三人寄ればネゴシエーション
曲がりくねった道を抜けると、ログハウス風の別荘が待ち構えていた。
先日の雪はほとんど溶け、木々の間の影にちらほらと白いものが残っている程度だった。別荘へと続く一本道は綺麗にアスファルトが敷かれていて、幅もかなりある。屋根に傾斜が付いていて三階建ての雪国仕様で、屋根には煙突が生えているので暖炉もあるのだろう。遠目からでも充分大きいと感じるので、近付いてみればどこぞの豪邸にも匹敵する大きさなのだろう。つばめの住む合掌造りの家だって立派な代物だが、北欧風の別荘は洒落ているので、ちょっとだけ羨ましくなった。だが、これは敵の本拠地なのだ。
「こんなにあっさり見つかっちゃっていいもんなのかなぁー?」
つばめは軽トラックの助手席から降りると、腕を組んだ。
「なんだよう、見つけてくれって言ってきたのはつばめちゃんじゃんかよ。だから、各方面の情報を元に割り出して、こうして案内してやったのにさぁ」
アメリカンバイクに跨っている一乗寺は、フルフェイスのヘルメットを外した。
「でもさー、敵の本拠地っていうと、ラスト手前で見つかるもんじゃん? で、大乱戦の末に爆破されるの」
その逆も然り、とつばめが付け加えると、軽トラックの運転席から降りてきた美野里が苦笑した。
「特撮じゃないんだから」
「現在位置の座標を捕捉と同時に記憶」
軽トラックの荷台から降りたコジロウは、つばめの背後に立った。
「じゃ、俺はこれからよっちゃんにバイクを返しに行かなきゃならないから、バッハハーイ」
一乗寺が心底残念そうな顔で手を振ったので、つばめは片眉を曲げた。
「てことは、そのバイクも借りっぱなしだったんですか?」
「そうなんだよう。よっちゃんはバイクも車もたんまり持っているから、一台ぐらい借りパクしても解らないかなーって思ったんだけど、そうじゃなかったんだよなぁー。ああ痛かった」
一乗寺はライダースジャケットの下に隠れている首筋をさすりつつ、嘆いた。寺坂に襲撃され、あの奇妙な触手で締め上げられたに違いない。昨日、街まで買い出しに出かけて散々な目に遭ったつばめが帰宅した後、一乗寺も分校に戻ったのだが、寺坂の乗る黒いピックアップトラックが船島集落を出ていったのはそれから更に小一時間後だったので、その間に荒事を起こしていったのだろう。だが、ホームセンターの戦闘で一乗寺の恐ろしさを目にしたつばめには、一乗寺が寺坂にあっさりとやり込められるようには思えない。ということは、やはり、ただのじゃれ合いに過ぎないのだろう。幼馴染みでなければ、悪友というべき関係か。
つばめはコジロウと美野里を見やり、気を引き締めた。こうもあっさりと敵の本陣が見つかったのは拍子抜けではあったが、見つけられると言うことは、それだけ敵に余裕がある証拠だ。居を構えているのも、つばめを確実に攻略するためだろう。ならば、こちらも本腰を入れて交戦するべきだ。だから、一乗寺に頼んで吉岡りんねの別荘の住所を調べてもらい、更に道案内してもらって辿り着いたのである。
「そんじゃ、また後でねー」
一乗寺は渋々といった仕草でヘルメットを被り直すと、アメリカンバイクを発進させた。そのエンジン音と排気ガスがカーブのきつい林道を走り抜ける気配が遠のいた頃合いに、つばめは吉岡りんねの別荘の敷地に最初の一歩を踏み入れようとした。行政が作った林道とは明らかに舗装の出来が違う、専用道路につま先を差し込み、ゆっくりと体重を掛けて上体を入れてみた。特撮や映画などでは、こういった行動を取ると赤外線センサーに感知されて警報が鳴り響くのだが、警報どころか警備用ロボットも飛んでこなかった。
「なんだぁ、つまんない」
つばめが残念がりながら足を進めると、美野里は少し笑った。
「だから、さっきから何を期待しているのよ、つばめちゃんは」
「成金にありがちなシチュエーションだよ。他に思い付くのは、ガレージに高級外車がどばーん、とか、黒服のSPがずらっと、とか、企業の創始者のブロンズ像とか、謎の肖像画とか、無駄に派手なシャンデリアとか?」
「ああ、あるわねぇ。でも、あの手の描写はお金持ちをデフォルメしたものだから、現実にはまずないわよ」
「えぇー、ないの?」
「つばめちゃんだったら、そんなものを家に置きたいと思う?」
「思わないなー。悪趣味すぎだし」
「でしょ? お金のある人達は生活に余裕があるってことだから、余程のドケチ成金でもない限りは、それはそれは優雅な生活を送るのがステータスなのよ。下々が一生懸命働いている間に、美容師を自宅に呼び付けてヘアメイクをしてもらったり、一流シェフを呼んでお金持ち同士で昼間からパーティをしたり、ふらっと思い付きだけで海外旅行に出かけてみたり、とかね。だから、洗練されているのよ、色んな意味で」
「ブルジョワジーってやつだね」
そう言われれば納得出来るが、ちょっと物足りない。そんな愚にも付かない会話をしながら、つばめは別荘の玄関に到着した。ここに至るまでの専用道路の距離は百メートルを優に超えていて、専用道路に直結しているロータリーには見覚えのあるトレーラーが停まっていた。忘れもしない、ドライブインでの襲撃の際に吉岡りんね一味が乗っていたトレーラーだ。その奥のガレージには、昨日見たジープと銀色のメルセデス・ベンツが駐めてあった。ジープの方は武蔵野という男が乗っていたので、恐らく、銀色のベンツがりんねの専用車なのだろう。
幅広で段数が多い階段を昇り、両開きの扉の脇にあるインターホンを美野里が押した。玄関手前には監視カメラが備えられていて、よく見ると屋根の下やロータリーを照らす照明にも球状の監視カメラが設置されていた。別荘を取り囲む木々の間には箱状の小型の警備用ロボットが何台も行き交っていて、周囲を警戒している。普通であれば素通り出来るはずもない環境だが、何事もなく玄関まで至れたのは、吉岡りんねがつばめの来訪を予期していたからのだろう。そうでもなければ、今頃はコジロウと警備用ロボットが一戦繰り広げていたはずだ。
「はぁーいんっ、お待たせしましたぁーんっ」
玄関のドアの右側が開き、メイド服姿の女性が現れた。設楽道子だ。
「突然のご訪問、失礼いたします。吉岡りんねさんはいらっしゃいますでしょうか」
美野里が一礼すると、道子はにこにこしながら中を示す。
「はぁーいん、御嬢様でしたらおられますぅーん。そちら様の御用件は何でございましょうかぁーん?」
「佐々木つばめさんとの、話し合いの席を設けて頂きたいのですが」
美野里がつばめを示したので、つばめはコジロウを背後に控えさせながら言った。
「直談判しに来ました。このままだとこっちの身が持たないので」
「それでしたらぁーん、少々お待ち下さいーんっ」
道子は笑顔を保ちながら、一旦扉を閉めた。その途端にビジネスライクな表情を保っていた美野里が唇を曲げ、ローヒールのパンプスでコンクリートの床を踏み躙った。
「間違いないわ、一昨日私を襲ってきたサイボーグよ。あの変な喋り方は何、キャラ立て?」
「お姉ちゃん、そこで怒っちゃ話し合いに来た意味もへったくれもないんじゃない?」
今度はつばめが苦笑すると、美野里は拗ねた。
「だって、あのサイボーグ女のせいでケーキが食べられなかったのよ。レモンケーキは寺坂さんに半分あげちゃったし、あの女が手回しして店員もお客さんも追い出したせいで、食べ直そうと思って注文したイチゴのロールケーキが来なかったし。食べ物の恨みはね、世界で一番怖いのよ」
それは確かに許し難い。数分後、再び扉が開き、道子が中に入るように促してきた。美野里はすぐに表情を元に戻し、何事もなかったかのように道子に礼を述べて室内に入っていった。大人である。つばめとコジロウも美野里に続いて室内に入り、スリッパに履き替えた。外見は洋風でも、その辺の決まり事は日本的である。
杉の木の香りが僅かに漂う廊下を進み、道子に示されるがままにリビングに入ると、あの煙突が繋がっているであろう暖炉が目に入ってきた。目線を上げると、三階まで見通せる吹き抜けがあり、仰け反るほど高い天井からはシャンデリアが下がっていた。しかし、つばめが期待していたようなド派手なものではなく、別荘の内装によく似合うナチュラルなデザインのシャンデリアだった。骨組みは木製で、ホタルブクロの花に似ている磨りガラスの傘が電球に被さっている。暖炉前には丁寧な編み込みの大判のラグが敷かれ、リビングの広さに見合ったサイズのソファーが設えられ、キッチンと隣接したダイニングには一枚板のテーブルが置かれていた。品が良く無駄のないインテリアに、つばめは感嘆しきりだった。奇天烈な絵画も彫刻も用途不明の全身鎧もない。金持ちであればあるほど暮らしぶりは優雅になる、というのは正しかった。
「お待たせいたしました」
涼やかな声と共に、吉岡りんねは吹き抜けに面した階段を下りてきた。つばめは気を戻して振り向くと、そこにはありとあらゆる美術品を不要物と化すほどの美貌を備えた少女が立っていた。面と向かって会うのはこれで三度目になるが、その度に美貌に圧倒される。美人は三日で慣れる、という慣用句があるが、それは嘘だ。三度会っても驚きが薄れるどころか、美しさの完成度に気付かされる。紺色のシンプルなワンピースを着ていて、その襟元には球状の水晶が付いた銀のネックレスが下がっている。肩にはニットのストールを掛けていて、華奢な足は両サイドにチェック柄が入ったタイツに包まれている。着替えが少ないのと服を考えるのが面倒だということで、自宅に戻ればジャージに綿入れ半纏で過ごしているつばめとは天と地ほどの差がある。
「御嬢様をお連れいたしましたぁーんっ」
道子は弾むように階段を下りてくると、りんねを出迎えた。りんねはつばめ達に向き直り、一礼する。
「ようこそいらっしゃいました、皆様方。改めて自己紹介いたします、吉岡グループの社長である吉岡八五郎の娘であり、佐々木つばめさんの襲撃を業務とするグループのリーダーでもあります、吉岡りんねと申します」
「いえいえこちらこそ。てか、グループ名、ないんだ」
つばめがおざなりに返事をするついでに突っ込んでみると、りんねは顔を上げた。
「ないわけではございません。ですが、正式名称は長いので……」
「じゃ、その正式名称ってのは?」
「では、御紹介させて頂きます。佐々木つばめさんの保有する遺産を奪取、または佐々木つばめさん本人の略取を目的とし、吉岡グループ、ハルノネット、新免工業、フジワラ製薬、弐天逸流より派遣された人員によって構成された特殊業務遂行部隊、でございます。社内では、特務部隊や御嬢様チーム、などと呼称されております」
りんねが淀みなく言い切ったので、つばめはげんなりした。
「そりゃ長いね」
「ええ。ですので、略称を検討しているのですが、なかなか良い案が浮かばないのです」
「じゃ、提案してもいい?」
つばめが挙手すると、りんねは頷いた。
「はい、どうぞ」
「吉岡一味」
「単純明快にして簡潔ですね。採用を検討させて頂きます」
「社交辞令をどうもありがとう」
つばめは愛想笑いを浮かべると、りんねは己の美貌を崩さない程度に口角を上げた微笑みを見せた。目を細めているので本物の笑顔には見えるが、その奥の目は笑っていなかった。というより、表情自体が作り物じみているので目の表情もどことなく嘘臭く見える。口調も必要以上に丁寧で抑揚が平坦なので感情が窺いづらく、相手に深読みすらも許さない雰囲気がある。つばめが可もなく不可もない位置付けに収まりながら生きていたように、それがりんねの処世術なのだろう。伊達に御嬢様ではない。
道子とりんねに促され、つばめ達はリビングの最も日当たりと眺めの良い場所にある応接セットに移動した。座り心地もデザインも一級品のソファーに腰掛け、りんねと向かい合う。銀縁のメガネが上がり、つばめの背後に控えるコジロウを捉えた。親しげに細めていた目が徐々に見開かれ、鳶色の澄んだ瞳が警官ロボットを映す。
「間近で拝見いたしますと、コジロウさんの素晴らしさが良く解ります」
「そりゃどうも」
つばめが気のない返事をすると、りんねはコジロウを舐めるように見回す。
「バランサー一つ取っても、量産機には到底作り出せない精度があります。関節の可動域の幅広さによって生じる、カウンタートルクも上手く相殺されています。出力時と入力時のパワーゲインにもほとんど差がありませんし、人工知能の出来も見事の一言です。量産機の自律行動はセキュリティの都合で使用権限保有者の近辺のみに限られておりますが、昨日の戦闘で、コジロウさんは完全自律行動を取れることが解りました」
「お遣いさせることってそんなに凄いの?」
今一つ凄さが解らないのでつばめが問うと、りんねは頷く。
「ええ、とても。つばめさんの漠然とした指示と備前さんの個人的な所用を並行処理して判断し、行動に出たばかりか、つばめさんの身の危険を察知して最適な行動を取りましたから。昨日、巌雄さんと一乗寺先生が戦闘を行ったホームセンターは一時的に吉岡グループで借り上げたのですが、買い上げたわけではございませんので、店内の商品や設備を破壊すれば当然ながら損害賠償が発生します。また、店を閉めていた間の利益損失も補填する必要がありますので、戦闘が長引けばその分補填額が増えてしまいます。ですので、コジロウさんは巌雄さんに迅速に退避して頂くように、襲撃はせずに姿だけ現されたのでしょう。巌雄さんは潔い方です、分が悪いと解ったらすぐに手をお引きになりますからね」
「そうなの?」
つばめがコジロウに問うと、コジロウは答えた。
「本官の想定と相違ない」
「ですので、コジロウさんはもっと有益に活用すべきです。つばめさんの扱い方では、携帯電話を少し高性能な電卓として使用しているのとなんら変わりありません」
りんねは道子が運んできてくれた紅茶を、一口だけ含んだ。
「じゃ、あなただったらどういう具合にコジロウを扱うの?」
つばめが少しむっとすると、りんねは淀みなく返した。
「そうですね。私でしたら、コジロウさんを前線には配置いたしません。身を守るだけでしたらSPを雇えばいいだけのことですし、敵対する相手が現れたら早々に買収してしまえば戦う前に事は終わりますが、遺産を守ることは常人にはまず不可能です。目先の現金や土地に大した価値はありませんから」
「なるほど、道理だ。でも、私はその遺産が何なのかは知らないんだもん。そこからしてまず、条件が違いすぎるよ。コジロウも、遺産が何なのかは教えてくれないしさぁ」
つばめが不公平感を感じてぼやくと、りんねは受け流した。
「つばめさんが遺産の正体を存じ上げる必要などありません。むしろ、御存知頂けない方が、こちらとしても都合がよろしゅうございます。ですので、こちらも情報を開示いたしません」
「そりゃ確かに。私がそっちの立場でもそうするよ。相手に自分の手の内は明かさないもんだし、ボロを出すとしてもそれを利用出来るタイミングじゃないと出すつもりもないよ。理に適っているよ」
「お褒め頂き、光栄です」
「で、そろそろ本題に入りたいんだけど、いい?」
「ええ、どうぞ」
りんねは快諾し、細い指でティーカップをソーサーに戻した。
「平日に襲うの、やめてくれないかな。疲れるんだもん」
「業務とは平日に行うべきものではありませんか」
「だから、その平日に学校があって日常があるんだよ。非日常なの、戦闘も襲撃も。だから、そういうのはある程度心構えが出来ている土日にしてくれないかなぁーって思って、相談しに来たの」
「先方に心構えが出来ている時に襲撃を行っては、奇襲でもなんでもありません」
「だから、その奇襲が困るの」
「つばめさんを困らせるのが私達の業務です」
「せめて週一かニにしてよ。それだったら、考えてやらないでもないんだけど」
「私が皆さんと取り交わした契約書には、週休二日と書き記してあります」
「だから、それをどうにかしてほしいって思って……」
「契約書に記載した労働条件を変更する予定はありません」
言葉は通じるのだが、話がまるで噛み合わない。暖簾に腕押し、糠に釘、馬耳東風。かといって、ここで逆上して話し合いの席を放り出せば、りんねはこれまでと条件を変えずに襲い掛かってくる。こちらの感情を逆撫でするのもまた、噛み合わない会話の目的かもしれない。つばめは打開策を思案しつつ、紅茶に口を付けた。
噴き出すほど不味かった。
やかましいBGMにエキセントリックな効果音、コントローラーのボタンを無心に叩く音。
古びた寺には似付かわしくない音を発しているのは、五〇インチの大型テレビだった。その前に並んで座っている二人の男は、やや身を乗り出して画面を凝視している。テレビに映し出されているのは、実写と相違のない緻密なグラフィックと抜群の操作性が好評なレースゲームだ。時折体を傾けるほどゲームに熱中しているのは、寺の住職である寺坂善太郎と、バイクを返しに来たついでに上がり込んできた一乗寺昇だった。
「で?」
寺坂は急カーブを擦り抜け、一乗寺が操るランボルギーニ・カウンタックを追い越した。
「で、ってなんだよう」
一乗寺も負けじとスピードを上げ、次のカーブで内角から攻め入り、寺坂の操るNSXを追い越し返した。
「お前があの娘をわざわざ敵の懐に突っ込ませたのには、理由があんだろ?」
寺坂は車体の曲がり具合に合わせて上体を曲げながら言うと、一乗寺は再加速しつつ返した。
「まぁねー。俺ってさ、ほら、諜報員じゃん?
だから、その辺の仕事もしないとお給料が出ないわけ。必要最低限の生活資金とその他諸々の経費は支給されるけど、給料が出ないと色々と困っちゃうんだよねーっ、と」
その拍子に、ランボルギーニはNSXの横っ腹に突っ込み、NSXをコースアウトさせた。
「あっ、てめぇっぶつけやがったな!?」
NSXをコースに戻しながら寺坂が毒突くが、一乗寺はそれに構わずに話し続ける。
「でも、吉岡グループのガードがガチガチガッチンでなかなかもって調査が進まなくってさぁー。遺産が何なのかってこと、長光さんは死んでも教えてくれなかったしぃ、つばめちゃんはまるで知らないしぃ、コジロウはソフトもハードもプロテクトが固すぎてどんなことをしても記憶回路に侵入出来ないしぃー? だから、実力行使に出てみないと埒が開かないって思って、現場の判断でつばめちゃんを敵陣に突っ込ませてみましたぁー」
「せめて上の指示を仰げよ」
そう言いつつ寺坂はドリフトさせて加速し、一乗寺のランボルギーニを押し出してコース脇の池に突っ込ませた。
「あひゃあんっ!?」
奇声を発した一乗寺が目を剥くと、寺坂は一乗寺の車がすぐに出てこないのをいいことにストレートを突っ切る。
「で、お前の読みだとどういう結果になるんだよ。てか、俺にそんなことをべらべら喋っていいのかよ」
アバウト諜報員めが、と嘲笑ってから、寺坂のNSXが一位でゴールした。
「いいのいいの。よっちゃんだって無関係じゃないし、むしろこっち側の人間だし?」
一乗寺は悔しさを滲ませながらもコントローラーを置き、クソ坊主、と毒突いた。
「つばめちゃんの命と遺産を狙う連中には、共通点があったりしちゃったりするんだよねん。五十年前から、どいつもこいつも急に栄えるようになったんだ。吉岡グループは元々は一介の町工場だったけど、ある日を境に生産能力も製品の精度も群を抜くようになった。ハルノネットは細々と電話線を張っている下請け業者だったのに、これまたある日突然電気信号通信の高圧縮技術を開発した。新免工業も悲しいぐらいショボい輸入販売業者だったのに、海外の業者を抱き込んで土木工事用製品という名目で兵器を開発して販売し始めた。フジワラ製薬にしても至って真っ当な製薬会社だったのに、馬鹿みたいな路線変更をしやがった。弐天逸流はどうってことない剣術の流派だったのに、いきなり新興宗教をおっ始めやがった。で、その少し前に、あれがあった」
と、一乗寺が指し示した先にあったのは、五十年前の新聞の切り抜きを入れた額縁だった。紐を張って板壁から吊してある額縁の中には、今となっては珍しい、紙の新聞が挟まれていた。日に焼けて黄ばんではいるがインクは色褪せておらず、太く濃い見出しの文字ははっきりと読み取れた。謎の流星、襲来。
切り抜きの中身はこうだ。今から五十年前の夏の夜、船島集落上空に突如流星が降ってきた。中部地方を南東部から横断してきた流星は、彗星のような光の帯を残していき、船島集落にまで及んだ。それが墜落してくると思われた瞬間、光も流星本体も何もかも消失してしまった。隕石の一種だった、との結論が出されているが、それを真実だと認識するためには必要なものが欠けていた。落下物だ。
「あの隕石がUFOだとか思ってんのか?で、そのUFOが人類にどうこうした結果であの遺産が出来上がったとか言うんじゃないだろうな? もしかして、政府の連中は宇宙人とか信じちゃってたりすんのか?」
うわダッセェ、と寺坂が嫌みったらしく笑うと、一乗寺は寺坂の触手で出来た右腕を睨んだ。
「そんな猥褻アームを持っているくせに、宇宙人の存在を信じちゃいないの? その方がダサくね?」
「信じなきゃいいんだよ、そんなもん」
寺坂はスタートボタンを押し、コンティニュー画面のままになっていたゲーム画面を切り替えた。
「変なものを馬鹿みてぇに信じるから、妙なことになるんだよ。俺はもう、そういうのはうんざりなんだ」
「だろうねぇ」
一乗寺はちょっと肩を竦めてから、胡座を解いて立ち上がった。広い畳敷きの本堂には、ゲームソフトや娯楽物のディスクが至るところで山積みになっていて、ホログラフィーペーパーの車雑誌が祭壇の周囲に散らばっていて、本尊の前には無造作に脱ぎ捨てられた法衣が転がっていた。掃除もろくにしていないので埃が分厚く溜まり、足の踏み場があるのはテレビの周辺だけだった。これが寺の本堂でなければ、いかにも若い男らしい部屋だというだけで済むのだろうが。寺坂が信心深くないのは今に始まったことではないし、下手に口出ししては片付けをさせられる羽目になりかねないので、一乗寺は一言言いたい気持ちをぐっと我慢した。
寺坂が別のゲームを始めた気配を察知してから、一乗寺はライダースジャケットの下からコードレスのイヤホンを取り出して耳に差し込んだ。軍用GPSの機能を持つPDAも取り出してホログラフィーを展開し、コジロウの現在位置を割り出した。先程と変わらず吉岡グループの別荘から動いていないので、異変は起きていないようだった。音声を拾えればいいのだが、吉岡りんねが先手を打って電波妨害を仕掛けていればアウトだ。コジロウにも音声記録装置もあるにはあるのだが、その情報を開示出来るのは管理者権限を保有するつばめだけだ。しかし、つばめのあの性格では会話の音声データを開示してくれないだろう。生まれ育った環境がそうさせるのだろう、つばめは自己保身が強すぎる。それは悪いことではないのだが、と思いつつ、一乗寺は耳を澄ませた。
コジロウの聴覚センサーを経由して、話し声が聞こえてきた。
ひとしきり咳き込んでも、まだあの味が残っている。
一体なんなんだ、あの味は。見た目は至って普通で香りもまともだが、何かがおかしい。つばめは咳き込みすぎて涙の滲んだ目元を拭ってから、今一度紅茶の入ったティーカップを見下ろした。美野里は心配げにつばめの背中をさすってきてくれたが、なんとか落ち着いてきたのでそれを制した。盛大に噴き出した紅茶がテーブルを大いに汚してしまったが、事も無げに道子がそれを拭き取っている。
「な……何これ?」
つばめはティーカップを取るが、二口目を飲む勇気はなかった。
「うーん、ちょっと不思議なお味かもしれませんねー」
美野里は紅茶に口を付け、眉を下げた。りんねは黙って紅茶を傾け、白い喉に飲み下していく。つばめは二人の反応が今一つ信じられず、紅茶に舌先を少しだけ付けたが、やはりひどい味だった。これが何なのだろう、と真剣に考え込んでみるが、すぐには思い当たらなかった。生臭みと共に粉っぽさがあり、喉越しは非常に悪い。その匂いに心当たりがあるようで、ないようで、しかし記憶の奥底にこびり付いている。よくもまあ、美野里もりんねもこんなものを飲めるも
のだ。もう一度口にしたら胃の中身も戻ってきそうだったので、つばめはティーカップを押しやった。
「もしかして、これ、米のとぎ汁で作ったんじゃ……?」
あの粉っぽさと匂いで思い当たるのはそれだけだが、なぜそんなもので紅茶を淹れるのだ。
「ま、まあ、それはそれとして」
つばめは気を取り直してから、再度話を切り出した。
「何度も言うけど、平日に来るのだけは止めてほしいんだけど」
「平日に業務を行うのが社会人の決まりです」
「でも、あなたは未成年でしょ?」
「午後八時以降でさえなければ、労働が許可されています」
「まあ……夜襲はなかったけど、その言い方だとこれからは仕掛けるつもりなんだね?」
「事と次第に寄りけりです」
抑揚も表情も変えないりんねに辟易し、つばめは変な味の紅茶を飲んでいる美野里の肩を叩いた。
「お姉ちゃん、よろしく!」
「頼るのが遅いわよ、もう」
美野里はティーカップを置いてから、佇まいを直してりんねと向き合った。
「どうぞ、お納め下さい」
そう言ってりんねが差し出してきたのは、シンプルなデザインの名刺だった。美野里もまた、ジャケットの内ポケットから自分の名刺を取り出して交換してから、美野里は改めて話を切り出した。
「では、吉岡さん。そちらの主張を整理いたします。労働契約書の内容により、業務は平日の日中に行うべきものであり、つばめさんの要求する期日には執り行えない、ということですね」
「ええ、そうですわ」
りんねが返すと、美野里はつばめを示す。
「ですが、つばめさんは平日は通学しておりますし、学業があります。学生の本分は学業ですので、それを妨げるのはいかがなものかと思います」
「妨げるのが私共の業務です。備前さんもそれをお解りではありませんか?」
りんねの体温のない眼差しが、音もなく上がる。
「二日前、備前さんは道子さんが遠隔操作なさった女性サイボーグによって襲撃されましたが、その原因は考えるまでもないのではありませんでしょうか。それが一度で終わるとお思いですか? 私達は手段を選ばないという手段を選んでおりますので、次は備前さんの身柄を拘束するかもしれません。そうでなければ、備前さんのお命を盾にしてつばめさんを恐喝するかもしれません。場合によっては、備前さんの御家族に危険が及ぶかもしれません。つばめさんお一人が引き受けるべき出来事を、部外者であるあなた方が引き受けなければならなくなるかもしれません」
「何を仰りたいのですか?」
テーブルの下でつばめの手を握りながら美野里が言い返すが、りんねは穏やかに述べた。
「生きて帰れるとお思いなのですか、備前さん。私達が重要視しているのは、あくまでもつばめさんのお命と遺産であり、それ以外の御方には価値もなければ興味もないのです」
「つばめ。有効射程内だ」
コジロウが反応した。つばめがその視線の先を辿ると、吹き抜けに面した二階の廊下に立つ大柄な男が、重厚なアサルトライフルを構えていた。キッチンから戻ってきた道子も笑顔を保ってはいたが、女の細腕には不釣り合いな大きさの拳銃が握られている。りんねは涼しげな面持ちで、妙な味の紅茶をまた一口含む。
「コジロウさんもまた遺産の一つですので、遺産を行使する能力を有しているつばめさんを守るのが最優先事項であり、それ以外の方は二の次であるとこれまでの戦闘で判明しております。言ってしまえば、コジロウさんはつばめさんさえ無事なら、それ以外の人間がどうなろうとも関与しないということです。ですから、ここで巌雄さんと道子さんがつばめさんと備前さんを同時に狙撃した場合、コジロウさんがお守りになるのはつばめさんお一人だけです」
悠長な仕草でティーカップをソーサーに置いたりんねは、口角をほんの少し和らげる。
「つばめさん。あなたは私達の労働条件の変更を申し出に参りましたが、そのお話を続けましょう」
道子の大振りな拳銃の照準が、つばめの頭に向く。
「この世の中、要求だけを通すことは不可能です。要求を受諾して頂くためには、それ相応の対価を支払う必要があります。それは賃金であり、労働であり、商品なのです。その対価として、あなたの身柄を私達に差し出して下さるのであれば即座に銃口を下げさせますが、それが嫌だと仰るのなら」
武蔵野のアサルトライフルの照準が、美野里の頭に据えられる。
「実の姉のように慕っておられる方の脳髄を吹き飛ばしてご覧に入れましょう」
「正気……だよ、なぁ」
背中に冷たいものが流れ落ちる感触に身震いしながら、つばめが呟くと、りんねは答える。
「合理的な判断に基づいて、交渉の内容に値する対価を提示しているだけです」
血も涙もなければ、情けを掛けようともしない。自分達の利益のためになら、人殺しさえ厭わない。つばめの心身を追い詰め、遺産も何もかも放り出してあなた様に差し上げます、と這い蹲って命乞いするまでは、手を緩めることすらもしないだろう。やはり、敵陣に乗り込むのはいくらなんでも浅はかすぎた。吉岡りんねだって人間なのだから、ちゃんと話せば解ってくれるに違いない、と甘っちょろいことを考えていた自分に吐き気すら覚える。そんな腑抜けた考えが通用していたら、戦争なんて起きたりしないし、犯罪も発生しないだろう。人間同士だからこそ解り合えないことなんて、いくらでもある。その中の最たる例が、これだ。
コジロウをどう使えばいい。それさえ上手く考えられれば、この状況を切り抜けられるはずだ。つばめは美野里の手を握り返しながら、懸命に頭を働かせた。コジロウに美野里を守らせる。ダメだ、つばめの方が撃たれてしまう。コジロウにつばめを守らせる。ダメだ、それでは美野里が殺される。コジロウにりんねを襲わせる。ダメだ、りんねもつばめと同じ条件であるというのなら、もしかするとコジロウの管理者権限を上書きされるかもしれない。コジロウにりんねを人質にさせて退路を開く。ダメだ、敵はどちらもプロなのだ、りんねに当たることすら厭わずに狙撃してくる可能性が高い。コジロウの無線で一乗寺に助けを呼ぶ。ダメだ、到底間に合わない。
どう考えても上手くいかない。何をさせたとしても、事態は悪化するだけだ。しかし、このまま手をこまねいていてもどうにもならない。美野里が殺されてしまうかもしれないし、つばめも無傷では済まない。コジロウはとてつもなく強いが、武装は一切なく、一体しかいないのだから出来ることは限られている。どうする、どうする、どうする。
「ぎゃあぎゃあうっせーんだよ、さっきから」
吹き抜けに面した三階の廊下に、不機嫌極まる態度で青年が現れた。藤原伊織だ。
「ダリィんだよ、やり方が。さっさとブチ抜けよ」
「伊織さん、それではつばめさんの貴重な体液が無駄になってしまいます。負傷させるのは構いませんが、無用な出血だけはご勘弁願います。それでは、大いに利益損失が出てしまいます」
りんねは伊織を仰ぎ見、やや眼差しを強めた。
「大金持ちのくせしてしみったれてんなぁ、お嬢!」
そう叫ぶや否や、伊織は三階の手すりから身を躍らせた。筋肉の薄べったい体をしならせてリビングに飛び降り、両足が床板を踏み締めた瞬間に激しく鳴った。どう見積もっても七メートル近い高さがあったが、伊織は平然と両足を伸ばして立ち上がった。着地の痛みどころか、衝撃による過負荷も感じていないようだった。気怠げに首を曲げた伊織は、爬虫類を思わせる三白眼でつばめと美野里を捉えた。
「おい、射線に入るんじゃねぇ」
二階の廊下から照準を合わせていた武蔵野が舌打ち混じりに吐き捨てるが、伊織は無視した。
「まどろっこしいことしやがって。目当てのモノがそこにあるんだ、奪い取らなくてどうするんだよ」
応接セットに大股に歩み寄ってきた伊織は、ソファーに腰掛けているりんねの肩を強引に掴んだ。
「いい加減に俺を戦わせろよ、そのために俺を買ったんだろうが、クソお嬢」
伊織の指の長い骨張った手がりんねの顎を掴み、頬をいびつに押し上げる。それでも尚、りんねは表情を崩しはしなかった。少し位置のずれたメガネを整えてから、りんねは横目に伊織を見返す。
「その表現には語弊があります。フジワラ製薬に対し、伊織さんの価値に相当する対価を支払った末に雇用契約を結んで頂いたのです。伊織さん御自身を購入したわけではありません」
「御丁寧にどうも」
伊織は好戦的に頬を歪ませると、りんねの首が折れかねない角度に捻り上げて少女の薄い唇に食らい付いた。貪るように唇を吸われ、乱暴に舌をねじ込まれた瞬間、初めてりんねは動揺を露わにした。弱々しい手付きで伊織を押し返そうとするが、男の力には勝てずに上体が逸れた。愛撫でもなければ親愛でもない、捕食行動だ。りんねの下顎から仰け反った喉に掛けて、唾液の糸が滑り落ちていく。
命の危機に瀕している恐怖とは全く別の意味で硬直してしまい、つばめは気まずくなって目を逸らしそうになった。美野里は信じられないと言わんばかりの顔で二人を凝視している。しかし、武蔵野と道子の反応はそのどちらでもなく、じりじりと後退り始めていた。それでも、つばめと美野里に据えられた銃口の照準は外れなかった。
「ちったぁ色気のある反応しやがれ。ダッセェ」
りんねを突き飛ばしてから体を起こした伊織は、肩を揺する。
「……困った方ですね、伊織さんは」
悩ましげに瞼を伏せながら起き上がったりんねは、手の甲で口元の汚れを拭った。伊織はよろけながら後退り、唸り、呻き、咆えた。安物で色褪せたシャツとジーンズが内側から引き裂かれ、千切られ、伊織の肉体が膨張していく。ベルトのバックルが弾け飛んで弾丸のように空を切り、つばめの背後の窓ガラスを砕いた。コジロウはつばめと美野里の傍に歩み出すと、身構えた。人間から軍隊アリに似た異形と変貌した伊織は、喘ぎながらあぎとを開く。床に傷が付くのも構わずに六本足で這い蹲るその姿は、ドライブインで目にしたものよりも一回りも二回りも大きく、車両にも匹敵する大きさと化していた。つばめは呆気に取られ、言葉すら出なかった。
「交渉を続けましょう、つばめさん。伊織さんがコジロウさんを倒すか、つばめさんを奪取すれば、私達の勝ちです。コジロウさんが伊織さんを倒し、つばめさんを守り切れたなら、私達はあなたの提示した条件を受諾いたします」
怪物を従えた少女は、呼吸を整えた後につばめと向き直った。
「それでは、本日の業務を行いましょう」
怪物が咆える。
人間の体など容易に貫ける太さの棘がずらりと連なったあぎとを開き、二本の触角を震わせ、自重と爪で床板にひび割れを作りながら頭部を逸らす。背面には小山のような棘があり、分厚い外骨格が日差しを鈍く撥ねている。艶やかな複眼に映るのは、無表情を保つりんねと、顔を引きつらせているつばめと美野里だった。伊織が変化した軍隊アリの怪物は吹き抜けに収まりきらないほどの巨躯を持て余し、ぎちぎちぎちと顎を軋ませた。
常識では到底考えられないことだった。そもそも、人間が姿を変えることからして信じがたいことであり、有り得ないことだった。その上、体格が数十倍、いや、数百倍に膨張している。伊織の身長と体格からして、体重はせいぜい七十キロ後半だろうが、この軍隊アリの怪物は床板をぶち抜きかねないほどに重量を増している。つばめは混乱に支配されそうな頭を懸命に働かせるが、余計に訳が解らなくなりそうだった。
モノを膨張させたところで、実際の重量に変化はないはずだ。ベーキングパウダーを混ぜた焼き菓子は膨張して量が増えたように見えるが、どれほど膨らませようとも含まれるのは空気だけなので、材料の総重量と出来上がりの総重量は変わらない。風船にしても、薄いゴムの内側に空気を吹き込んでいるだけなのだから、空気そのものの質量とゴムの重みだけしかない。だが、伊織はそうではないらしい。見かけと同じ、膨大な質量を得ている。それがどういう理屈なのか、さっぱり解らない。しかし、伊織の変化が見せかけだけではないということは身を持って知っている。幻覚ではない証拠に、床が大きくひび割れた際に細かな木片が跳ね、つばめの足を掠めた。
「お教えいたしましょう」
伊織のあぎとに軽く手を添え、りんねは滑らかに語る。
「伊織さんは、その体液の七割を遺産に置き換えております。フジワラ製薬による度重なる臨床実験の結果、遺産の適合者となったのです。ですが、伊織さん御自身は遺産の管理者権限を有しておりません。御自身の意志である程度の肉体強化と変身が可能ではありますが、能力の全てを引き出すことは出来ないのです。そこで、管理者権限と同等の遺伝子情報を有している私が、伊織さんにお力添えして差し上げたのですよ。もっとも、管理者権限に酷似しているというだけであって管理者権限そのものではありませんので、フルパワーとはまいりませんが」
「遺産が……体液?」
まるで意味が解らない。つばめはコジロウの陰に隠れ、訝った。
「フジワラ製薬が有している遺産が液体であり、人間の身体機能に多大な変化を与える物質であるということです。吉岡グループが有している遺産はまた異なりますが、遺産であることに変わりはありません」
「コジロウみたいなもの、ってこと?」
「大雑把な説明をいたしますと、そうなりますでしょうか。特定の遺伝子情報を保有する人間が接触することによって起動し、機能を発揮する、人智を越えた物体の総称が佐々木長光さんの遺産です」
りんねがしなやかに手を挙げると、巨体の伊織は胸郭を震わせて笑いながら這い進んできた。
「っひゃひゃひゃひゃ……」
「お話しさせて頂いて、よく解りました。つばめさんは、その遺産を手にするに値する人物ではありません。あなたは無知であると同時に無益です。あなたの使い方では、コジロウさんも、他の遺産も、手にした傍からゴミ以下の物体に成り下がってしまいますでしょう。そもそも、私達に何度命を狙われても反撃に転じないどころか、こうして私達の懐に飛び込んでくることからして、あなたの愚かさが痛感出来ます。素人、いえ、幼児未満の危機感です」
巨体の伊織によって日が陰り、薄い逆光を帯びたりんねは敵意を込めた言葉を叩き付けた。
「あなたは私達を侮っています。屈辱を覚えるほどに」
「……かもね」
つばめはりんねの穏やかな口調に込められた苛立ちを感じ、背筋が逆立った。
「能書きはここまでにしましょう、時間の無駄です」
伊織さん、とりんねが促すと、巨体の伊織はぐっと床板に踏み込んで前進した。途端に、壊れかけていた床に大穴が空き、身を乗り出した拍子に頭部が太い梁をへし折った。装甲車を思わせる怪物が突進してくる中、コジロウは早々に回避行動を取った。つばめを脇に抱えて床を蹴り、跳躍する。空中で折れかけた梁を蹴って方向転換し、二階の窓縁に着地する。が、すぐさま巨体の伊織は前足を伸ばし、壁ごと窓を破壊しに掛かってきた。
「緊急退避!」
そう叫ぶや否やコジロウはつばめを抱えて窓に背を向け、膝下の前後を逆にしてスラスターを噴射した。つばめの足の真下で高熱の暴風が吹き荒れた直後、コジロウは窓を突き破った。鋭利なガラスと窓枠の破片が飛び散るが、コジロウはつばめの頭部をしっかりと抱えてくれていたおかげで、掠り傷一つ負わなかった。膝下を回転させてスラスターを元の位置に戻したコジロウは、逆噴射を行いながら庭に着地した。
スリッパを履いた足を地面に付けると、頭上に木片の雨が降ってきた。つばめが振り返ると、巨体の伊織の猛攻は続いていた。洒落た別荘の壁を難なく破壊しながら外界に現れた怪物は一声咆え、コンクリート製の地下階の壁を力強く殴り付け、その勢いで下半身を引っこ抜いた。束の間、日が陰る。緩やかな弧を描きながらつばめの頭上を通り過ぎた怪物が着地すると、ロータリーの車が一台残らず飛び跳ね、地面すらも波打った。
「だぁらあああああああっ!」
伊織は薄氷を割るようにアスファルトを踏み砕きながら、一直線に突っ込んでくる。コジロウは脚部のタイヤを出して地面に噛ませ、急発進するが、雪解け水で土がぬかるんでいるせいで初速が遅れた。その隙を見逃さずに伊織はコジロウの足を掴み、薙ぎ払うようにアスファルトに擦り付ける。
「ぎゃっ!?」
コジロウに抱かれたままだったつばめもまた、同じ目に遭った。だが、コジロウが必死に体を丸めてつばめの体を守ってくれているので、コジロウの白と黒の装甲がアスファルトと鬩ぎ合って火花が飛び散ろうとも、つばめの肌には擦り傷すらも出来なかった。アスファルトが途切れると摩擦も途切れ、コジロウを押さえ付けていた伊織の前右足が外れて宙に放り出された。一秒にも満たない時間で態勢を戻したコジロウは、杉の幹が抉れるほど強く蹴り付けて己の体を発射させた。まだ伊織が及んでいない専用道路に退避しようとするも、軌道を読んでいたのだろう、伊織はコジロウに勝るとも劣らぬ反応速度で専用道路に立ちはだかってきた。
「行かせるわけねぇだろ、クソが!」
「緊急回避!」
行く手を塞がれ、コジロウはスラスターを噴射してスピードを殺そうとするも手遅れだった。伊織の振るった漆黒の爪が白い塗装を盛大に刮げ落とし、アイセンサーカバーが砕け、右のアンテナが根本から外れる。咄嗟にコジロウがつばめを突き飛ばしていなければ、つばめの体ごと真っ二つにされていただろう。整ったマスクフェイスは無惨に割られ、バイクのタンクに似た形状の胸部が裂けて内部構造が露出し、オイルが血飛沫のように舞う。
手を伸ばすが、届かなかった。コジロウの腕力で突き飛ばされたつばめは、破損したコジロウが転げ落ちる様を凝視しながら、巨体の伊織の頭上を過ぎっていった。見開いた目に涙が滲んだのか、衝撃に次ぐ衝撃で脳がきちんと働いていないからか、視界がぼやけていた。別荘が、伊織が、空が遠のいていくと、背中から柔らかくも冷たいものに突っ込んだ。泥水を跳ね上げながら滑ったつばめは、背中を堪えながら上体を起こし、コジロウが残雪の中に着地出来る角度に突き飛ばしてくれたのだ、と察した。おかげで手も足も折れていないが、心は折れかけていた。
「……コジロウ!」
「俺達は道具なんだよ、なあ?」
伊織は無造作に前右足を上げ、その爪の間に挟んだコジロウを掲げてみせた。白バイ警官のヘルメットに似た頭部は割れ、粉々に割れたアイセンサーカバーの下から漏れたオイルが一筋流れていた。
「部下は道具、遺産も道具、こいつも道具」
伊織はつばめの目の前に顔を突き出し、身動きしないコジロウをがちゃがちゃと揺さぶった。
「俺達が生きるも死ぬも上司次第、ってぇことだよ。いい加減解れよ、あぁ?」
「だからって……こんなの……」
つばめは懸命に手を伸ばすが、伊織は前右足を挙げてコジロウを遠ざける。
「てめぇ自身には一円の価値もねぇよ、クソガキ。このガラクタロボットを動かせるから、てめぇに一〇円ぐらいの価値が生まれるってぇだけだ。だが、てめぇがお嬢に這い蹲って許しを請えば、その一〇円を何千億倍にも出来る。道具を使うことすらろくに出来ねぇクソガキのくせに、お嬢をどうにか出来ると思ったか?
俺達に勝てると思ったのか?」
ぎぢぢぢぢぢっ、と伊織の爪が狭まり、コジロウの首の根本が歪んでいく。シャフトが、ケーブルが、露わになる。
「バアッカじゃねーの?」
表情こそ見えないが、伊織の口調は弾んでいた。笑ってすらいた。つばめが意地で涙と嗚咽を堪えながら別荘を窺うと、大穴が開いた壁の奥からりんねが戦況を窺っていて、武蔵野が美野里の後頭部にアサルトライフルの銃口を据えていた。今度こそ終わりだ。勝ち目なんてない。コジロウは動けないし、助けようがない。目の前にはコジロウを一撃で叩き落とした伊織がいて、美野里は今にも殺されそうだ。目眩がするほどの動揺と心臓が張り裂けそうなほどの苦痛を怒濤のように味わっていたが、不意につばめの頭の中で何かが切れて――冷静になった。
「待てよ……?」
佐々木長光の孫であるりんねにも遺産は操れる、伊織はその遺産で体液を賄っている、ということは。つばめは唐突に勝利を確信すると、込み上がる笑いを全力で押さえ込みながら立ち上がった。背中からは雪混じりの緩い泥がぼたぼたと垂れ落ち、髪もべたべたで、スカートから出ている両足も冷たさが肌に突き刺さってくるが、そんなことは最早気にならなかった。つばめは大股に歩いて伊織に向かっていくと、伊織は触角を片方曲げた。
「んだよ」
「えい」
つばめが伊織のあぎとを掴むと、伊織は脱力し、その場にへたり込んだ。
「う、へぁっ!?」
「どうやれば何がどうなるか、までは解らないけど」
つばめは全身全霊で願った。伊織が動かなくなるように、コジロウが解放されるように。
「んだよ、なんだよ、どうしてこうなるぅっ!?」
伊織は必死に抵抗しているのか、首や足を奇妙な方向に捻りながら力を込めようとするも、立ち上がれなかった。前右足の爪が何者かの手によって引き剥がされるように開いていき、コジロウが転げ落ちた。
「コジロウ、大丈夫ーっ!?」
つばめがコジロウに駆け寄ると、コジロウは外れそうな頭部を押さえながら、ぎこちなく立ち上がった。
「センサーの六割を損傷。稼働率、四割低下。だが、護衛行動に支障は来さない」
「よかったぁ」
つばめは安堵すると、少し照れ臭かったがコジロウに触った。破損部分までは修復されなかったが、無意味ではなかったらしく、白い塗装が削り取られた胸部装甲の内側で動力機関が唸りを上げた。
「じゃ、早速で悪いんだけどさ、あいつをどうにかしてくれる?」
つばめが腹這いになっている伊織を指し示すと、コジロウは両手の動作を確かめてから歩み出した。
「了解した」
「どぅわぁっ!?」
コジロウは無造作に伊織を持ち上げると、ひっくり返した。上下逆さになった伊織は六本足を荒々しく蠢かせるも、昆虫そのものの体と化した弊害で地面を掴むことすらも出来なかった。泥を帯びた爪は空を切るばかりで、伊織の罵声も情けなさを強調するだけだった。つばめは顔に付いた泥を拭ってから、にんまりしながら別荘を仰ぎ見ると、美野里の背後で武蔵野が肩を竦めてりんねに一言言った。こりゃダメだな、と。
「いいことを教えてくれて、どうもありがとう」
つばめは伊織の胸部の上によじ登ると、意味もなく仁王立ちして胸を張った。
「コジロウも遺産、伊織って人の体液も遺産。それがあなたに操れるってことは、私に操れないわけがないもんね。おかげで助かっちゃった。意外と親切なんだねぇ、りんねちゃん?」
「不覚でしたね」
りんねは眉根をかすかに曲げ、不快感を示したが、つばめに背を向けた。
「巌雄さん、備前さんを解放して差し上げて下さい。道子さん、伊織さんの鎮静剤を御用意して下さい」
「あのさあ、交渉はまだ終わっていないんじゃない? コジロウが勝って、私を守り切ったんだから、約束はきっちり守ってくれなきゃ困っちゃう。社会人なんでしょ?」
つばめがにやりとすると、りんねは横顔だけ向けてきた。
「承知いたしました。違約するわけには参りませんので」
「最初からそう言ってくれれば、こんなことにはならなかったのにねぇ」
つばめはしたり顔になり、スニーカーのつま先で伊織の胸郭を小突いた。相手の正体さえ解ってしまえば、どうということはなかったのだ。りんねは足早に別荘の中に戻ると、それと入れ替わる形で美野里が玄関から出てきた。美野里はもどかしげに駆け下りてきてくると、つばめに抱き付こうとしたので制した。美野里の仕事着であるスーツに泥汚れが付いてしまったら、クリーニングするのが大変だからだ。
「じゃ、また遊びに来るからねー!」
専用道路を出てからつばめが手を振ると、ひっくり返ったままの伊織が叫び返してきた。
「二度と来るんじゃねぇええええええっ!」
悔しさと腹立たしさがはち切れんばかりに詰まった怒鳴り声を背に受けると、この上なく清々しかった。これまではやり込められてばかりだったが、今後はやられた分だけやり返してやる。つばめは軽トラックの車内を汚さないために荷台に載ると、コジロウも荷台に載ってきた。程なくして美野里が発進させたので、まだ冷え込みの厳しい春風が吹き付けてきた。泥水のせいで一気に体温が奪われたつばめは身を縮め、隣に座るコジロウの様子を窺った。
アイセンサーカバーは縁だけを残して全て砕けていたが、赤い瞳の輝きは健在だった。全身の傷と汚れが痛々しく、今更ながら胸が締め付けられた。その傷が少しでも早く治れば、とつばめが触れようとすると、コジロウはつばめの手を掴んできた。硬く厳つい金属の指が少女の手を握り、制してくる。
「現状の本官に接触しては、負傷してしまう」
コジロウはつばめの手を下ろさせてから、その手を離した。機械熱が籠もった金属の指が外れ、遠のいていった。つばめはその手を引き留めたかったが、結局出来なかった。所在のなくなった手を組んで膝を抱え、美野里による落ち着いた運転に身を任せた。高揚感が収まってくると、なぜか伊織とりんねのキスシーンが思い出されてしまい、つばめは無性に恥ずかしくなって頭を抱えた。他人事なのに、やけに意識してしまう。テレビドラマや少女漫画ではお馴染みではあるが、現実に目の当たりにするとドキドキする。火照った頬を両手で押さえ、唇を噛んだ。
つばめは、コジロウとキスをする日は来るのだろうか。
大方の予想通り、ではある。
吉岡りんねが同じ血統であり立場である佐々木つばめに執着する理由としては、一乗寺や政府側の人間が捻り出したものと相違はなかった。遺産の正体についても探りを入れていたが、それがどんな形状の物体で、いかなる作用を持っているのかまでは判明してはいなかった。大きく前進したというわけではなかったが、これである程度は手掛かりを掴めそうだ。残念なのは、戦闘中にコジロウの聴覚センサーが破損したことだ。
イヤホンを外した一乗寺は一息吐くと、PDAに保存した音声データを分校のノートパソコンに転送させた。帰ってから文書に起こして報告書にまとめるのは面倒だが、それが本来の仕事なのだ。億劫でたまらないが、そういった細々とした仕事を積み重ねていかなければ、実戦配備されなくなってしまう。そうなれば、合法的に拳銃を発砲して派手な戦闘を行えなくなってしまう。あの快楽を味わえなければ、諜報員をしている意味がない。
「で?」
暇を持て余した寺坂がPDAを覗き込んできたので、一乗寺はPDAの電源を切り、ポケットにねじ込んだ。
「こればっかりは、よっちゃんに喋っちゃダメなんだってば。ゲームしよ、さっきの続き」
「てめぇにとっちゃ、世の中全部がゲームだろ」
寺坂の軽口に、一乗寺は思い切り笑い出したくなった。その通りだからだ。命を削り合うスリルの中に身を投じ、硝煙と銃声にまみれて生きていなければ、生きているという実感すら湧かない。何もかもが薄っぺらく中途半端で、退屈極まりない。だから、危険の方から目の前に転がり込んでくるような仕事を選んだのではないか。
快楽は危険の中にしかない。