この親にしてこのコールあり
引っ越し当日は、雪の晴れ間だった。
うずたかく積もった雪の壁に四方を囲まれた合掌造りの家が、佐々木親子を待ち構えていた。厚手のマフラーで覆っていた口元を出して白い息を吐いてから、つばめは目を瞬かせた。外見だけ見れば、佐々木長光邸となんら変わりがないように思えるが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。家主が姿を消して久しいのに屋根の積雪が除雪されているところを見ると、コジロウが暇を見て手入れしてくれていたらしい。増築されたガレージはシャッターが閉ざされたままで、合掌造りの家に前に伸びている細い道路には、今朝方除雪された痕跡は見受けられたが、今し方乗ってきたワゴン車以外の轍はなかった。
つばめは隣に立っている一人と一体を、そっと見上げた。いつもの作業着の上に申し訳程度の防寒着を羽織っている、佐々木長孝は凹凸のない顔で借家を眺めていた。袖口から出ている触手には鍵の束が下がっており、時折吹き付ける風がちゃりちゃりと小さな金属音を立てていた。そして、長孝の奥では警官ロボットのコジロウが背筋を真っ直ぐ伸ばして立っていた。赤いパトライトから淡い光が滲み、彼の周囲だけ雪が赤く染まっていた。
「本当にこれで良かったのか」
長孝に問われ、つばめは聞き返す。
「何が?」
「やろうと思えば、家の一軒や二軒新築出来るほどの金があるのに、なぜ中古の家に住もうと思うんだ。政府が寄越す口封じのための賠償金もそうだが、俺が使ってこなかった金もそれなりにある。それを使えば、つばめの思い通りの家が出来る。それなのに、またこの作りの家にするのか?」
「だって、勿体ないじゃん。それに、私、お爺ちゃんの家は結構好きだったんだ」
「そうか。お前がそう言うのなら、それでいいんだ」
長孝はつばめを一瞥してから、柔らかな新雪が降り積もった玄関先を歩いていった。靴を履かずに素肌の触手をうねらせて移動する父親の足跡は独特で、細かな筋が何本も付いている。雪との接地面が少ないのと体重が分散されているからだろう、大柄なのにするすると淀みなく進んでいった。長孝は鍵束の中から玄関の鍵を見つけ出すと、それを差し込み、回して錠を開けた。木枠に磨りガラスが填った古い引き戸を開けようとするが、積雪の重みで家が少し歪んでいるからだろう、がたつくばかりで思うように開かなかった。
「お父さん、コジロウに手伝わせようか?」
見かねたつばめが進言するが、長孝は玄関の敷石に入ってから両足の触手を踏ん張らせた。
「……いや、構わん」
押し殺してはいたが、力を込めているせいで若干上擦っていた。そんなことで意地にならなくても、とつばめは少し呆れたが、長孝なりに父親の矜持を見せたいのだろう。引き戸は少し動いては突っ掛かる、を繰り返していたが、長孝の奮闘の甲斐あって開き切った。大きな肩を上下させ、長孝は両足の触手に付着した雪を払ってから、つばめとコジロウに振り返った。
「開いたぞ」
表情は見えず、声色も平坦だったが、どことなく誇らしげだった。つばめは笑みを零しつつ、雪道を進む。
「はーい。お父さん、やるじゃない」
「当然だ」
長孝は上着の襟を正してから風防室に入り、別の鍵でもう一つの引き戸の錠を開けた。玄関マットで両足の触手の汚れを拭いてから、冷え切った板張りの廊下に上がった。つばめは玄関の敷石に長靴の底を強めに叩き付けて雪を落としてから、ダウンジャケットのフードに積もった雪を払ってから、長靴を脱いで叩きに上がった。最後に入ってきたコジロウは、廃熱で機体のそこかしこに付いた雪を一瞬で蒸発させた後、両足の裏を拭ってから三和土に上がった。雨戸も閉め切られているので、家の中は真っ暗で芯まで冷え切っていた。
ぱちん、と硬い音がすると、廊下の天井から吊り下げられている電灯の明かりが付いた。オレンジ色の柔らかな光が闇を拭い去ったが、厚手の靴下を呆気なく通り抜けて襲い掛かってくる寒さは相変わらすだ。つばめはつま先立ちになって進みながら、父親の後を追った。つばめの後を、コジロウが従順に付いてきていた。
長孝がふすまを開いて中に入ったので、つばめもその部屋に入った。そこは居間で、他に部屋に比べると間取りが広く、天井も高かった。囲炉裏までは付いていなかったが、掘りゴタツと思しき四角い穴が畳に空いていた。居間の奥に、段ボール箱と見覚えのある家具が積み重ねられていた。パステルカラーのタンスに水玉模様のカーテンといった、古民家に不釣り合いな色彩の固まりは、備前家に置きっぱなしだったつばめの私物だった。
「おお、私の荷物!」
つばめがタンスに駆け寄ると、触手を器用に使って段ボール箱を開封しながら長孝が言った。
「それは備前夫妻に頼んで送ってもらったものだ。つばめの部屋のものをそっくり運び出してもらったが、足りないものがないかどうか確かめておけ」
「で、お父さんのものは?」
「ああ」
そう言って長孝が示したのは、一〇個足らずの段ボール箱だった。つばめの私物の半分以下しかなく、その上箱がどれも小さめだった。つばめが不思議がっていると、長孝は返した。
「俺は大して広い部屋に住んでいたわけではないし、モノを増やすのが好きではなかったんだ。だから、こんなものなんだ。まあ、半分近くはどうしても処分出来なかったひばりの遺品でもあるんだが」
「そっか」
「そうだ」
つばめが納得すると、長孝は簡潔に応じた。すると、薄暗い室内に出し抜けに光が差し込んできたので、何事かと振り返ると雨戸が開けられていた。障子戸に影絵を作りながら雨戸を開け続けているのは、もちろんコジロウだ。一つ開けてはまた次の雨戸を開けていくので、この分では家全体を一周してくるつもりだろう。
障子戸を開けて淀んだ空気を入れ換えたが、その間、とても寒かった。日差しは強いが暖かいとは言えず、ただ眩しいだけだった。なので、ダウンジャケットを脱ぐことすら出来ず、つばめは私物の山の中で丸まっていた。
「つばめ。見てみないか」
すると、長孝がつばめの前に冊子を差し出してきた。
「なあに、これ」
つばめは言われるがままにA4サイズの厚手の冊子を広げると、華やかな装丁のフレームに囲まれている写真が現れた。それは、ウエディングドレス姿の母親と人工外皮を被った父親のタキシード姿を写したものだった。紛れもない、結婚の記念写真だ。つばめが感嘆すると、長孝は少しやりづらそうに首を捻る。
「金もなければ呼ぶ客もいなかったから、式は挙げなかったんだが、写真だけはと思って撮っておいたんだ」
「お母さん、綺麗だね」
「そうだろう」
「ねえ、コジロウ! お母さんの写真だよー!」
嬉しくなったつばめが立ち上がってコジロウを呼ぶと、雨戸を開け終わったコジロウが居間に戻ってきた。つばめはコジロウにも両親の結婚記念の写真を見せると、コジロウは長孝と写真を何度も見比べていた。その度に長孝は妙な呻きを漏らし、羞恥心を堪えているようだった。恥ずかしがることなんてないのに、と思うが、父親の気持ちも理解出来なくはなかったので、つばめは敢えて何も言わないことにした。
それから、新たな家での日々が始まった。
佐々木家が引っ越してきた家は、船島集落から離れた場所にある、全く別の集落にある。
N型溶解症による非常事態宣言で一ヶ谷市民は退去したため、この集落の住人も一人残らず退去した。だが、百年以上も守ってきた古民家をダメにするのは惜しいとのことで、N型溶解症の根絶と土壌消毒に携わるために一ヶ谷市内に留まっている人々に向けて格安の家賃で貸し出すこととなった。佐々木親子や他の面々はその恩恵に授かり、それぞれで住む家を借り受けたというわけである。
しかし、前の住人の息吹が染み付いたままではやりづらいので、必要最低限のリフォームを行って、家財道具も運び出して本来の持ち主の元に送り届けた。家電製品も同様で、何から何まで新しくした。そのための費用の出所は、政府と吉岡グループである。畳も全て新品に張り替えられ、風呂もトイレもキッチンも今時のものになっていたので、清々しい気持ちで新生活を始められる。
そのはずだったのだが、つばめは不機嫌だった。
住み心地の良さそうな部屋に私物を持ち込んで、自分の部屋を作ったし、家財道具を少しずつ増やして居間も居心地を良くしたし、新品の家電製品の調子は良いし、胸の傷跡は一生消えないが心臓は好調で体調も安定している。だが、肝心要の父親が帰ってこないのだ。
「ぬー……」
つばめは唸りながら、父親の作業着を折り畳んでいた。小倉重機、との刺繍が胸元に縫い付けられている。この家に引っ越してきた当初はがらんどうで寒々しかった居間は、大きな石油ストーブを置いて掘りゴタツも作ったので暖かい。部屋の大きさに見合ったテレビも、部屋の隅に据えてある。つばめは、掘りゴタツの傍に正座して洗濯物の山を片付けていたが、あまり捗っていなかった。
「異変か、つばめ」
つばめの隣で正座して洗濯物を畳んでいたコジロウに訝られ、つばめは頬を膨らます。
「お父さんが帰ってこないんだもん」
「サブマスターは小倉重機一ヶ谷支社に再就職した。よって、業務を行わなければならない」
「そりゃそうだけど、だからってさぁ」
つばめは腕を組み、折り畳んだばかりの作業着を睨み付ける。
「サブマスターにはサブマスターの業務が存在する」
コジロウに諌められたが、つばめは苛立ちが収まらなかった。
「だとしてもだよ、私が起きる前に出掛けることないじゃん、私が寝る直前に帰ってくることないじゃん。お父さんの仕事がどんなのかはよく知らないけどさ、そこまで忙しいもんなの?
最近は御飯だって一緒に食べられた試しがないし、お弁当だって作ってやれないしさぁ」
つばめはコジロウに寄り掛かる。また雪が降り出していて、障子戸の外は薄暗い。
「お父さん、私と一緒に住みたくなかったのかな」
「サブマスターはつばめとの生活を切望していた。よって、その認識は誤りだ」
「でもさぁ」
「つばめは寂しいのか」
「そりゃそうだよ」
コジロウの膝の上で寝そべったつばめは、コジロウを真下から仰ぎ見た。どの角度から見ても、コジロウは格好良い。
「だって、お父さんなんだもん」
胸に手を添え、心臓の確かな鼓動を感じた。祖母が作ってくれた心臓が脈打ち、つばめの体の隅々まで熱い血を巡らせてくれるが、それを得られたのは父親がいたからだ。長孝がひばりと愛し合わなければ、クテイがひばりと心を通い合わせなければ、クテイが長孝をこの世に産み出してくれなければ、今のつばめは存在していない。母親とは二度と会えないが、父親とは一緒に暮らせる。家族として生きられる。そう信じていたから、手術に対する恐怖も、入院の寂しさも、コジロウが傍にいない空しさも、耐えてこられたのに。
「色々、話したいこととかあったんだよ?」
コジロウが差し伸べてくれた右手を掴んだつばめは、その手を胸元に導き、服越しに片翼の傷跡に触れさせる。
「でも、一緒にいなきゃ話せないんだよ。お母さんのことだって、ちっとも聞けていないし。だけど、お父さんが忙しいんなら、それを邪魔しちゃいけないし。でも、やっぱり寂しいや。皆が引っ越してくるまでにはもうちょっと時間が必要だから、誰かにあって気を紛らわすってのも出来ないしね。コジロウがいてくれるから、まだ気が楽なんだけどさ」
「本官は職務を続行する」
「……うん」
つばめはコジロウの指先の硬さを感じながら、気を紛らわすためにも頬を持ち上げようとしたが、出来なかった。
「食材が届くのは明日だから、それまでは残り物で夕飯をどうするかを考えないと。お父さんが何か好きか解れば、それにするんだけどなぁ。でも、聞くに聞けないからなぁ。だから、私が好きな料理ばっかりになっちゃうなぁ」
込み上がってきたものを堪えながら、つばめは首を横にして、居間と隣り合っている仏間を見やった。薄暗い部屋の一番奥、床の間と大黒柱の間に立派な仏壇が据えられていた。その中には、両親の結婚記念の写真が遺影の代わりに立て掛けられていた。末広がりのスカートにドレープが付いた純白のドレスを着ているひばりの微笑みは底抜けに明るかったが、慰めにはならなかった。母親もいない寂しさまでも思い出してしまったからだ。
「あー、暇、暇、暇!」
つばめは勢いを付けてコジロウの膝の上から起き上がり、気を紛らわそうとした。
「よし、勉強でもしよう」
「教材は届いている」
「で、勉強が終わったら、掃除して、お米を研いで炊飯器に入れて、雪掻きはコジロウがしてくれるからいいけど」
「重労働は本官の業務の一環だ」
「で、その後、どうしよう」
テレビを見ても退屈だ、漫画を読んでも退屈だ、携帯電話でインターネットを彷徨っても空虚だ。父親に話したいことがどんどん積み重なっていくのに、何も話せないまま、時間ばかりが過ぎていく。コジロウに話してもいいのだが、コジロウは常につばめの傍にいるので、話すまでもない場合が多い。
ずっと会いたかったのに、やっと会えたのに、一緒に暮らせるようになったのに、同じ時間を過ごせない。つばめは途方もない悔しさと同時に切なさに襲われ、唇を噛み締めたが、子供染みた甘ったれた感情が膨張して涙腺を内側から押さえ付けてきた。
このくらいのことで、と自制しようとするが、熱い雫がつばめの頬から顎に伝い落ちた。コジロウが肩を支えてくれたが、彼の気遣いが余計に切なさを煽り、つばめは緊張の糸が途切れてしまった。彼の外装に縋り付いて感情のままに声を上げたが、古い家と雪に吸い込まれた。
ただただ、寂しかった。
手に触れた毛布を引き寄せ、抱き締めた。
その柔らかな繊維に顔を埋めながら、つばめは乾いた涙が付着した睫毛を引き剥がしながら瞼を上げた。濁った視界を拭い去るために何度か瞬きしてから、ゆっくりと思い出した。あれから、泣き疲れて寝入ってしまったようだ。体の下には座布団が並べて敷かれていて、毛布が掛けてある。居間の石油ストーブは止められていて、つばめの周囲以外はまた冷え込んでいた。暖かな毛布に再度くるまり、背中を丸める。
不意に、聞き慣れない音を聞いた。包丁がまな板を叩く音、油を引いたフライパンの上で食材の水分が弾ける音、卵を割る音、箸が器に擦れる音。誰だろう、コジロウじゃないよな、と寝起きの動きの鈍い頭でぼんやりと考えながら、つばめは涙の筋が付いてしまった頬を拭った。寝返りを打つと、背後で正座していた警官ロボットがつばめの肩からずり落ちた毛布を掛け直してくれた。
「なんか、ごめん」
「本官の職務に支障はない。つばめが休眠中に玄関先とガレージ前の雪掻きを行ったことを報告しておく」
「雪、止まない?」
「依然として低気圧は停滞している」
「だと思った」
座布団と毛布の隙間から染み込んでくる冷気の重たさは、相変わらずだからだ。つばめは毛布にくるまったまま、コジロウの前まで這い進み、彼の膝を借りて起き上がった。変な姿勢で眠っていたからだろう、背伸びをした拍子に背骨が盛大に鳴った。ただでさえクセの強い髪は、ヘアゴムが外れかけているせいでひどいことになっていた。顔も汚れてしまったので、洗ってきた方がいい。それから、夕食をどうするかを考えなければ。
それを考えただけで、一眠りしたおかげで落ち着いた心中が波立った。また、一人で食べなければならないのか。つばめが唇を噛んでいると、唐突に居間のふすまが開いた。思い掛けないことにぎくりとして振り返ると、そこには作業着の上にエプロンを付けている長孝が立っていた。何が起きたのか解らず、つばめは目を丸めた。
「何、してんの?」
「夕飯だ」
長孝が触手で壁掛け時計を示すと、午後七時を回っていた。
「じゃあ、作らないと」
つばめが腰を浮かせかけると、長孝は数本の触手を広げてつばめを制してきた。
「出来た」
「え、でも」
「支度が済むまで、もう少し掛かる。それまでに顔を洗ってくるといい」
そう言い残し、長孝は身を翻して台所に戻っていった。ということは、先程耳にした料理をする音は長孝によるものだったのか。何を作っているのかは定かではないし、味は大丈夫なんだろうかと一抹の不安にも駆られるが、夕食を作る手間が省けたのはありがたかった。
それはそれとして、父親のエプロン姿は恐ろしく奇妙だ。脳が徐々に動き始めたことで、つばめは違和感を感じた後になんだか笑えてしまった。作業着姿の上にエプロン、というだけでもちぐはぐなのだが、そのエプロンがつばめのものなので尚更だった。明るいオレンジ色の大きな水玉模様なので、赤黒い異形にはとてつもなく似合わない。だが、笑い転げるのは父親に失礼なので、つばめは毛布に顔を突っ込んで声を殺して笑った。
「どうした、つばめ」
コジロウに訝られたが、つばめはなんでもないと言う代わりに首を横に振った。コジロウは異常が発生していないと理解してくれたのか、それきり問い掛けてこなかった。ひとしきり笑ってから、つばめは気を取り直し、洗面所に顔を洗いに行った。そのついでに髪も梳かして結び直してから、台所に向かった。
四人掛けのテーブルには、出来立ての暖かな料理が並んでいた。薄焼き卵に包まれたオムライスとキャベツとタマネギの味噌汁、マカロニサラダ、そして昨日の残り物である里芋とイカの煮物。つばめはコジロウを手招いて台所に入れてから、エプロンを外した父親を窺った。
「仕事、いいの?」
「いいんだ」
長孝は短く答え、エプロンを折り畳んで椅子の背もたれに掛けてから、席に着いた。
「量はそれで良かったか」
「あ、うん、大丈夫」
つばめはオムライスの大きさを確かめ、了承した。食べる量は人並みよりも少し多めなので、通常の一人前なら問題なく食べられる。つばめも椅子を引き、自分の朱塗りの箸と汁椀が並んでいる席に着いた。コジロウは台所の隅に立ち、親子を見守ってくれていた。つばめは箸を取ろうとしたが、再度父親を窺った。
「なんでオムライスなの?」
「嫌いか。カステラが好きだとコジロウから聞いたから、卵料理は好きだと思ったんだが」
「いや、そうじゃなくて! 卵料理は好きだけどさ、なんで作ったのかってこと!」
「俺が料理をしてはいけなかったのか」
「いや、別にそうでもなくて! 冷蔵庫の中身は余りがちだから、率先して使ってもらえば無駄にならなくて済むし、火を通してから冷凍する手間が省けていいんだけど!」
「だったら、何が問題だったんだ。言ってくれ。改善する」
相変わらずの無表情ではあったが、長孝の眉間と思しき部分に少しシワが寄っていた。顔の部品があったなら、きっと悲しげな顔をしていたことだろう。つばめは父親に言いたいことを整理しようとしたが、せっかくの暖かな夕食が冷めると勿体ないので、手を合わせて頂きますと言ってから食べ始めた。父親もそれに倣い、一本の触手の尖端を枝分かれさせて黒塗りの箸を挟み、器用に使った。
先に味噌汁に口を付けてから、スプーンに持ち替えてオムライスを食べてみた。焼き加減が少し強めの薄焼き卵を破ってから中身を取り出し、薄焼き卵と共に口に運んだ。具材は順当で、ミックスベジタブルと四角く切ったハムがオレンジ色のケチャップライスに混ぜられていた。タマネギの微塵切りは良く火が通っていて、柔らかい。バターを多めに使っているからだろう、口当たりがまろやかで良い香りがする。鶏肉は冷凍してあったはずなんだけどな、と思いつつも、つばめはオムライスを食べ続けた。
「旨いか」
「うん、おいしいよ」
オムライスを半分ほど片付けたつばめが率直な感想を述べると、長孝はひどく安堵した。
「そうか……」
「ああ、なるほど。だから、オムライスの中身が鶏肉じゃなかったんだ」
マカロニサラダの具材とオムライスの具材が一緒だと気付いて、つばめは納得した。一度に別々の材料を使うと手間が掛かるので、流用したのだろう。つばめもよくやる手段だ。味噌汁の具がキャベツとタマネギになったのも、オムライスでは使い切れなかった分を処理するためだったのだろう。キャベツも使いかけのものが冷蔵庫の野菜室に残っていたから、それを見つけて使ったようだ。それらを踏まえて顧みると、長孝は料理は得意なようだ。冷蔵庫の残り物だけで、これだけの品数を作れてしまうのだから。
「鶏肉の方がいいのか」
長孝に問われ、つばめはマカロニサラダを食べてから答えた。カラシの効いた味付けだった。
「んーん、別になんでも。ハムでもベーコンでも、なんだったら豚肉でもいいよ。おいしかったらそれでいいの」
「そうか」
「で、お父さんはどんなのが好きなの?」
「食べるものに関しては執着はない。出されたものは何であろうと食べる」
「でさ、この里芋とイカの煮物なんだけどね。新しいガスコンロの火加減がまだ覚え切れていなくて、ちょっと長めに煮付けちゃったから、里芋が柔らかくなりすぎちゃったんだけど」
「構わない」
「あ、そう?」
つばめはその返事の意味に引っ掛かりを感じたが、父親の手料理を平らげていった。どちらも綺麗に食べ終え、食器を片付けてから居間に移った。つばめは熱々の焙じ茶を入れた自分のマグカップと、父親の湯飲みを持って掘りゴタツに向かった。一足先にコタツに下半身を入れて暖まっていた父親は、コタツの天板に焙じ茶を置いてから向かい側に座ったつばめとその背後のコジロウを窺ってきた。
「それで、その」
つばめはパンダの顔がプリントされたマグカップを両手で包み、焙じ茶の熱で指を温めながら俯いた。あれほど父親と話したいと思っていたのに、いざ面と向かって話そうとすると、何から話せばいいのか解らない。子供のように泣き喚いてコジロウに甘えて、おまけに泣き疲れて眠ってしまったという事実を思い出すと、この場から全速力で逃げ出したくなるほど恥ずかしくなった。一連の荒事が収束して気持ちが緩んでいたせいかもしれないが、だとしてもあんな醜態を曝したのは情けなさすぎる。つばめは少し赤面し、唇を歪めた。
「数日前に備前夫妻と会ってきた」
東京からとんぼ返りだったが、と付け加えてから、長孝は作業着のポケットから一通の封書を取り出した。
「十四年間、つばめを育ててくれた礼を述べてきた。それ相応の謝礼を払うと言ったが、受け取ってもらえなかった。美野里さんの異変を見逃していたのは両親である自分達の責任だから、と。美野里さんの歪みがいずれつばめに向くと解っていながらも、手を打たなかったことも。俺との連絡手段がありながらも、俺とつばめを一度も会わせようとしなかった理由は、つばめを育てることで美野里さんを育て直すつもりでいたからということも。会えたのは短い時間だったが、色々と話してくれたよ」
佐々木つばめ様、と宛名書きされた封筒が、つばめの目の前に差し出された。
「気持ちの整理が付いたら、読むといい。先に詫びておくが、何が書かれているのか知るために一度封を開けて、目を通した。つばめが辛い思いをしたら、ひばりに合わせる顔がないからな。俺の主観に過ぎないが、その手紙の内容はつばめをみだりに傷付けようとするものではなかった。だから、いずれ読むといい」
「小父さんと小母さんは、私に会いたいって言ってなかったの?」
「言葉の端々からまた会いたいと匂わせていたが、二度と会うべきではないと言い切っていた。俺もそれがいいと返した。俺達を取り巻いている状況は、今も尚、複雑だからな」
「……うん、そうだね」
つばめは封筒を見つめ、頷いた。裏返してみると、封筒を閉じているセロテープが一度剥がされた痕があった。本来であれば、手紙の中身を勝手に開けて読むことは重大なマナー違反ではあるのだが、父親の気遣いにつばめはほっとした。備前夫妻を信用していないわけではないが、美野里が怪人と化して凶行に及んだ切っ掛けは他でもないつばめだ。だから、骨の髄まで恨まれても文句は言えない立場なのに、備前夫妻はつばめを恨もうとはせずに許そうとしている。どこまでも誠実で真っ当な、優しい人達なのだ。それ故に、苦しくなる。
「すまなかった」
長孝は凹凸のない顔の下部に隙間を開き、そこに湯飲みを添えて焙じ茶を少し流し込んだ。
「仕事を始めるために必要な機材を掻き集めていたんだが、思うように進まなかった。それと並行して、新免工業に残っていたひばりの遺品の回収をしてくれるように政府に掛け合っていたんだが、こちらも芳しくない。ひばりの遺品の在処は解ったんだが、捜査資料として一旦警察に押収されることになった。検分された後に俺の手元に来るそうだが、それがいつになるかは解らない。周防にも話を通してもらって、手は尽くしたんだが」
「そっか」
つばめは温くなった焙じ茶を傾け、頬を緩めた。留守がちだった理由を知り、ほっとした。
「つばめが寝ている間に、コジロウから話を聞いた」
長孝がつばめの肩越しに正座しているコジロウを見やったので、つばめはぎくりとした。
「へあっ!?」
「泣くほど寂しがらせて、すまなかった」
「あ、あー、うー……。いいよ、もう」
頬を火照らせたつばめが口籠もると、長孝は口角と思しき部分にぐいとシワを寄せた。
「それで、俺と何を話したい。俺も、つばめに話したいことが山ほどある」
「えーと、ねぇ」
つばめは両手の間でマグカップを転がしながら、長孝を見やる。差し当たって思い付いたのはこれだった。
「お父さん、お母さんにもああやって御飯を作ってあげたりしたの?」
「ああ。俺の手が空いている時には」
「で、お母さん、何が好きだったの?」
「ひばりも俺と同じで、出されたものには文句を言わずに食べてくれた。オムライスはひばりの作り方で作ってみたんだが、どうも味が違う気がしてならない。俺とひばりでは加減が違うからだろう」
「あ、そうなんだぁ」
「他には」
「結婚の記念写真を撮った時、どんな感じだった?」
「ひばりは嬉しそうだったが、俺はそうでもなかった。ひばりが現れなければ結婚するつもりもなかったし、女性とも縁がなかったからだ。だが、ひばりがずっと上機嫌だから、俺も悪い気がしなくてな。あのドレスを選ぶまでには、やたらと時間が掛かってしまった。裾が長いもの、シンプルなもの、リボンとレースが大量に付いた華美なもの、と何度も何度も試着しては俺に意見を求めてきた。だが、俺にはドレスの善し悪しなど解らないから、ひばりの好きにしてくれとしか答えられなかった。ドレスをどれにするかは撮影日の三日前までに決めてくれ、と写真屋に言われていたんだが、ひばりは散々悩み抜いて、撮影日の三日前に写真屋に行く道中でも決めかねていた。だったら最初のものにすればいいじゃないか、と俺が投げやりに進言すると、ひばりはそれで手を打った。そして、あのドレスに決めたんだ。もっとも、ドレスに合わせるブーケやらヴェールやらでまた散々悩むことになるんだが」
「お母さん、可愛いねぇ」
「そうだろう」
心なしか自慢げな長孝に、つばめは笑う。
「それで、あの記念写真を撮った時、お母さんはいくつだったの? 考えてみれば、私、お父さんとお母さんの歳をよく知らないんだもん」
「俺は二十八で、ひばりは十八だった。見合いをしてから、三ヶ月過ぎたか過ぎないかの頃だったか」
「ふおっ!?」
「なんだ、その声は」
心外そうに長孝が触手を捻ったので、つばめは前のめりになった。
「だって、そんなに歳が離れているだなんて思ってなかったんだもん! てか、犯罪っぽい!」
「そう言うな。俺も常々そう思っていたんだ」
「で、お母さんが私を妊娠したのって、それからどのぐらい後なの?」
「大体一年後だ」
「じゃ、その時はお母さんは十九歳か。問題はないのかもしれないけど、でもやっぱり、なんかこう」
「あまり責め立てるな」
若干気まずげに顔を背けた長孝に、つばめは指折り数える。
「てぇことはつまり、お母さんが私を妊娠してから十ヶ月後に産まれたから、その時のお父さんは三十で、それに私の歳を足すと四十四五ってことか。それだと武蔵野さんと同い年ってことになるのかな?」
「そうだったのか?
武蔵野とは大して歳は離れていないと思っていたが」
「そうだよ。お父さん、武蔵野さんがいくつかは知らなかったの?」
「ああ。聞きそびれていたからでもあるが」
「まー、お父さんは年齢不詳だし、武蔵野さんは修羅場を潜り抜けすぎたせいで年の割には……って感じだもんね。無理もないよ、うん。んで、武蔵野さんとは仲良くなれそう?」
「まだ解らない。だが、対等に付き合えるようにはすべきだと考えている」
「だよね。御近所さんになるんだもんね」
つばめは座り直してから、コジロウを指し示した。
「んで、なんでムリョウとムジンを入れたのがパンダのぬいぐるみだったの? 初デートが上野動物園だったの?」
「良く解るな」
「そりゃまあ、東京に住んでいたわけだから。で、どんな感じのデートしたの?」
「デートというほど大袈裟なものじゃない。祝日に連れ立って出掛けただけだ。ああいった場所では食事が高いからと言って、ひばりが張り切って弁当を作った。それを携えて上野動物園まで行ったんだが、祝日というだけあって、ひどく混んでいた。はぐれたら困るからと言って、ひばりは俺の腕を掴んで離さなかった。丸一日掛けて動物を見て回ったんだが、どの動物を見てもひばりは喜んでいた。通り掛かるたびに立ち止まってパンダの檻を凝視していたから、そんなに気に入ったのなら、と売店でパンダのぬいぐるみを買った。それが、コジロウだ」
「デートじゃん! どこからどう見てもデートだよ!」
「そうなのか」
訝しげな長孝に、つばめは嘆いた。
「お母さんも苦労しただろうなぁ、お父さんが万事この調子じゃ」
「どういう意味でだ」
「それを娘の口から教えるのは憚られるかなぁ、さすがに」
ねえお母さん、とつばめは振り返って仏壇の記念写真に声を掛けた。
「コジロウ。お前はどう思う」
心なしか不安を滲ませた長孝に問われ、コジロウは平坦に返した。
「本官はつばめの主観が正しいと認識する」
「そうなのか、ひばり」
長孝はやや腰を浮かせ、仏壇に問い掛けた。当然ながら答えは返ってこなかったが、そうすることで母親もこの場で談笑しているのだと思えた。僅かな沈黙の後、コジロウが親子を見下ろした。つばめはコジロウと目を合わせた後に長孝に向くと、長孝は気まずさを紛らわすためなのか、座り直してから焙じ茶を啜った。
「お父さん」
「なんだ」
「なんでもなーい」
つばめは訳もなく照れ、天板に突っ伏した。視界の端で長孝の触手が不規則に動いているのが見えたが、それを不気味だとは一切思わなかった。あの戦いの前日、雪の降りしきる一ヶ谷駅で出迎えた時もそうだった。つばめを取り巻く血縁関係を事前に把握していたからでもあるのだが、一目見て父親だと悟った。だから、怖いと思うよりも先に嬉しさが込み上がってきた。けれど、厄介事が山積していたせいで面と向かって話すに話せなかった。
お父さん、お母さん、と呼び掛けたかった。血の繋がっている相手に、心の底から甘えたかった。この人達の子供なのだと思い知りたかった。もう一人きりでもなければ、宙ぶらりんでもなければ、ルーツの見えない孤児でもない。佐々木長孝と佐々木ひばりが愛し合い、通じ合い、思い合った末に産まれたのが自分でありコジロウだ。つばめはその幸福を噛み締めながら、もう一度、父親と兄弟を呼んだ。
もう、寂しくない。




