寸鉄、ハートを刺す
目が合った。
彼の右目の義眼が最初にこちらを捉え、続いて生身の左目が向いた。最近の義肢はレスポンスが早ぇなぁ、と、技術面に感心したことをなんとなく覚えている。その時はただそれだけで、目礼して彼の前を通り過ぎた。その日、柳田小夜子は忙しかったからである。政府の保管庫からアマラを持ち出したばかりだけなく、佐々木つばめに譲渡したせいで立件されたため、裁判所に行かなければならなかったからだ。公の場に出るために仕方なく着たスーツは着心地が悪く、ローヒールのパンプスでつま先が痛かったことの方が余程強烈に記憶している。
切っ掛けがあるとすれば、それぐらいしか思い当たらない。目が合っただけで、言葉を交わしたわけでもなければ触れ合ったわけでもない。けれど、その日以来、小夜子の心中に妙な疼きが宿るようになった。それが何なのかを考えるのは億劫で、持て余す一方だった。いっそのこと、その棘を抜いて捨ててしまいたいと願ったが、物理的には不可能なのでどうしようもなかった。そのうち、自分自身も煩わしいと思ってしまうようにすらなった。
認めるのは嫌だ。だが、どれだけ憂さ晴らしをしても気が紛れない。小夜子は年季の入ったアパートの天井を仰ぎ見ながら、火の消えたタバコを銜えていた。枕元には、昨夜飲んだ安酒の缶が転がっている。敷きっぱなしの布団にはタバコの空き箱と脱ぎ捨てた下着が散らばり、だらしないことこの上ない。部屋の四隅には、引っ越してきた際に運び入れたまま手付かずになっている段ボール箱が積み重なっている。
「面倒臭ぇー……」
湿ったフィルターを噛み締めながら、小夜子は一人ごちた。
「いい歳こいて何やってんだよ、あたしは」
頭を反らして潰れた枕に後頭部を埋めて、上下逆さになった部屋を捉える。空しい、寂しい、物足りない。そう思うようになってしまったから、心を埋めるものを求めようとしてしまうのだ。そうでもなければ、恋なんて薄っぺらな感情を抱いたりしない。一生無縁だと思っていたのに、誰も好きになるわけがないと諦めていたのに。
「どうしようもねぇなぁ、あたしは」
ごろりと寝返りを打ち、湿ったタバコを唇から外して灰皿に投げ込んだが、既に山盛りになっていたので吸い殻は入らずに弾き出された。毛羽立った畳の上に転がった吸い殻が、今の自分自身のようで余計に胸中が荒んでくる。天井に溜まっている煙の筋を見つめていると、在りし日の父親の姿が過ぎる。
切っ掛けの切っ掛け自体は既に解っている。佐々木長孝が念願叶って一人娘と暮らし始めたからだ。長孝は目に見えてそわそわしていて、何かにつけて娘のことを気にしていた。小倉重機一ヶ谷支社として開業するための準備を小夜子は手伝っているのだが、長孝は以前に比べると格段に口数が増えていた。感情表現が顔と一緒で平坦であることに代わりはなかったし、語彙もそれほど変わらなかったが、小夜子に話し掛ける頻度が多くなった。小夜子でつばめに接する練習をしているのだと気付くまでに、あまり時間は掛からなかった。
長孝がつばめの父親になれたのは喜ばしいが、一方でどうしようもなく悔しかった。薄々感づいていたが、小夜子はファザコンの気がある。肉親が父親だけだったことも大きいが、仕事以外は不器用極まりなかった父親に上手く甘えられなかった未練がいつまでも燻っていた。だから、長孝を内心で父親の身代わりにして接していた節がある。しかし、長孝はつばめの父親であり、小夜子とは仕事の上での付き合いでしかない。数々の苦難を経てやっと家族になれた佐々木親子に割り入れるはずもないし、つばめを差し置いて長孝に甘えられるわけがない。
だから、長孝に甘えたい気持ちは切り捨てたのだが、切り捨てた分、胸に穴が空いた。そこを埋めるためだろう、小夜子は生まれて初めて恋と呼べる感情を覚えた。それも、長孝と同じ年齢の武蔵野巌雄にだ。自分の愚かさに涙すら出てきそうになったが、小夜子は布団を被って誤魔化した。
小さくも鋭い異物が、胸に刺さっていた。
思わず、その言葉を聞き返した。
小夜子は動揺して火を付けかけたタバコを落とし、雪解け水で緩んだ地面に吸わせてしまった。武蔵野はかなり気まずげに右目の義眼を揺らし、小夜子が落としたタバコを見て平謝りしてきた。小夜子は新しいタバコを箱から抜こうとしたが、上手くいかず、仕方ないので作業着のポケットにねじ込んだ。
「だから、その、なんだ」
武蔵野は短く刈り込んだ髪を掻き毟り、分厚い筋肉が付いた背中を曲げた。
「付き合ってくれないか?」
「な」
何に、どこに、誰と。小夜子は思うように返事が出来ず、口の中でもごもごと言葉を濁した。意志に反して血流が良くなってきた顔を見せないために武蔵野に背を向けて、一度深呼吸してから改めてタバコを取り出した。
「なんだよそれ、てか、なんであたしなんだよ?」
自分でも笑えてくるほど声が上擦っていて、情けないことこの上ない。銜えたタバコに火を付けようとするが、親指が滑ってライターの着火ボタンを押し込めなかった。これもまた仕方ないので、ライターをポケットに戻した。武蔵野をそっと窺うと、ひどく狼狽えていた。雪解けの後に耕し始めた畑には畝が並んでいて、ビニールハウスの中では稲の苗が育ちつつある。遅まきながら雪国にも春が訪れたが、吹き付ける風はまだまだ冷たい。
「仕方ないだろう。他の連中は誘うに誘えないんだ」
武蔵野は古傷の残る横顔を小夜子に向け、口角を歪ませた。
「つばめは遠出させるためには手間取るし、タカさんは仕事を始めたばかりだし、伊織とりんねはこの集落からは出られない。かといって、寺坂と道子を誘えばひどい目に遭うだろうし、一乗寺に粉を掛けたと思われたら、周防にドタマをぶち抜かれる。だから、柳田、すまん。ニンジャファイター・ムラクモのヒーローショーに行くのに、付き合ってくれないか? 一人で行く勇気がなくてな」
「はああああ!?」
小夜子が声を裏返すと、武蔵野は身動いだが言い返す。
「どうしても見に行きたいんだよ! サイボーグアクターが全員死んじまったからシナリオが大幅に変わったせいで、テレビ放映された本編じゃ補完しきれなかった伏線やら何やらがヒーローショーで回収されるんだ! DVD化するとは思いがたいし、ヒーローショーの期間も短い! だから、行かなければ一生後悔するんだよ!」
「そんなん一人で行けよ!」
「それが出来るほど、俺は開き直っちゃいない!」
「あー、そうかい」
心底呆れてしまい、小夜子は仰け反った。なんて面倒臭いおっさんだろう。武蔵野は大きな肩を上下させて呼吸を落ち着けてから、表情を強張らせた。笑うべきか否かを迷った末に、押し込めたようだった。武蔵野が特撮番組を愛して止まないということは周知の事実であり、今更恥じらう必要もないように思えるが、本人からすれば重大な問題らしい。数々の死線を潜り抜けてきたくせに、妙なところが弱々しいのが可笑しい。
「しっかたねぇなぁー」
小夜子は中途半端に伸びた髪を掻き上げ、武蔵野を一瞥した。
「んで、いつだよ」
「来週の土曜日なんだが」
「解った。どうせあたしには予定なんかねぇし、暇潰しに行ってやるよ」
「なんか、すまんな」
「言い出したのはむっさんだろうが。んで、どこまで行くんだよ」
「県内ではあるが、縦断することになる」
「じゃ、時間掛かるな。まー、その、あれだよあれ、弁当でも作ってやるよ。でねぇと割に合わねぇからな」
小夜子は泥に沈んだタバコを拾ってから武蔵野に背を向けて、畑を後にした。武蔵野から言葉が返ってきたが、小夜子はそれを聞き取れるほどの余裕はなかった。なんであんなことを言っちまったんだよ、弁当なんて女々しいモンで靡くような男かよ、つうかあたしはあいつを落とそうとしてんのかよ、と自問自答を繰り返しながら、集落の隅に駐めておいた自家用車に乗り込んだ。
実用一点張りのワゴン車の運転席に座り込んだ小夜子は、タバコのフィルターを思い切り噛み締め、胸の奥から迫り上がってくる痛みをやり過ごそうとした。ハンドルを抱えて突っ伏して声を殺し、今まで感じたことがないほどの凄まじい羞恥心と戦った。自分の存在自体が恥ずかしくなってフロントガラスにヘッドバッドを喰らわせてしまいたくなったが、さすがにそれは我慢した。声にならない声を漏らしながら、小夜子は項垂れた。
「なんだよ、もう……」
武蔵野に女として意識されたいのか。それ以前に、小夜子は武蔵野に女として認識されているのだろうかどうかも疑わしいというのに。それに関しては、小夜子自身にも大いに問題がある。二次性徴を迎えても女としての面が全く育たなかったらしく、体形に凹凸はなく骨張っている。趣味嗜好も男臭いし言動にも柔らかさはなく、ピンク色なんて腹の底から大嫌いだ。肉が付かなかった分、縦に伸びてしまったせいで一七〇センチ近い上背があるが、それも女らしさを遠ざける一因になっている。性格もとにかくだらしなく、料理はそれなりに出来るものの家事は不得手で、掃除は特に苦手だ。そんな女とも男とも呼べない人間に好かれたところで、どこの誰が喜びはしない。少なくとも、自分ならば絶対に嫌だ。小夜子は喉の奥に鉛の固まりが詰まったような圧迫感に苛まれ、呻いた。
とりあえず、弁当の中身を考えなければ。
そして、約束の日がやってきた。
小夜子は薄く曇った洗面台の鏡に写る自分を見、手元にあったスパナを放り投げようとしたが堪えた。恥ずかしさのあまりに逃げ出したくなったが、この服を選んで買ったのは他でもない自分自身なのだ。ネット通販で入手したのでサイズが合うかどうかは不安だったが、どれもこれも丁度良い。それがまた、無性に苛立たしい。
「つうか、あたし、何やってんだよぉおおおおおっ!」
古びた洗面台に両手を突き、小夜子は悶絶した。そこに写っている小夜子は、二十代後半の女性としては無難なファッションを身に付けていた。
オリーブグリーンの薄手のセーターに薄紫のダウンベスト、そして膝丈よりも少しだけ短めなデニムスカートに黒のレギンス。スカートを履いたのは自衛隊の入隊式以来であり、私服で着るのはこれが生まれて初めてかもしれない。伸び放題だった髪も、一ヶ谷市外にある美容室に行ってカットしてもらったのでそれなりに整っている。さすがに化粧までは手が及ばなかったが、時間と度胸があれば、誰かに教わっていたかもしれない。ヒーローショーを見に行くだけなのに、色気付きすぎだ。普段は一週間に一度入れば良い方の風呂にもきちんと入って髪も体も徹底的に洗ったので、髪からは甘ったるいリンスの香りが漂ってきた。人工的な匂いが鼻に突いたが、真新しい服を汚したくないと判断して風呂に入ったのは自分自身なのだ。
「死にてぇ、猛烈に死にてぇよぉー……」
小夜子は上擦った声を絞り出しながら、よろよろと洗面台から離れた。この二週間の間に弁当箱を調達して食材を買い込んで練習したため、台所はいつになく荒れている。独り暮らしが長かったので料理をするのはなんら苦ではないし、レパートリーもそれなりにあるが、他人に食べさせることを前提として作ったのは父親が亡くなった後では初めてだった。しかも、それが武蔵野が相手とあっては練習せずにはいられなかった。おかげでこの二週間、同じメニューを何度も食べる羽目になってしまった。
「あー、くそぉ、誰かあたしを殺せよぉ」
小夜子はぼやきながらも手を動かし、大振りな弁当箱をトートバッグに入れた。二人分の箸と取り皿も入れたことを確かめると、また羞恥心が沸き上がってきて、綺麗に盛り付けた弁当を全力で壁に叩き付けたくなったが意地で堪えた。そんなことをしては、昨夜から仕込んで作った料理が台無しになってしまう。武蔵野がアパートまで迎えに来るまではもう少し時間があるので、髪を整えた。それでも時間が余ったので、父親と向き合うことにした。
ロボット関連の書籍と図面の束が溢れんばかりに詰め込んである棚の上には、一抱えほどしかない黒塗りの仏壇が載っていた。その中には父親の位牌が収まり、傍らには生前の写真が入った写真立てを立ててある。毎朝コップ入れた水を供えているのだが、今朝は弁当作りで忙しなかったのでつい忘れてしまった。小夜子はコップの中の水を新しくしてから、歯を剥いた豪快な笑顔を浮かべている父親の写真を見たが、思わず目を逸らした。
「あのさぁ」
武蔵野のことを話すにしても、どこから話せばいいものか。
「まあ、いいや。何かあったら話すよ。今は頭ん中がぐちゃぐちゃで話しようがねぇんだ」
小夜子は父親の遺影に背を向け、テーブルに置いた弁当箱入りのトートバッグを見やった。
「他人のために弁当作ったのなんて、父さんの時以来だよ。で、中身はあれでいいんだよな?
おにぎりと竜田揚げとハンバーグと茹で卵の切ったのとアスパラのピーナッツ和え。父さんが好きだったものしか思い付かなかったから、それしか入れようがなかったってのも事実なんだけどさ」
雑然とした部屋の中で浮いている、小綺麗な格好をした自分に小夜子はまたも恥じ入る。
「嫁に行くわけじゃないから、そんなに期待しすぎないでくれよな。どうせ、一回こっきりなんだしさ」
期待しているのは自分の方だ。弁当を作っただけでドミノ倒しのように想像の幅が広がっていき、あわよくば、というとてつもなく都合の良い結末が思い浮かんでしまう。そんな手前勝手なことでいいはずがない。大体、武蔵野は結婚して家庭を持つようなタイプの男ではない。長年最前線で戦ってきたやり手の兵士なのであって、妻子と団欒をするよりも体を鍛え上げている方が似合っている。孤独と翳りを糧にした強さと、険しい横顔と、使い込まれた拳銃で造作もなく敵を殺す姿こそよく似合う。女の影がちらつくべき男ではない。それなのに。
散らかった部屋に一人でいては悶々とするばかりなので、小夜子はやたらと重たい弁当を入れたトートバッグの他に私物を入れたショルダーバッグを提げて自室を後にした。錆び付いたドアノブに鍵を差し込んで錠を掛けると、エンジン音が聞こえた。ぎこちなく振り返ると、ミリタリーグリーンの武骨な車体が迫ってきていた。武蔵野の愛車であるジープだ。だが、約束の時間よりも三十分近く早い。小夜子は慌てながら、アパートの敷地から出た。
アパートの前でジープが駐まると、運転席から武蔵野が現れた。私服と呼ぶには若干語弊がある格好で、フライトジャケットに迷彩柄のパンツを履いていて、足元は言うまでもなくジャングルブーツだ。小夜子が余程げんなりした顔になっていたのだろう、武蔵野はばつが悪そうに言葉を濁した。
「ろくな私服がないんだよ。買いに行くのも手間だし、似合うような代物を見つけられないってのもあるが」
「あたしがうっかり後ろに立っても、目ん玉抉るなよ」
「安心しろ。丸腰だ」
「余計に安心出来ねぇよ。あんたみたいな人間は、体が一番の武器じゃねぇか」
こんな男を相手に、なんであんなに悩んでしまったのだろう。
小夜子はなんだか気が抜けてきた。
「いいから早く乗れ。他の連中に見つかったら面倒だ」
武蔵野が促すと、小夜子はジープに近付いたが、少し迷った。助手席か後部座席のどちらにするかを考えていると、武蔵野は迷わず助手席のドアを開けてきた。こうなったら助手席に乗るしかないので、小夜子はスカートの裾を気にしながら助手席に乗り込んで、弁当の入っているトートバッグを後部座席に置いた。シートベルトを締めながら、服にはノーリアクションなんだなぁ、と少し残念がっていると、運転席に乗り込んだ武蔵野は言った。
「随分可愛い格好をしているじゃないか」
「えっ、あー、そうでもねぇよ」
思いがけず褒められ、戸惑った小夜子が口籠もると、武蔵野は運転席上のサングラスホルダーからサングラスを取り出して掛けた。
両目が義眼なら採光量を自動調節出来るんだが、片方だけが生身だとそうもいかないんだよ、と言いつつ、ハンドルを回した。それを横目に、小夜子はスカートの裾を押さえ付けた。
この男にとって、自分はどういう位置付けになのだろう。慣れた手付きでジープのハンドルを捌く武蔵野を気にしながら、小夜子は車窓を流れていく景色に目線を投げた。人の手が入っていないせいで荒れている田園風景が遠ざかっていき、空っぽの集落をいくつも通り過ぎ、車通りがまばらな高速道路に入った。二人の間に共通の話題が少ないからだろう、車中での会話は弾まず、必要最低限のことしか言い合わなかった。おかげで、空気は重苦しく、気を紛らわすために付けたカーラジオも大して意味を成さなかった。こんなものはデートとは言わないし、武蔵野もそうだと明言していない。だから、結局、小夜子は武蔵野からすれば知り合いの範疇から脱していないのだろうと結論付けた。それで充分なのに、やけに物足りなかった。
好かれたい、と思ってしまったからだ。
二時間半の移動を経て、県庁所在地に到着した。
市の外れにあるテーマパークで行われるニンジャファイター・ムラクモのショーの開演時間は充分間に合ったが、N型溶解症によるサイボーグ大量死事件の影響で尻切れトンボに終わった本編を補完する完結編と銘打っているだけあって、来客数は多かった。子供連れだけでなく、子供をダシにして来た親も多いようだった。ムラクモの変身アイテムのオモチャやフィギュアを手にしている、筋金入りのオタク達の姿も目に付いた。駐車場にも車がびっしりと留まっていたが、ジープは端の端に辛うじて空いていたスペースにねじ込むことが出来た。
特撮ってそんなに面白いものなんだろうか、と訝りながら、小夜子は当日券を買い求めるために列を成している人々を眺めた。中にはプロ並みの望遠レンズを備えたカメラを手にしている人間もいて、そこまで気張るほどのものなのかと気圧された。武蔵野は準備良く前売り券を買っていたので、前売り券を入場券と引き替える窓口に並びにいった。一人取り残された小夜子は、トートバッグの中の弁当を気にしつつ、武蔵野の帰りを待った。観客達の列は徐々に捌かれていき、武蔵野も戻ってきたが、頭一つ二つ出た身長と壁のような体格のせいで人々は彼を避けてくれた。武蔵野は出入り口付近のベンチに座っている小夜子の元に戻ってくると、入場券を差し出した。
「柳田の分だ」
「おう」
小夜子は座席番号が書かれた入場券を受け取り、腰を上げた。
「客の数、やけに多いな。ムラクモってそこまで面白いのか?」
「面白い。ケレン味と派手な演出と絶妙な伏線の張り方もそうだが、ニンジャファイターのキャラ立てが上手いんだ。どいつもこいつも必ず欠点があるんだが、それを補えるのは仲間だけなんだ」
「へー。たとえば?」
「ニンジャファイターのリーダーである水神のムラクモは正統派のヒーローだが古風な性格で、一度それと決めたら融通が利かなくなるんだ。水と同じだ。同じ方向にしか向かえない。そのおかげで解決出来た事件も騒動もいくつもあるんだが、そのせいでニンジャファイター達が窮地に陥ったことも少なくない。だが、そこに鴉天狗のクロウマルが横槍を入れて方向転換させるんだよ。クロウマルはふらふらしていて落ち着きのない若者なんだが、浮き足立っているからこそ視野も高ければ幅も広いんだ。だが、そのせいで他人の言うことに流されやすい。そこで一つ目入道のタンガンが首根っこを掴まえて地に足を着けさせるんだが、タンガンもタンガンで女性にやたらと弱い。そのせいで、敵怪人やらゲストヒロインに何度騙されかけたことか。そんな時、鬼蜘蛛のヤクモがタンガンに絡んできた女性の魂胆を見抜いて逆にやり込めるんだ。が、そのヤクモも、前世からの恋人とまた恋仲になれたせいでちょっとしたことでふわふわしちまうから、そこをムラクモがまとめるんだ。上手いこと出来ているだろう?」
「一息で設定をそれだけ言えるなんて、どんだけ見たんだよ」
「それは聞くな」
武蔵野は太い眉根を寄せて、サングラスを押し上げて目元を隠した。そうこうしている間に、ニンジャファイター・ムラクモのヒーローショーが始まった。吉岡グループとハルノネットの製造したサイボーグがことごとく溶けて死んでしまったので、特撮番組で使うサイボーグも例外ではなく、サイボーグアクター達もほとんどが死亡した。それでも、ニンジャファイター・ムラクモを楽しみにしているファンを裏切るわけにはいかないと奮起して、昔ながらの着ぐるみを着たスーツアクターやロボットを駆使し、本筋から懸け離れない程度に話を変えた。その結果、ニンジャファイターは宇宙山賊ビーハントとの戦いの最中に変身アイテムが奪われて変身能力を失ったが、ニンジャファイター達の魂に宿る神通力で変身出来るようになり、より凶悪になった宇宙山賊ビーハントと決着を付ける、とのことだった。
真顔でステージを凝視する武蔵野の隣で、小夜子はなんとなくショーを見ていたが、徐々にそのストーリーに引き込まれていった。地方のショーでは素顔を演じている俳優陣は呼べないので、ニンジャファイター達は変身後のスーツを着た状態でステージに現れては敵と戦っているのだが、皆、生まれ変わらずにこの命を使い切ろうと決意を表明していた。
ニンジャファイター達は、妖怪の魂が人間に転生して今の力を得た。だから、また生まれ変わってしまったら、生まれ変わった先の時代や世界で再度戦うことになる。戦いの最中で、宇宙山賊ビーハントの面々もそれぞれの流儀や信念に基づいていると知ったから、殺し合わずに生きられる道を見出そうと必死になっていた。そのためにはまず、ニンジャファイターの変身アイテムであるヒヒイロカネを破壊して輪廻転生の環を断ち切ることが大命題だ、とムラクモは力説していた。そして、宇宙山賊ビーハントもまた、ヒヒイロカネで作り上げられた妖刀を滅ぼして悪の連鎖を立ち切ろうとしていた。その妖刀によって、宇宙山賊ビーハントの頭領である怨霊のサダモトは愛妻である妖狐のシラタマを失ってしまったからだ。強さを求めるあまりに、愛して止まない女の血を刀に吸わせたサダモトは比類なき破壊の力を得たが、地球を支配しようと宇宙を平らげようと、シラタマは戻ってこないのだ。
宇宙山賊ビーハントは、ニンジャファイター達の変身アイテムであり、ヒヒイロカネ製のマガタマックスを入手して底なしの神通力を手に入れたが、それは黄泉の国への入り口であるヒヒイロカネを目覚めさせることでもあり、生と死の境界を薄くしてしまうことでもあった。シラタマの魂を得たヒヒイロカネは、怨霊のサダモトとニンジャファイター達が輪廻転生の環の中で何度も戦い、滅ぼし合い、因縁を深めてきたのだと語る。その因果が折り重なるほどにヒヒイロカネは力を増していく。そして、宇宙全体の生と死を逆転させ、死のない永遠の楽園を作り出すのだと声高に叫んだ。どっかで聞いたような話だな、と小夜子は思わないでもなかったが胸に納めた。
「シラタマや、儂のシラタマや……」
折れた妖刀に腹を貫かれたサダモトは、刀を握り締める。ああやっとそなたは儂の元に帰ってきてくれたか、もう離れはせぬ、何度死を迎えようとも、この刀に呪われた生を繰り返そうとも、そなた一人では決して往かせはせぬぞ。スーツアクターの演技もさることながら、サダモト役のベテラン声優の演技も鬼気迫っていた。きっと、サイボーグアクター達の無念を晴らそうと思うがあまりに生じた演技力なのだろう。
激戦の末、ニンジャファイター達の手でサダモトのヒヒイロカネが砕かれる。
そして、ムラクモは語る。観客席を見渡し、一人一人と目を合わせながら。
「私達は人間としてこの世に生まれ変わり、人間と共に過ごし、人間の良さも悪さも知った。そしてビーハントの面々も、生まれ育った惑星では人間と呼ぶに値する種族なのだ。私達にどんな違いがあったのだろうか。心のままに生きていたいと願うことも、私達と彼らにはなんら違いはない。だが、ヒヒイロカネはそれを糧とせんがために私達の魂を歪めて宇宙山賊ビーハントと戦わせ、恨み辛みを貪った。その忌まわしきメビウスの環は、今、ここで断ち切ろうぞ。そして、私達は一人の人間として、皆と同じ人生を歩んでいこう。寄り添うべき人は、すぐ傍にいるのだから」
ショーが終わる頃には、子供達はステージの空気に飲まれて黙し、大人のファン達は涙を堪えて凝視していた。サングラスを外して観劇していた武蔵野も感極まっているのか、背を丸めてしきりに顔を拭っていた。小夜子も思いがけず感動してしまい、ニンジャファイター達がステージから去る時には拍手してしまった。
ショーが終わってサイン会と撮影会が始まると、武蔵野は子供達の邪魔をしてはいけないと言って、早々に野外ステージの観客席から出ていった。テーブルと椅子が並べられた広場に来ると、丁度昼食時だったので、小夜子はあの弁当を広げた。水筒までは持ってこなかったので、やたらと割高な自動販売機でペットボトルの緑茶を買った。武蔵野は気まずげな小夜子と弁当箱を見比べたが、礼を述べた。
「悪いな、気を遣わせて。ありがたく頂くよ」
「おう」
ヒーローショーの余韻が抜けきっていない小夜子は、誰もいなくなったステージを見やる。
「割と面白かったな。つか、ムラクモってああいう話だったのか?」
「いや。序盤は割とコミカル路線で、ニンジャファイターとビーハントの怪人のドタバタ話が多かったんだが、中盤でヒヒイロカネの出所が黄泉の国だと解ると脚本家が本気を出したみたいでな。で、N型溶解症があっただろう。それが決定打になって、死生観の話になったんだ」
「子供向けじゃねぇよ、そんなん。ハードすぎるだろ」
「子供向けと子供騙しは違うんだよ。むしろ、ああいうどぎついものほど、子供の頃に見ておくべきだと思うがな」
武蔵野の意見は極端ではあったが、筋が通っていないわけではない。小夜子は弁当に手を伸ばして、おにぎりを囓った。取り皿におかずを取って食べていると、武蔵野に問われた。
「こんな時に聞くのもなんだが、柳田はなんであの部署にいたんだ?」
「黙れよ公安の飼い犬」
「答えろ犯罪者」
小夜子が軽口を叩くと、武蔵野もそれに応じた。小夜子は緑茶を呷り、口角を曲げる。
「そんなにややこしい経緯でもねぇよ。あたしは自衛隊の武器科に入って、戦闘車両とか災害支援用の人型重機の整備をする部署にいたんだ。んで、毎日毎日仕事をしていたら、警官ロボットを流用した人型特殊車両を自衛隊に配備するっつー計画が持ち上がったんだ。そのためにうんざりするほど研修に行って色んな資格を取ったんだが、人型特殊車両が配備される直前になって急に頓挫したんだよ。タカさんが遺産絡みのゴタゴタをどうにかするために、政府を顎で使おうとストライキをしたんだろう。おかげで自衛隊は大損害で、人型特殊車両もお蔵入り。ムリョウに変わる動力部が完成する直前だったからな。んで、仕方ないからタカさんに協力するってことが決まったんだが、コジロウを政府側で整備するっつーのがタカさんに手を貸す条件になった。タカさんの技術を盗むためだよ。んで、あたしは人型特殊車両に明るかったから引き抜かれた。だから、言っちまえば、あたしはむっさんの後輩だな」
「なるほどなぁ。で、技術は盗めたのか?」
「それが全然。タカさん、頭の構造があたしらとは全然違うんだよ。当たり前だけどさ」
「だったら頑張れ。これから同僚になるんだろう?」
「すぐじゃないけどな。まー、そのうち、あたしが作ったロボットファイターで世界を席巻してやるよ」
「ああ、応援してやるさ」
武蔵野の何気ない言葉に、小夜子は心臓が跳ねた。それまではなんとも感じていなかったのに、急にあの戸惑いが蘇ってきて、小夜子は居心地が悪くなった。弁当の中身を胃に詰め込んでから、トイレに行くと言ってテーブルを離れた。テーマパークの隅にある女子トイレに駆け込んで個室に入ると、暴れる心臓を押さえ、小夜子は深呼吸を繰り返して落ち着こうとした。けれど、一向に効果がなく、苦しさのあまりに泣きたくなってきた。
最低だ、最悪だ。小夜子は次第に自分の恋心の芯を自覚し、腹の底から自分が嫌いになった。長孝は小夜子の父親にはなってくれないから、武蔵野に父親になってほしいと願っているのだ。だから、褒められたいと思ってしまうのだし、好かれたいと思ってしまった。こんなのは恋でもなんでもない、ファザコンの延長だ、独り善がりな欲望だ。そんなものをぶつけたら、武蔵野は優しい男だから小夜子を受け止めてくれるだろう。だが、本当の意味で小夜子を好いてくれるわけではないだろう。女として見られていない、だなんて思い上がるにも程がある。そもそも小夜子が武蔵野を男として見ていなかったのだから、女として認識されるわけがない。
けれど、父と娘になれるはずもない。
何もかも、やる気が失せる。
それもこれも、自分が嫌になってしまったからだ。荒れ放題の部屋に引き籠もっていると余計に気が滅入るが、かといって気晴らしになるような遊び場も店も近場にはなく、愚痴を零せるような友達などいない。それでも、一人で抱えているとどんどん深みに填ってしまうので、誰かに吐き出さなければ気が済まなかった。
そして行き着いたのが、一乗寺が教鞭を執る分校だった。集会所の広間は年季の入った畳が剥がされ、三つの机と教卓が並んでいた。生徒の人数分のロッカーも後方に置かれ、まだまだ寒い季節なので石油ストーブも据えてあった。さすがに少女達が戯れる教室でやさぐれるのは気が引けたので、小夜子は職員室になっている小部屋で一乗寺と向かい合った。ジャージ姿の一乗寺は髪をシュシュで結んでいて、一段と女性らしくなっていた。
「んで、さよさよは何をしに来たの? 俺と話しに来るなんて、めっずらしーい」
一乗寺はインスタントコーヒーを湯飲みに入れると、それに無造作に湯を注いでから小夜子に差し出した。
「それが解ったら苦労しねぇよ」
「もしかして、なんかあったの?」
興味津々の一乗寺に、小夜子は苦いだけのコーヒーを啜った。
「言えるか、そんなもん」
「あー、あったんだぁー。じゃ、何があったのか先生に話してみよう! いえーい!」
「お前はあたしの教師じゃねぇだろ」
「でもでも、先生は先生じゃーん」
澄まし顔の一乗寺は椅子に深く腰掛ると、肉付きの良い足を組んだ。アホくせぇ、と小夜子は毒突き、職員室を見渡した。一乗寺もまた小夜子と同じく整理整頓が苦手な人種なので、そこかしこに重要書類や教材といった書類の束が塔を成していたが、空気中を漂う埃の数は少なめだったので一乗寺なりに掃除を頑張っているらしい。
「んで、イチはスーとはどんな感じなんだ」
小夜子が尋ねると、一乗寺は照れた。
「えへへー、そりゃもう。すーちゃん、出張が多くてなかなか帰ってこられないけど、その代わりに帰ってきたら俺のことを目一杯構ってくれるんだぁ。んで、俺の話もちゃんと聞いてくれるの。もちろん、すーちゃんの話も聞くけどさ、俺が話す時間の方が長いかな。だってさ、前に比べると嬉しいことが増えたんだもん」
「で、だ」
小夜子は言いづらかったが、意を決して本題を切り出した。
「イチは、スーを誰かの身代わりだと思ったことはあるのか?」
「そりゃあるよ。小学生の時に殺した子でしょ、中学生の時に殺した子でしょ、ショウでしょ、お母さんでしょ」
一乗寺は指折り数えてから、その指をゆっくりと広げた。
「あの時あの人にああしていれば、って思ったことをすーちゃんでやり直しているの。すーちゃんもそれを解った上で俺に付き合ってくれている。優しいんだよ。変な奴だけどね」
「それは幸せなのか?」
「俺達はね。俺はすーちゃんに構ってもらえて幸せ、すーちゃんは俺にまとわりつかれて幸せ。利害関係が一致しているから、一緒に暮らしてんじゃん。そういうさよさよは、今、幸せじゃないの?」
少女のような澄みきった目で見つめられ、小夜子は言い淀んだ。
「それが良く解らねぇから、愚痴りに来たんじゃねーか」
「さよさよってさぁ、もしかしなくても、お母さんが嫌いだよね」
一乗寺はマグカップを傾けてコーヒーを啜ってから、しれっと言い放った。
「さよさよの家庭の事情はよく知らないけど、お母さんのことはちっとも聞かないもん。お父さんの話はちょっとだけ聞いたかもしんない。お父さんがお母さんのことを話してくれなかったから、お父さんがお母さんを嫌いなら自分もお母さんが嫌いだ、って思ったりしたの? 俺もちょっとその気はあったから、男の体になっていたけど、また女に戻ってからはそうでもないかな。俺のお母さんは世間に馴染めなかっただけなんだなぁ、って解ってきたから」
「勝手に適当なことを言ってんじゃねぇよ」
「女らしくしようとしなかったのも、性格もあるだろうけど、母親を含めた女ってのを否定するためじゃないの?」
「だから、なんでそんな推測をしやがるんだよ」
「んー、別にぃ? 適当に言ってみただけ」
「お前なんかに話したのが間違いだったよ」
「んでさぁ、思うんだけどね」
一乗寺はあっけらかんと笑い、身を乗り出してきた。
「うだうだ悩むだけ時間の無駄だから、ヤっちゃえば?」
「どぁっ、誰とだよ!?」
小夜子が動揺すると、一乗寺は小首を傾げる。
「それはさよさよの自由だよー。でも、すーちゃんは貸してあげなーい。すーちゃんの全部が俺のモノだもん」
「どうしてそう極端なんだよ、お前って奴は!」
「結局さあ、男と女の良さを理解し合うにはそれが手っ取り早いんだよね。俺の場合がそうだったもん」
「だからって、それがあたしに当て嵌まるわけがないだろ!」
「じゃ、さよさよが思う通りにやればいい。ヤってもいい」
「全く……」
小夜子が顔をしかめると、一乗寺はにんまりする。
「大体に置いて、他人に相談している時点で本人の中で結論は出ているものなんだよねー。つばめちゃんとりんねちゃんと色々と話していると、それがよく解るんだぁ。コジロウ君がどうのいおりんがどうの、って言ってくるんだけど、最終的には惚気になってんの。だから、さよさよも下手なことを考える前に行動してみたら?
それが一番確実だと思うんだけどなぁ、俺としては」
「行動って」
具体的に何をすれば。小夜子が身動ぐと、一乗寺はマグカップを揺らして底に残ったコーヒーを混ぜる。
「自分を肯定してあげるの。俺はずうーっとそうしてきた。でないと、息苦しくてやってらんないもーん」
「それが出来ないから、どいつもこいつも悩むんだろうが」
「悩む時点で自己肯定は出来ているようなもんだけどね。悩むこと自体が高尚な行為だから」
「イチにしては、やけにまともなことを言うんだな」
「ここんとこ、新学期の準備をしながら一人でいたから、頭の中が整理出来ているだけだよ」
それから小夜子は一乗寺と語り合ったが、事ある事に武蔵野とのことを聞き出されそうになったので、ここにいては沽券に関わるので適当な理由を付けて分校から逃げ出した。いつのまにか暗くなっていて、月まで昇っていた。集落には散歩がてら徒歩でやってきたので、自家用車は手元にない。かといって、他の誰かに車を出してもらうのは癪だ。こうなったら、月明かりを頼りに帰るしかなさそうだ。せめてタバコで光源を、と作業着のポケットから出したタバコを銜えてライターを灯し、渋い煙を吸っていると、目の端に光を感じた。
「んあ」
振り返ると、懐中電灯を手にした武蔵野が立っていた。
「何してんだよ」
あんたのせいで無駄に悩む羽目になったんだ、と言いかけたが、小夜子はぐっと堪えた。
「柳田こそ、何をしている」
懐中電灯の光を下に向けた武蔵野に問われ、小夜子ははぐらかした。
「別になんでもねぇよ。これから歩いて帰る。どうせ政府の連中がいるんだから、不審者なんていねぇしな」
「この前の礼をさせてくれないか」
「え、あ、う?」
なんだそれは、一体どういう意味でだ。小夜子が狼狽えると、武蔵野は自宅を指し示した。
「夕飯だけでも喰っていけ。その後で車を出して送ってやるよ。女一人、夜道を歩かせられるほど冷酷じゃない」
まだ気持ちの整理すらも付いていないのに。次から次へと勝手なことを言ってんじゃねぇよ、あたしは別にか弱くもなきゃ若くもねぇよ、大きな御世話だこの野郎、と小夜子は怒鳴り散らしてやりたくなったが、言えるはずもなく了承した。武蔵野は客を招けることが嬉しいのか、心なしか足取りが軽い。彼の持つ懐中電灯の光を追い掛けながら、小夜子は一度分校に振り返った。一乗寺は残業しているらしく、カーテンの隙間から光が零れていた。
そして進行方向に向くと、玄関と室内から窓明かりが漏れている、合掌造りの古い家が待ち構えていた。それだけで無性に目の奥が痛くなり、小夜子は暗がりであることをいいことに顔を歪めた。明るいところに出る前までに表情を戻さなければ、と自戒しようとするが、ここ最近でひどく揺れ動いている心中は意志に反してぐらつく一方だった。お願いだから一人にしないで、先にどこかへ行かないで、父さん、ここにいて。
辛うじて言葉には出さずに済んだが、行動に及んでしまった。我に返ると、小夜子は右手に硬い布地を握り締めていた。恐る恐る目を上げると、それは武蔵野が着ている迷彩服の裾だった。離そうとしても手が緩まず、引き抜こうとしても勇気が足りず、小夜子が硬直していると、皮の厚い大きな手が手首を掴んできた。
父さん。幼子のような震え声が、鼓膜を掠めた。
機械的に夕食を終えた後、ようやく小夜子は口を開けた。
舌の回りを良くするために少しだけ酒の力を借り、武蔵野の頼りがいのある背中に額を当てながら、長年胸中で凝っていたものを解していった。小夜子は父親が好きだった。片親で、頼れる大人が父親だけだったからということも相まって心の底から寄り掛かっていた。価値観の中心で、世界の軸で、世の中の全てだった。だから、父親の背を追って機械技師の道に進むのは自然の流れだった。だが、独り立ちした姿を見せる前に父親は病死してしまい、仕事ばかりで家に寄り付かなかった父親と向き合う機会も失った。
「あたし、最後まで父さんのことをなんにも知らなかったんだ」
武蔵野の背骨の太さを額で感じながら、小夜子は温くなった缶ビールを手の間で転がした。
「あたしを産んだ女のことも教えてもらわなかった。どうやって出会ってなんで別れて、あたしを引き取ったのかも、知らないままだった。今からでも調べられなくもないだろうけど、正直、知りたくない。それを知ったら、あたしが思う父さんの姿がダメになっちゃう気がするからだ。でもさ、やっぱりあれだよ、父さんに認めてほしかったんだ。全部。上手く言えないけど、好きになってほしかったんだ。だってそうだろ、父さんが家に寄り付かなかったのはあたしがそんなに好きじゃなかったからだろ。タカさんを見てりゃ解るよ」
だから。
「親にも好かれなかった人間が、誰かに好かれるわけがないんだ。それなのにさ、あたし、馬鹿だよ」
言うつもりもなかった言葉が次から次へと口から出てしまい、小夜子は喉の奥で呻きを殺した。心臓が、内臓が、神経が、骨が、無数の棘に切り刻まれる。武蔵野の迷彩服の裾を再び握り、傷口から漏れた真情を絞り出す。
「あんたは父さんの代わりじゃないし、あたしじゃひばりさんの代わりになんてなれない。だけど、だけどさ、あんたと一緒にいられて嬉しかったんだ。馬鹿だよ。だって、あたしはそういう対象にはなれねぇし。一応、穴はあるけどさ、それだけだよ。それだけなんだよ。突き放さないでくれよ。近くにいてくれよ。せめて、話し相手になってくれよ」
そこから先を望むのは、あまりにも愚かだ。自分には、女としての価値が欠片もないからだ。その証拠に武蔵野は小夜子の体を一切触ろうとはしない。手首を掴んでくれたのは反射的な行動であって、小夜子が弱っていたから心配したわけではないだろう。それは楽ではあるが、果てしなく空しい。
「人の家庭の事情に口出し出来るほど、俺は立派な人間じゃないが」
武蔵野は小夜子を気にしつつ、抑え気味に言った。
「柳田の親父さんは、そんなに冷たい人間じゃないと思うがな。だってそうだろう、医者にも行かないで根を詰めて仕事をしていたのは、一人娘を育てるためだ。それが結果として柳田を一人にすることになっちまったが、男手一つでそこまで育てられたんだ、きっと後悔はしちゃいないさ」
「そうかな」
「それと、こう言うのもなんだが、死んだ人間にそこまで義理立てしなくてもいいと思うぞ。不幸な結果になっちまったことは否めないが、それもこれも親父さん本人が選んだ結末だ。柳田がそこまで思い詰めるもんじゃない」
「それでいいのかよ」
「俺はそうすべきだと思う、ってだけだがな。傭兵だった頃も、新免工業の実働部隊で戦っていた頃も、俺の周りでは何人も死んでいった。俺が殺した相手も数知れない。そいつらの人生を全部背負って生きられるほど、俺の背中は広くなければ足腰も強くないんだ。昔はちったぁ悩んだが、今は腹を括っている。少しぐらい自分の幸せってやつを求めたって誰にも咎められはしないぞ。まあ、柳田は犯罪者になるかどうかの瀬戸際だが、非常事態の緊急措置だと判断されれば刑罰はかなり軽くなるだろう。それに、遺産の存在は厳密には政府に認められちゃいないんだ。怪人連中と同じだ。アマラを持ち出してつばめに渡したところで、アマラそのものが存在していないんだから、起訴されたこと自体が無効になる可能性もある。報道機関に柳田の情報が流れていないところを見ると、目眩ましにも使われていないようだしな。だから、遠からず自由になれる。その時にどうしたいのか、また考えればいい」
「それ、公安の入れ知恵か?」
「いや、半分以上は俺の主観だ」
「そんなん、気休めにもならねぇよ」
小夜子は笑おうとしたが、口角が奇妙に歪んだだけだった。
「なんで俺にしたんだ」
長い長い間を経て、武蔵野が問うてきた。それと同等のラグの後に質問の意図を察した小夜子は、ささくれ立った心中が熱く疼いた。居たたまれなくなり、武蔵野の迷彩服に爪を立てる。
「それが解れば、誰も苦労はしねぇよ」
「ああ、そうだなぁ」
自分の過去を顧みたからか、武蔵野が自嘲する。記憶の中の父親の背よりも広い背に縋り、小夜子は零す。
「嫌なら、止めるけど」
「別に嫌じゃない」
「嘘吐け」
「俺はそこまで器用な人間じゃない」
「格好付けてんじゃねぇ」
「なんというか、面倒臭いな」
「悪かったな。こういう奴なんだよ、あたしは」
「いや、柳田のことじゃない。俺のことだ」
広い背が上がり、肩越しに伸びてきた大きな手が小夜子の頭に慎重に載せられた。
「まあ、なんだ。俺もこういう人間だから、面と向かって反吐が出るような口説き文句を言える性分じゃない。だから、今日のところはこれで勘弁してくれないか」
「……おう」
小夜子は武蔵野の強張った手の感触に感じ入り、息を詰めた。その手が離れてしまうのが惜しかったが、代わりに背中に一層体を寄せた。そうしていると、少しずつではあるが、凝り固まったものが緩んでいく気がした。
「で、あたしのどの辺が気に入ったのか教えろよ。もののついでに」
「細かいことを説明出来るほど、明確な理由じゃない。目が合ったからだ」
「なんだ、それだけかよ」
自分と同じではないか。小夜子は嬉しさと照れ臭さがない交ぜになり、僅かに肩を揺すった。
「けど、だからってセフレ扱いするんじゃねぇぞ?」
「馬鹿言え。そんなことが出来るような度胸があると思うか」
「確かに」
小夜子は武蔵野の背中に寄り掛かり、笑いを堪えた。それから、特に何をしたというわけではない。味がほとんど解らなかった夕食を食べ直すために晩酌をしたのだが、武蔵野も酒を引っ掛けたので車を出せなくなった。なので、小夜子は一晩泊まることになったが、手を出されなかった。触られもしなかったし、寝床も別の場所に用意された。それが物足りなくもあったが、小夜子との適度な距離感を見出そうとしている武蔵野のいじらしさに、またも好意を覚えた。自室の布団とは段違いに柔らかい布団に潜り込んで、小夜子はすぐに熟睡した。
心に刺さった棘は、柔らかくなっていた。
短い春が終わり、初夏が訪れた。
武蔵野が毎日精魂込めて手入れしている畑には、作物が葉を広げつつあった。それを武蔵野が住まう家の縁側から眺めているだけで、不思議と心中が凪いだ。小夜子は肌触りの冷たい板張りの床に寝そべっていると、家主が戻ってきた。風は涼しいが日差しが強いからだろう、ツナギの上半身を脱いで黒いタンクトップ姿を曝していた。小夜子がごろりと寝返りを打ってから身を起こすと、武蔵野は小夜子の隣に腰を下ろした。
「で、どうなった」
「今のところは起訴猶予だが、またどうなるか解らねぇ。で、また裁判所に呼び出されちまった。旅費は自前だから、東京まで行くのが面倒臭ぇよ。遊び歩こうにも、行きたいところが遠いしなぁ。まー、ロボットの基板と部品を漁りに秋葉原のジャンク屋には行くけどな。パソコンも新しいのを自作したいし。ソフトで3Dの図面を作成するのはいいんだが、処理落ちしてすぐに固まっちまってさー。コジロウ、ムジンでも貸してくれねぇかな」
小夜子が怠惰に報告すると、武蔵野は首に掛けていたタオルで汗を拭い取った。
「そりゃ無理だな。弁護士の言うことをちゃんと聞いて下手は打たないようにしろよ」
「ガキの使いじゃねぇんだから。立件されないように、大人しくしているけどさ。収監されたくはねぇし」
「ああ、頑張れ」
「おう。で、弁当なんだけどな、冷蔵庫に入れておいた。中身は教えてやらん」
「そりゃどうも。二人前か?」
「当たり前だろうが。自分で作ったものを自分で喰わなくてどうする」
小夜子は武蔵野の屈強の体を仰ぎ見たが、近頃感じている違和感の真偽を正すために尋ねた。
「むっさんって混血? なんか、骨格とか肌の色とかが微妙に違う気がするし、日本人だったらそこまで派手な筋肉付かないだろーって、最近思ったんだけど。違っていたら、悪い」
「少しだけだ。父方の祖父がアラブ系アメリカ人だそうだが、だからどうってことでもない」
「そうだな。それが今のむっさんと関係あるかどうかっつったら、ねぇな、これっぽっちも」
「ないね。俺も最近気付いたんだが、俺が十七歳の頃にお前が産まれた計算になるんだな」
「今更すぎじゃね? てか、むっさんの高校時代なんて想像付かねー。なんか笑えてくる」
「なんというか、人生、何がどうなるか解らんもんだな。高校生の俺に二十九年後にはこうなると言ったところで絶対に信じないだろう。あの頃の俺は特にひどかったからな」
「なんにしたって、今が良ければいいんじゃねぇの?」
小夜子は勢いを付けて上体を起こし、寝乱れた髪を掻き上げた。
「こうやって毎日通うのも悪くねぇけど、面倒臭くなってきた。いっそ、一緒に住んでもいいかなぁ」
「だったら、まずは掃除することを覚えてくれ。お前の部屋に行った時、ひどかったからな」
「誰も来ないと思うから、締まりがなくなっちまうんだよ。解るだろ、なあ」
「少しはな。だが、だらしなくしていてもいいことはない。それは解るだろ、さすがに」
「一応はな」
小夜子は体を傾け、武蔵野の汗ばんだ上腕に寄り掛かった。父親のものよりも余程濃い、男の匂いがする。
「んで、また何もしてこねぇの? 御立派なモノをぶら下げてくるくせに。使わなさすぎてジャムっちまたか?」
「昼間から何を言いやがる」
武蔵野はやりづらそうに毒突いたが、決して嫌がってはいなかった。あれから、二人の間で急激な変化が起きたというわけではない。互いに好きだと明言したわけではないし、どちらもベタベタした恋愛沙汰は苦手なので、男同士のような言い合いを繰り返しているばかりだ。甘さとは程遠い関係ではあるが、その距離感が心地良いので互いに満足している。だが、その均衡がいつまでも持つわけではないこともまた、互いに解っている。
「今度、父さんの墓参りに付き合ってくれねぇかな。どうせ暇だろ?」
「見ての通りだ。それで、親父さんの墓はどこにあるんだ」
「結構遠いぞ。あたしの実家、北関東の外れの方だから」
「その間、畑の手入れは伊織にでも任せる。あいつは見た目の割には信用出来るからな」
「せっかくだから、スカートでも履いてやろうか」
「嬉しいね、あの足をまた拝めるのか」
「うるせぇー」
小夜子は身長に比例した長さの足を投げ出し、縁側の外に出した。汗を吸ったジーンズが肌に貼り付いていて、少し動かしづらかった。着古したTシャツの裾が風を孕み、腹部から背中に掛けて空気が巡り、清涼感が訪れては通り過ぎていった。風通しを良くするために戸を開け放している室内にも風が抜けていき、分校から漏れ聞こえる少女達のお喋りもかすかに混じっていた。雪が消え、皆が住み着いてからは、集落も息吹を取り戻している。
あれから、武蔵野は小夜子に色々なことを話してくれた。幸福とは言い難い幼少期、他人に甘えられないが故に頑なになっていた思春期から青年期、傭兵として戦い始めた頃の苦悩、新免工業での仕事、そして佐々木ひばりに対する複雑な感情と、小夜子に抱いているまろやかな好意。目が合ったことを切っ掛けに、武蔵野は小夜子を目で追うようになっていた。話が合うか否かは別として、程良い付き合いをするには最適だと感じていたからだ。そうでもなければ、ヒーローショーになど誘うわけがない。その時は対等な友人になれればいいとだけ思っていたそうだが、小夜子が武蔵野の趣味を無下にしなかったことがやけに嬉しかったので、それから薄々意識するようになっていたのだそうだ。小夜子にも、その気持ちは良く解る。趣味を受け止めてもらえることは大事だ。
「小夜子」
前触れもなく下の名前で呼ばれ、小夜子は羞恥に駆られて俯く。
「……ん」
「昨日、風呂に入ったのか? 暑くなってきたんだから、少しは頻度を上げたらどうだ」
「そんなん、あたしの勝手だろうが」
「なんだったら、付き合ってやってもいいぞ」
「うるせぇー」
小夜子は力なく手を振り、武蔵野の上腕を軽く叩いた。武蔵野は抗いもせず、笑っているだけだった。それが本気かどうかは別として、気に掛けてもらえるのは悪い気はしない。それでも、武蔵野と接するようになってからは徐々にだらしなさは改善しているのだが、所詮は微々たるものなので傍目からではよく解らないらしい。なんだったら、一緒に風呂に入ってもいいかもしれない。そうすれば、手を繋ぐか否かで散々迷う関係から、少しだけ進歩出来る可能性もなきにしもあらずだ。かすかな期待と過剰な不安を覚えたが、小夜子の胸は痛まなかった。
もう、棘は抜けていたからだ。




