてある、愛車の濃緑のアストンマーチン・DB7・ヴァンテージヴォランテに近付き、遠隔操作でキーロックを解除した。道子は後部座席に食料品を置いてから、助手席に乗り込んだ。寺坂は運転席に乗り込んでイグニッションキーを差し、エンジンを暖機してから発進した。
この車は、一度は手放したものだった。弐天逸流から脱退したがっていたが、上位の信者に何度も引き戻されていた信者を解放してやるため、手切れ金代わりに弐天逸流に押し付けたのだ。その甲斐あって、その信者は一度は弐天逸流から縁が切れたものの、寺坂の影が失せると再び上位の信者達に擦り寄られて洗脳し直された。あの時ほど、自分の無力さを思い知った日はない。それと同時に、金と物がいかに儚いかを痛感させられた。弐天逸流の信者達が欲しがっていたのは、金でも不老不死でもない、心の拠り所だったからだ。
それは、寺坂も例外ではない。
車を小一時間走らせた後、いくつもの検問を通り抜け、船島集落跡地に至った。
政府と内閣調査室と公安とその他諸々から、シュユと接触して交流を図ると同時に異次元宇宙の情報を引き出せと命じられているので、顔パスも同然なのだが、そこは行政なのでいちいち手順を踏まなければならない。なので、寺坂と道子は検問を一つ通るごとに手間と時間を食ってしまったが、時間も暇も有り余っているのと、ネット環境がそれぞれのボディに備わっているので、退屈を凌ぎながら検問をやり過ごした。
そして、半日近く時間を駆けて到着したのが、シュユが住まうプレハブ小屋だった。工事現場の片隅に設置されているのとなんら変わりない、トタンの壁に筋交いが填った平たい屋根の箱が据えられていた。異星人を持て成すための住まいにしては貧相すぎると思わないでもなかったが、政府がシュユに関して余計な予算を割きたくないのも解らないでもない。船島集落跡地の片付けだけでも、何億円も掛かってしまうのだから。
「おーす」
寺坂がノックもせずにドアを開けると、薄暗く湿っぽい空間の中、異形の神が正座していた。
「やあ。そろそろ来る頃かなぁと思っていたんだよ」
「こんにちはー」
続いて道子が入ると、黄色の布を斜め掛けに巻き付けているシュユは、二人に向き直る。
「それで、今日はどんなものを持ってきてくれたの?」
「ええとですね」
道子は部屋の隅にあるテーブルにエコバッグを置き、中身を広げ始めた。六個入りのバターロール、コンソメ味のポテトチップス、生のセロリが一袋、半分に切られたキャベツ、大袋入り製菓用チョコレート、マーガリン、そして最後にカレーパンと缶コーヒー。本当に特売の商品だけを買ってきたらしく、取り留めがなかった。
「あ、これがいいな」
ちょっと嬉しそうに言ったシュユが真っ先の触手を伸ばしたのは、マーガリンだった。
「せめてパンに付けて喰えよ」
寺坂がげんなりすると、シュユはべりべりと箱を開けながら訝しんできた。
「あれ、そういうものなの? だって、人間の食べ物って、脂肪分が多ければ多いほどおいしいって評価される傾向にあるじゃないか。だから、植物性脂肪の塊であるコレは、一番おいしいものなんだなぁって判断したんだけど」
「それは間違いじゃありませんけど、正解でもありません」
はいどうぞ、と道子がバターロールを一つ差し出すと、マーガリンの蓋を開けてアルミフィルムを剥がしたシュユは、バターロールに分厚くマーガリンを擦り付けてから、凹凸のない顔の下方に横長のスリットを空けた。その中にマーガリンを大量に付けたパンをねじ込んだシュユは、口を波打たせて咀嚼の真似事をする。
「これって結構塩辛いんだね。うん、でも、悪くないな」
「バターロールがなくなったら、キャベツとセロリにでも付けて食べて下さいね」
「うん、解った。マーガリンって潤滑油みたいなものだね、ぬるぬるするよ。でも、そのおかげで頸部中央の穴から消化器官に滑り落ちるのが早いから、食べるのが楽だな」
シュユは細長い触手を伸ばしてバターロールの袋を引き寄せると、一つ取り出して、マーガリンを山盛りに付けてから口に運んだ。シュユの背中に生えた青く発光する光輪、生体アンテナがほんのりと光を増したのは、経口摂取した栄養源をエネルギーに変換しているからだ。食事の経験を重ねるうち、シュユはアバターである肉体に受けた刺激を元にして肉体を改造しているようだった。摂取、消化、吸収と来れば次はもちろん排泄なのだが、今のところは排泄している様子はない。だが、それも時間の問題かもしれない。
「それで、今日はどういう用件?」
バターロールを食べ終えたので、キャベツの葉を毟ってマーガリンを擦り付けながら、シュユが問うてきた。
「しょーもねぇことだよ」
寺坂はセカンドバッグから折り畳んだ書類を取り出し、シュユの顔の前に広げてみせた。
「ええと……小難しい語彙とややこしい言い回しではあるけど、要するに、死後の世界があるかどうかを教えてくれってことだね。でも、どうしてそんなものがあるのかどうか気になるのかな。肉体に依存した意識が物質宇宙に存在している以上は、異次元宇宙はおろか多次元宇宙に複数存在している精神世界と呼ぶべき意識の集合体と接触することすら出来ないんだから、知覚しても無意味なんだ。知覚出来たとしても、物質宇宙の生命体が認識出来るわけがないし、認識出来たとしても理解出来ないよ。万が一理解出来たとしても、理解した瞬間に発狂してしまうのが解り切っている。そもそも、なんでそんなものを知ろうとするんだろうね? それが一番不可解だな」
シュユは触手で書類を受け取ると、キャベツの葉をもさもさと咀嚼しながら不思議がった。
「救われたいんだろうさ、生きている連中が」
寺坂はプレハブ小屋の隅に積み重ねられていたパイプ椅子を二つ出し、シュユの前に広げた。ほれみっちゃん、と寺坂が手招きすると、道子はおずおずとパイプ椅子に腰掛けたが、途端にパイプが鋭く軋んだ。寺坂が座ってみるが、パイプは軋まなかった。サイボーグとアンドロイドでは内蔵されている部品が根本的に違うので、体重も大幅に違っている。だから、外見は二十歳前後の女性である道子よりも、成人男子の平均を少し上回る体格の寺坂の方が体重が軽いのである。道子はちょっと拗ね、パイプ椅子に座らずに姿勢を戻した。
「それはどうして?」
シュユは道子の様子は気にもならないのか、また一枚、キャベツの葉を毟ってマーガリンを擦り付けた。
「負い目があるんだろ。人間もどきだった連中にも、サイボーグ化したけど死んじまった連中にも。だから、そいつらが異次元宇宙で良い暮らしをしているかどうかを知りたいんだ。だが、そんなのは生きている連中の主観であって、死んでいった連中の主観じゃねぇ。救われているかどうかなんて、一人一人に聞いてみねぇと解らねぇし。あれだ、風呂の温度と一緒だ。俺はちょっと熱いのが好きだったが、みっちゃんは水みたいに温いのが好きだった。けど、他の連中はそうじゃない。その中間ぐらいが好きって奴もいるだろうし、俺よりも熱い風呂が良いって奴だっているだろうし、みっちゃんよりも温いのじゃないと気が済まないって奴もいるさ。だから、死後の世界で死んだ連中が幸せになっているかどうかなんて、誰にも解らねぇ。死んだことで報われた奴もいるだろうし、救われた奴も、許された奴もいるかもしれない。だから、ナンセンスにも程がある」
「そう思うのなら、どうして僕に話を聞きに来たんだい?」
「金がもらえるからだよ。俺とみっちゃんがシュユと話して、情報を引き出せても引き出せなくても、一定額の報奨金が出るっていう決まりになってんだよ。みっちゃんはそうでもねぇけど、俺はサイボーグになっちまったせいで、体の管理維持費が馬鹿にならねぇんだ。人工体液だって、N型溶解症のせいで国内の工場が全部閉鎖されているから生産もストップしちまって、いちいち輸入物を買わなきゃならねぇんだ。だが、それがまた馬鹿高くてよぉー。足元を見られすぎて、パンチラどころかパンモロだぜ。だから、金が要るんだよ」
寺坂がへらっと笑うと、道子は渋い顔をする。
「スポーツカーを二束三文で売り払っちゃうからですよ。墓地の設営にお金が必要だって解っているのに、どうしてあんなに安く売っちゃうんですか。年代物の車もあったんですから、やろうと思えばもっと稼げましたよ?」
「そりゃ俺の勝手だろうが」
「経済観念ってものを、もうちょっとしっかり持って下さいよ。長光さんというスポンサーがなくなったんですから、今後は締めるところをきっちり締めていかないと」
道子に咎められるが、寺坂はだらしなく上体を反らす。
「キャバクラもソープもとんと御無沙汰だし、デリヘルだって呼びようがねぇから呼んでねぇじゃんかー」
「そんなものは微々たる出費です。もっと締めるべきところがいくらでもあります!」
と、道子が寺坂の浪費癖について力説しようとすると、ばりぼりとセロリを囓っていたシュユが訝った。
「あれ、そんな話をしに来たんだっけ?」
「死んだら金なんて持っていけねぇし、三途の川の渡し賃だって安いもんじゃねぇかよぉー。それに、俺は一生結婚なんてしねぇし、ガキなんか作れねぇし、下手に残したって余計な面倒事が増えるだけじゃねぇか。長光のクソ爺ィがやらかしたことを散々見てきたんだ、それぐらい学習してんだよ。俺は死後の世界にも興味はねぇが、俺の未来にもとんと興味がねぇよ。サイボーグの脳が生きる年数は長くて五十年、短くて十年だって医者が言っていたしな。だから、俺は何も残しはしねぇよ。墓だっていらねぇぐらいだ」
寺坂は足を大きく広げ、ふんぞり返る。その様に、道子は呆れ返った。
「全くもう……」
「まあ、それも道理だね。それに、よっちゃんの場合、業が深すぎて今更功徳を積んだところで意味もないだろうし。あ、これをこうするとおいしいのかな?」
そう言いつつ、シュユは分厚い縦長の製菓用チョコレートを取り出し、マーガリンをたっぷりと塗り付けた。胃袋を当の昔に失った二人ではあったが、シュユが油分と砂糖の固まりを興味深げに摂取する様を見ていると、胸焼けがしそうになった。製菓用チョコレートを呆気なく平らげたシュユは、ポテトチップスを開け、一枚ずつ食べた。
「つか、なんでナチュラルによっちゃん呼ばわりなんだよ。みっちゃんは普通なのにさ」
寺坂に文句を言われ、シュユは小気味良い音を立てながらポテトチップスを囓った。
「その方がいいかなぁって思って。個体識別名称を砕けさせて呼称するのは、関係が密接である証拠らしいから、それに基づいた呼称を使ってみたんだ。よっちゃんは、ほんの一時ではあったけど僕達に近付いていた。精神体の触手を乖離出来るほどになっていたしね。だから、やりようによっては、よっちゃんは僕達と同じものになれたかもしれないんだ。クテイでも僕でもなく、よっちゃんを切っ掛けにして、地球人類がニルヴァーニアンと同列の上位次元に移行出来たかもしれない。それを考慮すると、あながち他人とも言い切れないからね」
「そんなもん、クソ喰らえだ」
寺坂が毒突くと、そう言うだろうと思ったけどね、一応言ってみただけさ、とシュユは肩らしき部分を縮めた。たとえ神になろうが仏になろうが何になろうが、寺坂は寺坂なのだから。鋭角なサングラスの下から道子を見やると、道子は文句を言うかと思いきや、黙り込んでいた。誰かに似ているようでいて誰にも似ていない、顔面の平均値を算出して形成された人工外皮を被った顔に表情はなく、能面のようだ。道子は感情を表情に変換するソフトを強制終了させて表情を殺したのだろうと察した。それだけ、寺坂の言動で道子の心中が波立った証拠だ。
だが、寺坂はそれに気付かなかったことにした。
ふと思い立って、自室の整理を始めた。
浄法寺の住居部分の二階の一室は、かつては寺坂の部屋として割り当てられていたが、今となっては本が山積みになっていて本の倉庫と化している。部屋の四方に本棚を据えてあるが、いずれの棚も隙間なく本が詰まっているので、これ以上入れる余地がないのだ。かといって、本棚を増やせば床が抜けてしまいかねないので、現在は本を増やしたら、この部屋の真下の部屋に運ぶようにしている。そうしておけば、万が一床が抜けてしまったとしても被害は最小限で済むだろう、という希望的観測によるものである。
父親の蔵書が大半だが、寺坂が買い込んだ本も増えたために、こんな量になってしまった。学のなさを補うためには読書が一番手っ取り早い、と判断したからだ。だが、父親の蔵書も、寺坂が買い込んだ本も、全部読めた試しはない。一時期浄法寺に住み着いていた伊織は、退屈凌ぎに読破してしまったようだが。
「えーと、押し入れはーっと」
最後に増やした本棚をふすまの前に据えてしまったので、押し入れが開閉出来なくなっている。寺坂は押し入れが隠れている壁に向き直ると、本棚の中身を出し始めた。現在の寺坂のボディは土木作業用や戦闘用ではないので、中身がみっちりと詰まった本棚を動かしてはオーバーヒートしてしまう。或いは、関節が壊れてしまう。そうなれば、また無駄な出費になってしまうので、生身の頃以上に慎重になっていた。
触手があれば一気に出せたんだろうなー、と考えつつ、寺坂は本棚から本を抜いては床に積み重ねていき、全ての段を空にした。だが、今度は本棚を動かすスペースがなくなってしまったので、本の山を廊下に移動した。それを終えて本棚を動かせるほどの空間を確保してから本棚を持ち上げると、積年の埃が降り注いできた。生身であれば盛大に咳き込んでいただろうが、今は気管支もなければデリケートな粘膜もないので、吸い込んだ埃がフィルターに吸着されるだけで済んだ。そして、ようやく押し入れのふすまが現れた。
「いよ、っと」
寺坂は力を込め、ふすまを開けた。滑りの悪くなった敷居の上を強引に滑らせると、十数年分の湿気が溜まった空気が重たく流れ出してきた。皮膚感覚はないので湿気の具合までは感知出来なかったが、吸排気フィルターのセンサーがカビの粒子を検出したと騒いでいるので、この分だと中身はひどく黴びているのだろう。
最初に出てきたのは、高校時代の私物だった。袖を通した記憶がほとんどない制服は、クリーニングのカバーが掛けられたままだった。学校指定のネクタイとカッターシャツも同様で、スラックスに至っては硬いプリーツがほとんど取れていない。制服の下には学校指定の通学カバンと、買ったはいいがただの一度も使った覚えのない教科書が残っていた。寺坂はそれらを引き摺り出してから、通学カバンをひっくり返した。
「おーおー、ガラクタばっかりだ」
湿気たタバコにガスの抜けきったライター、十数年前の漫画雑誌、携帯電話、小銭、同級生から巻き上げたものと思しき携帯ゲーム機、その他、下らないものばかりだった。寺坂は通学カバンの底で折れ曲がっていた生徒手帳を広げてみると、湿気を吸った紙が貼り付いていて、べりべりと音を立てながら剥がれた。
生徒手帳の間から出てきたのは、盗んだバイクに跨って中指を立てている少年の写真だった。警察に補導されるのは、この写真を撮った二日後だったと記憶している。それまでも何度か補導されていたのだが、その時はバイクの窃盗だけではなく、バイクを盗む際に持ち主に傷を負わせてしまったので、とうとう逮捕されてしまった。バイクは大事に扱っていたのでほぼ無傷だったことと、持ち主が厳罰を下さないでくれと言ったらしく、寺坂は刑罰がかなり軽く済んだ。おかげで呆気なく自由の身となったが、それが尚更寺坂を増長させてしまい、それからも寺坂は子供の頭で思い付く限りの犯罪を繰り返していた。違法薬物の売買と強盗と強姦だけはやらなかった。というより、田舎故に物理的に出来なかったのである。その手の怪しげな薬を売る人間なんて一ヶ谷市周辺に出入りしていないし、強盗しようにも店が少なすぎたし、強姦しようにも若い女性の絶対数が少なすぎたからだ。それが良かったのか、悪かったのか、未だに判断を付けかねる。
寺坂の蛮行に溜まりかねた父親によって仏門に叩き込まれたのは、再び窃盗と傷害で逮捕された後だった。少年刑務所から出てくると、父親の運転する車に押し込められ、山奥の寺院まで運搬されたのだ。何がなんだか解らないうちに剃髪され、私物を取り上げられ、作務衣を着せられ、修行させられた。だが、それでも寺坂善太郎の根性だけは修正出来なかった。即物的で暴力的で貪欲で、理性のない獣そのものだったからだ。
「あー、くそぉ」
高校時代の私物を投げ打ってから、寺坂は更に押し入れを掘り返した。続いて出てきたのは、中学時代の名残だった。袖と襟元が擦り切れるほど着込んだ学ランは、上下とも関節の部分がてかっていた。ネームの刺繍が胸元に入ったジャージも同様で、洗濯しすぎたせいで色褪せている。だが、通学カバンの中に残っていた教科書とノートは綺麗なもので、授業に出ていたかどうかも怪しいほどだった。
一度も開いたことのない卒業アルバムも出てきたので、それを広げてみた。まだ幼い顔付きの、地味な制服姿の少年少女達が整列して記念写真に収まっている。寺坂もその中に紛れていたが、その当時から突っ張っていたので一人だけ制服を着崩していて、髪も妙な色に染めていた。他人を威嚇したくてたまらないのか、カメラのレンズを全力で睨み付けている。十五歳のくせに、何を粋がっているのだ。そう思うと、我ながら笑えてくる。
この頃は寺坂もまだ少しはまともだった。突っ張りすぎていてクラスメイトとの折り合いは悪かったが、斜に構えているのが格好良いと思っている数人の男子が連んでくれたので、寂しくはなかった。成績はひどいものだったが、運動はそれなりに出来たので、クラスの中での身の置き場を作れていた。扱いづらいが悪いやつじゃない、という位置付けに収まり、寺坂なりに上手く立ち回っていた。その、はずだったのだが。
転機が訪れたのは修学旅行だった。同系統の男子と同じグループになり、道中でぎゃあぎゃあと騒ぐたびに担任の教師やクラス委員に咎められたが、旅行という非日常の空気で上がったテンションは落ち着かず、寺坂と男子達は一向に大人しくならなかった。それでも、越えてはいけないラインは弁えていたつもりだったが、同じグループの男子生徒が宿泊先の旅館から姿を消した。当然ながら大騒ぎになり、同じグループだったので、寺坂も男子生徒の行方を捜したのだが、なかなか見つからなかった。それから数時間後に男子生徒は帰ってきたのだが、同じ旅館に泊まっている別の中学校の教師に腕を引っ張られていた。何事かと担任教師が問い質すと、別の中学校の生徒の荷物から携帯ゲーム機を奪おうとしていたところを見つけ、掴まえたのだと、相手の教師は報告した。それは本当なのかと担任教師が男子生徒に問い質すと、寺坂の名を挙げ、盗んでこいと命令された、と言った。
寺坂がそんなことを男子生徒に命じる理由もなければ、そんなことを言った覚えもなかったが、誰一人として弁解する機会も釈明する余地も与えてくれなかった。そうこうしているうちに、寺坂は修学旅行のグループから隔離されて常に教師に監視されながら、楽しくもなんともない四日間を過ごした。
それ以降、寺坂の中学生活は暗転した。仲良くしていた男子達は寺坂を爪弾きにするようになり、窃盗犯である男子生徒はやたらと同情されるようになり、学年問わず女子生徒は逃げ出していった。そこで、なんとかして事実を信じてもらえるように尽力すれば事態は変わったのだろうが、寺坂はそうは思わなかった。何もしていないのに悪事をしたことにされるのであれば、いっそのこと突き抜けてしまおう、と。
そして、寺坂は堕ち始めた。手始めに寺坂にありもしない罪を被せた男子生徒を追い詰め、教師や他の生徒から目の届かない場所で散々虐げた。なんであんなことをしたんだ、と問い詰めると、男子生徒は地べたに蹲ってか細く泣きながら、本当はゲーム機なんて盗む気なんてなかった、女子の下着を取りに行ったんだ、と白状した。更に、本懐を達していたことも。泥と砂に汚れた頬を引きつらせ、笑顔とも言い難い奇妙な表情を浮かべる男子生徒が気色悪くなって、寺坂は逃げ出した。彼が転校していったのは、その数日後だった。
寺坂を陥れた男子生徒の名前は、思い出せそうで思い出せない。寺坂自身が、彼の存在そのものを思い出したくないからだろう。その一方で、男子生徒の言動に影響されて寺坂の根幹がねじ曲がってしまった。堪え性がないのは幼い頃から変わらなかったが、欲望に忠実になっていいんだ、自分が気持ち良ければなんだっていいんだ、という最悪の開き直り方を覚えてしまった。その結果、寺坂は欲しいものを求め続け、泥沼に沈んでいった。
「あー、くっそー……」
血液に変わる人工体液の循環速度は一定なので脳の内圧は変わらないはずなのに、頭痛を覚え、寺坂は本の群れの中に倒れ込んだ。寺坂の背中に薙ぎ払われた本が散らばり、ページが歪んだ。押し入れの奥を見やると、小学校時代の私物も隠れていた。バラバラに分解された学習机や使い古されたランドセル、無条件に両親を慕っていた頃に描いた図画工作の絵や、幼少期のアルバムもぐちゃぐちゃに押し込められていた。
思い出せば思い出すほど、自分が嫌になる。過去には、踏み止まるべき場所が何度もあった。その時、即物的な欲望に流されなければ、我に返っていれば、それなりにまともな世界に引き返せた。だが、まともになることがひどく格好悪く思えてしまい、結局は悪い方へと流れていった。その結果が、これだ。
「だから、何も残しちゃいけねぇんだよ」
壁掛け時計が秒を刻む、規則正しい音を聴覚センサーで感じ取りながら、寺坂は板張りの天井を仰いだ。自分が生き続けたとしても、何の利益にもならないことは寺坂自身が充分理解している。今でこそ、弐天逸流の後片付けとシュユとの交流係として重宝されているが、それは寺坂でなくとも出来ることだ。
それに、残したら残した分だけ彼女が苦しんでしまう。寺坂は上体を起こし、埃まみれのトレーナーを払ってから、子供の頃の残滓を掻き集めた。何度も庭と部屋を往復して、制服や教科書や卒業アルバムといったものを庭先に積み重ね、学習机の部品も一つ残らず運び出した。山積みになった過去の遺物に、寺坂はおもむろにガソリンをたっぷりと掛けた。近付きすぎては人工外皮まで焼けてしまうので、離れた位置に立ってマッチを擦り、過去の遺物の山に放り投げた。マッチが触れた瞬間に炎が走り、黒煙が噴き上がった。
燃え尽きるまでに、それほど時間は掛からなかった。
灰の山に水を掛けていると、道子が帰ってきた。
寺坂は、煙の代わりに水蒸気が出る電子タバコを銜えて口寂しさを誤魔化しながら、ホースのノズルを操作して水を止めた。浄法寺のある集落に腰を据えて暮らすようになってから、道子の趣味は少しずつ変わり始めていた。それまでは生身の頃のオタク趣味を引き摺り気味だったのだが、気持ちに余裕が出てきたからか、浄法寺の庭を率先して手入れするようになっていた。たまに植木屋を呼んで伸び放題の枝を切らせる程度だった庭木や花壇に、道子は手を加え始め、その甲斐あってか日を追うごとに綺麗になっていった。墓石に供えるための菊の花も穫れるようになり、この分では敷地内を耕して畑を作るのもそう遠くないだろう。
「ガソリンを使いましたね? ガレージに置いてある缶の位置が変わっていたのでもしやと思ったんですが、ゴミを燃やしたんですね。だとしても、次からはガソリンなんか使わずに普通に燃やして下さい。いくら周りに人家がないとはいえ、延焼したらどうするんですか!」
いつもの地味な黒髪セミロングに戻っている道子は、目を据わらせてきた。
「庭の真ん中だし、火の番はしていたし、火は全部消えたから問題ねぇよ」
寺坂は散水用のノズルが付いたホースを引き摺っていき、蛇口の下にあるドラムを回して巻き取り始めた。
「で、何してきたんだ?」
「いえ、これといって大したことじゃありませんよ。伊織君と一緒に山道を歩き回って、野草が生えていそうな場所を捜してきたんです。前の住人が放棄していった畑も見てきました。伊織君は押し花というか、押し草を作るのが近頃の楽しみなんだそうで、その草花を見つけた場所と日付を明記しておくんだそうです。で、その押し草を大量の本の間に挟んで平べったくしてラミネート加工しておくんだそうですよ」
枯れ葉が付いたジャージを払い、泥汚れの付いた長靴を水で洗い流し、道子は報告した。
「なんでだと思います?」
「いおりんがナチュラリストに傾倒しているからだろ?」
「まあ、それもそうではあるんですが、伊織君の痕跡を一つでも多く残しておくためなんだそうです」
道子は野草の種子が付着した軍手を外し、一粒一粒、種子を剥がしていった。
「伊織君は成虫ですからね。あまり長生き出来ないって、自分で解っているんですよ。アソウギを使った怪人は通常の生物とは生体構造は若干異なりますけど、原型から逸脱出来てはいないんです。人間とその生物の括りからも脱せませんし、増して、自然の摂理に逆らえるものではありませんからね。成虫になった段階で、虫は細胞分裂が止まってしまいます。生殖して遺伝子を残すことに特化した姿だからです。ですが、伊織君には生殖機能は形だけしかありませんし、あったとしても繁殖する相手がいません。だから、十年も持たないでしょうね。ですけど、りんねちゃんは人間です。色々ありましたけど、今はごく普通のお年頃の女の子です。余程のことがない限り、何十年も長らえるでしょうね。伊織君がいなくなってからも、りんねちゃんの時間は続いていくんです。二人が過ごした時間が幸せであればあるほど、残されたりんねちゃんが寂しがるのは解り切っています。だから、少しでも慰めになればいい、って伊織君は言っていました。本当に……本当に、お好きなんですねぇ」
道子は背中を丸め、俯く。
「私だって似たようなものですよ。電脳体だの何だのと言っても、現状の人類の科学力では解明のしようがない事象なんですよ、幽霊なんですよ、陽炎なんですよ。だから」
ゆっくりと首を曲げた道子は、垂れ下がった髪の隙間から、寺坂を窺ってきた。
「私の方こそ、いつ消えるか解らないんですよ。寺坂さんが死ぬよりも早く、地球上のネットワークでは私の電脳体の情報を処理しきれなくなってエラーを起こしてしまうか、致命的なバグが発生してしまうか、私という概念そのものが消えてしまうのかは解りませんけど、そんなに遠い話じゃないと思います。今だって、寺坂さんが接しているのは私じゃなくて、私のバックアップの一つかもしれませんし、私の記憶を部分的に引き継いだだけのデータの一部かもしれませんし、ネットワーク上に構築された疑似人格なのかもしれません。私が私だって言う確証はどこにもないし、あったとしても、それは何の意味も持ちませんよ。だって、私は当の昔に死んでいるんですから」
「なーにを言い出すかと思ったら、そんなことかよ」
寺坂ははぐらかそうとするが、道子は顔を上げようとはしなかった。
「どうして、燃やしちゃったんですか?」
「俺が何を燃やそうと俺の勝手だろうが。大体、この家にあるものはほとんどが俺のものだ」
つか、何を燃やしたのか解るかよ、と寺坂が半笑いになると、道子は庭の隅にある植木に指差した。その枝に、中途半端に燃えて舞い上がった紙片が引っ掛かっていた。校名と校章が入った、卒業アルバムの切れ端だった。それを見れば、道子でなくとも大体の見当は付く。寺坂がどう誤魔化そうかと考えあぐねていると、道子はシリコン製の唇を噛み締めた。その仕草は、生身だった頃と変わらなかった。
「……そうですか」
ちょっとは残しておいてほしかったんですけどね、と呟いてから、道子は重い足取りで玄関に向かっていった。その背を見送ってから、寺坂は禿頭を押さえた。つまり、道子は寺坂を知りたいのだろう。どういった経緯を経て現在に至ったかを知るためには、当人の過去の遺物を見ることが手っ取り早いからだ。だが、それらはガソリンとマッチで綺麗さっぱり燃え尽きてしまった。けれど、見たいと言われても、見せられるようなものではない。
何も残さないと決めた。そうすることで、寺坂に囚われ続けている道子を解放してやれるのだと信じているからだ。道子は死んだかもしれないが、死んだからこそ自由になるべきだ。美野里のように、見苦しく執着し続けては道子が哀れだからだ。だから、道子に何をどう思われようとも受け流すのが一番だ。
そう、思ってはいるのだが。
夢を見る。
あの、真夏の昼下がりを何度となく繰り返す。浄法寺で暮らすようになってから見違えるほど明るくなった道子は、その日も浮かれていた。外を出歩くことだけでも嬉しいのか、終始笑顔だった。白く灼けたアスファルトに白線が一定間隔で並んでいて、その先では歩行者用信号の赤が灯っている。息苦しささえ覚えるほどの暑さと、目の前の少女の後ろ姿が今でも脳に焼き付いている。鮮やかな黄色のTシャツの襟元から垣間見える細い首筋と、寺坂を窺ってくる仕草がいじらしい。信号が変わらないでくれ、と願うが、三十七秒後、信号は青に変わる。
道路を挟んで向かい側にある書店に向けて、道子は駆け出していく。寺坂は数歩遅れ、道子の後に続いていく。もう少し急いでくれ、とかつての自分を急かすが、寺坂の足取りは緩いままだった。道子はそんな寺坂を急かそうと振り返り、弾けるような笑顔を見せたが、次の瞬間には轟音を立てて鉄の怪物が突っ込んでくる。フロントガラスにべしゃりと生温い飛沫が広がり、ただの肉塊と化した道子が路面に散乱する。
大型トラックの運転席に座っている、人工的な顔付きの男が寺坂を一瞥する。その表情の毒々しさは、何年経とうと忘れられるものではない。悪意という悪意を凝縮したかのような、正しく鬼の形相だったからだ。男は道路の路肩に転がっていった道子の頭部を拾い上げると、黒いビニール袋に入れ、トラックの運転席に戻っていった。その間、寺坂は何も出来なかった。立ち上がることも、触手を解き放つことも、男を叩きのめすことも、何一つ出来ずにただただその場に座り込んでいた。道子の血の臭いが鼻の奥にこびり付き、胃が裏返りそうになる。
「な、んでだよ」
どうして、こんな目に遭わなければならない。道子が一体何をした。
「なんで、だよぉ」
どうして自分は何も出来ない。偉そうなことを言っておきながら、体が動かなかった。
「なんで、いつも、俺ってやつぁ」
這いずりながら道子の残骸に近付き、寺坂は道子の頭部を失った肉体を起き上がらせた。それだけの動作で、潰れた内臓や折れた骨が零れ出し、それでなくとも小柄だった道子の体が萎んでいった。法衣がじっとりと濡れて肌に貼り付き、暑気とは異なる温もりが寺坂の胸元から太股を舐めていく。
「よっちゃんは、みっちゃんが好きだったの?」
視界の隅に、スカートと思しき紺色が掠める。寺坂は道子の残骸を抱き締めながら、呻く。
「好きとか、嫌いとか、そういうんじゃねぇ」
設楽道子は、寺坂にとって妹も同然だった。姉のようでもあった。時として母にもなった。寺坂善太郎という欲望という欲望を滾らせている男を頼ってきたことだけでも奇特なのに、道子は寺坂を見限ろうとはしなかった。馬鹿なことをすれば呆れるし、怒りもするが、愛想を尽かしたりはしなかった。それどころか、寺坂を思い遣ってくれていた。なんて馬鹿な娘だろうか。こんな屑の中の屑に尽くしたところで、報われるわけがないのに。
「だから、触れなかったの?」
スカートが翻り、白く眩しい素足が日差しを撥ねる。
「……ああ、そうだよ、悪いか。触ったら、俺、何するか解らねぇだろ」
尊いものほど触れがたいものだと、思い知ったからだ。道子が来てからというもの、寺坂はそれなりに人間らしい生活が出来るようになった。朝早く起きて一緒に食事を摂って、午前中は掃除に洗濯をして、昼にはテレビを横目にどうでもいいことを語らって、午後には勉強や読書をして過ごし、夜もまた食卓を共にする。たったそれだけのことではあったが、真っ当に過ごしているだけで、寺坂の内に凝っていた淀みが洗い流されていくような気がした。
だから、道子には何も出来なかった。水商売の女達と同じように扱ってしまえば、道子もまた彼女達と同じものになってしまうし、下手に手を出しては全てが台無しになる。それを考えるだけで怖くなってしまったから、最後の最後まで好意を示せなかった。親戚同士のような、友人同士のような、曖昧な関係で終わらせた。
「だけど、みのりんには言い寄ったよね?」
長い髪が垂れ下がり、声の主の面差しは翳った。
「欲しかったんだ、あの女が。どうしても俺のものにならないと解っていたから、余計にな」
おかげで、随分と遠回りをしてしまった。寺坂は道子の皮膚が剥けて骨が露出した両手を持ち上げて、腹の上でそっと組ませてやったが、根本から折れている指が外れそうになった。
「馬鹿だよね、よっちゃんは。切りの良いところで諦めればよかったのに」
「ああ、馬鹿なんだよ。本当に」
寺坂は道子の体を抱きかかえてアスファルトに座り込むと、華奢な肩に腕を回した。
「だから、俺はみっちゃんに何もしちゃいけないし、出来ないんだ。だってそうだろう、ここまでずっと不幸続きだったんだ。まともに生きようとした傍から殺されて、オモチャにされて、挙げ句の果てに人間じゃないものになったんだ。そうなっちまうと、どんなにありがたい経を上げたって無駄なんだ。俺なんかじゃ、どうすることも出来ねぇ」
「どうしてそう思うの?」
「俺と関わって、幸せになった奴なんていないだろ。それが何よりの証拠だ」
「それを決めるのはよっちゃんじゃないよ」
「だとしても、みっちゃんは俺なんかに縛られるべきじゃないんだ。やっと自由になったんだ、もっと広い世界を知るべきなんだ。せっかくの上玉だ、俺の懐なんかで腐らせるのは勿体なさ過ぎるだろ」
「でも、食べられもせずに腐り落ちちゃう方が、余程勿体ないと思うけどな」
ローファーの硬い足音が移動し、寺坂の目の前に立った。視界が翳り、小柄な人影が逆光を帯びる。
「ねえ、よっちゃん?」
そう言って人影が首を傾げると、生前の設楽道子に酷似した顔が日差しを受けた。一瞬、寺坂はぎくりとしたが、すぐにそれが道子ではないと悟る。記憶が確かならば、これは、もしや。
「……桑原れんげ、なのか」
「たぶん、そういうことになるね。よっちゃんがそう思うのなら」
「その割には、口調が変だな。シュユみてぇだ」
「アマラが異次元宇宙に持ち去られたから、必然的に演算装置の高いものに情報処理を頼らざるを得なくなったんだよ。だから、シュユの演算能力を少し借りて桑原れんげを再構築したんだけど、変かな?」
「凶悪にな」
「そう、だったら改善に努めるよ。次があれば、だけど」
アマラの作り上げた疑似人格であり、道子の分身であり亡霊でもあった桑原れんげは、寺坂を見据える。
「よっちゃん。君が望もうと望むまいと、君という個体が生存活動を行っていた証拠は物質宇宙の時間軸に刻まれていくものなんだよ。時間とは連続し、連鎖し、連結していくものだから、たとえ過去の遺物を全部燃やそうとも、君の存在自体を否定することは事実上不可能なんだ。概念でも改変すれば別だけど、そういう力任せな裏技を使うのはお勧めしないね。二度も三度も同じことをしちゃうと、物質宇宙の物理的法則が崩れちゃうし」
「てぇことはなんだ、一度は概念改変したってことか?」
「それを明言する理由もなければ、証拠もないよ。あくまでも仮定の話だよ」
桑原れんげは寺坂に一歩近付き、顔を寄せてくる。思わず、寺坂は腰を引く。
「なんだよ、近ぇな」
「君達の感情変動によって生じたエネルギーは波となり、摩擦となり、異次元宇宙に広がっていく。その際に生じるエネルギーのお零れに与って、みっちゃんは物質宇宙の存在でありながらも異次元宇宙に依存している生命体、電脳体となった。だけど、それは前ほど強固じゃない。それもそのはず、アマラというアンテナでありルーターである演算装置が、物質宇宙に存在していないんだからね。だから、みっちゃん自身から生じた感情変動の波が異次元宇宙に僅かばかり働きかけるだけで精一杯なんだ。といっても、それでも電脳体の生命維持には充分すぎるほどのエネルギーが生み出せるんだけどね。だけど、みっちゃんが心を殺せば、その波も消える。波が失せれば分子同士の摩擦も失われてエネルギーも生じなくなり、みっちゃんが個を保つことが難しくなる。有り体に言えば、死を迎えてしまうんだよ。電脳体は肉体を持たないだけで、れっきとした生き物だからね」
「そんなに大事なのか?」
寺坂が面食らうと、シュユは数本の触手で長い黒髪を払った。
「あくまでも仮定の話ではあるけど、可能性がある限り、そうならないとも言い切れないね」
「みっちゃんは、いずれ消えるのか?」
「命あるものは、いつか必ず消える運命にあるよ。桑原れんげは概念だから消えようがないけど、いずれ、異次元宇宙とニルヴァーニアンを含めた知的生命体の意識から桑原れんげが失われたら、死と呼べる状態を迎えるのは確実だね。これもまた、仮定の話に過ぎないけど」
「俺はいつ死ぬ」
「んー……。よっちゃんの脳細胞の新陳代謝の頻度から、生命活動限界を迎える期日を算出出来ないこともないけど、それを教えるつもりはないよ。知ったところで、何もどうすることも出来ない。生き物は常に移り変わる。何かを残せる方が珍しいんだ。ありとあらゆる種族は劣った遺伝子の個体が淘汰されていった末に、今の姿を得ているんだからね。だから、生きていいんだよ。よっちゃんも、みっちゃんも、もちろん他の皆もだけど、生き残った時点でその権利を得ているのだから」
「人の恋愛事情を焚き付けるにしては、随分回りくどい言い方だな。恋愛なんてものは自然の摂理であって、外野がごちゃごちゃ説教するようなもんじゃねぇだろ」
「見るに見かねたんだよ。今も昔も、桑原れんげを支えているのはみっちゃんだから、元気でいてほしいんだ」
「こんなこと、他の連中にやるんじゃねぇぞ。物理的にぶっ殺されるから」
「ああ、それは大丈夫だよ。桑原れんげがよっちゃんの深層意識に入れたのは、みっちゃんがよっちゃんに対して心を開ききっているからさ。他の皆にはそうもいかないよ。なんだったら、桑原れんげがみっちゃんの深層意識に侵入して、よっちゃんの気持ちをインプットしてあげてもいいんだけど」
「全力で断る」
「あ、そう?じゃ、またね」
桑原れんげは身を引くと、手をひらひらと振りながら遠ざかっていった。寺坂は情報の亡霊を睨み付けていたが、嘆息した。つまり、不毛な恋も行き場のない愛も自然の摂理の一部だと言いたかったのだろう。開き直れるかどうかはまだ解らないが、そう言われると、少しだけ気持ちの整理が付いた。
腕の中の少女は依然として肉塊のままで、大型トラックの赤黒いタイヤ痕が鮮烈な日差しに焦がされ、蛋白質の傷んだ生臭みが熱気に入り混じっていた。道子を守れなかったことの後悔は、これからもずっと引き摺るのだろう。助けられなかった悔しさや、守れなかった情けなさや、最後の最後まで好きだというのを躊躇ってしまった弱さなども含めて、寺坂の脆弱な魂を戒めてくる。だが、それでいいのだろう。
その痛みを認めてこそ、始まるのだから。
何の予定もない日に、ツーリングに出掛けた。
サイボーグとアンドロイドの体重は見た目よりも遙かに重いため、さすがのドゥカティと言えども後輪が押し潰れてしまった。タイヤの溝が擦り切れてしまわないか、パンクしないだろうかと冷や冷やしつつ、寺坂はハンドルを握ってバイザー越しに前を見据えていた。山間の道を抜けて海岸沿いの道路に入ると、目の前に日本海が現れた。その瞬間、寺坂の腰に腕を回している道子が歓声を上げた。初秋の柔らかな日差しを受け、波が輝いていた。
海水浴シーズンからは外れたので、砂浜沿いの駐車場に駐まっている車の数はまばらだった。寺坂は駐車場の片隅にバイクを止めてスタンドを立てると、道子は後部から降り、フルフェイスのヘルメットを外した。
「わざわざバイクにしなくてもいいじゃないですか。タイヤがダメになっちゃいますよ」
「バイクじゃねぇと意味がねぇんだよ。にしても、200馬力は伊達じゃねぇなー。俺達ぐらいのウェイトがなかったら、カーブを曲がった拍子にガードレールの向こう側に吹っ飛んでいたかもな」
寺坂もフルフェイスのヘルメットを外すと、シートの下のトランクに入れた。道子はヘルメットをバイクのハンドルに引っ掛けてから、ヘルメットの下で潰れてしまったウィッグを解し、髪型を整えた。形状記憶繊維なので、人間の髪ほど手間が掛からないのだ。道子は寺坂と揃いのレーシングスーツを見回し、渋面を作る。
「しかもなんですか、レーシングスーツまで買っちゃって。まーた無駄な出費を。外に連れ出してくれたことには感謝しますけどね、大いに。機械の体になろうとも、遠くに出掛けるのは気分がいいですからね」
「ドゥカティに乗るんだ、適当な服だと様にならねぇだろ」
「そりゃまあ、そうですけど」
「ほれ」
寺坂がおもむろに手を差し出すと、道子は訝ってきた。
「なんですか、この手。ガソリン代なら、後で払いますけど」
「色気のねぇことを言うなよ」
寺坂はグローブを外してからポケットにねじ込むと、道子の手を取った。途端に道子は身動ぎ、目一杯腰を引いて後退ろうとしたが、寺坂の腕力には勝てずにその場に踏み止まった。人工眼球の焦点が泳ぎ、綺麗に切り揃えられた前髪の下で瞼が瞬いた。どちらも本物の手ではないが、意識が宿っているのだから、偽物ではない。
「なあ、みっちゃん」
道子の手を引いて引き寄せたが、腕を回す勇気が出ず、寺坂は彼女の肩口に額を置いた。
「悪い、上手く言えねぇや」
己の情けなさに、寺坂は半笑いになる。こうやって二人きりになったはいいが、いざ改まると思うように言葉が出てこなくなる。軽口ならいくらでも言えるのだが、面と向かって本音をぶつけるのは少し怖い。単純明快な恋心とはまた別物の優しい感情を示すのは、なんだか気恥ずかしかったからだ。
「この前は、変なことを言ってすいませんでした。余所は余所で、うちはうちではあるんですけど、たまーに隣の芝が真っ青どころか百花繚乱に見えちゃうんですよ。だから、困らせちゃいましたよね。でも、もういいんです。寺坂さんの過去がろくでもないってことは、犯罪歴なり何なりで知っていますし、大体の想像も付きますから。というわけで、考え方を変えることにしたんです」
道子は寺坂を励ますように、丸まった背をぽんぽんと叩いてきた。
「幽霊なら幽霊らしく、寺坂さんに取り憑いて祟ってやりますよ」
「坊主と幽霊か、そりゃいいな」
寺坂が思わず笑うと、道子は寺坂を押し返してから胸を張る。
「なので、これからは夜遊びなんてさせませんからね! 万が一、事に励んでいる最中に故障でも起こしちゃったら一大事ですし、そうなったら余計な出費が嵩んじゃうからです!」
「この前から気になってんだけど、なんでみっちゃんは家計に厳しいんだよ」
「家計の範囲でお小遣いを捻出したいんです」
「そりゃまたどうして」
「どうしてって、そんなの」
道子は口籠もったが、寺坂の視線に耐えかねて白状した。
「こんな体ではありますけど、ちょっとはお洒落したいんです。そうしていれば、その、まあ、なんと言いますか、少しは意識してくれるんじゃないかなぁという希望的観測に基づいた行動でありまして」
「何を今更」
「あっ、馬鹿にしましたね!? 私のファッションセンスが備わっていないことは当の昔に自覚していますけど!」
「そんなもん、とっくの昔に」
意識してるさ、と声を潜めて付け加えて、寺坂は道子の頬から顎に掛けて手を滑らせた。道子は唇を噛み締めて目を伏せ、両手を握り締めた。生身であれば、赤面していただろう。が、場の雰囲気に流されるのは道子の意地が許さなかったらしく、寺坂を再度押し戻してから大股に砂浜に向かっていった。この分では、道子を籠絡するまでにはもう一手間掛かりそうだ。だが、それならそれで今後の楽しみが増えるというものだ。
漂流物が打ち上げられている砂浜を、ライダースブーツを履いた足で道子は駆けていく。遠目に見ているだけでは、生身の人間と遜色がないほど体重移動も滑らかで動作は自然だった。アンドロイドの機体性能が高いことはもちろんだが、道子が動作プログラムを細々と微調整しているからだ。波打ち際で足を止めた道子は、強い潮風に乱された前髪を掻き上げる。少女の青臭さが抜けた、成熟しきった女の甘みが含まれた手付きだった。
「私も、寺坂さんに言いたいことが数え切れないほどあったんですけどね」
生身の頃と変わらない笑顔を浮かべ、道子は水平線を背にする。
「でも、いざとなったら言えなくなっちゃいました。言うだけ野暮ってことかもしれません」
「ああ、そうだなぁ」
寺坂は道子の足跡を辿りながら、波打ち際へと向かっていった。寄せては返す波は一時も途切れることはなく、砂を濡らしては後退し、白く泡立ちながら再び迫ってくる。それは、時間にも似ている。どれほど否定しようとも過去が消え去らないように、逃れようとしても、消そうとしても、積み重ねた時間は変えられない。
道子を死なせた事実は消えない。美野里を追い込み、狂わせる一因を担った事実も消えない。寺坂が若い頃に繰り返した蛮行も、一乗寺が両親を殺す現場を見逃したことも、何もかもが寺坂を構成している要素だ。それらを全て知った上で、道子は寺坂に好意を抱いてくれている。寺坂もまた、死して尚も好かずにはいられなかった道子を愛している。どちらも正気の沙汰とは言い難いが、真っ当に生きられなかった者同士の末路なのだから、これでいいのだろう。二度と、他人に迷惑を掛けなければいいのだから。
「だから、交換日記でも始めましょうか。文章だと、言いたいことがまとまりそうなので」
道子の唐突な提案に、寺坂は心底驚いて声を裏返した。
「へあっ!?」
「メールだと味気ないですし、いくらでも捏造出来ちゃいますけど、肉筆ならそうもいかないですからね! それに、上手くすれば、シュユさん絡みの公文書として未来永劫保存されちゃいます。そうなれば、寺坂さんに燃やされずに済みます! どうです、いい考えでしょう!」
「毎日顔合わせてんのに、何書くんだよ! つか、なんでそういう発想が出てくるんだよ!」
「書くことは色々ありますよー。同じ空間に暮らしているからといって、二十四時間一緒ってわけじゃないですし。で、昔から交換日記にちょっと憧れていたんですよ。少女漫画も好きなので。付き合ってくれますよねーん?」
「あー、そうかい……」
目を輝かせている道子に、寺坂は気圧されてしまった。肉筆での交換日記なんて、前時代的どころか旧石器時代の交流方法ではないか。しかも、それを公文書にされてしまうなんて、考えただけで寒気がする。作文どころか手紙を書くのも苦手なので、まともな文章が書けるはずがないからだ。
「色んなこと、話しましょう。あの日の続き、始めましょうよ」
ね、と道子に笑いかけられ、寺坂は腕を伸ばした。あの日、あの時、あの瞬間、そうすべきだったことを無意識に行動に移していた。頭一つ背の低い体を抱き寄せ、背を曲げ、腕の中に収める。出血に伴って体温が著しく低下した道子の残骸よりも暖かく、柔らかかった。それは紛い物ではあったが、それこそが今の道子なのだ。
ああ、と短く返すだけで精一杯だった。寺坂は道子を抱き締めたまま膝を折り、声を出さず、涙も出さずに嗚咽を繰り返した。道子の手が寺坂の背に回され、抱き返してくれた。愛と呼ぶには生易しく、憎悪と呼ぶには柔らかいが、恋と呼ぶには汚い感情の嵐が心中を掻き乱した。
なんで俺なんかを、と途切れ途切れに問うと、なんで私にしたんですか、と問い返された。けれど、どちらも明確な答えを返せずに笑い合っただけだった。かつては触手が生えていた右手で彼女に触れ、ぎこちなく手を繋いで砂浜を延々と歩いた。二人分の足跡が残ったが、遠からず潮風に掻き消されるだろう。それは自分達の生き様なのだと改めて感じ入ったが、振り返りはせずに、バッテリーの続く限り歩き続けた。
あの日の続きは、今、始まった。




