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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
番外編

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郷に入ればグッドに従え

 これはお見合いではない。身売りだ。

 峰岸ひばりは身を強張らせながら、座布団の上で正座していた。目の前に置かれている湯飲みには、香りの良い玉露が注がれていたが、当の昔に湯気は途絶えていた。御茶請けとして添えられている菊の形をした和三盆にも手を伸ばせず、膝の上で両手をきつく握り締めて緊張と戦っていた。

 とにかく愛想良くして、相手に気に入られるようにしよう。嫌われさえしなければ、生きていけるはずだ。乾き切った喉に粘り気の強い唾を嚥下し、詰まりがちな呼吸を整えようとした。見るからに値の張るブランドものの淡いピンクのワンピースの可愛らしさも、生まれて初めて美容院でセットしてもらった髪型も、化粧も、気にしていられる余裕がなかった。怖い、逃げ出したい、けれどどこに逃げればいい。もう、帰る当てもないのだから。

 ひばりは、高校からの下校途中に父親に車に押し込められ、そのまま美容院に連れ込まれて制服を脱がされて着飾らされ、都内の高級料亭に連れてこられた。訳も解らずに目を丸めているひばりに、父親はいつになく嬉しそうに言った。お前が佐々木さんの息子さんにもらわれれば、うちの会社の借金がチャラになるんだ。要するに、ひばりは借金のカタに売り飛ばされるということだ。佐々木長光という人間が、父親の経営する会社と関わりを持っているとは知っていたが、会社の借金を肩代わりできるほどの大富豪だとは思ってもみなかった。そして、資金提供の代償として息子の嫁を要求するような、常軌を逸した感覚の持ち主だとは想像もしていなかった。

 ひばりはリップグロスを塗られた唇を噛み締めていると、重苦しい時間が過ぎ去り、約束の時間が訪れた。程なくして、ひばりのいる個室に二人分の足音が近付いてきた。一人は料亭の仲居で、個室の前で膝を付くと、失礼いたしますと断ってからふすまを開けた。丁寧に頭を垂れている仲居の背後には、スーツ姿の男が立っていた。年頃は二十代後半から三十代といったところか。表情が乏しく、顔の作りは均等で良くも悪くも特徴がなかった。それでは御料理をお持ちいたします、と仲居が去っていくと、男は個室に入ってきて後ろ手にふすまを閉めた。

「峰岸ひばりさんか」

 男の水気の薄い唇から発せられたのは、平坦で抑揚のない声だった。ひばりは躊躇いながらも答える。

「はい、そうです」

 愛想良くしろ、笑え、気に入られるんだ。ひばりは懸命に笑顔を作ろうとするが、肉体がそれを拒否しているのか、まるで表情筋が動かなかった。唇すらも持ち上げられず、怒らせている肩も下げられない。

「俺は佐々木長孝だ」

 向かい側の座布団に腰を下ろした男は、義務的に名乗った。

「あ、う」

 何か喋らなければ。気を惹かなければ。好いてもらわなければ。そうでなければ、路頭に迷う。しかし、この男が信用出来るのだろうか。実質的な人身売買を平気で行えるような男の息子だ。信用してはいけない。逃げなければならない。だが、どこで何をどうする。逃げたところで、逃げる前と何も変わらないのではないのか。

 峰岸ひばりは、いわゆる妾の子である。手当たり次第に女性に手を出しては子供を産ませている父親の何人目かも解らない愛人の子であり、御義理で峰岸家に引き取られて育てられていた。異母兄妹が溢れ返っている家で使用人も同然に扱われ、子供らしい経験をせずに生きてきた。高校は自力で学費を稼いで通っていたが、見合いをセッティングされた時点で中退させられているだろう。制服だって既に処分されているに違いない。自宅と呼ぶのは未だに抵抗がある峰岸家には、元々ひばりの居場所がない。父親のお気に入りの愛人の子ではないから、自室も与えられなかったほどだからだ。だから、逃げたとしても、行く当てがない。ならば。

「どうかお嫁さんにして下さい!」

 ひばりは思い切り頭を下げ、座卓の木目を凝視しながら捲し立てた。

「してくれなければ困るんです! ここに来たからには、私が何のためにいるのかも御存知のはずです! だから、お願いします! でないと、困るんです!」

「顔を上げてくれ」

「困るんです! 本当に! お願いします、お嫁さんにして下さい!」

「顔を、上げてくれ」

 男はやや語気を強め、命じてきた。ひばりは唇を引き締めてから、おずおずと顔を上げた。

「……はい」

「まずは食べてから話そう。料理が冷めてしまう」

 男が廊下に面したふすまに向くと、丁度、仲居が戻ってきた頃合いだった。朱塗りの盆に載せられた懐石料理が次々と二人の前に並べられていき、汁物、鉢物、焼き物、煮物、と皿で座卓が埋め尽くされた。お酒を御用意いたしますか、と仲居に尋ねられたが、男はそれを丁重に断った。酒飲みではないらしい。

 それから、二人は懐石料理に箸を付けた。緊張のあまりに忘れかけていたが空腹だったので、ひばりは料理を平らげて腹が膨れてくると、少しずつ気分が落ち着いてきた。そのうち、上品な味付けや見栄えのいい盛り付け方にも気を向けられるようになった。まろやかな茶碗蒸しを味わっていると、男が話し掛けてきた。

「落ち着いたか」

「はい」

 ひばりは粗方食べ終えた茶碗蒸しに蓋を被せ、冷め切った玉露に口を付けた。男も箸を置き、話を切り出す。

「俺がどういった経緯でこの場に来たのかは、ひばりさんがよく解っているはずだ。それでなくとも、俺達は初対面だ。俺がどういう輩かも知らないのだから、すぐに結婚してくれと懇願するのは……」

「私、愛人の子なんですよ」

 ひばりは湯飲みを座卓に置き、膝に目を落とす。どうせ後はない、と洗いざらい薄情する。

「だから、家に身の置き場なんてないんです。どうでもいい存在だから、こういうことに使われるんです。佐々木さんにまで追い返されたら、路頭に迷っちゃうんです。高校だって、きっと中退させられたはずです。さっきまで着ていた制服も、この服に着替えさせられた後に捨てられたと思います。手持ちの服なんて少なかったから、大事に大事に着ていたんですけどね。お金だってありません。学費を払った後は生活費にされちゃいますから、どれだけバイトをしても自分のものにならないんです。家政婦みたいなものでしたから、家事は一通り出来ます。御料理はちょっと自信があります。だからお願いします、お嫁さんにして下さい。でないと」

「顔を」

 男は平坦ながらも穏やかな声色で、ひばりを促してきた。だが、ひばりはそれに抗う。

「お嫁さんにして下さい」

「だが、俺は」

「お嫁さんにして下さい」

「しかし」

「お嫁さんにして下さい」

 同じ言葉を繰り返しながら、ひばりはワンピースの裾を破らんばかりに握り締めていた。手のひらから滲んだ脂汗が染み込んでいくのが解ったが、手の力を緩められなかった。空気が鉛のように重たく、苦い。鼻の奥が涙でつんと痛み、食べたばかりのものが喉まで迫り上がってきそうだった。嫌で嫌でたまらないが、それ以外の選択肢がないからだ。借金のカタが突き返されてしまったら、ひばりは価値を失ってしまう。他の愛人の子供ばかりを可愛がっていた父親から生まれて初めて関心を向けてもらえたから、報いてやりたいという気持ちもあった。

 長い長い間を置いて、解った、と男は了承してくれた。ひばりはぎこちなく顔を上げると、男と目が合った。作り物のように生気のない目ではあったが、真っ直ぐだった。その視線を見返しながら、ひばりは決意を据えた。

 佐々木長孝と結婚したのは、それから三日後だった。



 佐々木長孝の住まうアパートへの引っ越しは、呆気なかった。

 それもそのはず、ひばりの荷物が少なかったからだ。峰岸家に置いてあった着替えと私物を詰め込んだ段ボール箱は三箱足らずで、引っ越し業者を呼ぶまでのこともなかった。案の定、高校の制服と通学カバンに入れておいた教科書や勉強道具は捨てられていたので、余計に軽かった。それとは相反して、ひばりの心中は重たかった。

 勢いに任せて言い切ったはいいが、やはり不安は拭えない。結婚とは、そんなに呆気ないものでいいのだろうか。生まれ育った環境が環境なだけに、結婚や恋愛に関する甘ったるい幻想は抱いていなかったが、それでも多少は理想を持っていた。ひばりの出自を気にせずに向き合ってくれる異性と出会い、互いを解り合うために恋愛を経た後に家庭を作れたらいい、と心の片隅でひっそりと願っていた。だが、現実はそうもいかなかった。ひばりに好意を抱いてくれる異性と出会う自由すらも奪われ、金と引き替えに差し出された。

 それでいい、そうしなければ生き延びられない、と腹を括ったはずなのに、不安が押し寄せてきた。しかし、最早引き返せない。そうこうしているうちに、峰岸家の前で段ボール箱と共に突っ立っていたひばりの前に、佐々木長孝が運転する車がやってきた。どこぞのホームセンターで借りてきたらしい軽トラックで、色気など欠片もなかったが、移動するための交通費を省けるのならば良しとすべきだ。長孝の手を借りて段ボール箱を後部に積み込んでから、ひばりは助手席に乗った。それから小一時間のドライブを行ったが、道中で会話は弾まなかった。

 そして、長孝のアパートに無事到着した。年代物の二階建てのアパートで、今時珍しいトタン屋根だった。家賃も見るからに安そうで、長孝さんらしい住まいだなぁ、とひばりは内心で納得していた。長孝の部屋は二階の角部屋で、ひばりが段ボール箱を抱えて入ると、中は雑然としていた。家具も少なければ私物も少なかったが、使った物を元の場所に戻すという習慣がないのか、ゴミは落ちていないが散らかっている。掃除も行き届いておらず、空気は埃っぽかった。間取りは、四畳半の和室と六畳間の和室、風呂、トイレ、台所、玄関、それだけだ。必要最低限、という言葉がひたすらに似合う空間だった。

「これを」

 ひばりの荷物を部屋の隅に置いてから、長孝は座卓に紙を広げた。婚姻届だった。

「ひばりさんの親御さんから、同意の署名に記入済みのものを渡されていた。だから、後は俺達が書くだけでいい」

「はい」

 ひばりは長孝が渡してくれたボールペンを用い、項目に記入していった。以前住んでいた住所の住民票は事前にもらっておいたので、後で段ボール箱から出してくるだけでいい。捺印欄に実印を押してから、長孝にボールペンと共に婚姻届を渡すと、長孝は躊躇いなく記入していき、捺印した。後は、これを役所に提出するだけで済む。

 義務的、事務的、合理的。そんな単語がひばりの頭の中で過ぎったが、口には出さなかった。それから、二人で役所に向かい、窓口に提出した。結婚式を挙げることもなければ誰かに祝われることもない、単純な契約だった。見知らぬ町の商店街を通って帰路を辿りながら、ひばりは長孝との距離を測っていた。手を繋いだこともなければ触れ合ったこともない男と、結婚してしまったのだ。峰岸ひばりから佐々木ひばりになったのに、実感はなかった。長孝も似たようなものなのか、冷淡に思えるほど平然としていた。

「ひばりさん」

 不意に長孝に呼び止められたので、ひばりは足を止めた。長孝が指し示したのは、商店街の一角にある宝石店だった。それはつまり、どういうことなのだ。ひばりが呆気に取られていると、長孝はひばりを促したので、ひばりは戸惑いつつも宝石店に足を踏み入れた。煌びやかなアクセサリー類がショーケースに陳列されている空間はとても華やかで、眩しすぎた。気後れしたひばりが身を縮めていると、長孝は一つのショーケースを指した。

 そこには、結婚指輪が飾られていた。高価なプラチナから安価な純銀製のものまで、デザインも値段も様々ではあったが、紛れもない結婚指輪だった。ひばりがそっと長孝を窺うと、長孝はひばりを見下ろしてきた。

「どれがいい」

「どれ、って」

「結婚指輪だが」

「それは見れば解るけど、でも、そんなの、全然」

「形式的なものではあるが、婚姻関係を明確にするには必要だと判断した」

「な、でも、なんで」

 ひばりが身動ぐと、年の差がありすぎるからだ、と長孝は素っ気なく付け加えた。確かに、それはそうだ。婚姻届に記載された生年月日を見て、ひばりは初めて長孝の年齢を知ったのだが、ひばりよりも十歳も年上だった。長孝もやはり婚姻届を見てひばりの年齢を初めて知ったらしく、十八歳だったのか、と衝撃を受けていたようだった。だから、傍目に見れば兄妹、ともすれば親子のように見えてしまう。ひばりはそんなことを気にする余裕もなかったのだが、長孝は気が咎めるらしく、結婚指輪を選んでくれ、と再度乞うてきた。

「やっぱり、安い方がいいですよね?」

「なるべくは」

「ん、じゃあ……」

 ひばりは結婚指輪の入っているショーケースを眺め、吟味した。プラチナ製では二人分の合計金額が一〇万を軽く越えてしまうので論外、二十四金製も同様、十八金製もまだ高い。だから、最も安価な純銀製にすべきだ。デザインが一番気に入ったのは十八金製で、メビウスリングのように捻れているのが素敵だと思ったのだが、我が侭を言うべきではない。買ってもらう立場なのだから。

「これでいいです」

 ひばりが純銀製の指輪を指すと、長孝は問い返してきた。

「本当にか」

「だって、これが一番安いじゃないですか」

「気に入ったのはどれだ」

「いいですよ、そんなの」

「長く使うものなんだ、気に入ったものの方がいい。それで、どれだ」

「強いて挙げるなら、こっちの方です」

 ひばりが十八金製の指輪を指すと、長孝は値札を眺めた後に店員を呼んだ。程なくして、長孝は十八金製の結婚指輪を購入した。二人の左手の薬指のサイズを測ってもらってから、サイズ直しと結婚記念日の日付を入れるために一週間ほど掛かりますので、またお越し下さい、と店員に丁重に送り出された。結婚指輪の代金は長孝がその場で全て支払ってくれたのだが、指輪本体と諸々で合計八万円弱の出資になった。ひばりは居たたまれなくなったが、長孝は何も言わなかった。冷淡に思えるほど、無感情だった。

 結婚指輪、自分の指輪、自分のもの。ひばりは戸惑いを上回る嬉しさで、足元が落ち着かなかった。宝飾品など一生無縁だと思っていたし、結婚指輪となると尚更だった。その嬉しさが引き金となったのか次第に結婚した実感が沸き上がり、不安もいくらか薄らいでいた。長孝がひばりの意思を酌んでくれる人間だと知ったからだ。

「ありがとうございます、えっと、その……長孝さん」

 ひばりは少し口籠もりながら礼を述べると、長孝は口角を曲げた。

「ああ」

「お嫁さんになれるよう、頑張ります」

 ひばりは長孝に一礼してから、歩調を速めた。そうでもしないと、長孝とは並んで歩けないからだ。長孝は複雑な面持ちで眉間を寄せたが、咎めてこなかった。だから、了承したと判断していいだろう。結婚指輪が填る日を心待ちにしながら、ひばりは長孝と歩調を合わせるために駆けた。この人となら、家族になれるかもしれない。

 自分の人生は真っ暗闇で、生臭くて、ゴミ溜めのようなものだとずっと思っていた。血縁関係だけでなく人間関係もぐちゃぐちゃの峰岸家から逃れられず、縛られ続け、外の世界へ羽ばたけないのだと諦観していた。だから、長孝との結婚は好機だと見るべきだ。今は形式上の夫婦でしかないが、互いを解り合えるようになれば、どこにでもいるような当たり前の夫婦になれるかもしれない。そう考えれば、まだ気が楽になる。

 一欠片であろうとも、希望を抱くだけ無駄ではないはずだ。



 その日から、新婚生活が始まった。

 長孝と同居したひばりは、妻として働き始めた。子供が増えた分だけ増改築を繰り返したために部屋数が多い峰岸家とは打って変わって、長孝の部屋は空間が限られているので、掃除するのは簡単だった。埃が溜まっている部分は多かったが、タバコのヤニや油汚れはほとんどなかったので水拭きだけで済んだ。カーテンも洗い、布団も干し、使用頻度が低いのでそれほど汚れていない台所を隅々まで綺麗にしていくのは単純に楽しかった。押し入れだけは手を付けないでくれ、と強く言われたので、ふすまも開けなかった。

 ひばりさんの私物を買い揃えるべきだ、と長孝が金を渡してくれたので、それを元手に布団やタオルや下着類を買い込んでいった。どれもこれも暖色系のファンシーなものだったので、機械工学の技術書や設計図が散乱している長孝の部屋では浮いてしまったが、長孝はそれもまた咎めなかった。諦観していたのかもしれない。

 空っぽだった冷蔵庫には、ひばりが近所の店で買い込んでくる食材が詰まるようになった。毎日のように新聞の折り込み広告をチェックしてはスーパーマーケットをハシゴし、二人分の食費に収まるように計算しながら、買い物行脚した。毎朝の弁当を作るのも、買い出しに行くのも、それなりに面白かった。

 辛くはなかった。家事をするのは慣れ切っているし、峰岸家に比べれば遙かに量も少ないので楽だった。どんな料理を作っても文句を言われないし、好きな時間に好きなように掃除することが出来るし、夜には風呂にゆっくりと浸かれるのだから。長孝は、辛くはないか、と案じてくれたがひばりは辛いと感じたことは一切なかった。高校に通えなくなったのは寂しいが、友達もいなかったのだから惜しむほどのことではないのだと開き直れるようになった。それなのに、昼間に一人でいると切なくなった。

「なんか、なぁ……」

 掃除機を掛け終えて水拭きも終えた畳に寝転がり、ひばりは古びた天井を見つめた。ここのところ、長孝の帰りが遅いから、そんなふうに思ってしまうのだろうか。機械部品を製造する会社に勤めている長孝は、部品を納品する時期によって勤務時間が伸び縮みすることがある、と言っていた。今は伸びてしまう時期らしく、残業ばかりで夕食を一緒に食べられない日も何度もあった。長孝を好きになったのかどうかは解らないが、傍にいてほしいと思う瞬間は多々ある。その瞬間が積み重なっていくと、喉が締め付けられる。

「結婚してから、もう一ヶ月かぁ」

 左手を天井に翳し、薬指で光る結婚指輪を見上げた。長いようで短かったが、その間、長孝とひばりは夫婦らしいことを一度もしていない。手を繋いだこともないのだから、抱き合ったこともなければキスをしたこともない。だから、夜を共にすることは有り得なかった。十歳も年下だから、子供扱いされているのかもしれない。けれど、ひばりから率先して触れ合いたいとは言えなかった。長孝のあの性格では、甘えても突っぱねられてしまうだろう。

 あの人はそういう人なんだ。そう思った瞬間、喉の締め付けが強くなった。ひばりは息が詰まり、呼吸を取り戻そうとするも、思うように喉が開かなかった。起き上がって喉元を押さえて、慎重に深呼吸を繰り返していると、なんとか喉の異物感が抜けてくれた。それでも、まだ苦しい。峰岸家で暮らしていた時は頻繁に見舞われていた症状だが、長孝と結婚してからは出なくなっていたので油断していた。口に手を当てて吐き気を堪えながら、ひばりは汚してもいい場所である風呂場を選んだ。外が明るいと余計に苦しくなるので、明かりも付けずに、洗い終えてある浴槽に入り込んだ。長孝が帰ってくるまでには、まだ時間がある。だから、気分が落ち着くまでこうしていよう。

 それからしばらくして、鍵が開けられる音が耳に届いた、暗がりの中、目を閉じて膝を抱えていたひばりは眠り込みかけていたので反応が遅れた。ドアが開く音がしても、隣の部屋の住人だろう、と思っていた。蝶番の潤滑油が切れかけているからか、悲鳴のような摩擦音が響いた後、一人分の足音が入ってきた。そこでようやく、ひばりは長孝が帰ってきたのだと悟った。程なくして浴室のカーテンが開けられ、逆光が差し込んできた。

「……ぁ」

 そこには、人間にあるまじき影絵が立っていた。頭部と胴体は人間に近しいのだが、両手足が変だった。細長いものが生えていて、無数に枝分かれしている。そればかりか、一本一本波打っている。背中からは内側にカーブを描いた突起物が一対生えていて、青い光を淡く放っていた。これは一体誰だ、いや、何だ。

「長孝さん……?」

 息苦しさと薄暗さの中、ひばりは徐々に理解した。これが佐々木長孝なのだと。事情は解らないが、彼は人間ではなかった。どういう生き物であるのかも察しは付かなかったが、現代社会で生き延びるために人間に紛れて暮らしていたのだ。そんな異形の生き物が、何の価値もない人間と結婚したのは世間体のためか。それとも、父親である佐々木長光のためか。或いは、より人間らしい箔を付けるためか。これまでの長孝の平坦な態度が脳裏を過ぎり、ひばりは落ち着いたはずの空しさが蘇ってきた。この人にとって、自分とは一体何なのだ。

「私と暮らしていて、楽しいですか」

 ひばりは長孝と思しき影を正視して、心中を吐露した。楽しいのは自分だけなのか、嬉しいのは自分だけなのか。そんな結婚生活でいいのか。幸せになれる、だなんて思い上がったことは考えたことはない。それでも、ひばりなりに新しい生活を満たそうとしてきた。空元気でも、楽しいと思い込んでいれば楽しくなるのだと信じていた。

 けれど、そんなものは全て嘘だと自分が一番よく解っている。ひばりは笑顔も作れず、長孝と思しき影を見つめるだけで精一杯だった。ねちり、と小さく異音を立てて細長いものが動く。青い光を薄く放つ突起物の光を受けながら、ひばりは息を詰めた。脱衣所に脱ぎ捨てられた長孝の作業着から、機械油と金属粉の混じり合った匂いがした。

 空しすぎて、苦しかった。

「俺が人間でないと知っても、そう思えるのか」

 いつもの平坦な声色を発し、長孝と思しき影は問い掛けてきた。

「君がそう思うということは、君の主観ではこの生活を楽しいと思っているからだ。俺に対してその感覚に同調してほしいと内心で願っているから、そのような主観的な表現になる。だが、それは俺が人間であるという無条件の前提に基づいた感覚であり、概念だ」

 小難しい単語を羅列しながら、長孝と思しき影はやや俯く。

「しかし、見ての通り、俺は人間ではない。人間とそうでない生き物、有り体に言えば異星人の混血児であり、人間に擬態することで社会生活を営んできた異物だ。君が今まで目にしてきた、俺の人間としての姿は、サイボーグに使用する人工外皮を被っている状態だ。だから、これが俺だ。佐々木長孝という個体識別名称を持つ、知的生命体の正体だ。それでも、君は俺との生活を続行してくれるのか」

「……一緒に、いてくれるんですか」

 ひばりは浴槽から出ると、長孝に一歩近付いた。彼は身動ぎ、顔を背ける。

「俺は人間ではない」

「人間じゃなくても、いいんです」

 長孝は、出会った時からひばりを気遣ってくれている。言い回しはやたらと回りくどくて堅苦しいが、ひばりのことを重んじてくれている。それが嬉しい。だから、見捨てないでほしい。縋るような気持ちで、長孝の指なのか腕なのか定かではない、触手に触れてみた。ゴムのように弾力の強い、冷たい肌だった。

「一緒にいて下さい」

 同じ言葉を繰り返してから、ひばりは懸命に嗚咽を堪えた。喉が詰まり、息苦しくなるが、これまで感じていたものとは異なる苦しさだった。心臓が早鐘を打ち、目の奥が痛くなる。ああ、この人が好きなのだと緩やかに自覚する。ついこの前まで、人間らしい生活とは程遠い環境で這いずり回っていたひばりを無下にしないばかりか、こんなにも気に掛けてくれる相手が嫌いになれるわけがない。好きにならないわけがない。

「だが、俺は人間ではない。日の当たる場所で俺の姿を見たら、君であろうともそうは言えないだろう」

 長孝は下半身の触手を波打たせて風呂場に入り、ひばりに近付いた。躊躇いがちに両腕の触手が伸びて、ひばりの体をやんわりと取り巻いた。だが、すぐには触れようとしなかった。

「それでもいいのか」

「すぐ、慣れると思います」

 ひばりは生まれて初めて感じる胸の高鳴りに戸惑いながらも、長孝に一歩近付いた。居間から差し込む日差しを背に受けている長孝の肩越しに、透き通った突起物の青い光が見えた。鉱物のような色彩でありながらも生物的な瑞々しさを帯びていて、とても美しいと思った。ひばりは長孝の胸と思しき部分に手を添え、触れてみると、触手よりも硬い手応えが返ってきた。確かな筋肉の強張りだった。

「だから、これからは一緒にいる時は本当の姿でいて下さい。でないと、慣れられないから」

「……ああ」

 触手を狭めてひばりを抱き寄せた長孝は、感情を押し殺した声で応じた。

「それと、敬語もやめてもいいですか。なんか、夫婦っぽくないから」

「構わない。むしろ、そうしてくれた方が楽だ」

「だから、私のことも呼び捨てにして下さいね。じゃなくて……してほしい」

「ああ」

「お昼御飯、まだで、だよね」

「ああ」

「近頃は残業ばっかりで御夕飯も一緒に食べられなかったから、一緒に食べていいよね」

「許可を取られるほどのことではない」

「じゃ、御味噌汁、暖めてくるね」

 ひばりは長孝の胸を押して身を下げると、長孝は触手を解いてくれた。真っ暗な風呂場から出ると、脱衣所には長孝が言った通りに人間の抜け殻が脱ぎ捨てられていた。その傍らには、宮本製作所、と胸ポケットに会社名が刺繍されている作業着が脱いであった。ひばりは開けっ放しにしていたカーテンを閉めてから風呂場に振り返ると、長孝も出てきた。赤黒い肌に無数の触手を両手足から生やした、身長二メートル弱もある異形の生物だった。

「背、高かったんだ」

 改めて見ると圧倒される外見だったが、ひばりは臆さずに率直な感想を述べた。

「ああ。人工外皮の中では両手足の触手を縮めているからだ」

「背中の青いツノみたいなものも?」

「ああ。生体アンテナは体内に収納出来るからだ」

 着替えてくる、と言い残して、長孝は四畳半の和間に入っていった。その後ろ姿をしげしげと眺め、背骨はない、腰骨みたいなところはあるけど尻はない、半透明の青い突起物は肩胛骨の位置から生えているんだ、とひばりは妙なことに感心した。居間に面した台所で味噌汁の入った鍋を火に掛け、余り物の昼食を見繕いながら、ひばりはふと我に返って赤面した。姿形が人間から懸け離れているせいで失念していたが、あれは長孝の裸だ。その上、裸の長孝と抱き合ってしまった。彼を男だと意識したのはほんの数分前なのに、ひばりは猛烈に照れた。

「どうした」

 長孝に声を掛けられ、ひばりは振り返った。実用性しかない着古したジャージを着ている長孝は、ガスコンロの上で沸騰しかけている味噌汁の鍋に気付き、ガスを止めた。ひばりは俯き、目線を泳がせる。

「あの、御夕飯、何がいいかな、って」

「なんでもいい。好きに作ってくれればいい。出されたものを食べる」

「じゃあ、オムライス、とか」

「その……ひばりは、それが好きなのか」

 言い淀んだ後にひばりの名を呼び捨てにした長孝は、部品のない顔を背けた。

「うん。好き、大好き」

 何度も頷き、ひばりは緩んでくる頬を押さえた。オムライスは、峰岸家に住んでいた頃は滅多に食べられないものだった。一生懸命作っても他の兄妹達に食べられてしまうし、余り物で工夫して作っても、ハムやベーコンが入っていなかったり、卵が足りなかったり、ケチャップが薄かったりと中途半端だった。だから、ケチャップをたっぷり使ってハムやベーコンを存分に入れて、卵を二つ使った薄焼き卵でくるんでみたい。長年の夢だったが、考えてみれば、今はそれが実現出来る。食費を工面すれば好きな御菓子も買えるし、ジュースも飲めるし、アイスクリームも食べることが出来るのだ。今更ながらそれに気付いたひばりは、満面の笑みで長孝を見上げた。

 大好き。もう一度、その言葉を繰り返した。



 生温い微睡みから、意識が浮上した。

 閉め切ったカーテンと窓越しに降り注いでくる日差しは、春先にしては強めだった。天気予報で言っていた通り、今日は朝から気温が高く、初夏といっても差し支えのない気温だ。だから、服を着ずに寝ても肌寒くない。ぼんやりと天井を見上げながら、ひばりはタオルケットの下に手を差し込んで下半身を探った。自分のものではない体液が零れ落ちてくるのが、たまらなく奇妙であり、幸福だった。

 これで、やっと本物の夫婦になれた。午前上がりで帰ってきた長孝を出迎えて、一緒に昼食を摂った後、ひばりと長孝はどちらともなく身を寄せた。長孝の正体を知った日以来、二人は互いの距離を縮めようと率先して触れ合うようになっていた。最初は手を繋ぐことから始め、抱き合い、長孝の唇もなければ歯も生えていない口とキスをしたが、そこから先へはなかなか進まなかった。どちらも男女の営みとは無縁だったのと、長孝自身が自分の肉体には男としての機能が備わっているかどうかに懐疑的だったからだ。人間と同じ位置から生殖器が生えているのだが、それを実際に使ったことがなかったためでもある。だが、何度も触れ合っているうちに、長孝にも人間の男と遜色のない機能と欲動があると判明した。そして、春の陽気に浮かされる形で繋がった。

「本当に、しちゃったんだぁ」

 ひばりはしみじみと呟いてから、上体を起こした。ただでさえクセの強い髪は寝転んだせいで乱れてしまい、毛先が四方八方に跳ねている。本番に至る前に、その一歩手前の段階の行為を何度も行い、互いの構造が異なる体を探り合っていたので慣れていたと思っていたのだが、本番と予行練習では訳が違った。試行錯誤の繰り返しだったが、無事に事を終えられた。

「ひばり。平気か」

 赤黒い肢体を曝している長孝も起き上がる。和らいだ日差しを帯び、背中の青い突起物が一層輝いた。

「タカ君は? 背中、痛くない? 布団も敷かなかったし、上に乗っかっちゃったから……」

「う」

 ひばりが最近呼び始めた愛称で呼び返すと、長孝は口籠もった。

「あ、ああっ、やっぱり嫌!? だって君付けだもんね、十歳も年上なのにね!」

 ひばりが慌てふためくと、長孝は数本の触手を掲げてひばりを制してきた。

「嫌、というわけではない。ただ、慣れない」

「でも、長孝さん、って呼ぶのは余所余所しいし、それに」

 そう呼ぶと、長孝の態度が強張ってしまう。ひばりはタオルケットで体を隠しながら、乱れた髪を撫で付けるふりをして長孝を窺った。心身の距離を狭めるために触れ合う最中に、長孝は自分の出自について話してくれた。長孝の父親は人間で母親が異星人だそうだ。ニルヴァーニアンという名の種族で、人間の感覚では理解出来ない世界に息づいているのだが、母親であるクテイは何かの拍子で地球に降ってきた。そして佐々木長光と出会ったが、長光はクテイを支配することで愛そうとしていた。それは、息子である長孝とその弟に対しても顕著であり、特に母親似でニルヴァーニアンに酷似した外見の長孝には、嫉妬を通り越して憎悪すら抱くようになった。故に、クテイは長孝を外の世界へ逃がしてくれた。だが、長光は長孝を逃がそうとはしなかった。ひばりを宛がってきたのも、再び長光の支配下に置くためであったことは想像に難くない。

「母さんは、ニルヴァーニアンの持つ特殊な遺伝子情報が隔世遺伝するようにと設定した」

 ひばりの裸の背中に、自分が着ていたシャツを掛けてやりながら、長孝は苦々しげに語った。

「そうすることで、母さんは俺と弟が父さんの執着から逃れられるようにしようとしたが、父さんの執着はその程度で薄らぐものではなかった。だから、父さんはひばりを差し向けてきた。ニルヴァーニアンが地球に持ち込んだ道具を扱える遺伝子情報、管理者権限を持った子孫を産ませるためにだ。だから、本当はこうすべきではなかったんだ。俺とひばりは、繋がるべきではなかったんだ。だが、俺はひばりと通じ合わずには死ねないとすら思ってしまった。だから、全ての責任は俺にある。本当にすまない」

「いいよ、気にしないで。だって、したいって言ったのは私の方だし」

「すまない」

「謝らないの。子供が出来ても何の問題もないじゃない。だって、夫婦なんだよ?」

「ああ」

 長孝はひばりに寄り添い、触手を絡み合わせて人間の手に似せたものを作ると、ひばりの乱れ放題の髪を梳いた。

「子供が出来たら、その子のこと、守ってあげるよ。タカ君の家の事情はまだよく解らないけど、その子まで大変な目に遭ったら可哀想だからね。大丈夫だよ、一緒に頑張れば幸せにしてあげられるよ」

 長孝の胸に寄り掛かり、ひばりは微笑む。そうだな、と長孝は呟いてから、ひばりを抱き締めてくれた。それだけで心身が満たされ、ひばりは長孝の体に腕を回した。ひばりと違って汗一つ浮いていない赤黒い肌は、いつもとなんら変わらない冷たさだったが、ほんの少しだけ湿り気を帯びていた。

 どうせ暇だから、と言って長孝は夕食を作ってくれた。慣れないことに耽って疲れ切ったひばりを休ませようとしてくれたのだろうが、どうにも素直ではない。その回りくどさだけは、互いに心を開いても変わらないらしい。せっかくの好意を無下にするのは勿体ないので、ひばりは近所の図書館で借りてきた本を広げていたが、台所に立っている長孝が気になってしまって読み進められなかった。それからしばらくして出来上がったのは、オムライスだった。

 朝食の余りである味噌汁、昨日の夕食の余りである春キャベツとベーコンの炒め物、ジャガイモの煮っ転がしと二人分のオムライスがテーブルに並んだ。長孝が無造作にケチャップを掛けようとしたので、ひばりは彼の触手からケチャップを奪い取り、長孝のオムライスの上に大きなハートを描いてやった。それから、自分の分にもハートを描いた。長孝は面食らったのかハートのオムライスとひばりを見比べたが、文句は言わなかった。

「そういえばさぁ」

 ひばりは、バターが多めに入れられたまろやかな口当たりのケチャップライスを食べつつ、長孝に問うた。

「タカ君って、なんでロボットが好きなの? 今までなんとなく聞きそびれていたけど、ロボットを造る会社に入るほどなんだから、余程の理由があるんだろうね」

「ロボット、それに準じた機械は、人間を裏切らないからだ」

 触手の尖端を枝分かれさせて器用に箸を使い、長孝はジャガイモの煮っ転がしを口にした。

「人間とは不安定で、不条理で、不可解なものだ。その最たる例が、俺の父親だ。母さんを愛していると再三再四言っておきながらも、実際には母さんを痛め付けているだけだ。あれを愛と呼ぶのならば、この世は当の昔に平和になっている。俺の正体を知っていながらも付き合ってくれている、ただ一人の高校時代からの友人は、ロボットに対して多大な理想と幻想を抱いているが、それはロボットが人間に従属してくれるという確証があるからだ。だが、人間同士であればそうもいかない。必ず、行き違いが起きる。だから、俺はロボットに執心している。完璧な機械であれば、無益な諍いが生まれずに済むからだ」

「そうなんだ。じゃ、私のこともそう思っているの?」

「ひばりは例外だ。俺を直視し、理解しようと努めてくれているからだ」

 箸をスプーンに持ち替えてオムライスを掬い、長孝は薄焼き卵と共にケチャップライスを口にした。

「それは、タカ君が私を見てくれているからだよ。大事にされたら、その分、大事にしたくなっちゃうもん」

 ひばりは新タマネギと春キャベツの味噌汁を啜り、野菜の甘みに感じ入った。

「そうなのか」

「そうだよ。それでね、写真を撮りたいなって思っているんだ。結婚の記念写真!」

「だが、それは」

 長孝は、スペアの人工外皮が収まる押し入れを見やった。ひばりもまた押し入れに向く。

「そりゃまあ、タカ君が本当の姿で写真に写れないのは勿体ないけど、若いうちに綺麗な恰好をして写真を撮っておかないのはもっと勿体ないじゃない。だから、いいでしょ?」

「ドレスか、着物か」

「ドレスで! 一度は着なきゃ嘘ってもんでしょ、女子的に!」

 ひばりが意気込んで拳を固めると、長孝は少し笑ったのか、肩を揺すった。

「解った」

「それじゃ、今度、写真屋さんに行かないとね」

「ああ、そうだな」

「タカ君もタキシードを着るんだよ、白いの。似合うと思うよ」

「人工外皮は無難な外見に作られている。体形も同様だ。よって衣装のサイズは合うはずだ」

「そうじゃなくて、こっちのタカ君」

「それは同意しかねる」

 自信満々のひばりとは対照的に、長孝は触手を横に振った。

「えー、そうかなぁ。絶対似合うと思うんだけどなー、タカ君のタキシード」

 近頃、長孝の正体を見慣れすぎているからか、ひばりは感覚が麻痺していた。その上、恋の欲目が重なっているので本気でそう思ってしまったのだ。後から考えてみれば、異星人丸出しの外見の長孝に白いタキシードを着せて写真を撮るなど、色んな意味でとんでもない。一晩経って冷静になり、ひばりは自分の考えを客観視してその突飛さに気付いたので、蛮行に及ばずに済んだ。それもこれも春の陽気のせいだ、とひばりは自分に言い訳した。

 それから数日後、近所の商店街にある写真館に赴いた二人は、結婚記念写真を撮るために衣装合わせをした。人工外皮を被った長孝は本人が言っていた通りに無難な体形だったので、味気ないほど簡単に決まったが、ひばりはそうもいかなかった。ウエディングドレスを着るのは生まれて初めてだし、二度と着る機会はないという妙な確信もあったので、全力で悩んだ。大人っぽいマーメイドドレス、少女趣味なフリルが一杯のドレス、シンプルだがそれ故に品の良いドレス。多種多様なドレスの山に埋もれながら、ひばりは店員から呆れられるほど一生懸命選び、悩んだ末に、艶めかしいドレープが付いているデザインのドレスに決めた。更にドレスに合わせるヴェールや手袋といった小道具も選ばなければならなかったので、そこでまた一悶着あったが、無事に写真撮影は終わった。

 仕事帰りの長孝と待ち合わせて写真館に行き、出来上がった結婚記念写真を受け取ったひばりは、意気揚々としていた。季節は初夏へと移り変わっていたので、まだ日没を迎えていなかった。攻撃的なまでに鮮やかな西日に照らされた川面を横目に、ひばりは長孝と手を繋ぎながら、土手を歩いていた。

「ひばり」

 不意に長孝が足を止めたので、ひばりは写真の入った紙袋を抱えて足を止める。

「なあに、タカ君」

「これを。順番が変だが、婚約指輪という名目で受け取ってくれないか」

 長孝は作業着のポケットから、ビロードの小箱を取り出した。ひばりは怪訝に思いながらもそれを受け取り、蓋を開くと、その中には青い宝石が填った銀の指輪が入っていた。価値は解らないが、安価ではないだろう。

「えっ、あっ、でも、こんなのはダメだよ! だって、写真を撮ってお金を結構使っちゃったし、私、仕事してないから、タカ君にお返し出来ないし! だからいいよ、そんなことしてくれなくても!」

「いいんだ。持っていてくれ」

「でも」

 長孝の人工外皮に包まれた手で頬に触れられ、ひばりは唇を曲げた。

「俺に出来ることは、これぐらいしかないんだ」

 だから受け取ってくれ、と長孝は念を押してきた。ひばりは小箱から指輪を抜き、既に結婚指輪が填っている左手の薬指に填めてみた。サイズはぴったりで、小粒な青い宝石とシンプルな銀の指輪は結婚指輪にもよく馴染んだ。長孝が満足げに頷いたので、ひばりは気後れしながらも、二つの指輪を填めた左手を長孝の右手と繋いだ。

 二つの長さの違う影が、土手の上に長く伸びていた。歩調を合わせて進みながら、ひばりは長孝を見上げたが、気まずくなって目を伏せた。結婚記念の写真といいなんといい、我が侭を聞いてもらってばかりだ。別にそれが嫌ではないし、長孝なりにひばりを喜ばせてくれようとしているのは解るが、自分が不甲斐なくなる。

「タカ君」

 長孝の手を強く握り、引き留めた。

「でも、タカ君はそれでいいの? 私はあんなこと言ってお嫁さんにしてもらったのに、タカ君からは優しくしてもらうばっかりで。なんだか、勿体ないよ」

「それでいい。ひばりが俺を享受し、理解し、対等に接してくれているから、俺もひばりに対して報いる必要があると判断したからだ。だが、俺は感情表現が不得手だ。よって、即物的な行為で報いることしか思い当たらなかった。それがひばりにとって不快であったのならば、すまない」

「だから、もう謝らなくてもいいって。もう……」

 ひばりは長孝との距離を詰め、その上腕に頭を預けた。互いに気を遣い合って、探り合って、遠慮し合っているのではまだまだ夫婦とは言い難い。けれど、譲り合いながらも近付けるのであれば、遠回りするのも決して無駄ではないだろう。そう思うと、不毛な言い合いをするのも悪くない。長孝を裏切るものか、と密かに胸中で誓う。父親との確執で人間不信気味だった彼が、少しずつひばりに心を開いてくれたのだから、報いてやらなければ。

 それは、妻としての務めでもある。



 七月の祝日に、二人は上野動物園を訪れた。

 休日を謳歌している子供達や家族連れでごった返していて、真昼の日差しよりも、人いきれの方が暑苦しいほどだった。入場ゲートを潜り抜けたひばりは、それだけで感極まりそうになった。だが、突っ立っていては後がつかえてしまうので、続いて入ってきた長孝と連れ立って先へと進んだ。表門から入って右手の二つ目の檻には、入場客が際立って集中していた。パンダがいるからだ。

「タカ君、パンダだよパンダ!」

 ひばりは弁当と水筒を入れたトートバッグを振り回しそうになったが、堪え、長孝の袖を引いた。

「ああ。クマだな」

「クマだけど、白と黒で可愛いからパンダなの! 見に行こうよ、ねえ!」

「解った」

 反応が鈍い長孝とは相反して、ひばりはハイテンションだった。家族に動物園に連れてきてもらえたことなんて、一度もなかったし、友達もいなかったので、学校行事の見学でも誰かと連れ立って見て回ったこともない。だから、一緒に出掛けると決めた日から嬉しくて嬉しくてたまらず、昨日の夜など上手く寝付けなかった。

 パンダの檻の前の行列に並び、しばらく待つと、長孝とひばりの順番が回ってきた。檻の中には、気怠げに脱力している珍獣が横たわっていた。白と黒の分厚い毛皮を持つクマは、群れを成して興味津々で檻を覗き込んでくる人間達を見返しつつ、笹の葉を囓っていた。子供達に紛れながら身を乗り出し、ひばりはパンダをじっと見つめた。夏の暑さで上気した獣の匂いと笹の青臭さが入り混じったものが、檻の外側に漂ってきていた。黒い模様の中心にある、黒々とした丸い目が少し動き、鬱陶しげに人間達を睨め回してくる。長孝は一歩身を引いていて、ひばりがパンダを観察する様子を観察していた。

 長孝の言う通り、確かにパンダはクマだった。だが、あの絶妙な色遣いが、真っ黒で巨大なヒグマやツキノワグマとは逆方向の魅力を生み出しているのもまた事実だった。要するに可愛かったのである。人間を観察し返しているかのような態度も、全くやる気に欠ける仕草も、怠慢な動作も、パンダの何もかもがひばりを魅入った。

「あっ」

 パンダの檻から離れる際、長孝は人波によって押し出され、二人の間に距離が開いてしまった。ひばりは小走りに駆けて、夫の人工外皮に包まれた腕を掴んだ。爬虫類を思わせる、温もりのない体温とぐにゅりとした手応えが返ってくる。長孝は思い掛けないことに驚いたのか、立ち止まって振り返る。

「どうした」

「人が多いから、はぐれちゃうよ」

 ひばりは長孝に身を寄せると、腕を絡ませた。

「だが」

 手を繋いだことはあっても腕を組んだことがないからか、長孝は困惑気味に目を泳がせる。

「この方がいいの。だから、今日はずっとこうするの!」

 ひばりがにんまりすると、長孝は口角をほんの少し曲げた。

「仕方ない」

「ほらほら、あっちにはゾウさんがいるよ! でっかいねぇ、立派だねぇー!」

「動物に敬称を付けるのか」

「いいじゃない、その方が可愛い感じがして」

 ひばりは長孝に言い返すと、腕を引いて次の檻に進んだ。何もかもが新鮮で楽しくて、じっとしていられなかった。それから、二人は全ての動物を見て回った。どの動物も物珍しく、素晴らしかったのは、長孝が隣にいてくれたからに他ならない。長孝はひばりの気が済むまで付き合ってくれた。同じ動物を長々と眺めていても咎めず、急かさず、ひばりのペースに合わせてくれた。ここが凄い、これが面白かった、という、稚拙な感想も最後まで聞いてくれた。その間、ずっと腕を組んでいてくれた。

 昼時を迎えたので、弁当を食べるために休憩出来る広場に向かったが、ベンチやテーブルのあるスペースは既に大勢の家族連れで埋まっていた。仕方ないので、ベンチでもなんでもない花壇の縁に並んで腰掛け、この日のために気合いを入れて弁当を広げた。細かく切った梅干しとシソを混ぜ込んだおにぎり、肉団子の甘酢和え、ピーマンとタマネギのカレー炒め、シソの葉を入れた卵焼き、夏野菜のピクルス。そして、保冷剤として弁当箱に添えておいた冷凍フルーツゼリーは、程良く溶けて食べ頃になっていた。

「タカ君、おいしい?」

 ひばりが箸を止めて尋ねると、長孝は答えた。

「ああ。問題はない」

「来てよかったね、楽しいねー。タカ君が貸してくれたデジカメに、何十枚も動物の写真を撮っちゃった。でも、ピントがずれずれなのばっかりだから、後で整理しないとねー。デジカメなんて触ったこともなかったから、使い方がよく解らなくて」

「それは帰ってからでもいい。メモリーには、まだ余裕がある」

 人工外皮を被った顔の表情は窺いづらいが、長孝の声色は心なしか明るい。それを知ると、ひばりは一層嬉しくなってきて頬が勝手に緩んでしまった。これはデートだ、紛れもなくデートだ、デート以外の何物でもない。普段は、近所の公園や土手を散歩するだけだったので、連れ立って遠出するのはこれが初めてだった。二人で手を繋いで散歩するのも好きだが、デートとなるとまた別の嬉しさがある。

「ひばり」

「んーん?」

 長孝に名を呼ばれ、ひばりはコップに注いだ麦茶を飲みながら応じた。

「俺は檻の外側にいるが、檻の内側にいてもなんらおかしくはない。むしろ、それが自然だ」

 家族連れの話し声に紛れる程度の音量で、長孝は平坦に語った。

「だが、俺はこうして外側にいる。その理由は至って簡単だ。父さんは母さんが持ち込んだ道具を利用して、国内の税収の一割を担うほどの財を成しているからだ。だから、政府も俺を泳がせておくんだ。そうしておけば、父さんは俺がいずれ成すであろう子供を支配せんがために、道具とその力を大企業や妙な組織に与え続ける。そうなれば、その企業や組織の技術力が急上昇し、それに伴って外貨が大量に流入し、日本経済が底上げされる」

「そんな大袈裟な」

「事実だ。俺は父さんが大株主となっている企業を調べてみたが、母さんが持ち込んだ道具を使わなければ決して成し得ない技術を用いて自社製品を開発、製造、販売していた。ひばりも名前は耳にしているだろう、新免工業、ハルノネット、フジワラ製薬、弐天逸流の名は。弐天逸流は企業ではなく新興宗教団体だが、その影響力は企業にも決して引けを取らないほどの組織なんだ。いずれも三四〇年のうちに急成長したが、それらの背後にいるのは、総じて佐々木長光だ。だから、俺は国家規模の金蔓なんだ。だが、俺は全てを諦めている。俺がどう足掻こうとも事態は急転しないことも、これだけの権力を左右出来る力がないことも、父さんがばらまいた道具を回収する方法が見当たらないことも、父さんの支配に囚われ続けている弟を救い出せないであろうことも、母さんを守りきれないであろうことも、何もかも。最初から最後まで、俺一人の手に負えることではないんだ」

 膝の間を睨み付け、長孝は眉間に深いシワを刻んだ。

「俺は外見こそ常軌を逸しているが、中身は常人だ。それは俺自身が一番理解している。道具を使うために必要な遺伝子情報は欠損していて、道具をフル稼働出来ない。道具を暴走させて自壊させられればと考えたこともあったが、道具は俺の命令を受け付けなかった。母さんは過去に何度も肉体に甚大な損傷を受け、再生させた際に遺伝子情報に微細な欠損が生まれてしまい、道具をフル稼働させられなくなった。だから、管理者権限が隔世遺伝するようにと設定を施したんだ。父さんが孫には人並みの温情を抱くはずだ、という恐ろしく楽観的な主観に基づいた判断であり、問題の先送りでしかないが、母さんはそれだけしか余力が残っていなかったんだ」

「タカ君のお母さん、頑張っているんだね」

「ああ。そうだ」

「だったら、一度、会ってみたいな。だって、今は私のお母さんでもあるんだし」

「現状では不可能だ。だが、機会が作れれば面会すべきだ。母さんも、ひばりを好いてくれるだろう」

「だと、いいね」

「それについては確信出来る」

「まあ、とにかくさ。頑張ろうよ。底抜けに幸せになれば、きっといいことがあるよ。お父さんとお母さんのことだって、どうにかなるかもしれないし。ね、タカ君」

「……そうだな」

 話すだけ話して胸のつかえが取れたのか、長孝は深呼吸して肩を上下させた。弁当を綺麗に平らげ、溶け切ったフルーツゼリーも食べ終え、しばらく休んでから動物園巡りを再開した。一巡した後に、どうしてももう一度見たいと思ったパンダの檻の前に行った。相変わらず黒山の人だかりだったので、遠巻きに眺めた。他の動物の餌やりや飼育員によるショーを見るために移動したが、その最中にもパンダの檻に目線が向かってしまった。ひばりがあまりにも熱心にパンダを見つめていると、いつのまにか長孝がいなくなっていた。さすがに呆れたらしい。

「まあ、そりゃそうだよね」

 一人取り残されたひばりは、空になった弁当箱を入れたトートバッグを肩に掛け直し、離れた場所からパンダの檻をじっと眺めた。檻の主は相変わらずやる気がなく、地べたに寝そべっている。そうすれば、少しは涼しいのだろう。何度も園内を巡っているうちに日が陰ってきて、入場客もまばらになってきた。遊び疲れて寝入った子供を背負った父親や、お土産のぬいぐるみを抱えて上機嫌な子供と手を繋いでいる母親や、終わりに差し掛かったデートを名残惜しむカップルなど、皆が皆、幸福そうだった。私とタカ君もその景色の一部になれていたかな、とひばりは少しだけ誇らしく思った。穏やかな休日を当たり前に過ごせることほど、幸せなことはないからだ。

「ひばり」

 声を掛けられ、ひばりが振り返ると、売店の店名がプリントされた紙袋を下げた長孝が立っていた。その中から顔をちょこんと覗かせているのは、パンダのぬいぐるみだった。

「パンダちゃんだ」

 ひばりがきょとんとすると、長孝は紙袋をひばりに渡してから、顔を背ける。

「不要だったか」

「全然! パンダちゃんを連れて帰りたいけど、結構な値段がするから、買おうかどうしようかって迷っていたから、タカ君がパンダちゃんを連れてきてくれて嬉しい! よおし、今日から君はうちの子だ! 可愛がってやる!」

 ひばりが紙袋ごとパンダのぬいぐるみを抱き締めると、長孝はぎこちなく口角を持ち上げた。

「そうか。ならば、いいんだ」

「それじゃ、パンダちゃんと一緒に帰ろう。ね、タカ君」

「そうだな」

 長孝はひばりに手を差し伸べてきたので、ひばりはパンダのぬいぐるみを脇に抱えながら、彼と手を繋いだ。薄皮を被せて触手を詰め込んである骨のない手は、そっと指を曲げてひばりの手を握り返してきてくれた。上野駅から電車に乗って帰路を辿っているうちに、ひばりは眠気に襲われた。長孝の肩に頭を預け、パンダのぬいぐるみ入りの紙袋を抱き締めながら、すんなりと寝入った。今日が終わらなければいいのに、と願わずにはいられない。

 幸せすぎて切なくなったのは、これが最初で最後だった。



 初めての結婚記念日を過ぎた頃、ひばりは体調を崩した。

 ひどい吐き気と頭痛と目眩に見舞われ、長孝に支えられながら病院に行くと、おめでとうございます、妊娠二ヶ月です、と医師から告げられた。心当たりはいくらでもあったが、本当に妊娠出来るとは思ってもいなかった。長孝は妊娠を告げられた際にひどく動揺したが、すぐに覚悟を決めてくれた。二人でこの子を守り抜こう、と言ってくれた。ひばりはまだ平べったい下腹部を撫でながら、夫の覚悟を受け止めて頷いた。佐々木長光の目論見がどんなものであろうとも、阻んでみせるという妙な自信が湧いてきたからでもある。

 悪阻が重く、起き上がれない日も多かった。少し動いただけで貧血を起こしてしまうし、吐き気が収まらないので、家事もろくに出来なくなってしまった。おかげで、二人の住む部屋は散らかり放題だった。炊事洗濯は長孝がやってくれるのだが、帰宅時間が遅くなっていたので、掃除機を掛けられないことが多かった。そのせいで部屋の隅には埃が溜まり、ひばりは居たたまれなくなった。主婦にも主婦の矜持があるからだ。

「むー……」

 今日もまた、動けずに一日が終わってしまった。ひばりは付けっぱなしのテレビを横目に見、唸った。起き上がることが出来れば、暇潰しに本でも読めるのだが、それだけの動作でも胃の内容物が戻ってきそうになる。だから、寝そべっているのが一番だった。せめてテレビが見られるように、と長孝が居間に敷いてくれた布団に横たわり、枕元に座っているパンダのぬいぐるみを撫でた。ふわふわした手触りが、少しだけ心を癒してくれた。

「ひばり。具合はどうだ」

 買い出しから戻ってきた長孝が、ひばりの枕元に膝を付いた。

「相変わらずだよぉ」

 ひばりが拗ねると、長孝はひばりの寝乱れて跳ね放題の髪を撫で付けてくれた。

「食べられそうなものを買ってきた。少しでもいいから、胃に入れるといい」

「また吐いちゃったらごめんね」

「構わない」

 長孝はひばりの軽く汗ばんだ肌に触れてから、買い物袋の中身を冷蔵庫に移すべく、台所に向かった。仕事帰りのまま買い出しに行ってくれたので、作業着姿で人工外皮を被っている。機械油と金属粉で黒々と汚れた作業着からは、鋭い刺激臭が僅かに流れてくる。それが吐き気を催させるかと思いきや、逆に落ち着いた。

「ねえ、タカ君」

 ひばりは夫の背を見上げ、昼下がりに時代劇の再放送を見た際に思い付いたことを述べた。

「この子が男の子だったら、小次郎にしよう。女の子だったら、つばめにしよう」

「どうしてだ」

「だって、佐々木だから。佐々木って言ったら小次郎でしょ、んで、秘剣燕返しでしょ。だから、小次郎かつばめ」

「それは道理だ。異論はない。以前に流行した、突飛な当て字の名前は付けるべきではない」

「うん、私もそう思う。じゃ、決まりだね」

 ひばりが笑いかけると、長孝も口角を緩やかに持ち上げた。人工外皮を被っている時だけではあったが、長孝は人間のそれに近い表情を見せるようになっていた。素顔を曝している時も、頬の表情筋らしきものを上向かせる時がたまにある。人間味とは縁遠い男だったのに、こうも軟化したのは、ひばりが毎日長孝に笑いかけていたせいに違いない。それもこれも、長孝がひばりを大事にしてくれるからだ。だから、自然と笑顔になってしまう。

「タカ君」

「今度はどうした」

「愛してる!」

 ひばりが勢いに任せて言い放つと、長孝は少し間を置いてから応じた。

「ああ」

「だから、この子は絶対に幸せになれるよ。ならないわけがないよ。そう、信じなきゃ」

「ああ」

「というわけだから、ゆっくり育ってから外に出てきてね。待っているよ、私もタカ君も」

 ひばりは上半身を起こし、下腹部に手を添えた。今はまだ胎児の気配すら感じられないが、そう遠くない未来に出会えるのかと思うと、期待が膨らんでいく。冷蔵庫に食材を入れ終えた長孝は、脱衣所で作業着と共に人工外皮を脱ぎ捨てて部屋着に着替えてから、ひばりの元に戻ってきた。

 どちらからともなく顔を寄せて、唇もなければ歯もないスリット状の口と唇を重ねる。背中に回された触手に身を委ねて抱き締められながら、ひばりは夫の首に腕を巻き付ける。好き、大好き、愛している。どれほど言葉にしても足りないから、行動で示すしかない。長孝もひばりに応じてくれ、舌に似ているが尖端が枝分かれしている口腔内の部位を用いて好意を返してくれた。互いの感情を惜しみなく注ぎ合いながら、ただひたすらに信じた。

 我が子と、二人の幸福な未来を。



 耳の傍で、絶え間なく風切り音がする。

 潮の匂い、波間の光、ヘリコプターのローター音。それらを全身で感じ取りながら、ひばりは上空に留まっているヘリコプターを見つめていた。その運転席で操縦桿を握っている、新免工業の戦闘員である武蔵野巌雄に感謝の意思を伝えるために叫んだが、果たして聞こえただろうか。つばめとタカ君の次に大好き、と。

 長孝に続いて武蔵野と、ひばりは優しくしてもらってばかりいる。だから、彼らの頑張りに報いなければならない。産まれて間もない娘を攫われたのに、何も出来ずにいた自分を悔いるばかりで顔を上げようともしなかった。だが、武蔵野はひばりを決して見捨てなかった。そればかりか、最後の我が侭に付き合ってくれた。新免工業には、彼らなりの目論見があった上でひばりを連れ去ったのだろうが、つばめを出産出来る環境を整えてくれたことには感謝してもしきれない。だから、誰も、何も、自分さえも恨まない。憎まない。

 この人生を選び、生き抜いたのは、ひばり自身なのだから。胸に抱えていたつばめのヘソの緒が入った小箱を力一杯握り締めた、ひばりは身を反転させ、海上を抉りながら青白い閃光を放つ巨大な結晶体、ナユタを見据えた。つばめを胎内に宿していた時に感じていた疼きが、つばめがひばりの胎内に僅かばかり残していってくれた管理者権限の片鱗が、ナユタとつばめの繋がりを如実に伝えてくる。つばめが苦しめばナユタも苦しみ、膨大なエネルギーを無秩序に放って大規模な破壊を繰り返してしまう。だから、つばめを、ナユタを宥めてやるしかない。

 青い光に触れた瞬間、ひばりの肉体は分子レベルで破壊されて吹き飛んだ。痛みを感じる間もなく、熱ささえも感じずに灰燼と化した。つばめのヘソの緒を収めていた小箱も同様で、跡形もなく消えたが、ヘソの緒だけは無傷でナユタに落下していった。乾いた小さな肉片が結晶体に触れると、間もなく、ナユタは沈黙した。

 それから、ナユタのエネルギーの余波で肉体から精神体が乖離したひばりは、物質宇宙と異次元宇宙の狭間を漂うこととなった。見えるようで見えない、触れられるようで触れられない、近付けるようで近付けない、二つの宇宙を眺めることしか出来なかった。そんな時、不意に情報と時間の波間から、心地良い空間に打ち上げられた。

「あ、れ……ぇ」

 甘く濃い、菜の花の香りがする。青々と茂った草木が弱い風に揺れ、暖かな陽光が注いでくる、板張りの縁側にひばりは横たわっていた。目を動かすと、太い梁と囲炉裏のある畳敷きの部屋が見えた。あの世にしては、やけに生活感のある場所だ。そればかりか、体の存在が感じられる。ひばりが起き上がると、足音が近付いてきた。

「お目覚めですか、ひばりさん」

「あ……」

 声の主を見やったひばりは、全てを悟った。薄暗い屋内から出てきたのは、長孝と酷似した外見の異形の生物だった。身長は長孝よりも一回りは小さく、藤色の着物を着ており、背中から生えている透き通った突起物は真円を描いている。ひばりは四方八方に毛先が飛び跳ねているポニーテールを整えてから、佇まいを直す。

「タカ君の、じゃなくて、長孝さんのお母さんですか?」

「ええ。クテイと申します。タカ君でよろしいですよ、ひばりさん」

 クテイと名乗った異形の生物は、部品のない顔を少し傾けた。長孝とは違う、女性らしいたおやかさがあった。

「あの、クテイさん。ここは何なんですか? あの世みたいなものですか?」

 ひばりが問うと、クテイは着物の裾から出ている触手を折り畳んで正座した。

「異次元宇宙と物質宇宙の狭間に生成した、エアポケットとでも称しましょうか。どちらの宇宙からも情報の過干渉を受けないために次元自体を隔絶してありますので、存分にお休みになれますよ。色々、おありでしたでしょうし」

「つばめもタカ君も大丈夫かなぁ。辛い目に遭っていないかなぁ、元気にしているかなぁ」

 ナユタを止めるために果てた後のことは、まるで解らないからだ。ひばりが案じると、クテイは慰める。

「ひばりさんは、つばめちゃんと長孝の幸福を祈る言葉を口になさいました。言葉とは固有振動数を発生させ、宇宙で生じる事象に影響を与えるエネルギーです。ですから、ひばりさんの思いはいずれ届きましょう」

「クテイさんも、やっぱり亡くなられたんですか?」

「仮死状態とでも申しましょうか。桜の木と融合した際に生命活動を沈黙させておりますが、長光さんを止められる機会が訪れる時を待ち侘びております。ですから、私はまだまだ死ねません。あの人に、罪と業の報いを授ける時が来るまでは、この場からも逃れられません。ひばりさんをお出迎えするために、この空間の時間軸を少しばかり操作いたしましたのは、ひばりさんの精神体を長光さんに奪われないためなのです。長光さんであれば、そのようなこともやりかねませんので」

「だったら、付き合いますよ。タカ君のお母さんと、ちゃんとお話ししてみたかったし。それに、ここからだと外の様子がちょっとは解るみたいですし。あの道具……じゃなくて、遺産か、それを通じた情報が流れ込んでくるから、つばめとタカ君がどうしているのかが見えるから。もしかしたら、うっかりここに来ちゃうかもしれないから、その時はちゃんと追い返してあげないといけないし。あの子の人生は、まだまだこれからだから」

「ええ。共に過ごしましょう、ひばりさん。どうか、長孝のお話を聞かせて下さいませんか」

「じゃ、まずは何から話しましょうか。タカ君と結婚してから、私、ずうっと幸せだったから、話すことが一杯あって」

「それはとても楽しみですね。是非ともお聞かせ下さいませ」

「ええと、まずはお見合いの話から……」

 菜の花が咲き乱れる野原を一望しながら、ひばりは語り始めた。クテイは矢継ぎ早に喋り立てるひばりを、朗らかに見守ってくれていた。経緯こそ最悪だったが、長孝と出会えたことは人生最大の幸運だったこと。長孝がひばりを解ってくれようとしたから、ひばりも長孝を解ってやれたこと。細々とした出来事、忘れもしない動物園の思い出、つばめを妊娠した時のこと、そして、つばめを守ってやれなかったこと。

 けれど、何一つとして後悔していない。自分が出来ることを、全力を尽くしてやり遂げてきたからだ。菜の花畑で咲き乱れる黄色い花の鮮やかさが、心身に染みてくる。お喋りを中断して少しだけ泣いてから、ひばりはクテイが差し出してくれたハンカチで涙を拭った。抜けるような青空を見上げ、肉体ごと消失したはずの結婚指輪が填っている左手の薬指を陽光に翳す。そして、物質宇宙で長らえている夫と娘を想った。

 短いからこそ凝縮された、素晴らしい人生だった。

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