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機動駐在コジロウ  作者: あるてみす
番外編

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58/69

転ばぬ先のチェーン

 生温い羊水から、外界へと引き摺り出された。

 その瞬間の記憶は、かすかに意識にこびり付いている。視界の外で、ふやけたヘソの緒で肉体が繋っている女が苦痛に泣き叫んでいる。血と羊水の入り混じったものが染み込んだ液体を纏いながら、ヘソの緒を切られて金属の皿に載せられた。今し方まで自身を孕んでいた女は看護師達から処置を受けながら、しきりに誰かに謝っていた。それが自分であればいいのに、と途切れ途切れの意識の片隅で願わずにはいられない。

 けれど、その意識は、今、どこに宿っているのだろう。胎児がある程度成長した後の繋留流産の処置は、一般的な堕胎手術となんら変わらないため、広がりきっていない産道の中を通すために胎児は医療器具で切り刻まれてから引き摺り出されるのだ。自身も例外ではなく、後頭部は潰されていた。だから、未熟な脳髄は当の昔に壊れているはずであり、意識を宿せるはずもない。それ以前に、自身は既に生命を終えているのだ。女の胎内で生温い骸と化していたから、女の生命を脅かさないために異物として扱われて排除された。

 ならば、己は一体何だ。この意識はどこからやってきている。そもそも、なぜ意識を得たのだ。様々な疑問を柔軟な精神に巡らせながら、永遠に下がらない薄い瞼を開いて処置室を見つめていた。すると、自身を載せた金属の皿が運び出されていった。辿り着いた先は医療廃棄物を収めるゴミ袋でもなければ、霊安室でもなく、応接室だった。そこで自身を待ち受けていたのは、母親でも医師でもない、初老に差し掛かった年頃の男だった。

 死への恐怖をも凌駕する、絶望に襲われた。



 それから数日後、産まれ直した。

 ぬるつく浅い池から身を起こし、長い髪から垂れ下がる緑色の液体を無感情に見つめる。シワ一つない手は赤子そのものだったが、自身の感覚よりも遙かに大きかった。ささやかに膨らんだ乳房、くびれのない腰、細い手足、そのどれもが二次性徴に差し掛かっていた。これは異常だ。死んだはずなのに、どうして肉体が成長している。

 真っ暗な部屋に、一筋の光が差し込んできた。ぎこちない動作で眼球を動かすと、スライド式のドアが開いて誰かが入ってきた。幅広の光源が照らし出したのは、閉め切られたカーテンと白い壁、そして自身と浅い池を取り囲んでいるビニールカーテンだった。規則正しい足音が近付き、薄いゴム手袋を着けた手がビニールカーテンを開けた。

「どれ、出来を見せてごらんなさい」

 薄緑色の服を着込んでマスクを付けた男は、ゴム手袋を填めた手を伸ばしてきた。その意図が解らず、男の手を凝視していると、男は粘液に濡れた頬を撫でてから髪に指を通し、ぬちゃりと液体を削ぎ落とした。

「さすがはアソウギ。完璧ですね」

 男の指が唇をなぞったので、反射的に口を開くと、男は舌を押さえて喉を覗き込んできた。

「この分ならば、問題はないでしょう。充分使えますね」

 男は濡れた指を服で拭ってから、マスクの上の目を満足げに細めた。

「あなたの命、決して無駄にはしませんよ」

 そう言い残し、男は去っていった。それと入れ替わる形で大勢の人間が入ってきて、粘液の入ったプールから体を引っ張り出されて全身を拭われた後にビニールシートを貼ったストレッチャーの上に載せられた。それから、風呂場に連れ込まれて徹底的に体を洗い流され、検査をされ、服を身に付けさせられた。

 訳の解らないうちに、産まれ直したばかりの自身が一人の人間に仕立て上げられた。目の前の鏡には、品の良い紺色のワンピースを着せられた少女が立っていた。長い黒髪に少し吊り上がり気味だが澄んだ眼差し、人形の如く整いすぎた顔立ち、魂のない表情。すると、背後に二人の人影が立った。先程の男と、また別の男だ。

「これでいいんだろう、父さん」

 中年に差し掛かりつつある年頃のスーツ姿の男は、やたらと嬉しそうだった。

「ええ、ええ。あなたはとても良い子ですね」

 薄緑色の服もマスクも手袋も外した初老の男が微笑むと、スーツ姿の男は声を弾ませる。

「だったら、俺は実家に帰っていいんだな?

 俺だけが帰れるんだよな、兄さんは本当に来ないんだよな?」

「ええ、もちろんですとも。クテイもお喜びになるでしょう」

「ハルノネットと取引のある会社と弐天逸流と関わりの深い会社を掻き集めて、巨大な企業団体を作り上げたんだ。会社の規模は様々だけど、会社の数だけ事業を展開しているし、分野も幅広い。もちろん、海外展開している会社も少なくない。それを一元化すれば、国家予算に匹敵するほどの財源を得られるよ、父さん」

「それは豪儀ですねぇ」

「それもこれも、父さんが貸してくれたものと、母さんの肉片のおかげだよ」

 そう言って、スーツ姿の男は内ポケットから小さな水晶玉のペンダントを取り出した。

「ラクシャは情報を保存するだけが取り柄じゃない、保存した情報を分類して分析することも出来る。その演算能力さえあれば、世界経済の未来予知なんて簡単だ。先の需要が割り出せれば、確実に商品を供給出来る。おかげでハルノネットの株価は上がる一方だよ。フルサイボーグの売り上げも上々だ」

「そうですとも」

「俺の複製体も出来上がっているんだろう、父さん」

「ええ、もちろん。文香さんの複製体も、遠からず完成いたします」

「文香は父さんをあまり好いていないようだけど、気にしないで。どうせ、俺の金目当ての頭が空っぽの女だしね。兄さんが子供を作ったって話を聞いたから、俺も管理者権限を持った子供を作るために繋ぎ止めておいただけの女なんだ。結婚したのは成り行きだったけどね。この子の原型の嬰児を摘出する時に、子宮がダメになったから、二度と子供は産めなくなってしまったよ。だから、役には立たないけど使い捨てるのは気が引けるから、これからも一緒に暮らしていくよ。その方が、色々と都合が良いだろうしね」

「それでは、祝福いたしましょう。あなた方の新しい門出を」

「ありがとう、父さん。ラクシャもありがとう。これからは、これがなくても会社を回せそうだしね」

 俺は仕事に戻るよ、と言ってからスーツ姿の男は水晶玉を初老の男に渡し、部屋を出ていった。頭上で交わされる二人のやり取りを感覚の隅で捉えていたが、彼らの関係がうっすらと理解出来た。二人は親子であり、初老の男が父親でスーツ姿の男は息子で、次男なのだろう。次男である彼は兄にコンプレックスを抱いているのか、父親の関心を惹き付けたくてたまらないようだった。だが、父親は彼のそのコンプレックスを利用している。その結果が己であり、この肉体だ。視力が悪いのか焦点が今一つ定まらない目をしきりに瞬かせていると、初老の男は水晶玉のペンダントを首に掛けてきた。かちり、と金のチェーンのホックが掛けられた瞬間、情報の奔流が押し寄せてきた。

「あなたは私です。そして、私はあなたなのです」

 初老の男、佐々木長光が鏡越しに笑みを向ける。格別の悪意と存分な執念に充ち満ちている。

「……う」

 初めて声らしきものを零すと、長光の両手が肩に添えられる。生温い他人の体温が、じわりと体を侵食する。

「すぐにお解りになりますよ。あなたの産まれた意味が」

 そんなもの、解りたくもない。自分は自分で、私は私なのだから。生まれ持った自我が外的刺激を受けて凝固し、肌に触れた水晶玉から流れ込んでくる無数の情報に逆らおうとするが、大波に攫われた小舟も同然で、抗えるはずもなかった。初老の男が水晶玉に封じ込めた情報の渦に翻弄され、自我が押し流されていく。繋ぎ止めようとしても無駄で、自分が拭い去れ、塗り潰され、押し潰され、掻き消されていった。

 情報の奔流が収まると、おのずと自分の立場を理解した。名前は吉岡りんね。父親である吉岡八五郎が設立して破竹の勢いで事業を拡大している大企業、吉岡グループの社長令嬢として作り上げられた、吉岡文香が死産した胎児の複製体であり改造体だ。美少女の条件を全て備えた肉体に仕上げられたのも、吉岡グループの事業を円滑に進めるためだ。マスコットであり、取引先への賄賂であり、幹部社員の愛玩具になるのだから。

 人間と人間を結び付けるのは、欲だ。まだまだ不安定な吉岡グループに盤石な地盤を与えるためには、その欲を抱いて擦り寄ってくる人間を抱き込み、縛り付け、安定した利益を供給させなければならない。だから、忘れがたい毒を、俗世では決して味わえない快楽を、惜しみなく与えてやる必要がある。いつの世も、人間の根底は単純だ。

 そして、吉岡りんねは完成した。



 それから、一年、二年と経過し、三年目を迎えた。

 設定上、吉岡りんねは十三歳である。類い希なる美貌と大人を圧倒する知能を生まれ持ったが、それ故に世間に馴染めずに父親が経営する会社に入り浸っている。それ故に、世間一般の価値観を逸脱した感覚を備えている。それ故に、常に孤独だ。それ故に、冷淡に振る舞っているが心の底では常に誰かに甘えたいと願っている。それ故に、父親の目を盗んで父親と同年代の男に近付く。それ故に、それ故に、それ故に。

 それ故に。

 ぼやけた目で天井を仰いでいたが、吉岡りんねは枕元を探って銀縁のメガネを手にした。身を起こしてから掛けると、視力が矯正されて周囲がよく見えた。いつもの光景が待ち受けていた。吉岡グループと取引している会社の幹部社員が、妻の目を盗んで浮気をするために買った高層マンションの一室だ。そこで弛んだ肉体の男から、屈折した欲望を際限なく注がれ、蹂躙されたのだ。いつものことだ。いつものことだ。いつものことだ。

 りんねちゃんは可愛いね、私の娘も子供の頃は可愛かったんだが今はもう生意気で化粧臭くて、ああ良い子だね、良い子だから御褒美をあげよう、可愛がってあげよう、良い子だね良い子だね良い子だね良い子だね良い子だね。

 同じ言葉を何度も繰り返され、頭の中に反響している。素肌の胸元に落ちている水晶玉のペンダントの感触は冷ややかで、それだけが心地良かった。荒っぽく愛撫された肌は至るところが赤らんでいて、執拗に責め立てられた局部に至っては腫れ上がっている。下着を着けて隠したいが、布地が擦れたら更に痛くなりそうで躊躇する。

 りんねを痛め付けた主はベッドにひっくり返り、缶ビールの空き缶に囲まれて高鼾を立てていた。ラクシャによって感情も制御されているからだろう、怒りは微塵も感じなかった。それでも、肉体は苦痛に耐えかねたのか、片目から音もなく体液が滑り落ちた。自分の服を掻き集めて抱き締め、弱い足取りでだだっ広い寝室を出た。

 この後も、また同じ目に遭わなければならない。ラクシャがりんねの肉体を成しているアソウギを操作し、ダメージを受けた部分を修復するので、赤痣も擦過傷も綺麗に消え去る。そうしなければ、りんねを求めてくる男達が不満がるからだ。だが、それが事実を消し去るわけではない。事実は残る。時間に刻まれ、歴史に組み込まれ、現実を構成する片鱗となる。吉岡りんねという人間を形成する、情報となる。

 バスルームに入り、シャワーを出して湯を浴びる。水を浴びていると電気抵抗が変化するのか、ラクシャの支配が僅かばかり緩んでくれる。だから、風呂に入るのは好きだった。りんねは不意に目を上げ、湯気で曇ったガラス製の壁を見やった。隅から隅まで情事のために作った部屋なので、バスルームの内装もひどいものだ。三面をガラスで覆っていて、体を一切隠せない。バスタブは妙に広く、毒々しい形状の器具がそこかしこに転がっている。

「お」

 おたんじょうびおめでとう、りんねちゃん。僅かばかりの意思を絞り出し、りんねは曇ったガラス製の壁に自分自身の誕生を祝う言葉を書いた。厳密に言えば死んだ日だが、母親の胎内から外に出てきた日なので、誕生日に分類してもいいはずだ。どうせ誰も祝ってはくれないのだから。父親でさえも、忘れているのだから。

「う」

 泣けるものなら泣きたいが、生理現象すらも支配されている。りんねはシャワーを顔に浴び、目尻から擬似的に涙を流して衝動を誤魔化した。シャワーの前に設置されている、これもまたやたらと大きい鏡に手を付いて、指先を動かしていく。りんねはことしでさんさいです。精神年齢はラクシャに宿っている佐々木長光の匙加減一つでどうにでもなるが、肉体年齢は変えようがない。たとえ、見た目をどれほどいじられていても、現実だけは揺らがない。

「さ」

 三歳。誕生日祝いのケーキ、プレゼント、祝福、両親の笑顔。その、どれもが手に入らない。どうして親でもない男と、肉欲で腐り切った空間で犯され続けなければならないのだろうか。膝を折って項垂れるが、りんねはラクシャからは逃れられない。熱い湯が当たるたびに赤痣が疼き、背から股間に至った湯が真新しい擦過傷を痛ませる。疲弊したりんねが鏡に寄り掛かると、指先が独りでに動き、文字を書いた。

 くるしいね つらいね かなしいね

「ん」

 わたしは ずっとずっとみらいのあなた ぐるぐるしたあとに、わたしになるのがあなた

「ん?」

 いまはわからなくても あとでわかるよ ぜったいに

「ん……」 

 ぐるぐるするために おたんじょうびをやりなおそう

「う?」 

 かんたんだよ おそらをとぶんだよ

「そ」

 そう おそらだよ ちょっといたいけど だいじょうぶ すぐにたんじょうびがくる

「ん!」 

 まっているね あなたがわたしになるのを だから いっしょにおそらをとぼう 

「うん」

 そう書き終えた後、指は止まった。程なくしてシャワーが降り注ぎ、跡形もなく消えた。

 これは自分だ、死んだ胎児に過ぎなかった自分に意識を与えてくれた、別の時間軸の自分自身なのだと強烈に確信したりんねは、シャワーを止め、確かな足取りでバスルームを後にした。濡れた足跡と髪から落ちる滴を廊下に振りまきながら、バスタオルも被らずに真っ直ぐベランダに向かった。窓を開け放つと、高層ビルの隙間に夕日が沈んでいく最中だった。

 どうしたんだりんねちゃん、次はそこでか、と酔いの抜けきらない男が脂ぎった言葉を掛けてくる。りんねは濡れ髪を夜風に靡かせながら、東側の空から厳かに現れた月を見据えた。素直に美しかった。都会の乱雑な夜景が目に染み、風を受けたおかげで本当の涙が一粒だけ滲んだ。瞼を閉ざすと、目尻に熱い体液が膨らむ。

 空を飛ぼう、誕生日をやり直すために。りんねはベランダの柵に手を掛けると、懸垂して体を持ち上げ、手すりの上に立った。底なしの解放感が訪れ、口角が緩む。けれど、笑顔には至らない。体中に纏っていた水が乾き始め、再びラクシャの支配力が強くなっていたからだ。だが、いかにラクシャでも地球の物理法則には逆らえまい。

 両手を広げて胸を張り、頭を下げ、つま先で手すりを蹴る。地上一五〇メートルから見下ろす外界は遠く、道路では豆粒よりも小さな人々が行き来している。金のチェーンと水晶玉を踊らせながら、りんねは重力に身を委ねた。耳元で風が切れ、吹き付ける風は冷たいが、胸の内は熱かった。迫り来るアスファルトに、両手を伸ばす。

 十数秒の空中遊泳の末、少女の肉体は砕け散った。



 まどかちゃんよね、と声を掛けられた。

 振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。はっきりとした目鼻立ちの美人で、見るからに高級なスーツを着込んでブランドもののハンドバッグを下げていた。女性は笑顔を浮かべかけていたが、ごめんなさい、人違いだったわ、と一礼して足早に去っていった。ハイヒールの高い足音が遠ざかり、背筋の伸びた後ろ姿は雑踏に紛れた。

 まどか。それは一体、どこの誰の名前だろうか。銀縁のメガネを掛け直してから、吉岡りんねは大学に向かうために足を進めた。いつもの通学路で擦れ違う人々は、揃ってこちらに視線を注いでくる。男達は羨望と欲望を、女達は嫉妬と諦観を、りんねにぶつけてくる。それだけ、この肉体の容姿が研ぎ澄まされている証拠だ。

 あの後、吉岡りんねは作り直された。高層マンションのベランダから身を投げ捨てた、前回の吉岡りんねは単なる転落死として扱われた。吉岡グループの社長令嬢という設定は拭い去られ、前回の吉岡りんねを弄んでいた男達は様々な手段で口封じされた。自殺に偽装されて他殺された者も少なくはないが、それが世間の明るみに出ることは絶対にない。警察関係者を抱き込み、吉岡グループと癒着させ、手を回させているからだ。

 首から提げた水晶玉のペンダント、ラクシャがある限り、りんねは何も考えずに済む。命じられるがままに寝起きして行動し、単調な講義を受け、まとわりついてくる学生達をやり過ごし、教授達をあしらい、日常を繰り返すだけでいいのだから。前回の吉岡りんね、否、吉岡りんねに酷似した顔立ちの少女売春の犠牲者である少女の延長線上に存在しているのが自分であると漠然と捉えていたが、それだけだった。考えるだけ無駄だからだ。

 味が不明瞭な学食を機械的に詰め込み、いつも通りのルートでいつも通りの教室に向かい、いつも通りに講義を受けていつも通りにゼミに向かい、いつも通りの帰路を辿る。ベルトコンベアに載せられた大量生産品の如く、平坦な工程を経て淡々と一日を終える。動くマネキン、体温のある人形、血肉を持った記号。

 その日、自宅マンションに戻ったりんねは、翌日の講義に必要なものを通学用のバッグに詰めていたが、不意に手が止まった。物音がしなければ他の住民から怪しまれる、という理由で付けっぱなしにしているテレビから、ある名前が聞こえてきたからだ。使い古されている在り来たりな展開を切り貼りしただけの退屈な恋愛ドラマだったが、売り出し中の新人女優が演じるヒロインが、まどかという名前だった。

「まどか」

 まどかちゃんよね、と呼び掛けられた。だが、それは一体どこの誰だろうか。これまで、りんねはアイドルだの女優だのに似ていると言われたことは何度かあった。けれど、その中にはまどかという名前はなかった。そもそも、あの女性はどこの誰なのだろう。誰かに似ている気がするが、思い出せない。思い出せる、となぜ感じたのだろう。自分は吉岡りんねという人形であって、確固たる人格を確立していなければ固有の記憶も持っていない。思い出せる、と思ったということは、記憶していると認識しているからだ。だが、何を。どこで。疑問が疑問を呼び寄せる。

 まどか。インターネットで検索してみると、膨大な件数のウェブサイトが照合される。ごくごく有り触れた人名であり、女性名としては一般的だ。漢字で印す場合は、円、となる。だが、それだけだ。それ以上の意味はなく、更に情報を絞り込んで検索しようにも、検索するためのキーワードが思い当たらない。せめてあの女性が誰なのかが解れば、検索しようがあるのだが、無限情報記録装置であるラクシャはあの女性に関する情報を公開しようとしなかった。脳の片隅にちくりと引っ掛かりは感じるのだが、そこから先は開けない。

 ならば、自分が知るべきではないことなのだ。ラクシャに阻まれれば、すぐに興味を失うのがりんねの常である。だから、それきり、まどかと呼ばれた意味も、あの女性の正体からも関心を失った。そしてまた、いつもと同じ生活を延々と繰り返していった。大学に入学して三年目を迎えると、周囲の生徒達は就職活動に精を出すようになった。猛烈な勢いで発展している大企業、吉岡グループと密接な関わりのあるりんねに、就職先を斡旋してくれないかと持ち掛けてきた生徒も大勢いた。だが、りんねは彼らに何も返しはしなかった。吉岡グループが早々に手を回して、りんねと少しでも関わりを持った生徒達には、吉岡グループと浅からぬ関係のある企業から内定を与えたからだ。彼らは狂喜乱舞し、手に手を取って喜んだ。働けることは、それほどまでに幸福なことなのだろうか。

 りんねは人形だ。ラクシャから放たれる情報の糸に手足を括られ、精神を繰られ、人間と世間に紛れている、人間になり損ねた物体だ。生命活動と呼べるような生理現象はあるが、それだけだ。だから、強烈な行動理念に突き動かされて日々を謳歌している皆が、理解出来ない。

 なぜ働く。なぜ学ぶ。なぜ交流する。なぜ恋愛する。なぜ葛藤する。なぜ衝突する。なぜ行き詰まる。理路整然とした道筋はあるのに、なぜそれを見誤る。砂粒のような矮小な疑問が脳の片隅に積み重なっていき、ざらついた違和感を産み出すようになった。ラクシャに身を委ねていると、その違和感を忘れられたが、ふと気付くとまたも脳がざらざらしていた。神経がちくちくしていた。心臓がずきずきしていた。

「まどかちゃんよね」

 また、声を掛けられた。りんねが振り返ると、あの時の女性が立っていた。いつもの大学への通学路で、通学中の学生達に紛れながら、真っ直ぐにこちらを直視していた。りんねは向き直り、言葉を返す。

「人違いです」

「御誕生日、おめでとう」

 それだけを言いに来たの、と女性は言い残し、ハイヒールを鳴らしながら足早に立ち去っていった。りんねは彼女の後ろ姿を凝視し、その言葉の意味を考えた。

 お誕生日。生誕記念日、製造年月日。思い返してみれば、確かに今日は二体目の吉岡りんねが完成してから三年目だ。だが、それがどんな意味を持つというのだろう。ただの日付であって、それ以上でもそれ以下でもない。誕生日というイベントで学生達が騒いでいる様は頻繁に見かけたが、あれは誰かの誕生日を口実に飲み会をしたいだけなのだ。だが、りんねはそんなことはしたくない。祝われるほど大袈裟なものではないし、そもそも誰が祝うというのか。何を祝うというのか。

「おたんじょうび、おめでとう」

 また、誰かに声を掛けられる。雑踏が遠のき、音域が狭まり、視界が暗くなる。

「人違いです」

 りんねは音源には顔も向けず、背を向けた。それでも、声は繰り返す。

「まどかちゃん。いいおなまえだね」

「人違いです」

 りんねは進行方向を直視し、足を進める。それでも、声は離れない。

「まどかちゃんは、りんねちゃんのおたんじょうびをおいわいしてあげないの?」

 まどかなんて存在しない。りんねは自分自身だ。りんねは足を止め、反論すべく振り返る。

「だから、人違いです」

「おいわいしてあげよう。まどかちゃんも、ぐるぐるまわっていっしょになろう」

 けれど、そこには誰もいない。りんねの背後には車道が横たわり、人々の詰まったバスが駆け抜けていった。

「ぐるぐる……?」

 ざらざら、ちくちく、ずきずき、よりも余程楽しげで明るい擬音だ。

「そう。ぐるぐるしよう。たのしいよ、きもちいいよ、さみしくないよ。りんねちゃんも、たのしくなれるよ」

 楽しい。それもまた、決して理解出来ない感覚の一つだ。知りたいと思ったことはない、知る意味がない。

「すぐにわかるよ。これが、たのしいってことだよ」

 不意に、りんねの足元が崩れた。視界が湾曲して三半規管が狂い、前のめりに倒れる。黒光りするアスファルトの大河が視界一杯に広がり、梅雨一歩手前の湿気混じりの熱気が肌を温める。歩道と車道を隔てる白線に己の影が被り、振動を伴ったエンジン音が迫ってくると同時に盛大なクラクションが鳴らされた。

 大きなコンテナを牽引しているトレーラーから生じた運動エネルギーは、りんねの肉体を宙に跳ね上げるためには充分すぎる量だった。派手なスキール音、人々の悲鳴と絶叫。バッグから零れた教科書やファイルが細切れになり、紙吹雪となって風に舞い上げられる。上下逆さまになって空中を巡る最中、追突された際の衝撃でチェーンが壊れたのか、ラクシャが外れて落下していった。生まれて初めての解放感を味わいながら、りんねは衝動的に笑顔を浮かべていた。世界が回る、ぐるぐるぐるぐる。楽しい楽しい楽しい、とってもとっても楽しい。

 そして、笑顔のまま、街路樹に激突して数十個の肉片と化した。



 夢を見る。

 実質、三度目の死を迎えた吉岡りんねと呼称される遺伝子情報を有した個体は、アソウギのぬるりとした羊水に浸り、ゴウガシャの胎盤から栄養を注がれながら、淡い意識の海を漂っていた。ああ、また死ねたのか、とうっすらと認識することが出来るのは、意識が途絶えていないからだ。なぜ途絶えないのだろう。普通の人間は命を落とせばそれまでだ。肉体が生命を終えると同時に意識も失われ、蛋白質塊となって腐るだけだ。

 それなのに、なぜ自分は意識が連なっているのだろう。ラクシャによって操られているからだとしても、ラクシャは外部記憶容量なのであり、吉岡りんね本体とは全く別の個体だ。だが、吉岡りんねに個性は芽生えない。人格も、自我も、生み出せないように設計されている。それなのに、同一の意識を持つのはなぜなのか。

「りんねちゃんはね、ラクシャの下位階層に偶発的に生まれた精神体なの」

 爽やかな初夏の風が吹き付け、稲穂の海が波打つ。白いワンピースを着た少女が微笑む。

「完全な無個性に設定されているからと言って、個性が産まれないとは限らない。工場で大量生産された製品も、使用者のクセで磨り減ったり、形が変わったりするのと同じなんだ。常に外部からの刺激を受けているから、りんねちゃんにもクセが付いている。それが自我」

 薄っぺらいサンダルを履いた足で、足場の悪い砂利道を歩いていく。

「私達は個にして全。全にして個。吉岡りんねという概念に起因する個別の人格であると同時に、吉岡りんねという概念を連結させる鎖でもあり、吉岡りんねという概念を保つ基礎でもある」

 少女は長い黒髪を風に遊ばせながら、小首を傾げる。

「ラクシャを通じて異次元宇宙に接続しているから、私達は今のりんねちゃんに働きかけることが出来る。そして、少し未来のりんねちゃんにも働きかけることが出来る。パラドックスを途切れさせないために、繋ぎ合わせるために、りんねちゃんをぐるぐるさせなきゃならない。そうしなきゃ、彼に出会えない」

 少女は笑顔を保ったまま、風上に立つ黒い影を見据えた。

 棘の付いた背中、黒い外骨格、鋭い爪。

「私も彼に会いたいけど、彼が好きになるのは一番最後のりんねちゃんだけ。それが、ちょっとだけ悔しい」

「彼?」

「そう、彼。今のりんねちゃんは会えないけど、次の次のりんねちゃんは会える。羨ましい」

「彼は誰」

「ふふ、秘密。だって、先のことは解らない方が楽しいでしょ?」

 ねえ、まどかちゃん。そう言って、少女は手を握ってきた。その小さな手を握り返してやりながら、吉岡りんねという概念の一端を担う一人格、吉岡まどかは微笑み返した。今となってはあの女性が誰なのかも解る。目の前にいる、一番最初の吉岡りんねの産みの親である吉岡文香だ。お母さんだ。お母さんはりんねの複製体である自分を不憫に思って名前を付けてくれたばかりか、誕生日まで祝ってくれた。それが、どうしようもなく誇らしい。

 けれど、同時に、ラクシャに保存されていたが異次元宇宙に転送された情報の波間から、吉岡文香に関する情報を読み取っていた。彼女は佐々木長光の次男である佐々木八五郎を繋ぎ止め、彼の財産を思い通りに使うために避妊具に穴を開けて、りんねを妊娠した。利己的な俗物、虚飾にまみれた女、強欲な汚物。それでも、母親は母親なのだと思わずはいられなかった。まどかは意識を情報の海に沈め、少女と共に輪廻の環に向かった。

 更なる、意識の鎖を編むために。


 偽物の両親、偽物の自分、作り物の世界。

 吉岡りんねは、三歳の誕生日を迎えるよりも早く、それを知っていた。華美な美貌を振りまく母親、豪快で恰幅のいい父親、それに仕える者達、会社、自宅、その他諸々。今までの自分よりも格段に視点が低いからだろう、周囲の出来事がよく見えた。三回目の生を得た吉岡りんねは、五歳児に設定されていた。これまでのりんねには欠けていた情緒面が補強され、より自然で活発な、人間的な女の子を演じていた。情緒面を抑圧されすぎていた反動で、立て続けに以前のりんねが自害したので、ラクシャも学習したのだろう。

 天真爛漫、明朗快活、無邪気。そういった単語に当て嵌まる言動を行い、愛想を振りまき、りんねは吉岡グループの系列会社が経営する幼稚園のリーダー格に上り詰めた。子供達だけではなく、教員達にも好かれるような行動を取り、小さな世界を完全に掌握した。今にして思えば、それは帝王学の英才教育の一環だったのだろう。それから、りんねは子供達の保護者までもを支配していった。子供であるからこそ出来る言動を駆使し、人間の脆い部分を次から次へと突き崩していった。人形が人間で人形遊びをするという、滑稽な状況だった。

 その日も、りんねは幼稚園で権力を行使した。決して偉ぶらず、品良く、丁寧な態度ではあったが、子供も大人も思うがままに操っては悦に浸っていた。口先だけで行動を左右される人々はとても面白く、そのおかげでりんねは笑顔を保ち続けていた。その余裕があるから、偽物の両親にも形だけではあるが甘えられていた。情緒の幅が広くなったことで、偽物の両親に嫌悪感を抱くようになっていたが、だからといって無下に出来るものでもない。偽物の両親はりんねと同じく、ラクシャによって遠隔操作されているからだ。すなわち、偽物の両親とりんねは並列化されているのと同等であり、常にラクシャを身に付けているりんねが乱れてしまえばコントロールも乱れて、偽物の両親の行動が乱れてしまう可能性があった。そのノイズがラクシャの演算能力で修正出来る程度であれば問題はないが、情緒の幅が増えたことでりんねの受け取る情報量も格段に増えたので、ラクシャは演算能力を拡幅するために異次元宇宙に接続するようになった。その結果、現在のりんねと過去のりんねを連ねる鎖が繋がった。

 小さな帝国を後にした幼い女王は、教員に命じて譲渡させた携帯電話のストラップを無造作に振り回しつつ、吉岡グループの社員に付き添われながら、歩道を歩いていた。そのストラップは、天然石にアルファベットを一文字ずつ刻んだものを細い革紐に通してあるもので、教員の交際相手が誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだそうだ。だから、思い入れもひとしおのはずだが、りんねが素敵だねと言っただけで呆気なく渡してきた。交際相手との恋情よりも、りんねに気に入られる方に比重を置くように仕立て上げたからだ。教員の名はTAMAKI。

 幼児故に握力が弱かったからだろう、不意に手中からストラップが飛んだ。社員が慌てて追い掛けるが、遠心力に従ったストラップは易々と道路を乗り越えていった。そして、対向車線側の歩道を歩いてきた、男子中学生の足元に転げ落ちた。その男子中学生はストラップを一瞥すると、りんねに乱暴に投げ付けてきた。

「ほらよ、たまき。つか、そんなもんを振り回してんじゃねぇ」

 クソが、死ね、と吐き捨ててから、男子中学生は去っていった。りんねは投げ返されたストラップと、学ランを着た少年の後ろ姿を見比べていたが、動揺に襲われた。彼を知っている。だが、どこで、なぜ。ぐるりぐるりと視界が荒く回転し、足元が不確かになり、りんねはよろけた。あの声、あの横顔、あの遺伝子、あの気配、この互換性。

 間違いない。彼は、藤原伊織だ。藤原伊織は、吉岡りんねという概念に強烈な影響を与える個体である。それがどういった形なのかは定かではないが、吉岡りんねの意識の鎖に彼の名は深く刻み込まれている。ならば、りんねに接触したことで影響が出たのではないだろうか。投げ返されたストラップを握り、りんねは考えた。

 それから、りんねは来る日も来る日も伊織のことを考えた。藤原伊織と接触した道路に行ってみたり、彼が通っているであろう中学校を探してみたり、彼に似た背格好の男子中学生を見かけるたびに社員の目を盗んで追い掛けてみたり、と。りんねの好奇心が藤原伊織に集中したため、幼稚園を統べていた権力は徐々に失われていった。だが、りんねは何一つ惜しくなかった。藤原伊織に出会えたのだから、自分は特別なりんねになれるのだと、根拠もなく確信していた。けれど、藤原伊織には二度と会えなかった。

 過去のりんねが繰り返してきた過ちを起こすまいと、三年目の誕生日を迎える日、りんねは吉岡邸の一室に幽閉された。偽物の両親を操っている、ラクシャが仕向けたことだった。伊織に会えれば何かが変わる、どう変わるのかは解らないがきっと変わる、変わりたい、変わらなければならない。強迫観念に駆られながら、りんねは彼との唯一の接点であるストラップを握り締めていた。TAMAKI。

「たまき」

 たまき。彼に呼ばれた名を呟いた後、りんねは畳敷きの部屋に据えられている鏡台に向き直った。いかにも子供らしい、未成熟な美貌を備えた顔を見つめてみるが、空しいだけだった。気付いた頃には夜も更けきり、三年目の誕生日が終わろうとしていた。胸元に下がったラクシャは、蛍光灯の青白い光を帯びて硬質な光を放っている。

「たまき」

 りんねではない、他の人間の名前。りんねは鏡に額を当て、深呼吸した後に思い直す。そうだ、自分は吉岡りんねではない別人なのだ。だから、藤原伊織には選ばれなかった。見咎められなかった。そう思っておけば悔しくない、悲しくない、寂しくない。りんねはストラップを鏡台に落とすと、どこからか声が聞こえてきた。

「おたんじょうびおめでとう、たまきちゃん」

 自分と良く似ているが、口調が異なる声。

「私はりんねじゃなかったんだ」

 りんねが声に応えると、声は返す。

「りんねだけど、りんねじゃないの。ぐるぐるのとちゅうに、いるだけなの。だけど、たまきちゃんはりんねのいちぶ。だから、またあのひとにあえるよ。きっとあえるよ」

「でも、それは私じゃない」

「だけど、ぐるぐるしないと、もういちどあえないよ?」

「会いたいよぉ……」

「だったら、ぐるぐるしよう。こわくないよ、みんな、いっしょだよ」

「でも、どうやって。ここには、何もないよ」

「めのまえにあるじゃない」

 それを最後に、声は遠のいた。りんねは鏡台の鏡と見つめ合い、徐々に満面の笑みを浮かべた。ラクシャを引き千切って放り捨ててから、部屋の隅にあった灰皿を運んできた。分厚いガラス製の灰皿を振り上げて鏡に叩き付けると、呆気なく砕け散った。無数に割れた鏡に写る自分と向き合いながら、一際大きい鏡の破片を手に取る。指先を滑らせて切れ味を確かめてから、それを薄い皮膚に包まれた首筋に添えた。

 また、あの人に会える。それを信じ、少女は喉を掻き切った。



 そして、吉岡めぐりが作り出された。

 りんね、まどか、たまきの反省点を踏まえた上で改良され、世間に馴染めるようにと有り触れた性格を付与された状態で完成した。美少女とは言い難い容貌で、丸顔で背が低めで、黒髪を三つ編みに結んで銀縁のメガネを掛け、読書が趣味で運動が苦手だが愛嬌のある、掃いて捨てるほど存在している少女が完成された。

 めぐり、という名前にしたのは、吉岡りんねという名前の少女が死にすぎたために、過去のりんねと吉岡グループとの関連性を探られないためである。過去のりんねは、いずれも吉岡グループの社長令嬢として振る舞っていたのだが、死亡後に事実を改変されて赤の他人から引き取った養子という扱いになったが、それだけで誤魔化しきれるものではない。だから、めぐりの場合、最初から思い切って吉岡グループとは無関係な他人として扱われた。

 吉岡グループの社員の間に産まれた一人娘として、平凡な中流家庭で生まれ育ち、穏やかな生活と暖かな家族と心地良い日々の中、ごく当たり前に暮らしていた。と、いう記憶が植え付けられていた。

 ありもしない記憶を抱き、合成写真が貼り付けられたアルバムを広げては偽りの両親と偽りの思い出を語らい、吉岡グループから事前に金を渡されているクラスメイトと友達になり、自分の境遇に何の疑問も持たずに過ごしていた。その均衡が破れたのは、高校に進学した時のことだった。めぐりは無難なレベルの市立高校を受験して無事合格し、当たり障りのないクラスで当たり障りのない時間を過ごすはずだった。入学式を終え、それぞれの教室へと移動する最中、めぐりは一人の男子に目を留めた。十六歳に成り立てにしては妙に背が高く、髪がまだらに脱色していて目が付いたからでもある。その横顔は恐ろしく険しかった。

 あれは誰かと聞く前に、新入生達が囁き合う。あいつって変な奴なんだよ、俺は同じ中学だったけどヤバすぎるから一度も話したことないんだ、うわー最悪ぅ、でも御曹司なんだろ、つっても製薬会社だぞ、なんかヤバい薬でもヤッてんじゃねぇの、あーあの会社、そうそうそれそれ、フジワラ製薬、フジワライオリってんだよ、あいつ。

 藤原伊織。その名前を聞いた途端、めぐりの視界が開けた。伊織の名が秘密のパスワードであったかのように、次々に情報が溢れ出してくる。常に身に付けている水晶玉のペンダントの意味、自分の家族の素性、友達の真相、吉岡グループ、吉岡八五郎、吉岡文香、そして佐々木長光。自分という人間が根幹から否定されて、めぐりは気が狂いそうになったが、なんとか帰宅した。それから、めぐりは伊織から遠ざかろうと努力した。

 伊織が自分にとってどんな存在なのかは、薄々感づいていた。けれど、変わりたくはなかった。過去のりんねは、伊織と出会うことで変わろうとしていた。吉岡りんねという概念から、人格を逸脱したがっていた。けれど、めぐりは現状で満足している。全てが偽物であることにさえ目を瞑れば、とても幸せなのだから。

 それなのに、気付けば、めぐりは伊織の後を追い掛けていた。伊織もまた読書が趣味で、暇さえあれば図書室に入り浸って本を読み漁っていた。伊織が読んだ後の本を見つけ出しては、めぐりもそれを読むようになった。伊織のセンスはなかなかのもので、古典文学から最新のベストセラーやライトノベルまで幅広く読んでいたが、そのどれもが傑作だった。それを繰り返していると、少しだけ、伊織のことが解ったような気がした。

 図書室で何度も擦れ違っても、伊織はめぐりには目もくれない。その目に見てほしい、意識の隅に捉えてほしい、その一心でめぐりはロングヘアを思い切ってショートカットにした。けれど、伊織は目も上げずに通り過ぎるだけだった。だから、意を決して話し掛けた。

「藤原君、だったよね?」

 めぐりはハードカバーの翻訳書を抱えながら、窓際の椅子に腰掛けている伊織に近付いた。

「んだよ」

 乱暴に答えた伊織は、敵意が漲った眼差しを上げる。精一杯愛想良くしながら、めぐりは再度話し掛ける。

「いつも図書室にいるけど、読書、好きなの?」

「別に。つか、何?」

 心底鬱陶しげに吐き捨てた伊織に、めぐりは泣きそうになったが堪え、彼に背を向けた。

「……なんでも、ない」

 何を思い上がっていたのだろう。自分だけが輪廻するりんねの中で特別だと、心の隅で思い込んでいた。こうして彼と近付けた分だけ、自分はりんねの輪廻から頭一つ飛び抜けた存在なのだと奢っていた。そんなわけがあるか、伊織にとっては自分はなんでもない、ただの女子生徒だ。それなのに、それなのに、それなのに。

 それなのに、めぐりは伊織に近付きたくてたまらなくなった。彼の背を目で探し、彼の姿を求め、常に彼の名を欲していた。伊織の傍にいるだけで、何か、救われるかのような気がしたからだ。その理由に気付いたのは、伊織が校内の物陰で赤いカプセルを大量に摂取している様を見た瞬間だった。アソウギで強引に作り出された不安定な生き物である彼は、常に管理者権限を摂取していなければ、生体組織が崩れかねないほど危うい。人智を越えた力を持って生まれた弊害だ。だから、彼はりんねを食べている。いつも、いつも、いつも。

「ああ……」

 私は彼に食べてもらいたいんだ、食べてもらえば、この輪廻が終わるからだ。だから、彼が好きなんだ。めぐりは執着心に根付いた渇望の正体を知ると、歓喜に襲われた。あの手で殺されたい、あの歯で噛み千切られたい、と心から願った。

 それから、めぐりは一際伊織に近付こうと努力した。その甲斐あって、伊織はほんの少しだけだが、めぐりの存在を意識してくれるようになった。しかし、ラクシャに宿った佐々木長光の意識は、めぐりの精神の成長を快く思ってはくれなかった。だから、恋心を知った直後、めぐりは廃棄処分されることが決定した。

 三年目を迎える前に用済みとなっためぐりは、伊織を始めとした怪人達が摂取する生体安定剤の材料として加工されるために、拘束されてトレーラーに積み込まれた。鎮静剤を投与すると加工する手間が増えてしまうので、何の処置も施されずに丸裸のままでベッドに縛り付けられていた。コンガラによって複製された量産型のりんねと同じく、吉岡りんね専用の加工工場に運ばれるのだ。めぐりを運ぶトレーラーに乗り込んできた吉岡グループの社員達の中には、つい今し方まで吉岡めぐりの両親として振る舞っていた男と女もいたが、めぐりの有様を目にしても眉一つ動かさなかった。工場に運ばれて切り刻まれてベルトコンベアに載せられるのだと諦観しかけたが、めぐりの胸中がずきりと疼いた。明日は一学期の終業式だ、夏休みになれば伊織に会えなくなる。彼に会いたい。

「あいたいね」

 トレーラーの駆動音とも、社員達とも異なる声が、めぐりの鼓膜をふんわりと撫でた。

「あのひとにあいたいね。あいにいこうよ、めぐりちゃん。そしてまた、ぐるぐるしよう」

 その音源を辿るために薄暗いコンテナを見回した末、めぐりは場違いな色彩を捉えた。透き通るような、真っ白なワンピースを着た少女だった。過去のりんね、かつての自分、クローン、不完全な姉、未来の己。様々な単語が脳裏を巡り、めぐりは鼓動が早まった。鍔の広い帽子を被った黒髪の少女が、めぐりに優しく微笑みかけてくる。

 そのために、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけおてつだいしてあげる。過去のりんねの囁きが遠のくと、めぐりの血肉が沸騰した。皮膚が張り詰めて分厚くなり、ぎちぎちぎち、がちがちがち、と聞き慣れない音が全身の至る所から聞こえてきた。倍以上の太さとなった手足は見るからに頑丈な外骨格に覆われ、漆黒に変色していた。昆虫になったのだと悟るまでに、時間は掛からなかった。

 ちょっとだけみらいのりんねちゃんから、ちょっとだけいでんしをかりてきたの。過去のりんねの言葉を頭の片隅で聞きながら、めぐりは硬いベッドから起き上がり、鋭い爪を振り下ろした。一人、二人、三人、そこから先は数えてはいない。赤黒く鉄臭い水溜まりがいくつも出来上がったコンテナから降りると、弱い雨が降っていた。ああ、もうすぐ梅雨が終わるのだな、と感じていると、運転席から出てきた人間達が発砲してきた。めぐりは彼らを難なく屠ると、雨の中、駆け出した。工場街を抜け、幹線道路を横切り、線路と標識を辿り、かつての自宅に行き着いた。

 遠からず、ここにも手が回ってくる。そう悟っためぐりは、体が元通りになるのを待ってから、制服を着込んで通学カバンを持って自宅から逃げ出した。高校に向かって、正門が施錠される前に校内に潜り込んで一夜を明かした。浅い眠りを繰り返しているうちに朝を迎え、生徒達が登校してきた。その中には、伊織もいた。

 終業式を終えて図書室に向かい、彼が来るのを待った。昨夜の緊張と疲れが相まって、めぐりは本棚の側面に寄り掛かってうとうとしていた。けれど、気を抜いては本懐を遂げる前に殺されてしまうので気を張っていた。なので、物音がして目が覚めた瞬間、驚きすぎて変な悲鳴を上げてしまった。

「ひゃいっ!?」

 吉岡グループの追っ手か。めぐりが恐る恐る窺うと、カウンターに伊織の姿があった。

「あー、びっくりしたぁ……。藤原君だったんだ」

 もう一度会えただけでも、嬉しい。めぐりはその思いに任せ、頬を緩める。

「んだよ」

 伊織の態度は相変わらずで、攻撃性を剥き出しにしていた。

「どれを借りていこうかなーって思ったんだけど、もうこんな時間になっちゃった。早く決めないとね」

 めぐりは伊織に近付きながら、白々しい嘘を並べ立てる。伊織はそれを知ってか知らずか、吐き捨てる。

「知るかよ」

「だよね」

 めぐりは肩を竦めてから、もう少しでも会話を繋げられればとポケットを探った。携帯電話は持っていなかったが、以前に通学途中に買ったが食べそびれていた、栄養補助食品の細長いクッキーが出てきた。彼が人間の食べ物が受け付けないことを承知の上で、それを差し出す。

「これ、食べる? お昼の時間だし、お腹に何か入れておかないと寂しいでしょ?」

「そんなもん、喰えねぇよ」

「そっか」

 だったら、私を食べてちょうだい。めぐりはそう言いたかったが言えず、ポケットに戻した。顔を合わせていると、照れ臭くなって言いたいことが言えなくなるので、彼に背を向けて海外文学の棚に向かった。

「あのね、藤原君」

 せめて、この気持ちを伝えられれば。

「私ね、ずっと藤原君のことが……」

 布が引き千切られる異音を耳にし、めぐりは振り返る。窓から差し込む淡い日差しを受けながら、制服の残骸に囲まれて立ち尽くしていたのは、巨体の虫だった。昨夜、過去のりんねに促されてめぐりが変貌した姿に酷似した、人型軍隊アリだった。なんて美しい、なんて雄々しい、なんて愛おしい。

「俺はぁっ」

 怪人に変身した伊織は若干声色を上擦らせながら、上両足を振り回し、本棚を叩き壊す。本の雪崩、ページの雨、情報の嵐。伊織の複眼に自分が映るだけでもめぐりは幸福だった。

「てめぇをっ」

 伊織の爪が壁にめり込み、めぐりの頭上の石膏ボードを削り落とし、白い粉を降らせる。陶酔しきっためぐりはその場に座り込んだが、それが伊織には怯えているように思えたのだろう、彼の触角が不安げに揺れた。

「喰っちまうんだよぉっ!」

 すぐ目の前で、人型軍隊アリはあぎとを開き切る。彼自身もまた、自分に怯えている。人間ではないのに人間と同じ世界で暮らさなければならないから、人間を喰らいたいのに喰らえないから。伊織の言葉に、ほんの一欠片だが好意が含まれていることを察し、めぐりは涙が滲んだ。喰っちまうんだよ。本当は喰いたくない、喰いたくないから近付きたくない、近付きたいけど近付きたくない。異次元宇宙を通じた互換性によって、伊織が心の奥底に沈めている真意が、めぐりの精神と触れ合った。彼の心を動かせたのだ。他でもない、吉岡めぐりが。

「……いいよ?」

 ずっと、ずっと、それだけを望んでいた。めぐりは伊織を見上げ、心からの笑顔を見せる。

「藤原君にだったら、食べられても平気だから。痛くても、我慢出来るから」

 本当は、その痛みすらも愛おしいのだが。めぐりは伊織に手を差し伸べるが、伊織は不意に身動ぐと、後退って呻き出した。混乱している。その直後、伊織は窓を突き破っていずこへと消えてしまった。

「待って、待ってぇ、藤原君! 待ってよぉおおおおっ!」

 割れた窓から声を嗄らさんばかりに叫ぶが、雨の止みかけた空の下に響いただけだった。伊織の姿は既になく、黒い背はどこにも見えない。もう終わりだ、何もかも。めぐりは絶望して崩れ落ち、滂沱した。

「めぐりちゃん、ぐるぐるしよう」

 過去のりんねが現れ、めぐりに囁く。めぐりは嗚咽しながら、意識の中の幻影に振り返る。

「でも……もう、次の私は出来上がっているんでしょお? 解る、解るよぉ、だってぇ、自分のことだもの」

 昨夜の浅い眠りの最中、めぐりは次なる自分を夢を見た。めぐりが廃棄処分された直後に製造されたであろう、完璧で完全で完成された吉岡りんねを通じて見る世界を。その、五体目の吉岡りんねには明確な役割が授けられている。吉岡りんねの従姉妹であり、管理者権限を正統に継承した、ニルヴァーニアンの遺産相続人である、佐々木つばめと敵対関係となって彼女を追い詰めることだ。佐々木つばめが苦しめば苦しんだ分だけ、佐々木長光の妻である異星人、クテイが感情のエネルギーを喰らって肥えていく。りんねする輪廻もまた、クテイを保つための栄養源として作り上げられた存在だが管理者権限が半分だけしかなかったため、エネルギー効率があまり良くなかった。だから、つばめが選ばれたのだ。その結果、りんねはつばめを苦しめるためだけの道具に成り下がった。

「もう嫌、こんなの嫌、どうして私じゃダメだったの、なんで幸せになれないの、どうして、どうして、どうしてぇえっ!」

 過去の自分から流れ込む激情に任せ、めぐりは泣き叫ぶ。少女は、その背に寄り添う。

「だいじょうぶだよ。めぐりちゃん。わたしたちはつながっている。わたしたちは、ちがうけどおなじもの」

 少女はめぐりの濡れた頬を小さな手で包み、目を合わせてくる。

「だから、もういちど、ぐるぐるしよう。さっき、わかったでしょ? めぐりちゃんはね、つぎのりんねちゃんとあのひとをつなげることができたの。だから、ちょっとみらいのりんねちゃんは、あのひととひとつになれた」

「藤原君と、一つに?」

「そう。からだも、こころも、ぜんぶ」

 しあわせになれるんだよ、わたしたち、ぜんぶが。過去のりんねは、めぐりと額を合わせてきた。それが幻影だと解っていながらも、抱き締めずにはいられなかった。過去のりんねも、未来のりんねも、藤原伊織と出会うことだけを心の支えにして自我を保ち続けていたのだ。めぐりも例外ではない。

 次こそは伊織と交わろう。過去のりんねが掻き消えると、不思議とめぐりの心中は落ち着いていた。怪人となった伊織が飛び出していったからだろう、高校の構内に次々に警察車両がやってくる。赤いパトライトが割れた窓ガラスを擦り抜けて壁に映り、細切れの本棚を血の色に染める。きっと、あの中に吉岡グループの関係者も紛れているに違いない。そして、殺される。めぐりは伊織の残した爪痕をなぞってから、晴れやかな気持ちで微笑んだ。

 程なくして、狙撃手が放った一発のライフル弾が少女の後頭部を吹き飛ばした。



 春先の暖かな雨が、トタン屋根を叩いていた。

 いつのまにか、居眠りをしていたらしい。読みかけの本が膝の上に広がり、窓に貼り付いた雨粒が膨らみながらぎこちなく下っていく。視界がぼやけているので何事かと思ったが、メガネがなくなっていた。りんねは目元を顰めて辺りを見回していると、黒い爪が伸びてきて赤いフレームのメガネを差し出してくれた。

「ほらよ」

「あ、うん」

 それを受け取ったりんねが掛けると、爪の主は身を引いて壁に寄り掛かった。

「どれぐらい、寝てた?」

「大したことねぇよ。つか、学校で疲れてんだったら、俺に付き合ってないで寝ちまえ」

 人型軍隊アリの青年は触角を曲げてから、手元の本に視線を落とした。りんねは目を擦ってから、読みかけの本を持って彼の傍に腰掛け、彼の頑丈な外骨格に背を預けた。

 今日の天気は、あの日に似ている。伊織がめぐりを喰おうとしたが未遂に終わり、めぐりが射殺され、伊織が新たなるりんねと接触した日だ。そして、最後のりんねは完全無欠の美少女肉人形である吉岡りんねとして振る舞い、佐々木つばめを苦しめるためだけに編成された部署で伊織を部下にし、伊織に殺意に等しい恋情を注がれ、共に果て、生まれ変わり、再び命を落としたが、つばめの助力で再び物質宇宙に戻ってこられた。それ以来、りんねは、一言では決して言い表せない複雑な感情を感じていた従姉妹に対して、柔らかな好意を抱けるようになった。つばめはりんねと伊織を見捨てなかったばかりか、二人の思いを汲み、生かしてくれたからだ。感謝しても、しきれない。

 最後に作られ、壊れ、再構築された、吉岡りんねは人間である。様々な精密検査を受けても異常は発見されず、遺伝子情報も真っ当な、ごく当たり前の人間だ。吉岡八五郎と吉岡文香の間に産まれた娘としての戸籍も得、文香と同じ家で暮らせるようになった。N型溶解症の保菌者として扱われ、隔離措置を受け、この集落から一歩も外に出られないが、伊織と同じ時間を過ごせるのなら何の不満もない。

「一緒がいい。読む」

 りんねは少し乱れた髪を整えてから、伊織を仰ぎ見た。

「勝手にしろ」

 伊織は口では鬱陶しげだったが、上右足を挙げて腰を引いてくれたので、りんねは彼の好意に甘えて彼の膝の間に移動した。伊織は軽く背を曲げ、短い中両足でりんねを支えてやりつつ、左上足で自分の本を目線まで上げた。空は薄暗く、空気は湿っぽく、外界は耳鳴りがするほど静かだ。吉岡親子と伊織が住む家は、つばめ達が住む集落からは離れているので尚更だ。新たにドライブインを開業しようと忙しく動き回っている文香が帰ってくるまでにはまだ時間があるので、当分は二人きりの時間を楽しめる。ずっと、ずっと、これを求めていた。

「伊織君」

「んだよ」

「めぐりちゃんのこと、覚えている?」

「まあな」

「たまきちゃんのことは?」

「ちったぁ」

「それよりも前の、私のことは?」

「まだ出会ってねぇだろ」

「それじゃ、今の私は?」

「この状況で、いちいち言わねぇと解らねぇのかよ」

「うん」

「全く、どうしようもねぇな」

 そうは言いつつも、伊織はどことなく嬉しそうだった。りんねが顔を上向けると、伊織は背を曲げてりんねの頭上に顔を寄せて顎と髪を触れ合わせる。中両足でりんねの体を抱き寄せながら、胸郭を震わせる。

「幸せだよ。それ以上、どう言えってんだよ」

「うん、幸せ。私も、前の私も、これからの私も、全部が」

 りんねは両手を伸ばし、伊織のあぎとに手を添えた。きち、と伊織は軽く顎を動かす。

「で、あの時、メグはなんて言おうとしたんだよ」

「それはめぐりちゃんに聞いて」

「けど、メグは今のりんねでもあるんだろ。知らねぇわけがねぇだろ」

「教えなきゃ、ダメ?」

「でねぇと、今度こそ喰うぞ」

「じゃ、教えてあげる。明日もまた学校があるから、今、食べられちゃったら困るもん」

 りんねは伊織の複眼と見つめ合い、笑った。

「藤原君。私ね、ずっと藤原君のことが知りたかったの。近付きたかったの。だから、もっと藤原君と仲良くなりたい。色んなことをお話ししたい。私のことも、一杯知ってもらいたい」

「なんだ、そっちか」

 ちょっと拍子抜けしたのか、伊織は触角を伏せた。その様に、りんねは小首を傾げる。

「伊織君は、めぐりちゃんの言いたかったことをなんだと思っていたの?」

「なんでもねぇよ」

「もしかして、好きだった、とか言ってほしかったの?」

「ウゼェな」

「そんなの、いつでも言ってあげるのに。だって、今の私も、前の私も、これからの私も、ずっとずっと伊織君が好きだから。伊織君が私を好きになってくれたから、私も私を好きになれたんだもん」

 伊織の上右足に腕を回しながら、りんねは万感の思いを込めて言う。頭上で伊織の触角が跳ねたのが視界の隅に入ったが、文句は降ってこなかった。その代わり、荒っぽい言葉遣いで答えが返ってきた。そんなん、俺もそうに決まってんだろうが、と。決して好きだとは言ってくれないが、それもまた伊織の魅力の一つだ。

 ぐるぐるぐるぐる、くるくるくるくると、りんねの命は、意識は、記憶は、情報は、輪廻した。意識を繋いで鎖と化し、鎖に記憶を編み込み、情報を共有することで過去の自分の自我を結び付けていた。それは佐々木長光の支配から逃れるためでもあり、クテイと通じるための糸口を見つけるためでもあり、そして伊織と出会うためだった。何一つ無駄にはしないと信じ、願い、死を繰り返した。全ては、狂気にも似た恋を叶えかったからだ。

 輪廻した分だけ編み上がった鎖で、二人を結び付けておこう。物質宇宙に互いの命と肉体と精神を縛り付けて、この人生が尽きるまで寄り添って生き抜こう。それが、幾重もの死と生の末に見つけ出した、至ってシンプルな幸福の在り方なのだから。身を反転させたりんねは、伊織の顎の隙間から伸びてきた細長い舌に、己の舌を差し伸べて絡めた。肌を重ねられない代わりに粘膜を触れ合わせながら、互いの愛情を貪った。

 輪廻の途切れた、終わりのある時を味わった。

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