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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
番外編

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ギフトは寝て待て

 思い掛けない質問だった。

 夫と娘達が眠る黒御影石の墓石を濡れ雑巾で磨いていたが、その手を止めた。振り返ると、その質問をした主は竹箒を手にしてにこにこしている。メイド服姿の女性型アンドロイド、設楽道子と向き直って、吉岡文香はどう答えるべきかと逡巡した。娘、吉岡りんねの誕生日は、厳密にはいつなのだろう。

 文香は無意識に下腹部を押さえながら、思い起こした。十五年前、胎内で成長が止まってしまった胎児、りんねを外界に引き摺り出した日が誕生日なのだろうか。否、成長しなくなったから殺す他がなかったのだ。ならば、遺産の力と祖父の執念を得て生まれ変わったりんねが、肉人形として覚醒した日が誕生日なのだろうか。政府の助力で作った戸籍に書いた日付は、嘘ではないが真実ではなかった。けれど、誕生日に当て嵌まる日付があるとすれば、それ以外に思い当たらなかったのだ。文香はしばし間を置いた後、躊躇いがちに述べた。

「六月二十八日よ」

「じゃ、来週ですね! わあい、お祝いしなきゃ!」

 皆さんにも教えてきますね、と道子ははしゃぎ、軽い足取りで玉砂利を蹴って本堂に戻っていった。文香は彼女を止めようと手を伸ばしかけたが、何も言えずに下ろした。程なくして、寺坂と道子のやり取りが聞こえてきた。二人はとても楽しげだった。言わない方が良かっただろうか、と後悔しつつ、文香は吉岡家の墓を一瞥した。

 吉岡家乃墓、と刻まれた墓石の側面には、夫である吉岡八五郎の名と、りんね、まどか、たまき、めぐり、と複製されて使い捨てられた娘達の名が並んでいた。東京の一等地にあった吉岡邸を売却し、家財道具や調度品なども全て売り払って現金に換えて、文香とりんねの当面の生活費に充てることにした。一度政府に押収されたが、再び手元に戻ってきた娘達の遺骨は、夫である吉岡八五郎の遺骨と共に墓に収めてある。

「あなた達の誕生日はりんねと同じにしていいのかしら。厳密に言えば、皆、違うものね」

 文香は冷たい墓石を撫でながら、話し掛けた。当然ながら返事は返ってこなかった。

「それじゃ、また来るわね」

 火を灯した線香を供えてから、文香は浄法寺の墓地を後にした。りんねの誕生日を一大イベントにしたいのか、本堂からは道子と寺坂のやけにテンションの高いやり取りが漏れていた。二人もりんねに対しては複雑な気持ちを抱いているだろうが、すっかり割り切っているようだ。その切り替えの早さが、正直羨ましかった。

 愛車であるクリーム色の軽自動車を運転して、家路を辿りながら、文香は胸中の苦味を堪えていた。紆余曲折を経てようやく家族になれた一人娘、りんねを本当に愛せるのか。そもそも、自分は誰かを愛せるのだろうか。そんな自信があるわけがない。今も、良い母親らしく振る舞っているだけだ。上っ面だけだ。嘘だ。偽物だ。

 吉岡文香という人間の人格には、幼少期の苦悩が未だに根を張っている。文香の生まれ育った家庭は常に貧困が蔓延していたが、そのくせ子供の数はやたらと多かった。いわゆる大家族というやつで、両親の無計画な妊娠によって毎年のように子供が産まれていた。文香はその中の一人で、三番目に生まれた。三歳上の姉と二歳上の兄は騒がしく荒れた家を疎んでいて、家出を繰り返していた。だから、必然的に文香に下の兄弟を世話をする役割が周ってきて、朝から晩まで仕事をさせられた。勉強をする暇もなく、宿題をする場所もなく、幼稚園の出迎えに食材の買い出しに遊び相手に着替えに風呂に歯磨きにオムツ交換に、馬車馬の如く働かされた。同じ年頃の少女達は流行りの服を着て携帯電話を持って友達と遊んでいるのに、文香は色褪せた服を着て家事に追われていた。

 そんな生活に嫌気が差すのは、時間の問題だった。中学三年生の頃、飽きもせずに子作りをして妊娠した母親が産気付いたので、父親もそちらに向かった。兄妹達も何人か連れて行かれたが、文香は山盛りの洗濯物を洗って干せと命じられたので連れて行かれなかった。いつもであれば疎外感に苛まれるのだが、その日は妙に冷静で、今なら家出出来る、と思い立った。新聞配達で貯めた金も少しだけあったので、それと生活費を使えば、この家族から逃げられると確信した。覚悟が据わってからの行動は早く、一時間後には文香は家を出ていた。

 手持ちの服を全部詰め込んだのに重くないショルダーバッグを提げ、行き先を確かめずに乗った電車を気の向くままに乗り継ぎ、辿り着いた先が関東近郊の地方都市だった。電車賃で現金を半分以上使ってしまったので、文香は当面の生活費を自力で稼ぐことにした。行きずりの売春を始めたのである。

 男達の喰い物にされる日々は辛かったが、それ以外に生きていく術がなかった。幸いなことに、顔形はそれなりに整っていたので客の入りは良く、おかしな性癖の男にも引っ掛からなかった。貯まった金で身なりを小綺麗にして、化粧も覚えると、年齢を誤魔化し、キャバクラで働き始めた。慣れない酒を飲まされて死にそうになったことも一度や二度ではなかったが、それでも意地で踏ん張った。あの地獄に戻るぐらいなら、と思うが故だった。

 遊びもせずに働き続けていたおかげで、それなりの額の金は貯まり、身の振り方も上手くなった。固定客が何人も付いてくれて、何十万、何百万と貢いでくれた。その金を使って整形し、理想の顔を手に入れた。本来の名字を捨てるために金を積んで養子縁組をしてもらい、吉岡の名字を手に入れ、法的手続きを取って下の名前も改名した。読みは元々同じフミカだが、あの親から付けられた名前がどうしても嫌で、漢字を変えたのである。この体さえあれば手に入れられないものはないと信じて、文香の固定客の一人であり、湯水の如く金を使う上客だった佐々木八五郎に迫り、計画的に妊娠して彼の妻の座を手に入れた。

 欲しいものを手に入れたのに、その後は失うばかりだった。吉岡八五郎となった夫の心と愛情は、最後まで手に入れられなかった。娘は産まれる前に死んでしまった。吉岡グループの社長夫人の座も、文香に良く似た肉人形に奪い取られた。取り戻すためにあらゆる手を尽くした。娘さえ取り戻せれば、夫が振り向いてくれるものだと稚拙な期待を抱いていた。それなのに、夫は殺されてしまった。

「うぁ」

 視界がぼやけ、運転が危うくなったので、文香は路肩に車を止めた。大丈夫、大丈夫だから、と自分に何度となく言い聞かせながら深呼吸を繰り返す。八五郎が文香を愛してくれていないことぐらい、当の昔に知っていた。夫の眼差しは文香を捉えず、文香の目を通じて自分自身を見ていたからだ。だから、愛されたわけではない。

 それでも、文香は夫を愛していた。愛されたかったから、愛するしかなかったのだ。管理者権限を持って生まれたりんねを利用したいがために、文香を繋ぎ止めていただけだと知っていてもだ。夫以外に愛してくれるような相手がいなかったから、家族の誰も文香を見てくれなかったから、ただの記号として、労働力にされていたから、結婚生活だけは幸せにしようと頑張った。愛されようとした。けれど、無駄だった。

「おたんじょうび、なんて」

 どうやって祝えばいい。それ以前に、文香にりんねの誕生を祝う資格があるのか。前頭部に鈍痛を感じた文香は、冷や汗の滲んだ手をハンドルから離し、頭を抱えて背を丸めた。過去を顧みれば、今の平穏な生活は文香にとっては幸せと言えるだろう。だが、りんねにとっての幸せとはなんだ。そもそも、りんねは何を以て幸せだと感じるのだろう。考えれば考えるほど、頭痛がひどくなっていく。

 息が出来なくなっていく。



 翌日。文香は、頭痛で起き上がれなかった。

 原因は解っている、ストレスだ。若い頃からの持病で、きつい仕事をこなした後は頻繁に頭痛に見舞われた。その度に寝込む羽目になったが、大したことではない。きっと、ドライブインを新しく開業しようと日々動き回っていたせいだろう。店舗の借り受けに改装に新メニューの開発に、全部一人でこなしていた。その上、自宅の家事なども文香が処理していたのだから、疲れも溜まって当然だ。朝早く起きて夜遅く寝るまでの間、腰を落ち着けている時間は一時間もなかったのだから無理もない。天井の木目を見つめながら、文香はそんなことを考えていた。

「お母さん?」

 ふすまが開き、りんねが顔を出した。パジャマ姿で長い髪はぼさぼさだった。

「大丈夫、ちょっと頭が痛いだけだから」

 文香が弱く笑うと、りんねは不安げに眉を下げる。

「風邪?」

「違うわよ。昔から、こういう体質なの。近頃忙しかったから、今日はゆっくり休むわ。御飯は冷蔵庫の中のもので、適当に食べてちょうだい。お弁当のおかずは昨日のうちに出来ているから、炊飯器で炊けた御飯を詰めるだけでいいから。心配しないで、大丈夫だから」

「でも……」

 りんねは心細そうだったが、いいから、と文香が念を押すと、りんねは渋々ふすまを閉めた。階段を下りる足音が遠ざかっていき、階下からはりんねと伊織の会話がかすかに流れてきた。今日は平日なので、りんねはこれから分校に登校する。その準備を始めたのだろう、洗面台で水を流す音や、電子レンジのアラームや、テレビの音も耳に届いた。それから小一時間後、行ってきます、との声が聞こえた。聞こえないのを承知で、行ってらっしゃい、と文香は呟いた。頭痛の波が徐々に収まってきたので、その後、久し振りに二度寝した。

 ずる休みをしたような気分になった。



 二度寝から起きると、少しは体調が良くなっていた。

 在り合わせの朝食を終えて鎮痛剤を飲んでいると、奥の間から本を手にした伊織が現れ、具合はどうなんだよ、と聞いてきた。りんねにしか興味がない彼にしては珍しいので、文香が意外に思うと、伊織はりんねに頼まれたのだと素っ気なく言い捨てた。ずっと心配していて、今日は学校を休んで家にいた方がいいのでは、と言っていたが、俺がいるから大丈夫だと言い切って登校させたのだという。

「そうだったの。ありがとう、伊織君」

 文香が礼を述べると、伊織は触角を片方曲げた。

「どうってことねぇよ」

 そう言って、伊織は奥の間に戻っていった。二人が一緒に住むようになってから、ただの物置だった奥の間には本の山が次々に築かれていった。なので、今となっては、奥の間は伊織とりんねの書斎であり愛の巣窟だ。文香は掃除のためにたまに入る程度で、普段はあまり近付かない。二人が心穏やかに過ごせる場所を踏み荒らすのは、気が引けるからだ。鎮痛剤が回って頭痛が紛れてきたので、食器を片付けた後、気晴らしに散歩に出た。

 考えてみれば、この集落を出歩いたことはほとんどなかった。ドライブインにするための店舗と自宅を行き来しているだけで、朝早く出て夜遅く帰ってくることばかりだったからだ。梅雨の晴れ間で、冴え冴えとした青空からは日光が満遍なく降り注いでいた。黒々とした杉林が生い茂り、吹き付けてきた風には水気を含んだ草の匂いが混じっていた。持ち主がいなくなったので、耕作が放棄された田畑には雑草が伸びていたが、ある一角だけは作物が青々と葉を伸ばしていた。武蔵野の住む家の前にある畑とその裏にある田んぼは、土が綺麗に均されていた。

「おーす」

 畑に近付いた文香に声を掛けてきたのは、作業着姿の柳田小夜子だった。彼女は首筋にタオルを巻いて軍手に長靴を履いていて、傍らには雑草の山が出来上がっていた。草毟りに精を出していたようだ。

「こんにちは、柳田さん」

 文香が返すと、小夜子は腰を上げて背筋を伸ばしてから、一息吐いた。

「慣れねぇことすると、変なところの筋肉が痛くなっちまうなーもうー」

「武蔵野さんのお手伝いですか?」

「あー、まあ、そんなもん。他にやることねぇし」

 小夜子は畑から出ると、軍手を外してベルトに突っ込み、胸ポケットからタバコを出して銜えた。

「にしても珍しいっすね、文香さんが昼間から外に出てくるなんて」

「近頃忙しかったから、今日はちょっとお休みしようと思ったんです」

「それがいいっすよ。たまに気ぃ抜いておかないと、バツンと切れちまうから」

 小夜子はタバコに火を灯し、煙を吸い込んで味わった後、緩やかに吐いた。

「みっちゃんから聞いたんすけど、来週はりんねの誕生日なんすね」

「ええ。そういうことになるわね」

「んじゃ、なんか見繕っておかねぇとなー。何がいいかなぁ」

「いえ、お構いなく」

「そうは行かねぇ。色々あったんだし、ストレートにめでたいことを祝わんのは勿体ない」

 小夜子は口角を持ち上げてから、武蔵野の自宅に呼び掛けた。

「なー、むっさん。りんねの誕生日、どうするか決めたー?」

 少し間を置いて、庭木の影から大柄な人影が立ち上がった。泥汚れが目立つ作業着姿の武蔵野は、その手には草刈り鎌が握られていた。その鋭利な刃に文香が目を剥くと、武蔵野は苦笑し、足元を示した。砥石と水の入ったバケツが並んでいたので、鎌の刃を研いでいたらしい。

「むっさんにはククリナイフの方が似合うよな、絶対」

 小夜子が真顔で言い放つと、武蔵野は顔をしかめる。

「俺はグルカ兵にはならん」

 全く、とぼやいてから、武蔵野は草刈り鎌を砥石の傍に横たえた。タオルで手を拭きつつ、文香に言った。

「りんねの誕生日は祝うべきだな」

「いえ、お気遣いなく。武蔵野さんも、りんねのことは複雑にお思いでしょうし」

 文香が謙遜すると、武蔵野は義眼の填った右目を下げて文香を捉え、両の瞼を狭めた。

「そうでもないさ。なんだかんだあったが、俺はりんねが嫌いじゃないんでな。そりゃ、お嬢だった頃は鼻に突くガキだと思っちゃいたが、中身が佐々木長光だと知らなかったからだ。それに、散々な目に遭ってきた者同士、これからは労り合うべきだ。でないと、また下らんことで争う羽目になる」

 それで何を贈るつもりなんだ、と武蔵野が小夜子に尋ねると、小夜子はちょっと得意げに笑った。

「この前、秋葉原に行った時に見つけて衝動買いしちまった、超リアルな軍隊アリのフィギュア。実寸の十倍だから、全長二十センチはあるぞ。で、質感がまた絶妙でさー。で、むっさんはなんかあるのかよ?」

「チクワ入道の可動式フィギュアがダブったんだ。だから、それをりんねに贈ってやろうと考えているんだが」

「なんでダブったんだよ、そんなもん」

「仕方なかったんだ。ニンジャファイター・ムラクモの初回特典付き完全数量限定生産BOXにチクワ入道の可動式フィギュアが付いてくると知っていれば、完全受注生産のチクワ入道のフィギュアはキャンセルしたんだが、うっかり忘れてしまっていてな。だが、俺は保存用にしておくような趣味はない。だから、頃合いを見計らってりんねにやろうと思っていたから、丁度良い機会だ」

「むっさん、どんどん深みに填ってねぇ?」

「俺の稼ぎで買ったものを俺の家に飾るだけだ、文句を言われる筋合いはない」

「誰も文句なんて言わねぇよ。でも、たまにはニンジャファイター達をあたしの超合金ロボと戦わせろよ」

「ああいいだろう、だが負けはせんぞ」

 饒舌に語り合う二人を見、文香は可笑しくなった。

「なんだか楽しそうですね、お二人とも」

 途端に我に返ったのか、武蔵野と小夜子は同時に身を引いた。どちらもひどくやりづらそうに目線を彷徨わせ、若干赤面していた。りんねと伊織から、近頃は武蔵野と小夜子が一緒にいると聞いていたが、まさかここまで仲が進展していたとは思いも寄らなかった。周囲に隠し立てするほどのことでもないが、かといって大っぴらにするのも恥ずかしいらしく、武蔵野と小夜子はちょっと距離を開けた。それから、りんねの誕生日プレゼントを誕生日当日に吉岡家に持っていくと言ってくれた。文香は二人に礼を言ってから、散歩を再開した。

「だけど、チクワ入道って……何?」

 確かに、ちくわはりんねの大好物だが、チクワ入道が何なのかは解らなかった。ニンジャファイター・ムラクモも、そういう名前の特撮番組があったとは知っているが、内容まではさっぱりだ。軍隊アリのフィギュアはりんねが確実に喜ぶだろうが、チクワ入道はどうなのだろう。そもそも、入道とはなんだ。ちくわの妖怪なのだろうか。

 集落と外界を繋ぐ道路から、大型トレーラーが入ってきた。青と黄色が塗りたくられた派手なコンテナの側面には、〈REIGANDOO!〉の文字が躍っている。甲高い排気音の後に停止したトレーラーの助手席が開き、制服姿の少女が軽やかに飛び降りてきた。分校の制服である半袖のブラウスに紺色のジャンパースカートを着、通学カバンを兼ねたスポーツバッグを肩に提げ、サイドテールを靡かせながら駆けてきたのは、小倉美月だった。

「あっ、文香さん!」

 美月は息を弾ませながら、文香の前で立ち止まった。

「お久し振りです! 地方巡業が一段落したんで、飛んで帰ってきました!」

「御苦労様、美月ちゃん。その足で学校に行くなんて、大変ね」

 文香が労うと、美月は満面の笑みを浮かべる。

「いえいえ、そんなことないです! つっぴーとりんちゃんに会えるのが楽しみで楽しみで! あっ、それと、来週はりんちゃんの誕生日だって道子さんからメールで教えてもらいました。んで、これをですね、今のうちにりんちゃんにプレゼントしちゃおうって思って。来週はまた九州まで遠征しなきゃならないんで」

 美月がスポーツバッグから取り出したのは、目と口と細い手足が付いたちくわのぬいぐるみだったが、サイズがやけに大きかった。どう少なく見積もっても、全長五〇センチはありそうだ。どこでこんなものを手に入れたのだ、と文香が面食らっていると、美月は照れ笑いする。

「このぬいぐるみ、前に小さいのをりんちゃんにあげたら喜んでくれたんで、大きいやつだったらもっと喜んでくれるんじゃないかなぁって思って。おかげで、クレーンゲームの筐体に大分注ぎ込んじゃいましたけど」

「ありがとう、美月ちゃん。きっと喜ぶわ」

「じゃ、行ってきまーす!」

 美月はちくわのぬいぐるみをスポーツバッグに戻してから、文香に大きく手を振りながら駆けていった。その背中に手を振り返してやりながら、文香は自分まで嬉しくなってきた。美月は本当に良い子だ。りんねの正体や出生がなんであろうと気にせずに、仲良くしてくれるのだから。テレビ中継も始まって、今まで以上に盛り上がっているRECの仕事で忙しいはずなのに、その合間を縫って分校に通ってりんねとつばめと同じ時間を過ごしている。若いからこそ出来ることだ。政府の保養所に収容されている、弐天逸流の元信者である母親の経過も順調とのことなので、小倉一家が揃って暮らせる日が来るのは、そう遠い話ではないだろう。

 りんねは幸せだ。真っ向から好いてくれる人々に囲まれ、心から愛し合える相手を見つけ出せ、誕生日を祝ってもらえるのだから。娘の幸せを素直に祝ってあげたい反面、嫉妬の一歩手前まで羨望が高ぶった。りんねの幸福はりんねのものであって、文香がそれを奪えるはずもなく、成り代われるわけもないのに。

 また、頭が痛くなってきた。



 それから、寺坂と道子にも会った。

 濃緑のアストンマーチン・DB7・ヴァンテージヴォランテに乗った二人は、船島集落跡地の近くに住むシュユと今後についての話し合いをしに行くのだという。弐天逸流に関する情報の真偽、弐天逸流に関わった人間の名前、彼らを引き入れた経緯、寺坂が過去に接触した信者達の所在、などの情報を出来る限り摺り合わせて、政府にとっては都合の良い報告書を作る手伝いをするのだそうだ。シュユの話す内容は人間の価値観では理解しきれない部分も多く、異次元宇宙と接触した経験がなければ概念すら把握出来ないことも多いので、アマラによって産み出された電脳体であり、ニルヴァーニアンの概念や情報を理解している道子の存在は重要である。彼女がシュユの言葉を通訳してくれなければ、政府、いや、人類はシュユに歩み寄ることすら不可能だろう。

「それでですね、りんねちゃんの御誕生日なんですけどね」

 派手なオープンカーの助手席に座っている道子は、胸の前で両手を組む。今日もまたメイド服姿である。

「暇を持て余して作ったシュシュが山盛りにあるんですよ。出来のいいものをちょっといじってから、ラッピングしてプレゼントしようかなーって。多いに越したことはないですからね、髪留めって」

「俺もまあ、適当にだな」

 いつもの法衣姿でサングラスを掛けた寺坂は、禿頭を押さえる。サイボーグ化したのだから髪型は自由自在ではあるのだが、彼は敢えてスキンヘッドを選んでいるようだ。

「随分前に入れ込んでいたキャバ嬢にあげようと思って買ったコンパクトミラーがあるんだけど、その子、ちゃっちゃと高収入の男を引っ掛けて店を辞めちゃってよ。でも、ブランドものだし高かったから捨てちまうのは勿体ねぇしで。だから、りんねにやろうかと思ってよ。つばめはそういう感じのは好きじゃねぇだろうし、ミッキーはRECのファンからばんばん貢がれているから、俺があげるまでもないだろうしな」

「まあ……無駄にはなりませんね」

 寺坂のプレゼントの正体はりんねに明かさないようにしよう、と文香は苦笑した。

「で、他の方のプレゼントはどういう内容でしたか? ちゃんとリサーチしておかないと、被っちゃいますからね」

 やけに真剣な顔をした道子に問われたので、文香が武蔵野と小夜子と美月のプレゼントの内訳を教えると、二人はなんともいえない顔になった。文香も同様である。彼ららしいと言えばらしいのだが、十五歳の少女のプレゼントには相応しくない品物ばかりだからである。しばらく話し合った後、ちくわさえ回避すればこれ以上被らずに済む、という結論に達した。それから程なくして、二人の乗った車は発進していった。

 いつまでも手を振っている道子に手を振り返してやってから、文香は今一度考えてみた。ならば、文香はりんねにどんな誕生日プレゼントを贈ればいいのだろうか。りんねは心優しいので何を贈っても喜ぶかもしれないが、本当に喜んでくれなければ意味がない。だが、ちくわが題材のプレゼントは既出だ。しかも二つもある。水商売をしていた頃は、その場その場で誕生日をでっち上げて男達から高価なブランドバッグや宝飾品を貢いでもらったが、文香のような女達は安酒と一晩のデートで応じるだけだった。あまりにも高頻度で誕生日を連発しすぎたので、自分自身の誕生日がいつだったかを忘れたこともある。けれど、それはそれで充実していた。おめでとう、おめでとう、と何度も言われるのは素直に嬉しかったからだ。

「この分じゃ、プレゼントの山が出来ちゃいそうね」

 誕生日祝いの来客も増えそうなので、お祝いの御馳走のメニューも考えておいた方が良さそうだ。歩いているうちに血行が良くなってきたらしく、再発しかけた頭痛も紛れたので、自然と文香の足取りは軽くなった。ふと気付くと、船島集落に至る道に入っていた。

 危険、関係者以外立ち入り禁止、政府管理区域、などと仰々しい言葉が書かれた看板が立ち、黄色と黒のテープが貼られていた。検問も造られていて、重武装した警察官が道の両脇を固めていて、警察車両も並んでいる。文香はそれに近付くこともなく、眺めるだけに止めた。しばらく前までは、この少し先で古めかしいドライブインを経営し、ちらほらとやってくる客を相手にして過ごしていたのだが、それが恐ろしく遠い過去のように思える。

「シュユに御用でしたら、俺に話を通してくれますか」

 不意に話し掛けられ、文香が身動ぐと、重武装した警察官の一人がヘルメットを外した。周防国彦である。

「あら、どうも、周防さん」

 文香が間の抜けた返事をすると、周防は左目の義眼を動かして文香を捉える。

「どうも。しかし珍しいですね、文香さんがこっちに来るなんて」

「散歩していたんです」

「それ自体は結構ですが、あんまり船島集落には近付かないで下さいね。でないと、俺達の仕事が増えるんですよ。それでなくても、シュユとお偉方が話し合う日ですから、警戒がきつくなっているんです。あなた方の住む集落の周辺は常に警戒されているので何事もないように思えるでしょうが、一ヶ谷市内は非常線が何本も張ってありますから、迂闊なことをすれば関係者でも引っ掛けられますよ。まあ、小倉重機の車両はほぼノーチェックで通しますけどね。そうしなければ、レイガンドーと岩龍のムジンが不安定になってムリョウに影響を及ぼすかもしれませんから」

「あら、お優しいんですね」

「そうでもないですよ」

 周防は口角を曲げ、戦闘服と揃いの紺色の手袋を嵌めた手を広げた後、握り締めた。

「あなた方は檻なんです。あなた方さえ穏やかに過ごしていれば、佐々木つばめとその手中にあるムリョウもムジンも、あなたの娘さんが手懐けている怪人も、二度と世に放たれずに済みますからね。国益は大いに損ないますが、国家の安全には代えられません。厳しいことを言うようですが、文香さんが出そうとしている店舗も、本来であれば絶対に許可出来ないことなんです。一ヶ谷市内には未だにN型溶解症の病原菌が蔓延していることになっていますし、文香さんは罹患者と同居していることにもなっています。ですから、文香さん自身も発病しなかった保菌者として扱われても仕方ない状況なんです。娘さんだけじゃなく、藤原伊織の保護者という立場でもあるんですから、出来ることなら集落から離れてもらいたいはないんですがね」

「ですけど、私が店を出すことは許して下さいましたよね?」

「ええ、まあ。長孝さんと小倉親子も遺産の関係者ですが、RECを止めさせて小倉重機を倒産させろとはさすがに言えませんからね。今や全世界的な大衆娯楽になりつつありますからね、ロボットファイトは。それが前例としてあるので強くは出られないんですよ。前例がなければガタガタ抜かすのが政府ですが、前例があったらあったで頷くしかないのも政府なんですよ」

「ありがとうございます。これからも御手数をお掛けするでしょうが、御世話になります」

「こちらこそ、俺の連れ合いが娘さん方の御世話になっています。分校は大丈夫ですか?」

「ええ、もちろん。りんねが毎朝元気に通っているのが、何よりの証拠です」

 そう言うと、周防の面差しが和らいで見るからに安堵した。一乗寺もまた、厳密に言えば人間ではない。それ故に使い捨ての武器として最前線で酷使されてきた彼女が、ようやく人間らしい生活を手に入れられたのだから、彼女を愛して止まない周防は心配なのだろう。だが、周防は内閣情報調査室の諜報員としての仕事があるため、集落にはほとんど帰ってこられない。今日も、こんなにも近くにいるのに顔すらも見られないのだから、思いは募る一方だろう。そう思うと、目の前の重武装した男が急に可愛らしく見えてしまう。

「で、その、なんですか、娘さんの誕生日がどうとか」

 ミナからのメールにそう書いてあったんですけど、と周防が声を低めたので、文香もそれに合わせた。

「はい、来週なんですけどね」

「俺も適当にプレゼントを見繕いますよ。ミナが張り切っているのがメールの文面だけでも解ったんで、付き合っておかないと後で拗ねられちゃいそうなんで。で、娘さんは何なら喜びますかね? やっぱり、ちくわですか」

「生憎ですけど、ちくわは既に二つも出ていまして」

「だったら、何がいいんだ……」

 それ以外に全く思い付かない、と周防は悩ましげに呻いたが、無線機から呼び掛けられた途端に真顔に戻った。彼は文香に一礼した後、警察車両に戻っていった。文香は彼の背を見送ってから、踵を返した。元来た道を辿って歩きながら、一乗寺と周防のいびつながらも収まりのいい関係を微笑ましく思っていたが、またも頭の奥に鈍痛が生じてきた。せめて家に帰るまでは持ってくれと願いながら足を進めたが、今度は目眩までもが起きてきた。

 渦巻く視界と芯の抜けた平衡感覚に耐えきれなくなった文香は道端で蹲り、目眩が収まるまで待った。それでも、なかなか落ち着いてくれない。前のめりに倒れ込みそうになったが、アスファルトに両手を突いて堪えていると、背後に影が掛かった。肩に差し伸べられたのは、藍色の作業着に包まれた触手の束だった。佐々木長孝だ。

「顔色が良くないが、具合でも悪いのか」

「ちょっと、頭痛と目眩が」

 意地を張れるほどの余力もなく、文香が弱々しく答えると、長孝は両腕の触手を伸ばして文香を立ち上がらせ、小倉重機一ヶ谷支社の社用車であるワゴン車まで導いてくれた。後部座席に座らされた文香は、歯を食い縛って吐き気と戦っていると、長孝が運転席に乗り込んできた。

「家まで送るべきか」

「いえ、大丈夫です」

「大丈夫だとは思えない。あまり辛いなら、一度病院に行くといい」

「大丈夫です」

 文香は背を丸めながら、辛うじて声を絞り出した。長孝は少し間を置いてから、ハンドルから触手を離した。

「だったら、しばらくこうしていよう。俺も今日は仕事は終わった。家事の大半はコジロウが済ませている。よって、時間は有り余っている。俺と話すこともないだろうから、聞き役になろう。娘には言えないこともあるだろうしな」

「そんなの」 

 ありすぎて、どこから話せばいいものか。文香は後部座席に横たわり、天井を見上げる。

「やっとの思いで取り戻したのに、あんなに辛い思いをして手に入れたのに、どうしてあの子の全部を好きになってやれないのかな。これからはりんねのために生きるって決めたのに、これまで不幸だった分、思い切り幸せにしてやるって誓ったのに、なんでそれが面白くないのかな……」

 再発した頭痛で感情の堰が切れたのか、意志に反して心情が口から出てしまう。

「幸せになるって、どうすればいいの。誰もそんなの、教えてくれなかった。ハチさんだって教えてくれなかった。私はずっとずっとハチさんのことが好きだったけど、ハチさんはそうじゃなかった。だってあの人、自分のことしか好きじゃなかったんだもの。それが解らないほど、馬鹿じゃないから。私なりに頑張ろうって思ったの、だけど、解らないものは解らないの。自分の誕生日を祝ったこともないし、祝われたこともないから、りんねの誕生日の祝い方なんて全然なの。だけど、皆は祝ってくれるの。私はそんなこと、されたこともないのに。親なのに、お母さんなのに、もう頭の中がぐちゃぐちゃして、どうしたらいいのか解らないの」

「解るさ」

 長孝はバックミラー越しに、部品のない顔を向けてきた。

「俺も時折考える。ここにひばりがいたら、この家にひばりがいてくれたら、と考えずにはいられなくなる。そういう時は立ち止まるしかない。やりきれないことに向き合うにしても、一度に全部とぶつかる必要はない。やり過ごす方法を見つけるためにはそれしかない。あまり無理をすると、立っていられなくなるからだ。俺も文香さんも、我が子の親になってから、まだ一年も経っていない。だから、行き詰まるのも無理はない」

「ごめんなさい」

「何がだ」

「前に、長孝さんに、色々とひどいことを言ってしまったのに」

「気にしないでくれ。俺も以前、文香さんに暴言を吐いてしまった。だから、負い目を感じる必要はない」

 気が済むまでそうしているといい、と長孝は言い、バックミラーを傾けた。文香は彼の気遣いに感謝しながら、嗚咽を殺した。素直になるだけなのに、なぜこんなに苦しいのだろうか。家族に心を開くだけなのに、なぜ未だに抵抗があるのだろうか。羨まずに祝えばいいものを、なぜ羨んだ挙げ句に疎んでしまうのだろうか。自分の醜悪さばかりが鼻に突き、娘への愛情が濁ってしまいそうになる。それが恐ろしく、文香は声を上げて泣いた。

 目を上げると、車窓から入る日差しが翳っていた。泣き疲れた後に寝入ってしまったのか、時間が飛んでいる。文香は乱れた髪と汚れた顔を気にしながら上体を起こすと、運転席で技術書を広げていた長孝が振り返って、もういいのかと尋ねてきた。文香は曖昧な返事をしてから、歩いて帰れると言ってワゴン車を後にした。



 帰らなければならない。やることは山ほどある。

 今日は家事を一切せずに家を出てきてしまったのだから、せめて洗濯だけでもしなければ。夕食の支度もしなければならないし、風呂も掃除してから沸かさなければ。りんねはまだ幼く、人間社会に慣れていなければ要領も悪く危なっかしいので、家事はほとんど手伝わせていない。伊織も図体が大きいので、人間サイズの住宅の中では引っ掛かってしまうので、手伝わせると逆に散らかってしまうので手を貸さないでくれと言ってある。だから、全部、文香が片付けなければならない。それが母親の仕事だからだ。

 けれど、それは子供の頃とどう違うのだろう。朝から晩まで働かされて、兄妹の世話をさせられて、自分の時間も部屋も居場所も与えられなかった頃と大差がないのではないか。似合わないドレスを着てどぎつい化粧をして髪を巻いて甘えた声を作ってスーツ姿の男にしなだれかかりながら、浴びるように酒を飲んでいた頃とも何がどう違う。考えるべきではないことばかりが頭を過ぎり、喉が詰まってしまいそうになったが、深呼吸を繰り返す。

「あれ、文香さん?」

 文香が薄暗い道を重たい足取りで歩いていると、声を掛けられた。いつのまにか、佐々木家まで戻ってきていたようだった。明かりの付いた玄関から、携帯電話を手にしたつばめがサンダルを突っ掛けて出てきた。文香は袖で出来る限り顔を拭ってから笑顔を作ろうとすると、つばめは携帯電話を下ろした。

「よかった、帰ってきてくれて。さっき、りんねから電話があって、文香さんが帰ってこなくて心配だから、コジロウにでも捜しに行ってもらおうかって話していたところだったんです」

 自分のことのように安堵したつばめの背後から、警官ロボットが現れた。文香は苦笑する。

「ごめんなさい、心配掛けて。気晴らしに散歩していたら、遠くまで行っちゃったのよ」

「あ、ちょっと待っていて下さいね!」

 すぐ戻ってきますから、と言い残し、つばめは足早に家に戻っていった。その場に取り残された文香は、コジロウをおずおずと見上げた。彼を間近で見るのは、よく考えてみたら初めてかもしれない。赤く発光するゴーグルに目をやると、コジロウは首のモーターを鋭く唸らせながらマスクを引き、目を合わせてきた。その上背の高さと体格による迫力に臆してしまい、文香は愛想笑いを作った。しばらくして、つばめが急ぎ足で戻ってきた。

「あの、これ! うちの夕飯なんですけど、よかったら持っていって下さい! お裾分け!」

「あら、いいの? 長孝さん、これから帰ってくるでしょ?」

 文香はつばめが差し出してきた包みを受け取りつつも、気後れした。ランチクロスに大振りなタッパーが包まれ、出来たての料理の優しい匂いが零れてくる。

「いいんです、うちはお父さんと二人だけだし。足りなかったら、適当に見繕えばいいだけだし。だけど、文香さんのところは伊織もいるし。それに、今から帰って夕飯の支度を始めると大分遅くなっちゃうだろうから、りんねがお腹を空かせていたら可哀想ですから」

「ありがとう、つばめちゃん。器は後で洗って返すわね」

「じゃ、おやすみなさーい」

 つばめはコジロウと共に、見送ってくれた。文香はタッパーを両手で抱えながら、佐々木家の兄妹に一礼した後に改めて帰路を辿った。野菜と肉が煮えた匂いと醤油の香りから察するに、肉じゃがだろうか。足が格段に軽くなり、喉の異物感も消えていた。長孝には気が済むまで泣いていていいと言われただけであって、つばめからは夕食のお裾分けをもらっただけなのに、硬い殻に覆われていた心中が解れてきた。

 結局のところ、文香も誰かに気遣ってもらいたかっただけなのだろう。親兄弟にも甘えられず、弱みを見せられる男にも出会えず、友人も作れず、その寂しさを埋めようと働きすぎては心身を痛め付けていた。付け入られまいとするがあまりに敵ばかり作り、その結果がこれだ。だが、まだやり直せる。文香は生きているし、りんねも人間として生まれ変わったからだ。まずは、自宅に帰らなければ。

 そして、娘と自分自身と向き合わなければ。



 吉岡家に戻ると、玄関に明かりも付いていなかった。

 りんねも伊織もいるはずなのに、と訝りつつ、文香は玄関のドアノブを回した。鍵は開けっ放しで、呆気なく開いてしまった。限られた人間しかいない集落とはいえ、いくらなんでも不用心だ。手探りでスイッチを入れ、オレンジ色の明かりが点ると、玄関のあがりまちに制服姿のりんねが座り込んでいた。長い髪が垂れていて顔を覆い隠していたので、文香は心臓が跳ねてしまったが、すぐにその正体が娘だと悟って気を取り直した。

「ただいま、りんね」

「……うぇ」

 ぎこちなく顔を上げたりんねは、目元が赤らんでいて頬には涙の筋がいくつも付いていた。その顔を拭ってやろうと文香が近付くと、りんねは文香の足に縋り付いてきた。幼い子供のような仕草に、りんねは少し戸惑った。

「どうしたの、一体?」

「だ、だぁってぇ、おかあさんがかえってこなかったんだもぉん」

 りんねは文香の履いているジーンズに顔を擦り寄せながら、ぼろぼろと涙を零した。文香は泣きじゃくるりんねを離してから抱き締めてやり、その背を撫でてやった。りんねは力一杯文香に抱き付いてきて、上擦った声で何度もお母さんお母さんと繰り返した。余程寂しかったのだろう。体は大きいが、中身は本当に子供なのだ。最後のりんねに産まれ直してから、三年と数ヶ月しか過ぎていないのだから。

「ごめんね、りんね」

 様々な思いを込め、文香が謝ると、りんねはしゃくり上げながら言った。

「お母さん、具合悪いって言ったのに、学校から帰ってきたらどこかに行っちゃって、でも、私も伊織君も遠くに捜しに行けないし、だけど、捜しに行こうにもお母さんがどこに行ったのかも解らないし、だから、だから、だから」

「ごめんね、本当に……本当に……」

 鼻声で言葉を詰まらせながら、必死に喋るりんねに、文香は居たたまれなくなった。自分は、なんて下らないことで悩んでいたのだろう。家族になったことが不安なのは、何も自分だけではない。まともな人生経験が皆無のりんねの方が、文香よりも余程不安に決まっている。体ばかり大きくなり、知能ばかりが発達していても、心はまだまだ幼いのだから、寄り添って支えてやらなくてどうする。文香は娘の髪に頬を寄せ、自分の愚かさを痛烈に恥じ入った。

「お帰り」

 狭い廊下を通って暗がりの奥からやってきたのは、人型軍隊アリ、伊織だった。

「ただいま、伊織君。この子、ずっと玄関にいたの?」

 文香はりんねを抱き締めたまま、伊織を見上げると、伊織は爪先で顎を軽く引っ掻いた。

「俺は部屋にいた方がいいっつったんだけど、どうしても玄関から動かなくてよ。で、具合、どうなんだよ」

「もう大丈夫。それより御夕飯にしましょう。つばめちゃんからお裾分けしてもらったのよ」

 文香はタッパーの包みを伊織に手渡してから、りんねの乱れ放題の髪を撫で付けてやった。

「その前に、お風呂に入った方がいいかもしれないわね」

「お母さんと一緒がいいーぃ」

 りんねは文香から頑なに離れようとしなかったので、文香は娘の手を引いて立ち上がった。

「はいはい、解ったわ。伊織君、悪いけど、お風呂を沸かしてくれるかしら」

「おう」

 素っ気なく返事をしてから、伊織は大きな体を縮めて廊下を通っていった。ぐずぐずと洟を啜り上げているりんねを宥めてやりながら、文香はりんねに握られている手を握り返してやった。何の苦労も知らない、柔らかく瑞々しい肌と小枝のような細い骨で出来ている、脆弱な子供の手だった。

 それからしばらくして、風呂が沸いたので入ることにした。長風呂になりそうだったので、先に米を研いで炊飯器にセットしておいた。座り込んでいたせいでぐちゃぐちゃになってしまった制服とブラウスを脱いだりんねを先に入れてから、文香も風呂に入った。軽く汗ばんでいた肌と髪を洗うと、気分が晴れ晴れとしてくる。りんねの長い髪はくせがないが、伸ばしている分手入れが必要なので、トリートメントを付けてやってからタオルで巻いてやった。広い湯船に身を沈めると、りんねは弛緩した。泣きすぎたせいで詰まっていた鼻も通りが良くなり、鼻声も治っていた。

「あったかぁい」

「そうね」

「お母さん」

「ん、なあに?」

「今度、御飯の炊き方とか、洗濯物の畳み方とか、御掃除の仕方とか、教えて。伊織君にも」

「いいわよ、私がやるから。あなたはちゃんと学校に行って、御勉強して、ゆっくりしていればいいのよ」

「何も出来ないのは嫌なんだもん。つばめちゃんはなんでも出来る。美月ちゃんもなんでも出来る。でも、私は何も出来ない。今日だって、何をしていいのか解らないから何も出来なかった。いつまでもそんなんじゃ、ダメだもん」

「いいのよ。そんなこと、気にする必要はないわ」

 文香は首を横に振るが、りんねは頑として譲らなかった。

「もう、何も出来ないのは嫌。だって、やっと自由になったんだもん。お姉ちゃんも、まどかちゃんも、たまきちゃんも、めぐりちゃんも、ずっとずっとそうしたかったのに出来なかったんだもん。それって悪いことなの?」

「そういうわけじゃ」

「だったら、色んなことを教えてよ。本を読んだだけじゃ解らないことも一杯あるんだもん」

 りんねが食い下がってきたので、文香は根負けした。

「解ったわ。今度から、家の仕事を教えてあげる。伊織君も一緒にね」

「うん」

「その代わり、一つ、教えてくれないかしら。どうして、りんねは私を許してくれたの? だって、私はあなたにとてもひどいことをしてしまったし、一度は殺されかけるほど嫌われたじゃない。それなのに、なんで?」

 文香はりんねの頬に手を添え、娘の目を見下ろした。夫と良く似た眼差しが、躊躇いなく文香を見返してくる。

「うん。一度は、お母さんのことが凄く嫌いになった。どうしても許せなかった。私のこと、利用していたから。だけど、お母さんはずっと私の傍にいてくれた。伊織君のことだって見捨てなかった。あの病院で、私が起きるまで同じ部屋にいてくれた。この家に引っ越してきた日に、私の部屋を作ってくれた。私の話も、伊織君の話も、ちゃんと最後まで聞いてくれた。毎朝、学校に持っていくお弁当を作ってくれた。行ってらっしゃいって送り出してくれた。帰ってきたら、ただいまって出迎えてくれた。だから、もう、嫌いになんてなれない」

 気恥ずかしげな笑みを見せた娘に、文香は胸中で凝っていたものが氷解した。りんねには、今まで自分が親や他人からしてほしかったことをやってきた。文香の中での、正しい母親の在り方を出来る限り実践してきた。普通という言葉に当て嵌まるような、生活を送れるように尽力してきた。上っ面だけでもまともになろうとしたからだ。そんな紛い物の愛情でも、貫き通せば本物に近付けるということか。

「ありがとう、りんね」

 文香がりんねを抱き寄せると、りんねははにかむ。

「ふへへ」

 嘘、偽物、虚構、作り物、見せかけ、フェイク、デッドコピー。だが、それらは過去のことだ。腕の中の娘は本物の人間であり、体温があり、心臓が脈打ち、意志を持って生きている。だから、打てば打っただけ、感情は響くのだ。それに気付くまで、随分と遠回りしてしまった。簡単なことほど難しいとは、よく言ったものである。

 文香とりんねが風呂から上がって髪を乾かし終えると、御飯も炊き上がった。文香は味噌汁を煮立てると、つばめからのお裾分けである肉じゃがを器に盛って食卓に出した。文香が作るものより若干甘みが強く、牛肉の細切れが入れてある関東風の味付けだった。お母さんのとは違う、でもおいしい、と言いながら、りんねは泣いたことで消耗した体力を補うためなのか、いつもより少し多めに食べた。伊織は外骨格で出来た爪では箸が滑ってしまって上手く掴めないので、行儀は悪いが、スプーンを握って食べていた。

 夕食が終わると、りんねは昼間に美月から贈られたちくわのぬいぐるみを持ってきて、それがどんなに可愛いかと力説してくれた。以前にも美月からプレゼントされた、同じデザインだが二回りほど小さいちくわのぬいぐるみも居間に持ってきて、小さい方がちーちゃんで大きい方がわーくん、と名前まで教えてくれた。今日から一緒に寝る、とまで言うりんねに、伊織は動揺したのか触角を強く立てた。伊織君もこの子達と仲良くしてね、とりんねに微笑まれると、伊織は触角を下ろし、文句も言わずに頷いた。文香は二人のやり取りを眺めながら、娘の誕生日プレゼントをどうしたものかと考えあぐねた。六月二十八日まではまだ一週間はあるのだから、じっくり考えよう。

 もう、頭痛は起きなかった。



 そして、六月二十八日。

 りんねの誕生日パーティーは、家族だけでこぢんまりと済ますつもりでいたのだが、あれよあれよという間に話が大きくなり、浄法寺の本堂でりんねの誕生日パーティーが行われることになった。主催者は当然ながら住職である寺坂で、ここんとこ暇だったから騒ぎたい、というのが動機である。

 御本尊と仏壇以外はこれでもかと飾り付けられ、白い布が掛けられた長机には皆が持ち寄った御馳走が並び、年齢と同じ本数のロウソクが立てられた二段重ねの大きなバースデーケーキも鎮座していた。主役であるりんねはフリルが多めの白いワンピースを着て、皆から贈られたプレゼントに囲まれ、終始上機嫌だった。中でも特に喜んだのは、文香が思い付く限りのちくわ料理を盛った、ちくわのオードブルだった。

 つばめからは可愛らしい花柄のエプロン、長孝からはRECの関係者にだけ配布されているスタッフ専用Tシャツ、武蔵野からは先述通りにチクワ入道のフィギュア、小夜子からは先述通りにやけにリアルな軍隊アリのフィギュア、一乗寺からは水色で上品なレースが付いたポーチ、周防からは一乗寺のポーチと同じブランドのコームとバレッタのセット、道子からは先述通りにお手製のシュシュがたっぷり、寺坂からは先述通りにバラのレリーフのコンパクトミラー、そして伊織からはヒナギクの押し花を挟んだ栞。シュユは誕生日の概念を理解していないらしく、プレゼントはなかったが、御誕生日おめでとう、とりんねに言ってくれた。

 御馳走が平らげられ、ケーキも食べ終わると、大人達は酒を酌み交わし始めてしまった。こうなるとパーティーの主役が出る幕はなくなるので、りんねは早々に宴席から抜け出した。誕生日プレゼントを全部入れた紙袋を下げ、大人びたデザインのローヒールのサンダルを履き、白いワンピースを翻しながら駆けていった。文香がそっと酒席を抜けて娘の後を追っていくと、伊織も付いてきた。彼もまた、りんねが気になって仕方ないらしい。

 りんねが向かった先には、浄法寺の裏手にある墓地があった。りんねは迷わず吉岡家の墓まで進み、ワンピースの裾を膝の裏に入れながら屈み、誕生日プレゼントを広げていった。

「お姉ちゃん、まどかちゃん、たまきちゃん、めぐりちゃん、他の沢山のお姉ちゃん。ほら、こんなにもらったよ」

 りんねは誇らしげにプレゼントを示してから、墓石を見上げた。昨夜の雨が乾き、水の筋が付いている。

「皆、御誕生日、おめでとう」

「だったら、後でケーキも持ってきた方がいいかしら」

 文香が声を掛けると、りんねは二人に振り返る。

「うん、それがいい。あのケーキ、二段重ねで大きかったからまだ余っているしね」

「それから、私からもプレゼント」

 文香がノートを差し出すと、りんねはそれを受け取り、怪訝そうに広げた。

「これって、何?」

「私の料理のレシピよ。書けるだけ書き起こしてみたの。これから、家のお手伝いをしてくれるなら、御料理も出来るようにならないとね」

「うん。嬉しい!」

 りんねはノートを抱き締めてから、墓石に向けて広げてみせた。

「ほらほら、お母さんの御料理だよ。練習して上手になったら、作って持ってきてあげるからね。そしたら、皆で一緒に食べようね。もちろん、お父さんもだよ」

「そうね、きっと喜んでくれるわ」

 文香が頷くと、りんねは文香を見上げてくる。

「今度、お母さんの御誕生日、お祝いするね。だから、教えてね」

「あら、いいの?」 

「だって、私、皆から祝ってもらえて嬉しかったんだもん。だから、お母さんも嬉しくなってほしいの」

 伊織君もだよ、とりんねに笑顔を向けられ、伊織は顔を背けた。

「……ウゼェ」

「そうね、伊織君もお祝いしてあげないとね。うちの子だものね」

 文香がにやつくと、伊織はぎちりと顎を噛み合わせる。

「ウゼェっつってんだろ」

「嬉しいんだってさ。伊織君、そういう時っていつもこんな感じだから」

 りんねが伊織の言動の意味を解説すると、伊織は居たたまれなくなったのか触角を伏せた。

「クソが」

「ところで、伊織君。このヒナギク、どこに咲いていたの? よかったら教えてよ」

 伊織からのプレゼントである栞を取り出したりんねに朗らかに尋ねられ、伊織はぎりぎりぎりと顎を砕かんばかりに噛み締めていたが、勿体振った仕草で振り返った。腰を屈めてりんねと目線を合わせ、爪を上げて懇切丁寧に道順を教えてくれた。りんねは目を輝かせながら、伊織に詰め寄っている。二人の世界が出来上がっているので、文香はそっと二人から離れた。本堂からは、すっかり出来上がった大人達の騒ぎが耳に届くが、宴席に戻る気はなかったので、文香は境内で立ち止まって晴れ渡った初夏の空を仰ぎ見た。

 細切れの雲が散らばる青空は高く、清々しかった。確かな夏の気配を含んだ風が心地良く、十五年前のあの日のことを思い出す。六月二十八日は、りんねを死産した日でもなければ、ラクシャとアソウギとゴウガシャの能力でりんねが産まれ直した日でもなければ、過去のりんねが自殺を繰り返していた日でもない。吉岡八五郎と文香の間に生じた赤子の存在を、文香が知った日だ。これで八五郎と添い遂げられる、金に不自由せずに済む、辛いことから逃げられる、と十五年前の文香は人生の勝利を確信していた。だが、理想と現実は大違いだった。

 それでも、あの馬鹿げたおままごとの生活よりも、今の方が余程充実している。生きている実感が湧く。年甲斐もなく泣いてしまうほど悩んだおかげで、ようやく自分の醜悪さを認められるようにもなった。何もかもこれからが本番なのだ。文香は娘とその思い人を遠目から眺め、改めて、我が子という世界からの贈り物を受け止めた。

 これからは、愛し、愛されることを恐れはしない。

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